正丸峠を越えようと思った。名前が結構前から気になり、そのうちに歩こうとも考えていた峠である。飯能から高麗川の谷筋を進み秩父に入るには正丸トンネルを抜ける。正丸峠はこのトンネルからは少し離れた尾根筋あるのだが、秩父観音霊場巡りなどで頻繁に正丸トンネルを通っているうちに、おなじ名前の正丸峠が脳裏に刷り込まれていたのだろう。
ルートをチェックすると、西武秩父線・正丸駅近くから旧正丸峠への道がある。峠からは正丸トンネルの秩父口に下りる道もあるようだ。峠の上り下りは5キロ程度。それほどの距離ではない。秩父側の国道に下りてから、芦ケ久保駅までが4キロ弱と少々長く、大型トラックの風圧に怖い思いをしながら国道脇を歩くのは少々憂鬱ではある。バスの便でもあればそれに乗るのもいいか、といった成り行きに任せる事に。
秩父の峠で最初に覚えた峠が正丸峠。が、あれこれしているうちに、釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父や奥武蔵の峠を結構越えてしまった。遅れてやって来た主人公に会いに行く、といった気持ちではある。
ルートをチェックすると、西武秩父線・正丸駅近くから旧正丸峠への道がある。峠からは正丸トンネルの秩父口に下りる道もあるようだ。峠の上り下りは5キロ程度。それほどの距離ではない。秩父側の国道に下りてから、芦ケ久保駅までが4キロ弱と少々長く、大型トラックの風圧に怖い思いをしながら国道脇を歩くのは少々憂鬱ではある。バスの便でもあればそれに乗るのもいいか、といった成り行きに任せる事に。
秩父の峠で最初に覚えた峠が正丸峠。が、あれこれしているうちに、釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父や奥武蔵の峠を結構越えてしまった。遅れてやって来た主人公に会いに行く、といった気持ちではある。
本日のルート;西武秩父線正丸駅>国道299号線>坂元集落>八坂神社>峠道>正丸峠への車道と交差>旧道を旧正丸峠に>旧正丸峠>治山ダム>追分>横瀬川>山伏峠からの県道53号線に合流>国道299号線>西秩父線芦ケ久保駅
西武秩父線正丸駅
正丸駅に下る。駅前が結構広い。気になりチェック。どうもバスの発着所であった、よう。現在では西武線はトンネルで秩父と結ばれているが、西武秩父線の正丸トンネルが開通したのは1969年。武甲山の石灰の運搬と沿線の観光開発を目的に秩父と吾野間が電車で結ばれた。
西武秩父線が開通する前は、西武池袋線の終点である吾野と秩父駅は正丸峠を越えるバス路線が走っていた。また、トンネルが開通し、それまで西武池袋線の終点であった吾野駅と秩父駅が結ばれるようになってからも、秩父駅と正丸駅の間には峠越えのバス路線が走っていた時期があった、ようだ。国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年であり、それまでのある時期、バスが峠道を上り下りしていたわけで、「広場」はその時期のバスターミナルの名残であろう、か。
西武線秩父線の正丸トンネルの開通が1696年、国道299号線の正丸トンネルの開通が1982年。秩父と飯能、ひいては首都圏と繋がったのはそれほど昔のことでは、ない。秩父って、つい最近まで、結構「遠い」ところであったわけ、だ。
西武秩父線正丸駅
正丸駅に下る。駅前が結構広い。気になりチェック。どうもバスの発着所であった、よう。現在では西武線はトンネルで秩父と結ばれているが、西武秩父線の正丸トンネルが開通したのは1969年。武甲山の石灰の運搬と沿線の観光開発を目的に秩父と吾野間が電車で結ばれた。
西武秩父線が開通する前は、西武池袋線の終点である吾野と秩父駅は正丸峠を越えるバス路線が走っていた。また、トンネルが開通し、それまで西武池袋線の終点であった吾野駅と秩父駅が結ばれるようになってからも、秩父駅と正丸駅の間には峠越えのバス路線が走っていた時期があった、ようだ。国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年であり、それまでのある時期、バスが峠道を上り下りしていたわけで、「広場」はその時期のバスターミナルの名残であろう、か。
西武線秩父線の正丸トンネルの開通が1696年、国道299号線の正丸トンネルの開通が1982年。秩父と飯能、ひいては首都圏と繋がったのはそれほど昔のことでは、ない。秩父って、つい最近まで、結構「遠い」ところであったわけ、だ。
坂元集落
正丸駅を離れ国道299号線に出る。国道を700mほど歩くと坂元集落に入る道が分かれる。道脇に「旧正丸峠、正丸峠、刈場坂峠」への道標。国道を離れるとすぐに高麗川を渡り坂元の集落に。高麗川の源流は刈場坂峠(かばさか)の近く。飯能、入間、毛呂山を流れ坂戸市で越辺川に合流する。
正丸トンネル手前で国道から右に分かれ正丸峠へと上る道がある。道はほどなくふたつにわかれ、左に大きくカーブする道が旧国道、そのまま直進する道が刈場坂峠への道。高麗川はその直進する道に沿って刈場坂峠へと続く。源流の碑もあるということであり、そのうちに歩いてみたい。
集落にはいると道脇につつましやかな祠。八坂神社とあった。お参りをすまし、5分も歩くと道は次第に山道となる。舗装も切れた杉林の道脇には石仏が佇んでいた。
沢沿いの道を上る
沢沿いの道を上る。ここからは丸太橋や仮設橋で沢を渡ることになる。ささやかな沢である。沢の右岸を上る。第一の仮設橋で左岸に移る。鉄パイプのつくりは少々味気なし。ほどなく道脇に大岩。この巨岩脇を抜けると第二の橋に。丸木でつくられた橋を渡り右岸に戻る。道なのか沢なのかといった道筋のすぐそばを歩くことも。
三番目の橋は再び仮設橋。ここで左岸に渡る。第四の橋は越流状態。木橋の上は土砂に埋もれ、そこを水が流れる。右岸に移り第五の仮設橋で左岸に。ここからは北に延びる沢筋を上ることになる。谷筋を過ぎると急斜面。一気に上る、のみ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
旧国道に合流
上り切ったところで車道に合流。正丸トンネル手前から正丸峠を越え、県道53号線に合流する昔の国道である。県道53号線は名栗谷の名郷から山伏峠を越えて正丸トンネルの秩父側口の近くに下る道。現在の国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年というから昭和57年。ほんのつい最近まで、飯能方面から秩父に車で入るには、このクネクネした山道を上っていたわけだ。
旧国道の合流点から100mほど上ると再び山道に入る。目印は反射鏡。道の左下に旧国道を見ながら大きくカーブする山道を旧正丸峠に向かって進む。最後の橋は桟道。桟道って、岩場や崖など歩きにくいところに足場を組んだ、もの。桟道を越え鬱蒼とした杉林の中を進むと旧正丸峠に。
旧正丸峠
標高670m。県道の正丸峠が開通されて以来、旧正丸峠と呼ばれるようになった。坂元集落から2キロ程度。正丸駅からでも4キロ程、といったところ。ここまでは飯能市。稜線を越えると秩父に入る。
峠は狭い切り通しとなっている。稜線を左に進むと1.3キロで正丸峠、右に上ると虚空蔵山まで1.8キロ、刈場坂峠までは3.3キロ。直進し、峠を秩父に下ると初花、芦ケ久保に達する。伊豆ガ岳から正丸峠を経て北に延びる稜線を「正丸尾根」と呼ぶ。伊豆ガ岳>正丸峠>ガンゼ山>旧正丸峠>虚空蔵峠>大野峠>丸山へと続く。この横瀬の丸山を大丸山と呼び、旧正丸峠横のガンゼ山(川越山)を小丸山と呼ばれていた、と。正丸峠の名前の由来は、この小丸>しょうまる>正丸、となったとの説もある。正丸という親孝行な少年が、母親を背負ってこの峠を越えたのが、名前の由来との説よりは、なんとなく、納得感がある(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
もっとも、この峠は昔から正丸峠と呼ばれていた訳ではない。二子峠と呼ばれていた、。昔は現在国道299号線が走っている芦ケ久保川沿いには道は無く、秩父から高麗川筋に出るには、二子山の南肩を越え、処花に下り、それから虚空蔵峠を越えて坂元に出ていた。二子峠と呼ばれたのは、このためである。正丸三角点であるカンゼ山(川越山)の東肩の按部であるこの旧正丸峠を越えるようになったのは、その後のことであると言う(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
正丸峠が秩父と奥武蔵をつなぐ主要往還道と思い込んでもいた時期がある。秩父観音霊場を廻るため幾度となく秩父を往復したとき、飯能から高麗川の谷筋(秩父凹地帯)を進み正丸トンネルを抜けて秩父に入る。正丸峠はこのトンネルからは少し離れたところにあるのだが、今日の主要往還である正丸トンネルを頻繁に通っているうちに、おなじ名前の正丸峠も「主要」峠であろう、と刷り込まれていたのだろう。
その後、正丸峠を越える前に釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父と奥武蔵の峠を越え、あれこれ歩いているうちに、秩父と奥武蔵を結ぶ峠は数多くあり、正丸峠はそれら峠のひとつに過ぎない、といったことがわかってきた。そして、それよりなにより、当時の往還のメーンルートは越生と秩父・高麗川筋であり、秩父から高麗川筋って、それほど人の往来があったわけでもなかったようだ。『ものがたり奥武蔵;岳書房』によれば、秩父と飯能を結ぶこの正丸峠は普段は旅商人などが通るほかは人影もない寂しい道、獣道のようであった、とか。唯一この峠が賑わうのは年に一度の三峰神社のお祭りのときだけ。そのときだけは飯能、高麗、吾野の人々がこの峠を越え、終日賑わった、とある。「現在軸」だけからのあれこれの判断は慎重に、ということであろう。
峠からの下り
芦ケ久保に向かい峠を下る。飯能側の杉林と異なり、明るい雑木林の中を歩くのだが、道筋が少し分かりにくい。踏み跡を探しながら下る。涸れ沢の谷筋に出る。道と谷が土砂で埋もれたのだろうか、道筋が誠に分かりにくい。ただ、杉林と違い雑木林の木もまばらであり見通しがつけやすいので、それほど道に迷う不安は少ない。
涸れ沢を過ぎると沢の脇の細路を下る。カタクリの群生地脇を進むと広場のようなところにでる。ベンチなどもあり、川筋には治山ダム。谷筋の浸食を止め森林の維持・造成を図るもの。この広場も治山ダムにより沢筋が固定され、土砂が溜まり緑地が広がったものだろう、か。門外漢のため、単なる所感ではある。
追分
林道を進むと道は舗装されている。しばらく歩くと追分に。大カエデのそばに石仏。
追分で山伏峠に行く道と分かれる。松枝あたりで県道53号線に合流しているようだ。
県道53号線
石仏にお参りし、横瀬川の流れを見やりながら初花(処花)あたりで山伏峠か
正丸駅を離れ国道299号線に出る。国道を700mほど歩くと坂元集落に入る道が分かれる。道脇に「旧正丸峠、正丸峠、刈場坂峠」への道標。国道を離れるとすぐに高麗川を渡り坂元の集落に。高麗川の源流は刈場坂峠(かばさか)の近く。飯能、入間、毛呂山を流れ坂戸市で越辺川に合流する。
正丸トンネル手前で国道から右に分かれ正丸峠へと上る道がある。道はほどなくふたつにわかれ、左に大きくカーブする道が旧国道、そのまま直進する道が刈場坂峠への道。高麗川はその直進する道に沿って刈場坂峠へと続く。源流の碑もあるということであり、そのうちに歩いてみたい。
集落にはいると道脇につつましやかな祠。八坂神社とあった。お参りをすまし、5分も歩くと道は次第に山道となる。舗装も切れた杉林の道脇には石仏が佇んでいた。
沢沿いの道を上る
沢沿いの道を上る。ここからは丸太橋や仮設橋で沢を渡ることになる。ささやかな沢である。沢の右岸を上る。第一の仮設橋で左岸に移る。鉄パイプのつくりは少々味気なし。ほどなく道脇に大岩。この巨岩脇を抜けると第二の橋に。丸木でつくられた橋を渡り右岸に戻る。道なのか沢なのかといった道筋のすぐそばを歩くことも。
三番目の橋は再び仮設橋。ここで左岸に渡る。第四の橋は越流状態。木橋の上は土砂に埋もれ、そこを水が流れる。右岸に移り第五の仮設橋で左岸に。ここからは北に延びる沢筋を上ることになる。谷筋を過ぎると急斜面。一気に上る、のみ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
旧国道に合流
上り切ったところで車道に合流。正丸トンネル手前から正丸峠を越え、県道53号線に合流する昔の国道である。県道53号線は名栗谷の名郷から山伏峠を越えて正丸トンネルの秩父側口の近くに下る道。現在の国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年というから昭和57年。ほんのつい最近まで、飯能方面から秩父に車で入るには、このクネクネした山道を上っていたわけだ。
旧国道の合流点から100mほど上ると再び山道に入る。目印は反射鏡。道の左下に旧国道を見ながら大きくカーブする山道を旧正丸峠に向かって進む。最後の橋は桟道。桟道って、岩場や崖など歩きにくいところに足場を組んだ、もの。桟道を越え鬱蒼とした杉林の中を進むと旧正丸峠に。
旧正丸峠
標高670m。県道の正丸峠が開通されて以来、旧正丸峠と呼ばれるようになった。坂元集落から2キロ程度。正丸駅からでも4キロ程、といったところ。ここまでは飯能市。稜線を越えると秩父に入る。
峠は狭い切り通しとなっている。稜線を左に進むと1.3キロで正丸峠、右に上ると虚空蔵山まで1.8キロ、刈場坂峠までは3.3キロ。直進し、峠を秩父に下ると初花、芦ケ久保に達する。伊豆ガ岳から正丸峠を経て北に延びる稜線を「正丸尾根」と呼ぶ。伊豆ガ岳>正丸峠>ガンゼ山>旧正丸峠>虚空蔵峠>大野峠>丸山へと続く。この横瀬の丸山を大丸山と呼び、旧正丸峠横のガンゼ山(川越山)を小丸山と呼ばれていた、と。正丸峠の名前の由来は、この小丸>しょうまる>正丸、となったとの説もある。正丸という親孝行な少年が、母親を背負ってこの峠を越えたのが、名前の由来との説よりは、なんとなく、納得感がある(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
もっとも、この峠は昔から正丸峠と呼ばれていた訳ではない。二子峠と呼ばれていた、。昔は現在国道299号線が走っている芦ケ久保川沿いには道は無く、秩父から高麗川筋に出るには、二子山の南肩を越え、処花に下り、それから虚空蔵峠を越えて坂元に出ていた。二子峠と呼ばれたのは、このためである。正丸三角点であるカンゼ山(川越山)の東肩の按部であるこの旧正丸峠を越えるようになったのは、その後のことであると言う(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
正丸峠が秩父と奥武蔵をつなぐ主要往還道と思い込んでもいた時期がある。秩父観音霊場を廻るため幾度となく秩父を往復したとき、飯能から高麗川の谷筋(秩父凹地帯)を進み正丸トンネルを抜けて秩父に入る。正丸峠はこのトンネルからは少し離れたところにあるのだが、今日の主要往還である正丸トンネルを頻繁に通っているうちに、おなじ名前の正丸峠も「主要」峠であろう、と刷り込まれていたのだろう。
その後、正丸峠を越える前に釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父と奥武蔵の峠を越え、あれこれ歩いているうちに、秩父と奥武蔵を結ぶ峠は数多くあり、正丸峠はそれら峠のひとつに過ぎない、といったことがわかってきた。そして、それよりなにより、当時の往還のメーンルートは越生と秩父・高麗川筋であり、秩父から高麗川筋って、それほど人の往来があったわけでもなかったようだ。『ものがたり奥武蔵;岳書房』によれば、秩父と飯能を結ぶこの正丸峠は普段は旅商人などが通るほかは人影もない寂しい道、獣道のようであった、とか。唯一この峠が賑わうのは年に一度の三峰神社のお祭りのときだけ。そのときだけは飯能、高麗、吾野の人々がこの峠を越え、終日賑わった、とある。「現在軸」だけからのあれこれの判断は慎重に、ということであろう。
峠からの下り
芦ケ久保に向かい峠を下る。飯能側の杉林と異なり、明るい雑木林の中を歩くのだが、道筋が少し分かりにくい。踏み跡を探しながら下る。涸れ沢の谷筋に出る。道と谷が土砂で埋もれたのだろうか、道筋が誠に分かりにくい。ただ、杉林と違い雑木林の木もまばらであり見通しがつけやすいので、それほど道に迷う不安は少ない。
涸れ沢を過ぎると沢の脇の細路を下る。カタクリの群生地脇を進むと広場のようなところにでる。ベンチなどもあり、川筋には治山ダム。谷筋の浸食を止め森林の維持・造成を図るもの。この広場も治山ダムにより沢筋が固定され、土砂が溜まり緑地が広がったものだろう、か。門外漢のため、単なる所感ではある。
追分
林道を進むと道は舗装されている。しばらく歩くと追分に。大カエデのそばに石仏。
追分で山伏峠に行く道と分かれる。松枝あたりで県道53号線に合流しているようだ。
県道53号線
石仏にお参りし、横瀬川の流れを見やりながら初花(処花)あたりで山伏峠か
らの県道53号線に合流。
国道299号線
初花から500mほど歩くと国道299号線の正丸トンネル秩父口に到着。正丸峠越えはこれで完了。上り下り、それぞれ1時間程度、といったところではあった。初花(処花)って美しい名前。由来はよくわからない。ただ、初花、って新年に一番最初に咲く花、季節毎に最初に咲く花のこと、とか。それから転じて、若い女性やいつまでも新鮮なパートナーのことを指すとも言う。この集落の名前の由来は、はてさて。
西武線秩父線芦ケ久保駅
初花から500mほど歩くと国道299号線の正丸トンネル秩父口に到着。正丸峠越えはこれで完了。上り下り、それぞれ1時間程度、といったところではあった。初花(処花)って美しい名前。由来はよくわからない。ただ、初花、って新年に一番最初に咲く花、季節毎に最初に咲く花のこと、とか。それから転じて、若い女性やいつまでも新鮮なパートナーのことを指すとも言う。この集落の名前の由来は、はてさて。
西武線秩父線芦ケ久保駅
国道を芦ケ久保駅に向かう。4キロ強といったところ、か。道の脇には横瀬川。その南には二子山。こんな話がある。昔、二子山にはダイダラボッチが棲んでいた。山や川、池をつくる大男。その神様が秩父に山をつくるためにやってきたのだが、この芦ケ久保の窪地で足をとられて運んできた土をこぼした、と。この足を取られた窪地が「足窪」。それが転化して「芦ケ久保」。で、こぼした土でできたのが二子山であった、と。そういえば、我が家の近くにある杉並区の代田橋も、この大男ダイダラボッチの足跡が由来、とか。
日も暮れてきた。国道を歩き、成り行きでバス停でバスに乗り、西武秩父まで進み本日の予定終了。
日も暮れてきた。国道を歩き、成り行きでバス停でバスに乗り、西武秩父まで進み本日の予定終了。
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