仲多度郡多度津町の道隆寺から、丸亀市域を抜け綾歌郡宇多津町の郷照寺を打ち、坂出市市街を抜けて天王寺まで、おおよそ13キロの遍路道を辿る。
当日は道隆寺から天皇寺まで進んだのだが、道隆寺から郷照寺までの間、あれこれ寄り道しメモが結構長くなってしまった。
今回のメモは郷照寺までの遍路道のメモとし、その先は次回に廻す。
本日のルート;
■七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
■七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院
七十七番札所・道隆寺からスタート
道隆寺を打ち終え、次の札所に向かう。境内から出るのも、また境内から少し離れた本坊からでるのも、遍路道は境内北側を丸亀市街へと走る車道を進むことになる。
本坊は結構風格がある。総本山醍醐寺のもと、全国に六つある真言宗醍醐派の大本山のひとつ。
こじんまりとした境内を歩きながら、第三世が空海の実弟である法光大師、第四世が円珍こと智証大師、第五世が理源大師と高僧が住職を務めたということに何となく??を感じていたのだが、この本坊を見て納得。
本坊北角の標石を直進し遍路道にでる。
地蔵堂傍の茂兵衛道標
道隆寺を出て東に向かった道はすぐ丸亀市域に入る。丸亀に入って直ぐ、道の右手に地蔵堂があり、その脇に茂兵衛道標が立つ。「右どう里う寺 左道場寺 明治二十七年」と刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。道場寺は七十八番札所・郷照寺の古い呼び名である。
天満宮傍、T字路角の標石
金倉川を渡り、讃岐塩屋駅を越えると道の左手に天満宮。その東側、T字路角に標石が立つ。「本派本願寺 塩屋別院 本願寺坊舎」の文字と「逆へん路通りぬけ道あり」と刻まれる。「抜け道云々」の指示するところは不明だが、ここでちょっと遍路道を離れ標石の指す塩屋別院に立ち寄る。
●本派本願寺
本派本願寺とは西本願寺の異称。大谷派本願寺に対してのもの。西本願寺とは浄土真宗本願寺派の本山である本願寺の通称。大谷派は浄土真宗十派の一。第12世教如が、徳川家康の寄進を受けて烏丸に東本願寺を建立したのち、独立したもの。明治14年(1881)東派から大谷派に改称(「コトバンク」より)。
塩屋別院
予讃線を潜るとほどなく誠に大きな山門と広い境内、堂々とした伽藍をもつ塩屋別院がある。本堂前にあった案内には、「本願寺塩屋別院の起源は、江戸時代の慶長20(1615)年に播州赤穂(現 兵庫県赤穂市)の教法寺と門徒30戸が塩田開墾のため、集団移住したのが始まりである。
当初は教法寺道場と称し、寛永20(1643)年讃州那珂郡塩屋村総道場教法寺と称する寺号を賜わり、以来、念仏者の中心道場となっていった。
当時の敷地は東西二十五間、南北三十間(750坪)本堂は東向き七間四面、境内の地上げに必要な築石は丸亀城築城の残石で補ったと言われている。
享保19(1734)年に本願寺塩屋別院となり、延享2(1745)年面積を六段六畝十三歩(1993坪)に拡大し、現在の本堂の建設に入り、それまでの本堂を対面所とした。
現在の本堂は、寛延2(1749)年に起工し、上棟は安永(1775)年でおよそ30年の歳月を要した。さらに完工までに相当の年月を要し、大工棟梁も3人目にして完成したと言い伝えられている。
また本堂完工後、書院・奥座敷・学寮・講堂・表門・鐘楼・表納所・経堂・土蔵・輪番所・講中詰所・集会所・茶室等が順次建てられ、全ての完成まで50年余りを要したと推測される。
平成5年より平成大修復を策定実施し、平成7年に本堂屋根修復・大書院の修復を完了し、平成9年には研修会館を新築した」とあった。
それにしても立派な構えである。讃岐遍路歩きの折々に、曼荼羅道での蛇岩や善通寺の法然上人逆修の塔など、上人ゆかりの地に出合った。承元の法難により讃岐配流となった上人は放免されるまでの10ヶ月間、讃岐各地での布教をおこなったというから、上人の浄土往生の教えが広まったのだろうか。
もとより、この塩屋別院は浄土真宗であり、法然の開いた浄土宗ではないが、浄土真宗の開祖親鸞は法然の教えを継承し発展させたものである。浄土真宗とは浄土往生を説く真実の教え、ということのようだ。
●ドイツ兵俘虜収容所
尚また、案内には「本願寺塩屋別院におけるドイツ兵俘虜収容所」の案内があり、「大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦。イギリスと交戦中のドイツに対して、日本は同盟関係にあったイギリスとともに中国領土内でドイツと戦火を交えた。数か月間の攻防が続いた後、ドイツ軍は最後の砦となっていた青島(チンタオ)が陥落し、降伏した。その際、捕虜として捕えられたドイツ兵4,627人が、日本にあった12か所(四国には松山、徳島、丸亀の3か所)の俘虜収容所に送られた。
同年11月16日、多度津港へ入港後、丸亀俘虜収容所(本願寺塩屋別院)に収容された俘虜324人は2年5か月もの長い間、丸亀で俘虜生活を送ることとなる。その間の塩屋別院門信徒との交流・俘虜たちの暮らしぶり等、当時の貴重な写真も残っている。
当時の俘虜の生活は、個人個人を尊重した収容所運営を図っており、運動する事やビールを飲むこと等を許可する運営が行われていた。やがて彼らの能力を活かす機会も増え始めソーセージを作ったり技術者として学校等で技能の指導を行ったりしていた。
また、俘虜のエンゲルを中心に楽団を結成し、26回もの演奏会を開催している。その中で、男性合唱団も2団体結成され「収容所合唱団」として独自のコンサートも開催し、活発に活動していた。彼らの音楽活動は、丸亀の収容所から始まり、その後、徳島の板東俘虜収容所へ移り、そこでも音楽活動が盛んになった」との説明が当時の写真と共にあった。
第一次大戦の捕虜収容所といえば、松江中佐が所長であった徳島の坂東俘虜収容所が有名だが、偶々訪れたこの丸亀にも同様の精神で運営された収容所があった。松山で出合った日露戦争でのロシア兵捕虜収容所の写真、市民と道後温泉で寛ぐ姿、三津浜で海水浴を楽しむ姿、将校は市内の民家を借りて住むことも認められていた、といったことなどを思い起こす。
松江中佐と坂東俘虜収容所は『ふたつの山河;中村彰彦著(文春文庫)』に詳しい。
正宗寺
遍路道筋に戻り少し東に進むと、道の右手に正宗寺がある。何気なく立ち寄る。と、ここも法然上人ゆかりの地であった。
●法然上人櫂堀井戸
道を少し南に折れ、境内入口に。入り口に佇む北向地蔵にお参りし境内に。境内南端に覆屋があり、その下が井戸となっている。
法然上人が、讃岐の塩飽諸島の笠島浦(かさじまうら)から、讃岐金刀比羅宮の東麓、九条家の荘園である小松庄へ移ることになり、船でこの地・塩屋に上陸。この時、水を願って船の櫂で地面を掘ると、水が湧きだしてきた、と。 櫂堀井戸の名前の由来である。当時はこの辺りが海岸線であったということだろう。
なお、安政五年(1858)の『西讃府誌』には「棹の清水」として伝えられ、「信じられないことであるが誰もがこのことを知っているので、仕方なく載せた」という内容の添え書きまであるという。
●舟つ奈き岩
井戸の東、木の下に二つの石碑がある。ひとつは「舟つ奈き岩」とある。法然上人上が讃岐上陸の折の岩だろうか。またその横に自然石。何か刻まれているようだがはっきりしない。自然石に「ほうねん上人かいの水 南無(なむ)は船阿弥陀(あみだ)のかいで堀(ほる)清水(しみず)末の世までも仏仏(ふつふつ)とわく」と刻まれるとの記事があったので、その石碑かもしれない。
法然堂もあるこのお寺さまは、法然上人が去ったあと、弟子の成阿坊が残り、草庵を守り教えを広めたとのことである。
●北向き地蔵
散歩の折に触れて北向き地蔵に出合う。今までスルーしていたのだが、そもそも何故に「北向き」を特別視するのだろう。チェックする。 地蔵菩薩の住む浄土である?羅陀山(きゃらだせん;須弥山を囲む七金山のひとつ)は南にある。故におのずと地蔵は北を向くことになる、と言う。それはそれでいいのだが、北向き地蔵と敢えて挙げる説得力に乏しい。
北は鬼門など忌むべき方角とされる。それにも関わらず敢えて北を向くことが、逆に特別な霊威を感じるといった信仰故との説もある。また、中国には王者南面の思想がある、と言う。京都御所しかり、天皇陵(御醍醐帝を除き)しかりである。北は「下座」と言うことだろう。
で、何故に「北向き」を特別視するか、ということだが、それはお地蔵さまの「役割」をはっきりと表したもの故、と言う。釈迦入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような間、この現世に仏が不在となる。その間仏に代わり六道を輪廻する衆生を済度するのが地蔵菩薩とされる。「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道に現れ、下座にある我々に寄り添い済度するということだろう。
全国に北向き地蔵は400体ほどある、と言う。敢えて北を向く故の霊威なのか、民衆に寄り添う故の下座としての北向きなのか門外漢にはわからないが、何となく「北向き」を特別視する理由はわかったように思える。
寿覚院南に金毘羅標石
道を東に進み、西汐入橋に架かる塩屋橋を越え更に直進すると寺の境内に行く手を阻まれる。辺りはいくつもの寺が集まる寺町で寺のようだ。
T字路を右に折れ寿覚院の南、県道21号(丸亀宅間豊浜線)に入り、少し東に進むと県道33(交差点から北は県道204号)と交差する。その交差点の少し手前、県道21号の右側に金毘羅標石。
「左こんぴら道 すぐこんひら 右かわくち 明治十三」といった文字が刻まれる。
●丸亀街道
金毘羅道標の脇に「こんぴら湊 丸亀街道」の案内が詳しいルート図と供にある。案内には「こんぴら湊 まるがめ街道 現在こんぴらさんとして親しまれている金刀比羅宮 は、古くから金毘羅大権現として広く信仰を集めていました。 特に江戸時代後期には金毘羅参詣が一般庶民の間で人気となり多くの人々が参詣に訪れるようになりました。
主な金毘羅街道として、丸亀街道 、高松街道 、多度津街道 、阿波街道 、伊予・土佐街道 の5街道 が知られています。この中でもっとも多くの参詣客が利用し、にぎわったといわれているのが丸亀街道です。 丸亀から金毘羅までの約3里(12km)の道筋には今も、道標 、丁石 (距離を表す単位である丁数が 刻まれている石造物 )、燈籠 が多く残され、往時のにぎわいを今に伝えています」とあった。
ルート図には随所に金毘羅標石が立っている。そのうちに歩いてみたい、などとルート図を辿っていると四国への上陸地点、金毘羅街道のスタート地点である丸亀湊に「太助灯篭」とある。何となく名前に惹かれちょっと立ち寄ることに。
◇寿覚院山門前の常夜灯と標石
ルート図を辿り金毘羅標石の道を隔てた北、寿覚院と民家の間の道を進む。と、ほどなく寿覚院山門前に金毘羅常夜灯と標石が立つ。常夜灯には「大阪講中」と刻まれる。標石には手印と共に、「こんぴら せんつじ へんろみち」「往昔金毘羅大権現 當山十一面観世音 明治五年」と言った文字が刻まれる。
京極家の前の丸亀藩主山崎氏の菩提寺である寿覚院の本尊は十一面観音である。
〇太助灯篭
予讃線・丸亀駅、更にみなと公園西側の道路脇にたつ常夜灯を見遣り丸亀港へ。港の太助灯篭は予想以上に大きくすぐわかった。傍にあった案内には「金毘羅講燈籠 丸亀 は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。金毘羅講寄進のこの青銅燈籠は、天保九年 (一八三八)の製作で、高さ五・二八メート ル、蓮華をかたどり八角形である。
ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人柏屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が出し合った金でできた信仰と、航路標識とかねたもので、江戸講中の代表、八十両の最商領寄附者の名をととめて、一名「太助燈籠 」とも呼んでいる。
天保の昔、対岸にニ基・福島湛甫にニ基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。金毘羅街道 の「一の燈籠」である。 丸亀市教育委員会」とあった。
◇塩原太助
Wikipediaには「江戸の豪商。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた」とある。
塩原太助には散歩の折々に出合った。隅田区では太助ゆかりの塩原橋に出合った。足立区の東陽寺では太助のお墓に出合った。群馬と新潟を隔てる三国峠を越えたとき、途中にあった猿ヶ京温泉の辺りは塩原太助の生まれたところ、と言う。長年歩いているとあれこれと繋がってくるものである。
因みに塩原太助を一躍有名人としたのは三遊亭円朝の『塩原太助一代記』と言う。
◇新堀湛甫・福島湛甫
湛甫(たんぽ)とは「船の停泊するところ」の意。太助灯篭の少し東、岸壁にあった石碑、「湛甫(しんぼりたんぽ)のみち」には、「天保3(1832)年、丸亀藩主は幕府の許可を得て、西平山の海岸に湛甫を築いた。東西80間(145,44m)、南北40間(72,72m)、入口15間(27,27m)の湛甫が完成された。
この湛甫を新堀湛甫(しんぼりたんぽ)と呼び、その付近一帯の地名を新堀と呼んだ。湛甫ができると、阪神、岡山からの金毘羅参拝の船が往来し、いままでにもまして丸亀はいっそう繁栄した」とある。
福島湛甫は新堀湛甫より以前、それまで船着場として使われていた内浦湛甫に代わり、文化三年(1806)に築造された。役夫およそ6万名弱が投入された、と言う。
上述太助灯篭は新堀湛甫築造に際し、夜間航行の標として十二基計画された灯篭の第一号。上述の説明に拠れば、太助灯篭を含め新堀湛甫には三基建てられた、ということになる。
港の公園には大阪と丸亀を結ぶ金毘羅参拝の定期舟船(月参船)である金参船をかたどった遊具などが造られていた。月参船は丸亀京極家の第六代藩主である京極高朗(在位1811‐1850)の頃就航した、と言う。
遍路道に戻る。
丸亀市街を抜け宇多津に入る
遍路道は上述金毘羅道標の先にある交差点を直進し丸亀市街を抜ける。右手には丸亀城が見える。
交差点を直進する四車線の道路は県道21号・県道33号重複路線。丸亀市街を抜ける遍路道には標識は残らない。道路整備により撤去され、お城近くの市立図書館の庭に道路元標識など他の石造物と共に集められているようである。
●丸亀城
丸亀城は以前訪れたこともあり、今回はパス。
標高66mの小山・亀山に築かれた城。「扇の勾配」と称される城壁のカーブが美しい。石垣の高さは日本一と言う。城は室町の頃、管領細川頼之の重臣である奈良元保安により築造。現在の構えは慶長2年(1598)から5年の歳月をかけ、生駒親正とその子・一正により、西讃防備のため高松城の支城として造られたもの、と。
後の寛永18年(1641)丸亀藩主として山崎家治が入城、次いで万治元年(1658)に京極高和が城主となり、明治まで京極六万石の城下町として栄えた。 因みに丸亀の由来は、城の築かれた亀山の姿より。円形のその姿より、生駒氏築城の頃は「円亀」と呼ばれたようだが、その後「丸亀」となった、とか。
県道左側に地蔵堂
土器川に架かる蓬莱橋を越え土器町にはいる。県道21号はここで終わり、この道は県道33号高松善通寺線となって東に進む。汐止めゲートらしき施設が海側にある新内橋を渡ると香川県綾歌郡宇多津町に入る。
道を進み、JR宇多津駅の駅前通りが県道にあわさるT字路に地蔵堂がある。地蔵堂の裏手は独立丘陵である青ノ山(標高224m)となっている。
誰袖(たがそで)の標石で県道を右折
地蔵堂から県道194号の高架を潜るとほどなく、道の左手に立派な標石がある。「西 丸亀道右 扁ん路道 文久三」が刻まれる。この標石は指にもった扇子が方向を示し、手元には袖が刻まれている。このような袖まで刻まれた標石のことを「誰袖(たがそで)の標石(しるべいし)」と呼ぶようだ。寄進者は宇多津の魚問屋の主人とのことである。
同様の「誰が袖道標」には愛媛県西条市丹原で出合った。
宇夫階(うぶしな)神社
標石を右折すると宇夫階神社の正面鳥居前に出る。趣のある社。Wikipediaには 「伝承では、宇夫階神社は紀元前から鵜多郡の郷に鎮座し、宇夫志奈大神として祀られている。景行天皇の皇子日本武尊の子、武殻王(たけかいこおう)が阿野郡に封ぜられた際に、瀬戸内海海岸を船で御巡視したが、暴風雨に遭遇し、王は驚いて宇夫志奈神に祈念すると、小烏が跳び風波を凌ぐ道しるべとなり王を導いた。 王は大変喜び、水夫に命じて烏に従い、泊島(丸亀市塩飽本島泊)に漂着し難を逃れた。これより宇夫志奈大神を一層篤く崇められ、小烏大神と称されるようになったとされる。現在でも「小烏(こがらす)さん」との別称が地域で受け継がれている。
また光仁天皇により、779年(宝亀10年)には社殿再興のことが伝えられている。 さらに平城天皇の806年(大同元年)10月、藤原鎌足四世の孫左京大夫藤麻呂の孫とされる、津の郷の長者、末包和直に宇夫志奈大神の託宣があり、末包は当時の国守に上申し、神主となり長く祭祀を行い来った。翌807年、平城天皇の治世に、社殿から光明が射すことが度々あり、勅命により現在の位置に遷座し社殿が造営された」とある。
古い社である。鉄筋コンクリート造りの拝殿は別として、境内の建物の多くは登録有形文化財に指定されていた。
●本殿
本殿は伊勢神宮外宮の第一別宮である多賀宮の旧正殿を移している、と。当社の本殿・拝殿が昭和47年(1972)に火災により焼失。この年が伊勢神宮の式年遷宮の時期でもあったため、旧多賀宮を貰い受け本殿とした。20年毎にすべてを造り変え、本来であれば見ることのできない伊勢神宮の社が今に残る。
本殿を拝することができるのかどうか、伊勢様式を真似た神明造り鉄筋コンクリート造銅板葺の拝殿を奥へと回り込む。屋根全体が銅合金版で覆われており、元の白木屋根の多賀宮は奥に配されているのか、拝すること叶わず。本殿建物のどこまでが文化財の指定を受けているのか不明だが、昭和の建物が文化財指定を受けるのは珍しいようである。
●巨石(いわさか)と御膳岩
本殿はともあれ、拝殿から奥へと回り込んでいると、「巨石(いわさか)と御膳岩」の案内があった。案内には「この巨岩は古代祭祀の遺跡である。いわさかは神座と呼ばれ、古代より信仰の対象としてあがめられていた。これに対し御前岩は神饌(私注;しんせん:神に供える酒食(しゅし))を置き献ったものである。
また、いわさかは巨石文化の遺構ともいわれ、その形状は高さ5.5m,直径4mであり、重さは三百トン以上と推定される」とある。
本殿裏手に巨大な岩があり、それが巨岩。本殿右手、これも巨大な石灯篭の立つあたりに御膳石があった。古代祭祀が行われていた場所に社が建てられた、ということだろうか。
〇宇夫階(うぶしな)
ところでこの宇夫階(うぶしな)神社に祀られる宇夫志奈大神って?チェックしてもヒットしない。が、なんとなく産土(うぶすな)神に関係ありそうな気がする。「産土神」とは、その地に生まれた人の守護神。地縁に基づく信仰である。谷川健一氏に拠れば、生まれ落ちて最初に触れる砂が産土の語源であり、その土地の霊が子供の守護神になるという信仰がその原点である、と。
実際、産土神を宇夫須那神、宇夫志奈神とも記すという。古代祭祀の頃まで遡る地域共同体の守護神といったところだろうか。単なる妄想。根拠なし。
この鳥居前で、上述「誰袖の標石」ルートと合流するもうひとつの遍路道がある。そのルートは上述県道194号の高架を潜ると直ぐ県道を逸れ、右に折れる脇道に入る。ほどなく手印と共に「七十八番郷照寺」と刻まれた標石があり、そこを右折。緩やかな坂をのぼり、そして道なりに坂を下ると鳥居前に出る。遍路タグはこちらの道を示していた。
本妙寺
静かな佇まいの家並を進む。右手に建つ本妙寺。美しく整えられたアプローチ、その先に立つ2基の銅像に惹かれちょっと立ち寄り。銅像は日蓮大菩薩、日隆大聖人菩薩。山門を潜り本堂にお参り。
境内に大きな石柱。「日隆大聖人御舊跡 鳳凰霊水」とある。案内に拠ると「本妙寺はおよそ550年の昔、室町時代のはじめ後花園天皇の嘉吉2年、この地に布教に来られた法華宗中興の祖日隆聖人によって開かれた。聖人御歳五十八。秋山土佐守建立、日蓮大菩薩ゆかりの番神堂(私注;丸亀旧市街の番神宮)において法華教を説かれた。
当時この地は鵜足津と言い、将軍足利義満公を育てた細川頼之公の領国であり、居住地でもあったことから、讃岐の国の政治経済文化の中心地、港湾都市として大いに栄えていた。しかし、この地は海浜のため飲料に供する水が乏しく、人々は体調を損ね、大いに難渋しておりました。それを憐れんだ聖人は、自らの杖をもってこの地にあった桐の巨木の根本を掘られた。と、そこより清澄なる水が渾々と湧き出で、またその時、桐の巨木にはこの世の瑞鳥鳳凰が飛翔し舞い降りた。
人々は眼前の奇跡に驚き、聖人の教えに帰依し。 以来この水は、鳳凰霊水と呼ばれ、いかなる干ばつにも一日として涸れることなく 湧き続けており、御題目を唱えつつ戴くことによって、不老長寿、すなわち成人病等について霊験まこと にあらたかと伝えられる」と言いったことが書かれていた。
●鵜足津
鵜足津は鵜足郡の津のこと。鵜足の津には古来、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の子孫が代々、矛竿(ほこさお)を朝廷に献上するに際し、この津ヨリ船出した、との伝説が残る。
また、この矛竿の大和朝廷への貢物より古くは竿調国(さおつきのくに)と称され、それが「さぬき」に転化したとの説もある。讃岐国の由来である。 この地、津の郷が文献に現れるのは9世紀前半。このころ既に海上交通の要衝となっていた。
南北朝の頃、南朝方に与し阿波に下った従兄細川清氏が白峰城に陣を張ると、 室町幕府の管領細川頼之が宇多津に上陸。郷照寺裏の青ノ山に対陣し清氏を討つ。その後頼之は館を聖通寺城下に置き、宇多津は守護領国讃岐の政治の中心ともなり栄えることになる。聖通寺城は宇多津の東側、聖通寺山にあった。
郷照寺参道前の徳右衛門道標
本妙寺を離れ先に進むと、道の左手に自然石の門のような造作がある。壁はコンクリートブロックの上に古い屋根を被せたお堂。地蔵堂のようである。そこを少し東に進むと郷照寺の案内がある。
その角に「是より天の社まで一里半」と刻まれた徳右衛門道標がある。 天の社は七十九番札所 高照院天皇寺のこと。郷照寺はここを右に曲がり、ゆるやかな坂を上る。
あれこれ寄り道が多く、メモが結構長くなった。当日はこの先、天皇寺まで進んだのだが、今回のメモはここまで。郷照寺から先は次回に廻す。
今回のメモは郷照寺までの遍路道のメモとし、その先は次回に廻す。
本日のルート;
■七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
■七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院
■七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ■
七十七番札所・道隆寺からスタート
道隆寺を打ち終え、次の札所に向かう。境内から出るのも、また境内から少し離れた本坊からでるのも、遍路道は境内北側を丸亀市街へと走る車道を進むことになる。
本坊は結構風格がある。総本山醍醐寺のもと、全国に六つある真言宗醍醐派の大本山のひとつ。
こじんまりとした境内を歩きながら、第三世が空海の実弟である法光大師、第四世が円珍こと智証大師、第五世が理源大師と高僧が住職を務めたということに何となく??を感じていたのだが、この本坊を見て納得。
本坊北角の標石を直進し遍路道にでる。
地蔵堂傍の茂兵衛道標
道隆寺を出て東に向かった道はすぐ丸亀市域に入る。丸亀に入って直ぐ、道の右手に地蔵堂があり、その脇に茂兵衛道標が立つ。「右どう里う寺 左道場寺 明治二十七年」と刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。道場寺は七十八番札所・郷照寺の古い呼び名である。
天満宮傍、T字路角の標石
金倉川を渡り、讃岐塩屋駅を越えると道の左手に天満宮。その東側、T字路角に標石が立つ。「本派本願寺 塩屋別院 本願寺坊舎」の文字と「逆へん路通りぬけ道あり」と刻まれる。「抜け道云々」の指示するところは不明だが、ここでちょっと遍路道を離れ標石の指す塩屋別院に立ち寄る。
●本派本願寺
本派本願寺とは西本願寺の異称。大谷派本願寺に対してのもの。西本願寺とは浄土真宗本願寺派の本山である本願寺の通称。大谷派は浄土真宗十派の一。第12世教如が、徳川家康の寄進を受けて烏丸に東本願寺を建立したのち、独立したもの。明治14年(1881)東派から大谷派に改称(「コトバンク」より)。
塩屋別院
予讃線を潜るとほどなく誠に大きな山門と広い境内、堂々とした伽藍をもつ塩屋別院がある。本堂前にあった案内には、「本願寺塩屋別院の起源は、江戸時代の慶長20(1615)年に播州赤穂(現 兵庫県赤穂市)の教法寺と門徒30戸が塩田開墾のため、集団移住したのが始まりである。
当初は教法寺道場と称し、寛永20(1643)年讃州那珂郡塩屋村総道場教法寺と称する寺号を賜わり、以来、念仏者の中心道場となっていった。
当時の敷地は東西二十五間、南北三十間(750坪)本堂は東向き七間四面、境内の地上げに必要な築石は丸亀城築城の残石で補ったと言われている。
享保19(1734)年に本願寺塩屋別院となり、延享2(1745)年面積を六段六畝十三歩(1993坪)に拡大し、現在の本堂の建設に入り、それまでの本堂を対面所とした。
現在の本堂は、寛延2(1749)年に起工し、上棟は安永(1775)年でおよそ30年の歳月を要した。さらに完工までに相当の年月を要し、大工棟梁も3人目にして完成したと言い伝えられている。
また本堂完工後、書院・奥座敷・学寮・講堂・表門・鐘楼・表納所・経堂・土蔵・輪番所・講中詰所・集会所・茶室等が順次建てられ、全ての完成まで50年余りを要したと推測される。
平成5年より平成大修復を策定実施し、平成7年に本堂屋根修復・大書院の修復を完了し、平成9年には研修会館を新築した」とあった。
それにしても立派な構えである。讃岐遍路歩きの折々に、曼荼羅道での蛇岩や善通寺の法然上人逆修の塔など、上人ゆかりの地に出合った。承元の法難により讃岐配流となった上人は放免されるまでの10ヶ月間、讃岐各地での布教をおこなったというから、上人の浄土往生の教えが広まったのだろうか。
もとより、この塩屋別院は浄土真宗であり、法然の開いた浄土宗ではないが、浄土真宗の開祖親鸞は法然の教えを継承し発展させたものである。浄土真宗とは浄土往生を説く真実の教え、ということのようだ。
●ドイツ兵俘虜収容所
尚また、案内には「本願寺塩屋別院におけるドイツ兵俘虜収容所」の案内があり、「大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦。イギリスと交戦中のドイツに対して、日本は同盟関係にあったイギリスとともに中国領土内でドイツと戦火を交えた。数か月間の攻防が続いた後、ドイツ軍は最後の砦となっていた青島(チンタオ)が陥落し、降伏した。その際、捕虜として捕えられたドイツ兵4,627人が、日本にあった12か所(四国には松山、徳島、丸亀の3か所)の俘虜収容所に送られた。
同年11月16日、多度津港へ入港後、丸亀俘虜収容所(本願寺塩屋別院)に収容された俘虜324人は2年5か月もの長い間、丸亀で俘虜生活を送ることとなる。その間の塩屋別院門信徒との交流・俘虜たちの暮らしぶり等、当時の貴重な写真も残っている。
当時の俘虜の生活は、個人個人を尊重した収容所運営を図っており、運動する事やビールを飲むこと等を許可する運営が行われていた。やがて彼らの能力を活かす機会も増え始めソーセージを作ったり技術者として学校等で技能の指導を行ったりしていた。
また、俘虜のエンゲルを中心に楽団を結成し、26回もの演奏会を開催している。その中で、男性合唱団も2団体結成され「収容所合唱団」として独自のコンサートも開催し、活発に活動していた。彼らの音楽活動は、丸亀の収容所から始まり、その後、徳島の板東俘虜収容所へ移り、そこでも音楽活動が盛んになった」との説明が当時の写真と共にあった。
第一次大戦の捕虜収容所といえば、松江中佐が所長であった徳島の坂東俘虜収容所が有名だが、偶々訪れたこの丸亀にも同様の精神で運営された収容所があった。松山で出合った日露戦争でのロシア兵捕虜収容所の写真、市民と道後温泉で寛ぐ姿、三津浜で海水浴を楽しむ姿、将校は市内の民家を借りて住むことも認められていた、といったことなどを思い起こす。
松江中佐と坂東俘虜収容所は『ふたつの山河;中村彰彦著(文春文庫)』に詳しい。
正宗寺
遍路道筋に戻り少し東に進むと、道の右手に正宗寺がある。何気なく立ち寄る。と、ここも法然上人ゆかりの地であった。
●法然上人櫂堀井戸
道を少し南に折れ、境内入口に。入り口に佇む北向地蔵にお参りし境内に。境内南端に覆屋があり、その下が井戸となっている。
法然上人が、讃岐の塩飽諸島の笠島浦(かさじまうら)から、讃岐金刀比羅宮の東麓、九条家の荘園である小松庄へ移ることになり、船でこの地・塩屋に上陸。この時、水を願って船の櫂で地面を掘ると、水が湧きだしてきた、と。 櫂堀井戸の名前の由来である。当時はこの辺りが海岸線であったということだろう。
なお、安政五年(1858)の『西讃府誌』には「棹の清水」として伝えられ、「信じられないことであるが誰もがこのことを知っているので、仕方なく載せた」という内容の添え書きまであるという。
●舟つ奈き岩
井戸の東、木の下に二つの石碑がある。ひとつは「舟つ奈き岩」とある。法然上人上が讃岐上陸の折の岩だろうか。またその横に自然石。何か刻まれているようだがはっきりしない。自然石に「ほうねん上人かいの水 南無(なむ)は船阿弥陀(あみだ)のかいで堀(ほる)清水(しみず)末の世までも仏仏(ふつふつ)とわく」と刻まれるとの記事があったので、その石碑かもしれない。
法然堂もあるこのお寺さまは、法然上人が去ったあと、弟子の成阿坊が残り、草庵を守り教えを広めたとのことである。
●北向き地蔵
散歩の折に触れて北向き地蔵に出合う。今までスルーしていたのだが、そもそも何故に「北向き」を特別視するのだろう。チェックする。 地蔵菩薩の住む浄土である?羅陀山(きゃらだせん;須弥山を囲む七金山のひとつ)は南にある。故におのずと地蔵は北を向くことになる、と言う。それはそれでいいのだが、北向き地蔵と敢えて挙げる説得力に乏しい。
北は鬼門など忌むべき方角とされる。それにも関わらず敢えて北を向くことが、逆に特別な霊威を感じるといった信仰故との説もある。また、中国には王者南面の思想がある、と言う。京都御所しかり、天皇陵(御醍醐帝を除き)しかりである。北は「下座」と言うことだろう。
で、何故に「北向き」を特別視するか、ということだが、それはお地蔵さまの「役割」をはっきりと表したもの故、と言う。釈迦入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような間、この現世に仏が不在となる。その間仏に代わり六道を輪廻する衆生を済度するのが地蔵菩薩とされる。「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道に現れ、下座にある我々に寄り添い済度するということだろう。
全国に北向き地蔵は400体ほどある、と言う。敢えて北を向く故の霊威なのか、民衆に寄り添う故の下座としての北向きなのか門外漢にはわからないが、何となく「北向き」を特別視する理由はわかったように思える。
寿覚院南に金毘羅標石
道を東に進み、西汐入橋に架かる塩屋橋を越え更に直進すると寺の境内に行く手を阻まれる。辺りはいくつもの寺が集まる寺町で寺のようだ。
T字路を右に折れ寿覚院の南、県道21号(丸亀宅間豊浜線)に入り、少し東に進むと県道33(交差点から北は県道204号)と交差する。その交差点の少し手前、県道21号の右側に金毘羅標石。
「左こんぴら道 すぐこんひら 右かわくち 明治十三」といった文字が刻まれる。
●丸亀街道
金毘羅道標の脇に「こんぴら湊 丸亀街道」の案内が詳しいルート図と供にある。案内には「こんぴら湊 まるがめ街道 現在こんぴらさんとして親しまれている金刀比羅宮 は、古くから金毘羅大権現として広く信仰を集めていました。 特に江戸時代後期には金毘羅参詣が一般庶民の間で人気となり多くの人々が参詣に訪れるようになりました。
主な金毘羅街道として、丸亀街道 、高松街道 、多度津街道 、阿波街道 、伊予・土佐街道 の5街道 が知られています。この中でもっとも多くの参詣客が利用し、にぎわったといわれているのが丸亀街道です。 丸亀から金毘羅までの約3里(12km)の道筋には今も、道標 、丁石 (距離を表す単位である丁数が 刻まれている石造物 )、燈籠 が多く残され、往時のにぎわいを今に伝えています」とあった。
□太助灯篭へ□
◇寿覚院山門前の常夜灯と標石
ルート図を辿り金毘羅標石の道を隔てた北、寿覚院と民家の間の道を進む。と、ほどなく寿覚院山門前に金毘羅常夜灯と標石が立つ。常夜灯には「大阪講中」と刻まれる。標石には手印と共に、「こんぴら せんつじ へんろみち」「往昔金毘羅大権現 當山十一面観世音 明治五年」と言った文字が刻まれる。
京極家の前の丸亀藩主山崎氏の菩提寺である寿覚院の本尊は十一面観音である。
〇太助灯篭
予讃線・丸亀駅、更にみなと公園西側の道路脇にたつ常夜灯を見遣り丸亀港へ。港の太助灯篭は予想以上に大きくすぐわかった。傍にあった案内には「金毘羅講燈籠 丸亀 は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。金毘羅講寄進のこの青銅燈籠は、天保九年 (一八三八)の製作で、高さ五・二八メート ル、蓮華をかたどり八角形である。
ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人柏屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が出し合った金でできた信仰と、航路標識とかねたもので、江戸講中の代表、八十両の最商領寄附者の名をととめて、一名「太助燈籠 」とも呼んでいる。
天保の昔、対岸にニ基・福島湛甫にニ基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。金毘羅街道 の「一の燈籠」である。 丸亀市教育委員会」とあった。
◇塩原太助
Wikipediaには「江戸の豪商。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた」とある。
塩原太助には散歩の折々に出合った。隅田区では太助ゆかりの塩原橋に出合った。足立区の東陽寺では太助のお墓に出合った。群馬と新潟を隔てる三国峠を越えたとき、途中にあった猿ヶ京温泉の辺りは塩原太助の生まれたところ、と言う。長年歩いているとあれこれと繋がってくるものである。
因みに塩原太助を一躍有名人としたのは三遊亭円朝の『塩原太助一代記』と言う。
◇新堀湛甫・福島湛甫
湛甫(たんぽ)とは「船の停泊するところ」の意。太助灯篭の少し東、岸壁にあった石碑、「湛甫(しんぼりたんぽ)のみち」には、「天保3(1832)年、丸亀藩主は幕府の許可を得て、西平山の海岸に湛甫を築いた。東西80間(145,44m)、南北40間(72,72m)、入口15間(27,27m)の湛甫が完成された。
この湛甫を新堀湛甫(しんぼりたんぽ)と呼び、その付近一帯の地名を新堀と呼んだ。湛甫ができると、阪神、岡山からの金毘羅参拝の船が往来し、いままでにもまして丸亀はいっそう繁栄した」とある。
福島湛甫は新堀湛甫より以前、それまで船着場として使われていた内浦湛甫に代わり、文化三年(1806)に築造された。役夫およそ6万名弱が投入された、と言う。
上述太助灯篭は新堀湛甫築造に際し、夜間航行の標として十二基計画された灯篭の第一号。上述の説明に拠れば、太助灯篭を含め新堀湛甫には三基建てられた、ということになる。
港の公園には大阪と丸亀を結ぶ金毘羅参拝の定期舟船(月参船)である金参船をかたどった遊具などが造られていた。月参船は丸亀京極家の第六代藩主である京極高朗(在位1811‐1850)の頃就航した、と言う。
遍路道に戻る。
丸亀市街を抜け宇多津に入る
遍路道は上述金毘羅道標の先にある交差点を直進し丸亀市街を抜ける。右手には丸亀城が見える。
交差点を直進する四車線の道路は県道21号・県道33号重複路線。丸亀市街を抜ける遍路道には標識は残らない。道路整備により撤去され、お城近くの市立図書館の庭に道路元標識など他の石造物と共に集められているようである。
●丸亀城
丸亀城は以前訪れたこともあり、今回はパス。
標高66mの小山・亀山に築かれた城。「扇の勾配」と称される城壁のカーブが美しい。石垣の高さは日本一と言う。城は室町の頃、管領細川頼之の重臣である奈良元保安により築造。現在の構えは慶長2年(1598)から5年の歳月をかけ、生駒親正とその子・一正により、西讃防備のため高松城の支城として造られたもの、と。
後の寛永18年(1641)丸亀藩主として山崎家治が入城、次いで万治元年(1658)に京極高和が城主となり、明治まで京極六万石の城下町として栄えた。 因みに丸亀の由来は、城の築かれた亀山の姿より。円形のその姿より、生駒氏築城の頃は「円亀」と呼ばれたようだが、その後「丸亀」となった、とか。
県道左側に地蔵堂
土器川に架かる蓬莱橋を越え土器町にはいる。県道21号はここで終わり、この道は県道33号高松善通寺線となって東に進む。汐止めゲートらしき施設が海側にある新内橋を渡ると香川県綾歌郡宇多津町に入る。
道を進み、JR宇多津駅の駅前通りが県道にあわさるT字路に地蔵堂がある。地蔵堂の裏手は独立丘陵である青ノ山(標高224m)となっている。
誰袖(たがそで)の標石で県道を右折
地蔵堂から県道194号の高架を潜るとほどなく、道の左手に立派な標石がある。「西 丸亀道右 扁ん路道 文久三」が刻まれる。この標石は指にもった扇子が方向を示し、手元には袖が刻まれている。このような袖まで刻まれた標石のことを「誰袖(たがそで)の標石(しるべいし)」と呼ぶようだ。寄進者は宇多津の魚問屋の主人とのことである。
同様の「誰が袖道標」には愛媛県西条市丹原で出合った。
宇夫階(うぶしな)神社
標石を右折すると宇夫階神社の正面鳥居前に出る。趣のある社。Wikipediaには 「伝承では、宇夫階神社は紀元前から鵜多郡の郷に鎮座し、宇夫志奈大神として祀られている。景行天皇の皇子日本武尊の子、武殻王(たけかいこおう)が阿野郡に封ぜられた際に、瀬戸内海海岸を船で御巡視したが、暴風雨に遭遇し、王は驚いて宇夫志奈神に祈念すると、小烏が跳び風波を凌ぐ道しるべとなり王を導いた。 王は大変喜び、水夫に命じて烏に従い、泊島(丸亀市塩飽本島泊)に漂着し難を逃れた。これより宇夫志奈大神を一層篤く崇められ、小烏大神と称されるようになったとされる。現在でも「小烏(こがらす)さん」との別称が地域で受け継がれている。
また光仁天皇により、779年(宝亀10年)には社殿再興のことが伝えられている。 さらに平城天皇の806年(大同元年)10月、藤原鎌足四世の孫左京大夫藤麻呂の孫とされる、津の郷の長者、末包和直に宇夫志奈大神の託宣があり、末包は当時の国守に上申し、神主となり長く祭祀を行い来った。翌807年、平城天皇の治世に、社殿から光明が射すことが度々あり、勅命により現在の位置に遷座し社殿が造営された」とある。
古い社である。鉄筋コンクリート造りの拝殿は別として、境内の建物の多くは登録有形文化財に指定されていた。
●本殿
本殿は伊勢神宮外宮の第一別宮である多賀宮の旧正殿を移している、と。当社の本殿・拝殿が昭和47年(1972)に火災により焼失。この年が伊勢神宮の式年遷宮の時期でもあったため、旧多賀宮を貰い受け本殿とした。20年毎にすべてを造り変え、本来であれば見ることのできない伊勢神宮の社が今に残る。
本殿を拝することができるのかどうか、伊勢様式を真似た神明造り鉄筋コンクリート造銅板葺の拝殿を奥へと回り込む。屋根全体が銅合金版で覆われており、元の白木屋根の多賀宮は奥に配されているのか、拝すること叶わず。本殿建物のどこまでが文化財の指定を受けているのか不明だが、昭和の建物が文化財指定を受けるのは珍しいようである。
●巨石(いわさか)と御膳岩
本殿はともあれ、拝殿から奥へと回り込んでいると、「巨石(いわさか)と御膳岩」の案内があった。案内には「この巨岩は古代祭祀の遺跡である。いわさかは神座と呼ばれ、古代より信仰の対象としてあがめられていた。これに対し御前岩は神饌(私注;しんせん:神に供える酒食(しゅし))を置き献ったものである。
また、いわさかは巨石文化の遺構ともいわれ、その形状は高さ5.5m,直径4mであり、重さは三百トン以上と推定される」とある。
本殿裏手に巨大な岩があり、それが巨岩。本殿右手、これも巨大な石灯篭の立つあたりに御膳石があった。古代祭祀が行われていた場所に社が建てられた、ということだろうか。
〇宇夫階(うぶしな)
ところでこの宇夫階(うぶしな)神社に祀られる宇夫志奈大神って?チェックしてもヒットしない。が、なんとなく産土(うぶすな)神に関係ありそうな気がする。「産土神」とは、その地に生まれた人の守護神。地縁に基づく信仰である。谷川健一氏に拠れば、生まれ落ちて最初に触れる砂が産土の語源であり、その土地の霊が子供の守護神になるという信仰がその原点である、と。
実際、産土神を宇夫須那神、宇夫志奈神とも記すという。古代祭祀の頃まで遡る地域共同体の守護神といったところだろうか。単なる妄想。根拠なし。
□もうひとつの遍路道□
本妙寺
静かな佇まいの家並を進む。右手に建つ本妙寺。美しく整えられたアプローチ、その先に立つ2基の銅像に惹かれちょっと立ち寄り。銅像は日蓮大菩薩、日隆大聖人菩薩。山門を潜り本堂にお参り。
境内に大きな石柱。「日隆大聖人御舊跡 鳳凰霊水」とある。案内に拠ると「本妙寺はおよそ550年の昔、室町時代のはじめ後花園天皇の嘉吉2年、この地に布教に来られた法華宗中興の祖日隆聖人によって開かれた。聖人御歳五十八。秋山土佐守建立、日蓮大菩薩ゆかりの番神堂(私注;丸亀旧市街の番神宮)において法華教を説かれた。
当時この地は鵜足津と言い、将軍足利義満公を育てた細川頼之公の領国であり、居住地でもあったことから、讃岐の国の政治経済文化の中心地、港湾都市として大いに栄えていた。しかし、この地は海浜のため飲料に供する水が乏しく、人々は体調を損ね、大いに難渋しておりました。それを憐れんだ聖人は、自らの杖をもってこの地にあった桐の巨木の根本を掘られた。と、そこより清澄なる水が渾々と湧き出で、またその時、桐の巨木にはこの世の瑞鳥鳳凰が飛翔し舞い降りた。
人々は眼前の奇跡に驚き、聖人の教えに帰依し。 以来この水は、鳳凰霊水と呼ばれ、いかなる干ばつにも一日として涸れることなく 湧き続けており、御題目を唱えつつ戴くことによって、不老長寿、すなわち成人病等について霊験まこと にあらたかと伝えられる」と言いったことが書かれていた。
●鵜足津
鵜足津は鵜足郡の津のこと。鵜足の津には古来、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の子孫が代々、矛竿(ほこさお)を朝廷に献上するに際し、この津ヨリ船出した、との伝説が残る。
また、この矛竿の大和朝廷への貢物より古くは竿調国(さおつきのくに)と称され、それが「さぬき」に転化したとの説もある。讃岐国の由来である。 この地、津の郷が文献に現れるのは9世紀前半。このころ既に海上交通の要衝となっていた。
南北朝の頃、南朝方に与し阿波に下った従兄細川清氏が白峰城に陣を張ると、 室町幕府の管領細川頼之が宇多津に上陸。郷照寺裏の青ノ山に対陣し清氏を討つ。その後頼之は館を聖通寺城下に置き、宇多津は守護領国讃岐の政治の中心ともなり栄えることになる。聖通寺城は宇多津の東側、聖通寺山にあった。
郷照寺参道前の徳右衛門道標
本妙寺を離れ先に進むと、道の左手に自然石の門のような造作がある。壁はコンクリートブロックの上に古い屋根を被せたお堂。地蔵堂のようである。そこを少し東に進むと郷照寺の案内がある。
その角に「是より天の社まで一里半」と刻まれた徳右衛門道標がある。 天の社は七十九番札所 高照院天皇寺のこと。郷照寺はここを右に曲がり、ゆるやかな坂を上る。
あれこれ寄り道が多く、メモが結構長くなった。当日はこの先、天皇寺まで進んだのだが、今回のメモはここまで。郷照寺から先は次回に廻す。
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