府中・国立散歩;崖線と湧水

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京王線の駅で何げなくポスターを見ていた。府中郷土の森博物館で宮本常一さんの展示がある、と。民俗学者。とはいうものの、ひたすらに日本各地を歩き回った、といった断片的なことしか知らない。いい機会でもあるので宮本常一さんの業績・人生の一端にでも触れるべし、ということで、府中散歩にでかけることに。

地図を眺めていると、郷土の森博物館から6キロ程度西の国立に、城山公園とか「くにたち郷土文化舘」のマーク。距離も丁度いい。郷土館のあとは、府中から国立に歩くことにした。
(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;京王線・分倍河原駅>南武線に沿って東に>かえで通り>税務署前>本町西・中央高速と交差>新田側緑道>郷土の森博物館>多摩川堤通り・府中多摩川かぜの道>県道18号線・関戸橋北(鎌倉街道)>京王線交差>府中四谷橋>石田大橋>100m程度で北に>泉地区>中央高速交差>南養寺南・くにたち郷土文化舘>青柳河岸段丘ハケの道>谷保地区・城山公園>浄水公園>厳島神社・谷保天満宮>国道20号線・甲州街道>南武線・谷保駅

京王線分倍河原駅

京王線に乗り分倍河原に。いつだったか、この駅の北にある高安寺に訪れたことがある。平安時代に俵藤太こと藤原秀郷が開いた見性寺がはじまり。俵藤太って、子供の頃「むかで退治」の物語を読んだことがある。また、先般の平将門散歩のときにメモしたように、将門を討伐した武将でもあった。
この見性寺、義経・弁慶主従も足を止めている。頼朝の怒りを解くべく、赦免祈願の大般若経を写した「弁慶硯の井」跡が残る。南北朝期には新田義貞が本陣を構える。戦乱の巷炎上し荒廃。室町期にはいり、足利尊氏が高安護国寺として開基。関東管領上杉憲実討伐のため鎌倉公方・足利持氏がここに陣を構えている。永享の乱のことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
また、足利成氏のこもるこの寺に攻め込んだ上杉軍を成氏が破っている。享徳の乱における「分倍河原の合戦」のことである。その後も鎌倉街道の要衝の地ゆえに、上杉・後北条軍の拠点として戦乱の舞台となる。で、度々の戦乱で荒廃し、江戸期に復興され現在に至る。

駅を下り、南武線に沿って東に100mほど進む。けやき通りを南に折れる。けやき、って府中市の市の木だったか、と。ちなみに市の花は梅。南に進む。税務署前交差点を越え、本町西で中央高速と交差。

新田川緑道

先に進むと新田川緑道に。分倍河原って、新田義貞と北条軍が争った分倍河原の合戦の地。新田川の名前の由来は新田義貞からきているものであろう、と思っていた。が、どうもそうではないらしい。読みも「しんでんがわ」。江戸時代の新田開墾に由来する、とか。

郷土の森博物館

新田川緑道に沿って、東南にくだる。緑の中に「郷土の森博物館」はある。入口で入場料200円を払って館内に。単に郷土館があるだけではなく、昔の民家などの復元建築物や水遊びの場所といった施設もある。

宮本常一さん

展示ホールに。「宮本常一生誕100年記念事業;宮本常一の足跡」という特別展示が行われていた。入口で宮本常一氏の足跡をたどった30分のビデオ放映。大雑把にまとめる;広島県の瀬戸内に浮かぶ周防大島の生まれ。教師になるべく、大阪の高等師範学校に。徴兵で大阪の8連隊に入営。
8連隊といえば、子供の頃父親に「大阪の8連隊はあまり強くなく、また負けたか8連隊」といったせりふが言われていたと、聞いたことがある。事実かどうか定かではない。ともあれ、この8連隊に入隊しているとき同期の人から民俗学のことを教わった、と。
除隊後、小学校の教員。このとき田舎の周防大島のことを書いた原稿が民俗学者・柳田國男の目にとまる。同好の士を紹介され研鑽に励む。渋沢敬三氏の突然の来訪。敬三氏は渋沢栄一の孫として、第一銀行の役員といった実業界での要職とともに、民俗学者としても活躍。宮本氏は渋沢敬三氏の援助もあり、大阪から東京に上京。敬三氏の邸内のアチック(屋根裏部屋)・ミュウジアム、後の「常民文化研究所」の研究員となる。

宮本常一は旅する民俗学者として有名。生涯に歩いた距離は16万キロにもおよぶという。全国各地を旅し、フィールドワークを行い、地元の古老から聞き書きをし、貴重な記録をまとめあげる。著作物も刊行し、実績もあげる。が、第二次世界大戦。渋沢邸も焼け、大阪の自宅も焼失。膨大な量のノートが消え去ったと。戦後は民俗学者というだけでなく、農林振興・離島振興に尽力。また、佐渡の鬼太鼓座とか周防の猿まわしといった芸能の復活にも尽力した。

後半生は武蔵野美術大学の教授、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリスト)の所長として後身の育成に努める。ちなみに、研究所発行の月刊誌『あるくみるきく』のサンプルにおおいに惹かれる。どこかで実物を手に入れたい。
で、宮本氏と府中との関係は、昭和36年からなくなるまでの20年、自宅を府中に置いたこと。また、郷土の森博物館の建設計画にも参与した、と。著作物には『忘れられた日本人』など多数。未来社から『宮本常一著作集』が現在まで50巻刊行。すべてをカバーすると100巻にもなるという。

素敵なる人物でありました。歴史学者・網野善彦さんも『忘れられた日本人』についての評論を書いている。30分の紹介ビデオでも網野さんからの宮本常一さんに対するオマージュといったコメントもなされていた。
網野さんは『無縁・苦界・楽;平凡社』以来のファン。網野さんが大いに「良し」とする人物であれば本物に違いない。更に惹かれる。ちなみに網野さんは宗教学者の中澤新一さんの叔父さんにあたる。その交流は『ぼくのおじさん;集英社』に詳しい。

特別展示を眺め、関連図書を購入。買い求めた『忘れられた日本人を旅する;宮本常一の軌跡;木村哲也(河出書房新社)』を、帰りの電車で読んでいると、その本文に司馬遼太郎さんの宮本常一さんに対するコメントがあった;「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」、と。折に触れ著作物を読んでみたい。手始めに『忘れられた日本人』『塩の道』あたりを購入しよう。

多摩川堤「府中多摩川かぜの道」

2階の常設展示会場を眺め、博物館を離れ多摩川堤に。次の目的地である国立の城山(じょうやま)公園には、この堤防上の遊歩道・「府中多摩川かぜの道」を辿ることにする。距離はおよそ6キロ強、といったところ。
実のところ、先日の秩父の山歩きで膝を少々痛めていた。今週はアップダウンのある地域への散歩は控えるべし。ということで、この平坦な遊歩道は丁度いい。唯一の「怖さ」はサイクリング車。高性能の自転車なのだろうが、すごいスピードで走ってくる。それも半端な数ではない。「歩行者優先。自転車スピード注意」と路面に表示してはあるが、あまり効き目なし。こんな気持ちのいいサイクリングロード。飛ばす気持ちはよくわかる。

川の南に多摩の丘陵

川の南に聳える多摩の丘陵を意識しながら堤を進む。博物館の対岸の丘陵は多摩市・連光寺あたり。明治天皇行御幸の地とか小野小町の碑がある、と。乞田川が多摩川に合流している。後方、東方向に見える鉄道橋は武蔵野貨物線と南武線。先日南武線の南多摩駅で下り、城山公園をへて向陽台に向かったことを思い出した。城山は大丸城があった、というが、城主などはわかっていない。城山公園から西に続く広大な丘陵は米軍多摩レクリエーションセンターであろう。フェンスに沿って山道を城跡のある山頂までのぼっていったことが懐かしい。

関戸橋

1キロ程度西に進むと関戸橋。関戸橋の南は乞田川によって分けられた谷地。乞田川(こったかわ)は多摩市唐木田が源流。唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりまでは水路を確認できるが、それより上流は暗渠となっている。
乞田川によって開析されたこの道筋は多摩センターに続く。鎌倉街道上道と言われている。関戸5丁目と6丁目の熊野神社のところに霞ヶ関という関所があった。新田義貞と北条軍が戦った古戦場跡でもある。世に言う関戸合戦である。

関戸の小野神社に想いを馳せる

多摩川堤を少し西に進むと京王線と交差。対岸は関戸地区。関戸の渡しのあったところ。鎌倉街道の関戸と中河原を結んでいた。昭和12年の関戸橋の開通まで村の経営で運営されていた、と。
その少し東は一ノ宮。小野神社が鎮座する。古来、武蔵一の宮と称される古社。とはいうものの、先日歩いた埼玉・大宮の氷川神社も武蔵一の宮。大宮のほうが格段に規模も大きい。この小野神社はそれなりに大きいとはいうものの、氷川神社に比すべくもない。
どちらが「本家」という「元祖」一の宮かと、いろいろ説明されている。武蔵国成立時、それまでの中心地であった大宮を牽制すべく府中に国府を置き、国府に近い小野神社を一の宮とした、といった説もある。氷川神社に代表される出雲系氏族を押える大和朝廷の宗教政策、とも考えられるが、これは私の勝手な解釈。こ れといった定説は聞いていない。
もっとも、一ノ宮って、公的な資格といたものではなく、いわば、言ったもの勝ち、といったもののようだ。なにがしか、周囲が納得できる、「なにか」があれば、それで「一ノ宮」たり得た、とか。
小野神社の祭神は秩父国造と大いに関係がある。これは小野氏が秩父牧の牧司であったため。武蔵守に任官してこの地に来るときに秩父神社の祭神をこの地にもたらしたのではないか、と。ともあれ秩父と府中を結ぶつよいきずながあった、よう。大国魂神社も含めそのうちにちゃんと調べてみたい。

府中・四谷橋
更に西に1キロ程度進むと「府中・四谷橋」。国立・府中インターで下り、多摩センターのベネッセさんに行くときに通る道。その東は百草園。
いつだったか高幡不動から分倍河原に向かって歩いたとき、程久保川に沿って進んだ道筋。淺川も合流しており、川筋も広くこころもち、野趣豊かな風情である。ほどなく「石田大橋」。府中・四谷橋から2キロ程度の距離だった。

程久保川は日野市程久保の湧水を源流とし、多摩動物公園とか高幡不動の前を通り多摩川に合流する4キロ程度の川。古い名前が「谷戸川」。名前の通り、河岸段丘を穿って里山に谷戸とか谷津とよばれる谷地を形成していた、と。淺川は陣場山あたりを源流とする全長30キロ強の河川である。流路の長さに比して川床が高かったよう。ために氾濫を頻発する暴れ川であった、とか。川床が高かったことが、「浅川」と関係あるのかも?

国道20号線・日野バイパス

国道20号線・日野バイパスの通る「石田大橋」を越え、100mほど進み北に折れる。先日、娘の陸上競技会の応援で甲府に。帰路中央高速が渋滞し、甲州街道をのんびりと戻ってきたのだが、八王子の先、日野バイパスに出た。昔は、甲州街道を豊田・日野、そして多摩川をわたり、といった大騒動であったが、このバイパスだと、一挙に国立インター近くに。便利になりました。

くにたち郷土文化舘

しばらく進み、中央高速下をくぐると行く手に森の緑。これは南養寺の森。くにたち郷土文化舘はこの森の南端にある。森の端にそって東に進む。入口脇には近辺のハイキングコースをまとめた資料など用意されていた。助かる。
常設展示は半地下。デザイナーマンションならぬ、デザイナー郷土館といった特徴ある建物。常設展示場でビデオ放映を眺め、国立のあれこれを頭に入れる。
印象に残ったのは、このあたりの地形。武蔵野段丘、立川段丘、青柳段丘といった河岸段丘が並ぶ。河岸段丘とは階段状の地形のこと。河川の中流域や下流域に沿って形成される。当たり前か。階段状という意味合いは、平坦地である段丘面と崖の部分である段丘崖が形成されている、ということ。段丘崖の下には湧水が多いのは、国分寺崖線散歩で見たとおり。

地形について
地形についてちょっとおさらい。武蔵野段丘面の崖の部分が国分寺崖線。崖に沿って野川が流れる。この野川が流れる平地が立川段丘面。その崖の部分が立川崖線。その崖下を流れるのが矢川。そこは青柳段丘面。「くにたち郷土文化舘」はこの青柳段丘面の端。青柳段丘崖の近くにある。下には湧水が流れる、川というほどではないようだ。で、そこから多摩川にかけて沖積面が広がっている。
ということで、文化舘を離れ、崖線下の湧水に沿って先に進むことにする。この細流は矢川の支流のような気がする。矢川の源流はすこし北、南武線・西国立駅近くの矢川緑地あたりの湧水を集め、国立市外を流れ府中用水に合流。およそ1.5キロ程度の川である。

崖線下の湧水路に沿って城山公園に

崖線下の湧水路に沿って進む。崖線のことは「ハケ」と呼ばれる。中野の落合のあたりでは「バッケ」と呼ばれていた。また、このあたりでは「ママ」とも呼ばれるようである。本来であれば多摩川への沖積低地がひろがるはず、ではあるが、南は中央高速に遮られ、いまひとつ見通しはよくない。

城山公園
崖面を意識しながら進む。湧水路の上には木道が整備されている。細流である。ハケ下の道をしばらく進む。ヤクルト中央研究所の裏手を通る。細い道筋を進むと城山公園。
鬱蒼とした森が残されている。ここは城山と呼ばれる中世の館跡。青柳段丘崖を利用してつくられた室町初期の城跡。城主は三田貞盛とも菅原道真の子孫である津戸三郎ともいわれるが、定説はない。しばし森を歩き、次の目的地谷保天満宮に向かう。

城山公園を離れると、すこし景色が広がる。田畑が目につく。南に浄水公園がある、とのことだが、どれがその公園なのかよくわからない。東前方に広がる緑が谷保天満宮の鎮守の森だろう。

谷保天満宮

あたりをつけて進むと天神様の境内に。厳島神社。本殿裏手にある。弁天さまをおまつりした祠の周りは池。西側の「常盤の清水」からの湧水が境内に流れ込んでいる。天神さまのあたりは立川段丘と青柳段丘が交るあたり、とか。崖下からの遊水がこの「常盤の清水」となって湧きだしているのであろう。この清水は境内の中だけでなく、外にも流れだしている。周囲の水田の灌漑用水源としても使われたのであろう、か。

谷保天満宮は菅原道真をまつる。1000年の歴史をもち、関東最古の天神さまである。亀戸天神、湯島天神とともに関東三大天神様とも。このあたりの地名は「やほ」というが、この天神さまは「やぼ天満宮」と読む。通称「やぼてん」さまとも。「野暮天」の語源でもある。
由来は、道真が太宰府に配流になったとき、その三男道武もまた、この谷保の地に流された。わずか8歳のとき。そののち道真が亡くなったのを知り、それを悲しみ父の像を彫った、とか。が、その像があまりにあかぬけない、洒落ていない。ということで、「やぼてん>野暮天」となった、と言う。10歳の子供が彫ったわけで、あかぬけない、とは少々腑に落ちない。

また、別の説もある。この天神様のご神体を江戸の目白不動尊で出開帳することがあった。が、そのときは10月・神無月。八百万の神々が出雲に行く季節。そんなときに、江戸に出向くといった無粋なことを、と、揶揄した歌がある。「神ならば出雲の国に行くべきに 目白で開帳谷保の天神」、と。この歌に由来する、という人もいるようだが、定説はないよう。

あれあれ、鳥居が本殿より上にある??

本殿におまいり。もともとは多摩川の中州にあった。菅原道武が自ら彫った「野暮な」像を天神島にまつっていたようだが、後世、道武の子孫・津戸為盛がこの地に写した。あれあれ、鳥居が本殿より上にある。石段をのぼり、表大門に向かう。出たところは甲州街道。なんとなくしっくりこない。
チェックした。ことは簡単。昔の甲州街道は本殿より南にあった、ということ。新道ができたとき参拝の便宜をはかり現在の甲州街道沿いに表大門を設けたのであろう。

谷保の由来
メ モし忘れたのだが、谷保の由来。これは、文字通り「谷を保つ=谷を大切に守る」といった意味。段丘上にできた小さな谷地、谷上をなした湿地帯にその豊かな環境ゆえに人々が住み着いた。その環境の「有難さゆえ」にその環境を守るって地名にしたのだろう、か。別の説もある。谷地には違いないのだが、谷が八つあった。その八つの谷を守る、という意味で「八ツ保」、それが転化して「八保>谷保」との説である。はてさて。

南武線・谷保駅
今日の予定はここまで。甲州街道を越え、南武線・谷保駅まで歩き、分倍河原まで戻り、一路家路へと急ぐ。

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