先日、八菅修験の行場を八菅山から4番行場である塩川の谷へと辿った途中、半僧坊で知られる勝楽寺の対岸、中津川が大きく湾曲する田代地区に環流丘陵が残ることを知った。好奇心に駆られながらも、そのときは塩川の谷に有るという金剛瀧や胎蔵瀧探しのことで頭は一杯。とてもではないが環流丘陵を辿る気持ちの余裕はなかった。
で、今回気分も新たに田代地区の環流丘陵を見に出かける。環流丘陵とは流路の変化によって取り残された丘陵のこと。地形図でチェックすると、成るほど、田代地区の沖積地の真ん中に独立した丘陵がぽつりと残る。山地の谷間を蛇行する流れを「穿入蛇行」と呼ぶが、この地において何らかの原因による流路の変更によって旧流路と新たな流路の谷の間に丘陵が取り残されたのではあろう。 アプローチは環流丘陵を俯瞰できればと、中津川の崖面上の中津原台地から田代地区へ下るべし、といった大雑把なルートを想い散歩にでかける。
本日のルート;小田急線・本厚木駅>愛川バスセンター>県道65号>県道54号>桜坂>姫の松>地神社>横須賀水道道路・半原系統>角田八幡神社>市杵島神社>中津川台地の高位段丘面>中央養鶏場>辻の神仏>三増合戦記念碑>志田南遺跡出土遺物>首塚>胴塚>田代の環流丘陵>船繋場跡>「水道みち」の石碑>平山橋>中津神社>馬渡橋>木戸口坂>清雲寺
小田急線・本厚木駅
小田急線に乗り本厚木駅下車。バスは半原行きか、愛川バスセンター行のどちらか成り行きで乗ろうと本厚木バスセンターに向かうおうとすると、丁度本厚木駅前のバス停に「愛川バスセンター」行きが来た。
愛川バスセンターといえば、先日、金剛瀧や胎蔵瀧のあると言う塩川の谷の大椚沢や小松沢に冠する資料(「あいかわの地名 半原地区)を求め訪れた愛川図書館の近く。とりあえず終点までバスに乗り、そこから中津川方面へと向かうことにする。
○木売場
本厚木駅を出たバスは中津川水系の小鮎川と荻野川が合流した流れに架かる橋を渡る。その先、国道129号とクロスする手前には「木売場」といったバス停もある。厚木の地名の由来は木材を集める「アツメギ」との説もある。かつて水量豊かであった中津川水系の半原や宮ヶ瀬から筏を組んで流した木材をこの地で集めていたようである。
○才戸橋
国道129号に合流したバスはすぐに左に折れ、北西に向かって中津川と荻野川に挟まれた沖積地を進む。先に進むと沖積地から鳶尾山の山裾へと進み、宿原で右に折れたバスは山王坂を下り、睦合北公民館前から再び中津川に沿った沖積地を北上し、「才戸橋」を渡り中津川と相模川に挟まれた中津原台地へと入る。
現在の才戸橋の辺りに、往昔「才戸の渡し」があった、とのこと。「才戸の渡し」は北は武蔵国八王子から南は大住郡矢名村(現秦野市)をつなぐ矢名街道の渡しのひとつであり、矢名街道にはこの他、相模川を渡る「上依知の渡し」があり, 江戸時代には大山参詣道として大変な賑わいをみせたとのことである。 「才戸」の由来は、はっきりとはしないのだが、「サイト」は「斎灯」と書き、「サイトバライ」に拠る、との説もある。「「サイトバライ」こと、左義長(とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼)は、小正月に行われる火祭りの行事のことを意味する、とか。どんと焼き、さいと焼が行われていた場所であったのだろう、か。
愛川バスセンター
中津川台地へと移ったバスは、美しく弧を描いた崖線下の中津川氾濫原を進むが、坂本のあたりから台地へと上る。その地点は大きく分けて3段からなる中津原段丘面の中位面である。ハスは先日八菅神社を訪れた折りに下車した「一本松」バス停を越え、終点の相川バスセンターに到着する。
■中津原台地
相模原台地の西端、相模川と中津川に挟まれた中津原台地は高位面、中位面、低位面の3段階の段丘面よりなる。高位面は愛川町三増(海抜約150m)、中位面は中津から上依知あたりまで。内陸工業団地が立地する一帯である。下位面は下依知から国道129号と246号がクロスする金田(海抜約30m)。台地の東西端、台地が相模川・中津川に臨むところは急崖であるが,段丘面はおおむね平坦で、おおよそ南北10キロを細長くなだらかに下る。この3段の段丘面は3回に渡る土地の隆起によるものと言われる。
○相模原台地
相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河成段丘である。大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群(高位面)、中津原面(高位面)、田名原面群(中位面)、陽原(みなはら)面群(低位面)に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている(Wikipediaより)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
桜坂
終点の愛川バスセンターから中津原段丘面と中津川とのギャップを感じるべく県道65号を北に少し進み、箕輪交差点を左に折れ県道54号を台地端の崖線に向かう。成り行きで西に向かうと崖線上から中津川へと下る坂道に出る。崖下の下之街道に下る坂は結構急勾配の坂道である。比高差も20m以上もありそうだ。
その坂道の取っ付き部に案内板。この坂道の名は「桜坂」とのこと。説明板によると古くは「刺坂」と呼ばれていたそうで、刺はあて字で本来は焼畑耕作を意味する「サス」とのことです。その昔、字蔵屋敷あたりは焼畑地であり、そこへ通じる坂道ということで「サス坂」となった。
また、小沢城の姫が落城に際し、身をはかなみ坂下の大沼に投身した。そのおり、悲嘆にくれた供の者がここで胸を刺して自害した。それで刺坂の名が起こったのだと言う伝説もあるそうです。傾斜の急なこの坂は古来より人や馬が災禍をこうむることが多かったので、不吉な刺坂の名を忌み、明治36年桜坂に改称されました。愛川町教育委員会」とあった。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
姫の松
坂を下ると道脇に合掌タイプの双体道祖神が祀られている。程よく風化しいい感じのお地蔵様となっている。手を合わせて道を進むと高峰村役場跡の石標があり、その斜め前に「姫の松」の碑が立っていた。
説明板によると、「かつてここは底なしと呼ばれた大沼で岸辺には姫の松という老松があったそうです。遠い昔、相模川べりの小沢城には美しい姫がいて、戦国乱世で落城した際、悲運にみまわれた姫は侍女ともども城を出て、ここまで逃れてきたが身の行く末をはかなんで自ら大沼に身を投げて果てたとのこと。姫の松はそのとき岸辺につきさしてあった姫の杖が根付いたとも、姫の死を憐れんだ土地の人が植えたものとも伝わる。現在の松はその遺名を継ぐ樹である (愛川町教育委員会)」とあった。
○高峯村
高峰村(たかみねむら)は、かつて愛甲郡にかつてあった村である。明治22年(1889)4月1日 - 町村制が施行され、角田村と三増村が合併し高峰村となったが、昭和30年(1955)1月15日に愛川町(旧)と合併し、愛川町となった。
○小沢古城
相模川中流域、県道54号に架かる高田橋が相模原市田名と愛川町を結ぶ愛川側の丘陵上に小沢城と小沢古城がある。この地は八王子と小田原をむすぶ街道の相模川渡河地点であり、街道監視の要衝として重要な地点であった。
小沢古城は平安末期に横山党の小沢氏が館を築いたことに始まる。松姫は小沢古城の主、小沢太郎の息女とのこと。その小沢氏は和田合戦において横山党とともに滅び、その後を大江氏が領したとのこと。室町になると小沢城は長尾景春の家臣金子掃部助がこの城に入り、扇谷上杉氏の太田道灌と戦い落城。その後北条氏が街道監視の出城として機能した、と。
時代はずっと下って戦後。農地解放で沼が小作人に田圃になる。が、その持ち主のひとりが怪我をすると、占いによりその因が松姫の供養が足らない故とのこと。既に沼がどこにあったかも不明であるため、碑をたて松を植え松姫を供養することになった、とか。
地神社
松姫の碑から少し進んだところに地元の案内の地図があった。そこに「地神社」といった社が目に入った。「地」などと素朴な名称の社が如何なるものかと訪ねることに。崖下の畦道を進もうとしたのだが、なんとなくアプローチが不安になり、結局桜坂を上り直し台地面から下ることに。
坂を戻り、ヘアピンの急坂をくだり「地神社」に。予想以上のしっかりした構えの社であった。案内によれば、「神社改築の誌:昭和47年(1972)、集中豪雨により裏山が土砂崩れ。中宮大破。人畜に被害なきは地神さまのご加護、犠牲によると箕輪地区の住民感謝。裏山の砂防工事を3年に渡り完成。その後も再建の声高く浄財をもとに、昭和50年5月本格的に再建着手。9月に完成」とあった。
縁起など不明のためチェックすると、「地神社」という社は全国にあるようだ。社の祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)。伊邪那美命の大便から生まれたとされる。「埴」は粘土、それも祭具を造る土であるが、大便から赤土を連想した命名であろう、か。とはいうものの、埴山姫命は『日本書紀』での表記であり、『古事記』には「波邇夜須毘売神」と表記される。ともあれ、土の女神、ひいては、田畑の神、陶磁器の神とされる。
神社の脇の坂に「宮坂」と刻まれた石碑。地神社から箕輪辻付近に至る坂であり、名前は神社に由来する。
横須賀水道道路・半原系統
地神社を離れ往昔、中津川の氾濫原ではあったであろう耕地を中津川方面に出る。そこには一直線の道。「横須賀水道道路」である。横須賀の海軍工廠をはじめとする海軍施設や艦船の補給水として用いられた。
Wikipediaによれば、「日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。(中略)
今日この水道管が埋設されている土地は横須賀水道道、横須賀水道路、横須賀水道みち、あるいは単に水道みちと呼ばれ、国土地理院の地形図にも「横須賀水道」として表示されている。ただし水道専用橋の上郷水管橋を始め、至る所で通行不能な場所が存在している。
この半原系統の経路は詳細な市街図で以下のように容易に辿ることができる。 愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。
海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。なお、この半原系統の取水は2007年(平成19年)より停止されている」とある。
説明を補足すると、走水とは京急・馬掘海岸駅近くの走水海岸の辺りにある湧水池。また、半原系統の取水は年平成19年(2007)より停止されている、とあるが、半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しており、大正10年完成の逸見浄水場内には、平成17年(2005)7月12日、国指定の有形文化財に登録された施設が残っている。
○水道坂・弁天坂
横須賀水道道に立ち、一直線の上流と下流を眺める。下流の上熊坂方面には上りの坂が見える。水道坂と称する。また、上流の「中の平」方面にも弁天坂が上る。上の説明で横須賀水道道は自然流下での通水とあったが、このようなアップダウンがあるところはどのようにしているのだろうとチェックすると、開水路では順勾配(ずっと下り)である必要があるが、管路(管水路)の場合は入口より出口の方が低ければ良い、ということで、通水途中での多少のアップダウンは問題ないようである。
巷間伝わるに、中津川の水は道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。ために日本海軍が重宝し、この軍港水道ができたとのことであるが、同様の話が横須賀と同じく海軍拠点となる鎮守府の呉にも伝わるようである。
角田八幡神社
水道道を進み、崖線下を湿地を避けて通していたのであろう下之街道が右手から合流する辺りを越え、弁天坂を上ると「中の平」の集落に角田八幡神社がある。鳥居をくぐり、ケヤキ、カゴの木、銀杏の巨木、また、愛川町天然記念物指定のタブノキ(途中で折れている)などの巨木の繁る境内に。神仏集合の名残か鐘楼も残る。
社殿にお参り。社の祭神は誉田別命 ( ほむたわけのみこと )。15代応神天皇のことである。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると角田村の鎮守で、神体は銅像および円石で、天正19年(1591年)に社領二石の御朱印を賜ったとのこと。東照宮が境内摂社にあったが、御朱印と関係あるのだろう、か。
それはそれとして、この社の裏手には江ノ島の岩屋に繋がる穴があると伝わる。穴がどこにあるのか案内もなく不明であるが、八菅修験の行者道でメモしたように、大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、との話であるが、この穴も弁天様が疲れて地表に出た縁起の一環ではあろう、か。軍港水道道に突然「弁天坂」が登場したものこの縁起に関係したものだろう、か。
ついでのことではあるが、軍港水道道は八幡さまの先で道から離れ、一度台地の方に向かい、少し進んで角田大橋の少し先で再び水道道路に戻る。昔は道路もなく、地盤も弱かったため水管は迂回して通したとのことである。
○福泉寺
境内北端にはお堂があり福泉寺とあった。曹洞宗のお寺さま。愛甲郡制誌には開創は文禄2年(1593)とある。入口に石標があり、ここには角田学校(養成館第一支校)跡とのこと。明治6年(1873)に寺の建物を借りて開校、明治27年(1894)高峰小学校に統合しまた。境内片隅には地蔵菩薩と光明真言供養塔が並んでいる。
市杵島神社
角田大橋を越え弁天坂を下った辺りに市杵島神社。ささやかなる祠が祀られる。 祠の脇の案内には、「伝説 弁天社と弁天淵 ここの裏手の中津川の淵底は、江の島の弁天さまの岩屋まで穴で通じているうえ、なお、その穴は西にのび、半原、塩川滝上の江の島淵の底まで至っているという。
むかし、江の島の弁天さまが、岩屋から穴伝いに江の島淵に向われたとき、あまりにも疲れたので、ひとまずここの淵に浮かびあがりからだを休めた。そのおり、弁天さまのお姿を見つけた村人たちは「もったいないことだ」と伏し拝み、淵の上の森に社をたててお祀りしたという。これが、今の弁天社で、裏手の淵を弁天淵と呼ぶようになった。
また、この淵が江の島に通じていることから、満潮のときには海の潮がここまでさしてくるといわれている。(愛川町教育委員会)」とあった。
上で角田八幡の縁起でも江ノ島の弁天様の逸話をメモしたが、どうやらこの社が弁天様縁起の本家本元のようである。市杵島神社(いちきしまじんじゃ)、または市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)は、宗像三女神の市杵島姫神を主祭神とする神社であり、市杵島姫神は仏教の弁才天と習合したことから、通称で弁才天(弁財天、弁天)と呼ばれている神社が多いと(Wikipedia)言うことであるから、筋は通っている。弁天坂の由来も、角田八幡ではなく、こちらの社のものかとも思い直す。江ノ島から歩いてきた弁天様は一度この地の「弁天淵」で姿を現し、再び中津川の川底に続く洞窟を塩川の谷の「江ノ島淵」まで辿っていったのだろう。
○江ノ島の弁天さま
弁天様は七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが、元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、江ノ島の弁天様が中津川の川底を歩いてきたという話はそれなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海が唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧の元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職となる。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。大山寺の初代別当である良弁(相模の出身)は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたと言われる。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に弁天様が辿るって縁起を整え、その地に修験の地としての有難味を加え、中津川・塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。
中津川台地の高位段丘面
中津原台地の段丘面と中津川によって削られた段丘崖の「ギャップ」を見るため下った中津川沿いの集落で、江ノ島の弁天様の縁起ゆかりの地に出合い、思いがけない幸運に成り行き任せの散歩の妙を感じながら、再び台地上の段丘面に戻る。台地から田代の環流丘陵を見下ろすためである。
地図で確認すると角田八幡神社方向に少し戻らなければ、台地上の段丘面へと上る道はないようである。少し道を戻り、成り行きで道を進み段丘面に。ルートは出来る限り崖線に沿って進むことにする。ついでのことでもあるので、中津川を越えた対岸の「屋形山」の崩れ具合を見ることができるかな、といった想いではある。
八菅修験の第三行所であった「屋形山」は採石場となり消滅している、とのこと。先日の八菅修験の行者道散歩で山裾から、その崩れ具合を見てはいたのだが、対岸の台地上から再度確認してみよう、との思いである。予想通り、採石されている一帯は、周囲と山肌の色は異なり、山容は残っていなかった。
中央養鶏場
ずっと台地の崖線上を進もうと思ったのだが、台地を削る沢(深掘沢)があり北に進まなければ沢を渡る橋もない。成り行きで北に進むと巨大な養鶏場群の中に紛れこんだ。辺り一帯すべてが養鶏場である。地図には中央養鶏場と記されていた。昭和32年(1957)設立と言うから、50年以上の実績を誇る農業協同組合によって運営されているようである。
辻の神仏
養鶏場の「工場地帯」を抜け、北の山容を眺めると、一度見た景色のように思える。実のところ、思わず知らず、三増合戦の地に足を踏み入れていた。数年前のことになるが、武田信玄と小田原の後北条が戦った三増合戦の地を訪ね、この三増の地から三増峠を越えたり、志田峠を越えたりしたのだが、この地は将にその時に彷徨った一帯であった。
田代の集落から台地を上り台地を横切り、県道65号・三増交差点に向かって東に続く車道に出る。その車道を左に折れ、台地を削る「深掘沢」を越えて少し進むと道の北側に幾つものお地蔵様を祀られていた。案内によると、「辻の神仏 辻(岐路)はそれぞれの地域への別れ道であるため(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえ、この境目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり村落へ入ってくる悪魔や邪鬼を追い払う所でもあった。そのため、いつしか祭りの場所としての特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音」「如意輪観音」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫坐像」「舟形浮彫地蔵像」などである。平成9年(三増中原町内会。愛川町教育委員会)」とあった。
三増合戦場の石碑
お地蔵様にお参りし、道を西へと向かうと三増合戦場の石碑と案内が現れた。案内によれば、「三増合戦のあらまし 永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。
信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという(愛川町教育委員会:看板資料より)」とあった。
三増合戦のあれこれは、数年前辿ったときの、三増峠越え、志田峠越え、信玄の甲州への帰路の散歩メモを参考にしていただくことにしてここでは省略するが、この三増合戦の碑を目安に志田峠へと向かったことは数年前のことではあるが、はっきりと憶えている。三増峠越えで道を間違い山道を東へと相模川に向かった直後のことであり、果たして志田峠を無事越えることができるものかと不安一杯であったのだろう(実際の志田峠越えは嶮しくもなく、すんなりと越えることができた)。
志田南遺跡出土遺物
三増合戦の碑の脇に「志田南遺跡出土遺物について」の案内があった。「平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増峠合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました」とある。
案内のタイトルを見たときこの地に古墳でもあったのだろうかと思ったのだが、実際は合戦で亡くなった将士を弔う碑であった。昔から畑の中に塚のような土堆が三カ所あり、耕地所有者の願を受けた有志が一カ所に集め懇ろに弔っていたものが、行政レベルまでに到り、「三増合戦まつり実行委員会」の設立にともないこの碑ができたようである。
首塚
台地を下るべく更に西へと道を進む。再び台地を刻む「志田沢」を越える。「志田沢」に沿って進んだ志田峠越えが懐かしい。志田沢を越え先に進むと、道の一段高いところに小祠と案内がある。足を止めて案内を見ると「首塚」とあった。「不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永3(1706)年建立の供養塔がある。このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。
この戦いのあと、戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、県道を隔てた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる」とあった。
三増合戦の時、志田沢は戦死者の血で染まり「血だ沢」などと称されたとも言われる。ために合戦後、戦死者の首を葬ったこの首塚であるが、江戸の頃幽霊騒ぎが起こり、供養塔を建てたところ騒ぎは収まった、とか。その供養塔は今も首塚のところにあると言う。
数年前、三増合戦の地を辿ったとき、この首塚には出合うことなかった。あれこれ考えるに、三増合戦散歩の際のアプローチは、三増峠越えには本厚木からバスで県道65号を直接「上三増」バス停へと向かいそこから直接北に向かって峠を越え、また志田峠の時も「上三増」バス停から「三増合戦の碑」までは歩いて来たのだが、そこから北へと志田峠へと向かっており、この田代から台地を上がるルートは通っていなかったようである。
胴塚
首塚の説明にあった胴塚を訪ねる。場所は首塚から車道を少し田代方向へと下った志田沢脇にあった。案内には「永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここから150メートルほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。この地では、それを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている」とあった。
田代の環流丘陵
胴塚から舌状に突き出た上原の台地の坂を南に下り、折り返して崖線に沿って田代へと坂を下る。道の左手には本日の目的地である環流丘陵が田代の集落の中にぽつんと聳える。
坂を下りきり、環流丘陵の周囲を、ぐるっと一周することに。如何にも水路跡らしき道筋をぐるりと一周し、あれこれ思う。環流丘陵とは流路の変更により、旧流路と新流路の間に取り残された、独立丘陵のことを言う。いつの頃か、遙か昔のことではあろうと思うが、丘陵の東、上原の台地との間を流れれていた中津川が、なんらかの原因によりその流れを現在のように丘陵の西を大きく迂回するようにその流れを変え、そのため取り残されることになったわけであろう。
一応本日の目的地はゲットしたのだが、いまひとつ中津川の流れと沖積地としての田代の集落、そしてその中の環流丘陵といった全体の姿が見えてこない。全体を俯瞰することも兼ね、対岸の清雲寺まで足を伸ばし、対岸の丘陵から還流丘陵を俯瞰すことにする。
船繋場跡
清雲寺に向かう前に、先回、田城半僧坊まで足を伸ばしながら準備不足で見逃しが「平山橋」を訪ねることに。
成り行きで道を進むと「船繋場跡」の石碑。「昔はこの近くを中津川が流れており、ここに舟を繋いで出水に備えた。また、非常の時のために、番小屋もあったとゆう」とあった。
この中津川の流れが旧流路のことか、新流路のことか、どちらかわからない。が、流路変更が近世になってからのこととも思えないので、新流露として考えてみるに、現在の流れは「船繋場跡」から少々離れている。
とは言うものの、流れが蛇行するようになれば、流れの外側の流水の速度は速くなり、それゆえに更に侵食が進む。一方、流れの内側は、外側に比べて流水速度が遅くなり、上流からの砂礫が堆積が進むことになる。そのため、河川はさらに大きく蛇行するようになるわけで、結果的に「船繋場跡」と中津川の流れが開いたのかもしれない。単に護岸工事故の理由かもしれず、単なる妄想であり、根拠なし。
「水道みち」の石碑
「船繋場跡」の先の交差点近くに「水道みち」の案内石碑。先ほど角田で出合った、横須賀軍港への水を供給していた水管が埋められている道筋がここに続き、この田代の交差点から上流の馬渡橋へと向かう。
平山橋
田代の交差点から中津川に架かる「平山橋」に。橋脇の案内に「平山橋は、大正2年に全長の3分の1にあたる左岸側のみが鉄製、それ以外は木製の姿で開通しました。全てが鉄製になったのは大正15年のことです。
先の大戦末期には、米軍機の銃撃を受け、構造材の各所に弾痕を残すなど、町域に残る数少ない戦災跡の1つとなっています。下って平成15年1月、「平山大橋」の開通に伴い、幹線道路設置としての任を終え、その後は人道橋として利用されています。
平成8年の文化財保護法改正により、近代建造物保護の制度が新たに設けられました。これにより平成16年11月8日、平山橋は国の登録有形文化財となり、町に残る近代化遺産として保存されることになりました」とあった。
この橋はリベット構造トラスト橋(リベットを使用して、トラスと呼ぶ、三角形をいくつも組み合わせた枠組みの構造でできた鉄橋)。明治の頃によく使用された工法と言う。説明にもあるように、左岸1連の鋼製トラスと右岸2連の木造トラスで開橋し、大正15年(1926)には木造トラスを鋼製トラスに架け替えた、とのことである。
米軍の機銃掃射を受けたという弾痕などを眺めながら、なにゆえこんな山間の地へと米軍機が来襲したのかとのことだが、現在内陸工業団地となっている中津原台地一帯(中津原台地中位段丘面)は昭和16年(1941)に陸軍の相模陸軍飛行場ができたとのことであるので、その飛行場への来襲の余波とでもいったものではなかろうか。
中津神社
平山橋を離れ、清雲寺に向かうべく県道54号を馬渡橋方面へと向かう。と、中津神社があった。県道から続くちょっと長い参道を進み社にちょっと立ち寄り。境内に入り拝殿にお参り。拝殿脇には稲荷社などの境内摂社がある。
鳥居脇に社の案内がある。「勧請年不明なるも、文治の頃より存在すること記録に残る。文治年間は後鳥羽時代で約811年前。その後、この地毛利の庄たり。永亨年中、北条長氏伊豆に興り、その後本州に威なり。弘治3巳卯年本村及び近傍の其臣内藤下野守秀勝の所領となる。依って内藤氏は字上田代富士山麓なる天然の要地を囲み城を築きて居住す。而して本神社を氏神として信仰せられたり。内藤氏居を本地に定めらるるや、次第に住民も増加し、神社の尊厳を高め、祭祀の方法も定まれり。
往時は中津川清流の中心にして、孤嶽をなしており、孤嶽明神と唱え、御祭神は大日?命を祀り、旧田代村の鎮守たり。
境内に東照宮、八坂社、稲荷社、金毘羅社の4社を祀る。東照宮は天正年中(423年前)入国の節、又左衛門外二名なるもの三河国より供仕の由緒により勧請。明治6年示達に基づき部内に存在する八幡神社、日枝神社、浅間神社、蔵王神社の合祀し、祭祀の方法を確立し永遠維持の基礎を定めて中津神社と改称され、殊に合祀社の内、八幡神社、浅間神社は内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った。
また当社は中津川流域の中心にし、孤嶽を残し中洲をなして曾て洪水の被害を受けたことなし。中津の称、これより来る。
爾来、諸般の設備ととのい、基本財産確立せるにより、大正4年、神奈川県告示をもって村社に昇格する。戦後昭和21年届け出により宗教法人となる」とあった」とある。
少々長く、かつ明治の頃の説明が相前後してちょっとわかりにくい。毛利の庄は後にメモすることにして、簡単にメモすると、北条長氏こと北条早雲により小田原に後北条が覇を唱える。その家臣である内藤下野守秀勝がこの地を領した。秀勝は上田代、馬渡橋の東岸の要害の地に田代城を築き、この社を氏神とする。その後の「又左衛門外二名なるもの三河より云々」は不詳。
更に、明治の頃の説明に「内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った」とは、少々わかりにくい。この説明は明治の合祀の説明の流れではなく、明治に合祀された八幡神社が内藤氏の守護神であり、徳川の御世に御朱印を下賜された、ということだろう。因みに内藤氏は津久井城主の内藤氏の一族であり、三増合戦の折、城は落城したとのことである。また、内藤氏は小田原北条氏の滅亡に順じたと言い、その後の消息は不明である。
○毛利の庄
厚木やその東の海老名の辺りは古代、相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫である。
馬渡橋
道なりに北西に進むと中津川に架かる馬渡橋。橋には中津川を渡る水道管が見える。横須賀水道の導水管である。馬渡橋の由来は、橋を隔てて中津川の両岸の台地に築かれた田代城と細野城の将士が馬で行き来した故とのこと。今でこそ上流に宮ヶ瀬ダムがあり、流れも緩やかではあるが、往昔水量豊かで船運の往来もあったと言うので,人馬の渡河などできたのだろうか。
木戸口坂
馬渡橋を渡ったところにある「馬渡橋バス停」でバスの時刻を確認し、最後の目的地である清雲寺へと向かう。それほど時間に余裕があるわけでもなく、結構の急ぎ足となる。
橋を渡り少し進んだところで県道54号を左に折れる道に入る。折れるとすぐに道は分岐するが、右に上る道脇に「木戸口坂」の石碑。「ここから忠霊塔の脇を経て昔あったという細野城木戸口あたりへ至る坂をいいます」とあった。細野城も田代城と同じく内藤氏の一族の城であったとのことである。
馬渡坂
清雲寺へは左の坂を上る。「馬渡坂」と刻んだ石碑がある。「愛川町町役場半原出張所脇から国道412号に至る坂」とある。国道412号もこのあたりはバイパスとなり半原の町を迂回して台地を上るわけで、それほど昔の道ではない。ということは、この「馬渡坂」も最近命名されたものだろうか。石碑の説明だけからの推測ではあるので全くもって根拠なし。
清雲寺
坂を上り国道412号を越え、急ぎ足で台地上の清雲寺に向かう。入口に六地蔵。境内には豊川稲荷堂や不動堂が祀られる。臨済宗建長寺派の本堂にお参り。開山は鉄叟慧禅師、開基は内藤三郎兵衛秀行とのこと。
内藤三郎兵衛秀行は田代半僧坊の開基の武将でもあり、武田信玄との三増合戦の時には田代城に詰めたと言われる。城が落城した後、秀行は剃髪したとの伝承もあるようだが、そもそも田代城攻略戦が行われたか否か自体が不明である。
○一背負門
境内を台地端へと向かう途中に山門があり。そこに案内板。「神奈川のむかし話五十選 ひとしょい門;むかしむかし、このあたりに善正坊という大力の坊さんがおった。あるとき中津川べりの材木集積場にゆき、山門の材料にする、ケヤキがほしい旨を申しいれたところ「一人で背負えるだけの量なら、ただでやろう」と木流しの役人は心よくその願いを許した。
すると善正坊は山門建立に必要な材木を山のように積みあげ驚き呆れる役人をしり目に、ひと背負いで此の処まで運んできてしまったという。この山門はその材木でつくられたので、いつの間にか「ひとしょい門」と呼ばれるようになった」とあった。
一背負門をくぐり、台地端に向かい田代の還流丘陵を眺める。大きく湾曲する中津川、中津川の流れにる砂礫などにより形成されたであろう田代の沖積地、そしてその中央に緑の丘陵地が一望のもと。これで今回の散歩は終了。急ぎ足で馬渡橋のバス停に向かい、一路家路へと。
で、今回気分も新たに田代地区の環流丘陵を見に出かける。環流丘陵とは流路の変化によって取り残された丘陵のこと。地形図でチェックすると、成るほど、田代地区の沖積地の真ん中に独立した丘陵がぽつりと残る。山地の谷間を蛇行する流れを「穿入蛇行」と呼ぶが、この地において何らかの原因による流路の変更によって旧流路と新たな流路の谷の間に丘陵が取り残されたのではあろう。 アプローチは環流丘陵を俯瞰できればと、中津川の崖面上の中津原台地から田代地区へ下るべし、といった大雑把なルートを想い散歩にでかける。
本日のルート;小田急線・本厚木駅>愛川バスセンター>県道65号>県道54号>桜坂>姫の松>地神社>横須賀水道道路・半原系統>角田八幡神社>市杵島神社>中津川台地の高位段丘面>中央養鶏場>辻の神仏>三増合戦記念碑>志田南遺跡出土遺物>首塚>胴塚>田代の環流丘陵>船繋場跡>「水道みち」の石碑>平山橋>中津神社>馬渡橋>木戸口坂>清雲寺
小田急線・本厚木駅
小田急線に乗り本厚木駅下車。バスは半原行きか、愛川バスセンター行のどちらか成り行きで乗ろうと本厚木バスセンターに向かうおうとすると、丁度本厚木駅前のバス停に「愛川バスセンター」行きが来た。
愛川バスセンターといえば、先日、金剛瀧や胎蔵瀧のあると言う塩川の谷の大椚沢や小松沢に冠する資料(「あいかわの地名 半原地区)を求め訪れた愛川図書館の近く。とりあえず終点までバスに乗り、そこから中津川方面へと向かうことにする。
○木売場
本厚木駅を出たバスは中津川水系の小鮎川と荻野川が合流した流れに架かる橋を渡る。その先、国道129号とクロスする手前には「木売場」といったバス停もある。厚木の地名の由来は木材を集める「アツメギ」との説もある。かつて水量豊かであった中津川水系の半原や宮ヶ瀬から筏を組んで流した木材をこの地で集めていたようである。
○才戸橋
国道129号に合流したバスはすぐに左に折れ、北西に向かって中津川と荻野川に挟まれた沖積地を進む。先に進むと沖積地から鳶尾山の山裾へと進み、宿原で右に折れたバスは山王坂を下り、睦合北公民館前から再び中津川に沿った沖積地を北上し、「才戸橋」を渡り中津川と相模川に挟まれた中津原台地へと入る。
現在の才戸橋の辺りに、往昔「才戸の渡し」があった、とのこと。「才戸の渡し」は北は武蔵国八王子から南は大住郡矢名村(現秦野市)をつなぐ矢名街道の渡しのひとつであり、矢名街道にはこの他、相模川を渡る「上依知の渡し」があり, 江戸時代には大山参詣道として大変な賑わいをみせたとのことである。 「才戸」の由来は、はっきりとはしないのだが、「サイト」は「斎灯」と書き、「サイトバライ」に拠る、との説もある。「「サイトバライ」こと、左義長(とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼)は、小正月に行われる火祭りの行事のことを意味する、とか。どんと焼き、さいと焼が行われていた場所であったのだろう、か。
愛川バスセンター
中津川台地へと移ったバスは、美しく弧を描いた崖線下の中津川氾濫原を進むが、坂本のあたりから台地へと上る。その地点は大きく分けて3段からなる中津原段丘面の中位面である。ハスは先日八菅神社を訪れた折りに下車した「一本松」バス停を越え、終点の相川バスセンターに到着する。
■中津原台地
相模原台地の西端、相模川と中津川に挟まれた中津原台地は高位面、中位面、低位面の3段階の段丘面よりなる。高位面は愛川町三増(海抜約150m)、中位面は中津から上依知あたりまで。内陸工業団地が立地する一帯である。下位面は下依知から国道129号と246号がクロスする金田(海抜約30m)。台地の東西端、台地が相模川・中津川に臨むところは急崖であるが,段丘面はおおむね平坦で、おおよそ南北10キロを細長くなだらかに下る。この3段の段丘面は3回に渡る土地の隆起によるものと言われる。
○相模原台地
相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河成段丘である。大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群(高位面)、中津原面(高位面)、田名原面群(中位面)、陽原(みなはら)面群(低位面)に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている(Wikipediaより)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
桜坂
終点の愛川バスセンターから中津原段丘面と中津川とのギャップを感じるべく県道65号を北に少し進み、箕輪交差点を左に折れ県道54号を台地端の崖線に向かう。成り行きで西に向かうと崖線上から中津川へと下る坂道に出る。崖下の下之街道に下る坂は結構急勾配の坂道である。比高差も20m以上もありそうだ。
その坂道の取っ付き部に案内板。この坂道の名は「桜坂」とのこと。説明板によると古くは「刺坂」と呼ばれていたそうで、刺はあて字で本来は焼畑耕作を意味する「サス」とのことです。その昔、字蔵屋敷あたりは焼畑地であり、そこへ通じる坂道ということで「サス坂」となった。
また、小沢城の姫が落城に際し、身をはかなみ坂下の大沼に投身した。そのおり、悲嘆にくれた供の者がここで胸を刺して自害した。それで刺坂の名が起こったのだと言う伝説もあるそうです。傾斜の急なこの坂は古来より人や馬が災禍をこうむることが多かったので、不吉な刺坂の名を忌み、明治36年桜坂に改称されました。愛川町教育委員会」とあった。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
坂を下ると道脇に合掌タイプの双体道祖神が祀られている。程よく風化しいい感じのお地蔵様となっている。手を合わせて道を進むと高峰村役場跡の石標があり、その斜め前に「姫の松」の碑が立っていた。
説明板によると、「かつてここは底なしと呼ばれた大沼で岸辺には姫の松という老松があったそうです。遠い昔、相模川べりの小沢城には美しい姫がいて、戦国乱世で落城した際、悲運にみまわれた姫は侍女ともども城を出て、ここまで逃れてきたが身の行く末をはかなんで自ら大沼に身を投げて果てたとのこと。姫の松はそのとき岸辺につきさしてあった姫の杖が根付いたとも、姫の死を憐れんだ土地の人が植えたものとも伝わる。現在の松はその遺名を継ぐ樹である (愛川町教育委員会)」とあった。
○高峯村
高峰村(たかみねむら)は、かつて愛甲郡にかつてあった村である。明治22年(1889)4月1日 - 町村制が施行され、角田村と三増村が合併し高峰村となったが、昭和30年(1955)1月15日に愛川町(旧)と合併し、愛川町となった。
○小沢古城
相模川中流域、県道54号に架かる高田橋が相模原市田名と愛川町を結ぶ愛川側の丘陵上に小沢城と小沢古城がある。この地は八王子と小田原をむすぶ街道の相模川渡河地点であり、街道監視の要衝として重要な地点であった。
小沢古城は平安末期に横山党の小沢氏が館を築いたことに始まる。松姫は小沢古城の主、小沢太郎の息女とのこと。その小沢氏は和田合戦において横山党とともに滅び、その後を大江氏が領したとのこと。室町になると小沢城は長尾景春の家臣金子掃部助がこの城に入り、扇谷上杉氏の太田道灌と戦い落城。その後北条氏が街道監視の出城として機能した、と。
時代はずっと下って戦後。農地解放で沼が小作人に田圃になる。が、その持ち主のひとりが怪我をすると、占いによりその因が松姫の供養が足らない故とのこと。既に沼がどこにあったかも不明であるため、碑をたて松を植え松姫を供養することになった、とか。
地神社
松姫の碑から少し進んだところに地元の案内の地図があった。そこに「地神社」といった社が目に入った。「地」などと素朴な名称の社が如何なるものかと訪ねることに。崖下の畦道を進もうとしたのだが、なんとなくアプローチが不安になり、結局桜坂を上り直し台地面から下ることに。
坂を戻り、ヘアピンの急坂をくだり「地神社」に。予想以上のしっかりした構えの社であった。案内によれば、「神社改築の誌:昭和47年(1972)、集中豪雨により裏山が土砂崩れ。中宮大破。人畜に被害なきは地神さまのご加護、犠牲によると箕輪地区の住民感謝。裏山の砂防工事を3年に渡り完成。その後も再建の声高く浄財をもとに、昭和50年5月本格的に再建着手。9月に完成」とあった。
縁起など不明のためチェックすると、「地神社」という社は全国にあるようだ。社の祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)。伊邪那美命の大便から生まれたとされる。「埴」は粘土、それも祭具を造る土であるが、大便から赤土を連想した命名であろう、か。とはいうものの、埴山姫命は『日本書紀』での表記であり、『古事記』には「波邇夜須毘売神」と表記される。ともあれ、土の女神、ひいては、田畑の神、陶磁器の神とされる。
神社の脇の坂に「宮坂」と刻まれた石碑。地神社から箕輪辻付近に至る坂であり、名前は神社に由来する。
横須賀水道道路・半原系統
地神社を離れ往昔、中津川の氾濫原ではあったであろう耕地を中津川方面に出る。そこには一直線の道。「横須賀水道道路」である。横須賀の海軍工廠をはじめとする海軍施設や艦船の補給水として用いられた。
Wikipediaによれば、「日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。(中略)
今日この水道管が埋設されている土地は横須賀水道道、横須賀水道路、横須賀水道みち、あるいは単に水道みちと呼ばれ、国土地理院の地形図にも「横須賀水道」として表示されている。ただし水道専用橋の上郷水管橋を始め、至る所で通行不能な場所が存在している。
この半原系統の経路は詳細な市街図で以下のように容易に辿ることができる。 愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。
海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。なお、この半原系統の取水は2007年(平成19年)より停止されている」とある。
説明を補足すると、走水とは京急・馬掘海岸駅近くの走水海岸の辺りにある湧水池。また、半原系統の取水は年平成19年(2007)より停止されている、とあるが、半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しており、大正10年完成の逸見浄水場内には、平成17年(2005)7月12日、国指定の有形文化財に登録された施設が残っている。
○水道坂・弁天坂
横須賀水道道に立ち、一直線の上流と下流を眺める。下流の上熊坂方面には上りの坂が見える。水道坂と称する。また、上流の「中の平」方面にも弁天坂が上る。上の説明で横須賀水道道は自然流下での通水とあったが、このようなアップダウンがあるところはどのようにしているのだろうとチェックすると、開水路では順勾配(ずっと下り)である必要があるが、管路(管水路)の場合は入口より出口の方が低ければ良い、ということで、通水途中での多少のアップダウンは問題ないようである。
巷間伝わるに、中津川の水は道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。ために日本海軍が重宝し、この軍港水道ができたとのことであるが、同様の話が横須賀と同じく海軍拠点となる鎮守府の呉にも伝わるようである。
角田八幡神社
水道道を進み、崖線下を湿地を避けて通していたのであろう下之街道が右手から合流する辺りを越え、弁天坂を上ると「中の平」の集落に角田八幡神社がある。鳥居をくぐり、ケヤキ、カゴの木、銀杏の巨木、また、愛川町天然記念物指定のタブノキ(途中で折れている)などの巨木の繁る境内に。神仏集合の名残か鐘楼も残る。
社殿にお参り。社の祭神は誉田別命 ( ほむたわけのみこと )。15代応神天皇のことである。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると角田村の鎮守で、神体は銅像および円石で、天正19年(1591年)に社領二石の御朱印を賜ったとのこと。東照宮が境内摂社にあったが、御朱印と関係あるのだろう、か。
それはそれとして、この社の裏手には江ノ島の岩屋に繋がる穴があると伝わる。穴がどこにあるのか案内もなく不明であるが、八菅修験の行者道でメモしたように、大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、との話であるが、この穴も弁天様が疲れて地表に出た縁起の一環ではあろう、か。軍港水道道に突然「弁天坂」が登場したものこの縁起に関係したものだろう、か。
ついでのことではあるが、軍港水道道は八幡さまの先で道から離れ、一度台地の方に向かい、少し進んで角田大橋の少し先で再び水道道路に戻る。昔は道路もなく、地盤も弱かったため水管は迂回して通したとのことである。
○福泉寺
境内北端にはお堂があり福泉寺とあった。曹洞宗のお寺さま。愛甲郡制誌には開創は文禄2年(1593)とある。入口に石標があり、ここには角田学校(養成館第一支校)跡とのこと。明治6年(1873)に寺の建物を借りて開校、明治27年(1894)高峰小学校に統合しまた。境内片隅には地蔵菩薩と光明真言供養塔が並んでいる。
市杵島神社
角田大橋を越え弁天坂を下った辺りに市杵島神社。ささやかなる祠が祀られる。 祠の脇の案内には、「伝説 弁天社と弁天淵 ここの裏手の中津川の淵底は、江の島の弁天さまの岩屋まで穴で通じているうえ、なお、その穴は西にのび、半原、塩川滝上の江の島淵の底まで至っているという。
むかし、江の島の弁天さまが、岩屋から穴伝いに江の島淵に向われたとき、あまりにも疲れたので、ひとまずここの淵に浮かびあがりからだを休めた。そのおり、弁天さまのお姿を見つけた村人たちは「もったいないことだ」と伏し拝み、淵の上の森に社をたててお祀りしたという。これが、今の弁天社で、裏手の淵を弁天淵と呼ぶようになった。
また、この淵が江の島に通じていることから、満潮のときには海の潮がここまでさしてくるといわれている。(愛川町教育委員会)」とあった。
上で角田八幡の縁起でも江ノ島の弁天様の逸話をメモしたが、どうやらこの社が弁天様縁起の本家本元のようである。市杵島神社(いちきしまじんじゃ)、または市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)は、宗像三女神の市杵島姫神を主祭神とする神社であり、市杵島姫神は仏教の弁才天と習合したことから、通称で弁才天(弁財天、弁天)と呼ばれている神社が多いと(Wikipedia)言うことであるから、筋は通っている。弁天坂の由来も、角田八幡ではなく、こちらの社のものかとも思い直す。江ノ島から歩いてきた弁天様は一度この地の「弁天淵」で姿を現し、再び中津川の川底に続く洞窟を塩川の谷の「江ノ島淵」まで辿っていったのだろう。
○江ノ島の弁天さま
弁天様は七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが、元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、江ノ島の弁天様が中津川の川底を歩いてきたという話はそれなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海が唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧の元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職となる。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。大山寺の初代別当である良弁(相模の出身)は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたと言われる。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に弁天様が辿るって縁起を整え、その地に修験の地としての有難味を加え、中津川・塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。
中津川台地の高位段丘面
中津原台地の段丘面と中津川によって削られた段丘崖の「ギャップ」を見るため下った中津川沿いの集落で、江ノ島の弁天様の縁起ゆかりの地に出合い、思いがけない幸運に成り行き任せの散歩の妙を感じながら、再び台地上の段丘面に戻る。台地から田代の環流丘陵を見下ろすためである。
地図で確認すると角田八幡神社方向に少し戻らなければ、台地上の段丘面へと上る道はないようである。少し道を戻り、成り行きで道を進み段丘面に。ルートは出来る限り崖線に沿って進むことにする。ついでのことでもあるので、中津川を越えた対岸の「屋形山」の崩れ具合を見ることができるかな、といった想いではある。
八菅修験の第三行所であった「屋形山」は採石場となり消滅している、とのこと。先日の八菅修験の行者道散歩で山裾から、その崩れ具合を見てはいたのだが、対岸の台地上から再度確認してみよう、との思いである。予想通り、採石されている一帯は、周囲と山肌の色は異なり、山容は残っていなかった。
中央養鶏場
ずっと台地の崖線上を進もうと思ったのだが、台地を削る沢(深掘沢)があり北に進まなければ沢を渡る橋もない。成り行きで北に進むと巨大な養鶏場群の中に紛れこんだ。辺り一帯すべてが養鶏場である。地図には中央養鶏場と記されていた。昭和32年(1957)設立と言うから、50年以上の実績を誇る農業協同組合によって運営されているようである。
辻の神仏
養鶏場の「工場地帯」を抜け、北の山容を眺めると、一度見た景色のように思える。実のところ、思わず知らず、三増合戦の地に足を踏み入れていた。数年前のことになるが、武田信玄と小田原の後北条が戦った三増合戦の地を訪ね、この三増の地から三増峠を越えたり、志田峠を越えたりしたのだが、この地は将にその時に彷徨った一帯であった。
田代の集落から台地を上り台地を横切り、県道65号・三増交差点に向かって東に続く車道に出る。その車道を左に折れ、台地を削る「深掘沢」を越えて少し進むと道の北側に幾つものお地蔵様を祀られていた。案内によると、「辻の神仏 辻(岐路)はそれぞれの地域への別れ道であるため(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえ、この境目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり村落へ入ってくる悪魔や邪鬼を追い払う所でもあった。そのため、いつしか祭りの場所としての特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音」「如意輪観音」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫坐像」「舟形浮彫地蔵像」などである。平成9年(三増中原町内会。愛川町教育委員会)」とあった。
三増合戦場の石碑
お地蔵様にお参りし、道を西へと向かうと三増合戦場の石碑と案内が現れた。案内によれば、「三増合戦のあらまし 永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。
信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという(愛川町教育委員会:看板資料より)」とあった。
三増合戦のあれこれは、数年前辿ったときの、三増峠越え、志田峠越え、信玄の甲州への帰路の散歩メモを参考にしていただくことにしてここでは省略するが、この三増合戦の碑を目安に志田峠へと向かったことは数年前のことではあるが、はっきりと憶えている。三増峠越えで道を間違い山道を東へと相模川に向かった直後のことであり、果たして志田峠を無事越えることができるものかと不安一杯であったのだろう(実際の志田峠越えは嶮しくもなく、すんなりと越えることができた)。
志田南遺跡出土遺物
三増合戦の碑の脇に「志田南遺跡出土遺物について」の案内があった。「平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増峠合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました」とある。
案内のタイトルを見たときこの地に古墳でもあったのだろうかと思ったのだが、実際は合戦で亡くなった将士を弔う碑であった。昔から畑の中に塚のような土堆が三カ所あり、耕地所有者の願を受けた有志が一カ所に集め懇ろに弔っていたものが、行政レベルまでに到り、「三増合戦まつり実行委員会」の設立にともないこの碑ができたようである。
首塚
台地を下るべく更に西へと道を進む。再び台地を刻む「志田沢」を越える。「志田沢」に沿って進んだ志田峠越えが懐かしい。志田沢を越え先に進むと、道の一段高いところに小祠と案内がある。足を止めて案内を見ると「首塚」とあった。「不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永3(1706)年建立の供養塔がある。このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。
この戦いのあと、戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、県道を隔てた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる」とあった。
三増合戦の時、志田沢は戦死者の血で染まり「血だ沢」などと称されたとも言われる。ために合戦後、戦死者の首を葬ったこの首塚であるが、江戸の頃幽霊騒ぎが起こり、供養塔を建てたところ騒ぎは収まった、とか。その供養塔は今も首塚のところにあると言う。
数年前、三増合戦の地を辿ったとき、この首塚には出合うことなかった。あれこれ考えるに、三増合戦散歩の際のアプローチは、三増峠越えには本厚木からバスで県道65号を直接「上三増」バス停へと向かいそこから直接北に向かって峠を越え、また志田峠の時も「上三増」バス停から「三増合戦の碑」までは歩いて来たのだが、そこから北へと志田峠へと向かっており、この田代から台地を上がるルートは通っていなかったようである。
胴塚
首塚の説明にあった胴塚を訪ねる。場所は首塚から車道を少し田代方向へと下った志田沢脇にあった。案内には「永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここから150メートルほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。この地では、それを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている」とあった。
田代の環流丘陵
胴塚から舌状に突き出た上原の台地の坂を南に下り、折り返して崖線に沿って田代へと坂を下る。道の左手には本日の目的地である環流丘陵が田代の集落の中にぽつんと聳える。
坂を下りきり、環流丘陵の周囲を、ぐるっと一周することに。如何にも水路跡らしき道筋をぐるりと一周し、あれこれ思う。環流丘陵とは流路の変更により、旧流路と新流路の間に取り残された、独立丘陵のことを言う。いつの頃か、遙か昔のことではあろうと思うが、丘陵の東、上原の台地との間を流れれていた中津川が、なんらかの原因によりその流れを現在のように丘陵の西を大きく迂回するようにその流れを変え、そのため取り残されることになったわけであろう。
一応本日の目的地はゲットしたのだが、いまひとつ中津川の流れと沖積地としての田代の集落、そしてその中の環流丘陵といった全体の姿が見えてこない。全体を俯瞰することも兼ね、対岸の清雲寺まで足を伸ばし、対岸の丘陵から還流丘陵を俯瞰すことにする。
船繋場跡
清雲寺に向かう前に、先回、田城半僧坊まで足を伸ばしながら準備不足で見逃しが「平山橋」を訪ねることに。
成り行きで道を進むと「船繋場跡」の石碑。「昔はこの近くを中津川が流れており、ここに舟を繋いで出水に備えた。また、非常の時のために、番小屋もあったとゆう」とあった。
この中津川の流れが旧流路のことか、新流路のことか、どちらかわからない。が、流路変更が近世になってからのこととも思えないので、新流露として考えてみるに、現在の流れは「船繋場跡」から少々離れている。
とは言うものの、流れが蛇行するようになれば、流れの外側の流水の速度は速くなり、それゆえに更に侵食が進む。一方、流れの内側は、外側に比べて流水速度が遅くなり、上流からの砂礫が堆積が進むことになる。そのため、河川はさらに大きく蛇行するようになるわけで、結果的に「船繋場跡」と中津川の流れが開いたのかもしれない。単に護岸工事故の理由かもしれず、単なる妄想であり、根拠なし。
「水道みち」の石碑
「船繋場跡」の先の交差点近くに「水道みち」の案内石碑。先ほど角田で出合った、横須賀軍港への水を供給していた水管が埋められている道筋がここに続き、この田代の交差点から上流の馬渡橋へと向かう。
平山橋
田代の交差点から中津川に架かる「平山橋」に。橋脇の案内に「平山橋は、大正2年に全長の3分の1にあたる左岸側のみが鉄製、それ以外は木製の姿で開通しました。全てが鉄製になったのは大正15年のことです。
先の大戦末期には、米軍機の銃撃を受け、構造材の各所に弾痕を残すなど、町域に残る数少ない戦災跡の1つとなっています。下って平成15年1月、「平山大橋」の開通に伴い、幹線道路設置としての任を終え、その後は人道橋として利用されています。
平成8年の文化財保護法改正により、近代建造物保護の制度が新たに設けられました。これにより平成16年11月8日、平山橋は国の登録有形文化財となり、町に残る近代化遺産として保存されることになりました」とあった。
この橋はリベット構造トラスト橋(リベットを使用して、トラスと呼ぶ、三角形をいくつも組み合わせた枠組みの構造でできた鉄橋)。明治の頃によく使用された工法と言う。説明にもあるように、左岸1連の鋼製トラスと右岸2連の木造トラスで開橋し、大正15年(1926)には木造トラスを鋼製トラスに架け替えた、とのことである。
米軍の機銃掃射を受けたという弾痕などを眺めながら、なにゆえこんな山間の地へと米軍機が来襲したのかとのことだが、現在内陸工業団地となっている中津原台地一帯(中津原台地中位段丘面)は昭和16年(1941)に陸軍の相模陸軍飛行場ができたとのことであるので、その飛行場への来襲の余波とでもいったものではなかろうか。
中津神社
平山橋を離れ、清雲寺に向かうべく県道54号を馬渡橋方面へと向かう。と、中津神社があった。県道から続くちょっと長い参道を進み社にちょっと立ち寄り。境内に入り拝殿にお参り。拝殿脇には稲荷社などの境内摂社がある。
鳥居脇に社の案内がある。「勧請年不明なるも、文治の頃より存在すること記録に残る。文治年間は後鳥羽時代で約811年前。その後、この地毛利の庄たり。永亨年中、北条長氏伊豆に興り、その後本州に威なり。弘治3巳卯年本村及び近傍の其臣内藤下野守秀勝の所領となる。依って内藤氏は字上田代富士山麓なる天然の要地を囲み城を築きて居住す。而して本神社を氏神として信仰せられたり。内藤氏居を本地に定めらるるや、次第に住民も増加し、神社の尊厳を高め、祭祀の方法も定まれり。
往時は中津川清流の中心にして、孤嶽をなしており、孤嶽明神と唱え、御祭神は大日?命を祀り、旧田代村の鎮守たり。
境内に東照宮、八坂社、稲荷社、金毘羅社の4社を祀る。東照宮は天正年中(423年前)入国の節、又左衛門外二名なるもの三河国より供仕の由緒により勧請。明治6年示達に基づき部内に存在する八幡神社、日枝神社、浅間神社、蔵王神社の合祀し、祭祀の方法を確立し永遠維持の基礎を定めて中津神社と改称され、殊に合祀社の内、八幡神社、浅間神社は内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った。
また当社は中津川流域の中心にし、孤嶽を残し中洲をなして曾て洪水の被害を受けたことなし。中津の称、これより来る。
爾来、諸般の設備ととのい、基本財産確立せるにより、大正4年、神奈川県告示をもって村社に昇格する。戦後昭和21年届け出により宗教法人となる」とあった」とある。
少々長く、かつ明治の頃の説明が相前後してちょっとわかりにくい。毛利の庄は後にメモすることにして、簡単にメモすると、北条長氏こと北条早雲により小田原に後北条が覇を唱える。その家臣である内藤下野守秀勝がこの地を領した。秀勝は上田代、馬渡橋の東岸の要害の地に田代城を築き、この社を氏神とする。その後の「又左衛門外二名なるもの三河より云々」は不詳。
更に、明治の頃の説明に「内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った」とは、少々わかりにくい。この説明は明治の合祀の説明の流れではなく、明治に合祀された八幡神社が内藤氏の守護神であり、徳川の御世に御朱印を下賜された、ということだろう。因みに内藤氏は津久井城主の内藤氏の一族であり、三増合戦の折、城は落城したとのことである。また、内藤氏は小田原北条氏の滅亡に順じたと言い、その後の消息は不明である。
○毛利の庄
厚木やその東の海老名の辺りは古代、相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫である。
馬渡橋
道なりに北西に進むと中津川に架かる馬渡橋。橋には中津川を渡る水道管が見える。横須賀水道の導水管である。馬渡橋の由来は、橋を隔てて中津川の両岸の台地に築かれた田代城と細野城の将士が馬で行き来した故とのこと。今でこそ上流に宮ヶ瀬ダムがあり、流れも緩やかではあるが、往昔水量豊かで船運の往来もあったと言うので,人馬の渡河などできたのだろうか。
木戸口坂
馬渡橋を渡ったところにある「馬渡橋バス停」でバスの時刻を確認し、最後の目的地である清雲寺へと向かう。それほど時間に余裕があるわけでもなく、結構の急ぎ足となる。
橋を渡り少し進んだところで県道54号を左に折れる道に入る。折れるとすぐに道は分岐するが、右に上る道脇に「木戸口坂」の石碑。「ここから忠霊塔の脇を経て昔あったという細野城木戸口あたりへ至る坂をいいます」とあった。細野城も田代城と同じく内藤氏の一族の城であったとのことである。
馬渡坂
清雲寺へは左の坂を上る。「馬渡坂」と刻んだ石碑がある。「愛川町町役場半原出張所脇から国道412号に至る坂」とある。国道412号もこのあたりはバイパスとなり半原の町を迂回して台地を上るわけで、それほど昔の道ではない。ということは、この「馬渡坂」も最近命名されたものだろうか。石碑の説明だけからの推測ではあるので全くもって根拠なし。
清雲寺
坂を上り国道412号を越え、急ぎ足で台地上の清雲寺に向かう。入口に六地蔵。境内には豊川稲荷堂や不動堂が祀られる。臨済宗建長寺派の本堂にお参り。開山は鉄叟慧禅師、開基は内藤三郎兵衛秀行とのこと。
内藤三郎兵衛秀行は田代半僧坊の開基の武将でもあり、武田信玄との三増合戦の時には田代城に詰めたと言われる。城が落城した後、秀行は剃髪したとの伝承もあるようだが、そもそも田代城攻略戦が行われたか否か自体が不明である。
○一背負門
境内を台地端へと向かう途中に山門があり。そこに案内板。「神奈川のむかし話五十選 ひとしょい門;むかしむかし、このあたりに善正坊という大力の坊さんがおった。あるとき中津川べりの材木集積場にゆき、山門の材料にする、ケヤキがほしい旨を申しいれたところ「一人で背負えるだけの量なら、ただでやろう」と木流しの役人は心よくその願いを許した。
すると善正坊は山門建立に必要な材木を山のように積みあげ驚き呆れる役人をしり目に、ひと背負いで此の処まで運んできてしまったという。この山門はその材木でつくられたので、いつの間にか「ひとしょい門」と呼ばれるようになった」とあった。
一背負門をくぐり、台地端に向かい田代の還流丘陵を眺める。大きく湾曲する中津川、中津川の流れにる砂礫などにより形成されたであろう田代の沖積地、そしてその中央に緑の丘陵地が一望のもと。これで今回の散歩は終了。急ぎ足で馬渡橋のバス停に向かい、一路家路へと。
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