二ヶ領用水散歩 そのⅣ 大師堀散歩:川崎堀の大師堀分岐から川崎大師へ

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二ヶ領用水散歩も上河原堰からはじめ、二ヶ領本川を下り、宿河原堰からの用水合流点を経て、久地の円筒分水に。そこから本流である川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる鹿島田の分岐点まで下った。
今回は鹿島田の分岐から大師堀を川崎大師方面へと辿ることにする。「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、大師堀は大師河原用水とも呼ばれ、その先は古川・戸手・幸町(幸区)などを抜けて、東海道を渡り、旧川崎町や旧大師河原村(以上川崎区)一帯の水田を潤していた。
また、下流地帯には、出来野川、観音川、新川、竜飛川などの小河川があり、いずれも二ヶ領用水の悪水堀の役割を果たしていた」とあった。

古川は鹿島田分岐点から南東に進んだ府中街道の手前一帯、戸手は府中街道と国道1号・第二京浜が交差する辺り、幸町は国道1号を少し南に下った一帯である。また、出来野川は比定できないが、明治の地図には川崎大師の南に東西に走る水路らしき筋がありそこに「出来野」とある。観音川は現在の川崎貨物駅の南、JFEスティール工場東辺りを流れていたよう。新川はJR川崎駅の南、第一京浜の新川橋交差点から南に延びる新川通には、かつて「新川堀」が流れていたとのこと。竜飛川は不明(天飛川という悪水堀は渡田村(鶴見線浜川崎付近)にあったようだ)。
大師堀は川崎大師辺りで終ることなく、支流・細流がいくつも別れ、悪水堀となって海に流れ込んでいるようだ。元より、昔の海岸線は臨海工場地帯となっており、どこまで辿れるかよくわからないが、とりあえず地形の「ノイズ」を頼りに流路跡を歩いてみようと思う。


本日のルート;JR鹿島田駅>川崎堀踏切>大師堀・町田堀分流点>南武線を潜った川崎堀の出口>平間緑道公園>日本最初の工業用水の案内>府中街道と交差>大師堀の案内>「サウザンドシティ」の東を水路が下る>古川の石井家>下平間古川小向悪水>戸手浄水場跡>戸手前河原悪水>東海道本線六郷川橋梁>五ヶ村悪水>京浜急行電鉄・六郷川鉄橋>京急大師線>中島堀>旧東海道・川崎宿>六郷橋>「長十郎梨のふるさと」の案内>「明治天皇六郷渡御碑」>「川崎大師の石灯籠」>「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」>京浜急行大師線・港町駅>医王寺>鈴木町駅前>若宮八幡>川崎大師平間寺




JR鹿島田駅
川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる分岐点最寄りの駅であるJR南武線・鹿島田駅に。駅の南は線路の両側とも再開発の高層住宅群が立ち並ぶ。一方北は昔ながらの家並みではある。
駅の名前は地名から。その地名は駅の西にある村の鎮守・鹿島田大神社から。鎌倉の頃、この地を開いた村人が鹿島神宮を勧請し、水田を社に寄進したことに拠る。鹿島の社の田、というところだろう。もとは、更に西、かつての「新鶴見操車場」の辺りにあったとのことだが、新鶴見操車場の建設に伴い、昭和2年(1927)に現在の地に移された。
●新鶴見操車場
新鶴見操車場が始動したのは昭和4年(1929)。発展著しい京浜工業地帯への原材料や製品などの貨物輸送ルートが焦眉の急となり、品川と鶴見駅を結ぶ貨物路線が建設され(品鶴線)、その貨物操車場としてスタートした。南武線が武蔵小杉で大きくカーブしているのは、元々の計画路線であった二ヶ領用水・府中街道沿いの敷設ルートが新鶴見操車場にあたるため、それを避けるべく大きく迂回した、とのことである。
京浜工業地帯の貨物輸送の幹線として、最盛時は1日5000両もの貨物を捌いたこの操車場も、鉄道輸送の需要減少に伴い昭和59年(1984)、信号所としての機能を残し、操車場の機能は廃止となった。
■JR新川崎駅
新鶴見操車場跡に新川崎駅がある。JR川崎駅とは結構離れており、名称も含めちょっと気になりチェック。昭和55年(1980)開業のこの駅は、当初「新鹿島田操車場」との案もあったようだが、この路線の開かれる契機が、混雑する東海道線から横須賀線を分けることにあった。貨物線として開かれた品鶴線をバイパス路線として活用し横須賀線を通す、といったこともあり、それなら品川と鶴見の間にある「川崎駅」の代替駅でしょうと、言うとこで「新川崎駅」となったようだ。
新川崎駅には開業時は横須賀線(横須賀・総武快速電車)が走ったが、平成13年(2001)からは湘南新宿ラインの列車も走るようになった。また、貨物列車も大半は新東海道貨物線や武蔵野線に移されたが、現在でも品鶴線から山手貨物線を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車も走っているとのことである。

因みに、貨物線として開かれた品鶴線であるが、この路線跡は新幹線の路線としても活用されている。新幹線建設時、用地確保が困難なため、品川から武蔵小杉辺りまでは品鶴線を活用し、武蔵小杉の先で東へと分かれる。前々から、品川を出た新幹線が何故に急なカーブで進むのか不思議ではあったのだが、これで長年の疑問が解消された。ものごとには、須(すべから)らく、その理由があるものである。

府中街道・川崎堀踏切
鹿島田駅から先回の散歩で終了した地点である、川崎堀が大師堀と町田堀に分流する地点へと向かう。東口に下り、商店街を進むと、如何にも水路跡らしき道筋に出合う。水の流れをイメージした塗装が施され、駅からの道の一筋東を南に進む道筋を見遣りながら水路跡らしき道を進むと、先回の散歩で辿った「川崎堀」踏切に当たる。古き石橋の欄干が踏切手前に残る。
その水路跡らしき道が府中街道とクロスする角に石碑があり「町田堀(町田用水)」とあった。如何にも水路跡らしき道筋は町田堀跡であった。 思わず知らず町田堀跡に出合ったが、今回は大師堀散歩の予定。町田堀歩きは次回以降とし、大師堀と町田堀の分流点へと進む。
町田堀
石碑にあった町田堀の案内をメモする;町田堀は鶴見川北岸一帯(塚越、小田、渡田、江ヶ埼、矢向、市場、菅沢、潮田)の水田を灌漑する農業用水です。二ヶ領用水川崎堀は鹿島田堰の下流で大師河原方面に流れる大師堀(大師河原用水)とこの町田堀に分かれていました。
二ヶ領用水は、江戸時代の初め、徳川家康から新田開発の命を受けた小泉次太夫によって十四年の歳月をかけて慶長十六年(1611)に完成した、県内最古の農業用水です。
多摩区の中野島と宿河原から多摩川の水を取水し、JR南武線久地駅付近で合流した流れは分量樋(現在は昭和十六年築造の円筒分水「国登録有形文化財」)によって分水され、下流の村々の水田を潤しました。
二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領の二領を流れていたことに由来しています。また、明治時代の初めには、二ヶ領用水から引いた水を開港場横浜の外国人居留地へ供給する、横浜水道にも利用されました。
町田堀は、近年の下流域の市街化に伴い、農業用水路としての本来の役割を終えることになりました。そこで町田堀跡を水の流れがイメージできる散策路として整備し(中略)後世に伝えることになりました。
●横浜水道
ここで気になる記述があった。「外国人居留地へ供給する横浜水道にも利用された」という箇所である。チェックすると、安政6年(1859)開かれた 横浜の外国人居留地へは当初、船で水を運んでいたようであるが、それも限界があり神奈川県は水道施設を計画。水源を多摩川・二ヶ領用水に求めることにした。
最初の案では久地の分量樋の下流辺りから延々32キロ引くことを考えた。 が、この案は距離の問題もさることながら、用水沿いの村からの了承を得ることが困難で、結局ずっと下流の鹿島田堰の下あたりから水を引くことになった。その見返りとして二ヶ領用水の管理費は県(横浜水道)が負担するということになる。
この水道事業に横浜の大商人達が興味を示し、出来たのが横浜水道である。明治4年(1871)に木樋建設に着手、明治6年(1873)民間事業としてスタートするも横浜水道は破たんする。
その最大の要因は漏水問題。当時は鉄管でなく木樋で水を通したため途中で半分位に水が減り経済的に成り立たず、また料金未払いも多く、結局翌7年(1874)、事業を神奈川県に引き継ぎ解散する。
神奈川県は水道事業を英国人パーマー氏に委託。明治16年(1883)より計画がスタートし明治20年(1887)完成。水源は道志川水系に求めることになった。これが鉄管を使った近代水道の始まりである。思いもかけず横浜水道みちに出合った相模台地散歩、水路橋を辿った「横浜水道みち散歩」が思い起こされる。



大師堀・町田堀分流点
線路脇に続くフェンスで囲まれた水路跡の中を先に進むと鳥居型の遺構を残した川崎堀の終点、大師堀・町田堀の分流点に到着する。分流点では右に町田堀、左に大師堀と分かれる。分かれるとは言いながら、町田堀へは水が流れている気配がない。また、大師堀に流れた水も暗渠へと吸い込まれる。
既にメモしたように、分流点の東にある平間配水所が、平間浄水場として機能していた頃は、ここに流れきた水は浄水場の水源として利用されたが、配水所となった現在、生田浄水場から送水される水を配水するだけであり、川崎堀をここまで流れてきた水は暗渠を通って多摩川に排水される、とのことである。 因みに、分流点にあった「鳥居」であるが、これは昔の水門(樋管)でよく使われた鳥居型門柱であり、神社の鳥居を模した、というより、昔の水門の遺構を飾りとして残しているのではないだろうか。

南武線を潜った川崎堀の出口
フェンスに囲まれた大師堀・町田堀分流点から少し上流に戻り、南武線下を潜ってきた川崎堀の出口に進む。コンクリートで護岸工事された用水出口を確認し、分流点に戻る。と、フェンスに鉄板の案内があり、道を隔てた東にある平間配水所についての説明があった。かつての平間浄水場、現在の平間配水所については何度かメモしているのだが、頭の整理のために再度説明文を掲載しておく。
●平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
我が国初の公営工業用水道水源 稲毛・川崎二ヶ領用水余剰水取水口跡 平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
平間浄水場は、我が国初の公営工業用水道事業として設立された。そのきっかけは、昭和初期の工業勃興期、臨海部での過剰な地下水くみ上げによる地盤沈下が問題となり、その対策としての代替水源確保にあった。
近くの鹿島田地内(幸区)を流れる稲毛・川崎二ヶ領用水の余剰水等1日2万7000立法メートルを取水し、鹿島田、木月、及び北加瀬(中原区)のさく井15ヶ所からの地下水1日5万4000立法メートルの水源をもって建設された。竣工は昭和14(1939)年7月で、当初は平間水源管理所と称していた。
平間浄水場はJR 鹿島田駅と平間駅のほぼ中間地点の川崎市中原区上平間1668番地に位置しており、設立から今日まで工業用水道専用の施設として、臨海部の京浜工業地帯に産業の血液ともいわれる工業用水を安定的に供給し続け、我が国工業の発展に寄与してきた。
その後、昭和48(1973)年のオイルショックを契機に、産業構造の変化に伴う水使用の合理化や工場移転等により、工業用水の需要が急速に減少した。さらに、二ヶ領用水の水質悪化や施設の老朽化で取水を停止していたが、平成15(2003)年に至り、木月・井田さく井の廃止もあり、浄水場としての機能を失うことになった。
その結果、名称も「浄水場」から「配水所」へと変更された。名称が変わっても、上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として、また長沢・生田の両浄水場から送水される工業用水の配水中継基地として、昼夜を問わず配水圧力及び水量の調整を行っており、川崎市の工業用水道にとって重要な役割を担っている。
なお、多摩区の稲田取水所では、現在でも二ヶ領用水から日量20万立法メートル(最大能力)を取水し、生田浄水場で工業用水に加工している。
また、平間配水所から配水される工業用水は、主に臨海部の企業、工場で、冷却水、ボイラー用水、洗浄水等に使用され、工業生産推進に貢献している。 二ヶ領用水竣工400年記念の日に
平成23(2011)3月1日

説明の中に「上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として」とあるが、これって初めての情報だが、平間配水所内に浄水入水井があり、原水は長沢浄水場及び生田浄水場から送水管で送られているように思える。

平間緑道公園
大師堀・町田堀の分流点から大師堀散歩をはじめる。先に進むとほどなく親水公園といった趣の道となる。小川も流れるこの親水公園は「平間緑道公園」と呼ばれる。小川を流れる水は川崎堀を流れてきた水をポンプアップして流しているようである。






日本最初の工業用水の案内
緑道を進むと「川崎歴史ガイド日本最初の工業用水の案内」のパネルがあり、 「鳥居のところで用水は大師堀と町田堀に分水。昭和十四年わが国最初の公営の工業用水として1日2万7千トンの取水が行われ、平間浄水場から臨海部の工場地帯に供給された」とあった。





府中街道と交差
その先で府中街道と交差。道の東には「川崎堀」踏切が見える。府中街道を越えると緑道は消え、民家の軒先を進むことになる。その直ぐ東は町田堀跡の道筋が下る。







大師堀の案内
民家の軒先を進んだ大師堀の細流は浄水場交差点から南に下る道路脇にでる。その細流がJR南武線・鹿島田駅から西に延びる道と交差する少し手前に大師堀の案内があった。
案内には「二ヶ領用水の建設は、徳川家康の命を受けた代官小泉次太夫によって始められ、慶長十六(1611)年の完成までに実に十四年の歳月を要する大事業であった。中野島、宿河原両取り入れ口から取水した用水は久地の分量樋(円筒分水)を経て、この鹿島田付近で、大師河原、渡田方面の水田を灌漑する大師堀、鶴見川北岸一帯を潤す町田堀に分かれた。また大師堀は昭和十四年~四十九年まで工業用水としても利用された。
近年土地利用の変化と水質の悪化によって往年の姿は見られなくなり、埋め立てられるところも出てきた。しかし大師堀は、昭和六十三年、環境整備事業の一環として親水化され(後略)」とあった。内容は何度も目にした説明であり、フックがかかるフレーズは特にないが、一応メモしておく。

「サウザンドシティ」の東を水路が下る
鹿島田駅からの道の南には、南武線に沿ってショッピングモール、クリニックを併設した大型マンション「サウザンドシティ」が建つ。「サウザンドシティ」の東、マンション敷地端を道路に沿って人工の「大師堀」跡の水路が続く。
それにしても、鹿島田駅周辺には高層マンションやビルが並ぶ。鹿島田駅と新川崎駅の間には「パークシティ新川崎」、そして2棟のツインビル「新川崎三井ビルディング」。1700余の戸数をもつ「パークシティ新川崎」の完成は昭和63年(1988)、「新川崎三井ビルディング」は平成元年(1989)、「サウザンドシティ」は平成16年(2004)。これらの駅前再開発は昭和55年(1980)、旅客線として開業し、東京<>横浜へのアクセスが容易となった新川崎駅が契機になったことは言うまでもないだろう。「今昔マップ 首都圏1965‐68」にはその敷地に工場のマークが見えるので、工場跡地を再開発したのだろう。
なお、新鶴見操車場跡は研究開発施設、公園、住居などからなる複合的な機能を持った、新しい街が生まれる計画とのことである。

古川の石井家長屋門

「サウザンドシティ」のある新腰塚、その先の越塚1丁目を越え、「明治橋」と言った、如何にも水路跡の名残を残すバス停を見遣りながら、府中街道の一筋南の古川地区を道を進むと、道脇に長屋門が見え、「川崎歴史ガイド 夢見ヶ崎と鹿島田ルート 古川の石井家と長屋門」のパネルがあり、「古川の石井家は北条氏政を祖先とし、現在も氏政とかかわりのある遺品が残る。正面の両袖型長屋門は文政三年(1820)に再建されたもので、市内有数の長屋門である」とあ。

●夢見ヶ崎
長屋門の説明もさることながら、「夢見ヶ崎」という地名に惹かれ、チェック。地図で見ると、夢見ヶ崎はJR新川崎駅の東、北加瀬と南加瀬地区の境辺りにあり、幾多の寺社が集まっている。これは何となく有り難そうな地域かと、更に深堀りすると、この寺社が集まる夢見ヶ崎の一帯は「加瀬山」と呼ばれる独立丘陵となっており、古墳群が残る。中には南関東で最も古い4世紀築造の白山古墳もある,と言う。
「夢見ヶ崎」の地名の由来は太田道灌にある、とのこと。太田道灌がこの丘陵に城を築くべく訪れた夜、夢に自分の兜を鷲に持ち去らわれる夢を見、不吉なりと築城を断念した、とか。
また、丘陵の南部分は東芝の前身である東京電気の堀川工場や新鶴見操車場建設の土砂採取のため切り崩された、とのことである。
大師堀散歩とは関係ないが、あれこれ気になったことをチェックすると、面白い発見があり、誠に楽しい。

下平間古川小向悪水
川崎市が作成した二ヶ領用水マップ(以下「川崎市・ニケ領用水マップ」)に拠れば、古川町交差点辺りで「下平間古川小向悪水」が大師堀から分岐しているように見える。「下平間古川小向悪水」はしばらく大師堀と並行して進み、府中街道と交差する「幸区役所交差点」で大師堀と分かれ、北東に進み第二京浜の東、小向仲野町方面へと向かう。現在は暗渠なのか埋め立てなのか、ともあれ水路は残らない。

戸手浄水場跡
「下平間古川小向悪水」が大師堀と分かれる、「幸区役所交差点」の近くに区役所があり、その隣に幸文化センターがある。そこはかつての戸手浄水場跡、と言う。先回の散歩でメモしたが、ここが川崎市内最初の近代水道施設である。大正10年に完成し、宮内水源取水地より取り入れた多摩川の水を、7キロの導水管で戸手浄水場へと送った。計画給水人口は4万人であった、と言う。
その後、急激な人口増大に伴い、昭和13年(1938)には菅さく井群より多摩川の伏流水を水源とする生田浄水場への通水、また昭和29年(1954)には、相模湖下流の沼本取水口から取水した相模川水系の水を32キロの導水管で長沢浄水場に送るなど、上水道の水源整備に伴い、戸手浄水場は昭和43年(1968)、その役割を終えた。
●戸手
戸手の由来は定かではない。ト=外、テ=方面>外の方面、ということから「堤外地」ではないか、とのこと。「外手」、とか「外出」と記された記録もあるようだ。

戸手前河原悪水
国道409・府中街道を進み国道1号・第二京浜を越えると、府中街道は多摩川の堤に接近する。戸手もそうだが、河原町とは、如何にも堤外地であった名残の地名である。「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、その地名の交差点の先で、「戸手前河原悪水」がクロスしている。立体交差していたようである。

東海道本線六郷川橋梁
昔の御幸村故の地名であろう幸町、そして、既にメモしたように夢見ヶ崎の丘陵を削って整地した東芝堀川工場のある堀川を過ぎると、その先に多摩川を渡る鉄橋がある。東海道本線・六郷川橋梁である。
日本の大動脈であった東海道本線に架かる橋が如何なる歴史を経たものか、ちょっとチェック。Wikipediaに拠れば、東海道線六郷橋とも呼ばれるこの橋梁ができたのは明治4年(1871)のこと。トラス構造(三角形を基本単位とした、その集合体よりなる構造)の木造橋ではあったにせよ、日本初の鉄道の橋梁である。その橋も明治10年(1877)には木材の腐食が進み、複線化工事と併せて鉄製トラス橋となる。
その後、明治45年(1912)に三代目の付け替え工事を経て、昭和46年(1971)橋梁の前後の高架工事に併せて四代目となるトラス橋に架け替えが行われ、現在に至る。

五ヶ村悪水
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、東海道本線六郷川橋梁と、その先に見える京浜急行電鉄・六郷川鉄橋の間には「五ヶ村悪水」が描かれる。五ヶ村悪水は尻手辺りから南に大きく半円を描き、京急本線に沿ってこの地に下ってきているようである。

京浜急行電鉄・六郷川鉄橋
東海道本線を潜るとすぐに京浜急行・六郷橋鉄橋。京浜急行電鉄のはじまりは、明治32年(1899)に旧東海道川崎宿に近い六郷橋駅から川崎大師駅までの2キロを走った大師電気鉄道である。同年、京浜電気鉄道会社と改名し、安田財閥の支援ものと東京方面への路線拡大を図り、明治34年(1901)には大森と六郷橋間を開業した。
この開業に際して、六郷川を渡る鉄道橋が必要となり、川崎大師も含め地元人が組織した六郷架橋協同組合が人道橋として架設した六郷橋を明治33年(1900)に購入するも、強度不足で使用できず、橋に併設し木製の鉄道仮橋をつくることになったようだ。
鉄道橋として使えなかった橋は明治36年(1903)には、元々有料であった通行料をタダにし、あまつさえ、明治39年(1906)には国に譲渡している。踏んだり蹴ったり、というところであろう。
で、鉄道橋梁としては、明治39年(1906)には、雑色~川崎間複線専用軌道完成に伴い新たに仮の複線木橋が架けられた。これらの鉄道橋は、現在の六郷橋の辺りにあったようである。
現在の地に鉄道橋を建設着手したのは明治42年(1909)から。2年の歳月をかけて明治44年(1911)に六郷川鉄橋と呼ばれる本格的な鉄道橋梁が完成した。 現在の鉄橋は昭和47年(1972)に架け替えられたものである。

京急大師線
京浜急行を越え、六郷ポンプ場(下水処理施設のようだ)を見遣りながら府中街道を進むと京急大師線にあたる。京浜急行の前身である大師電気鉄道の路線である。
大師電気鉄道は川崎大師参拝のために開業された。開業当初は六郷橋から川崎大師に至る大師新道(多摩川の堤防でもあった)を6mほど広げ線路を敷設し、橋脇の六郷橋駅から川崎大師駅の間1.8キロほどを10分で走ったという。電車とは言うものの、路面電車であり最高時速13キロ程度。堤防の桜並木をのどかに走っていたのであろう。
で、川崎大師への参詣路線であるにも関わらず、既に開通していた東海道本線の川崎駅から1キロほど離れた場所に始発の駅・六郷橋駅が設けられたのは、地元人力車業界といった利害関係団体からの反対のため。
参詣者は川崎駅で下車し、人力車で六郷橋駅まで移動し、電車を利用した。「人力車+電車」といった「通し切符」もあった、と言う。そのおかげもあってか、開業より6ヶ月間で16万人もの乗客数があった、とのことである。
川崎駅へと繋がったのは明治35年(1902)のことである。大森と六郷橋間の開業は明治34年(1901)であるから、京浜電気鉄道会社を利用して多摩川東側から西の川崎に向かうには、明治35年(1902)を待つしかなかった、ということか。
●六郷橋駅遺構 
因みに、上記メモで「六郷橋駅」と書いたが、開業当初は「川崎駅」と呼ばれており、明治35年(1902)に川崎駅と繋がったときに出来た駅名を「川崎駅」とし、開業当初の駅を「六郷駅橋」と改名したようである。なお、「川崎駅」を「京急川崎駅」と改名したのは大正14年(1925)。同年、大師駅も「川崎大師駅」と改名された。
六郷橋駅は大正15年(1926)の道路整備に伴い、川崎側へ移転(六郷橋の少し手前の京急大師線に遺構が残る)するも、昭和24年(1949)に廃止された。

中島堀
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠ると、京急・六郷川鉄橋と京急大師線の多摩川堤辺りから、南東に中島堀が流れていたように見える。水路は競馬場の西から競輪場の西を下り、川崎市立向小学校方面へと続いているようである。

旧東海道・川崎宿
府中街道を進み本町交差点を左に折れ、商店街を多摩川方面に向かって進む。と、国道15号・第一京浜が多摩川を渡る「六郷橋」の歩道へのアプローチ口に川崎市文化財団 が作成した「六郷の渡しと旅籠街」「川崎宿の家並み」の案内がある。
「六郷の渡しと旅籠街」には「家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を降りて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠町。幕末のはやり唄に「川崎宿 で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・・・・」。なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした」とあり、「川崎宿の家並み」には、「旅籠六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒 文久三年の宿図から 」とあり、 説明の上には『江戸名所図会』の「河崎万年屋奈良茶飯」の図が印刷されていた。
●万年屋 
どうも、府中街道から左に折れて辿った商店街は昔の川崎宿であったようだ。で、案内にあった「万年屋」は、多摩川を渡って川崎宿に入ったすぐの江戸口(下手土居)にあった、とのことであるので、案内のある辺りだったのだろうか。
ところで、万年屋と言えば、『お江戸日本橋』の歌にある「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀との米饅頭」との下りを覚えており、「万年屋の米饅頭」って、どんなものか食べてみたいと思っていた。
どういうきっかけだったか覚えていないのだが、鶴見駅前の某和菓子店で米饅頭が復活したとのことを偶然知り、二度程鶴見まで杉並の永福から自転車で買いにでかけた。
しかしながら、日曜日は定休日であったようで、結局今に至るまで食していない。ちゃんと調べて行けばいいものを、行き当たりばったり、しかも二度も失敗するって、反省し学習しない習慣はなかなか治らない。

それはともあれ、この案内をチェックすると、歌の解釈で大きな誤解をしていたことがわかった。「川崎の万年屋(の)鶴と亀との米饅頭」、ではなく。「川崎の万年屋。鶴と亀との米饅頭」のようで、川崎(宿で名高い)万年屋、であり、鶴屋と亀屋の米饅頭ではあった。また、場所も鶴屋と亀屋は川崎宿ではなく、鶴見川の袂にあったようで、米饅頭も鶴屋と亀屋だけが売っていたわけでもなく、40軒ほどの店で売っており、その中でも名代の店が鶴屋であり亀屋であった。
因みに米饅頭は17世紀の後半、浅草の待乳山(字面はインパクトあるが、元は真土山=本当の土。川の流れで堆積された沖積土ではなく洪積土(本当の土)のこと)下の鶴屋の娘・よねさんが売りはじめ、江戸の銘菓となったようで、鶴見の米饅頭が東海道の旅人に知られるようになったのは18世紀に入ってから、とのことである。
個人的興味から米饅頭のメモがながくなったが、川崎市作成の資料に拠れば、万年屋は案内にあったように「奈良茶飯」(小豆や粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだご飯)が評判になり、一膳飯屋から宿場一の旅籠になったようで、本来は本陣(公認の旅館)に泊まる大名も宿泊したほか、弥次さん喜多さんで知られる『東海道中膝栗毛』にも描かれ、のちには皇女和宮や米国駐日総領事ハリスも立ち寄ったと伝えられている、とあった。

六郷橋
道なりに六郷橋の下を潜り南側に。『お江戸日本橋』の歌には。「六郷渡れば川崎の。。。」とあるように、六郷川は渡しであり、橋はなかったのか、と思ったのだが、チェックすると事実はちょっとだけ違っていた。
■六郷橋から六郷の渡しへ
Wikipediaに拠れば、「六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。 六郷大橋は千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。寛文2年の橋は、長さ107間 (194.5m)、幅4間1尺7寸 (約8m)、高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)。貞享元年の橋は長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m) であった。
■佐内橋
1874年(明治7年)1月に鈴木左内が私費で六郷の渡しに左内橋を架けた。長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。この橋は1878年(明治11年)9月に洪水で流された。
■京浜電気鉄道が橋を買収
左内橋が流された後しばらく橋がない状態が続いたが、地元の人々が六郷架橋組合を作って1883年(明治16年)に有料の橋を架け、六郷橋と名づけた。1885年(明治18年)に破損したものの引き続き使用され、1900年(明治33年)に京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)が買収した。
■橋の流失が続く
1903年(明治36年)には通行料の徴収をやめ、1906年(明治39年)に国に譲渡されたが、1910年(明治43年)に流された。
流された橋のかわりに長さ52間 (95m)、幅3間 (5m) の仮橋が架けられた。1913年(大正2年)にこの橋も流され、再建された。この橋の親柱は六郷神社に保存されている。
■六郷橋
1925年(大正14年)8月には長さ446.3m、幅16.4m の六郷橋が架けられた。川の水路部分を1本の橋脚と連結した2つのアーチ(タイドアーチ)で越え、河川敷の部分は連続桁橋であった。片側1車線の車道に加え、両側に歩道があった。
■現在の橋
六郷橋の拡幅のために架け替えられたのが、現在ある橋である。1979年(昭和54年)に工事を始め、段階的に工事を進めた。1984年(昭和59年)3月に旧橋の上流側に接して新橋の一部が完成し、交通を切り替えた。次に旧橋を撤去して1987年(昭和62年)に新橋が完成した。その後第3期の工事が完了したのは1997年(平成9年)であった。橋の幅は倍以上となり、車道も片側3車線に増加した。
◆先代の橋台跡
現在の橋の北側に如何にも橋台跡といった構造物が川床に見える。これって、先代の大正14年(1925)だろうか。
●鈴木佐内
この記録を見ると、江戸の初期には架橋されてはいるが、その後、鈴木佐内が架橋するまで186年間は「渡し」しかなかったわけであり、実質、「渡し」しかなかった、とも言える。
そこに橋を架けた人物として鈴木佐内が登場する。如何なる人物かチェックすると、あれこれ面白い話が現れてきた。
佐内は多摩川東岸、八幡塚村の名主。元は「六郷の渡し」の渡し賃は八幡塚扱いであった。「六郷」は多摩川東岸、八幡塚村側の地名であることが、その事実の一端を物語る。
が、後に二ヶ領用水の普請、川崎宿の立て直しで名高い田中丘隅の力故か、川崎宿の独占となった。佐内は渡船権を取り戻すべく交渉するも、その願いは叶う事がなかった。
明治になり、八幡塚村は「村」として橋の架橋を願い出る。きっかけは明治4年(1871)に架橋された東海道線の木造橋梁。その姿を見て、渡船権が許されないなら、有料の橋を造ればいい、と思ったのだろうか。
村として架橋許可願いを出した八幡塚村であるが、明治初期の行政制度の改革などにより鈴木佐内が名主を解かれるなどし、村は動揺。村としての架橋願いを取り下げる。その結果、佐内はひとりで私財を擲ち架橋を実施。明治7年(1874)橋は完成した。
「佐内橋」は当初事業は順調に進むも、洪水や筏の衝突などの修理費が嵩み、「金喰橋」、「厄介橋」と呼ばれた末、明治11年の大洪水で流出してしまう。わずか4年のことであった。
その後、明治16年(1883年)、川崎大師をはじめとする川崎宿と八幡宿の人々が集まり六郷架橋組合を組織し有料の橋・六郷橋を架けるも、私財をすべて失った鈴木佐内の名はそこにはない。

六郷橋脇の案内・記念碑・石灯籠
六郷橋の南、橋の歩道へのアプローチ付近に幾つかの案内・記念碑が建つ。北から順に、「長十郎梨のふるさと」、「明治天皇六郷御渡御碑」、「川崎大師の石灯籠」そして「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」である。

「長十郎梨のふるさと」の案内
「川崎歴史ガイド 東海道と大師道 長十郎のふるさと」と書かれたパネルには「多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。 明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。 発見者当麻辰二郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ」とあった。

かつて多摩川下流域の両岸の堤外地・河川敷は梨の一大生産地であった。大師地域での梨の生産は江戸時代にはじまり、明治26年(1893)、大師河原村出来野(現在の日の出町)に誕生、大正初期には全国の80%を占めたと言う。今昔マップ 首都」の明治の地図を見ると、堤外地に広がる果樹園の記号が示されているが、工業化が進んだ現在、川崎区には梨園は残っていない。

「明治天皇六郷渡御碑」
明治天皇が京都御所を離れ東京へと行幸した際、当時橋の無かった多摩川を渡った記念碑。明治元年9月20日に京都を出発、10月12日に川崎宿に到着。2800余の行列であった、とか。記念碑には「武州六郷船渡図」とあり、川崎宿本陣での昼食の後、23艘(36艘との記録もある)の船を縦に繋ぎ、その上に板を這わせ、仮の橋を作って明治天皇が鳳輦に乗り渡御した時の模様が描かれている。







「川崎大師の石灯籠」
「明治天皇六郷渡御碑」の傍に「川崎大師の石灯籠」。厄除川崎大師とある。何となく新しい雰囲気。裏に「昭和八年建立 川崎大師 平成三年移築 川崎市」とあった。平成8年(1996)の灯籠であった。昭和8年(1933)建立の灯籠はさらに大きいものであったようで、その台座が道の反対側、大師線線路手前の堤上にあった。結構大きい。

「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」
河崎大師の石灯籠の少し南、「たま川」の標識がある手前に「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」があり、「関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ、東海道の交通を遮る障害でもありました。 そこで慶長5年(1600)、徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。 以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)7月の大洪水で流されたあとは架橋をやめ、 明治に入るまで船渡しとなりました。 渡船は、当時江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709)3月、川崎宿が請け負うことになり、 これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました 川崎市」とあった。

京浜急行大師線・港町駅
堤道から大師線を越える跨線橋を渡り、道なりに進むと京浜急行大師線・港町駅。「長い旅路の 航海終えて 船が港に 泊まる夜 海の苦労を グラスの酒に みんな忘れる マドロス酒場 ああ港町 十三番地」。美空ひばりの歌う、『港町十三番地』の歌詞である。歌の港町はこの駅名から。
マドロス酒場(マドロスはオランダ語の船員)といったフレーズがあるので、てっきり横浜あたりの港町かと思っていたのだが、横浜の山下公園や馬車道などをイメージしながらも、この駅名が歌のタイトル名となっている。 その最大の要因は、かつて駅の東に、レコード会社である日本コロンビア(平成19年;2007年閉鎖)があったから。美空ひばりのレコードもこの地でつくられたわけだ。会社は港町9番地であったが、13番地のほうが語呂がいいということでタイトルや歌詞は13番となっている。

医王寺
駅前の道を進むと、府中街道から大師道へと通称を変えた国道409号の港町駅入口交差点に。そのすぐ先の久根崎交差点脇にお寺様の甍が見える。医王寺である。医王寺は既にメモした溝口水騒動が起こる2日まえの文政4年(1921)7月4日、この寺の鐘を撞き川崎領の農民に召集をかけた、と言う。また長十郎梨をつくった当麻辰次郎もこの寺で眠るとのことでもあり、ちょっと立ち寄り。

山門を潜り、溝口水騒動の早鐘を撞いたであろう鐘楼を見遣り、本堂にお参り。 『新編武蔵風土記稿』に拠れば、「(川崎宿堤外往還)医王寺 久根崎町の内東南の耕地にあり。薬王山無量院と号す。天台宗荏原郡品川宿常行寺の末寺なり。開山を春光坊法印祐長とて延暦二十四年二月廿二日寂せし人なりと云。然れば宗祖傳教大師にまのあたり従ひし人なるにや。此後法燈たへず間宮豊前守信盛当所に住せし頃祈願所と定めしと云、今本堂七間に六間、本尊薬師木の坐像にて長一尺八寸許、脇士は立像にて長一尺八寸許、其余十二将神等の像あり。
鐘楼。門を入て右にあり、二間四方鐘径二尺八寸許高さ五尺程享保十年十月と彫る」とある。
歴史は古い。延暦24年と言えば西暦805年のことである。間宮豊前守信盛とは戦国時代、この地の領主であった武将であり、探検家・間宮林蔵にも繋がる人物であった。
●間宮豊前信盛
間宮氏は近江佐々木源氏の係累と称する。南北時代、伊豆の間宮村(現在の静岡県田方郡函南町。静岡県東部、神奈川県と接する)に居を構え、間宮氏と称した。間宮氏は伊豆で頭角を現した北条早雲に早くから臣従し、早雲が伊豆から相模に侵攻する頃活躍したのがこの間宮豊前守信盛、またはその父とも推測されている。信盛は相模・武蔵の国境に領地をもち、館は川崎駅前の宗三寺であったと伝わる。
間宮氏は守盛の孫の代、秀吉の小田原征伐に際し、小田原北条勢の最前線である箱根の山中城で討死するも、その娘が家康の側室となったため旗本として江戸の頃も存続するも、後に一族の中に帰農し現在の茨城県つくばみらい市に移ったものの末裔が樺太探検で知られる間宮林蔵とのことである。また、『解体新書』で知られる杉田玄白も間宮氏の系(間宮家の一族の真野から分かれた別流の子孫)とも言われる。
●塩解地蔵尊
境内を歩くと「塩解地蔵尊」がある。境内にあった捲り(めくり)鉄板に気されたお話に拠ると、こどものおできを治すため、お浄めの塩を地蔵様にこすり付けると、あら不思議、おできは消え去った。これが広く伝わり、お地蔵様は塩で溶けたように痩せ細ったお姿になった、と。
蟹塚
鐘楼近くに蟹塚があり、おなじ鉄板本にあったお寺に伝わるお話しに拠れば、朝夕撞かれる鐘の音に驚き白鷺も近づかず、境内の池の魚や蟹は安心して日を送っていた。
あるとき、近隣から火の手が上がり、医王寺も延焼したが、火が鐘楼に近づくと、池から幾多の蟹が泡を出しながら鐘楼に登り、火を止めた。おかげで鐘楼は延焼から難を逃れたが、周囲は焼け死んだ幾多の蟹が見つかった。それを感謝し塚を建立したのだが、それ以降、医王寺の蟹に背中は火で焙られたように赤くなっていた、と。

●溝口水騒動
騒動の経緯をまとめておく;文政4年(1821)、旱魃による水不足に苦しむ二ヶ領用水下流・川崎領の19の村は、役人に訴え、その結果、7月4日の夕刻から7日の夕刻にかけて、久地分量樋で川崎堀以外の用水口を一時止め、川崎領への通水が約束されることとなる。が、当日になっても水は流れてこない。その因は、溝口村名主である鈴木七右衛門と久地村の農民が自分たちの村への水を確保すべく、分量樋の水役人を追い払い、川崎堀を堰止めたためであった。
川崎領の村民は役人に訴えるも解決されないため、7月5日会合が行われ、丸屋・鈴木家の打ち壊しが決議された。翌6日、府中街道を北上。その数、一万四千余人となった、という。そして溝口村の村民と衝突。鈴木家と隣家2軒を打ち壊す事態となる。
この騒動の結果、川崎領の名主・村民にお叱りや罰金が科され、溝口村名主の鈴木七右衛門は所払いの厳罰、農民には罰金、そして騒動を取り締まることのできなかた役人も処分を受けた。
●久根崎
川崎市の資料に拠れば、久根崎(くねざき)の地名の由来については、例によって定説はない、と。多摩川の流れに沿う地域故に その土手の前(さき)という意味とも、クネには境という意味もあるり、荏原郡と 橘樹郡の郡境の多摩川の前とする意味との説もあるようだ。

国道409号
医王寺を離れ、大師道を先に進む。大師道こと国道409号がどこまで続くのか地図を見ると、はるか千葉にまで続いている。チェックすると、溝口辺りは府中街道と呼ばれ、この辺りでは国道409号と呼ばれるこの国道は、昭和57年(1982)、川崎市の溝口を起点に千葉県の成田市をむすぶ国道として施行された。施行当初は海上区間が分断されていたが、平成9年(1997)、東京アクアラインの開通で千葉と繋がり、国道409号で房総半島を横断し、茂原で国道128号、東金で126号の重複区間を経て、東金から再び国道409号として八街を経て成に続いている。
国道409号施行時に東京湾を横断する路線が既に決まっていたのだろうか?チェックすると東京湾横断道路は昭和41年(1966)に調査が開始され、昭和50年(1975)に建設可能との報告があり、昭和56年(1981)には川崎-木更津-成田間を国道409号とすると決定してある。アクアラインが織り込み済みの国道ではあった。

鈴木町駅前
国道409号を進むと鈴木町駅前交差点がある。駅の向こうには味の素の工場群がある。味の素は元は鈴木商店では?チェックすると、駅の名前は味の素の前身である鈴木商店の創設者である鈴木三郎助に由来するとあった。

●藤崎堀
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠ると、鈴木町駅入口交差点手前辺りから南東に下り、藤崎小学校方面へと向かう用水があったようだ。現在は暗渠か埋め立てが不明だが、水路跡はわからない。
●川崎堀
藤崎堀の先、国道409号・花見橋バス停交差点手前辺りから川中島堀がふたつ別れ、ひとつは南東の方向に進み、国道132号・川中堀交差点方面へ向かう。また、あとひとつの川中堀は東へと向かい、川崎大師方面へと向かっているように見える。
●殿町堀
国道409号・花見橋バス停辺りから北東に向かうのは殿町堀のように見える(川崎市・二ヶ領用水マップ)。川崎堀も殿町堀も水路が残っているようには思えない。

若宮八幡
花見橋バス前交差点を先に進み、大師線・川崎大師駅の手前に若宮神社がある。二ヶ領用水に架かった橋の遺構が残るとのことでちょっと立ち寄り。
●九橋の遺構
鳥居を潜り拝殿にお参りし、境内を彷徨うと、ふたつの石橋の欄干が残っていた。「 NPO 法人 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、「九品思想により九品の極楽浄土(川崎大師平間寺)に至るというさまを表現した橋。天保年間、現旭町から平間照寺鶴の池に至る、大師道沿いの用水路に架かっていた九橋のひとつ。九橋の内、最後の橋の欄干と橋板である。その「九橋の碑」が平間寺境内・鶴の池畔に立つ」とあった。

石橋はふたつあるように思うのだが、このふたつで一対ということだろか。それと大師道沿いの用水とは二ヶ領用水とある。その用水は大師堀から分かれた川中島堀のことであろうか。はっきりしない。

●九品の極楽浄土
浄土教においては、生前の行いにより、極楽浄土で生まれ変わるとき、扱いが変わる、と言う。上品・忠品・下品の3段階をそれぞれ上生、中生、下生の3段階の計9段階の扱いになり、最上位の上品上生では仏様の大集団がお迎えに来てくれるが、下品下生は特にお迎えは無く、また、仏様となるにも上品上生は1日でいいのだが、下品下生は気の遠くなるほどの年月がかかるようである。
●由来
若宮八幡宮は、多摩川の対岸、八幡塚村の六郷神社の氏子たちが、大師河原干拓のために移り住んだ際に、御祭神を分祀したのがはじまりといわれる。祭神は仁徳天皇。仁徳天皇は淀川の治水工事を完成させ、干拓事業の守護神として崇められていることから祀られたものとされる。創建年代は不詳であるが、『小田原衆所領役帳(永禄二年1559年)』に朱印地三石との記録が記初見とされるので、その頃と推測されているようである。
八幡塚村の六郷神社は、源氏一族が戦いに際し武運長久を祈り、勝利の御礼に石清水八幡を分祀したのがはじまりで、頼朝も奥州征伐勝利の御礼に社殿を造営した社であり、祭神は応神天皇。仁徳帝はその御子故に若宮八幡と称する、とか。
●境内社・金山神社
境内社として藤森稲荷や大鷲神社、そして金山神社が祀られる。その中でも金山神社の特異な建物が目を引く。御祭神は、鉱山や鍛冶の神である金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の両神。御神体はカナマラサマ(金摩羅様)という巨大な男性器を形どった神である。
金山(かなやま)」と「金魔羅(かなまら)」(魔羅とは男根のこと)の読みが似ていることや、イザナミノミコトが火の神を生んだ際、下腹部に大火傷をしたのを、治療看護した神であること、また鍛冶の動作が性を連想させることなどにより、御神体がカナマラサマ(金摩羅様)となったと言う。
お産、下半身の病にご利益があると言われており、江戸時代川崎宿の飯盛女達の願掛けに端を発した「かなまら祭り」と呼ばれる祭礼には、男根を形どった神輿が担ぎ出されるようだ。祭りは4月第1日曜日に開催される。
●「大師河原酒合戦 三百五十年記念碑」
また、この社には、「大師河原酒合戦三百五十年記念碑」が建つ。案内には、「 『水鳥記』によると慶安二年(1649)、大蛇丸底深(大師河原開拓に成功し名主となった池上太郎左衛門幸広)のもとに地黄坊樽次(前橋藩主酒井忠清の寵臣、医者で儒学者の茨木春朔)が酒豪を連れてきて、大師河原に乗り込み三日三晩、酒飲みの強さを競ったという史実にのっとった豪快で勇壮な酒合戦の物語です。 『水鳥』とは、「水」は「さんずい」の意味で、「鳥」は「酉」の意味、二つの文字を併せて『酒』という字となる
水鳥の祭り(十月第三日曜日)
現代に再現した祭りで大本山川崎大師平間寺に大蛇丸底深方15名、地黄坊樽次17名が終結して、お互いに名乗りを上げ酒合戦を繰り広げながら練り歩き、若宮八幡で和睦する」とあった。

川崎大師平間寺
若宮八幡から成り行きで川崎大師に向かう。水路とか水路跡といった手掛かりもないため、とりあえず二ヶ領用水が流れ込んだと言う「つるの池」に向かう。 長い塀に沿って南に進み、至真門から境内に入る。正面にインド寺院のような堂宇がある。薬師殿とのこと。「つるの池」はその先にあった。
●つるの池
訪問した時は、池の工事中で近づくことはできなかったが、案内には「この池は元はふくべの形だった。昭和の初め、右手の大きな建物大本坊建立のため「ふくべ」の元になったところを残したものである。往時は多摩川から分水した二ヶ領用水が池に入り、そして大師河原の灌漑に使われた」とある。

「ふくべ」って、「ひょうたん」のこと、かと。薬師殿の北に「大本坊」があるが、お寺の事務所といったこの建物が建てられた時に、「ふくべ」の元(ひょうたんのくびれた部分の下半分?池の形からの想像)だけを残した、ということだろうか。工事現場の遮蔽物から見るに、池の底がアスファルトで塗り固められているようではあった。
「川崎市・二ヶ領用水マップ」を見ると、川崎大師を抜ける川中島堀は、大師公園の北東端辺りで流路を南東に変え、国道132号と首都高速神奈川一号横羽線がクロスする塩浜交差点方面へと下っている。
流路跡などないとは思いながらも、ちょっと下ってみたい気持ちもあるのだが、そろそろ日も暮れてきた。今日はこのあたりで引き上げることにする。
●川崎大師境内
川崎大師の境内を彷徨い、巨大な堂宇を見るに、古き趣はない。昭和17年(1942)の米軍による最初の本土空襲であるドーリットル空襲、昭和20年(1945)の4月4日、そして4月15日の大空襲により、ほとんどの伽藍は焼失したとのこと。巨大な本殿と不動堂は昭和39年(1964)、大山門は昭和52年(1977)、インド風の薬師堂は昭和45年(1970)、八角五重塔は昭和59年(1984)、経堂は平成16年(2004)、落慶といった按配である。戦火を免れたのは福徳稲荷堂だけのようである。
●由緒
平安末期、平間兼乗という武士が無実の罪により生国尾張を追われ、諸国流浪の末、この地に棲み漁猟を生業とした。弘法大師に深く帰依していた兼乗は厄年の42歳の時、夢枕での僧のお告げに従い、海中より木造を網で引き上げる。木造は弘法大師の御像であったため、草庵をむすび供養する。
その頃、高野山の尊賢上人がこの地に立ち寄り、大師の御像に纏わる話を聞き、兼乗と力をあわせ、大治3年(1128)平間寺を建立した。兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、木像を御本尊とし厄除弘法大師と称した。これが大本山川崎大師平間寺のはじまりとのこと。もっとも、大師木造は、下平間村の稱名寺が真言宗から一向宗(浄土真宗)に宗旨を改めた際、多摩川に流されたものとも伝えられる。浅草の浅草寺の縁起もそうだが、川や海から仏像を引き上げるって物語は定番なのであろうか。
それはともあれ、開基の尊賢上人は、保延2年(1136)、弘法大師を篤く信仰する鳥羽上皇のお后・美福門院に平間寺開山の縁起を伝え、厄除けと皇子降誕の祈祷おこなうと、その霊験故か、まもなく皇子誕生となる。のちの第76代近衛天皇である。永治元年(1141)には近衛天皇により平間寺に対し、勅願寺の宣旨が下される。
爾来、皇室の信仰も深く、江戸期には、徳川将軍家の帰依も篤く、文化10(1813)年には、前厄にあたる第11代将軍徳川家斉が厄除を祈願に公式参拝した、とある。
このことにより厄除の効験があるとして、庶民はもとより武士階級にまで信仰が広まったと言う。もっとも、豊かになった江戸の庶民が、日帰りでお参りできる関東の代表的な霊場としてのロケーション故に、行楽も兼ね川崎大師参詣に訪れた、というほうが納得感が強いのだが。ついでのことながら、若宮八幡でメモしたの『水鳥記』にある慶安2年(1648)の大師河原の酒合戦が大師河原の名を一躍高めたとも言う。

今回の散歩は川崎堀が大師堀と町田堀に分流する地点から大師堀を川崎大師まで辿った。いままでの3回の散歩は開渠で、水を眺めながらの散歩ではあったが、大師堀は一転、暗渠なのか埋め立てられたのか、ともあれ「水気」のない用水散歩となった。メモも、用水路とは直接関係のない、用水路跡辺りの「気になるポイント」のチェックが多くなったが、それなりに好奇心にフックの掛かるあれこれが登場し、結構楽しい散歩となった。
次の散歩は鹿島田で大師堀と分かれる町田堀を歩こうか、それとも、大師堀散歩で思いもかけず出合った「川崎宿」を先に歩こうかとちょっと考える。

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