旧東海道鈴鹿峠越え;その壱;桑名宿

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初冬の週末、2泊3日の予定で旧東海道の鈴鹿峠を越えることにした。メンバーは会社の同僚2名との計3名。同僚のひとりが旧東海道を歩いており、鈴鹿峠を越える時には盗賊除け、雲助除けに同行します、といったのが今年の春。年末になって鈴鹿峠が近づいた、との案内があり、散歩仲間の独りを誘い、峠越えを同道することになった。初日は三重の亀山宿を出て鈴鹿峠を越え土山宿に宿泊。距離は25キロほどになるだろう、か。二日目は土山宿から水口へと、15キロ程度を歩き、その日のうちに帰京する、といった段取り。初日のスケジュールが少々タイトであるので、亀山に前泊することにした。今回の鈴鹿峠越えは、世に名高い鈴鹿峠を越えるのも楽しみではあるが、もうひとつの楽しみはルートにある水口宿。先日、これも会社の同僚と関ヶ原合戦の地を訪ねた折り、西軍敗戦の後、東軍を中央突破する撤退戦を行い、伊勢街道や伊賀の山越えなどで四散した島津家主従が事前に中継地として集合場所と決めていたのが水口の宿であった。島津主従は、水口から信楽、甲賀の山を越え泉州堺を経て鹿児島へと向かった、とされる。水口がどういう場所か、そこから眺める甲賀の山並みが如何なるものか、旧東海道の宿場や鈴鹿峠の姿とともに、大いなる楽しみとして旅に出かけることにした。



本日のルート;関西本線・桑名駅>海蔵寺>春日神社>旧東海道桑名宿>桑名城址>七里の渡し跡>蟠龍櫓>関西本線・桑名駅

前日の桑名宿
集合予定地の亀山に向かう。東京から新幹線に乗り名古屋で下車。関西線に乗り換え、亀山直行も少々味気ない。途中に何処か見どころはと路線駅をチェックすると桑名の名前がある。桑名は東海道中の熱田神宮門前・「宮の渡し」から伊勢湾を渡る「七里の渡し」があるところ。また、先日、関ヶ原の合戦のメモをするときに、桑名を東軍に奪われ、伊勢街道からの兵站ルートを失ったことが、石田三成の率いる西軍が大垣を撤退した一因との記事も目にした。それに、桑名といえば、幕末の戊辰戦争において、会津の松平容保(かたもり)の弟でもあり、幕軍として会津、函館と転戦した松平定敬は桑名藩主であった。それに、幕末から明治にかけて闘将として名高い、立見鑑三郎は桑名藩士である。といったあれこれを思いだし、思わず、桑名に途中下車することにした。

関西線・桑名駅
駅を下りて、駅前の地図を参考に、成り行きで城址、そして「七里の渡し」へと向かう。城址は駅前の大通りを東に真っ直ぐ進んだところにある。そして、七里の渡しはそのすぐ隣り。通に沿って進むに、町の印象はフラット。いつだったか、会津の町を歩いたときの印象と近い。木曽三川と呼ばれる木曽川、長良川、揖斐川の三河川が集まり伊勢湾に注ぐ河口に位置するのが、その要因の一端ではあろう、か。

海蔵寺
国道一号線を越えて進むと、道脇に「島津」の旗印の翻るお寺さまがある。水口宿ならぬ此の地に、なにごとであろうか、と境内に。案内には、「海蔵寺(薩摩義士墓所);薩摩義士とは、当地力に度々水害をもたらした木曽・揖斐・長良三大河川の治水工事による薩摩藩85名の犠性者を言います。この工事は、宝暦3年江戸幕府より薩摩藩に命じられ、工事奉行平田靱負他藩士約950名と予算30万両で始められ約一年半の工期で完成したが、この間85名の犠牲者と、多大な工事費用を費やしました。これにより長年荒れ狂った大河川も制御されたのです。
 当寺には、工事終了後大幅な予算超過と多数の藩士を失った責任を負い切腹した奉行平田靱負の墓碑を中心に24義士の墓があります。
義士によって築かれた油島(岐阜県海津市)の堤防には数千本の松が植えられ、現在も千本松原と呼ばれて偉大な功績跡を残しています」、とあった。
島津藩による「宝暦の治水事業」、幕府に命じられ、流路定まらぬ木曽、長良、揖斐川の治水事業のことは知っていたのだが、そのゆかりの地が桑名にあるとは思っていなかった。思いがけない事跡の出現に、行き当たりばったりの散歩故の、偶然がもたらしてくれた喜びを感じる。
川といえば、現在では護岸工事などで、川筋が定まっている、というのが普通である。しかしながら、それは明治以降の河川改修、護岸工事の結果ではあり、昔は、洪水のたびに流路が変わり、幾十もの支流が入り乱れていたことであろう。島津藩が普請を行った頃の絵地図を見るに、木曽川、長良川、揖斐川が合流する伊勢湾の河口あたりは、川筋が入り乱れ、その入り乱れた流路の中に「輪中」が点在する、もう、なにがなんだかわからないような流路の乱れ様である。
濃尾平野は西に向かって緩やかに傾斜しており、それも河口近くになるほどその傾向が強いようである。木曽三川といっても、その流域は木曽川が圧倒的に広く、長良川や揖斐川の5倍弱もある。その木曽川が最も東にあり、長良川、揖斐川と西に向かって並ぶわけで、地勢からして洪水のたびに木曽川から長良川へ、長良川から揖斐川へと流路が造られ、乱れに乱れた流路をつくることになったのだろう。薩摩義士の案内にもあった、千本松原も木曽川と長良川が合わさった流れを金廻輪中と長島輪中の間に堤をつくり、揖斐川への流入を防ぐようにしている。
で、宝暦の治水の結果であるが、それによって洪水が減ることにはならなかったようである。輪中を結んだ堤防が川床への土砂の堆積を促したため、と言う。結果的には首尾良く、という訳にはならなかった、木曽三川の治水工事であるが、大雑把に言って、洪水被害は美濃側に大きく、尾張側は少なかったようである。それは、慶長13年(1608)から14年(1609)にかけて築かれた「御囲堤」にその要因がある。「御囲堤」は愛知県犬山氏から弥富氏に至る木曽川左岸に、およそ50キロ弱に渡って築かれた。徳川氏が尾張に城を築いたため、木曽左岸への洪水を防ぐための工事である。ちなみに、木曽川の右側の美濃の堤防は尾張側よりおよそ1m低くしなければならかかった、と言う。美濃を犠牲にして尾張を守る施策と言えよう。

春日神社
海蔵寺を離れ、城址方面へと進む。道の右側に春日神社。お城にほど近い立地でもあり、なんらか有り難き神社ではあろうか、と立ち寄ることに。案内によると、正式名称は桑名宗社。桑名神社と中臣神社の両社を祀り、古来より桑名の総鎮守でもあった、とか。桑名神社は平安時代の、延喜式神名帳に名が残る古き社。桑名を開いた豪族桑名首(おびと)の祖神を祀る。桑名の西の丘陵にある高塚山古墳(全長50mの前方後円墳)は桑名・四日市地方最大の古墳。桑名首の威を誇る。
中臣神社も、同じく延喜式に名前の残る延喜式内社。縁起によれば、8世紀中頃、常陸国鹿島社より建御雷神が此の地を訪れたところに元の社を建てた。祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれている神様。正応二年(1289年)に桑名神社の境内に遷し、永仁四年(1296年)に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀し、以来「春日神社」と。鹿島社は藤原(中臣)鎌足が誕生したとも伝えられる藤原氏の氏神。春日神社は藤原不比等が鹿島社の分霊を奈良に迎えて造立したものであるので、縁起の流れとしては自然ではある。ちなみに、「神社」って名称は明治以降の名称であり、春日の社などと呼ばれていたのではあろう。
春日神社は中世以降も、織田信長、徳川家康や、また、江戸の頃、この桑名の城主となった本多家、の庇護を受け繁栄。その象徴が「青銅の大鳥居」。本殿でお参りし、立派な構えの楼門(平成7年再建)をくぐり参道を町屋へと進むと青銅の大鳥居がある。「勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎」と呼ばれた日本随一の青銅鳥居とのこと。寛文7年(1667)、桑名鋳物によって造られ、桑名城主 松平定重が寄進したものである。

旧東海道桑名宿
青銅の大鳥居をくぐると江戸町に出る。左に折れると七里の渡し跡。船着き場から南にのびる道筋が往昔の東海道とのこと、であるので、大鳥居の一筋東のこの江戸町の道筋が東海道であろう。街並みに、往昔の名残は少ない。江戸期の二度に渡る大火、太平洋戦争、伊勢湾台風などの被害により歴史的建造物の多くが失われた、と。
船着き場から続く、かつての桑名宿には本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒。家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)、といった大規模な宿場町。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇ったと、WIKIPEDIAにある。ちなみに、ふたつあった本陣のひとつ、丹羽本陣は江戸町の北の川口町、その裏手の東船場町にはもうひとつの本陣、大塚本陣があった。丹羽本陣は現在の料亭「船津屋」となっているようで、地図をチェックすると七里の渡し跡のすぐ近くにあった。また、そのお隣にある料亭「山月」は脇本陣跡、とのことである。川口町には問屋場もあった、とか。宿の中心地は船着き場近くにあったようである。
桑名宿、というか桑名の城下町と言えば、「桑名宿の七ッ屋七曲がり」で知られる。城下町の多くは、敵襲の防御のため、道をクランク状にすることが多いが、この桑名の宿は、その傾向が甚だしかった、ということだろう。「桑名宿の七ッ屋七曲がり」を示す何か資料はないかとチェックすると、『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』に、以下のような記述があった。「川口町、江戸町、方町、右折して京町、京町御門をくぐって左折して吉津屋町、鍛治町に出て、その町南の短距離において右折、さらに左折、更に左折する曲(かね)の手状の通称"七ッ屋"を過ぎ、七ッ屋御門をくぐり、俗称"七ッ屋の橋"をわたって同所の番所前より右折して新町、伝馬町に至り、七曲番所前にて左折、釘貫御門をくぐって右折、七曲橋をわたって右折、東鍋屋町、西鍋屋町、東矢田町、西矢田町に達し、福江町にて左折、すなわち旧時の宿外の出る。(中略)屈折の甚だしいところから俗称となった七ッ屋および七曲がりの二箇所は、桑名の往還筋にて特に著名な見付番所で「伊勢参宮道で、お伊勢さまに尻を向けるのは、七ッ屋と七曲がりの二箇所だけ」、と(『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』より)。桑名は旧地名がそのまま残っているので、現在の地名を元に地図を辿るに、如何にもの「七曲がり」ではあった。

桑名城址
旧東海道筋を越え城址へ向かうとお濠が現れる。少々崩れたような、如何にも年月を経た石積みも残る。幕末の動乱期、桑名藩主は幕軍に与し、立見鑑三郎など一部の桑名藩士とともに会津、函館と転戦した。藩主不在の桑名藩は新政府に恭順の意を示し、開城したといえども、新政府軍に焼き払われ、石垣までも撤去されたと言われる桑名では珍しい、江戸の遺構ではあろう。濠の石垣に残る石段は往昔の船運の名残を伝える。
橋を渡り城址へと。現在は「九華(きゅうか)公園」となっている。城の名残は、なにも、ない。「九華」は江戸の頃、「くわな」と読ませた。くはな>くわな、との転化であろう、か。二方に海が拡がる桑名城は別名、扇城とも呼ばれた。中国に「九華扇」という扇があり、「くわなのおうぎ」城と、「九華扇」をかけたもの、と言う。
城より海を眺める。とはいうものの、前面は揖斐川、その向こうの長良側と木曽川に囲まれた埋め立て地の堤防が下流まで続き、広き海原に拡がるイメージとはほど遠く、往昔、このお城を目安に宮から渡ってきた絵模様は描き難い。海蔵寺でメモした古地図をもとに、木曽三流の河口を扼した往昔の桑名の城を想うに、戦国期には土豪が盤踞し、桑名には土豪の構える城が三つあった、と。そのうちの伊藤氏の館のあったのが現在の桑名城の辺り、と言う。その後、織田信長がこの地を征し、滝川一益を置く。秀吉の時代には一柳、氏家氏などが頻繁に入れ替わった。伊勢街道、東海道と水陸の要衝であった桑名が東軍に落ち兵站・補給の確保が困難となったことが、石田三成の大垣での東軍との会戦を回避し、関ヶ原に引き下がった、という記事も、古地図を眺め、この地にたって、少しリアリティが出たようである。
関ヶ原の合戦の後には家康の股肱の臣・本多忠勝が桑名に入城する。その後、松平家が藩主となり、幕末動乱の松平定敬へと続く。松平定敬の幕末の奮闘は既にメモしたとおりであるが、桑名藩でこの藩主以外に気になる人物に立見鑑三郎がいる。戊辰戦争の北越戦線では雷神隊長として官軍を翻弄・敗走させる。その後会津から、出羽へと転戦し、幕軍として最後まで抵抗した庄内藩が降服するにおよび、明治政府軍に降伏。明治期には一時謹慎するも請われて陸軍に入り。西南戦争、日清戦争、日露戦争で活躍。特に日露戦争の黒溝台の大会戦では、数倍のロシア軍を破り武功を上げ、これら多大なる功績により旧幕軍出身者でありながら、陸軍大将にまで昇進する。中村彰彦さんの『闘将伝・立見鑑三郎』に詳しい。

七里の渡し跡
城址から北に、揖斐川堤防脇にある「七里の渡し跡」へと向かう。東海道の宮宿(熱田神宮のあたり)より海路28キロ。東海道唯一の船渡しである。当時の船は40人乗り、47人乗り、53人乗りがあったようで、海路4時間の船旅であったようである。船着場に建つ鳥居は伊勢神宮の一の鳥居。この渡しより伊勢路に入るため、天明年間(1781~1789)に建てられ、伊勢神宮の遷宮のたびごとに建て替えられている、とか。
船着き場付近は桑名宿の中心でもあり、上でメモしたように、船着き場の西側には舟番所、高札場、脇本陣の駿河屋、大塚本陣、南側には舟会所、問屋、丹羽本陣があった。 蟠龍櫓
七里の渡し跡の近く、揖斐川の堤防近くに櫓が建つ。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」にも描かれているように、かつては東海道を往来する旅人が目にした桑名のシンボルを復元したもの。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。蟠龍とは水を司る聖獣。航海の安全を祈って命名されたものであろう。お城からの眺めと同様、海原は見えず、揖斐川と、その向こうを流れる長良川と木曽川に囲まれた埋め立て地が下流まで続き、はるかかなたに、その埋め立て地を横切る大きな橋が目に入る。現在では伊勢湾は、桑名の七里の渡しから5キロほど下流となっている。

河川改修の技師デ・レーケ
蟠龍櫓の後方に地図のついた案内板がある。七里の渡しの説明であろうか、などと思いながら何気なく寄って見ると、それは木曽三川の洪水治水工事の歴史を示す案内であった。ひとつは先ほどの海蔵寺で見た宝暦の治水事業の頃の地図、というか絵図。川筋というよりも、多数の輪中、と言うか島が大河(大海)の中に浮かんでいるようであり、木曽三川の区別などできそうもない「乱流」ぶりである。実際、濃尾平野には、長島、枇杷島などなど、「島」のついた地名が頻出する。外様大名の弱体化を図り、この工事普請を命じられた島津家の怒りは激しく、関ヶ原とともに倒幕運動の伏線のひとつであった、との説もある。
それはそれとして、もうひとつの案内を見え、少々驚く。そこには木曽三川分流工事に貢献した人物としてオランダ人技師、ヨハネス・デ・レーケの名があった。実は、このデ・レーケには旅の一週間前、足慣らしを兼ねて歩いた利根運河で出合っていた。海蔵寺での宝暦の治水ゆかりの事跡とともに、思いもかけぬ偶然の出会いに、成り行きまかせの旅故の、セレンディピティ(偶然をきっかけに得る幸運を掴み取る能力)を感じる。それはともあれ、木曽三川完全分流工事はデ・レーケの計画に基づき、明治20(1887)からはじまり、明治45年(1912)の完成まで25年の歳月をかけて実施された。デ・レーケの計画は、木曽三川の完全分離、蛇行した川筋の整理、堤防の強化などの設計だけにとどまらず、「治水は治山にあり」という理念の下、木曽川流域の山林の保護や水源地の砂防の重要性を説き、治山治水の思想をも日本に定着させた。案内によるとデ・レーケの三川完全分流工事はめざましい効果を上げ、旧海津郡などの1899年の10年前後を比較した資料によると、水害による死者は306人から10人に、全壊家屋または流失家屋は15,436軒から304軒に、堤防の決壊箇所は1821箇所から226箇所に被害は激減している。薩摩義士による宝暦治水、そしてこの改修工事を経て、木曽三川流域の人々は洪水の危険から大幅にリスク回避ができるようになった。現在、別々の川筋として流れる木曽三川の木曽川、長良川、揖斐川ではあるが、現在に至るまでは、長い治水事業の歴史があった、ということである。
一介の下等技師として来日したデ・レーケは、滞在30年、日本の河川改修に一生を捧(ささ)げ、明治36年(1903年)、60歳で日本を離れた。最終的には技師長として、退職金も現在の金額にして4億円というもの。日本の河川改修への貢献を多とした日本政府のデ・レーケへの評価の賜である。

桑名駅
あれこれ寄って見たいところもあるのだが、そろそろ日暮れも近い。揖斐川の堤より桑名駅まで戻り前泊地である亀山へと。気まぐれに寄った桑名のメモが思いのほか長くなってしまった。鈴鹿越えの亀山からのメモは次回から、とする。

そういえば、桑名と言えばの、「焼蛤」であるが、街の各所に焼蛤の店があった。看板に惹かれて拠ってはみたものの、「値段の良さ」に結局はパスしてしまった。焼蛤って、元々は松毬(まつかさ;まつぼっくり)の火で炙ったものであろうし、そもそも、今時、桑名近辺で蛤がとれるわけもなく、どうせのこと輸入品であろう、と己を納得させたわけだが、烏丸広光卿が時雨煮と名付けたように、旬の頃は晩秋から初秋に掛けての小雨が降る頃、というから、今がまさに旬の時期、かと。食に全く興味のない我が身ではあるが、話の種に暖簾をくぐってもよかったか、との想いも少々残る桑名散歩となった。


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