青梅街道 柳沢峠越え そのⅠ:奥多摩湖から丹波山村へ

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元職場の監査役、今や悠々自適の御老公より青梅街道柳沢越えのお誘い。東海道鈴鹿峠越え碓井峠越え中山道和田峠越えの露払いの御伴をした我が身としては諾と頷くのみ。日程は1泊2日。共に奥多摩駅から「奥多摩むかし道」を奥多摩湖まで歩き終えているので、初日のスタート地点は奥多摩湖とし、そこから歩き始め丹波山村までおおよそ20キロ。2日目は丹波山村から柳沢峠を越えて山梨県甲州市(旧塩山市)の裂石までおおよそ30キロといったもの。

ルートは基本、国道411号を辿るものであり、多摩川や奥多摩の山々の景観はいいとしても、少々単調な国道歩きではあろう。が、ご一緒した理由は御老公のお誘いということもさることながら、そのほかに三つほどある。第一の理由は、中世の甲州街道を辿る散歩の穴埋めのため。今までの散歩で、五日市の檜原村(ひのはらむら)から浅間尾根を数馬の近くまで辿り、そこからスポッと飛ばし、小菅村から大菩薩峠を越えて裂石までは歩いている。で、そのスポッと抜けたところのうち、浅間尾根から風張峠を越えて小河内に下りるのはそれなりに心躍るルートではあるが、小河内から小菅村まで味気ない国道を歩くことには、今一つ気乗りしなかった。歩きたいのは小河内から小菅村であり丹波山村ではないのだが、途中までは同じルートであるので、いつの日か残りの道筋を小菅村まで歩けばいいだろう、との思いである。
もうひとつの理由は、大菩薩峠を辿った時、大菩薩嶺の結構近くに「黒川金山跡」があることを知り、そのうち訪れたいと思っていた。今回歩く青梅街道沿いに、黒川金山ゆかりの地も点在する。また、黒川金山へのアプローチ道の一つである黒川谷を「掠る」ルートであることにも惹かれた。
そして第三の理由は、これも前々から訪れてみたいと思っている多摩川の源流点である笠取山の水干(みずひ)へのアプローチも青梅街道の丹波山村から辿れるということ。水干へと辿る散歩の事前準備としてはいい機会であろう、と。
といったあれこれの想いを抱き待ち合わせの地である奥多摩線・氷川駅に向かった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

参考図書;

 多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』 『奥多摩風土記:大館勇吉(有峰書店新社) 』 『多摩の山と水(下);高橋源一郎(八潮書房) 』 『青梅街道:中西慶爾(木耳社) 』 『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』



本日のルート;奥多摩駅・氷川>水根バス停>多摩川第一発電所>小河内ダム(奥多摩湖)>原集落・熱海>鶴の湯温泉の源泉>女の湯トンネル>峰谷川との合流点>麦山浮橋>小河内神社>浄光院>深山橋>小留浦の太子堂舞台>鴨沢>お祭り>後山川林道>丹波山村の中心地

奥多摩駅・氷川
JR青梅線に乗り白丸駅を越え奥多摩駅に。往昔、川の合流するところが物資の集散地であり、そこに集落ができることが多いが、この地もその伝に漏れず、奥多摩川と日原川が合流するところ。そこに氷川の集落ができあがった。 現在ではJRは氷川トンネル、道路は多摩川に沿って数馬隧道や新氷川トンネルを通り、白丸からあっと言う間に氷川の町に到着する。が、江戸時代に「数馬の切通し」が開削されるまでは、白丸から氷川への往来は、白丸の西の渓谷を遮り山上はるか上まで続く大岩塊を乗り越えるべく、白丸からゴンザス尾根へと這い上がり、その鞍部、標高770mあたりで尾根を越え、今度は逆落としの如く氷川集落の裏山へと下る根岩越えと称される道しかなかった。 数馬の切通しが開削され川沿いの道が開かれたが、断崖の岩壁を削り取った険路であり、人ひとり通るのが精一杯。とても牛馬の往来できるような道ではなかった、と。当時の氷川の物資の往来は、白丸への青梅筋ではなく、南の小河内峠、風張峠を越え浅間尾根を辿り秋川筋の五日市、さらに南に笹尾根を越えて上野原方面との交流が主流であったようである。
それでも、数馬の切通しができたことにより、氷川と青梅筋の交流も少し容易となり、結果、数馬の切り通しのできる前後で氷川集落の家屋個数が200戸から300戸に増えた、との記録が残る。白丸から氷川に車が通れるようになったのは大正期に数馬に隧道が開削されてからである。


水根バス停;午前9時55分
奥多摩駅から奥多摩湖まではバスに乗り水根バス停に。バスは駅前の2番乗り場から出る鴨沢西、丹波、留浦、峰谷、奥多摩湖であればどれに乗っても水根バス停まで行ける。水根バス停までバスを利用する理由は、御老公も私も共に奥多摩から奥多摩湖までは「奥多摩むかし道」を辿っており、今回の散歩のスタートは奥多摩湖からとしたためである。
氷川を出たバスは日原川に架かる氷川大橋を渡り多摩川左岸を進むが、南氷川大橋で右岸に渡り登計地区を進み、弁天橋で左岸に渡り直す。そして、すぐさま笹平橋で右岸に進み、琴浦橋でまたまた左岸に渡り、檜村橋で右岸に渡るとすぐさま橋詰トンネルを抜け、境橋を左岸に渡ると白髭トンネル。ここから多摩湖までは多摩川左岸を桃ヶ沢トンネル、中山トンネルと抜けて水根バス停に向かう。
メモをすればルートは多摩川を右へ左へと忙しいが、地図をみれば極力直線になるように道をつけている感じがする。川には橋を架け、山塊部はトンネルを穿ち、建設技術で力任せに道を通しているのだろう。道は昭和初年から随時改修したもので、中でも橋詰以西は昭和13年(1038)から小河内ダム建設資材用に建設されたもののようである。橋詰トンネルの竣工は昭和26年(1951)、白髭トンネルは昭和25年(1950)、中山トンネルが昭和27年(1952)頃とのことだが戦時中一時中断されていた小河内ダムの再会が昭和24年(1949)、ダム竣工が昭和32年(1957)であるので辻褄が合う。昭和20年(1945)からは一般にも通行が開放された。
○奥多摩むかし道
川には橋を架け、山塊にはトンネルを通した道路と対照的に、「奥多摩むかし道」として残るかつての青梅街道は、多摩川の左岸だけを現在の国道を上となり下となりながら自然に逆らわず続く。 この「奥多摩むかし道」が造られたのは明治32年(1899)のこと。それまでの氷川から小河内までの険しい道筋を、この山腹を通る道へと改修された。距離も三里半から二里半に短縮され、氷川・小河内の往来が容易となり、東京と山梨を結ぶ重要な道筋となった、とか。「むかし道」はそれ以降も改修が繰り返され、大正から昭和のはじめになって、現在のような姿となった。とはいえ、アップダウンの激しい山道であることには変わりない。
数年前、「奥多摩むかし道」を歩いた時、小河内ダム建設のための鉄道路線である「水根貨物線」の廃線跡を見た。大雑把に言って「奥多摩むかし道」の北を通るこの廃線は23の橋と23のトンネルがあった、とのこと。「むかし道」の歩き直しとともに、廃線跡をたどってみたいと思う。

多摩川第一発電所
小河内ダムの堰堤直下に発電所。いつだったか青梅筋の鳩ノ巣渓谷を辿ったとき、白丸ダムと白丸発電所に出合ったが、共に東京都交通局の管轄する電気事業であった。何故に交通局と好奇心に駆られチェックしたところ、昭和7年(1932)、当時の東京市水道局は水道需要に応えるため小河内ダム建設を計画。その計画を受け、東京市電気局は軌道事業(電車)だけでなく、市が必要とする電力の供給事業を計画。
戦前のあれこれの経緯は省くとして、戦後になり都は発電事業を開始。所管は電気局が組織を変更し、新たにできた交通局が担当することになった。電気局は、戦時の電力事業の国家統制もあり、発電事業を廃止し軌道部門だけとなったため、交通局と改名していたためである。
ここでつくられた電気は交通局の送電線を経由して、おおよそ6キロ下流にある東京電力氷川発電所(平成19年に東電の100%子会社である東京発電に譲渡されているので、正確には東京発電氷川発電所と言うべきか。)に送られている、と。
また、多摩川第一発電所の水褥池にたまった水は大半が多摩川に放水されるが、一部は5.3キロの隧道水路を通り100m強の水圧鉄管を一気に下り氷川発電所に落ちる。Google MAPをみていると、水圧鉄管の伸びる山中に如何にも人工的な池が見える。これって氷川発電所の調整池だろうか。

小河内ダム(奥多摩湖)
国道411号をそのまま進めば、大麦代(おおむぎしろ)トンネル(昭和32年;1957年竣工)に入る。大麦代の地名の由来は不詳。京都などに「麦代餅(むぎてもち)」といった餅があるが、もともとは農作業の時の間食としてのお菓子。麦代餅(むぎてもち)二個分と、麦五合分が物々交換された、というので、この辺りに何か麦と代える(交換)産物でもあったのだろう、か。道を西に向かったところに麦山集落がある故の妄想。根拠は、何もなし。
国道を離れ湖畔の「奥多摩水と緑のふれあい館」のある広場へと向かう。「奥多摩水と緑のふれあい館」は以前訪れたことがあるので今回はパス。湖畔でダム湖を眺める。満々と水を湛えるダム湖とは程遠く、満水時の時には水に沈むであろう地肌が露出されており渇水気味ではあるが、このダム湖は東京都民の水瓶。
いまでこそ、東京都民の水源は利根川・荒川水系にその水量の80%を頼り、多摩川水系の比率は18%程度とはなっているが(その他相模川水系1.8%,地下水0.2%)、昭和6年(1931)、当時の東京市がその市民の水資源確保と計画したのがこの小河内ダムである。昭和6年(1931)に計画が発表されてから昭和32年(1957)のダムの竣工まで、結構時間がかかっている。その間の紆余曲折をまとめておく。
○ダム建設の経緯
当時の東京市は大正末期より東京市民の水源確保のための候補地を検討。昭和6年(1931)には昔の三田郷である原・河内・河野・留浦の4部落からなる当時の小河内村を候補に選定。ダムはこの4村に丹波村、小菅村を加える大規模なものであるが、ダム建設により水没する小河内村の村民は反対を表明。が、当時の村長である小沢市平氏、は「天子さまの御用水」第一と村民を説得し、無条件で了承し、昭和7年(1932)、東京市議会はダム建設を可決した。
土地買収がはじまろうとした昭和8年(1933)、「二ヶ領用水」を巡り神奈川県と水利紛争が発生。元禄時代に起工され、神奈川県の稲毛で多摩川から取水する「二ヶ領用水」の用水組合が多摩川の水利権をもっており、その組合が反対しダム建設計画は頓挫。その上、当初ダム建設地とされていた「女ヶ湯」の地が地質上不可ということで、ダム建設地が2キロ下流の「水根沢」に変更された。 このダブルの不手際に村民は抗議。白紙還元の動きも出る。工事の頓挫で土地移転の補償費が入らない村民は困窮。小沢村長は村の荒廃を防ぐべく奔走するも状況は好転せず、昭和10年(1935)には、堪忍の限度を超えた村民が蜂起。「蓆旗竹槍は多摩の伝統 猪突猛進は世代廼衣鉢」と小沢村長を先頭に村民が東京に直談判へと向かう。官憲は氷川大橋を阻止線とし、村民は奥氷川神社に押し込められ、代表が東京へ強談判に向かう。
この強談判が功を奏したのか、のらりくらりの官僚の態度が変化し、問題が次々解決されてゆく。そして昭和11年(1936)2月26日には「二ヶ領用水組合」との和解成立。この日は期しくも二・二六事件の日。また、当時の東京都知事は「二ヶ領用水組合」問題が紛糾したときの神奈川県の横山知事であった(昭和10年(1935)、東京都知事に)。
昭和12年(1937)に買収地価公表。あまりの低い買収地価のため騒動が起こるも、当時の官主導社会故に村民は泣き寝入り。昭和13年(1938)には妥結。八ヶ岳山麓など他の地への移転者には少額ながら更生資金が用意された。
昭和13年(1938)11月に地鎮祭。しかし戦局の悪化により昭和18年(1943)工事中止。戦後の昭和24年(1949)工事再開され昭和32年(1957)ダム竣工。奥多摩湖(小河内貯水池)は東京都民と神奈川県の一部に一定の水を安定的に供給するのが大前提であるため、ダム湖はその余水を貯蔵することになる。そのため湖が水に満たされるには結構日数がかかり、奥多摩湖が全容を表したのは昭和40年(1965)のことである。
現在奥多摩湖に貯水された水は、多摩川第一発電所に落とされ、その水褥池にたまった水は大半(一部は上でメモした氷川発電所に)が多摩川に放水され、約34キロ下流にある小作取水堰と、約36キロ下流にある羽村取水堰で水道原水として取水される。取水された原水は、自然流下により村山・山口貯水池、玉川上水路などを経て、東村山・境の各浄水場へ、導水ポンプにより小作浄水場へ送られる。また、東村山浄水場から原水連絡管により朝霞・三園の各浄水場へも送ることが可能となっている。「二ヶ領用水」は灌漑用水の重要性は当時とは異なるだろうが、現在でも取水堰があり、そこから取水されている。

原集落・熱海;10時26分
湖畔に沿って道を進むと、大麦代トンネルを出た国道411号に合流。先に進むと熱海トンネルが見えてくる。「あたみ」と読む。「熱海」はこのあたりの小字だろうか、「日当たりがよく、あったかいところ」の意味。トンネル左手に旧道らしき道があるので進むが、坂を上ってゆく。旧道というより、原集落へと続く道のようであった。原は「岩山や急傾斜地の下部のゆるやかな傾斜地」のことである。
原集落の奥まったところに「温泉神社」。今は湖底に沈んだ小河内温泉・鶴の湯(旧原村、現在の大字原の湯場)の湯壺の傍にあったものを移したもの。当時は湯屋権現、湯の権現とも、宝暦13年(1763)には熊野三社権現とも称されたようであるが、明治3年(1870)に温泉神社と改名された。
御神体は円形の懸け鏡開き。延文6年(1361)原讃岐守が勧請。境内には「懸仏碑」。表は亀田鵬斎の撰文による「武州多摩郡小河内温泉の碑」。鶴が傷を癒しているのをみて発見したという鶴の湯の縁起諏と、周辺の景色や温泉の歴史が刻まれている、と。裏は酒井抱一の「千代よばふ鶴の出温泉や夏しらず」の句。
亀田鵬斎は江戸時代の化政文化期(19世紀初頭)の儒学者で書家、跳ねるような独特の書体で知られる。酒井抱一は江戸座流の俳人。光琳風の画をよくし俳人画家として化政時代に一斉を風靡した。

○小河内温泉
シカの湯、ムシの湯、ツルの湯の三つの源泉からなる小河内温泉は、傷ついた鶴がこの湯に浸って癒った、といったその縁起もあり、江戸期、寛文年間(1661?1673)の頃より知られるようになり、青梅・氷川の青梅筋から、また、檜原村から小河内峠を越えてくる秋川筋から、そして甲州から大菩薩を越えてくる人で賑わうようになる。
また、江戸時代には江戸から亀田鵬斎、酒井抱一、十返舎一九といった文人墨客が訪ねるようになる。幕末に林鶴梁、真田謙山。明治には田山花袋、北原白秋などもこの地を訪れている。温泉の経営にあたったのは奥多摩の有力者、この地17村のうちの6村の名主を務めた原嶋一族であるので、旦那として文人墨客との交誼を重ねたのか、とも。
『写真集 多摩川は語る;三田鶴吉監修(けやき出版)』には昭和13年(1938)の小河内温泉の写真があった。多摩川の流れにそって民家が軒を連ねる。今は湖底にあるこの景観に想いをはせる。

鶴の湯温泉の源泉;午前11時5分
原集落から国道411号へと道を下り、国道に沿って進むと「室沢トンネル」。昭和33年(1958)竣工のトンネルの左手に旧道への道筋が残るが足場がよくないようであり、多摩湖にスリップは勘弁ということで、トンネルを進む。
「室沢トンネル」を抜けるとすぐに「鶴の湯トンネル」。昭和33年(1958)竣工。トンネルを抜けると道脇に「鶴の湯温泉の源泉」があった。源泉とは言いながら、湯はまったく出ていない。源泉の流れを受け止めていた石枡(?)の脇に、「無償での一般提供はできなくなった」との旨の案内があった。
「無償での一般提供はできなくなった」との案内は、それはそれとして、温泉源泉とはいいながら、周囲にそれらしき温泉施設はなにもない。ちょっと気になりチェックする;昭和32年(1957)、奥多摩湖の完成によって水没する「鶴の湯温泉」の源泉は東京都によってこの地に揚水できるよう措置が施されていた。が、源泉所有者と水没が決まった後に新たに源泉を開発した業者との間で源泉利用の話し合いがつかず、利用できないままになっていた。
平成3年(1991)には地元の強い要請もあり、地元団体が源泉の権利を取得し復活。源泉施設と配湯基地をつかい、地域の施設にタンクローリーで配湯されている、とのこと。一般への無料配湯は停止されたようだが、いくつかの施設で温泉を購入できるとのことである。タンクローリーとは少々無粋、とは言うものの、昔の小河内温泉も湯壺からお湯を汲みリヤカーで宿に運んでいたというから、同じようなもの、か。

女の湯トンネル
「鶴の湯温泉の源泉」のすぐ先に「女の湯トンネル」。昭和33年(1958)の竣工。上でメモしたように、小河内ダムは当初、この「女の湯」辺りに建設が計画されたようであるが、地質上建設困難ということで、現在の水根沢の辺りに変更された。当初の計画のままでダムが建設されれば小河内温泉は残ったかもしれない。それよりなにより、水没対象外であった原集落、河内集落の人たちの人生設計は一変、大きく変わることになったことではあろう。

峰谷川との合流点:午前11時18分
「女の湯トンネル」の先には「あずまいトンネル」。竣工昭和33年(1958)のこのトンネルの表記は少々混乱。白看板には「あずまいトンネル」、トンネルの扁額には「あづまいトンネル」、バス停は「あずまい」。はてさて。次いで「坂本トンネル」出ると峰谷川が奥多摩湖に注ぐ谷筋に出る。
峰谷川は別名「苧(を)川」とも。苧とは「カラムシ」のこと。その植物から取った繊維で麻をつくるわけだが、その「カラムシ」がこの沢に多くあった、とのことである。
峰谷川を遡ると臨済宗建長寺派の金鳳山普門寺がある。もとは河内地区にあったがダムによる水没のため、この地に移築。この寺の開基の頃の住職は結構禅林の領袖といった人物が目につく。第一世は後に建長寺37世となっているし、第二世は明の人。南禅寺、真如寺、建長寺で力を発揮、第五世も建長寺119世となっている。この僻地に何故に高僧?それに、氷川や古里の寺院が海禅寺を中心とした曹洞宗であるが、小河内の寺院は臨済宗とも言われる。
チェックすると、臨済宗の寺院は秋川筋の五日市方面に多い、と言う。武蔵五日市の光厳寺も足利尊氏の創建とも伝わる。このことからも、往昔の小河内は青梅筋ではなく、秋川筋の五日市との結びつきが強かったことも伺える。また、現在では奥多摩は東京の僻地であるが、鎌倉・室町期には現在の東京都心部など影も形もない一面の葦原である。一方、奥多摩は、と言えば、日原にある鍾乳洞は、一石山大権現とも称されるように、一帯のお山全体を大日如来の浄土とする中世以来の一大霊場であった。この日原から仙元峠を越えて秩父の浦山に抜ける信仰の道は人の往来が盛んであった、と言う。奥多摩の氷川や小河内って、このような信仰だけでなく、甲斐との攻防戦の最前線としても、現在の地政上の位置づけとは比較にならないほど重要な地であったのあろう。

麦山浮橋
峰谷川と奥多摩湖の合流点に架かる峰谷橋を渡り、青梅街道を離れ小河内神社に寄り道。峰から流れる峯谷川は、多摩川に入る前に蛇行し山を深く削り多摩川に合流していたが、ダム湖となった今もその姿を残す。峰谷川の細く深く削られた蛇行は、そのまま太くなって蛇行した湖となり、両河川に挟まれた山が湖上に岬となって突き出ている。

小河内神社にむかう途中、「麦山浮橋」の案内があった。「奥多摩湖には麦山(220m)と留浦(210m)の2ヵ所に浮橋がかかっている。ダム建設に伴い水没した対岸との通行路の代替として設置。現在はプラスティック,発泡スチロール製の浮子を使用。以前はドラム缶が浮子に使用されていた。このことから通称、ドラム缶橋と呼ばれている」と。
湖を見るに、それらしき浮橋は対岸に繋がれてはいない。その一部らしきものが、小河内神社のある半島の岸辺に無造作に浮かんでいる。ダム湖の水量が少ない時には対岸に繋がれない、とか。

小河内神社;午前11時40分
小河内神社はその岬の真ん中、小高い山頂にある。坂を上りお参り。神社は新しい。水没した全地域の神社を合祀し新しく建て直されたためではあろうが、中でも旧河内村にあった金御岳神社が中軸神であり、天照大神と安閑天皇の二柱を祀る。鎌倉期に勧請されたものであるが、寛文8年(1668)には金峰山権現、維新前は金御岳蔵王権現。明治5年(1872)に金御岳神社と称された。 因みに河内とは「川や沢の合流点」のこと。川内、河内、河合、川合、河井、川井、川相、落合、川又、川俣、川股、川真田などと表記される。また、小河内の「小(お)」は「麻」の意味と。そう言えば、最近散歩した阿波の忌部一族、麻の生産で知られるその本拠地を「麻殖(植)郡(おえぐん)」と表記していた。

浄光院;午前12時30分
小河内神社を離れ、国道411号を西に麦山地区を抜ける。オレンジ色の麦山橋を越えると「川野トンネル」が見えてくる。昭和33年(1958)竣工のこのトンネルは東京都最西端のトンネル。トンネル左手に旧道らしき道筋があるので、トンネルを迂回する。道は坂になり、上り切ったあたりに浄光院。小河内のお寺の例に漏れず、このお寺様も臨済宗。お寺の隣には川野生活館が併設される。川野に残る「説教浄瑠璃車人形」がここで上演される、とか。明治初年からはじまったもので、ロクロ車を使いひとりで人形を操るのが特徴、と。
お寺の前にある幾多の石仏、これも湖底に沈む村から移されたものではあろうが、石仏にお参りしながら迂回道を下り国道411号に戻る。今回見逃したのだが、川野トンネルの少し北に「箭弓神社」がある。この神社も小菅川と多摩川が合流する辺りにあったものを移したものだが、この神社には小菅に居を構えた武田方の武将・小菅遠江守にまつわる逸話がある。
小菅村は武田方の最前線。今は湖底に沈むが、かつて多摩川と小菅川が合流する少し東に武田と敵対する北条方の杉田重長の館があった。また、その対岸には一旦事あるときに小河内衆が立て籠もる城山もあった、と言う。小菅の小菅遠江守、こともあろうに、この敵方の本拠地・川野の地の女性に惚れてしまい、女性に会うために通うところを察知され、箭弓神社の辺りにおいて弓で射殺された、とか。付近には末期の井戸もあった、と言う。河内部落のはずれに小菅遠江守の墓もあったと伝わる。もっとも、この伝説とは異なる話もあり、真偽のほどは定かならず。

深山橋;午後12時45分
少し進むと深山橋。この橋を渡ると小菅村へと道は続く。この小菅川に沿って小菅に進む道筋は中世の甲州街道。道は府中からはじまり日野に進み、日野からは谷地川に沿って南北加住丘陵の間の滝山街道を石川、宮下と北上し、戸吹 で秋川丘陵の尾根道に入る。尾根道を辿った後は網代で秋川筋に下り、五日市の戸倉から檜原街道を西進。檜原からは浅間尾根を辿り風張峠辺りから青梅筋の小河内に下り、小菅村、または丹波村から牛尾根に上り大菩薩を越え塩山に抜ける。日野から浅間峠までと、小菅から大菩薩を越えて塩山までは歩いた。残るのは浅間尾根から小河内へと下り、小河内から小菅まで。今回の青梅街道散歩はその事前準備として、土地勘を得るといった思いもあっての歩きでもある。小菅村までが真近に見えてきた。

留浦
深山橋を左に見ながら国道411号を進むと「小留浦」とか「留浦」といった集落を通る。「トズラ」「コトズラ」と読む。「トズラ」の原語は「ツツラ」。藤蔓類植物で、筏を編む材料として使われていた。それが転じて材木、水運に関する要衝の地を指すことも

小留浦の太子堂舞台;午後12時55分
道を少し進むと道の上に太子堂。もとは多摩川の川傍にあったものをこの地に移した。間口5間、奥行き4間。元は茅葺き。今はトタン。板敷きの床上に小さな鉄車をつけた木枠を置き中央に鉄心棒。その上に二重舞台を載せる。これを中心に、陰の5、6名が押して廻すとのことである。奥多摩線・古里駅の北傍の小丹波熊野神社の楼門に舞台があり、江戸から戦前にかけて農村歌舞伎が上演されたとの
ことだが、この太子堂舞台も江戸時代後期から明治にかけて、農村歌舞伎や地芝居がさかんにおこなわれたとのことである。

鴨沢;午後13時19分
先に進むと小袖川に架かる鴨沢橋に。ライトブルーのこの橋が東京と山梨の境。橋を渡ると山梨県北都留群郡丹波山村となる。小袖川とは「帯のような細長い川」と言う意味であろう、か。それとも、小袖川を遡上した石尾根にある「七ツ石山」には平将門を祀る七つ石神社があり、将門が七つの石に化したとの伝説があり、小袖は将門の小袖を指すとの説もある。将門伝説はともあれ、鴨沢は「登り尾根」から七ツ石山に上り、小雲取山をへて東京都で最高峰の雲取山(標高2017m)への登山・下山口のひとつである。
鴨沢の地名は明治6年(1873)村社となった加茂神社から。鴨沢は数軒の開拓民からはじまり、日当りもよく地味も肥え、瀬もあり、淵もあり、小滝もあり、平坦地もあった集落であったが、今はすべて水の底である。

「お祭り」集落;午後14時10分
鴨沢橋の標高は520m。ダムサイトと同じ程度の標高だが、本日の目的地である丹波山村の中心部の上組、中組、下組地区の標高は630?650mであるから、9キロほどをゆっくりと上っていくことになる。鴨沢の集落から9キロの間に、鴨沢、所畑、保之瀬(ほうのせ)、押垣外(おしがいと)、高尾、下組、中組、上組、奥秋の大字。その下の小字には、お祭り、坂本、親川、山上、小袖、杉奈久保、高畑、落滝など、それぞれ数件の集落が続く。奥多摩駅から上組のバス停までおおよそ23キロである。
所畑を越えると「お祭り」の集落。所畑の地名の由来は不詳だが、「お祭り」という愉快な地名はダム湖に沈む前の集落の傍に呑竜さまの社があり、そのお祭りが盛んであったことから名づけられた、とか(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』)。道を進むに高く組まれた石垣が印象的な集落であった。

後山川林道;午後14時16分
「お祭り」集落を越えると300mほどで後山川林道が北に分岐。この林道は雲取山への登・下山口のひとつである。道脇には「林道後山線起点」「青岩谷鍾乳洞」の道標。林道に沿って流れる後山川の瀬渓谷は丹波渓谷、一ノ瀬渓谷とともに紅葉の名所で知られる。弟から雲取山登山のお誘いがあるのだが、秩父の三峰神社からのルートとともに、奥多摩川からのルートもいくつもあるようだ。林道を辿り切ったあたりにある三条の湯、水無尾根を経て雲取山まで歩くのもそのひとつ。昭和40年(1965)頃には林道に車が入れるようになったようである。
後山川林道のすぐ先で後山川が丹波川に合流する。後山川に親川橋が架かる。多摩本流は親川、後山川は小川(こかわ)とも呼ばれ、橋は小川(後山川)を跨ぐが親川橋、と。橋を渡れば「丹波山村大字保之瀬」。「ホウノセ」と読む。「保」は中国から渡来した隣組制度のこと。隣接する5から10戸で構成され、租・庸・調の連帯責任を負う。日本では平安時代に取り入れられ、中世を通じて存在した所領単位のことであり、後に小集落の呼称となったとのことの、よう(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』)。
○杣保
「保」に関して、ついでの話。奥多摩のことを「杣保」と称する。「武州杣保長渕村羽村とあれば、其辺より西は往古すべて杣保なるべし」、と。奥多摩線沿線、小河内、留浦、鴨沢までを杣保と呼ぶようである。室町に三田氏が登場して以降は三田領のことを指す。「杣」とは通常「杣山」と称され、全国に散在するが、その意味は「古代より木材・石材などの山林資源、特産資源を国衙や大社寺に供給する地」を指す(『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』)。この地も古くは杣山と呼ばれたものが、所領地の意をより強めるために「杣保」となったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
これまたついでのことながら、「奥多摩」という呼称がはじめて使われたのは昭和2年(1927)のこと、という。それまでは「多摩川入り」とか「丹波川入り」などと言ってこの地を訪ねたようである。因みに、「杣保」については、平将門(相馬小次郎)の後衛と称した三田氏故のことだろうか、「相馬」保から、との説もある。杣保を支配した永禄6年(1563)、北条氏によりと辛垣城で滅ぶ。

丹波川
多摩川は小菅川との合流部より上流は丹波川と呼ばれる。後山川の親川橋を境に、丹波山村も地域のまとまり感が異なるようである。奥多摩は北条と武田の最前線の地。甲武国境であったが、保之瀬を境に地域意識が異なるのは、三田氏が、このあたりまで勢を張った名残、かも。実際、杉奈久保になると「武田の家臣の末裔と称する人が住むとのことである。


丹波山村の中心地;午後14時41分
道は曲折を重ねて高度を増やす。落滝集落の下で右から突出する大きな山塊を回り込むと川底に押垣外や高尾といった保之瀬の集落が見える。高尾、押垣外は黒川金山から出た家が多い、とか。押垣外は「忍谷(おしがいと)」とも。丹波川が右に大きくカーブを切り、すぐに左にまわりこんで見えなくなる、ことが地名の由来とか。対岸に高尾集落を見やりながら進むと本日の宿泊地である丹波山村の中心地に到着する。

○昔の丹波山・氷川往来
本日の散歩は、国道411号を辿るだけの少々味気ない散歩ではあったが、小河内から丹波山村の中心地まで歩いたこの国道の原型は明治20年(1887)頃。この地に青梅街道が開かれ、その道に改修を加え現在の姿になったものであろう。 明治20年(1887)以前の道筋は、現在の国道筋とは異なるルートを通る。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によると、昔の道は丹波宿から現在の役場あたりで右岸に渡り、高雄、押垣外をへて左山を高巻きし、保之瀬下の手前に下る。左岸に渡り返し、落滝に上る。1時間はかかる。
落滝から刀指、トヤクボ(鳥屋窪)、高畑(丹波天平の尾根筋の東禄麓。後山川の西)と山上の部落を通り、親川集落に下る。お祭、所畑から上って杉奈久保(後山川の東)の東を通り、尾根筋を小袖に抜け、鴨沢に下り、小河内に出た。車道は8キロだが、山上の巻き道は倍の距離。高差300mのアップダウンで1日がかりであった。丹波山村は誠に僻地であった。現在過疎の山上の部落は当時の街道筋であった。
『玉川泝源日記』には「(親川)橋を渡りて、親川山の九十九折を登りて、親川の一ツ家という茅屋あり」「よじ登るほどに、左は谷川屈曲して、ほそく見下ろし、岸はさがしく聳えたり。半道ばかり登りて峠に至る」「山陰の高畑に家ありと云う」峠からくだって「朴の瀬村と云、家数二十六軒」「岨のかけ路をのぼりつ、くだりつ、行く程にまた左の方の谷の向ひ岸に家々見渡される。押垣外という。家数十四軒あり」「猶、ゆくゆく、又、谷川の向こうに高尾村、家数二十五軒。そのさき?道よりようやく丹波川をおびて丹波村の家々あまた見渡さる」と描く。
単調なる国道歩きなどとのお気楽なコメントを少々反省し、5時間弱、おおよそ20キロの初日の散歩を終える。

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