会津若松を歩く

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飯盛山から鶴ケ城に
会津若松の大学に行く事に成った。アポイントは金曜日。どうせのことなら、ということで一泊し、会津若松を歩く。今までに何度か通り過ぎたことはあったのだが、市内見物ははじめて。飯盛山とか鶴ヶ城とか、戊辰戦争の旧跡を訪ねる事にする。
土曜の午前10時前、ホテルをチェックアウト。荷物を預け、駅の観光案内所に。地図を手に入れ、ルート検討。駅から東2キロ弱のところに飯盛山。そこから南に2キロほどのところに西軍砲陣跡のマーク。お城を見下ろす小山にあるのだろう。そして、その西、1キロ強のところに鶴ヶ城。で、それから街中の旧跡を巡り北へと駅に戻る。会津若松の市街をぐるっと一周するといったルート。15キロ弱といったところ。これなら午後3時4分発の列車に乗れそう。ウォーキンング仕様とはいうものの、足元はビジネスシューズ。ぬかるみの道などないようにと祈りながら、散歩に出かける。



本日のルート;JR磐梯西線・会津若松駅>飯盛山>白虎隊自刃の地>郡上藩凌霜隊之碑>宇賀神社>さざえ堂>厳島神社>戸ノ口堰洞窟>滝沢本陣跡>白河街道>戸ノ口堰>近藤勇の墓>会津武家屋敷>湯川・黒川>西軍砲陣跡>会津若松城>茶室麟閣>JR会津若松駅

JR磐梯西線・会津若松駅
駅から飯盛山に向かう。道は東にほぼ一直線。白虎通りと呼ばれている。歩きながら、なんともいえない、捉えどころのない「広がり感」が気になる。会津盆地という地形からくるのだろう、か。実際、グーグルマップの航空写真モードでチェックすると、猪苗代湖の西に周囲を緑に囲まれた盆地がぽっかりと広がる。北は喜多方方面まで含む大きな盆地である。
が、なんとなく感じる「広がり感」は、どうもそういったものでもない。広がり感と言うよりも、収斂感の無さ、といったほうが正確かもしれない。広い平地の中に、広い道路が真っすぐ走る。建物もそれほど高いものは無く、また、古い街並といった趣もそれほど、無い。会津戦争で市街地が壊滅したからなのだろう、か。また、敗戦後、青森の斗南藩に移封され、市街地の迅速な回復がなされなかったから、なのだろうか。勝手に想像するだけで、何の根拠があるわけではないのだが、今まであまり感じた事のなかった街のフラット感が至極気になった。

飯盛山

駅から1キロ強進み、会津大学短期大学部を過ぎる辺りになると前方に小高い山。背面もすべて山ではあるが、その山の中腹に建物らしきものも見える。こんもりとした小山。飯盛山の名前の由来は、お椀にご飯を盛ったような形から、と言う説もあるので、多分、飯盛山であろう。さらに近づくと、石段が続く。間違いなし。標高300m強の山である。
石段を上る。両側にお店。如何にも年期のはいった雰囲気。朝から何も食べていないので、何か口に入れたいのだが、ちょっとご遠慮差し上げたい店構え、ではある。
石段を上ったところは広場になっている。正面左手の奥には白虎隊の隊士のお墓。その手前には、会津藩殉難烈婦の碑。会津戦争で自刃、またはなくなった婦女子200余名をとむらうもの。山川健次郎さんなどが中心になり建てられた。山川氏は東大総長などを歴任。兄の山川大蔵(浩)ともども魅力的人物。山川大蔵(浩)は如何にも格好いい。『獅子の棲む国:秋山香乃(文芸社)』に詳しい。
お参りをすませ広場右手に。なんとなく不釣り合いなモニュメント。ローマ神殿の柱のよう。イタリア大使からの贈り物。その手前にはドイツ大使からの記念碑。どちらも戦前のもの。第二次大戦前の日独伊三国同盟の絡みではあろう。戦意高揚、というか、尚武の心の涵養には白虎隊精神が有難かったのであろう、か。ちなみに、ローマの円柱に刻まれた文字は、終戦後、占領軍によって削除されたが、現在は修復されている。


白虎隊自刃の地
広場からの見晴らしは、正面である西方向と北側は木々が邪魔し、それほどよくない。一方、南方向は開けており、会津の街並が見渡せる。開けている方向に進むと「白虎隊自刃の地」への案内。崖一面に墓石が広がる。石段を少しおりて進むと、すぐに「白虎隊自刃の地」。この地で炎上する鶴ヶ城を目にし、もはやこれまでと自刃した、と。お城の緑、そしてその中に天守閣が見える。とはいうものの、直線距離で2キロ弱。市街地の炎上・黒煙をお城の炎上と見間違えてもおかしくはない。
ところでこの自刃の地であるが、想像とは少し違っていた。世に伝わる「白虎隊自刃の図」では、松の繁る崖端が描かれており、墓など何もない。墓地の真ん中とは予想外である。墓石を見ても結構古そうではあるので、それ以前からお墓があったようにも思うのだが、明治以降に墓地となったのだろう、か。何となくしっくりしない。

郡上藩凌霜隊之碑

しばらく眼下の街並を眺め、元の広場へと戻る。途中に、飯沼貞夫氏のお墓。白虎隊ただ一人の生き残り。白虎隊のことはこの飯沼さんの証言により世に知られるようになった。更に進むと道端に「郡上藩凌霜隊之碑」。時勢に抗い新政府軍と戦った人物として上総請西藩主林忠崇、井庭八郎などが記憶に残っていたが、郡上藩と会津藩の関わりは忘れてしまっていたようだ。『遊撃隊始末;中村彰彦(文春文庫)』など読み直してみよう。
で、郡上藩凌霜隊についてチェックする。と、時代に翻弄された幕末小藩の姿が現れた。郡上藩青山家は徳川恩顧の大名。とはいうものの、官軍か佐幕か、どちらにつけばいいものやら趨勢定かならず。ために、表向きは新政府に忠誠を尽くすそぶりをしながら、江戸詰めの藩士を脱藩させ会津に派遣。それが、凌霜隊。万が一の保険のためである。が、結局は新政府の勝利。 凌霜隊は郡上藩から見捨てられた。投獄の後解き放たれた隊士は、その冷たい仕打ちに嫌気をさし、郡上に残る事はなかった、と。

宇賀神社
石段脇の「女坂」を下る。如何にも風雪に耐えてきた、といった土産物店。石段脇に並んでいた土産物屋もそうだが、この飯盛山って、それほど観光客が来ないのだろうか。なんとなく、儲かってそうに、ない。
土産物屋の前に宇賀神社。17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が弁財天像と共に、五穀の神、宇賀神をも奉納。宇賀神は中世以来の民間信仰の神様。神名は日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)から。
で、宇迦之御魂神(うかのみたま)って、お稲荷さまのこと。五穀豊穣を祈るこの民間信仰が仏教の教義に組み込まれる。仏教を民間に普及する戦略でもあったのだろう。結果、仏教の神である弁財天に習合し宇賀弁財天と。飯盛山は元々は弁天山とも呼ばれていた。神仏習合の修験の地でもあったのだろう。宇賀神社がおまつりされている所以など大いに納得。

さざえ堂

土産物屋の横にさざえ堂。確かに栄螺(さざえ)のような形をしている。内部は螺旋の 階段がある,と言う。いつかテレビでも紹介されていたし、なによりもチケット売り場のおばさんの口上に急かされ少々のお金を払い木製の螺旋階段を上る。上りが、あら不思議、いつの間にか下りとなる、との宣伝文句。果たして、と先に進む。ほどなく最上部。そこには下りに導くリードがある。いつの間にか、という感じではないけれど、下りは上りとは別の螺旋階段となっていた。
このさざえ堂は、さきほどの宇賀神などとともに神仏習合のお堂であった、とか。観音様が祀られていたが、明治の廃仏毀釈で仏様を取り除いた、という。現在は、国の重要文化財とのことではあるが、建物を護るトタン板ならぬビニールの覆いが少々興ざめではある。

厳島神社

さざえ堂の下に厳島神社。厳島=水の神様、と言われるように周囲に豊かな用水が流れる。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってから。この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほどの宇賀神共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天が集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。
社殿が建てられたのは14世紀後半、蘆名義盛公の頃。その後、会津藩主松平正容公が神像と土地を寄進。この地を飯森山と呼び始めたもの、その頃のようである。

戸ノ口堰洞窟

厳島神社脇を流れる水路を辿ると、岩山の崖下に掘られた洞窟から水が流れ出していた。これは戸ノ口堰(用水)。今から400年前、17世紀前半の元和年間に猪苗代湖の水を引くため用水を起工し17世紀後半の元禄期まで工事が続けられた。飯盛山の西、7キロのところにある戸ノ口から水を引き、会津若松までの通水を計画。ために戸ノ口堰と呼ばれる。猪苗代湖の水面の標高は500mほど。この会津若松の標高は180mほど。間には山地が連なる。水路は山間を縫い、沢を越え、うねりながら、延々と30キロ以上も続き飯盛山のこの洞窟に至る。
この用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していた、が、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を150mほど穴をあけることになる。使用人夫5万5千人、3年の歳月を費やして完成。これが戸ノ口堰洞窟である。
で、この洞窟、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。

滝沢本陣跡

飯盛山を下り、飯盛山通りを少し北に滝沢交差点。あと1キロ強行けば大塚山古墳。4世紀後半の大和朝廷と関係の深い人物を祀るということで、ちょっと興味はあるのだが、なにせ時間がない。今回はパスして旧滝沢本陣に向かう。
滝沢交差点からほんの少し山側に歩くと滝沢本陣跡。茅葺き屋根の趣のある建物。家の前を西に滝沢峠に向かって続く道があるが、これが白河街道。会津と白河を結ぶ主街道。ために、参勤交代とか、領内巡視の折など、ちょっと休憩するためにこの本陣が設けられた。
会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。

白河街道

山に向かって車道を進む。地図と見ると滝沢峠に続く古道がある。これって会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。時間がないので峠まで行くことは出来ないが、古道の入口あたりまで行くことにする。
車道が大きく迂回するところを、そのまま山方向に向かって小径を進む。なんとなく成り行きで進み、小さな川に当たるところから如何にも峠道といった雰囲気の道筋がある。道脇に「旧滝沢峠(白河街道)」の案内があった。
白河街道は、もともとはこの道筋ではない。もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのは、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。1627年に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした、と言う。加藤嘉明は伊予の松山から移ってきた。愛媛出身の我が身としては、なんとなく身近に感じる。

戸ノ口堰
峠に進む上り道をしばらく眺め、歩いてみたいとは思うのだが、何せ戸ノ口原までは7キロほどあるようだし、ちょっと無理だろう、などと自問自答し、元に戻ることに。少々心残り。道の途中、先ほど交差した川、これってひょっとすると戸ノ口堰、というか戸ノ口用水の水路ではなかろう、か。この流れが飯盛山の山腹に進み、戸ノ口堰洞窟へとながれこむのであろう。入口まで歩いてみたいとは思うのだが、時間が心配でパス。これも少々心残り。次回会津に仕事で来たときに、この峠道のあたりを歩いてみよう。
ちなみに、このあたり、駅でもらった地図に「(滝沢)坂下」と書いてある。この地名をどう読むのか定かではないが、(会津)坂下という地名は「ばんげ」と読む。「バッケ」から来たらしい。「バッケ」って東京近郊での「ハケ」のこと。国分寺崖線にそって続く「ハケの道」で言うところの「崖下」である。確かにこのあたりも崖下に違い、ない。

近藤勇の墓

飯盛山通りに戻る。山裾の道を南に進む。市街より少し小高い道筋となっている。2キロ弱進むと大龍寺。門前の畑の柿の木に惹かれる。こういったのどかな風景に柿の木は、如何にも、いい。
大龍寺を越え、このあたりまで続く戸ノ口堰の流れと交差し、しばらくすると道ばたに「会津の歴史を訪ねる道」の案内。新撰組の近藤勇、会津藩家老である萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓がある。と言う。ちょっと山道を迂回することに。
アプローチは200段弱の愛宕神社の石段。少し気が思いのだが、それよりなにより、愛宕神社から続く山麓の道が心配である。ビジネスシューズが汚れない程度の山道であることを祈りながら、とりあえず進む。
愛宕神社でお参りをすませ、山道を進む。それほどのぬかるみは無く、ちょっと安心。ほどなく近藤勇の墓。宇都宮から会津に逃れ、会津藩主・松平容保に拝謁し、近藤の死を知った土方歳三がこのお墓をたてた、と。近藤勇のお墓って、散歩の時々に顔を表す。板橋の駅前にもあったし、三鷹の竜源寺にも祀られていた。
山麓の道から天寧寺裏手に下りる。途中、萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓の案内。萱野権兵衛は会津戦争の時に国老の主席として籠城戦を万端指揮した。降伏の際は、藩主・松平容保とともに、降伏文書に署名。戦後は、戦争責任をすべて引き受け、切腹を命じられた。まことに魅力的な人物。ちょっとお参りもしたいのだが、再び山麓に少し上っていく。 ぬかるみが気になり、今回は見送る。

会津武家屋敷
天寧寺の境内を抜け、飯盛山通りに戻る。少し進むと東山街道と交差。奴郎ケ前交差点を左に折れるとすぐに会津武家屋敷。なんとなく最近移築、建築したような。チェックすると家老西郷頼母の屋敷を中心に復元されたもの、と。
西郷頼母って藩主の京都守護職に反対し藩主の不興を買っている。また、戊辰戦争では白河口の戦線には参加するも、二本松口の母成峠が破られて以降は和議恭順のスタンスであり、徹底抗戦派に命を狙われていた、とか。ために会津を去り、榎本武揚、土方歳三と合流し函館で戦った。合気道をよくし、息子の四郎に技を伝授。「山嵐」という大技は、姿三四郎のモデルとなった、とか。
会津武家屋敷には今ひとつ気が乗らず立寄をパス。時間もなかったし、ないより入場料が850円というのは少々高い、かも。次の目的地、西軍砲陣跡に向かう。

湯川・黒川
東山街道を隔てて南西方向に小高い山が見える。多分その山の中腹に砲陣跡があるのだろう。地図でチェックすると、東山街道を少し南に進んだところから、その小山方向に進む小径がある。成り行きで行けばなんとかなるだろうと先に進む。
道脇にある鶴井筒という会津料理の店のところから東山街道を離れる。この鶴井筒、明治の創業という趣のある建築物であった。ともあれ、右に折れ、田舎道を進むと山の手前に川が流れる。この川は湯川。猪苗代湖の南西端の布引山が源流のこの川はもとは黒川と呼ばれていた。湯川は、近くの東山温泉に由来するのだろう。
会津若松は黒川(湯川)が会津盆地に流れ出し、阿賀川に合流するまでの扇状地に造られた。ために、往時この会津の地は黒川と呼ばれており、前述の蘆名氏が築いた城も黒川城と呼ばれていた。黒川が若松となったのは蒲生氏郷が移ってきてから。蒲生氏の生まれ故郷にあった「若松の杜」に由来する、と。ちなみに、会津の由来って、古事記によれば、神々が湿地帯(津)であったこの地で合流したから、とか、安曇族に由来するとか、例によって諸説あり。ちなみに、阿賀、吾妻、安積(あさか)、安達、といった地名は安曇族に由来する。
ついでのことながら、この地が会津若松市となったのは、昭和30年。それまでは若松市。明治32年に福島県で最初の市となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

西軍砲陣跡
黒川に架かる橋を渡り、山裾の小径を進む。ほどなく、山裾から少し離れ、開けた田舎道を柿の木を眺めながら進む。道なりに進むと、再び山裾に接近。小山田公園への入口の案内。200m程度の小山である。木立の中、ゆるやかな坂道をのぼってゆく。途中、蘆名家壽山廟跡や観音堂跡といった案内がある。この山には蘆名氏の城であった小山田城がある。黒川城(会津若松城)が主城に移るまで、この地に館を構えていたのであろう、か。
少し進むと見晴らしのいい場所が現れる。そこに西軍砲陣跡。確かにお城が眼下に見渡せる。距離は1.5キロ程度。ここから砲弾を撃ち込むには、着弾地の調整も容易だし、会津方としては万事休す、であろう。
西軍砲陣跡しばしお城を眺め、下山。西軍砲陣跡から少し戻ったところに、「柴五郎の墓」の案内。会津人として最初の陸軍大将になった人物。なんとなく気にかかる軍人でもあるので、お参りのために脇道に入る。山道を足元を気にしながら少し下るとお墓があった。おまいりを済ませ墓石の中、山道を下る。成り行きで下り、恵倫寺の境内に出る。次の目的地はお城である。

会津若松城

恵倫寺を離れ、小田橋通りに出る。ちょっと北に湯川に架かる橋名から来ている。蘆名氏が最初に構えた館の名前が、小高木館とか小田垣館と呼ばれたようであるので、昔、この辺りは小田と呼ばれていたのだろう、か。
小田橋通りを越え、湯川に向かって成り行きで進む。地名は天神町。天神様でもあるのだろうと思っていると、川の近くにつつましい天神様があった。お参りを済ませ、湯川に架かる天神橋を渡ると鶴ヶ城南口。湯川というか黒川はお城を囲む外堀でもあったのだろう。
南口からお城を進む。土塁を抜け先に進むと大きな濠と立派な石垣が見えてきた。大きな構えのお城である。濠からの眺めを楽しみながら、壕と本丸を結ぶ廊下橋を渡る。石垣の間の道が直角に曲がっている。敵の進撃を防ぐためのものであろう。中世の山城では虎口と呼ばれていた、もの。
大きな石垣に沿って進む。弓矢の時代には攻めるのは大変であったろう。が、砲弾を打ち込まれては、どうにもならない。先ほど西軍砲陣を見ただけに、その思いは一層強い。
本丸には天守閣。お城は戊辰戦争で破壊され、現在の天守閣は昭和40年頃に再建されたもの。立派な天守閣ではあるが、時間もないので表から眺める、のみ。このお城、元々は蘆名氏により黒川城として造られた。その後、蒲生氏郷により本格的に普請される。天守閣もこの頃造られたようだ。大大名にふさわしい城下町も整備され、お城の名前も黒川城から鶴ケ城に。蒲生氏郷の幼名に由来する、と。蒲生氏の後は越後から上杉景勝が移る。120万石の大大名である。が、関ヶ原の合戦で西軍に与し合戦に敗れた上杉氏は30万石に減封され、山県の米沢に移る。
上杉に替わり蒲生氏が一時この地に移る。が、すぐに伊予の松山に移封され、替わりに伊予松山の藩主加藤嘉明が入封。で、加藤氏が改易された後にこの地に入ったのが名君の誉れ高い保科正之。家光の庶弟。出羽山形から移ってきた。保科から会津松平と名前は変わったが、明治維新まで藩主としてこの地を治める。戊辰戦争の時の松平容保公も保科の流れである。保科正之については『名君の碑;中村彰彦(文春文庫)』に詳しい。

茶室麟閣
本丸跡の広場をぶらぶら歩いていると趣のある建物があった。蒲生氏郷が千利休の子・少庵のために建てた茶室。千利休が秀吉の悋気に触れ、切腹を命じられたとき、氏郷が少庵をこの地に匿った、とか。戊辰戦争の後、移築されていたが、平成2年、ここに戻された。

JR会津若松駅

そろそろ列車の時間が迫ってきた。とっとと駅に向かう。本丸から北出丸を抜け、城を出る。北出丸大通りのお城近くに西郷頼母の屋敷跡。屋敷は先ほどの会津武家屋敷の地に移されているが、ここで母や妻子21名が自刃。合掌。
北出丸通りを北に進み、栄町あたりで適当に道を折れ、市役所近くを北に進み蒲生氏郷のお墓のある興徳寺に。つつましやかなお墓にお参りし、野口英世青春通りに進む。如何にも城下町の道といった直角に曲がる道を折れて野口英世青春通りを進む。野口英世が青春を過ごし、初恋の人に出合ったという場所などをさらっと眺め、西軍の戦死者をまつる西軍墓地をお参りし、駅に戻り、本日の予定終了。軽くメモするつもりが、結構長くなってしまった。歴史のある街をメモするのだから、仕方がない、か。 


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