阿波 歩き遍路:第十二番札所 焼山寺から第十三番札所 大日寺へ その① 玉ヶ峠・県道21号ルート

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先回は十一番札所藤井寺から焼山寺道を十二番札所焼山寺まで歩き、散歩の段取り上、焼山寺バス停のある焼山寺山の山裾・岩鍋集落まで下った。

今回は岩鍋集落からメモを始める。おおよそのルートは岩鍋集落を走る県道43号から直ぐに道を逸れ、玉ヶ峠に向かう。峠の標高は450mほどだが、岩鍋の集落の標高は230mほどではあるので、おおよそ200m強の比高差を上ることになる。距離はおおよそ2キロ。
玉ヶ峠からは緩やかな下り道をおおよそ6キロほど歩き県道20号に下り、そこから鮎喰川左岸に沿って4キロ強歩き、広野で鮎喰川右岸に渡り県道21号に乗り換える。そこから県道21号にそって十三番札所までおよそ7.5キロ歩くことになる。
玉ヶ峠道が少し険しいが、その後は特段にキツイところはない。おおよその距離は20キロといったところである。焼山寺から歩くとしてもおおよそ25キロほどといったところだろう。
途中、広野で大日寺奥の院・建治寺経由の遍路道があった。このメモは次回に廻し、今回は広野から鮎喰川右岸を進む県道21号ルートをメモする。


本日のルート;
玉ヶ峠道
玉ヶ峠への遍路道分岐に標石>21丁石>中尾多七標石>23丁石>24丁石>里道に合流>玉ヶ峠への取りつき口>中尾多七標石>31丁石>32丁石と中尾多七標石>遍路墓>35丁石>車道に合流>玉ヶ峠
玉ヶ峠から県道20号へ
宮分集落の遍路小屋>宮分集落の舟形地蔵1>宮分集落の舟形地蔵2基>長代集落の70丁石>鏡石>阿弥陀堂>県道20号合流点に82丁石
県道20号合流点から県道21号・建治寺道分岐点へ
阿川橋>禅定寺>福原橋>駒坂峠>128丁石>潜水橋>県道20号に戻る>長瀬集落の2基標石>156丁石>阿野橋>建治寺道分岐点に標石
県道21号・建治寺道分岐点から県道21号を13番大日寺まで 標石2基
森林公園への道手前に標石2基>192丁石>196丁石>202丁石>大師茶屋と204丁石>船盡神社に2基標石>213丁石>お堂と標石>220丁石>エミの古木と標石>224丁石と奥の院標石>小堂内に標石>府中殿遺跡と232丁石>234丁石>半分埋まった標石>安都真橋手前のお堂に丁石2基>13番大日寺


玉ヶ峠道


玉ヶ峠道

 先回の散歩では十二番札所・焼山寺から下り、焼山寺バス停のある岩鍋集落まで歩いた。今回はその焼山寺バス停からメモを始める。
お遍路さんの中にはこの焼山寺バス停から県道43号を南に下り、神山町の家並みのところで国道438号に合流。少し東に進んだ後鮎喰川に沿って走る県道20号に乗り換えて大日寺を目指す方も多いと聞く。
今回のメモではこのルートをとらず、往昔の遍路道と言われる玉ヶ峠経由の道を歩く。両ルートの合流点である鮎喰川と広石谷川の合流する阿川橋あたりまでは、県道43・国道438・県道20号ルートでおおよそ11キロ。玉ヶ峠越えルートで10キロ弱。
玉ヶ峠ルートは歩く距離は少し短いが玉ヶ峠越えをしなければいけない。多くの記事では玉ヶ峠越えを「難所」と記すものも多いが、実際歩くとそれほどでもない。取り付き口から峠までは比高差150m、おおよそ30分の上り。ちょっとツライかもしれないが、玉ヶ峠への上りの後、「天空の遍路道」などといった記事もある玉ヶ峠経由の遍路道も、体力に少し余裕があればいいかとも思う。

玉ヶ峠への遍路道分岐点に3基の標石;午前8時29分
岩鍋集落の焼山寺バス停から県道43号を50mほど南に歩く。道の右手に3基の標石が立つ。そこが玉ヶ峠ルートへの遍路道分岐点。
右端の標石には「「右十三ばん江 四里十五丁 明治三十六」、真ん中の標石は「す久 へんろみち 明治三十七」、左端の標石には「へんろ道」と刻まれる。左端の標石は昭和37年かから中尾多七氏、高田金二氏達によって立てられたもの。ここでは以下、便宜的に「中尾多七標石」と呼ぶことにする。
3基の標石のあるところから県道43号を左にそれ、沢に架けた鉄板を渡り山道に入る。
中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と。

21丁石・中尾多七標石
数分歩くと「二十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時32分)がある。
そこから5分、今度は「へんろ道」と共に、両端矢印の線が刻まれた「中尾多七標石」。文字や線の部分が色付けされている。見やすくなってはいるが、実用性としての存在価値が大きくはない現在、はてさて。

23丁石・24丁石
数分歩くと「二十三丁」、更に数分で上部が欠けた舟形地蔵。「二十三丁」と刻まれる。この丁数は焼山寺からの距離を示しているようだ。



里と丁
過日佐野から雲辺寺への遍路道を上ったとき、上り口には雲辺寺4kmとあり、その先の丁石には48丁とあった。1丁は109mであり、計算するとおおよそ5.5kmとなる。4㎞では間尺が合わない。
あれこれチェックすると、「みちのりは、あハととさ八(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。

里道に合流:午前8時44分
遍路道分岐から15分ほど歩くと道は開け、一旦里に出る。民家が点在する。舗装された道は県道から続いていた。
舗装された道を数分進み道が左右に分かれるところで右の道をとる(午前8時46分)。舗装された道が続く。


玉ヶ峠への取り付き口;午前8時55分
10分弱進むと、道の右手に標石があり「上方の車道まで六百米、建治寺経由大日寺まで19.7粁」と刻まれる。遍路道はここで舗装道を逸れ右へと山道に入る。ここから玉ヶ峠まで比高差150mほどを上ることになる。






中尾多七標石・31丁石
登り始めて10分、中尾多七標石が立つ(午前9時5分)。さらに5分で「三十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時10分)。





中尾多七標石と32丁石・遍路墓
その先、数分で2基の標石。1基は両端矢印と「へんろ道」の文字が刻まれる中尾多七標石(午前9時13分)。もう一基は「三十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。
更に数分歩くと遍路墓。天保十三年の銘がある(午前9時16分)。



車道に出る:午前9時25分
5分ほど歩くと、遍路道の右手、少し奥まったところに35丁石(午前9時21分)。そこから5分弱で車道に出る。玉ヶ峠取り付き口からおおよそ30分であった。
車道は県道43号から右に分かれ、玉ヶ峠から府中、宮分などの山麓の集落を結び、そこから南の鮎喰川筋、北の広石谷筋へと降りている

玉ヶ峠;午前9時29分(標高450m強)
車道を右に進むとほどなく切通しにあたる。切通しに「中尾多七標石」が立つ。ここが玉ヶ峠。切通し故に「堀切峠」とも呼ばれる。
切通しを抜けると、右手にお堂。一宿庵との記事も見かけた。
お堂と切通しの間に徳右衛門道標。「是より一の宮迄四里」と刻まれる。徳右衛門道標の特徴である梵字と大師座像は風雪に晒され摩耗していた。
お堂の対面には石造物群。左端は木の覆屋に弥勒菩薩。青石板を屋根にした石の祠には大師座像が祀られる。石仏群左手に並ぶ3基の座像石仏の前に標石があるが摩耗激しく文字は読めない。

里数
上で国によって一里の距離数が異なっていたとメモした。試しにチェック。玉ヶ峠から一宮、大日寺までは19キロほどある。上述徳右衛門道標に「一の宮迄四里」とあるが、一里4キロでは16キロと少々短い。往昔阿波の1里5.2キロで計算すれば20.8キロ。一里5.2km とか5.5kmとも言われる阿波の里数距離の当否は別にしても、1里4キロは少し短すぎるようにも思える。

玉ヶ峠から県道20号へ


玉ヶ峠から先に進む。ルートははっきりしないのだが、地図をチェックすると山麓の宮分集落に遍路小屋があり、その先代集落に鏡石が記される。この2点を目安に進み、鮎喰川と広石谷川が合わさる辺りで県道43号に下りることにする。距離はおおよそ6キロ強。

府中集落
玉ヶ峠を離れ、道の右手に常夜灯を見ると府中の集落に出る。点在する民家を見遣り道なりに進む。途中いくか分岐があるが、基本「東に向かって下って行く」ことにした。府中の集落の道脇に舟形丁石があるとの記事もあるが、見つけることはできなかった。
遍路道からの眺めは、いい。

宮分集落の遍路小屋
舗装された道を進む。鮎喰川の谷筋の遠景がなかなか、いい。谷筋との比高差は200mほどなのだが、連なる山々に囲まれた谷筋故か、実際より深い谷筋のように思える。「天空の遍路道」といった記事も見かけた。同様の景観は伊予最後の札所、65番三角寺の奥の院からの復路が記憶に残る。
緩やかに高度を200m弱下げた宮分集落に遍路小屋があった。遠景を楽しみながら少し休憩。

宮分集落の丁石2基
遍路小屋を離れ少し進むと道の右手に上部が破損した舟形地蔵。その直ぐ先にも舟形地蔵が続く。共に摩耗が激しく丁数は読めない。





長代集落の70丁石
ゆるゆると高度を下げ長代の集落に向かう。西に広がる遠景、谷筋と幾重にも連なる深い山並みが美しい。しばらく進むと道の左手に舟形地蔵。「七十丁」らしき文字が刻ま



鏡石
70丁石から少し進むと道脇に「鏡石」ときざまれた石柱。辺りにはそれらしきものは見当たらない。と、車道から逸れて谷筋へと下る道がある。特段の案内はないのだけれど、道を50mほど下りるお堂が見えた。

お堂には石造大師座像。鏡大師と称されるよう。台座に文化七年と刻まれる。で、鏡石って何処?と、お堂傍の杉の巨木下に岩があり、2基の舟形地蔵なども祀られる。これが鏡石らしい。2基の舟形地蔵は丁石であり、それぞれ「七十四丁」「七十互丁」と刻まれる。
かつての遍路道はこの先に続くのだろうか?谷筋に沿って走る県道20号との比高差も50mほどだし、迷ってもそえほど危険ではなさそうでありここから直接先に進もうとしたが、通行止めの案内もあり断念。車道に戻る。

県道20号合流点に82丁石
鮎喰川に沿って進む県道20号にむかってゆっくりと高度を50mほど下げ、鮎喰川に広石谷川が合わる手前で遍路道は県道43号に合流する。その合流点に「八十二丁」と刻まれた舟形地蔵が立つ。
橋の手前の県道右手には地神さま、左手の法面上に阿弥陀堂がある。
鮎喰川
なんとなく名前に惹かれる。文字通りに読めば、「鮎を食べる>鮎の多い川」ではあろうが、そのような川はいくらでもあるわけで、由来は?鮎をたくさん産した故との解説もあるが、鮎喰は脚咋(あしくい)とも書かれ「日本書紀」に鷲住王、のちの脚咋別の居住地であったことにもよる。といった記事もあった。
なんだか面白そう。チェックする。『阿波誌』には「鮎喰川 源名西郡上山村普戸野に出づ又北渓北より入り左右渓南より入る阿川、広野、入田及本郡一宮、名東、岩延等を経高崎に至り芳野河に入る長さ7里評り或いは曰く郡に鮎喰祠あり因って名づくと」あり、鮎喰川の由来は鮎喰祠から、とする。
で、その鮎喰祠は「鮎喰祠 亦荘村に在り」とある。荘村は現在の庄町。その庄町に接して鮎喰町もある。鮎喰祠があったのは徳島線鮎喰駅の南の徳島市鮎喰町にあったのだろう。 その鮎喰祠が祀るのが鷲住王(わしすみのおおきみ)。で、鷲住王は脚咋別(あしくいわけ;あくいわけ)・讃岐国造の始祖とされる、とする。鮎喰の地が阿波の国府の近くにあるのも、それらしくて、いい。
何だか三題噺のようでもあるが、鮎喰が脚咋に由来するとの説もストーリーとしては違和感がない。どちらが正しいのか門外漢にはわからないが、脚咋>鮎喰のほうが面白そう。 因みに「別」とは朝廷から地方豪族に賜る称号。主に皇系のものが多いようだ。また、讃岐国造の件(くだり)だが、讃岐を歩いていたとき讃岐国造の祖として神櫛王がしばしば登場した。神櫛王と鷲住王の関係は?あれこれの解説があるようだが、本題から離れてしまいそうであり、思考停止。


県道20号合流点から県道21号・建治寺道分岐点へ

阿川橋を渡る
広石谷川に架かる阿川橋を渡る。県道を少し進むと禅定寺があり、その道筋には標石が残る。このルートも遍路道だが、橋を渡ると直ぐ鮎喰川に架かる福原橋を渡るのがショートカットルート。橋もない昔にそれほどお遍路さんが歩いたとも思えないが、途中ちょっとした峠もあるようだ。今回は禅定寺にちょっと立ち寄り、あたりの標石を確認した後、福原橋を渡るショートカットルートを歩く。

禅定寺
寺柱に「真言宗御室派 善光寺阿波出張所」とある。阿波善光寺とも称されるようだ。寺柱の横に徳右衛門道標。「是より一ノ宮迄三里」とある。朱塗りの仁王様が並ぶ仁王門手前に「百六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。
「天神山」の山号の見える仁王門を潜り本堂にお参り。
縁起によれば、「慶安元年(1648)」に中興す。真言を修む。京都仁和寺末、本尊阿弥陀如来は行基の作なり。現今、信濃國善光寺如来の出張所たり」と記されています。 真言宗御室派に属し、弘法大師の教えと共に、善光寺との深い繋がりのある古刹で、「阿波善光寺」として信仰され、親しまれています」、といった記事もあった。
で、出張所って何?チェックすると「録所」とある。「録所」とは僧侶の登録・住持の任免と言った人事を統括するところといった記述があった。








県道20号・井ノ谷集落に標石
福原橋を渡ることなく県道20号を進むと、禅定寺を越えて少し、井ノ谷集落の県道より少し奥まったところに舟形地蔵があった。摩耗して文字は読めないが、井ノ谷集落に107、109丁石があるとの記録がある。そのどちらかなのだろう。






福原橋
禅定寺から県道を少し戻り鮎喰川に架かる福原橋を渡り福原の集落に入る。この遍路道は大きく蛇行した鮎喰川を直線にショートカットする遍路道。







駒坂峠
道を進むと鮎喰川蛇行部に突き出した支尾根が行く手を阻む。比高差50mほどの上りとなる。上り切ったところに「駒坂峠」と記された木標があった。




潜水橋を渡り県道20号に戻る
峠からはジグザグの下り道。途中に「焼山寺ヨリ百廿八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。坂を下り切ると川にコンクリートの潜水橋。橋を渡り県道20号に戻る。



長瀬集落に117・118丁石が並ぶ
長瀬集落まで進むと民家の前に2基の舟形地蔵と自然石。舟形地蔵は百十七丁」「百十八丁」と刻まれる、と言う。自然石もなんらか「意味」ありげではあるが、よくわからない。 丁数117、118丁とメモしたが、この数字では間尺に合わない。歩き終えた駒坂峠道に既に128丁石があったわけであり、どこからか移されたものだろう。

広野五反地バス停対面の丁石(156丁)
少し進み、広野五反地バス停の対面、石垣に四角いコンクリート枠に舟形地蔵がある。「百五十六丁」と刻まれている。




阿野橋
その直ぐ先で遍路道は阿野橋を渡り、鮎喰橋右岸に廻る。記録には阿野橋傍に破損した徳右衛門道標があるとのことだが見当たらない。橋をよく見ると新しく付け替えられており、その脇に古い橋が中央部だけ切り取られて両岸に残る。道標はこの新しい橋の建設に際し取り除かれたのだろうか。
県道20号は橋を渡ることなく鮎喰川左岸を進むが、遍路道は橋を渡り県道21号となった道を進むことになる。

建治寺道分岐
県道21号を少し進み、左手に広野小学校がある。その道の反対側に「四国十三番奥の院 十八丁」と刻まれた標石が立つ。伊藤萬蔵寄進のこの標石は十三番札所大日寺の奥の院である建治寺道への遍路道。
何となく惹かれる遍路道。この遍路道は翌日に廻し本日は県道21号を十三番札所大日寺へ向かうことにする。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。


県道21号・建治寺道分岐点から県道21号を13番大日寺まで

森林公園に上る道の手前に丁石2基
蛇行する鮎喰川に沿って県道21号を進む。南馬喰草、白嶽の集落を越え森林公園に上る道の手前、方子口の集落に2基の標石。1基には「百九十一丁」と刻まれる。もうひとつには「百*丁」といった文字が読める
青石板碑
広野小学校辺りから鮎喰川に架かる吊り橋「広野橋」を渡ったところに青石板碑がある。石造供養塔である板碑は徳島県には1500から2000基残るとのこと。その数も埼玉。東京、宮城、群馬、大分に次いで全国第六位。分布も吉野川流域の石井町、鮎喰川流域お神山町に多く残るとのことである。
青石とは緑泥片岩のこと。徳島には石井町など良質の青石産地があると言う。



192丁石
その先直ぐ、行者野橋の手前、道の右手、5mほどある法面上に舟形地蔵丁石があった。県道整備の際にでも移されたのだろう。




196・202丁石

行者野橋を越えると舟形地蔵丁石。真ん中から折れている。「百九十六丁石のようだ。その先、道の右手に「二百二丁」の地蔵丁石があった。
行者野
行者野の地名の由来は?十二番札所焼山寺が修験の霊地であったため、この地で禊をして入山したから、との記事がある。ちょっと距離が遠すぎる。焼山寺まで行かなくても、十三番札所大寺の奥の院の建治寺も修験の寺のよう。次回メモするが、建治寺を訪れたとき、修験の儀式らしきものを行っていた。
また、この地の対岸、標高350mの稜線上に行者堂が地図に見える。これだ、と思ったのだが、住所は吉野川市鴨島町であり、分水界を別にしており、ちょっと違和感。この辺りに行者野という地名もあるわけで、建治寺との関連で捉えたほうがわかりやすいと思うのだが、さてどうだろう。

大師茶屋と204丁石
先に進むと県道の左手に2mほどの岩と地蔵が見える。青石には「大師茶屋」と刻まれている。遍路茶屋でもあったのだろうか。その青石台座右端に舟形地蔵が立つ。「二百四丁」と刻まれた丁石であった。
青石左手には2基の石仏が並ぶ。県道を背にしているのは県道改修前の遍路道はもっと川寄りであったということだろうか。それとも暴れ川を鎮めるため?石仏は比較的新しいが台座には「寛延三」といった文字が刻まれているとのこと。

船盡神社に2基標石
ほどなく道の左手に大樹とこじんまりした鳥居が見える。鳥居には「船盡比売神社(ふなはてひめじんじゃ)」とある。ムクの巨木の根元に2基の舟形地蔵。そのうち2基が標石。「二百五丁」「焼山寺 是ヨリ一宮江一里」といった文字が刻まれる。笠形の庚申塔も立つ。
ささやかな社の脇に由緒。「主祭神は船盡比売命。式外社の古社で、「日本三代実録」では872年(貞観14年)に正六位上の船盡比売命に従五位下を加えたと記されている。俗に歯の辻神社と称えられ、歯痛を治す神として箸を納める風習がある。
近代の神仏分離に際し、対岸の歯の辻や高瀬下の神社統合があったが、二本木や行者野は南岸のため台風や川の増水時には渡ることができず参拝できず、遥拝所として残した」といった案内があった。
岐(ふなと)信仰
門外漢にはなんのことかさっぱりわからない。チェックする。鮎喰川の対岸に歯の辻神社が地図にある。この社は対岸の歯の辻神社の遥拝所であるという説明はわかった。 歯の辻神社ももとは羽の辻明神と称されたようであり、歯の霊験故に羽>歯と転化したようだ。
それはともあれ、歯の辻神社と船盡神社の関係は?歯の辻神社は船盡神社とも称される、とある。船盡神社って何?案内に「「日本三代実録」では872年(貞観14年)に正六位上の船盡比売命に従五位下を加えた」とあったが、これは京の都で天変地異が起こったため、それを鎮めるべく丹後と阿波の社に祀られる神を格上げしたということのようだ。その阿波の神が船盡比売命でありその神を祀るのが船盡神社であったよう。

何故丹後と阿波の神が選定されたかは不明だが、妄想を逞しくする。船盡神社は「おふなとさん」と称される。これは阿波に多く残る「岐(ふなと)信仰」から来るとの記事がある。その岐信仰は「来名戸(くなと)信仰」からの転化。「来名戸」は「来名戸祖先神(くなとさえの神)がそのベース。「くなと」は戸(家)に来るのを拒否する、の意。さえの神とは塞(さえ)の神。塞神とは疫病などが村々に侵入するのを防ぐ道祖伸。とすれば、疫病や天変地異から村々を護る船盡比売命を都を護る神として格上げした、ということか。単なる妄想。根拠なし。
因みに岐神を祀る祠はこの神山町だけでも700を越えるようであり、道祖伸としての岐神は阿波を特徴付けるものとされる。

213・215丁石
東西へと進路を変えた県道を東に進むとコンクリート壁面に四角に切り込みがあり、その中に舟形地蔵。「二百十三丁」と刻まれる。その先、道の右手にコンクリート造りの小堂があり、お堂の外に「*十五丁」と読める舟形地蔵。「二百十五丁」だろう。

天の原バス停の石仏群と標石
徳島刑務所への道を越えると、セメント設置台上に「二百二十丁」。その先、「天の原バス停」。道の北側にエノミの古木が3本。その傍に寛文十二年銘の庚申塔などの石造物があり、そこに標石2基。「二百十八丁」「二百二十一丁」。
ここには「建治寺新道 右折」の案内もある。地図を見ると、「天の原バス停」少し西から建治寺へと上る車道が見えるが、この地を右折するとその車道に合流する。

奥の院碑石
道の右手、「二百廿四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石の先に、大きな石碑。「四国十三番奥院建治瀧 登山道是より 大正五年建立」とある。建治寺経由の遍路道はここに下りてくることになるのだろう。
道を少し入ったところにお堂があり、その傍には笠形庚申塔や石仏が集まる。中には225、226丁石もあるようだが、文字を読むことはできなかった。



府中殿遺跡碑と標石
奥の院碑石から直ぐ、道から入田小学乞校の校庭方向に少し入ったところに小堂があり、そこに地蔵が祀られる。一石に彫られた六地蔵は珍しい。その横に舟形地蔵。丁石のようだが文字は読めない。
道を少し進むと右手に「府中殿遺跡」と刻まれた石柱と石造物。「二百三十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石と舟形庚申塔、そして地神さまらしき石祠もある。 「府中殿遺跡」はあれこれチェックするもヒットせず。

234丁石・角柱標石
道の左手、民家の生垣前に「二百三十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。その直ぐ先、同じく道の左手には半分埋まった角柱標石。手印と共に「是より一* 文政」といった文字が刻まれる。一宮を案内しているのだろう。



安都真橋手前の地蔵堂に丁石

南谷川に架かる安都真橋手前、道の右手に地蔵堂があり、その中に丁石2基。「二百三十六丁」「二百三十八丁」と刻まれる。
ここから県道20号を道なりに進み第十三番札所大日寺に着く。







第十三番札所大日寺

県道20号より10段ほどの石段を上り境内に。左手に本堂、右手に大師堂が向かい合う。 大栗山(おおぐりざん)、花蔵院(けぞういん)。真言宗大覚寺派、本尊は十一面観音。 大日寺の本尊が大日如来ではなく十一面観音?
Wikipediaには「寺伝によれば、弘仁6年(815年)に空海がこの付近にある「大師が森」で護摩修行をしていると大日如来が現れてこの地が霊地であるから一寺を建立せよと告げた。そこでその大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置し「大日寺」と称したという。
その後、伝承では平安時代末期に、阿波一宮が神山町の上一宮大粟神社にあるのでは不便ということで当地に分詞され阿波一宮神社が造られると当寺はその別当寺となったが、南北朝時代に、当神社の東の144.3mの山の頂近くに一宮城が造られ、その城主であった一宮氏が当神社を深く崇敬し大宮司を兼ねる関係であったため、その後の天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって一帯がすべて焼失し一宮氏は没落したが、江戸時代初期、徳島藩3代藩主になった蜂須賀光隆も当神社を崇敬し、当神社と当寺を再建した。

また、いつの頃か、当神社が札所になると当寺は納経所として、「本尊大日如来 一宮大明神 大栗山大日寺」と記帳するようになり、一宮寺とも呼ばれるようになっていた。
明治初期の神仏分離によって、当神社の本地仏であった行基作といわれる十一面観音を当寺の本堂に本尊として移され、それまでの本尊大日如来は向かって右の厨子に秘仏の脇仏とされ、当寺は神社の別当ではなくなった」とある。
要は、大日寺は往昔の札所であった一宮神社の納経所として大日如来を祀ってはいたが、神仏分離で一宮神社と分かれた際、神社の本尊であった十一面観音を当寺に移し本尊とした、ということのようである。
なお、上述上一宮大栗神社は鮎喰川上流、国道438号から県道20号が分かれる神山町の行政中心地近くにある。12番札所からおおよそ10キロほどのところである。
一宮神社
県道を隔てて一宮神社。境内は大日寺より大きい。かつての札所と納経所の関係を表すようにも思える。
朱塗りの鳥居を潜り本殿にお参り。祭神は大宣都比売命(おおげつひめのみこと)。大宣都比売命は、Wikipediaに「『古事記』に、まず伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて、一身四面の神である伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として「大宜都比売」の名前が表れる」とある、日本神話に登場する女神である。

これで今回のメモを終える。次回は道の途中で見かけた大日寺の奥の院である建治寺経由の遍路道をメモする。


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