高縄半島北端部の来島村上氏の城砦群を巡る旅も、回を重ねて四回目。今までほとんど馴染みのなかった今治市の波止浜、波方地区を彷徨い、来島村上氏の城砦群を20か所以上訪ねることができた。御大雑把に言って、残すは現在松山市となっている北条地区にある鹿島城、日高城、恵良山城といったところである。
北条は結構遠い。日高城、恵良山城は山城であり、ルートやアプローチをちょっとは調べる必要もあり、とりあえず今回は、何も前もって調べる必要もない鹿島城を訪ねることにした。
鹿島城に行くことは決めたのだが、これだけでは行き帰りの手間を考えれば、ちょっと勿体ない。途中どこか寄るところはないものかと少し考える。そう言えば、高縄半島の散歩の割には、半島のシンボルでもある高縄山には訪れていない。高縄山には来島村上氏の主家でもある河野氏の祈願所・高縄寺もある、と言う。
ということで、来島村上氏の城砦群と言うわけではないが、河野氏ゆかりの地であれば、関係なくもない、と思い聞かせ、今回は鹿島城と高縄寺を訪ねることにした。
来島村上氏ゆかりの城砦群
●波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
●波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
塔の峰
●大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
●梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
●岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
●波方駅の周辺
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
●北条地区
鹿島城>日高城
本日のルート;国道317号>県道178号>石ヶ峠>河野川源流点>高縄寺山門>高縄寺本堂・大師堂>高縄山>鹿島城跡
石ヶ峠
新居浜を出るとき、ナビで高縄寺を入れる。行けるところまで車で進み、そこら先は歩けばいいと思っていたのだが、予想と異なり、高縄寺まで車で行けそうである。とは言うものの、山道は狭いだろうな、との怖れ。
国道11号から国道196号、予讃線伊予富田駅の手前で県道155号に乗り換え、北西に進み国道317号に。国道317号を進み、「水が峠」下をトンネルで抜け、石手川に沿って奥道後への国道を進み、「高縄山入口」を目安に県道178号で右に折れ、高縄山方面へと上る。道は舗装されてはいるが、基本一車線といった山道であり、対向車のないことを祈りながら車を進め石ヶ峠へに。
河野川源流点
峠には「左北条左 右高縄山」と示す標識がある。県道178号はこの峠から北条に向かって下るが、高縄寺にはこの峠で県道から離れ、高縄寺への道に入る。道は県道178より気持ち狭く、対向車の来ないことを祈りながら、少し車のスピードを速め先に進むと、最初の強烈なヘアピンカーブのところに「河野川源流」の案内。
ちょっと気になり車を停め、源流点を確認に。そこには小さな祠・河野水天宮が祀られていた。
●河野川
カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」を使い、地理院地図に「川だけ地図」をオーバーレイ(重ね合わせ)すると、川筋は石ヶ峠の少し西まで伸びており、源流点から「川だけ地図」の川筋跡までは、等高線の谷筋を結べば繋がった。
河野川の流れを辿ると、石ヶ峠から北条に向かう県道178号に沿って北条の風早平野へと下り、JR 予讃線・柳原駅の東を流れて瀬戸内に注ぐ。 河野川はその名前の通り、今から訪ねる高縄寺をその氏族の祈願所とした、伊予の豪族・河野氏の本貫地を流れる。河野氏の本貫地は河野川と、その南を流れる高山川に挟まれた山裾。山裾にある善応寺は河野氏の館跡とのことである。
駐車場
河野川源流を離れ、次に現れるヘアピンカーブを越えると誠に広い広場に出る。高縄寺の駐車場として使われているのだろう。広場の手前には道標があり、「高縄寺 0.3km 石ヶ峠 1.0km 立石・今治方面」との案内があった。この地から宝坂谷を下り、立岩川の谷筋を走る県道17号に続く道もあるようだ。
高縄寺山門
駐車場に車を停め、高縄寺に向かう。木立の中、左手に四阿(あずまや)を見遣りながら進むと、道が上下のふたつに別れる。分岐点には「高縄山頂 高縄寺 0.1km、石ヶ峠 1.2km」の道標があり、高縄山頂には上の道を、高縄寺は右に入る下の道を進むことになる。
高縄寺の案内を示す石柱から緩やかな坂を下ると、ほどなく山門に。昭和33年(1958)改築がなされた鐘楼門となっている。
●高縄寺の案内
山門脇に高縄寺の案内。「高縄寺 この高縄寺は、高縄山頂(標高986m)から東へ300m標高約900mに位置し、その昔、この地方を治めていた河野氏の戦勝祈願所となったところで、木造の「十一面千手観音立像」が安置され、八百年の歴史と共に残されている真言宗の名刹で、河野氏の菩提寺となっています。現在の建物は1767(明和4)年に再建されたものです。
寺の周辺には、本堂上手の「千手杉」のほか「七本杉」「大師名残の杉」などの老杉、巨樹があり、この寺の歴史を物語っています」とあった。
●「大原観山」の歌碑
山門左手に石碑がある。案内には「大原観山」の歌碑とあり、「遊高縄 越家百世舊金湯 今日空餘選佛場 姦骨忠魂同一夢 無人知道注連梁」と刻まれる。 案内に拠れば、
「遊高縄 越家百世舊金湯 今日空餘選佛場 姦骨忠魂同一夢 無人知道注連梁
大原観山(1818‐1875 文政5年‐明治8年)
本名 有恒。子規の外祖父に当たる。明教館の教授を務め、幕末期の松山藩の子弟教育に尽くした。
碑面にはないが、『大原観山遺稿集』には、「連梁は人名、其の君高箕を諫めて死す。高箕或いは高縄と称す。山の名は蓋し此れに由る。」と小さい字で注釈がある
。 「越家」とは、古代伊予の豪族「越智氏」で、後に河野氏が出て高縄山付近を領した。 俳句の里 松山市教育委員会」とある。
歌の意味は、「越智氏が長きにわたって治めた堅固な城(金湯=金城湯地)跡。今はむなしく寺が残るだけ。奸臣、忠臣のいずれもが同じ夢を見ただろうが、 連梁を知る人はもういない」。この場合の越智氏とは、河野氏のこと。河野氏がその祖を越智氏としたことを以て「越家」とした、ようである。
大原観山は江戸の昌平黌で学び、帰藩後松山藩にて地域の子弟教育に尽力。また、藩主にも仕える。高縄山に遊ぶこと一再ならず。この歌は春に訪れた時、河野氏の居城であった高縄山を偲ぶとともに、河野氏の栄枯盛衰の世の無常を綴っている、とのことである。
観山は正岡子規を大層可愛がった、と言う。が、大の西洋嫌いであり、一生髷を結い続けた。ために子規も小学校に入るまで髷を切ることを許されなかったようだが、子規の父親の願いを聞き入れ、不本意ながら断髪を許したとのこと。子規は観山を尊敬し「後来、学者となりて、翁の右に出でんと思へり。」と記している。
●子持杉
同じく山門手前には「子持杉」の案内があり、「谷底に鶯鳴くや峰の寺」と郷土俳人によって詠まれている。この高縄寺は、旧記によると天智天王の御世に、この地方の国造であった河野氏の祖、小千守興が横谷に創営したと言われている。その後、天文元年(1736)に河野通宣がこの高縄山に移したと記録されている。
さて、この寺の山門の右前に老杉があった。高さ30m根回り13.8mに及び、その枝張りが周囲を覆って幽すいの気を深めていたのである。樹齢は、約800年ともいわれ、樹幹の西側10mの高さにくぼみがあり、そこに若い杉苗が育ち、あたかも親杉が子杉を抱いて立つように見えるところから子持杉と呼ばれ高縄山の名物の一つであった。
昭和39年3月27日、市の天然記念物に指定されていたが、昭和45年8月の台風により被害甚大で伐採し古木の根の中心部に小苗(枯れる前にさし木したもの)を植え今日に至っている」とあった。
横の切り株が、その名残だろうか。
●小千守興
「小千守興が横谷に創営」とある。「小千」は越智のこと。「小千」「小市」「乎千」などとも記される伊予の古代豪族である。伊予では名族とされ、河野氏を含め越智氏をその祖とする氏族が多いが、元々在地豪族であったとする説、律令制施行に伴い国造として任ぜられた「物部大新河」の孫「小市国造小致」をその祖とする説、孝霊天皇の第三皇子伊予皇子の第三王子を祖とする説(信憑性に乏しい)など、あれこれあり、伊予といえば越智氏と言われるほどの名族にしては、わからないことが多いようである。
なお、「横谷」とは上でメモした河野氏の本貫地である、河野川が北条の風早平野から高縄山系に入った谷合の地にある。
本堂・大師堂
本堂、そして大師堂にお参り。寺は天文元年(1736)に河野家第35代当主・通宣がこの高縄山に移した、とある。寺は天正13年(1544)、四国平定を目する秀吉の先鋒として伊予に上陸した、毛利家の小早川軍との戦いにおいて焼失。明和年間(1764年から1771年)に再建され、江戸末期に改修された。
本尊は千手観音。Wikipediaに拠れば、小千守興が一寸八分の千手観音を勧請、行基がこの尊像を拝し、五尺余りの大像を彫刻して頭中に納め、さらに、弘法大師が巡錫の折、寺号を「高野山 髙縄寺」と改め、行基作の千手観音を安置した、といった豪華なラインアップの縁起を持つ。
●千手観音
案内には「千手観音 木造千手観音立像 一躯
愛媛県指定有形文化財(彫刻)
昭和55年3月21日指定
像高147センチメートル、台座高33センチメートル、重量50キログラムの檜の一木造。彫眼、頭髪、合掌手、宝鉢手を含め一木で彫成し、髻の上に2列10面の仏面を頂いている。
耳朶環(耳輪)、条帛(肩にかけた衣)、天衣(腕にかけた衣)をかけ、合掌・宝鉢以下42臂(腕)両足をそろえて直立する。
頭部の形、衣文の形態、両膝前の二重の天衣等像容は地方色が顕著である。 作者不祥であるが、平安時代藤原期の作とみられる。
昭和53(1978)年京都美術院で修理され持物を除いて原形に復しており、当時の面影をよく残している。 松山市 松山市教育委員会」とあった。
千手杉
境内を離れ、境内左手の山道を奥へ進むと、登ってすぐ左手に千手杉の案内。 「千手杉 一本 松山市指定天然記念物 平成二一年二月一〇日指定 このスギは、根本回り七メートル、幹回り五・四メートル、樹高三〇メートルで、幹の下部から上部までに多数の大枝が出ているが、その大多数は主幹に寄り添うように直立状または斜め上に伸びている。
下部の大枝は枯れているが、他の大枝や根元も空洞や腐食部は見られず健全である。スギの巨樹でこのような樹形をしているのは稀であり、貴重な存在である。
また、その樹形は、あたかも近くの河野氏ゆかりの高縄寺の本尊「十一面千手観音立像」に似ていることにも存在意義がある 松山市 松山市教育委員会」とあった。
高縄山の案内
高縄山頂への舗装された道を進むと道脇に「高縄山」の案内。
「高縄山 この高縄山は、標高986mの山で、昭和37年に奥道後玉川県立自然公園に指定されています。山頂付近は、温帯性の落葉高木であるブナの原生林が残され、動植物にとってたいへん快適な環境が保たれており、豊かな生態系を育んでいます。
この山系では、リス・イノシシ・タヌキ・ニホンジカ等の捕乳類や、600種を超える植物が見られるほか、昆虫類の宝庫でもあります。また、年間70種に余る鳥類が観察できる愛媛県の代表的な、探鳥地の一つです」と説明されていた。
●登山道・林道が合流
道を進むと山頂に向かう舗装道に右手から道が合流。折れるとすぐに北条の院内からの登山道、林道はそのまま先に続く。林道は立石川の谷筋にある猿川に下っているようだ。その途中に「七本杉」があるとのことで、結構下ったのだが、なかなか出合えず、途中で撤退した。
◆七本杉の案内
「七本杉 千手杉の北方約400mの山中にある。樹齢は推定500年といわれ目通り約9mで、根元内部は空洞となっている。地上2mで4本に分かれていて、内2本は裂け折れている。近くに、6.4m、3.3m、2.8mの大杉があり、北条市街から遠望すると稜線上に鋸歯のように見える」。
高縄山頂
山頂に上る舗装された道に戻り、道なりに進むと「高縄山」と書かれた平場にでる。平場の端からコンクリートの小径を上ると高縄山山頂。電波塔の施設の脇に「高縄山大権現」が祀られる。
鉄骨の階段を上り展望台に。瀬戸内や石鎚方面の展望を楽しむ。瀬戸内の展望台と言えば、糸山公園の展望台しかし知らなかったのだが、来島村上氏の城砦群を辿る一連の散歩を通して、高縄半島の各所に、瀬戸内や四国山地の大パノラマを楽しむことのできる場所があることを知ったのも、来島村上氏の城砦群巡りに伴う大きな収穫のひとつではあった。
河野氏について
愛媛に生まれた者として、河野氏のことは鎌倉から戦国時代の終わりにかけて、およそ400年、伊予に覇を唱えた武将であることは知っているのだが、詳しいことは何も知らない。道後の湯築城が河野氏ゆかりの城であることも、この散歩のメモで初めて知る、といった為体(ていたらく)である。
今回、来島村上氏の主家という理由だけで、河野氏の祈願所でもある高縄寺を訪ねたわけではあるが、いい機会でもあるので、「えひめの記憶」やWikipediaをもとに、河野氏の歴史をまとめておく。
河野氏について
●鎌倉以前
国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている
●鎌倉時代
◆河野通清(第22代);頼朝挙兵に呼応
源氏の棟梁、源頼朝が平氏打倒の兵をあげたとき、河野家当主・通清は頼朝挙兵に呼応し平氏に反旗を翻す。挙兵はこの高縄城であったとも言われる。
当時の西国は平氏方一辺倒であり、無謀とも言える決断である。源氏に与した要因としては、伊予で覇を争う土居氏が平氏の家人として平氏政権と強い絆を結んでおり、それに対抗するため、また、平氏による瀬戸内の制海権支配に対する不満などが挙げられる。
挙兵するも、当初は四面楚歌にて、戦局は圧倒的に不利。『東鑑』によれば、阿波の田口成良、備後の奴可(ぬか)入道西寂に「山の神古戦場」で敗れ、討死したと言われる。
「山の神古戦場」は先日、花遍路散歩で訪れた。その近くには百回忌にあたる弘安2(1279)年、通清の曾孫にあたる一遍上人(1239~1289)がこの地で供養を営み、建立して万霊塔が建っていた。
◆河野通信(第23代);源氏方として武功をたて東・中予に強い勢力を築く
通清の子。当初不利であった戦況も、源氏方の攻勢により伊予での雌伏の時から反攻に転じ、土居一族の高市氏を撃破。源氏の軍勢の一翼としても、壇の浦の海戦などで軍功をたてる。鎌倉幕府の開幕に際しては、頼朝に臣従を許された数少ない西国御家人のひとりとなり、奥州平定にも出陣する。
伊予への帰国に際し、通信は破格の待遇を得ることになる。それは、既に伊予の守護となっていた佐々木盛綱の支配を受けず、一族を率いることができるという許しを得たことである。
通信はこの特権を最大限に活用し、伊予の競合武将を圧倒し、13世紀には伊予の東予・中予に強い勢力を築き上げる。その直接の領地は所領五三箇所、公田六十余町に及んだと推測されている。
■承久の変と河野通信の反幕挙兵
頼朝が亡くなった後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が北条氏が支配する鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、河野通信は宮側に与する。幕府は伊予の反河野勢に命じ高縄城を攻めるも攻略叶わず、阿波・土佐・讃岐、さらに備後国の御家人の遠征軍の合力により高縄城は落城する。
幕府の恩顧にも反し、宮側に与した要因は、諸説あるも、一説には南予に勢力を伸ばそうとする河野氏の思惑があるとも説かれる。南予は守護勢力が抑えており、この乱を契機に南予支配を目した故、と言う。
◆承久の変後の河野氏の没落
戦に敗れた河野氏は、一族のうち、ひとり幕府方に与した五男・通久(第24代)の軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められたほかは、上記、河野氏の所領五三箇所、公田六十余町、一族一四九人の所領も幕府に没収され、河野氏はその勢を失う。通信は通久の働きに免じ平泉配流となるも、一族の大半は討ち死や斬首に処される。
貞応二年(1223)、通久は幕府に願い出て伊予国久米郡石井郷の領有を認められ、河野家は伊予国に戻る。その通久没後、河野家の家督は通久の弟である通継(第25代)が継承する。通継については家督相続を端に発する嫡庶の所領を巡る係争の他、見るべき事象が見当たらない。河野氏の衰退は続く。
●元寇と河野通有の活躍
その状況が大きく変わったのが「元寇」。通継のあと河野家の家督を継いだ通有(通久家を継いだ通久の甥;第26代当主)の弘安の役による武功により、河野氏は再び伊予での勢力を取り戻す。恩賞により与えられた領地は正確な記録は残らないが、九州の備前の地のほか、「かなり多い」と推測されている。
通有によって往時の勢を回復した河野氏であるが、通有没後、家督相続や嫡庶間の競合や対立により、一族間の抗争が激化。通有の後を継いだ通盛(第27代)の率いる惣領家と、土居通増や得能通綱らの率いる庶家とに分裂し、鎌倉末期から南北朝時代へと続く動乱のなかにまき込まれていくことになる。
●南北朝騒乱の時代
◆建武親政と河野一族の分裂
鎌倉後期、天皇親政を目指す後醍醐天皇により、北条鎌倉幕府の倒幕運動・元弘の乱(1333)が起こる。風早郡高縄山城(現北条市)に拠った河野宗家の通盛(第27代)は幕府側に与するも、一族の土居・得能氏は天皇側につき、河野一族は分裂。
天皇側に与した足利尊氏、新田義貞の力も大いに寄与し、結果は天皇側の勝利となり、天皇親政である建武の新政となる。鎌倉幕府は滅亡し、幕府に与した通盛は鎌倉に隠棲することになる。
◆足利尊氏の新政離反と河野通盛の復帰
建武の新政開始となるも、恩賞による武家方の冷遇などの世情を捉え、足利尊氏は新田義貞討伐を名目に天皇親政に反旗を翻す。世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、南北の内乱期に入ることになる。
この機をとらえ、鎌倉に隠棲中の通盛は尊氏に謁見し、その傘下に加わる。尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認し、伊予に戻った通盛は新田義貞に従軍中の土居・得能氏の不在もあり、伊予での勢力拡大を図る。
足利尊氏も一度は新田勢に大敗し、九州に逃れるも、天皇親政に不満を抱く武家をまとめ、京に上り宮方に勝利する。
尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認し、通盛は根拠地を河野郷から道後の湯築城に移して、足利方の中心勢力となる。
◆細川氏の侵攻と河野氏の宮側(南朝)への帰順
河野通盛の隠退のあとをうけて、惣領職を継承した通朝(第28代)が苦慮したのは、同じ武家方(北朝)の細川氏の動向である。はじめて資料を流し読みしたとき、何故に幕府の管領をも務める細川氏が、同じ武家方の河野氏を攻めるのか、さっぱりわからなかった。「えひめの記憶」を斜め読みすることなく読み込むと、細川氏の動向は、四国支配がその根底にある、といったことが見えてきた。
■細川氏の四国制覇の野望
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。
この記事にもあるように、通朝(第28代)は貞治3年(1363)、細川頼之の東予侵攻により今治の世田山城で敗死する。
◆河野通堯の南朝帰順
通朝の子・第29代の通堯も同様に細川氏の動向に苦慮。細川勢の手薄な時に攻勢をかけるも、細川勢の反撃に遭い立て籠もった高縄山城も落城し、恵良城に逃れる。この状況に「宮方」の在地豪族が支援の手を差し伸べ、「河野氏の安泰をはかるために、南朝に帰順するように勧誘した。すでに東予・中予の重要な拠点を占領した優勢な細川氏に対抗するためには、まず伊予国内における宮方・武家方の協力一致によって、陣容の整備をはかる必要がある(「えひめの記憶」)、と。
また「通堯にとって、武家方の勢力が潰滅した時であるから、従来ライバルであった土居・得能・忽那氏らをはじめとして宮方の兵力を利用する以外に、よい打開策はなかった(「えひめの記憶」)」とする。
こうして通堯は九州の宮方の征西府へ帰順。細川氏に対抗するため天皇方に与することになる。伊予に戻った通堯は河野氏恩顧の武将とともに武家方の勢力を中予から掃討することになる。
◆河野通堯の武家方復帰
武家方の管領として足利義満を補佐した細川頼之であるが、山名氏や斯波氏、土岐氏といった政敵のクーデター(康暦の政変)により管領職を失い、四国に落ちる。この中央政界の激変に際し、対細川対策として通堯は「宮方」から離れ、幕府に降伏し反細川派の諸将との接近をはかることになる。義満は通堯に対しあらためて伊予守護職に補任する旨の下文を与えた。
「えひめの記憶」に拠れば、「通堯が武家方に復帰した事情は、いちおう伊予国における失地回復に成功したこと、これまで利用した征西府、および伊予国の宮方の権勢が衰退して、昔日の姿を失ったこと、将来河野氏の政局安定をはかるためには、幕府の内部における反細川派の勢力と提携する必要があったことなどによると考えられる」とある。
北朝方から南朝帰順、そして再び北朝帰順と、対細川氏対策として16年に渡り、河野家の危機を防いだ通堯は、河野氏の旧勢力を回復し、その勢力は安定するかにと思われた。しかしながら、四国に下った細川頼之氏追討の命を受け進軍の途中、天授5年/康暦元年(1379年)、伊予の周桑郡で通堯は討死する。
◆細川氏との和議と河野氏の伊予守護職安堵
父通堯の戦死のあとをうけて、河野氏の家督を継承した嫡子(後の通義;第30代当主)は当時10歳。細川氏の攻勢を退けることは困難であり、また、細川氏の勢力が四国全域に拡大することを危惧した将軍足利義満は和議を斡旋。四国の守護職を分割し、讃岐・阿波・土佐三国を細川氏に、伊予(宇摩・新居の両郡を除く)を河野氏に与えて勢力均衡策をとった。
和議の背景は、頼之が再び管領となって上洛し、執政に多忙で領国を顧みる余裕のなかったことが挙げられる。これ以降、河野氏が伊予国守護職を相伝することになる。
●河野家内紛の火種
第30代当主・通義の逝去にともない、弟の通之(予州家の租)に家督が譲られ、義満からも伊予守護職に補任される。第31代当主となった通之であるが、通義の嫡子が湯築城で元服するとともに通之から家督、伊予守護職を譲られ、応永16年(1409)、第32代通久(当初は、持通)となる。しかしながら、このことが通久の家督相続に不満をもつ通之の嫡子・通元との対立の火種となる。
通久は、豊後の大内氏の内乱での反幕方の追討に出陣するも討死。河野家の家督は嫡子・教通(第33代)が継ぐが、惣領の座を狙う予州家の通元や、その嫡子通春との対立が深まる
●宗家・教通と予州家・通春の抗争
教通は室町時代の永享10年(1438)、鎌倉公方と関東管領の間で発生した戦乱に室町幕府6代将軍足利義教の命をうけ討伐軍として出陣、赤松氏が足利義教を暗殺した嘉吉の乱(嘉吉10年;1441)に赤松氏討伐軍として出陣するなど中央政界でも活躍。細川氏との和睦を保ちながら、伊予の守護大名の体制を整えていった。
この間も宗家と予州家の抗争が続く。Wikipediaによれば、予州家・通春には細川氏、宗家・教通には毛利の吉川、小早川氏が支援。文安6年(1449年)に予州家の通春(第34代当主)は伊予守護に就任するも、翌年に教通に交替。享徳2年(1453年)には、再び守護職に補任されるも、享徳4年(1455年)には細川勝元が伊予守護職に、といった混沌とした状況が続く。
通春は長禄3年(1459年)には3度目の伊予守護職に補任されるも、細川勝元と対立。伊予に侵攻した勝元の軍勢のため危機に陥るが、細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。
このような混乱の中、河野家の第34代当主となったのは予州家の通春とされる(Wikipediaでは)が、この頃の資料は無く、はっきりしたことはわからない。
◆応仁の乱後の宗家と予州家の抗争
第34代河野家当主・通春は、応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた河野宗家の教通が、細川勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職となり、伊予における基盤を固めてしまう。通春は、乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)には教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。
文明11年(1479年)、阿波から侵攻してきた細川勢に対しては、宗家・教通(通久と改名)と和睦し撃退。文明14年(1482年)は通春が病没した。予州家の家督は子の通元(通篤)が後を継ぐ。
通春没後もその子通元(通篤)と宗家の通直(教通の改名)・通宣の対立は続く。明応9年(1500)、通直(第33代・教通が改名)は湯築城(松山市)で没し、その子の通宣が家督を嗣ぎ第35代当主となる。その後も、20年ほど宗家・通宣と予州家・通篤との対立が続けられたが、通篤の勢力はしだいに衰退し、ついに敗れて防州宇部に去り、予州家は没落していった。
通春(予州家)と教通(河野宗家)の抗争は一応の終結をみるも、100年余りに渡る予州家と宗家の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因となった。
戦国時代
●第35代河野通宣;来島村上氏の台頭と毛利氏との同盟
長く続いた河野宗家(教通―通宣)と予州家(通春―通篤)との対立抗争は終わり、河野氏は宗家通宣(第35代)によって統率せられる時代となった。Wikipediaに拠れば、「通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。
重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。
しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、1568年に家督を一族の河野通直(伊予守)に譲って隠居し、1581年に死去した。ただし、近年の研究によるとその死は永禄13年(1570年)頃ではないかとも言われる」とある。
●第36代河野通直:来島村上氏を巻き込んだ家督騒動が勃発
通直(第36代)は通宣の嫡男、永正16年(1519)父の跡を受け、大いに家運の隆昌を図ろうとした。しかし鷹取山(今治市玉川)城主正岡経貞、府中石井山(近見山の別称)城主重見通種など国内の恩顧の武将の反意に苦慮することになる。ここに至り、河野家の重臣として来島村上氏が登場。重見勢討伐に勝利する。また、隣国からの侵攻も続き、讃岐の細川氏、防州大内氏など、内憂外患の状態であった、よう。
通直の晩年に河野家の相続争いが勃発する。通直には嗣子がなく、一族老臣らは評議して予州家の惣領通政(第37代)を迎えることを進言するも、通直はそれを聴かず、妾腹の娘の聟、来島城主村上通康を嗣子とし、湯築城に入れた。 老臣たちは、あくまでも通政を擁立し、通康を討ち通直を湯築城から追放の盟約を結び、通政を奉じて湯築城を囲んで、烈しく攻め立てた。
通直に従う者は少なく、通康の家臣のみで防戦するも、通康の居城である来島城に逃れ帰った。通政は諸将とともに、湯築城に入り、来島城攻略を命ずるも、堅固な要害の城を落とすこと叶わず和議となる。交渉の結果は、河野家惣領は通政とし、村上通康を家臣の列に下げる代わり河野姓と家紋の使用を許すという条件で和談が成立した。これによって通直・通康は湯築城に帰還して事件は落着した。
◆家督紛争は解決するも内憂外患が激化
通政(第37代)は性廉直で武備に長じ、上洛して将軍義晴から名を晴通と賜った。彼によって久しく欝屈していた河野氏の家運も開けるかに見えたが、その期待も空しく、天文12年(1543)四月に早逝した。
その跡は予州家から通政の弟通宣(第38代)が迎えられたが、幼少のため、しばらくは通直が後見として政務を見ることになった。これによって、家督の後継をめぐって続いた河野氏の混乱もやっと落ちつくかに見えた。
が、今度は久万山大除城の大野氏や久米郡の岩伽良城主和田通興など国内の対立抗争、さらに豊後大友氏やそれと結んだ土佐一条氏、同じく土佐の長宗我部元親が、しばしば南予の宇和・喜多両郡に侵入し、河野氏の領国を侵す状況に対応を迫られる。
●河野氏の滅亡
第39代河野通直;こうした危機に河野家を預かる病弱の通宣は責務に耐えられず、永禄11年(1568)に隠居し、跡は一族の野間郡高仙山城(越智郡菊間町種)主河野(池原)通吉の子、わずか五歳の牛福丸(通直;第39代)が継ぐ。Wikipediaに拠れば、「村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。 先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。
通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。
豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。
通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ」とある。
◆毛利氏と河野氏
記事に「毛利氏から援軍を得て」とあるが、これは来島村上氏の城砦群巡りでメモしたように、天文24年(1555)毛利氏と陶氏の厳島の合戦に、来島の村上通康らの伊予の水軍が毛利方として加勢し勝利に貢献したことを契機とし、村上三家は毛利から領地を得る。毛利氏は、村上三家の主筋にあたる河野氏との結びつきを強めるべく、毛利輝元の姪を第36代当主・河野通直に嫁すことになる。
南予における一条氏との鳥坂合戦に毛利氏の重臣である小早川が河野氏に与力し勝利に貢献。毛利の出兵は「来島の恩かえし」と呼ばれるが、厳島合戦の支援の恩をここで返す、ということであろう。
◆秀吉の四国平定と来島村上氏
秀吉の四国平定において、村上三家のうち、来島村上氏のみが豊臣方として動く。来島村上氏は、秀吉の四国平定以前、未だ毛利氏と織田氏が対立していた頃、秀吉の誘いに応じ来島村上氏は河野氏を見限り、織田勢についたことに遡る。その当時は、河野氏と同盟関係にあった毛利の小早川氏に攻められ、この後で訪れる鹿島城に逃げ込んだとも、秀吉の元に走った,ともされるが、四国平定時には、村上三家のうち、ひとり家を存続され得ることになる。
来島村上氏が村上三家や河野氏と分かれた要因は、「永禄年12(1569)、北九州の地で毛利・大友両氏が対陣した時、毛利氏に属して出陣した能島家が、大友・尼子両氏と通じて日和見をしたため来島家が苦戦し、それ以後能島家は元亀3年(1572)まで来島家と対陣して、はげしい攻防戦を繰り返した。
来島家は、能島家と争ういっぽう、河野氏に対しても不穏な態度をとるようになった。その原因は、村上通総の父通康が河野家第36代当主・通直の後継者に指名されながら、重臣団の排斥を受けて失格して以来の怨念が爆発したことにあるといわれる。総通は河野通直の指示にもまったく耳をかそうとはしなかったが、これを武力で討伐する力も、通直にはなかったようである(「えひめの記憶」)」。
■村上総通
来島村上の祖とされる村上通康は宇都宮氏との鳥坂合戦の陣中で倒れ急逝。その後を継いだのが村上通総。元亀元年(1570)頃から河野氏と家督や新居郡を巡る処置などで不和が生じ、二度に渡る木津川口の合戦には毛利・河野方として参戦するも、織田・秀吉の誘いに応じ、反河野・毛利として反旗を翻すことになる。
県道178号の仮想散歩
高縄寺を離れ、北条の鹿島に向かう。予定では「石ヶ峠」から北条に向かって県道178号を下る予定であったのだが、工事のため時間通行規制。運悪く通行規制の時間にあたっていたので、県道178号を北条の反対側の国道317号に下り、奥道後方面へと車を進め北条に向かった。
が、このメモをしながら、県道178号を北条に下れば河野氏の本貫地である河野郷や館跡と称される善応寺、また高縄寺の創建の地である横谷などがあることがわかった。Google Street Viewでも県道178号筋は見ることができる。ということで、実際に車で走ったわけではないのだが、県道178号の仮想散歩をすることにした。
●横谷
石ヶ峠から一車線の道を、河野川を右に左にと下る。等高線に逆らわないように道を開いているためか、強烈なヘアピンカーブも随処に見られる。谷合の横谷には30戸ほどの集落があり、天満神社が祀られる。
高縄山への登山道は横谷の北に聳える高穴山(292m)の北の谷筋にある院内から、とあるが、この地にも高縄山登山口があった。道は途中で院内からの登山道と合流し高縄山に続いている。
●河野氏の本貫地
横谷から北に高穴山、南に306mピークをもつ山に挟まれた谷合を進むと、ほどなく前方が開け、風早平野に出る。道の左手に標高238mの雄甲山(おんごうやま)、その海側に192mの雌甲山(めんごうあま)が並び立つ丘陵麓に善応寺がある。この地が伊予の豪族・河野氏が発祥し、居館・城郭を築き伊予の中予・東予をその支配下においた本貫地、河野郷土居である。
◆河野氏の居館
河野氏の館について「えひめの記憶」には、「北条平野の中央部に、風早郡五郷の一つ河野郷があり、平野から約四キロメートルほど東へ入り込み、南・北両側を平行して東西に連なる標高約一二○~一三〇メートルの低い丘陵に挾まれた馬蹄形の小平地―善応寺部落がある―に、両丘陵を天然の土塁として土居は構築された。高縄山(標高九八六メートル)の西斜面に発し、山麓西部を開析して、高穴山(標高二九二メートル)の南側を西流する河野川と、雄甲山(標高二三八メートル)・雌甲山(標高一九二メートル)の南側を河野川と平行して西流する高山川とが、土居内を防衛する濠の役割をつとめた。
東へ向かって緩傾斜の耕地をのぼりつめると、土居の内全体から斎灘までの展望がきく標高七〇メートルの高台があり、建武年間河野通盛が、土居館を改築して創建した河野氏の氏寺善応寺がある。『善応寺縁起』などによって(善応寺文書・一二四一)、寺創建以前の土居館が広壮雄大な居館であったと推察される。この居館の周辺には、河野館の防衛にあたる一族郎従の屋敷が設けられていた」とあった。
善応寺は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した第27代当主・河野通盛が、一族の本拠を河野郷から道後湯築城に移すにあたって、それまでの居館を寺院に改めたものといわれている。
◆高縄城
また、高縄城については「河野郷土居の東部、居館の背後にそそり立つ雄甲・雌甲の二岩峯と、土居の北東端に聳える高穴山には、天嶮を利用してそれぞれ山城を構築して、三つの山城があいまって土居全体の防衛を堅固にしていた。とくに高穴城は、源平合戦当時築かれていた河野氏の主城で、「山高、谷深、四方嶮難」(予陽河野家譜)の要害堅固の城であった。当城は東西に連なる尾根を削平して構築した関係で、東西一二五メートル×南北一七メートルで東西に細長く、東高西低の階段式構造の郭配置をとっている。東部に二六メートル×一四メートルの長円形をした本丸が、長さ一〇メートルの石垣をもつ三メートル×二〇メートルの帯郭を西側に配して南東→北西に連なり、本丸の西、比高一五メートルの段差をもって東西二一メートル×南北一〇メートルの長方形をした二の丸があり、その西斜面は三〇メートルから二つの尾根に分かれ、両尾根に深さ一~三メートル、幅二~八メートルの空堀が掘られ、城の大手口の防衛にあたった。この三城と背後に高く聳える高縄山一帯を総称して高縄山城といったとおもわれる」とあった。
地図を見ていると、雄甲・雌甲の山城は館の後詰、そして高穴の山城は背後からの敵に対する防御渠拠点、高縄山の山城は道後方面から石手川の谷合を侵攻する勢力、今治の蒼社川から立石川を経て侵攻する東予からの敵側への備えの要のようにも見える。単なる妄想ではある。
鹿島
県道178号を瀬戸の海岸線近くまで進み、県道179号に乗り換え鹿島の渡船口に。駐車場に車を停め鹿島に渡る。北条の沖合400mほどのところにある、お椀の形をした鹿島を前面に見ながら、船はほどなく鹿島の桟橋に。鹿島の桟橋近辺は平場となっている。
船を下ると、正面に登山口があるが、右手に鹿島博物展示館がある。とりあえず概要を知るため展示館に。
●鹿島博物展示館
館内には鹿島の歴史や地形、植生などの展示があり、鹿島の概要を知るには大変役立った。この展示館は昭和28年(1953)に開設し、その後昭和52年(1977)に県が立て直し現在に至る、とのこと。展示の説明を以下メモしておく。
◆鹿島の歴史
■7世紀の中頃、外国からの攻撃に備えて、九州と瀬戸内に海の砦(海防城)が築かれました。そのうちの一つが、風早の下門島(鹿島)でした。
■その後、鹿島は伊予を治めた河野水軍の根拠地の一つとなり、建武年間(1334‐1338)に今岡四郎通任によって、階段式連廓構造の鹿島城が築かれました。
■天正十三年(1585)、小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのあと来島氏は九州に移され、鹿島は城主を失いました。
■現在、城郭遺跡としては、島の北東にある二ノ段郭と、長さ約50mの石垣を残すのみです。
■この島には、神功皇后の伝説をはじめ、その出征の物語を残す、髪洗磯、山頂御野立の巌、また河野通有元寇への進発、壇の浦へ馳せ向かう河野通信の語り草など、幾多の歴史物語が刻まれています。
◎「7世紀の中頃、外国からの攻撃に備えて」とあるのは、天智2年(663)に倭国・百済遺臣(百済は西暦660年に滅亡)と唐・新羅連合軍との間で行われた「白村江の戦い」に敗れた倭国(大和大王家)が、唐・新羅(外国)からの侵攻に備えた防衛態勢の一環の砦。
◎今岡四郎。岡部四郎とも。室町の南北朝騒乱の頃の武将。上に述べた河野家の歴史で、伊予に侵攻した細川氏により苦境に陥った河野家第29代当主の通堯に対し、宮方の武将の手引きにより九州の懐良親王に謁見の機会をつくり、武家方(北朝)から宮方(南朝)に移り、伊予に戻り宮方の力を借り復権したとメモした。
今岡四は通堯を九州へ送り届け、また伊予に戻る軍船を提供し、河野家臣団の一翼を担った武将のようである。ややこしい細川氏と河野氏の抗争を上でまとめた甲斐があった。
◎「小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが」とは、秀吉の誘いにより織田方となり、河野家・毛利家と敵対した来島村上氏であるが、秀吉の軍門に下った毛利家の小早川の軍勢により河野家は滅亡する。 この四国平定戦における、来島通総の活躍がめざましく、その先鋒をつとめた。戦後、来島氏は、鹿島城主一万四千石の大名として風早・野間の両郡を統治し、戦国の乱世を生き抜くことになる。なお、通総の兄得居通之も、風早郡に三千石を与えられた。
◆北条地域の地形
■北条地域は松山市の最北部に位置し、東と北は今治市に接し、西は瀬戸内海の斎灘に面しています。
■東西および南北ともに約10㎞のほぼ正方形で、面積約102.4平方km,そのうち山地が約84%を占めています。
■東方は山岳地帯で、その主峰・高縄山(986m)に源を発する大小の河川は、西に向かて流れ、海岸付近に広がる沖積平野を経て、斎灘にそそいでいます。
◆北条地域はどのようにつくられたのでしょう
■中世代にはまだ瀬戸内海はつくられてなく、高縄半島付近から南は海でした。 ■新生代の中頃、日本列島の誕生と共に、四国の元になる島ができ、数百万年前に今の高縄山から石鎚山にかけて激しい火山活動が起こりました。
■約2百万年前頃から高縄山や石鎚山系が隆起し、浸食を受けてそれぞれの火山体はけずられ、マグマの上ってくる通路だけが岩頸(溶岩などが塔状に露出して残った岩)として残り、現在の鹿島や恵良山、腰折山、雄甲山、雌甲山などが形作られました。
鹿島や恵良山が安山岩で出来ているのはこのためです。この頃の瀬戸内海にはナウマン象がたくさん棲んでいました。
◎「約2百万年前頃から高縄山や石鎚山系が隆起し」とあるが、「約2百万年前頃」といえば説明にもあるように、「新生代」である。先回のメモで、「予讃線に沿って、東の波止浜から沢池のあたりまで里の帯が続き、山地が南北に分けられている。また、同じく南の国道196号にそった道筋も、近見山のある山地と高縄山のある山地を分けている。河川によって開析された、というだけにしてはあまりに美しく高縄半島の山地を帯状に分けている。
河川の開析作用以外に、なにかの要因がないものかと地質をあれこれしらべていると、今治の地質地図があり、そこに「第四系」と「領家花崗岩類」に色分がしてあり、「第四系」が今治の平野部と山地を分けるふたつの平地と重なる。 地質学のことなどよくわからないのだが、「領家花崗岩類」は中世代(9000万年から6000万年前頃)の地層で、「第四系」は新生代(260万年ほど前から現在まで)の地層という。山地部分が中世期の造山活動の名残りで、平坦地が新世紀の洪積層、沖積層ということだろうか」とメモしたのだが、この説明と矛盾が生じた。どちらが正しいのか地質学の門外漢ではあるが、地形図では山地部分は中世代の「領家花崗岩類」とぴったり重なって入る。はてさて。
◆高縄山の植物、鹿島の植物
高縄山の植物、鹿島の植物の説明もあったのだが、いまひとつフックがかからないため、メモは省略。
鹿島城跡
説明に「現在、城郭遺跡としては、島の北東にある二ノ段郭と、長さ約50mの石垣を残すのみです」とある鹿島城跡へと向かう。
●石垣跡
鹿島城跡への道を上ると、頂上にある展望台の手前に平坦地があり、その手前にそれらしき石垣が残る。道から少し逸れているので、崖の斜面を這い上がり石垣を確認。
●鹿島城跡
石垣上の平坦地には「鹿島城跡」の案内があり、「中世における伊予の国の覇者、河野氏の海域の古城跡であるが、最後の城主来島通総は豊臣秀吉の四国征伐に先鋒水軍として活躍した功により、鹿島城主に任ぜられたが、関ヶ原の戦いの際、西軍に加わった関係から、豊後国森に転封され廃城となった。島の頂上、南角等に築城、当時のものらしい石積の崩れた姿が残っている」とあった。 この平坦地は「二の段」とも「二の平」とも称される。
●郭跡
平坦部から展望台に向かう途中、如何にも郭跡といった崩れた石組み跡が残る。「当時のものらしい石積の崩れた姿」と説明にあったので、この辺りが郭跡であろうか。
◆鹿島城の経緯
◎築造;建武年間(1334‐1338)に今岡四郎通任によって、階段式連廓構造の鹿島城が築かれる。但し、確定されてはいないようだ。尚、今岡四郎については上にメモしているので、ここでは省略。
◎鹿島城の初見;明応8年(1499年)に第35代・河野通宣の頃
◎天正年間(1573年~1592年)初期には二神豊前守が城代:来島城主村上通総は、元亀元年(1570)河野氏に背き、天正7年には風早郡鹿島城代二神豊前守と結んで、河野氏に反抗した。
この二神氏と野間郡高仙城主池原氏との間に紛争が起こり、この海域で合戦が行われ、池原氏が勝利したとも、二神氏が池原氏を城に招き闇討ちするも失敗に終わり、河野氏により城は落城したとも言われる。
この頃の来島村上氏の当主は村上通総。河野家は第39代河野通直。この河野通直は野間郡の池原通吉の嫡男であり、対する村上通総は第36代河野通直の後、河野家の家督を継げなかった村上通康の嫡子である。家督相続を巡る通総の遺恨が根底にあるのだろうか?単なる妄想。根拠なし。
◎来島城主村上(来島)通総の兄得居通幸が城主:天正6年(1578年)から天正8年(1580年)頃に伊予国松山の島嶼にある鹿島城主になったと考えられ、家臣達を悉く鹿島(現在の松山市沖)へ渡らせている。後に城主となった。
天正10年(1582年)来島村上氏は、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城の得居通幸は攻撃を退けた(Wikipedia)。
◎村上(来島)通総が城主に:秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。
◎廃城;慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となり廃城となった。
御野立の巌(おのだちのいわお)
郭跡の崩れた石積みの箇所から少し上ると展望台。鹿島城の「一の平」とも称されていた場所でもある。高縄山や瀬戸の斎灘のパノラマが広がる。「伊予の二見岩」とも称される夫婦岩も沖合30mほどのところに見える。
その崖端に岩が残り、そこを「御野立の巌」と称する。案内に拠れば、「神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止め、軍備・旅装を整えられると この巌に立って、弓に矢をつがえ、沖に放たれて戦勝を祈願し、勇躍大津地の湊を出発されたと伝えられている。
他に御野立の巌に立ち思いにふけったとの伝説や西海(朝鮮地方)を眺めたとの伝説がある」とあった。
「大津地」とは北条の港の古称。津地港(辻港)とも呼ばれていたようである。「神功皇后は西征とは、朝鮮半島の新羅への出兵を指す。神功皇后は仲哀天皇の妃、応神天皇の母とされるが、実在の人物かどうか不詳である。直木幸次郎氏は、朝鮮半島への出兵を画した斉明天皇、持統天皇をそのモデルとする。
鹿島神社
道を下り桟橋に向かう。道を成り行きで下ると、鹿島神社脇に出た。この武人の神である鹿島神社の創建は不詳だが、鎌倉期以降、河野氏によって勧請されたものと伝わる。鹿島城の築城は建武年間とされるが、当時本拠地を本貫地である北条の河野郷から道後の湯築城に移すに際し、海上防御の拠点として築城した鹿島城の守護として祀られたのかもしれない。
●要石
境内に要石。案内には「この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で抑えているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。かたわらの石に次の歌が刻まれている。
ゆるぐとも よもやぬけじな要石 鹿島の神のおわすかぎりは」とあった。
●鹿島の案内
同じく境内に「鹿島」の案内。「鹿島 鹿島は古くからあった花崗岩の中へ新第3紀中新世(1,000万年以上前)頃の火山活動によって、安山岩が噴出し、その後長い間の浸食によって残った山と考えられます。
島には暖地性の植物が自生し、野生の鹿が、生息しています、島の周りの岩礁には、海岸動物や海藻もかなり多く見られます」とあった。
◎鹿島博物展示館での「200万年前頃からの火山活動云々」との説明と矛盾するように思うのだが。逆に、私が見つけた地形図からの資料とは合致する。どちらにしても、気の遠くなるような昔々のこと。どちらがどうだかわからないが、とりあえずは火山活動の結果として出来た島、ということで良しとする。
●鹿島と渥美清さん
境内を出たところに歌碑があり、「お遍路が 一列に行く 虹の中 渥美清」と刻まれる。その横に「鹿島と渥美清さん」との案内。
案内には、「この俳句は、俳優『渥美清』さんが鹿島で詠んだ句です。寅さんで知られる俳優『渥美清』さんは、鹿島を第二の故郷として、たびたび来島し、宿泊しました。
親友であった北条出身で『花へんろ』の作者でもある早坂暁さんに連れられて鹿島を訪れた渥美さんは、名物の鯛めしに舌鼓を打ち、島の時間を楽しんだそうです。句碑の文字は早坂暁さんの文字です。
お遍路が 一列に行く 虹の中」とあった。
渥美清さんは俳句を詠んだとのことで、俳号「風天」を持つ、と言う。 これで本日の散歩は終了。河野氏の歴史を纏めるのは結構難儀ではあったが、愛媛と言えば河野氏、という以上、愛媛の散歩に際し、いつかはまとめの作業は必要ではあったかと思う。実際、まとめながら、雄甲・雌甲山、善応寺などそのうち歩いてみたい所も現れてきた。次回帰省のお楽しみとする。
来島村上氏の城砦群を辿るアーカイブ
北条は結構遠い。日高城、恵良山城は山城であり、ルートやアプローチをちょっとは調べる必要もあり、とりあえず今回は、何も前もって調べる必要もない鹿島城を訪ねることにした。
鹿島城に行くことは決めたのだが、これだけでは行き帰りの手間を考えれば、ちょっと勿体ない。途中どこか寄るところはないものかと少し考える。そう言えば、高縄半島の散歩の割には、半島のシンボルでもある高縄山には訪れていない。高縄山には来島村上氏の主家でもある河野氏の祈願所・高縄寺もある、と言う。
ということで、来島村上氏の城砦群と言うわけではないが、河野氏ゆかりの地であれば、関係なくもない、と思い聞かせ、今回は鹿島城と高縄寺を訪ねることにした。
来島村上氏ゆかりの城砦群
●波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
●波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
塔の峰
●大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
●梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
●岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
●波方駅の周辺
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
●北条地区
鹿島城>日高城
本日のルート;国道317号>県道178号>石ヶ峠>河野川源流点>高縄寺山門>高縄寺本堂・大師堂>高縄山>鹿島城跡
石ヶ峠
新居浜を出るとき、ナビで高縄寺を入れる。行けるところまで車で進み、そこら先は歩けばいいと思っていたのだが、予想と異なり、高縄寺まで車で行けそうである。とは言うものの、山道は狭いだろうな、との怖れ。
国道11号から国道196号、予讃線伊予富田駅の手前で県道155号に乗り換え、北西に進み国道317号に。国道317号を進み、「水が峠」下をトンネルで抜け、石手川に沿って奥道後への国道を進み、「高縄山入口」を目安に県道178号で右に折れ、高縄山方面へと上る。道は舗装されてはいるが、基本一車線といった山道であり、対向車のないことを祈りながら車を進め石ヶ峠へに。
河野川源流点
峠には「左北条左 右高縄山」と示す標識がある。県道178号はこの峠から北条に向かって下るが、高縄寺にはこの峠で県道から離れ、高縄寺への道に入る。道は県道178より気持ち狭く、対向車の来ないことを祈りながら、少し車のスピードを速め先に進むと、最初の強烈なヘアピンカーブのところに「河野川源流」の案内。
ちょっと気になり車を停め、源流点を確認に。そこには小さな祠・河野水天宮が祀られていた。
●河野川
カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」を使い、地理院地図に「川だけ地図」をオーバーレイ(重ね合わせ)すると、川筋は石ヶ峠の少し西まで伸びており、源流点から「川だけ地図」の川筋跡までは、等高線の谷筋を結べば繋がった。
河野川の流れを辿ると、石ヶ峠から北条に向かう県道178号に沿って北条の風早平野へと下り、JR 予讃線・柳原駅の東を流れて瀬戸内に注ぐ。 河野川はその名前の通り、今から訪ねる高縄寺をその氏族の祈願所とした、伊予の豪族・河野氏の本貫地を流れる。河野氏の本貫地は河野川と、その南を流れる高山川に挟まれた山裾。山裾にある善応寺は河野氏の館跡とのことである。
駐車場
河野川源流を離れ、次に現れるヘアピンカーブを越えると誠に広い広場に出る。高縄寺の駐車場として使われているのだろう。広場の手前には道標があり、「高縄寺 0.3km 石ヶ峠 1.0km 立石・今治方面」との案内があった。この地から宝坂谷を下り、立岩川の谷筋を走る県道17号に続く道もあるようだ。
高縄寺山門
駐車場に車を停め、高縄寺に向かう。木立の中、左手に四阿(あずまや)を見遣りながら進むと、道が上下のふたつに別れる。分岐点には「高縄山頂 高縄寺 0.1km、石ヶ峠 1.2km」の道標があり、高縄山頂には上の道を、高縄寺は右に入る下の道を進むことになる。
高縄寺の案内を示す石柱から緩やかな坂を下ると、ほどなく山門に。昭和33年(1958)改築がなされた鐘楼門となっている。
●高縄寺の案内
山門脇に高縄寺の案内。「高縄寺 この高縄寺は、高縄山頂(標高986m)から東へ300m標高約900mに位置し、その昔、この地方を治めていた河野氏の戦勝祈願所となったところで、木造の「十一面千手観音立像」が安置され、八百年の歴史と共に残されている真言宗の名刹で、河野氏の菩提寺となっています。現在の建物は1767(明和4)年に再建されたものです。
寺の周辺には、本堂上手の「千手杉」のほか「七本杉」「大師名残の杉」などの老杉、巨樹があり、この寺の歴史を物語っています」とあった。
●「大原観山」の歌碑
山門左手に石碑がある。案内には「大原観山」の歌碑とあり、「遊高縄 越家百世舊金湯 今日空餘選佛場 姦骨忠魂同一夢 無人知道注連梁」と刻まれる。 案内に拠れば、
「遊高縄 越家百世舊金湯 今日空餘選佛場 姦骨忠魂同一夢 無人知道注連梁
大原観山(1818‐1875 文政5年‐明治8年)
本名 有恒。子規の外祖父に当たる。明教館の教授を務め、幕末期の松山藩の子弟教育に尽くした。
碑面にはないが、『大原観山遺稿集』には、「連梁は人名、其の君高箕を諫めて死す。高箕或いは高縄と称す。山の名は蓋し此れに由る。」と小さい字で注釈がある
。 「越家」とは、古代伊予の豪族「越智氏」で、後に河野氏が出て高縄山付近を領した。 俳句の里 松山市教育委員会」とある。
歌の意味は、「越智氏が長きにわたって治めた堅固な城(金湯=金城湯地)跡。今はむなしく寺が残るだけ。奸臣、忠臣のいずれもが同じ夢を見ただろうが、 連梁を知る人はもういない」。この場合の越智氏とは、河野氏のこと。河野氏がその祖を越智氏としたことを以て「越家」とした、ようである。
大原観山は江戸の昌平黌で学び、帰藩後松山藩にて地域の子弟教育に尽力。また、藩主にも仕える。高縄山に遊ぶこと一再ならず。この歌は春に訪れた時、河野氏の居城であった高縄山を偲ぶとともに、河野氏の栄枯盛衰の世の無常を綴っている、とのことである。
観山は正岡子規を大層可愛がった、と言う。が、大の西洋嫌いであり、一生髷を結い続けた。ために子規も小学校に入るまで髷を切ることを許されなかったようだが、子規の父親の願いを聞き入れ、不本意ながら断髪を許したとのこと。子規は観山を尊敬し「後来、学者となりて、翁の右に出でんと思へり。」と記している。
●子持杉
同じく山門手前には「子持杉」の案内があり、「谷底に鶯鳴くや峰の寺」と郷土俳人によって詠まれている。この高縄寺は、旧記によると天智天王の御世に、この地方の国造であった河野氏の祖、小千守興が横谷に創営したと言われている。その後、天文元年(1736)に河野通宣がこの高縄山に移したと記録されている。
さて、この寺の山門の右前に老杉があった。高さ30m根回り13.8mに及び、その枝張りが周囲を覆って幽すいの気を深めていたのである。樹齢は、約800年ともいわれ、樹幹の西側10mの高さにくぼみがあり、そこに若い杉苗が育ち、あたかも親杉が子杉を抱いて立つように見えるところから子持杉と呼ばれ高縄山の名物の一つであった。
昭和39年3月27日、市の天然記念物に指定されていたが、昭和45年8月の台風により被害甚大で伐採し古木の根の中心部に小苗(枯れる前にさし木したもの)を植え今日に至っている」とあった。
横の切り株が、その名残だろうか。
●小千守興
「小千守興が横谷に創営」とある。「小千」は越智のこと。「小千」「小市」「乎千」などとも記される伊予の古代豪族である。伊予では名族とされ、河野氏を含め越智氏をその祖とする氏族が多いが、元々在地豪族であったとする説、律令制施行に伴い国造として任ぜられた「物部大新河」の孫「小市国造小致」をその祖とする説、孝霊天皇の第三皇子伊予皇子の第三王子を祖とする説(信憑性に乏しい)など、あれこれあり、伊予といえば越智氏と言われるほどの名族にしては、わからないことが多いようである。
なお、「横谷」とは上でメモした河野氏の本貫地である、河野川が北条の風早平野から高縄山系に入った谷合の地にある。
本堂・大師堂
本堂、そして大師堂にお参り。寺は天文元年(1736)に河野家第35代当主・通宣がこの高縄山に移した、とある。寺は天正13年(1544)、四国平定を目する秀吉の先鋒として伊予に上陸した、毛利家の小早川軍との戦いにおいて焼失。明和年間(1764年から1771年)に再建され、江戸末期に改修された。
本尊は千手観音。Wikipediaに拠れば、小千守興が一寸八分の千手観音を勧請、行基がこの尊像を拝し、五尺余りの大像を彫刻して頭中に納め、さらに、弘法大師が巡錫の折、寺号を「高野山 髙縄寺」と改め、行基作の千手観音を安置した、といった豪華なラインアップの縁起を持つ。
●千手観音
案内には「千手観音 木造千手観音立像 一躯
愛媛県指定有形文化財(彫刻)
昭和55年3月21日指定
像高147センチメートル、台座高33センチメートル、重量50キログラムの檜の一木造。彫眼、頭髪、合掌手、宝鉢手を含め一木で彫成し、髻の上に2列10面の仏面を頂いている。
耳朶環(耳輪)、条帛(肩にかけた衣)、天衣(腕にかけた衣)をかけ、合掌・宝鉢以下42臂(腕)両足をそろえて直立する。
頭部の形、衣文の形態、両膝前の二重の天衣等像容は地方色が顕著である。 作者不祥であるが、平安時代藤原期の作とみられる。
昭和53(1978)年京都美術院で修理され持物を除いて原形に復しており、当時の面影をよく残している。 松山市 松山市教育委員会」とあった。
千手杉
境内を離れ、境内左手の山道を奥へ進むと、登ってすぐ左手に千手杉の案内。 「千手杉 一本 松山市指定天然記念物 平成二一年二月一〇日指定 このスギは、根本回り七メートル、幹回り五・四メートル、樹高三〇メートルで、幹の下部から上部までに多数の大枝が出ているが、その大多数は主幹に寄り添うように直立状または斜め上に伸びている。
下部の大枝は枯れているが、他の大枝や根元も空洞や腐食部は見られず健全である。スギの巨樹でこのような樹形をしているのは稀であり、貴重な存在である。
また、その樹形は、あたかも近くの河野氏ゆかりの高縄寺の本尊「十一面千手観音立像」に似ていることにも存在意義がある 松山市 松山市教育委員会」とあった。
高縄山の案内
高縄山頂への舗装された道を進むと道脇に「高縄山」の案内。
「高縄山 この高縄山は、標高986mの山で、昭和37年に奥道後玉川県立自然公園に指定されています。山頂付近は、温帯性の落葉高木であるブナの原生林が残され、動植物にとってたいへん快適な環境が保たれており、豊かな生態系を育んでいます。
この山系では、リス・イノシシ・タヌキ・ニホンジカ等の捕乳類や、600種を超える植物が見られるほか、昆虫類の宝庫でもあります。また、年間70種に余る鳥類が観察できる愛媛県の代表的な、探鳥地の一つです」と説明されていた。
●登山道・林道が合流
道を進むと山頂に向かう舗装道に右手から道が合流。折れるとすぐに北条の院内からの登山道、林道はそのまま先に続く。林道は立石川の谷筋にある猿川に下っているようだ。その途中に「七本杉」があるとのことで、結構下ったのだが、なかなか出合えず、途中で撤退した。
◆七本杉の案内
「七本杉 千手杉の北方約400mの山中にある。樹齢は推定500年といわれ目通り約9mで、根元内部は空洞となっている。地上2mで4本に分かれていて、内2本は裂け折れている。近くに、6.4m、3.3m、2.8mの大杉があり、北条市街から遠望すると稜線上に鋸歯のように見える」。
高縄山頂
山頂に上る舗装された道に戻り、道なりに進むと「高縄山」と書かれた平場にでる。平場の端からコンクリートの小径を上ると高縄山山頂。電波塔の施設の脇に「高縄山大権現」が祀られる。
鉄骨の階段を上り展望台に。瀬戸内や石鎚方面の展望を楽しむ。瀬戸内の展望台と言えば、糸山公園の展望台しかし知らなかったのだが、来島村上氏の城砦群を辿る一連の散歩を通して、高縄半島の各所に、瀬戸内や四国山地の大パノラマを楽しむことのできる場所があることを知ったのも、来島村上氏の城砦群巡りに伴う大きな収穫のひとつではあった。
河野氏について
今回、来島村上氏の主家という理由だけで、河野氏の祈願所でもある高縄寺を訪ねたわけではあるが、いい機会でもあるので、「えひめの記憶」やWikipediaをもとに、河野氏の歴史をまとめておく。
河野氏について
●鎌倉以前
国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている
●鎌倉時代
◆河野通清(第22代);頼朝挙兵に呼応
源氏の棟梁、源頼朝が平氏打倒の兵をあげたとき、河野家当主・通清は頼朝挙兵に呼応し平氏に反旗を翻す。挙兵はこの高縄城であったとも言われる。
当時の西国は平氏方一辺倒であり、無謀とも言える決断である。源氏に与した要因としては、伊予で覇を争う土居氏が平氏の家人として平氏政権と強い絆を結んでおり、それに対抗するため、また、平氏による瀬戸内の制海権支配に対する不満などが挙げられる。
挙兵するも、当初は四面楚歌にて、戦局は圧倒的に不利。『東鑑』によれば、阿波の田口成良、備後の奴可(ぬか)入道西寂に「山の神古戦場」で敗れ、討死したと言われる。
「山の神古戦場」は先日、花遍路散歩で訪れた。その近くには百回忌にあたる弘安2(1279)年、通清の曾孫にあたる一遍上人(1239~1289)がこの地で供養を営み、建立して万霊塔が建っていた。
◆河野通信(第23代);源氏方として武功をたて東・中予に強い勢力を築く
通清の子。当初不利であった戦況も、源氏方の攻勢により伊予での雌伏の時から反攻に転じ、土居一族の高市氏を撃破。源氏の軍勢の一翼としても、壇の浦の海戦などで軍功をたてる。鎌倉幕府の開幕に際しては、頼朝に臣従を許された数少ない西国御家人のひとりとなり、奥州平定にも出陣する。
伊予への帰国に際し、通信は破格の待遇を得ることになる。それは、既に伊予の守護となっていた佐々木盛綱の支配を受けず、一族を率いることができるという許しを得たことである。
通信はこの特権を最大限に活用し、伊予の競合武将を圧倒し、13世紀には伊予の東予・中予に強い勢力を築き上げる。その直接の領地は所領五三箇所、公田六十余町に及んだと推測されている。
■承久の変と河野通信の反幕挙兵
頼朝が亡くなった後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が北条氏が支配する鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、河野通信は宮側に与する。幕府は伊予の反河野勢に命じ高縄城を攻めるも攻略叶わず、阿波・土佐・讃岐、さらに備後国の御家人の遠征軍の合力により高縄城は落城する。
幕府の恩顧にも反し、宮側に与した要因は、諸説あるも、一説には南予に勢力を伸ばそうとする河野氏の思惑があるとも説かれる。南予は守護勢力が抑えており、この乱を契機に南予支配を目した故、と言う。
◆承久の変後の河野氏の没落
戦に敗れた河野氏は、一族のうち、ひとり幕府方に与した五男・通久(第24代)の軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められたほかは、上記、河野氏の所領五三箇所、公田六十余町、一族一四九人の所領も幕府に没収され、河野氏はその勢を失う。通信は通久の働きに免じ平泉配流となるも、一族の大半は討ち死や斬首に処される。
貞応二年(1223)、通久は幕府に願い出て伊予国久米郡石井郷の領有を認められ、河野家は伊予国に戻る。その通久没後、河野家の家督は通久の弟である通継(第25代)が継承する。通継については家督相続を端に発する嫡庶の所領を巡る係争の他、見るべき事象が見当たらない。河野氏の衰退は続く。
●元寇と河野通有の活躍
その状況が大きく変わったのが「元寇」。通継のあと河野家の家督を継いだ通有(通久家を継いだ通久の甥;第26代当主)の弘安の役による武功により、河野氏は再び伊予での勢力を取り戻す。恩賞により与えられた領地は正確な記録は残らないが、九州の備前の地のほか、「かなり多い」と推測されている。
通有によって往時の勢を回復した河野氏であるが、通有没後、家督相続や嫡庶間の競合や対立により、一族間の抗争が激化。通有の後を継いだ通盛(第27代)の率いる惣領家と、土居通増や得能通綱らの率いる庶家とに分裂し、鎌倉末期から南北朝時代へと続く動乱のなかにまき込まれていくことになる。
●南北朝騒乱の時代
◆建武親政と河野一族の分裂
鎌倉後期、天皇親政を目指す後醍醐天皇により、北条鎌倉幕府の倒幕運動・元弘の乱(1333)が起こる。風早郡高縄山城(現北条市)に拠った河野宗家の通盛(第27代)は幕府側に与するも、一族の土居・得能氏は天皇側につき、河野一族は分裂。
天皇側に与した足利尊氏、新田義貞の力も大いに寄与し、結果は天皇側の勝利となり、天皇親政である建武の新政となる。鎌倉幕府は滅亡し、幕府に与した通盛は鎌倉に隠棲することになる。
◆足利尊氏の新政離反と河野通盛の復帰
建武の新政開始となるも、恩賞による武家方の冷遇などの世情を捉え、足利尊氏は新田義貞討伐を名目に天皇親政に反旗を翻す。世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、南北の内乱期に入ることになる。
この機をとらえ、鎌倉に隠棲中の通盛は尊氏に謁見し、その傘下に加わる。尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認し、伊予に戻った通盛は新田義貞に従軍中の土居・得能氏の不在もあり、伊予での勢力拡大を図る。
足利尊氏も一度は新田勢に大敗し、九州に逃れるも、天皇親政に不満を抱く武家をまとめ、京に上り宮方に勝利する。
尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認し、通盛は根拠地を河野郷から道後の湯築城に移して、足利方の中心勢力となる。
◆細川氏の侵攻と河野氏の宮側(南朝)への帰順
河野通盛の隠退のあとをうけて、惣領職を継承した通朝(第28代)が苦慮したのは、同じ武家方(北朝)の細川氏の動向である。はじめて資料を流し読みしたとき、何故に幕府の管領をも務める細川氏が、同じ武家方の河野氏を攻めるのか、さっぱりわからなかった。「えひめの記憶」を斜め読みすることなく読み込むと、細川氏の動向は、四国支配がその根底にある、といったことが見えてきた。
■細川氏の四国制覇の野望
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。
この記事にもあるように、通朝(第28代)は貞治3年(1363)、細川頼之の東予侵攻により今治の世田山城で敗死する。
◆河野通堯の南朝帰順
通朝の子・第29代の通堯も同様に細川氏の動向に苦慮。細川勢の手薄な時に攻勢をかけるも、細川勢の反撃に遭い立て籠もった高縄山城も落城し、恵良城に逃れる。この状況に「宮方」の在地豪族が支援の手を差し伸べ、「河野氏の安泰をはかるために、南朝に帰順するように勧誘した。すでに東予・中予の重要な拠点を占領した優勢な細川氏に対抗するためには、まず伊予国内における宮方・武家方の協力一致によって、陣容の整備をはかる必要がある(「えひめの記憶」)、と。
また「通堯にとって、武家方の勢力が潰滅した時であるから、従来ライバルであった土居・得能・忽那氏らをはじめとして宮方の兵力を利用する以外に、よい打開策はなかった(「えひめの記憶」)」とする。
こうして通堯は九州の宮方の征西府へ帰順。細川氏に対抗するため天皇方に与することになる。伊予に戻った通堯は河野氏恩顧の武将とともに武家方の勢力を中予から掃討することになる。
◆河野通堯の武家方復帰
武家方の管領として足利義満を補佐した細川頼之であるが、山名氏や斯波氏、土岐氏といった政敵のクーデター(康暦の政変)により管領職を失い、四国に落ちる。この中央政界の激変に際し、対細川対策として通堯は「宮方」から離れ、幕府に降伏し反細川派の諸将との接近をはかることになる。義満は通堯に対しあらためて伊予守護職に補任する旨の下文を与えた。
「えひめの記憶」に拠れば、「通堯が武家方に復帰した事情は、いちおう伊予国における失地回復に成功したこと、これまで利用した征西府、および伊予国の宮方の権勢が衰退して、昔日の姿を失ったこと、将来河野氏の政局安定をはかるためには、幕府の内部における反細川派の勢力と提携する必要があったことなどによると考えられる」とある。
北朝方から南朝帰順、そして再び北朝帰順と、対細川氏対策として16年に渡り、河野家の危機を防いだ通堯は、河野氏の旧勢力を回復し、その勢力は安定するかにと思われた。しかしながら、四国に下った細川頼之氏追討の命を受け進軍の途中、天授5年/康暦元年(1379年)、伊予の周桑郡で通堯は討死する。
◆細川氏との和議と河野氏の伊予守護職安堵
父通堯の戦死のあとをうけて、河野氏の家督を継承した嫡子(後の通義;第30代当主)は当時10歳。細川氏の攻勢を退けることは困難であり、また、細川氏の勢力が四国全域に拡大することを危惧した将軍足利義満は和議を斡旋。四国の守護職を分割し、讃岐・阿波・土佐三国を細川氏に、伊予(宇摩・新居の両郡を除く)を河野氏に与えて勢力均衡策をとった。
和議の背景は、頼之が再び管領となって上洛し、執政に多忙で領国を顧みる余裕のなかったことが挙げられる。これ以降、河野氏が伊予国守護職を相伝することになる。
●河野家内紛の火種
第30代当主・通義の逝去にともない、弟の通之(予州家の租)に家督が譲られ、義満からも伊予守護職に補任される。第31代当主となった通之であるが、通義の嫡子が湯築城で元服するとともに通之から家督、伊予守護職を譲られ、応永16年(1409)、第32代通久(当初は、持通)となる。しかしながら、このことが通久の家督相続に不満をもつ通之の嫡子・通元との対立の火種となる。
通久は、豊後の大内氏の内乱での反幕方の追討に出陣するも討死。河野家の家督は嫡子・教通(第33代)が継ぐが、惣領の座を狙う予州家の通元や、その嫡子通春との対立が深まる
●宗家・教通と予州家・通春の抗争
教通は室町時代の永享10年(1438)、鎌倉公方と関東管領の間で発生した戦乱に室町幕府6代将軍足利義教の命をうけ討伐軍として出陣、赤松氏が足利義教を暗殺した嘉吉の乱(嘉吉10年;1441)に赤松氏討伐軍として出陣するなど中央政界でも活躍。細川氏との和睦を保ちながら、伊予の守護大名の体制を整えていった。
この間も宗家と予州家の抗争が続く。Wikipediaによれば、予州家・通春には細川氏、宗家・教通には毛利の吉川、小早川氏が支援。文安6年(1449年)に予州家の通春(第34代当主)は伊予守護に就任するも、翌年に教通に交替。享徳2年(1453年)には、再び守護職に補任されるも、享徳4年(1455年)には細川勝元が伊予守護職に、といった混沌とした状況が続く。
通春は長禄3年(1459年)には3度目の伊予守護職に補任されるも、細川勝元と対立。伊予に侵攻した勝元の軍勢のため危機に陥るが、細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。
このような混乱の中、河野家の第34代当主となったのは予州家の通春とされる(Wikipediaでは)が、この頃の資料は無く、はっきりしたことはわからない。
◆応仁の乱後の宗家と予州家の抗争
第34代河野家当主・通春は、応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた河野宗家の教通が、細川勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職となり、伊予における基盤を固めてしまう。通春は、乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)には教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。
文明11年(1479年)、阿波から侵攻してきた細川勢に対しては、宗家・教通(通久と改名)と和睦し撃退。文明14年(1482年)は通春が病没した。予州家の家督は子の通元(通篤)が後を継ぐ。
通春没後もその子通元(通篤)と宗家の通直(教通の改名)・通宣の対立は続く。明応9年(1500)、通直(第33代・教通が改名)は湯築城(松山市)で没し、その子の通宣が家督を嗣ぎ第35代当主となる。その後も、20年ほど宗家・通宣と予州家・通篤との対立が続けられたが、通篤の勢力はしだいに衰退し、ついに敗れて防州宇部に去り、予州家は没落していった。
通春(予州家)と教通(河野宗家)の抗争は一応の終結をみるも、100年余りに渡る予州家と宗家の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因となった。
戦国時代
●第35代河野通宣;来島村上氏の台頭と毛利氏との同盟
長く続いた河野宗家(教通―通宣)と予州家(通春―通篤)との対立抗争は終わり、河野氏は宗家通宣(第35代)によって統率せられる時代となった。Wikipediaに拠れば、「通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。
重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。
しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、1568年に家督を一族の河野通直(伊予守)に譲って隠居し、1581年に死去した。ただし、近年の研究によるとその死は永禄13年(1570年)頃ではないかとも言われる」とある。
●第36代河野通直:来島村上氏を巻き込んだ家督騒動が勃発
通直(第36代)は通宣の嫡男、永正16年(1519)父の跡を受け、大いに家運の隆昌を図ろうとした。しかし鷹取山(今治市玉川)城主正岡経貞、府中石井山(近見山の別称)城主重見通種など国内の恩顧の武将の反意に苦慮することになる。ここに至り、河野家の重臣として来島村上氏が登場。重見勢討伐に勝利する。また、隣国からの侵攻も続き、讃岐の細川氏、防州大内氏など、内憂外患の状態であった、よう。
通直の晩年に河野家の相続争いが勃発する。通直には嗣子がなく、一族老臣らは評議して予州家の惣領通政(第37代)を迎えることを進言するも、通直はそれを聴かず、妾腹の娘の聟、来島城主村上通康を嗣子とし、湯築城に入れた。 老臣たちは、あくまでも通政を擁立し、通康を討ち通直を湯築城から追放の盟約を結び、通政を奉じて湯築城を囲んで、烈しく攻め立てた。
通直に従う者は少なく、通康の家臣のみで防戦するも、通康の居城である来島城に逃れ帰った。通政は諸将とともに、湯築城に入り、来島城攻略を命ずるも、堅固な要害の城を落とすこと叶わず和議となる。交渉の結果は、河野家惣領は通政とし、村上通康を家臣の列に下げる代わり河野姓と家紋の使用を許すという条件で和談が成立した。これによって通直・通康は湯築城に帰還して事件は落着した。
◆家督紛争は解決するも内憂外患が激化
通政(第37代)は性廉直で武備に長じ、上洛して将軍義晴から名を晴通と賜った。彼によって久しく欝屈していた河野氏の家運も開けるかに見えたが、その期待も空しく、天文12年(1543)四月に早逝した。
その跡は予州家から通政の弟通宣(第38代)が迎えられたが、幼少のため、しばらくは通直が後見として政務を見ることになった。これによって、家督の後継をめぐって続いた河野氏の混乱もやっと落ちつくかに見えた。
が、今度は久万山大除城の大野氏や久米郡の岩伽良城主和田通興など国内の対立抗争、さらに豊後大友氏やそれと結んだ土佐一条氏、同じく土佐の長宗我部元親が、しばしば南予の宇和・喜多両郡に侵入し、河野氏の領国を侵す状況に対応を迫られる。
●河野氏の滅亡
第39代河野通直;こうした危機に河野家を預かる病弱の通宣は責務に耐えられず、永禄11年(1568)に隠居し、跡は一族の野間郡高仙山城(越智郡菊間町種)主河野(池原)通吉の子、わずか五歳の牛福丸(通直;第39代)が継ぐ。Wikipediaに拠れば、「村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。 先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。
通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。
豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。
通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ」とある。
◆毛利氏と河野氏
記事に「毛利氏から援軍を得て」とあるが、これは来島村上氏の城砦群巡りでメモしたように、天文24年(1555)毛利氏と陶氏の厳島の合戦に、来島の村上通康らの伊予の水軍が毛利方として加勢し勝利に貢献したことを契機とし、村上三家は毛利から領地を得る。毛利氏は、村上三家の主筋にあたる河野氏との結びつきを強めるべく、毛利輝元の姪を第36代当主・河野通直に嫁すことになる。
南予における一条氏との鳥坂合戦に毛利氏の重臣である小早川が河野氏に与力し勝利に貢献。毛利の出兵は「来島の恩かえし」と呼ばれるが、厳島合戦の支援の恩をここで返す、ということであろう。
◆秀吉の四国平定と来島村上氏
秀吉の四国平定において、村上三家のうち、来島村上氏のみが豊臣方として動く。来島村上氏は、秀吉の四国平定以前、未だ毛利氏と織田氏が対立していた頃、秀吉の誘いに応じ来島村上氏は河野氏を見限り、織田勢についたことに遡る。その当時は、河野氏と同盟関係にあった毛利の小早川氏に攻められ、この後で訪れる鹿島城に逃げ込んだとも、秀吉の元に走った,ともされるが、四国平定時には、村上三家のうち、ひとり家を存続され得ることになる。
来島村上氏が村上三家や河野氏と分かれた要因は、「永禄年12(1569)、北九州の地で毛利・大友両氏が対陣した時、毛利氏に属して出陣した能島家が、大友・尼子両氏と通じて日和見をしたため来島家が苦戦し、それ以後能島家は元亀3年(1572)まで来島家と対陣して、はげしい攻防戦を繰り返した。
来島家は、能島家と争ういっぽう、河野氏に対しても不穏な態度をとるようになった。その原因は、村上通総の父通康が河野家第36代当主・通直の後継者に指名されながら、重臣団の排斥を受けて失格して以来の怨念が爆発したことにあるといわれる。総通は河野通直の指示にもまったく耳をかそうとはしなかったが、これを武力で討伐する力も、通直にはなかったようである(「えひめの記憶」)」。
■村上総通
来島村上の祖とされる村上通康は宇都宮氏との鳥坂合戦の陣中で倒れ急逝。その後を継いだのが村上通総。元亀元年(1570)頃から河野氏と家督や新居郡を巡る処置などで不和が生じ、二度に渡る木津川口の合戦には毛利・河野方として参戦するも、織田・秀吉の誘いに応じ、反河野・毛利として反旗を翻すことになる。
県道178号の仮想散歩
高縄寺を離れ、北条の鹿島に向かう。予定では「石ヶ峠」から北条に向かって県道178号を下る予定であったのだが、工事のため時間通行規制。運悪く通行規制の時間にあたっていたので、県道178号を北条の反対側の国道317号に下り、奥道後方面へと車を進め北条に向かった。
が、このメモをしながら、県道178号を北条に下れば河野氏の本貫地である河野郷や館跡と称される善応寺、また高縄寺の創建の地である横谷などがあることがわかった。Google Street Viewでも県道178号筋は見ることができる。ということで、実際に車で走ったわけではないのだが、県道178号の仮想散歩をすることにした。
●横谷
石ヶ峠から一車線の道を、河野川を右に左にと下る。等高線に逆らわないように道を開いているためか、強烈なヘアピンカーブも随処に見られる。谷合の横谷には30戸ほどの集落があり、天満神社が祀られる。
高縄山への登山道は横谷の北に聳える高穴山(292m)の北の谷筋にある院内から、とあるが、この地にも高縄山登山口があった。道は途中で院内からの登山道と合流し高縄山に続いている。
●河野氏の本貫地
横谷から北に高穴山、南に306mピークをもつ山に挟まれた谷合を進むと、ほどなく前方が開け、風早平野に出る。道の左手に標高238mの雄甲山(おんごうやま)、その海側に192mの雌甲山(めんごうあま)が並び立つ丘陵麓に善応寺がある。この地が伊予の豪族・河野氏が発祥し、居館・城郭を築き伊予の中予・東予をその支配下においた本貫地、河野郷土居である。
◆河野氏の居館
河野氏の館について「えひめの記憶」には、「北条平野の中央部に、風早郡五郷の一つ河野郷があり、平野から約四キロメートルほど東へ入り込み、南・北両側を平行して東西に連なる標高約一二○~一三〇メートルの低い丘陵に挾まれた馬蹄形の小平地―善応寺部落がある―に、両丘陵を天然の土塁として土居は構築された。高縄山(標高九八六メートル)の西斜面に発し、山麓西部を開析して、高穴山(標高二九二メートル)の南側を西流する河野川と、雄甲山(標高二三八メートル)・雌甲山(標高一九二メートル)の南側を河野川と平行して西流する高山川とが、土居内を防衛する濠の役割をつとめた。
東へ向かって緩傾斜の耕地をのぼりつめると、土居の内全体から斎灘までの展望がきく標高七〇メートルの高台があり、建武年間河野通盛が、土居館を改築して創建した河野氏の氏寺善応寺がある。『善応寺縁起』などによって(善応寺文書・一二四一)、寺創建以前の土居館が広壮雄大な居館であったと推察される。この居館の周辺には、河野館の防衛にあたる一族郎従の屋敷が設けられていた」とあった。
善応寺は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した第27代当主・河野通盛が、一族の本拠を河野郷から道後湯築城に移すにあたって、それまでの居館を寺院に改めたものといわれている。
◆高縄城
また、高縄城については「河野郷土居の東部、居館の背後にそそり立つ雄甲・雌甲の二岩峯と、土居の北東端に聳える高穴山には、天嶮を利用してそれぞれ山城を構築して、三つの山城があいまって土居全体の防衛を堅固にしていた。とくに高穴城は、源平合戦当時築かれていた河野氏の主城で、「山高、谷深、四方嶮難」(予陽河野家譜)の要害堅固の城であった。当城は東西に連なる尾根を削平して構築した関係で、東西一二五メートル×南北一七メートルで東西に細長く、東高西低の階段式構造の郭配置をとっている。東部に二六メートル×一四メートルの長円形をした本丸が、長さ一〇メートルの石垣をもつ三メートル×二〇メートルの帯郭を西側に配して南東→北西に連なり、本丸の西、比高一五メートルの段差をもって東西二一メートル×南北一〇メートルの長方形をした二の丸があり、その西斜面は三〇メートルから二つの尾根に分かれ、両尾根に深さ一~三メートル、幅二~八メートルの空堀が掘られ、城の大手口の防衛にあたった。この三城と背後に高く聳える高縄山一帯を総称して高縄山城といったとおもわれる」とあった。
地図を見ていると、雄甲・雌甲の山城は館の後詰、そして高穴の山城は背後からの敵に対する防御渠拠点、高縄山の山城は道後方面から石手川の谷合を侵攻する勢力、今治の蒼社川から立石川を経て侵攻する東予からの敵側への備えの要のようにも見える。単なる妄想ではある。
鹿島
県道178号を瀬戸の海岸線近くまで進み、県道179号に乗り換え鹿島の渡船口に。駐車場に車を停め鹿島に渡る。北条の沖合400mほどのところにある、お椀の形をした鹿島を前面に見ながら、船はほどなく鹿島の桟橋に。鹿島の桟橋近辺は平場となっている。
船を下ると、正面に登山口があるが、右手に鹿島博物展示館がある。とりあえず概要を知るため展示館に。
●鹿島博物展示館
館内には鹿島の歴史や地形、植生などの展示があり、鹿島の概要を知るには大変役立った。この展示館は昭和28年(1953)に開設し、その後昭和52年(1977)に県が立て直し現在に至る、とのこと。展示の説明を以下メモしておく。
◆鹿島の歴史
■7世紀の中頃、外国からの攻撃に備えて、九州と瀬戸内に海の砦(海防城)が築かれました。そのうちの一つが、風早の下門島(鹿島)でした。
■その後、鹿島は伊予を治めた河野水軍の根拠地の一つとなり、建武年間(1334‐1338)に今岡四郎通任によって、階段式連廓構造の鹿島城が築かれました。
■天正十三年(1585)、小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのあと来島氏は九州に移され、鹿島は城主を失いました。
■現在、城郭遺跡としては、島の北東にある二ノ段郭と、長さ約50mの石垣を残すのみです。
■この島には、神功皇后の伝説をはじめ、その出征の物語を残す、髪洗磯、山頂御野立の巌、また河野通有元寇への進発、壇の浦へ馳せ向かう河野通信の語り草など、幾多の歴史物語が刻まれています。
◎「7世紀の中頃、外国からの攻撃に備えて」とあるのは、天智2年(663)に倭国・百済遺臣(百済は西暦660年に滅亡)と唐・新羅連合軍との間で行われた「白村江の戦い」に敗れた倭国(大和大王家)が、唐・新羅(外国)からの侵攻に備えた防衛態勢の一環の砦。
◎今岡四郎。岡部四郎とも。室町の南北朝騒乱の頃の武将。上に述べた河野家の歴史で、伊予に侵攻した細川氏により苦境に陥った河野家第29代当主の通堯に対し、宮方の武将の手引きにより九州の懐良親王に謁見の機会をつくり、武家方(北朝)から宮方(南朝)に移り、伊予に戻り宮方の力を借り復権したとメモした。
今岡四は通堯を九州へ送り届け、また伊予に戻る軍船を提供し、河野家臣団の一翼を担った武将のようである。ややこしい細川氏と河野氏の抗争を上でまとめた甲斐があった。
◎「小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが」とは、秀吉の誘いにより織田方となり、河野家・毛利家と敵対した来島村上氏であるが、秀吉の軍門に下った毛利家の小早川の軍勢により河野家は滅亡する。 この四国平定戦における、来島通総の活躍がめざましく、その先鋒をつとめた。戦後、来島氏は、鹿島城主一万四千石の大名として風早・野間の両郡を統治し、戦国の乱世を生き抜くことになる。なお、通総の兄得居通之も、風早郡に三千石を与えられた。
◆北条地域の地形
■北条地域は松山市の最北部に位置し、東と北は今治市に接し、西は瀬戸内海の斎灘に面しています。
■東西および南北ともに約10㎞のほぼ正方形で、面積約102.4平方km,そのうち山地が約84%を占めています。
■東方は山岳地帯で、その主峰・高縄山(986m)に源を発する大小の河川は、西に向かて流れ、海岸付近に広がる沖積平野を経て、斎灘にそそいでいます。
◆北条地域はどのようにつくられたのでしょう
■中世代にはまだ瀬戸内海はつくられてなく、高縄半島付近から南は海でした。 ■新生代の中頃、日本列島の誕生と共に、四国の元になる島ができ、数百万年前に今の高縄山から石鎚山にかけて激しい火山活動が起こりました。
■約2百万年前頃から高縄山や石鎚山系が隆起し、浸食を受けてそれぞれの火山体はけずられ、マグマの上ってくる通路だけが岩頸(溶岩などが塔状に露出して残った岩)として残り、現在の鹿島や恵良山、腰折山、雄甲山、雌甲山などが形作られました。
鹿島や恵良山が安山岩で出来ているのはこのためです。この頃の瀬戸内海にはナウマン象がたくさん棲んでいました。
◎「約2百万年前頃から高縄山や石鎚山系が隆起し」とあるが、「約2百万年前頃」といえば説明にもあるように、「新生代」である。先回のメモで、「予讃線に沿って、東の波止浜から沢池のあたりまで里の帯が続き、山地が南北に分けられている。また、同じく南の国道196号にそった道筋も、近見山のある山地と高縄山のある山地を分けている。河川によって開析された、というだけにしてはあまりに美しく高縄半島の山地を帯状に分けている。
河川の開析作用以外に、なにかの要因がないものかと地質をあれこれしらべていると、今治の地質地図があり、そこに「第四系」と「領家花崗岩類」に色分がしてあり、「第四系」が今治の平野部と山地を分けるふたつの平地と重なる。 地質学のことなどよくわからないのだが、「領家花崗岩類」は中世代(9000万年から6000万年前頃)の地層で、「第四系」は新生代(260万年ほど前から現在まで)の地層という。山地部分が中世期の造山活動の名残りで、平坦地が新世紀の洪積層、沖積層ということだろうか」とメモしたのだが、この説明と矛盾が生じた。どちらが正しいのか地質学の門外漢ではあるが、地形図では山地部分は中世代の「領家花崗岩類」とぴったり重なって入る。はてさて。
◆高縄山の植物、鹿島の植物
高縄山の植物、鹿島の植物の説明もあったのだが、いまひとつフックがかからないため、メモは省略。
鹿島城跡
説明に「現在、城郭遺跡としては、島の北東にある二ノ段郭と、長さ約50mの石垣を残すのみです」とある鹿島城跡へと向かう。
●石垣跡
鹿島城跡への道を上ると、頂上にある展望台の手前に平坦地があり、その手前にそれらしき石垣が残る。道から少し逸れているので、崖の斜面を這い上がり石垣を確認。
●鹿島城跡
石垣上の平坦地には「鹿島城跡」の案内があり、「中世における伊予の国の覇者、河野氏の海域の古城跡であるが、最後の城主来島通総は豊臣秀吉の四国征伐に先鋒水軍として活躍した功により、鹿島城主に任ぜられたが、関ヶ原の戦いの際、西軍に加わった関係から、豊後国森に転封され廃城となった。島の頂上、南角等に築城、当時のものらしい石積の崩れた姿が残っている」とあった。 この平坦地は「二の段」とも「二の平」とも称される。
●郭跡
平坦部から展望台に向かう途中、如何にも郭跡といった崩れた石組み跡が残る。「当時のものらしい石積の崩れた姿」と説明にあったので、この辺りが郭跡であろうか。
◆鹿島城の経緯
◎築造;建武年間(1334‐1338)に今岡四郎通任によって、階段式連廓構造の鹿島城が築かれる。但し、確定されてはいないようだ。尚、今岡四郎については上にメモしているので、ここでは省略。
◎鹿島城の初見;明応8年(1499年)に第35代・河野通宣の頃
◎天正年間(1573年~1592年)初期には二神豊前守が城代:来島城主村上通総は、元亀元年(1570)河野氏に背き、天正7年には風早郡鹿島城代二神豊前守と結んで、河野氏に反抗した。
この二神氏と野間郡高仙城主池原氏との間に紛争が起こり、この海域で合戦が行われ、池原氏が勝利したとも、二神氏が池原氏を城に招き闇討ちするも失敗に終わり、河野氏により城は落城したとも言われる。
この頃の来島村上氏の当主は村上通総。河野家は第39代河野通直。この河野通直は野間郡の池原通吉の嫡男であり、対する村上通総は第36代河野通直の後、河野家の家督を継げなかった村上通康の嫡子である。家督相続を巡る通総の遺恨が根底にあるのだろうか?単なる妄想。根拠なし。
◎来島城主村上(来島)通総の兄得居通幸が城主:天正6年(1578年)から天正8年(1580年)頃に伊予国松山の島嶼にある鹿島城主になったと考えられ、家臣達を悉く鹿島(現在の松山市沖)へ渡らせている。後に城主となった。
天正10年(1582年)来島村上氏は、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城の得居通幸は攻撃を退けた(Wikipedia)。
◎村上(来島)通総が城主に:秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。
◎廃城;慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となり廃城となった。
御野立の巌(おのだちのいわお)
郭跡の崩れた石積みの箇所から少し上ると展望台。鹿島城の「一の平」とも称されていた場所でもある。高縄山や瀬戸の斎灘のパノラマが広がる。「伊予の二見岩」とも称される夫婦岩も沖合30mほどのところに見える。
その崖端に岩が残り、そこを「御野立の巌」と称する。案内に拠れば、「神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止め、軍備・旅装を整えられると この巌に立って、弓に矢をつがえ、沖に放たれて戦勝を祈願し、勇躍大津地の湊を出発されたと伝えられている。
他に御野立の巌に立ち思いにふけったとの伝説や西海(朝鮮地方)を眺めたとの伝説がある」とあった。
「大津地」とは北条の港の古称。津地港(辻港)とも呼ばれていたようである。「神功皇后は西征とは、朝鮮半島の新羅への出兵を指す。神功皇后は仲哀天皇の妃、応神天皇の母とされるが、実在の人物かどうか不詳である。直木幸次郎氏は、朝鮮半島への出兵を画した斉明天皇、持統天皇をそのモデルとする。
鹿島神社
道を下り桟橋に向かう。道を成り行きで下ると、鹿島神社脇に出た。この武人の神である鹿島神社の創建は不詳だが、鎌倉期以降、河野氏によって勧請されたものと伝わる。鹿島城の築城は建武年間とされるが、当時本拠地を本貫地である北条の河野郷から道後の湯築城に移すに際し、海上防御の拠点として築城した鹿島城の守護として祀られたのかもしれない。
●要石
境内に要石。案内には「この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で抑えているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。かたわらの石に次の歌が刻まれている。
ゆるぐとも よもやぬけじな要石 鹿島の神のおわすかぎりは」とあった。
●鹿島の案内
同じく境内に「鹿島」の案内。「鹿島 鹿島は古くからあった花崗岩の中へ新第3紀中新世(1,000万年以上前)頃の火山活動によって、安山岩が噴出し、その後長い間の浸食によって残った山と考えられます。
島には暖地性の植物が自生し、野生の鹿が、生息しています、島の周りの岩礁には、海岸動物や海藻もかなり多く見られます」とあった。
◎鹿島博物展示館での「200万年前頃からの火山活動云々」との説明と矛盾するように思うのだが。逆に、私が見つけた地形図からの資料とは合致する。どちらにしても、気の遠くなるような昔々のこと。どちらがどうだかわからないが、とりあえずは火山活動の結果として出来た島、ということで良しとする。
●鹿島と渥美清さん
境内を出たところに歌碑があり、「お遍路が 一列に行く 虹の中 渥美清」と刻まれる。その横に「鹿島と渥美清さん」との案内。
案内には、「この俳句は、俳優『渥美清』さんが鹿島で詠んだ句です。寅さんで知られる俳優『渥美清』さんは、鹿島を第二の故郷として、たびたび来島し、宿泊しました。
親友であった北条出身で『花へんろ』の作者でもある早坂暁さんに連れられて鹿島を訪れた渥美さんは、名物の鯛めしに舌鼓を打ち、島の時間を楽しんだそうです。句碑の文字は早坂暁さんの文字です。
お遍路が 一列に行く 虹の中」とあった。
渥美清さんは俳句を詠んだとのことで、俳号「風天」を持つ、と言う。 これで本日の散歩は終了。河野氏の歴史を纏めるのは結構難儀ではあったが、愛媛と言えば河野氏、という以上、愛媛の散歩に際し、いつかはまとめの作業は必要ではあったかと思う。実際、まとめながら、雄甲・雌甲山、善応寺などそのうち歩いてみたい所も現れてきた。次回帰省のお楽しみとする。
来島村上氏の城砦群を辿るアーカイブ
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