讃岐 歩き遍路;八十二番札所 根香寺より五台山を下り八十三番札所 一宮寺へ ②鬼無口ルート

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根香寺から一宮寺への遍路道の2回目。今回はお山を南に直接鬼無に下り、一宮寺へと向かう遍路道をメモする。
このルートはあまりお遍路さんが歩かないのか、WEBにはこのルートの案内記事が少ないようだ。詳しいルート図も見当たらず、荒れた道故に利用されないのか、などと思いながら山道を辿ったのだが、指導標も立ち、道も整備されており、山裾までは道に迷うことはなかった。
山裾から鬼無の香西口ルートとの合流点までは遍路タグや指導標を見付けることはできなかったが、ルートのポイントとなる箇所はカバーしたので鬼無口ルートと考えてもほぼ間違いないだろう。

このルートは鬼無で香西口経由の遍路道に合流する。鬼無駅南の石灯籠と標石の立つ箇所が合流点だが、そこから一宮寺までは先回の香西口ルートの道筋と同じ。鬼無口ルートを辿るお遍路さんへの利便性のため、合流点から先は先回メモした一宮寺までの道筋もコピー&ペーストしておく。

本日のルート;
香西口ルート
82番札所・根香寺>香西口への下山口>山道を下る>八丁目>9丁目>里の車道と合流>民家生垣の標石>桑崎下橋の東に標石>十五丁舟形地蔵丁石>地蔵堂>神在口の鳥居と標石2基>香西寺>萬徳寺>御旅地蔵>瀬戸大橋線・鬼無駅>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無口ルート
82番札所・根香寺>根香寺仁王門前を根香寺道に>根香寺道三丁目休憩所>根香寺道と鬼無口への分岐点>遍路墓>車道に出る>車道を逸れて土径へ>車道をクロスし坂を下り再び車道へ>一瞬土径に入り再び車道に>盆栽通り分岐>車道を右に折れる>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
香西口・鬼無口共通ルート
自然石灯篭と標石>民家脇に標石>あごなし地蔵堂と石の卒塔婆>飯田お遍路休憩所>高地蔵>飯田の観音さん>古宮社>茶臼塚>定木の常夜灯と標石>舟形地蔵丁石>遍路標石と舟形地蔵>四ッ又地蔵>潜水橋>遍路墓2基>自然石の標石>成合橋北詰めの石仏標石>成合神社参道口の標石>小堂の舟形地蔵丁石>Y字路の標石>遍路小屋>83番札所・一宮寺



鬼無口ルート

根香寺仁王門前を根香寺道に
根香寺から鬼無に下るルートを探る。WEBに参考になる情報をスキミング&スキャニング。はっきりと道筋をガイドする地図は見つからなかったが、どうも、白峰寺から根香寺への根香寺道の三丁目標石のある辺りから麓に下るようだ。
国土地理院の地図をチェックすると、根香寺道の三丁辺りから県道180号の東側を南に下り、途中、県道180号から分岐し鬼無に下る道筋の東に沿って麓へ下線が描かれる。それが遍路道?と、あたりをつける。

根香寺仁王門から根香寺道に入る。入り口は仁王門前の駐車場谷側端、南に上る舗装された道がそれ。道の入り口には舟形地蔵丁石が立ち、一丁目と刻まれる
根香寺道
根香寺道は白峰寺から根香寺までの間、おおよそ5キロほどの遍路道。澄禅(ちょうぜん)の『四国遍路日記』(承応2(1653)年)には、「白峰ヨリ五拾町往テ根香寺ニ至ル」との記述があり、真念の『四国遍路道指南(みちしるべ)』(貞享4(1687)年)にも「これより根香寺まで五十町」と書かれている。一丁(町)はほぼ109mであるので、おおよそ距離も合致し、少なくとも江戸時代前期に使われた遍路道と推測される。
この根香寺道のうち、白峰寺出発点の一部と根香寺寺近くのおおよそ2.3キロが昔の面影を良く残すとして平成25年(2013)に国の史跡として指定されている。

根香寺道三丁目休憩所
舗装された道は歩き始めると直ぐに土径となる。道の右手に二丁目と刻まれた舟形地蔵丁石をみやりながら5分ほど歩くと空が開ける。そこには休憩所と遍路小屋。休憩所の手前に標石が立ち、正面には梵字、大師像と共に「是ヨリ一宮迄二里半」と刻まれる。また側面には「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある。
千尋嶽は崇徳天皇がその風光を賞で,御陵を造るようにと言 った場所だと言われる。ここから少し西に435mのピークがあるが、そこが千尋嶽だろうか。
崇徳帝の御陵
帝の御陵は千尋嶽ではなく白峰寺の白峰御陵にある。その経緯は?チェックすると、江戸時代後期の儒者である中山城山がまとめた『全讃史』の「根香寺」の項に崇徳院とのゆかりを示す記述があった。
「保元中、崇徳帝 数々行幸を為し給ひて、風景の勝を愛し給へり。甞て詔して曰く、朕千秋の後は、必ず此の山に葬れよ(根来寺の景観を愛で、幾度も行幸を繰り返し、亡くなった後はこの寺に葬れ、と言った。)」、と。
が、「長寛二年八月二十六日、崩じ給ひ、従者 霊輿を奉じて 此の山に到れり。乃ち 僧徒 相議して曰く、吾が山は 即ち 大悲轉法の所、百王鎮護の場なり。豈に 凶穢の物を入るべきや と。乃ち 南嶺に出して 之を拒む(崇徳院が亡くなった時、遺言故に根香寺に棺を運び入れようとしたのだが、根香寺の僧は、崇徳院を"凶穢"として入山を拒んだ)」、と。 「是を以って、已むを得ずして 神輿を反す。時に、輿中に聲ありて曰く、何故反す、と。因って 其の地を謂つて "何故嶺" と曰ふ。遂に 白峯に奉葬せり。 此の寺の衰廃は もと、其れ之れの由る。厥(そ)の後、数々災ありき。亦、"帝の祟(たたり)" と云う」、と。
しかたなく神輿を戻すに、"何故、返すか" との声があった。「根香寺」のあたりの嶺 を、"那是か;何故嶺(なぜかれい)" と呼ぶようになった所以、とか。そして、白峯山に埋葬することになったわけだが、東西一里餘、十七檀林もあった大寺であった根香寺がその後衰退したの、崇徳帝の "祟り" によるもの、と言われる、と記されていた。

休憩所の傍には小祠と共に「崇徳天皇 遥拝小祠」と刻まれた石碑があり、上述エピソードと共に、「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある崇徳天皇の遥拝所の小祠が荒れ果てたがゆえに、此の地に小祠を立てたといった記事が刻まれていた。

根香寺道と鬼無口への分岐点
鬼無への分岐点を探す。休憩所や遍路小屋傍にもう一基標石が立つ。手印は右を示し「国分寺六十四丁 瑞岡駅四十七丁」と刻まれる。瑞岡駅とあるからそれほど古いものではないだろう。
それよりなにより、瑞岡駅は国分寺の東2.3キロほど鬼無側にあるわけで、距離からすればこの標石の意味するところは、この分岐から瑞岡駅を経て国分寺への道を案内するということになる。ということは、へんろころがしの急坂経由国分寺の遍路道ではなく、鬼無口経由国分寺までの遍路道を案内しているようにも思える。
思うに、79番札所・天皇社から81番・白峰寺を経て82番・根香寺に進み、80番札所・国分寺へと下った後、82番札所・一宮寺へと向かう逆遍路道の標石か、とも。79番天皇寺から80番国分寺へと順路を進み、81番、82番に向かうへんろころがし・一本松の峠への急登を避けるため、江戸の中頃開かれた逆遍路道の道筋だろう。逆遍路道のルートは根香寺から一本松の峠・へんろころしの急坂を国分寺へと下っていたのだろうと思っていたのだが、いつの頃開かれたか不明だが、この鬼無口から国分寺へと向かう遍路道もあったようだ。
それはともあれ、この標石は鬼無口への手掛かり。このあたりに鬼無口分岐点があるだろうと辺りを彷徨うと、標石の右、というか少し西側に、比較的新しい石柱があり。そこには一宮寺方面と白峰へと向かう根香寺道の分岐案内があった。ここが根香寺道から鬼無口への分岐であろう。なんとか分岐点がみつかった。

遍路墓
一宮寺方面の指示が示す草の中に入る。ちょっとふあん。が、しばらく進むと踏まれた土径となり、一安心。6分ほど南に歩くと道の右手に6基ほどの石碑が並ぶ。遍路墓のように思える。
分岐点から南に下ってきた遍路道は遍路墓の辺りから等高線に沿って東に進む。国土地理院の地図でチェックすると、県道180号から東に向かって分岐し鬼無へと下る道に沿って進んでいる。遍路道が切れてもエスケープできる道があるわけで、さらに安心し先に進む。

車道に出る
東に向かった遍路道は北東に突き出た尾根筋突端を大きく廻り、途中激しく茂る草藪を突き抜けなどしながら遍路墓からおよそ20分歩くと舗装された歩道に出る。




車道を逸れて土径へ
車道を少し進み、北東に突き出た尾根を回り込んだ車道が南へと下る辺り、道の左手の草の中に遍路道と書かれたタグがある。
車道を逸れて土径を進むとほどなく車道へと上る道がある。確認のためその道を車道に上ると、そこには遍路道を案内する石柱があった。先の遍路道分岐点は草に隠れ見逃してしまいそうだが、こちらには一宮寺と刻まれた石柱であり、見逃すことはないだろう。

車道をクロスし坂を下り再び車道へ
遍路道を10分ほど下ると車道に当たり、その車道の対面に道が下る。結構な急坂でありしかも簡易舗装されており、雨上がりということもあって、ツルツルと滑り足元が危うい。道の右手には盆栽用の松が植えられている。
道の左手に舟形地蔵丁石を見遣り坂を数分下ると再び車道に当たる。ここからはしばらく車道を進むことになる。

一瞬土径に入り再び車道に
車道を南東へとしばらく進む。尾根筋に挟まれた赤子谷を抜け、東の尾根筋で車道が大きく南にヘアピン状に曲がるところに一宮寺と刻まれた石碑が立つ。車道を逸れ土径に入る。道筋には舟形地蔵丁石も立つ。
5分ほど歩くと遍路道は車道に合流する。ヘアピン状に曲がった車道が北に戻ったところである。

盆栽通り分岐
車道を7分ほど歩くと盆栽通りの標識。その左手に石柱と遍路道案内のタグ。石碑には一宮寺は右、遍路道タグには「へんろ道」は左との案内。共に一宮寺へと向かうわけだが泣き別れ。石柱の示す一宮寺への道は盆栽通りを下っていくのだろう。
ここは遍路道の案内タグに従い左へと車道を進む。
盆栽通り
鬼無は錦松、黒松、五葉松と言った全国の松盆栽の80%を生産する世界一の松盆栽お植木の里。歴史は今を遡ること200年、瀬戸内の沿岸に自生する松を植え、鉢植えとして販売したことに始まる。黒松を鉢植えに仕立てた鬼無仁三郎、販路を開拓した渡辺半太郎、黒松の突然変異種の錦松の接ぎ木に成功し大量生産を可能とした末澤喜一など先人の努力の賜物とのことである。

車道を右に折れる
盆栽通りへの分岐から車道を進むと直ぐ、最初のカーブを廻りガードレールが一瞬途切れるところ、ガードレール端に遍路道案内のタグ。うっかりすると見落としてしまいそう。遍路道案内タグに従い、その切れたガードレールから右に分岐する道に乗り換える。
舗装された道を進み、右手に見える池をこえたあたり、道の左手に谷北上集会所。遍路道は谷北上集会所前を通る、といった記事もあったの、オンコースであることを確認。

香西口・鬼無口ルート合流点へ
谷北上集会所から先の鬼無ルートの遍路道は、公民館前バス停を経て伊予街道、予讃線を越えて香西口からの遍路道に合流するという。地図をチェックすると谷北上集会所から直ぐ右折し、一筋南の道筋に公民館前バス停がある。その通りは先ほど出合った「盆栽通り」分岐から一宮寺へと向かう道筋のよう。盆栽通り分岐で分かれた道はここで合さり一宮寺へ向かうようである。
鬼無小学校前を右折し、公民館前バス停のある通りを左折、県道33号・伊予街道を越え予讃線の踏切を渡り直進すると、香西口遍路道との合流点である「八幡宮」と刻んだ3mほどの自然石と標石のある箇所に到着する。


香西口・鬼無口ルート合流点から一宮寺へ

根香寺から鬼無口に下る遍路道のメモはここまで。これから先一宮寺までは先回辿った香西口経由のメモを再掲する。

香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無駅前を南に下ると道の左手に大きな自然石の燈篭が見える。「八幡宮」と刻まれた石灯篭の前に標石があり、「左いちのみや」と刻まれる。
八幡社とは後述する、飯田の八幡様と称される岩田神社のことだろうか。 標石脇には遍路道表示もあり、ここでY字となった径に折れる。と、すぐに墓地を囲む生垣に埋もれるように標石が立ち、「是よ里一宮六十七丁」と刻まれる。
なおこの地は次回メモする根香寺からお山を直接鬼無に下る遍路道との合流点でもある。

民家脇に標石
径を進むと県道177号に当たる。遍路道は県道を突き切り民家の間の径に入る。径の角に標石があり、手印と共に「是よ里一のみや」と刻まれる。
径を進むと古さびた堂宇。道端大師堂とある。地蔵堂を超えると遍路道は本津川の堤に出る。昔の遍路道は本津川に下り、そこに架かる接待橋を渡ったようである。現在は少し下流に架かる永代橋を渡るが、この橋を接待橋とも呼ぶようだ。

あごなし地蔵堂と石の卒塔婆
永代橋を渡るとあごなし地蔵堂とその後ろに4mほどの卒塔婆。お堂の前の案内には、「孔雀藤 ふじなみや 音なきかぜのよりどころ 梅下庵主人
孔雀藤は樹齢八百年を数えると推定され、その名称は明治三十年(1897)ころに、孔雀の羽ように艶やかな藤であるというところから付けられた。
昭和十四年(1939)、香川県天然記念物の指定となり、昭和四十六年(1971)県の自然物の指定となる(この孔雀藤は岩田神社境内にある)。
遍路道
遍路道には一見してそれとわかる道標・丁石が立てられている。遍路は、それを道案内に札所から札所へ迷うことなく、大師の辿られた跡を慕って修行して歩けば、解脱成仏できると信じたようである。
根香寺から永代橋(接待橋)を渡ると卒塔婆・顎無地蔵・源岩田山蓮香寺本尊千手観世音菩薩安置所(観音さん)がある。これを東に進み、道祖伸より代官道を通り四ッ又地蔵へ、さらに一宮寺に行く道を遍路道という」とあった。

あごなし地蔵の説明はなかったが、歯痛に後利益あり、という。あごがどうして歯痛?チェックすると大阪府豊中市にある萩乃寺の秘仏・あごなし地蔵尊のいわれが見つかった。そこには、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれた隠岐の島の伴桂寺より難を逃れるべく萩乃寺に遷座したとあり、秘仏あごなし地蔵尊のいわれとして、「平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。
その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています」とあった。
また、埼玉の広済寺にある「あごなし地蔵」は文字通り顎がない。顎がなければ歯もないわけで、歯痛がおきることもない、とのこと。
前者はいわれとしては面白いが、一般化するとすれば後者の広済寺のほうがわかりやすどうだ。お地蔵さまも心ももち顎がないように思える。

飯田お遍路休憩所
道なりに東に進むと岩田神社に。飯田の八幡さまとして知られる岩田神社は旧飯田郷四ケ村の氏神である。拝殿左手の藤棚は前述の如く孔雀藤と称され名所とのことだが季節外れ。拝殿にお参りし遍路道に戻る。
遍路道は岩田神社前で右に折れ、南下するが、右折する少し手前に真新しい遍路休憩所があった。飯田お遍路休憩所と呼ばれる。今まで結構多くの遍路休憩所や遍路小屋を見てきたが、この休憩所は最上のカテゴリーに入るように思える。

高地蔵
岩田神社前を右に折れ南に下る道に入るとすぐ、道の右手に二本柱の小屋根をいただいた高地蔵がある。台座を含めておおよそ6m弱あるだろうか。飯田の南、檀紙地区の旧家が牛の供養に立てたという。
檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭にかけて途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。

飯田の観音さん
高地蔵の横に集会所といった趣の建物がある。そこが飯田の観音様。外壁に取り付けられた木の札には「源 岩田山蓮香寺 本尊千手観世音菩薩安置所」とある。飯田神社の別当寺であった蓮香寺跡という。

古宮社
南下した遍路道は右手に「岩田神社御旅所」の案内があるコンクリート打ちっぱなしといった土台、左手に地蔵堂のある角を左に折れる。道を進むと左手に「五大神」と刻まれた自然石の石碑と「古宮社」と刻まれた石碑の立つお堂がある。

古宮社は地図に飯田神社と記される。これは上述岩田神社の旧地であり。延喜式内帳には式外社として『射田神』を祀るとある。およそ800年前に現岩田神社のある場所に遷座した、と言う。
五大神
お堂の前に「五大神」と刻まれた自然石が立つ。五大神って何だろう?チェックする。なんとなくではあるが、地神(じしん)さま、地神信仰と関連あるように思える。その年の稲の豊作を願い、農業にゆかりの深い土地神様を祀るようだ。
で、五神との関係は? どうも農業に関係深い神として「天照大神(あまてらすおおかみ)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・埴安媛命(はにやすひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」の五神が挙げられ、五角柱の各面に五神名が刻まれる地神塔が見受けられるとのことだが、ここは「五大神」と刻むことで良しとしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

茶臼塚
古宮社から少し進むと道の左手にふたつの小祠。これこそ地神さまかと思ったのだが、井岩田神社近くにあった案内に「茶臼塚」と記された場所のようだ。
で、茶臼塚って?これもはっきりしないが、応仁の乱の頃、この辺り(定木)を領した飯田氏がその祖先を祀るため立てられたようだ。
貞治元年(正平十七、1362)に細川頼之が讃岐の宇多津に上陸した時、一宮の大宮司らと共に細川氏に与し、その後も、頼之傘下で伊予の河野氏討伐に出張っている。 その後、香西氏に与しその重臣として長曾我部と戦う。秀吉の四国征伐の後は讃岐の領主となった生駒氏の家臣となった、とある。茶臼と飯田氏のいわれは不詳。

定木の常夜灯と標石
遍路道は東に進む。県道176号との合流点に常夜灯と標石がある。常夜灯は高さ4mほどの大きな自然石の灯籠。灯籠横の標石には手印と共に、「右 一宮 三十五丁 天保十三年」といった文字が刻まれる。標石の手印は直進ではなく右折を示す。



舟形地蔵丁石
手印に従い右折し、県道に沿った細路を少し南に下ると舟形地蔵丁石が立つ。「左 一ノ宮道」と示す指示に従い左折し県道に当たる。県道の対面には「一宮寺」と刻まれた石柱と遍路タグ。県道を渡る。

遍路標石と舟形地蔵
細路を進み民家の並ぶ通りにT字に当たる。遍路道はそのすぐ先を左折する。ほどなく道の右手に遍路標石と舟形地蔵。お大師さまを彫りぬいた標石には「一の宮へ三十二丁」とある。手印に従い右折する。




四ッ又地蔵
道なりに進むと友常池の北に小さな地蔵堂と標石がある。標石には手印と共に「左 一ノ宮道 三十一丁 明治廿九年」と刻まれる。あれ?手印は右を指すが、文字は左一ノ宮と相反する。手印と文字が間尺に合わない標石を時に見る。標石側からみての手印とも言うが、少々わかりづらい。
地蔵堂に案内があり、おじぞうさんの説明と共に四ッ又地蔵の由来として、「夫婦塚の飯田用水と檀紙からくる水路が合流して四つに分流するところ(四ッ又)にある」故とする。 夫婦塚はこの先、香東川に架かる潜水橋の少し上流にある墓地のようだ。源平合戦の死者をまとめて弔った塚で、道を挟んで両側にあったため夫婦塚と呼ばれたとする。檀紙からの水路は本津川支流の古川からの養水だろうか。

潜水橋
道なりに進み香東川の土手に出る。土手には舟形地蔵が佇む。檀が繁茂したのはこの香東川との記事も見かけたが、それはともかく遍路道は土手を下りて潜水橋を渡ったという。 潜水橋ということは沈下橋だろう。今も川に橋というか、堰と一体となった沈下橋があるのだが、通行止めの指示があり、少し上流の中森大橋を渡り右岸にでる。因みに香東川にはいくつか所謂、「沈下橋」が残るようだ。
標石
潜水橋から中森大橋に向かう途中、土手下に墓地がある。前述夫婦塚の辺りではあろうとおもうのだが、その墓地の土手上に笠のついた結構大きな標石があり手印と共に「一宮道」とあった。手印は中森大橋の方向を指していた。

遍路墓2基
中森大橋を渡り、潜水橋が香東橋を渡る箇所まで戻る。その土手には2基の遍路墓があった。ひとつには「摂州兵庫津船大工町 俗名義兵衛 文政十」、もう一方には「法名 知膳尼 嘉永元年」と刻まれると言う。遍路道は東進し、香川高専の辺りで右に折れ、南下する。


自然石の標石
南に下り高松自動車道の高架と当たる手前、道の右側にある「おへんろさん休憩所」と書かれた食事処の前に自然石の標石。手印と共に「一のみや道」と刻まれる。
高松自動車道の下、香川高専前交差点を渡り更に南下。県道171号に当たるとそこを左折し東進。県道282号・高松市勅使町交差点を右折し香東川に架かる成合橋へと南下する。



成合橋北詰めの石仏標石
香東川に架かる成合橋手前、道の左手に四本柱屋根付きの石仏が佇む。造りは結構新しい。享和2年(1802)の作で台座を含めて1.5mほどといった記事があるが、とてもそれほど古いは思えないし少々小ぶりな感もする。レプリカなのだろうか。前の2本の柱にはそれぞれ「右こんぴら道 左一のみや道」と刻まれる。



成合神社参道口の標石
遍路道は東に向かい、国道32号・成合大橋東交差点を横切り成合神社境内の北端を進む。境内の社叢を越えた先、民家の塀に遍路道の案内があり右折すると神社参道に。その角に雑草に隠れるように標石があり手印と共に「南 一宮道 根香寺道」と刻まれる。
成合
成合の由来は、成合地区の東にある本村の飯沼氏の出自である丹後国・成相にあるようだ。『今昔物語』の「丹後国成合観音霊験記」には成相寺の縁起として。「雪深い草庵で修行の僧。食べ物も尽き、食を本尊に祈る。と、堂外に傷つき倒れた猪。禁戒を破り食する。雪も消え里人が堂内を見るに、鍋に木屑、そして両腿の切り削がれた観音さま。僧は観音さまが身代わりになってくれたと、木屑を腿に着けると元の姿に戻った、と。故に成合〈相〉と。いつもながら昔の人の豊かな想像力に驚かされる。

小堂の舟形地蔵丁石
参道を抜けると遍路道は南に折れる。民家の間の一車線ほどの道を進むと、道の左手に小堂があり、中に祀られる舟形地蔵は「此方 一宮道 文化九年」と刻まれ丁石となっている。舟形地蔵丁石の横には小さな石造座像も祀られていた。





Y字路の標石
道なりにしばらく進み、南北に走る道に合流。少し南に下るとY字路がありその分岐点に標石が立つ。手印と共に「一宮道 右安原道 弘化三年」と刻まれる。安原道は南の塩江町への道のよう。遍路道は手印に従い左の道に入る。





遍路小屋
道なりに進み一宮中学校の西側を下り、一宮小学校の傍で御坊川を渡り民家の間のクランク状の道を右折・左折・右折と進み南に下ると遍路小屋がある。




八十三番札所・一宮寺 
遍路小屋を南に下り、県道12号・一宮町交差点を南に越え道なりに進み、高松南高等学校の辺りで左に折れると札所八十三番一宮寺の境内北側にあたる。


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