先日中世の甲州街道を歩いた。山梨の塩山から大菩薩峠を越え、奥多摩の小菅村に抜ける峠道である。で、中央線に乗り塩山に向かう途中、JR大月駅前に聳える岩山に目が止まった。「ひょっとしてあの岩山って岩殿山?」同行の仲間に訪ねた。然り、と。いやはや、偶然に岩殿山に出合った。この岩山には岩殿城跡がある。
関東を歩いていると、折に触れて北条氏の事跡が登場する。岩殿城もそのひとつ。小山田氏の居城である。小山田氏のことをはじめて知ったのは昭島の滝山城散歩の時。碓井峠方面より侵攻した本隊に呼応し、小仏峠の山道を切り開き北条方を奇襲し勝利を収めた。北条方はまさか険路・小仏峠方面から武田の軍勢が侵攻するとは夢にも思っていなかった、と。世に言う廿里合戦である。大菩薩行から数週間を経た晩秋のとある休日、岩殿城を訪れた。
七社権現洞窟
道を下る。崖側に柵もあり、また木立が眼下を防いでくれるので、崖への怖さはない。そうとなれは足取りも軽く下る。しばらく進むと「七社権現洞窟2分」の案内。分岐道を洞窟に。倒木が道を防ぐ細路を上ると洞窟に七社権現。少し奥まったところに祠が見える。散歩の折々に登場する聖護院道興(しょうごいんどうこう)が「岩殿の明神と申して霊社ましましける。参詣し侍りて、歌よみて奉りけり」などとして、『あひ難きこ此のいわはどののかみや知る世々にく朽ちせぬ契り有りとは』と詠んだのはこの権現様。
で、七所権現って、伊豆権現・箱根権現・日光権現・白山権現・熊野権現・蔵王権現・山王権現の七社。ありがたや、七カ所の権現様を一堂に祀る。ここをお参りすれば七カ所の権現様からの功徳を受ける、ということ、か。熊野の三所権現がプロトタイプであろうが、この地の先達が伊豆・箱根の権現様の先達も兼ねるようになり五所権現、さらに各地の現様もカバーするようになり七所権現となったのであろう、か。で、現在七体の仏様は岩殿山の東府麓にある真蔵寺におさめられている。
葛野川
七社権現洞窟から元の下り道に戻る。少し下ると舗装道路が見えてきた。岩殿山散歩もこれで終わり。下りも30分弱、というとことか。道路に降りる。すぐ近くに古びた堂宇。傍に円通寺三重塔跡。これといって何があるわけでない。取り急ぎ、次の目的地である猿橋に向かうべく、甲州街道まで進む。
道なりに賑岡(にぎおか)地区を進む。
ゆったり、のんびり歩を進めると前方に中央高速の橋桁が見えてくる。道が橋桁とクロスするあたりに川筋が。葛野川である。この川の上流域をチェックすると葛野川ダム、それとその近くに松姫峠がある。
松姫峠って、先日の大菩薩から奥多摩の小菅村に抜けるときに歩いた牛ノ寝尾根の東端にある峠。
峠の名前の由来は武田信玄の娘・松姫から。武田家滅亡に際し、この峠道を武州・八王子へと落ち延びた、とも。ちなみに、松姫が庇い、共に落ち延びた香具姫って、岩殿城主小山田信茂の娘。八王子に無事に逃れ、松姫によって育てられた。奇しき因縁。奇しき因縁といえば、もうひとつ。武田家を滅ぼした織田方の総大将である織田信忠と松姫は婚約者であった。
甲州街道
中央高速との交差地点から南に下り、桂川を渡ると甲州街道。JR猿橋駅前の交差点を東に向かう。次の目的地は猿橋。日本三奇橋として名高い猿橋を訪ねることに。車の往来の激しい道路脇のささやかなる歩道を進む。いつものことながら、トラックの風圧が少々怖い。1キロ強歩くと、大月市郷土資料館の案内。ちょっと立ち寄ることに。甲州街道を北に折れ、町中にs入る。台地を側に向かて少しくだったところに郷土館があった。
大月市郷土資料館
郷土館の1階は企画展。2階は常設展示。2階に上り大月の歴史をざっと眺める。甲州街道の道筋の説明が目に入る。小仏峠から相模湖への道筋は知っていたのだが、それから先の道筋は知らなかった。展示地図を見ると、現在の甲州街道と離れた道筋は小仏峠から相模湖の道筋以外に、上野原から猿橋のひとつ東の駅・鳥沢まで、それと笹子峠を越える道筋である。大いに惹かれる。近々これらの道筋を歩こう、との思い強し。
柱状節理
郷土資料館を離れ、猿橋に向かう。資料館のすぐ隣に猿橋公園。猿橋への道案内に従い公園内を進む。公園南の崖は富士山が噴火したときの溶岩流が桂川に沿って流れた末端部。溶岩が急速に冷却されたできた柱状節理の形状がはっきりわかる。
JR鳥沢駅
散歩のルート:JR大月駅>桂川>岩殿山城址入口>ふれあい館>揚城戸門>岩殿山頂>七社権現洞窟>葛野川>甲州街道>大月市郷土資料館>柱状節理>猿橋>JR鳥沢
大月駅
JR中央線の各駅停車でのんびり大月に。中央高速ではしばしば目にする地名ではあるが、JRでははじめて。つつましやかなる駅舎である。駅のホームから岩殿山が見える。いかにも魅力的な山容。
駅前もゆったり。観光案内を探すが、見当たらない。とはいうものの、目的の地は眼前に聳えているわけであり、地図もなくてもなんとか行けそう。ということで、のんびりした商店街を進む。
この大月の地には平安時代、武蔵七党横山氏の分流古郡氏が居を構えた、と。その古郡氏が和田義盛の乱により滅亡した後、武田領となり、小山田氏が治めることに。
江戸時代は甲州街道の第20番の宿場町。江戸から93.7キロのところにあった。地名の由来は大槻(ケヤキ)が群生していた、から。その後、美しい月も見える、という地勢故に、いつしか大槻が大月になった。とか。
桂川
駅前の路地を東に進む。このあたりの地名は御太刀(みたち)。やんごとなき方の太刀のあれこれに由来するのだろうか。が、詳細不明。駅のホームの東端の少し先で線路を越え、道なりに岩殿山方向へ進む。大月市民会館交差点を過ぎると高月橋。桂川に架かる。
桂川は相模川の上流部の名称。水源は富士山麓の山中湖。名前の由来は京都の桂川から、といった説もあるが不明。大月から少し下った猿橋のあたりに桂川に合流する川があるのだが、その名前が葛野川。葛=かずら>かつら、との説も。桂って「つる」のことでもあるので納得。
高月橋は、大槻が大月となるきっかけとなった、高く照らす大きなお月さんがよく見えた場所、から、と勝手に解釈。
岩殿山城址入口
橋を渡り山裾を上る県道139号線を進む。道が少しカーブするあたりに岩殿山城址入口の案内。整地された坂道を上ると鳥居があり、そこに岩殿山の由来を述べた案内。概要をメモする;岩殿山は9世紀末、天台宗岩殿山円通寺として開創。10世紀には堂宇並ぶ門前町を形成。13世紀には天台系聖護院末の修験道の中心として栄える。
16世紀には武田、小山田両氏の支配下。岩殿城が築かれ相模、武蔵に備える。1582年、武田・小山田氏の滅亡により、徳川の支配を経て17世紀に廃城となる。
円通寺も明治期に神仏分離政策により廃寺。現在は東麓に三重塔跡、常楽院、大坊跡、また山頂には空堀、本城、亀ケ池といった遺構が残る。
ふれあい館
鳥居を過ぎ、階段を上る。彼方に富士、眼下の河岸段丘には大月の街が広がる。先に進むと丸山公園。お城の形をした建物・ふれあい館がある。1階は映像ホール、2階は展示室。2階の展示室には小山田氏の説明や大月の紹介ビデオが容易されていた。
小山田氏:桓武平氏の流れをくむ秩父党の出。町田の小山田の地に居をかまえ、小山田氏を名乗る。鎌倉期、頼朝を助け秩父党の重鎮たるも、畠山重忠謀殺の変に巻き込まれ一族のほとんどが滅する。で、かろうじて難を逃れた一派が甲斐の国・都留の地に居を構える。戦国期には武田氏、穴山氏と並ぶ勢力として甲斐の国に分立。後に武田氏に帰属するも、一定の独立性を保っていた、とか。
小山田氏で有名な武将は小山田信茂。信玄のもと、幾多の合戦において猛将の誉れを受ける。上でメモした廿里合戦もこの岩殿城から出撃する。険阻なる小仏峠から高尾へ進出。高尾駅北の台地あたりで北条の軍勢を破った。北条方が戦略上の拠点を昭島の滝山城から八王子城に移したのも、この小山田信茂の進出がきかっけ。小仏峠方面からの武田勢に備えるためである。ちなみに小仏峠越えの先達をつとめたのは岩殿円通寺の修験者であった、とか。
猛将信茂が評判を落としたのが武田勝頼への裏切り。織田信忠を総大将とする織田の軍勢により戦いに破れ、この岩殿城に落ち延びようとする武田勝頼に反旗を翻す。逃げ場を失った勝頼は天目山で自害。武田家が滅亡する。
織田軍の甲斐平定後、信長への伺候のため信忠に拝謁。が、勝頼への不忠を咎められ処刑される。とはいえ、小山田氏は単なる武田の家臣ではなく、一定の独立性を保っていたため、武田の家臣ではないわけで、家臣故の不忠という非難はあたらない、という説もある。
大月案内のビデオを見ながら少々休憩。受付でもらった資料を眺める。見所やコースが紹介されている。JR猿橋駅近くに名勝猿橋がある。大月市の郷土資料館も。そして岩殿山からJR猿橋方面への下りもある。であれば、ということで山頂からは猿橋方面に下ることに方針決定。富士を眺めながら腰を上げる。
揚城戸門
階段を上る。眼下に広がる眺めに感激。歩いては下を眺め、富士を眺め、また歩く。山側を見やると切り立った岩壁が聳える。修験道の修行場としての岩殿山というフレーズに、大いに納得。とはいうものの、高度をあげるにつれ谷側の崖が気になってくる。普通の人にはどうということのない石段なのだろうが、高所恐怖症の気味がある我が身としては少々怖い。何となくへっぴり腰の上りとなる。なんとか早く山頂に着きたいものだ、との思いだけで目を細め、谷川から目をそらし先に進む。
しばらくすすむと巨大な自然石が道の両側に迫る。揚城戸門。自然石が城門として利用されている。先に番所跡。揚城戸を守る番兵の詰所跡である。
さらに進むと尾根筋の先端に案内板。岩殿山西端に大露頭部のあったところ、とか。現在は風化・浸食が進み崩落の危険があるため破砕撤去されたが、もとは西の物見台跡とも、修験場とも言われていた、と。ここまでくると北の山容が目に入る。大菩薩へ峰筋であろう。まことに素晴らしい眺めである。
大月駅
JR中央線の各駅停車でのんびり大月に。中央高速ではしばしば目にする地名ではあるが、JRでははじめて。つつましやかなる駅舎である。駅のホームから岩殿山が見える。いかにも魅力的な山容。
駅前もゆったり。観光案内を探すが、見当たらない。とはいうものの、目的の地は眼前に聳えているわけであり、地図もなくてもなんとか行けそう。ということで、のんびりした商店街を進む。
この大月の地には平安時代、武蔵七党横山氏の分流古郡氏が居を構えた、と。その古郡氏が和田義盛の乱により滅亡した後、武田領となり、小山田氏が治めることに。
江戸時代は甲州街道の第20番の宿場町。江戸から93.7キロのところにあった。地名の由来は大槻(ケヤキ)が群生していた、から。その後、美しい月も見える、という地勢故に、いつしか大槻が大月になった。とか。
桂川
駅前の路地を東に進む。このあたりの地名は御太刀(みたち)。やんごとなき方の太刀のあれこれに由来するのだろうか。が、詳細不明。駅のホームの東端の少し先で線路を越え、道なりに岩殿山方向へ進む。大月市民会館交差点を過ぎると高月橋。桂川に架かる。
桂川は相模川の上流部の名称。水源は富士山麓の山中湖。名前の由来は京都の桂川から、といった説もあるが不明。大月から少し下った猿橋のあたりに桂川に合流する川があるのだが、その名前が葛野川。葛=かずら>かつら、との説も。桂って「つる」のことでもあるので納得。
高月橋は、大槻が大月となるきっかけとなった、高く照らす大きなお月さんがよく見えた場所、から、と勝手に解釈。
岩殿山城址入口
橋を渡り山裾を上る県道139号線を進む。道が少しカーブするあたりに岩殿山城址入口の案内。整地された坂道を上ると鳥居があり、そこに岩殿山の由来を述べた案内。概要をメモする;岩殿山は9世紀末、天台宗岩殿山円通寺として開創。10世紀には堂宇並ぶ門前町を形成。13世紀には天台系聖護院末の修験道の中心として栄える。
16世紀には武田、小山田両氏の支配下。岩殿城が築かれ相模、武蔵に備える。1582年、武田・小山田氏の滅亡により、徳川の支配を経て17世紀に廃城となる。
円通寺も明治期に神仏分離政策により廃寺。現在は東麓に三重塔跡、常楽院、大坊跡、また山頂には空堀、本城、亀ケ池といった遺構が残る。
ふれあい館
鳥居を過ぎ、階段を上る。彼方に富士、眼下の河岸段丘には大月の街が広がる。先に進むと丸山公園。お城の形をした建物・ふれあい館がある。1階は映像ホール、2階は展示室。2階の展示室には小山田氏の説明や大月の紹介ビデオが容易されていた。
小山田氏:桓武平氏の流れをくむ秩父党の出。町田の小山田の地に居をかまえ、小山田氏を名乗る。鎌倉期、頼朝を助け秩父党の重鎮たるも、畠山重忠謀殺の変に巻き込まれ一族のほとんどが滅する。で、かろうじて難を逃れた一派が甲斐の国・都留の地に居を構える。戦国期には武田氏、穴山氏と並ぶ勢力として甲斐の国に分立。後に武田氏に帰属するも、一定の独立性を保っていた、とか。
小山田氏で有名な武将は小山田信茂。信玄のもと、幾多の合戦において猛将の誉れを受ける。上でメモした廿里合戦もこの岩殿城から出撃する。険阻なる小仏峠から高尾へ進出。高尾駅北の台地あたりで北条の軍勢を破った。北条方が戦略上の拠点を昭島の滝山城から八王子城に移したのも、この小山田信茂の進出がきかっけ。小仏峠方面からの武田勢に備えるためである。ちなみに小仏峠越えの先達をつとめたのは岩殿円通寺の修験者であった、とか。
猛将信茂が評判を落としたのが武田勝頼への裏切り。織田信忠を総大将とする織田の軍勢により戦いに破れ、この岩殿城に落ち延びようとする武田勝頼に反旗を翻す。逃げ場を失った勝頼は天目山で自害。武田家が滅亡する。
織田軍の甲斐平定後、信長への伺候のため信忠に拝謁。が、勝頼への不忠を咎められ処刑される。とはいえ、小山田氏は単なる武田の家臣ではなく、一定の独立性を保っていたため、武田の家臣ではないわけで、家臣故の不忠という非難はあたらない、という説もある。
大月案内のビデオを見ながら少々休憩。受付でもらった資料を眺める。見所やコースが紹介されている。JR猿橋駅近くに名勝猿橋がある。大月市の郷土資料館も。そして岩殿山からJR猿橋方面への下りもある。であれば、ということで山頂からは猿橋方面に下ることに方針決定。富士を眺めながら腰を上げる。
揚城戸門
階段を上る。眼下に広がる眺めに感激。歩いては下を眺め、富士を眺め、また歩く。山側を見やると切り立った岩壁が聳える。修験道の修行場としての岩殿山というフレーズに、大いに納得。とはいうものの、高度をあげるにつれ谷側の崖が気になってくる。普通の人にはどうということのない石段なのだろうが、高所恐怖症の気味がある我が身としては少々怖い。何となくへっぴり腰の上りとなる。なんとか早く山頂に着きたいものだ、との思いだけで目を細め、谷川から目をそらし先に進む。
しばらくすすむと巨大な自然石が道の両側に迫る。揚城戸門。自然石が城門として利用されている。先に番所跡。揚城戸を守る番兵の詰所跡である。
さらに進むと尾根筋の先端に案内板。岩殿山西端に大露頭部のあったところ、とか。現在は風化・浸食が進み崩落の危険があるため破砕撤去されたが、もとは西の物見台跡とも、修験場とも言われていた、と。ここまでくると北の山容が目に入る。大菩薩へ峰筋であろう。まことに素晴らしい眺めである。
岩殿山頂
大菩薩行を思い出しながら先に進む。山頂はすぐ。上り口から30分弱といったところ、か。岩殿山の標高は634m。上り口は標高340m程度であるので、比高差300mほど。上る前は650m弱の山っって結構大変かと思っていたのだが、それほどでもなかった。
大菩薩行を思い出しながら先に進む。山頂はすぐ。上り口から30分弱といったところ、か。岩殿山の標高は634m。上り口は標高340m程度であるので、比高差300mほど。上る前は650m弱の山っって結構大変かと思っていたのだが、それほどでもなかった。
山頂は平地となっている。東屋や乃木将軍碑も。相変わらず富士は美しい。北も南も一望のもと。逆行であり携帯デジカメでは思うような写真が撮れないのが残念である。眼下に中央高速が大月の河岸段丘をうねっている。桂川って結構深い渓谷である。
岩殿城の案内をメモ;岩殿城は難攻不落の城。南方の桂川下流には相模、武蔵。西側の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、烽火台網の拠点であった。城跡には本丸、二の丸、三の丸、倉屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸のほか、空堀、井水、帯曲輪、烽火台、ば馬場跡がある。また、断崖下の七所権現、新宮などの大洞窟が兵舎や物見台として用いられている、と。
岩殿城の案内をメモ;岩殿城は難攻不落の城。南方の桂川下流には相模、武蔵。西側の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、烽火台網の拠点であった。城跡には本丸、二の丸、三の丸、倉屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸のほか、空堀、井水、帯曲輪、烽火台、ば馬場跡がある。また、断崖下の七所権現、新宮などの大洞窟が兵舎や物見台として用いられている、と。
平地の先に最高点。本丸はそこにある。猿橋方面への下り道を確認しながら、馬場跡、武器や日用品を納めていた倉屋敷跡を越え山頂に。本丸跡。とはいうものの、現在はNTTの電波施設に占有されており、これといった趣なし。
馬場跡付近に井戸があったようだが、残念ながら見逃してしまった。こんな山頂に水が湧くってちょっと不思議、である。この井戸にまつわる行基上人の縁起もあ
る。修験者がこの山を修験道場としたのも、小山田氏が城をこの岩山に築いたのも、この湧水の賜物であることは言うまでもない。
見てもいないのにあれこれと考えるのはなんだかなあ、とは思いながらも、岩山に水が湧く、その理由が気になる。どこかの岩山で同様の井戸があるという記事を読んだ覚えがある。岩山から地下水路に向かって井戸を掘り抜いた、とのことである。が、この岩山は少々高すぎる。数百メートルも岩盤をくり抜けるとも思えない。思うに、勝手な想像ではあるが、この岩山の湧水って、最高点のある岩盤域と東屋のあった平らな頂上部の岩盤域の境目から湧き出たた水ではなかろう、か。降った雨が山頂に滲み込む。が、下は岩盤。行き場を失った水が岩盤域の境目にそって進み、この井戸あたりで湧き出ているのでは、と。これといった根拠なし。
見てもいないのにあれこれと考えるのはなんだかなあ、とは思いながらも、岩山に水が湧く、その理由が気になる。どこかの岩山で同様の井戸があるという記事を読んだ覚えがある。岩山から地下水路に向かって井戸を掘り抜いた、とのことである。が、この岩山は少々高すぎる。数百メートルも岩盤をくり抜けるとも思えない。思うに、勝手な想像ではあるが、この岩山の湧水って、最高点のある岩盤域と東屋のあった平らな頂上部の岩盤域の境目から湧き出たた水ではなかろう、か。降った雨が山頂に滲み込む。が、下は岩盤。行き場を失った水が岩盤域の境目にそって進み、この井戸あたりで湧き出ているのでは、と。これといった根拠なし。
電波塔の防護柵に沿って山頂を東端に。東端を少し下ったところに空堀跡が残る。落ち葉で滑りやすい坂を少し下り空堀跡に。猿橋方面への下りはあるのだが、なんとなく足下がおぼつかない。怖がりの我が身としては、一も二もなく引き返す。本丸跡を下り、先ほど確認した猿橋への下り口に。断崖などのない、おだやかな道であることを祈るのみ。
七社権現洞窟
道を下る。崖側に柵もあり、また木立が眼下を防いでくれるので、崖への怖さはない。そうとなれは足取りも軽く下る。しばらく進むと「七社権現洞窟2分」の案内。分岐道を洞窟に。倒木が道を防ぐ細路を上ると洞窟に七社権現。少し奥まったところに祠が見える。散歩の折々に登場する聖護院道興(しょうごいんどうこう)が「岩殿の明神と申して霊社ましましける。参詣し侍りて、歌よみて奉りけり」などとして、『あひ難きこ此のいわはどののかみや知る世々にく朽ちせぬ契り有りとは』と詠んだのはこの権現様。
で、七所権現って、伊豆権現・箱根権現・日光権現・白山権現・熊野権現・蔵王権現・山王権現の七社。ありがたや、七カ所の権現様を一堂に祀る。ここをお参りすれば七カ所の権現様からの功徳を受ける、ということ、か。熊野の三所権現がプロトタイプであろうが、この地の先達が伊豆・箱根の権現様の先達も兼ねるようになり五所権現、さらに各地の現様もカバーするようになり七所権現となったのであろう、か。で、現在七体の仏様は岩殿山の東府麓にある真蔵寺におさめられている。
葛野川
七社権現洞窟から元の下り道に戻る。少し下ると舗装道路が見えてきた。岩殿山散歩もこれで終わり。下りも30分弱、というとことか。道路に降りる。すぐ近くに古びた堂宇。傍に円通寺三重塔跡。これといって何があるわけでない。取り急ぎ、次の目的地である猿橋に向かうべく、甲州街道まで進む。
道なりに賑岡(にぎおか)地区を進む。
ゆったり、のんびり歩を進めると前方に中央高速の橋桁が見えてくる。道が橋桁とクロスするあたりに川筋が。葛野川である。この川の上流域をチェックすると葛野川ダム、それとその近くに松姫峠がある。
松姫峠って、先日の大菩薩から奥多摩の小菅村に抜けるときに歩いた牛ノ寝尾根の東端にある峠。
峠の名前の由来は武田信玄の娘・松姫から。武田家滅亡に際し、この峠道を武州・八王子へと落ち延びた、とも。ちなみに、松姫が庇い、共に落ち延びた香具姫って、岩殿城主小山田信茂の娘。八王子に無事に逃れ、松姫によって育てられた。奇しき因縁。奇しき因縁といえば、もうひとつ。武田家を滅ぼした織田方の総大将である織田信忠と松姫は婚約者であった。
甲州街道
中央高速との交差地点から南に下り、桂川を渡ると甲州街道。JR猿橋駅前の交差点を東に向かう。次の目的地は猿橋。日本三奇橋として名高い猿橋を訪ねることに。車の往来の激しい道路脇のささやかなる歩道を進む。いつものことながら、トラックの風圧が少々怖い。1キロ強歩くと、大月市郷土資料館の案内。ちょっと立ち寄ることに。甲州街道を北に折れ、町中にs入る。台地を側に向かて少しくだったところに郷土館があった。
大月市郷土資料館
郷土館の1階は企画展。2階は常設展示。2階に上り大月の歴史をざっと眺める。甲州街道の道筋の説明が目に入る。小仏峠から相模湖への道筋は知っていたのだが、それから先の道筋は知らなかった。展示地図を見ると、現在の甲州街道と離れた道筋は小仏峠から相模湖の道筋以外に、上野原から猿橋のひとつ東の駅・鳥沢まで、それと笹子峠を越える道筋である。大いに惹かれる。近々これらの道筋を歩こう、との思い強し。
柱状節理
郷土資料館を離れ、猿橋に向かう。資料館のすぐ隣に猿橋公園。猿橋への道案内に従い公園内を進む。公園南の崖は富士山が噴火したときの溶岩流が桂川に沿って流れた末端部。溶岩が急速に冷却されたできた柱状節理の形状がはっきりわかる。
猿橋
溶岩の崖に沿って進み、東端から階段を崖上にのぼると猿橋。渓谷に木の橋が架かる。渓谷の幅は30mほど。高さも30mほど。橋桁をかけることができないので、両岸からせり出した四層の支柱によって橋を支えている。
この橋、一見すると木橋のようではあるが、現在の橋はH鋼を木材で覆ったもの。1984年に18世紀中頃の橋の姿を復元した。橋の形も往古は吊り橋であった、との説もあるが、18世紀中頃には現在のような形の橋になっていた、と言う。
橋の歴史は古い。奈良時代、7世紀初頭の推古天皇の頃、百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る、という伝説があるほど、だ。また、室町期、15世紀の中頃には、岩殿山でも触れた聖護院門跡道興がこの地を訪れ、『廻国雑記』に「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり」と述べている。
戦国期は武田方の防御拠点であったろうし、江戸期には甲州街道の往来も多く、広重は「甲陽猿橋之図」を描き、十返舎一九、荻生徂徠なども猿橋を描いている。
橋からの眺めをしばし楽しみ、次いで、橋の下へと続く階段を下る。橋の下の岩場から猿橋を眺める。渓谷美はなかなかのもの。橋の下、川面との中空に架かる橋状のものは水路橋。上流の駒橋発電所で利用した水を下流の発電所で再活用するために通している。昔の写真を見ると、水路の上を機関車が走っている。もともとは、この地を中央線が走っていたのだが、1968年の複線化工事に際し、現在の南回りルートに変わり、鉄路は消えた。
溶岩の崖に沿って進み、東端から階段を崖上にのぼると猿橋。渓谷に木の橋が架かる。渓谷の幅は30mほど。高さも30mほど。橋桁をかけることができないので、両岸からせり出した四層の支柱によって橋を支えている。
この橋、一見すると木橋のようではあるが、現在の橋はH鋼を木材で覆ったもの。1984年に18世紀中頃の橋の姿を復元した。橋の形も往古は吊り橋であった、との説もあるが、18世紀中頃には現在のような形の橋になっていた、と言う。
橋の歴史は古い。奈良時代、7世紀初頭の推古天皇の頃、百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る、という伝説があるほど、だ。また、室町期、15世紀の中頃には、岩殿山でも触れた聖護院門跡道興がこの地を訪れ、『廻国雑記』に「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり」と述べている。
戦国期は武田方の防御拠点であったろうし、江戸期には甲州街道の往来も多く、広重は「甲陽猿橋之図」を描き、十返舎一九、荻生徂徠なども猿橋を描いている。
橋からの眺めをしばし楽しみ、次いで、橋の下へと続く階段を下る。橋の下の岩場から猿橋を眺める。渓谷美はなかなかのもの。橋の下、川面との中空に架かる橋状のものは水路橋。上流の駒橋発電所で利用した水を下流の発電所で再活用するために通している。昔の写真を見ると、水路の上を機関車が走っている。もともとは、この地を中央線が走っていたのだが、1968年の複線化工事に際し、現在の南回りルートに変わり、鉄路は消えた。
JR鳥沢駅
橋の袂の店で、「山梨と言えば、ほうとう、でしょう」と名物を食す。しばし休憩の後、本日最後の目的地であるJR鳥沢へ向かう。2キロ強、といった道のりである。鳥沢までの道筋は、途中、道脇に先ほどの水路橋からの流路などの少々のアクセントはあるものの、ひたすら車の往来の多い甲州街道を進むだけ。鳥沢に近づくと、昔の宿場町の雰囲気を残す家並もちらほら、と。大月駅から10キロ弱を歩き、JR鳥沢駅に到着。本日の散歩を終える。
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