昭和女子大で学会がある。特段の仕事があるわけではない。が、会社の仲間が参加しているので、ちょっと顔だけだそう、ということで散歩にでかける。場所は世田谷区・三軒茶屋。自宅から7キロ程度だろう。大体のコースは、杉並・和泉>京王線明大前>京王井の頭線東松原>羽根木公園>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>>松蔭神社>三軒茶屋>昭和女子大、といった段取り。(水曜日、10月 26、2005)
本日のルート;杉並・和泉>京王線明大前>京王井の頭線東松原>羽根木公園>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>世田谷城址>世田谷線上町>烏山川緑道>国士舘大学>若林公園>松蔭神社>三軒茶屋>昭和女子大
京王井の頭線・明大前から東松原駅に進む
自宅を出て京王井の頭線・明大前に。京王線と井の頭線が交差。井の頭線に沿って南に。松原の町並みを成り行きに歩き、京王井の頭線・東松原駅に。松原の名前は世田谷城主・吉良氏の家臣・松原佐渡守がこの地を開いたことによる。
羽根木公園
駅のちょっと南に羽根木公園。前々から気にはなっていたのだが、今日はじめて訪れる。周囲よりちょっと小高い丘。六郎次という鍛冶屋が住んでいたことから「六郎次山」とか、東武・根津財閥が所有していたため「根津山」とも呼ばれていた、と。納得。
小田急線梅が丘駅
公園の南地区には梅林がある。公園のすぐ南に小田急線の梅が丘の駅。この駅名、梅が丘という地名から付けられたわけではない。駅設置の誘致活動の際、誘致活動に献身した地域の大地主・相原家の家紋が「梅鉢」だったから。「梅が丘」という駅名ができて、地名ができたわけだ。梅林の中に、大宰府からもたらされた、という紅梅・白梅のペアと菅原道真の有名な句「東風吹かばにおいおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘れじ」があったのはご愛嬌。
北沢川緑道
公 園を出て小田急・梅が丘の駅に。散歩に際しては駅には必ず寄る。地域の案内板を見、見所・道順などを確認するため。案内板に北沢川緑道の案内が。北沢川は京王線・上北沢駅の南・松沢病院あたりが源流点。実際は水量を確保するため玉川上水から分水され、蛇行を繰り返しながら西から東、というか北西から南東に流れ、三宿・池尻の境あたりで烏山川と合流、目黒川と名前を変えて池尻大橋のあたりから南に区下る。赤堤から池尻まで4.2キロの区間は緑道として整備されており、これが北沢川緑道。
ちなみに池尻って、池の水の落ち口付近という意味。往時、二つの川の合流点あたりは結構な湿地帯であったのだろう。赤堤もいかにも川筋の堤って感じがするし、実際羽根木公園の西・北沢警察署のあたりなど、北沢窪という低地で水路の乱流する湿地だったとのこと。そのそも「世田谷」って、「勢田郷の谷地」ってこと。世田谷区一体に、湿地のイメージのある地名が多いのもムベ成るかな。
小田急線豪徳寺駅
北沢川緑道散歩は別の機会にし、梅が丘駅からは小田急線の高架下を西に豪徳寺駅に。小田急豪徳寺駅あたりで交差する世田谷線にそって南に下る。世田谷線は2005年で開通80周年。下高井戸から三軒茶屋の5キロを結ぶ路面電車。
つつましやかな商店街を南に。時々寄ってみる古本屋がある。今回は3冊購入。『武蔵野から大東京へ(白石寶三・中央公論社;昭和8年刊)』、『風駆ける武蔵野:もうひとつの埼玉二千年史(大護八郎・歴史図書社)』、『わが屍は野に捨てよ:一遍遊行(佐江衆一;新潮社)』。2週間後に熊野古道を歩くので、一遍上人の本が見つかったのは本当にラッキー。ぶらり古本屋巡りも散歩の楽しみのひとつ。
豪徳寺
豪徳寺に。このお寺、大田道潅が活躍する時代だから、江戸時代よりずっと昔、この地を統べる世田谷城主吉良氏が伯母のために建てた弘徳院がはじまり。その後江戸時代に入り、彦根藩が世田谷領20カ村を領有するに至り彦根藩主、井伊家の菩提寺となる。「豪徳寺」は藩主井伊直孝の法号から。境内には井伊家代々の墓。安政の大獄を断行し、結果、桜田門外において水戸・薩摩の浪士に暗殺された大老井伊直弼の墓もある。
で、豪徳寺といえば招き猫。なにがきっかけで豪徳寺=招き猫、と刷り込まれたのか覚えていない。縁起をまとめてみると;昔このお寺は貧乏寺であった。和尚は乏しい食を割いて猫にあたえる。が、愚痴もでるようで、曰く「これほど面倒見ているのだから、たまには恩返ししてよ」。ある日、門前騒がしい。お武家が。曰く「鷹狩から戻る途中、白猫が手招きする。なにごとがと寺に入った」。和尚、中に招き入れ、法話など。にわかに雨、そして門前に落雷。武家曰く「我、彦根城主井伊直孝なり。落雷よりの命拾い、そして、ありがたき法談に感謝」。この寺、井伊家の菩提寺となり、一大伽藍の寺となる。これも幸運招来の猫のゆえ、と。
世田谷城址
豪徳寺を出て東に。前方に豊かな緑の小高い丘。これはなんだ?高さのある土塁、櫓台と深い空堀、それも二重の堀がしっかり残っている。これって石神井散歩のときに訪れた石神井城と同じつくり。入口に案内板。世田谷城址であった。
この城、南北朝期の中頃に、足利氏の同族である吉良氏が築城したと言われる。本家筋の三河吉良氏(吉良上野介の流れ)は「足利幕府に世継ぎがない場合は吉良氏より」といわれるほどの名門。上野国に下向した武蔵吉良氏も関東公方に仕え、関東管領上杉氏に次ぐ名門。
14世紀中盤に吉良治家が鎌倉公方・足利基氏よりこの地を拝領。世田谷城に居住する。 治家の子・成高は太田道灌と同盟し、長尾景春の乱に呼応し兵を挙げた豊嶋氏に対して道灌とともに戦い、江戸城を防衛。道灌から「吉良殿様」と呼ばれ、また「従四位下」という高い官位のゆえに、「世田谷御所」と通称された。
戦国時代は小田原北条氏に属し、世田谷城は北条氏直轄となる。吉良氏は蒔田(横浜市南区東洋英和女学院の敷地)に移り「蒔田氏」と称する。 小田原の役の後、世田谷城は廃城。吉良氏は秀吉により領地没収。が、江戸期には高家「蒔田氏」を名乗り旗本となった。
世田谷線上町駅
世田谷城址を出て、城山通りを下る。城山通りの由来は、この世田谷城から。南に下り、世田谷線上町駅に。途中に烏山川緑道の案内。気にはなったのだが、先を急ぐ、ということで駅前に。世田谷通り脇に地域の見どころ案内が。緑道、というか川筋に目が行く。蛇崩川緑道、そして、さっきの烏山川緑道の案内。
蛇崩川緑道のメモ;蛇崩川(じゃくずれがわ)は馬事公苑の近くを源流に持ち、弦巻から上馬に。上馬5丁目の小泉公園のあたりから緑道に。駒留陸橋で環七と交差。世田谷警察署近くで国道246号と交差。下馬を越え、世田谷公園の南、蛇崩交差点近くに。
あとは上目黒を越え、東急東横線と交差し、東横線にそって中目黒駅に続き、駅近くで目黒川に注ぎ込む。5~6kmの川。赤土を崩して蛇行していたため、この名がついたと言われている、と。
烏山川緑道のメモ;烏山川は井の頭線久我山の南、烏山寺町の高源寺あたりが源流。北烏山寺町通り中央高速と交差。南烏山3丁目で甲州街道と交差。芦花公園・世田谷文学館あたりを通り、船橋7丁目の希望丘公園から緑道となる。
経堂駅西で小田急と交差。蛇行し宮の坂から環七を若林駅北で交差。三宿池尻で北沢川緑道と合流、目黒川となる。世田谷区船橋7町目から三宿三丁目あたりまでの緑は道6.9キロ。どちらの川筋も結構面白そう。次回はこれらの道を歩いてみよう。
烏山川緑道
で、この烏山川緑道、結構迂回はするが、次の目的地の松蔭神社の近くに続いている。ということで、少し戻り、烏山川緑道に。暗渠の上の遊歩道。道との交差。昔の橋のあたりに必ず案内板。このくらいガイドがあればわたしのようなずぼらな散歩者には大助かり。
適当に進み、国士舘大学の裏を越えたあたりで若林公園右のサイン。松蔭神社はこの公園の隣。公園を抜けていくことに。異常なほどの家族連れ。??松蔭神社がお祭りであった。
松蔭神社
松蔭神社の隣に明治の元老桂太郎のお墓。門下生ではないが松蔭を慕っており、遺言で松蔭の近くに眠るべし、と。松蔭神社。安政の大獄に連座し伝馬町の獄中にて憤死した吉田松陰をまつる。時世の句;「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留めおかまし大和魂」。千住小塚原に埋められた松蔭と頼喜三郎のなきがらを高杉晋作、伊藤俊介(のちの伊藤博文)が長州藩の抱え屋敷(藩が私的に持っていた屋敷のこと)のあったこの地に運び改葬。明治にはいり松蔭神社が建立され現在に至る。
神社内には松下村塾を模した家屋が。お祭りでもあり、時代装束を着た今風の若者がお客さんと写真を撮っていた。これも愛嬌でありました。それにしても安政の大獄を仕掛けた井伊直弼と、仕掛けられた吉田松陰が1キロも離れていない場所で眠るのは、歴史の皮肉か。
三軒茶屋
松蔭神社を出て商店街を南に。世田谷線松蔭神社前を越え、松蔭神社入口の交差点で世田谷通りを左折、一路三軒茶屋に向う。1.5キロの道のり。近くに北原白秋の旧宅があったようだ(若林3丁目15)。が、見逃す。とはいうものの、人生27回引越しを繰り返したということだから、散歩につれいろんなところで顔を現すかも。実際先日、砧の散歩で旧宅があったなあ、と。
若林の交差点で環七を越え、太子堂4丁目から三軒茶屋。江戸時代、このあたりは交通の要所。お宮参りや行楽の人々のための3軒の茶屋があったことからこの名がついたという。246号線を南側に渡り昭和女子大に到着。本日の予定終了。
京王井の頭線・明大前から東松原駅に進む
自宅を出て京王井の頭線・明大前に。京王線と井の頭線が交差。井の頭線に沿って南に。松原の町並みを成り行きに歩き、京王井の頭線・東松原駅に。松原の名前は世田谷城主・吉良氏の家臣・松原佐渡守がこの地を開いたことによる。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
羽根木公園
駅のちょっと南に羽根木公園。前々から気にはなっていたのだが、今日はじめて訪れる。周囲よりちょっと小高い丘。六郎次という鍛冶屋が住んでいたことから「六郎次山」とか、東武・根津財閥が所有していたため「根津山」とも呼ばれていた、と。納得。
小田急線梅が丘駅
公園の南地区には梅林がある。公園のすぐ南に小田急線の梅が丘の駅。この駅名、梅が丘という地名から付けられたわけではない。駅設置の誘致活動の際、誘致活動に献身した地域の大地主・相原家の家紋が「梅鉢」だったから。「梅が丘」という駅名ができて、地名ができたわけだ。梅林の中に、大宰府からもたらされた、という紅梅・白梅のペアと菅原道真の有名な句「東風吹かばにおいおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘れじ」があったのはご愛嬌。
北沢川緑道
公 園を出て小田急・梅が丘の駅に。散歩に際しては駅には必ず寄る。地域の案内板を見、見所・道順などを確認するため。案内板に北沢川緑道の案内が。北沢川は京王線・上北沢駅の南・松沢病院あたりが源流点。実際は水量を確保するため玉川上水から分水され、蛇行を繰り返しながら西から東、というか北西から南東に流れ、三宿・池尻の境あたりで烏山川と合流、目黒川と名前を変えて池尻大橋のあたりから南に区下る。赤堤から池尻まで4.2キロの区間は緑道として整備されており、これが北沢川緑道。
ちなみに池尻って、池の水の落ち口付近という意味。往時、二つの川の合流点あたりは結構な湿地帯であったのだろう。赤堤もいかにも川筋の堤って感じがするし、実際羽根木公園の西・北沢警察署のあたりなど、北沢窪という低地で水路の乱流する湿地だったとのこと。そのそも「世田谷」って、「勢田郷の谷地」ってこと。世田谷区一体に、湿地のイメージのある地名が多いのもムベ成るかな。
小田急線豪徳寺駅
北沢川緑道散歩は別の機会にし、梅が丘駅からは小田急線の高架下を西に豪徳寺駅に。小田急豪徳寺駅あたりで交差する世田谷線にそって南に下る。世田谷線は2005年で開通80周年。下高井戸から三軒茶屋の5キロを結ぶ路面電車。
つつましやかな商店街を南に。時々寄ってみる古本屋がある。今回は3冊購入。『武蔵野から大東京へ(白石寶三・中央公論社;昭和8年刊)』、『風駆ける武蔵野:もうひとつの埼玉二千年史(大護八郎・歴史図書社)』、『わが屍は野に捨てよ:一遍遊行(佐江衆一;新潮社)』。2週間後に熊野古道を歩くので、一遍上人の本が見つかったのは本当にラッキー。ぶらり古本屋巡りも散歩の楽しみのひとつ。
豪徳寺
豪徳寺に。このお寺、大田道潅が活躍する時代だから、江戸時代よりずっと昔、この地を統べる世田谷城主吉良氏が伯母のために建てた弘徳院がはじまり。その後江戸時代に入り、彦根藩が世田谷領20カ村を領有するに至り彦根藩主、井伊家の菩提寺となる。「豪徳寺」は藩主井伊直孝の法号から。境内には井伊家代々の墓。安政の大獄を断行し、結果、桜田門外において水戸・薩摩の浪士に暗殺された大老井伊直弼の墓もある。
で、豪徳寺といえば招き猫。なにがきっかけで豪徳寺=招き猫、と刷り込まれたのか覚えていない。縁起をまとめてみると;昔このお寺は貧乏寺であった。和尚は乏しい食を割いて猫にあたえる。が、愚痴もでるようで、曰く「これほど面倒見ているのだから、たまには恩返ししてよ」。ある日、門前騒がしい。お武家が。曰く「鷹狩から戻る途中、白猫が手招きする。なにごとがと寺に入った」。和尚、中に招き入れ、法話など。にわかに雨、そして門前に落雷。武家曰く「我、彦根城主井伊直孝なり。落雷よりの命拾い、そして、ありがたき法談に感謝」。この寺、井伊家の菩提寺となり、一大伽藍の寺となる。これも幸運招来の猫のゆえ、と。
世田谷城址
豪徳寺を出て東に。前方に豊かな緑の小高い丘。これはなんだ?高さのある土塁、櫓台と深い空堀、それも二重の堀がしっかり残っている。これって石神井散歩のときに訪れた石神井城と同じつくり。入口に案内板。世田谷城址であった。
この城、南北朝期の中頃に、足利氏の同族である吉良氏が築城したと言われる。本家筋の三河吉良氏(吉良上野介の流れ)は「足利幕府に世継ぎがない場合は吉良氏より」といわれるほどの名門。上野国に下向した武蔵吉良氏も関東公方に仕え、関東管領上杉氏に次ぐ名門。
14世紀中盤に吉良治家が鎌倉公方・足利基氏よりこの地を拝領。世田谷城に居住する。 治家の子・成高は太田道灌と同盟し、長尾景春の乱に呼応し兵を挙げた豊嶋氏に対して道灌とともに戦い、江戸城を防衛。道灌から「吉良殿様」と呼ばれ、また「従四位下」という高い官位のゆえに、「世田谷御所」と通称された。
戦国時代は小田原北条氏に属し、世田谷城は北条氏直轄となる。吉良氏は蒔田(横浜市南区東洋英和女学院の敷地)に移り「蒔田氏」と称する。 小田原の役の後、世田谷城は廃城。吉良氏は秀吉により領地没収。が、江戸期には高家「蒔田氏」を名乗り旗本となった。
世田谷線上町駅
世田谷城址を出て、城山通りを下る。城山通りの由来は、この世田谷城から。南に下り、世田谷線上町駅に。途中に烏山川緑道の案内。気にはなったのだが、先を急ぐ、ということで駅前に。世田谷通り脇に地域の見どころ案内が。緑道、というか川筋に目が行く。蛇崩川緑道、そして、さっきの烏山川緑道の案内。
蛇崩川緑道のメモ;蛇崩川(じゃくずれがわ)は馬事公苑の近くを源流に持ち、弦巻から上馬に。上馬5丁目の小泉公園のあたりから緑道に。駒留陸橋で環七と交差。世田谷警察署近くで国道246号と交差。下馬を越え、世田谷公園の南、蛇崩交差点近くに。
あとは上目黒を越え、東急東横線と交差し、東横線にそって中目黒駅に続き、駅近くで目黒川に注ぎ込む。5~6kmの川。赤土を崩して蛇行していたため、この名がついたと言われている、と。
烏山川緑道のメモ;烏山川は井の頭線久我山の南、烏山寺町の高源寺あたりが源流。北烏山寺町通り中央高速と交差。南烏山3丁目で甲州街道と交差。芦花公園・世田谷文学館あたりを通り、船橋7丁目の希望丘公園から緑道となる。
経堂駅西で小田急と交差。蛇行し宮の坂から環七を若林駅北で交差。三宿池尻で北沢川緑道と合流、目黒川となる。世田谷区船橋7町目から三宿三丁目あたりまでの緑は道6.9キロ。どちらの川筋も結構面白そう。次回はこれらの道を歩いてみよう。
烏山川緑道
で、この烏山川緑道、結構迂回はするが、次の目的地の松蔭神社の近くに続いている。ということで、少し戻り、烏山川緑道に。暗渠の上の遊歩道。道との交差。昔の橋のあたりに必ず案内板。このくらいガイドがあればわたしのようなずぼらな散歩者には大助かり。
適当に進み、国士舘大学の裏を越えたあたりで若林公園右のサイン。松蔭神社はこの公園の隣。公園を抜けていくことに。異常なほどの家族連れ。??松蔭神社がお祭りであった。
松蔭神社
松蔭神社の隣に明治の元老桂太郎のお墓。門下生ではないが松蔭を慕っており、遺言で松蔭の近くに眠るべし、と。松蔭神社。安政の大獄に連座し伝馬町の獄中にて憤死した吉田松陰をまつる。時世の句;「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留めおかまし大和魂」。千住小塚原に埋められた松蔭と頼喜三郎のなきがらを高杉晋作、伊藤俊介(のちの伊藤博文)が長州藩の抱え屋敷(藩が私的に持っていた屋敷のこと)のあったこの地に運び改葬。明治にはいり松蔭神社が建立され現在に至る。
神社内には松下村塾を模した家屋が。お祭りでもあり、時代装束を着た今風の若者がお客さんと写真を撮っていた。これも愛嬌でありました。それにしても安政の大獄を仕掛けた井伊直弼と、仕掛けられた吉田松陰が1キロも離れていない場所で眠るのは、歴史の皮肉か。
三軒茶屋
松蔭神社を出て商店街を南に。世田谷線松蔭神社前を越え、松蔭神社入口の交差点で世田谷通りを左折、一路三軒茶屋に向う。1.5キロの道のり。近くに北原白秋の旧宅があったようだ(若林3丁目15)。が、見逃す。とはいうものの、人生27回引越しを繰り返したということだから、散歩につれいろんなところで顔を現すかも。実際先日、砧の散歩で旧宅があったなあ、と。
若林の交差点で環七を越え、太子堂4丁目から三軒茶屋。江戸時代、このあたりは交通の要所。お宮参りや行楽の人々のための3軒の茶屋があったことからこの名がついたという。246号線を南側に渡り昭和女子大に到着。本日の予定終了。
今回のメモをするために地形図をつくって、いやはや世田谷って、世田の「谷」であることを実感。普通の地図ではこの地形の「うねり」はわからないだろう。地形図をもとにまとめておく;
世田谷の大半は、西は仙川あたりの「国分寺崖線」、北を「甲州街道の尾根筋」に挟まれた南東に向って扇形に広がっている。甲州街道=玉川上水の尾根筋は世田谷北部の烏山川水系・北沢川水系と杉並南部の善福寺川水系の分水嶺でもある。
世田谷の地は武蔵野台地の南の端であり、複雑に入り組む尾根筋が特徴的。武蔵野台地の地下を流れる地下水が、おおよそ標高30メートルから40メートルのあたりで伏流水となって地上に現れ、各河川の源流となり、台地を削り複雑な谷筋や沢筋をつくっている。
水にまつわる地名が多いのはすでにメモしたとおり。こういった地形上に江戸末期までの古道が走る。甲州街道、滝坂道、品川道、大山道、登戸道、厚木街道。これらの街道は東西方向に尾根道を走る。
この地域の沢から流れ出す川筋、烏山川、北沢川などが西から東に向かっているわけだから、アップダウンを避け、さらには増水時の交通遮断を避けるためには自然の理だろう。この川筋を源流点から地形のうねりにそって目黒川まで下ってみよう。近々に。
世田谷の大半は、西は仙川あたりの「国分寺崖線」、北を「甲州街道の尾根筋」に挟まれた南東に向って扇形に広がっている。甲州街道=玉川上水の尾根筋は世田谷北部の烏山川水系・北沢川水系と杉並南部の善福寺川水系の分水嶺でもある。
世田谷の地は武蔵野台地の南の端であり、複雑に入り組む尾根筋が特徴的。武蔵野台地の地下を流れる地下水が、おおよそ標高30メートルから40メートルのあたりで伏流水となって地上に現れ、各河川の源流となり、台地を削り複雑な谷筋や沢筋をつくっている。
水にまつわる地名が多いのはすでにメモしたとおり。こういった地形上に江戸末期までの古道が走る。甲州街道、滝坂道、品川道、大山道、登戸道、厚木街道。これらの街道は東西方向に尾根道を走る。
この地域の沢から流れ出す川筋、烏山川、北沢川などが西から東に向かっているわけだから、アップダウンを避け、さらには増水時の交通遮断を避けるためには自然の理だろう。この川筋を源流点から地形のうねりにそって目黒川まで下ってみよう。近々に。
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