一宮寺よりはじめ、八十四番札所屋島寺へ向かう。常の如く標石を目安にして旧遍路道を辿ったわけだが、今回はちょっと厄介ではあった。一宮寺からしばらくの間は宅地開発などで旧遍路道が消えているところが多く、時に現れる標石を繋ぐだけで精一杯。
その、時に現れる標石の位置確認はGoogle Street Viewを活用。古き資料に残るデータからおおまかな道筋や標石の位置を推定し、Google Street Viewでチェック。幸いにして今回は市街地ということもあり結構Street Viewで標石を確認することができた。
そしてその位置をiphoneにインストールしているG-Map Toolという無料GPS活用アプリにプロット。その位置を目安に旧遍路道資料にあるルートに極力近い道筋を辿るといったもの。辿ったトラックログはGPS watchであるSUUNTO Traverseでとり一宮寺から屋島寺までの遍路道をなんとか繋げた。便利になったものである。
ともあれ、散歩に出かける。
本日のルート:八十三番札所一宮寺>田村神社>県道12号の北に地蔵堂と2基の標石>県道172号と水路合流点の標石>自然石標石>三名神社東の標石>手引き地蔵>手印だけの標石が続く>光臨寺傍の標石>太田天満宮>伏石八幡>野田池の地蔵堂と標石>松縄東公園の南に2基の標石が続く>琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石>夷神社>分かれ股地蔵と標石>高須公民館脇に標石>春日川橋東詰に標石>新川橋東詰に標石>相引川・大橋北詰にお堂と標石>双ッ池南の標石>遍照院傍に「四国のみち」指導標
屋島寺表参道登山口>弘法大師加持水>十二丁・十三丁石>不喰梨弘大師>畳岩>名号石>徳右衛門道標>八十四番札所 屋島寺仁王門
八十三番札所一宮寺
一宮寺への遍路道は、順打路である八十二番根香寺からのふたつのルート、香西口ルートと鬼無口ルートのいずれの道を辿っても、また逆打ルートである七十九番天皇寺から八十一番白峰寺、八十二番根香寺を経て八十番国分寺に至り、そこからこの八十三番一宮寺へと辿る遍路道をとっても共に境内西側に至る。一宮寺の正面仁王門は境内の東側にあり、順路は寺の北西角、大師堂脇から入ることになるし、逆打ちルートは西門(裏門)から境内に入ることになる。
順打路より境内に入ると左手に大師堂。大師堂の右手に本堂がある。境内は比較的こじんまりとした趣。Wikipediaに拠れば、「神毫山 大宝院 一宮寺。一宮寺(いちのみやじ)は、香川県高松市一宮町にある真言宗御室派の寺院。讃岐国一宮の田村神社に隣接する。本尊は聖観音。 寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 ? 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 ? 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。
1584年(天正12年)の兵火により焼失するも、宥勢大徳により中興される。延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常によって田村神社が両部神道から唯一神道に改められたため当寺以外に12あったと云われる宮寺は廃止される。唯一存続を許された当寺は、それまで神社とは一体で同一場所にあったが、分離され現在地に移転、別当寺は解職され、本地仏であった正観音像は当寺の本尊となり、一国一宮として選ばれていた神社の四国八十八箇所83番札所は当寺が引き継いだ。 明治初期の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行われ現在に至る」とある。
義淵は玄昉、行基の師であり当寺は古刹であったようだ。それはともあれ、その後神仏習合の時世のもと、田村神社の別当寺となるが、17世紀には高松藩主により田村神社と分離され、現在の地に移ったとある。
両部神道とは、日本の神は仏教の仏が衆生救済のため仮の姿で現れたとする真言宗の本地垂迹説をもとにした神仏習合思想。唯一神道とは吉田神道とも伊勢神道とも呼ばれるようだが、仏は日本の神が仮の姿で現れたものとする説。主客逆転、日本の神を外来の神である仏の上位にとらえているように思える。
お寺がなんとなくこじんまりしていると感じたのは、この田村大明神から分離され、唯一残された一寺といった歴史も関係しているのだろうか。
●薬師如来
本堂手前左に石の祠に薬師如来が祀られる。祠には石の扉がある。意地悪なおタネばーさんが扉から頭を入れると地獄の釜の音が聞こえ、頭が抜けなくなった。罪を悔い改めると願うと扉が開き助かった。弘法大師の戒めであるとの話が伝わる。
●三基の石塔
本堂左側に古く大きな石造りの塔が並ぶ。そのうち一基には宝治元年(1247)の銘がある。大宝院供養塔と称されるこの3基の石塔は孝霊天皇、百襲姫命 (ももそひめのみこと)、吉備津彦命(五十狭芹彦命とも)。18世紀中頃に田村神社から移したとのこと。百襲姫、吉備津彦は第七代孝霊天皇の子とも伝わる。
●仁王門
菩薩堂にお参りに境内東の仁王門に。仁王と大わらじのある仁王門を潜ると正面は田村神社の境内を区切る塀が南北に続く。
■茂兵衛道標
仁王門左に茂兵衛88度目の道標。「四国第八拾三番 四国八十四番屋島寺道 明治十九年」といった文字が刻まれる。右側にも標石。「右 仏生山道十八丁 左やしま道三里」、手印と共に「釈迦涅槃像・圓光大師御旧跡 見真大師御直作像 仏生山 是より十八丁」と刻まれる。
〇仏生山
仏生山とは仏生山法然寺のこと。一宮寺から南東、高松市仏生山町にある法然上人二十五霊場のひとつ。
Wikipediaには「鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。
江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した[1]。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松松平家の菩提寺とした」とある。
田村神社
仁王門を出て田村神社に向かう。正面仁王門前に南北に続く塀にそって北に進み、右折し境内北側の大鳥居前に出る。一宮寺は田村神社の別当寺でもあったわけで、この寺と社を遮るような塀に少し違和感。どうも、かつて一宮寺仁王門に向かい合うように田村神社の鳥居があったようだ。いつの頃状況が変わったのか不明ではあるが、田村神社は平成21年(2009)に大改装が行われたとの記事があった。その折にでも一宮寺に面する鳥居はなくなったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
●裏参道
ともあれ大鳥居を潜り境内に。結構大きい。金ぴかのお迎え布袋尊に迎えられる。讃岐七福神巡りの布袋尊が田村神社であるためだろうか。赤い鳥居の裏参道を進むと中央に八咫烏と刻まれた石碑が立つ。この社の祭神の中に高倉下命が記される。神武天皇の東征時に登場する熊野の神である。それ故の八咫烏であろうか。
●北参道
裏参道の赤い鳥居を左折すると、今度は中央にさぬき獅子を置く北参道。ここも赤い鳥居が続く。参道を進み正面に七福神巡り、弁天社、宮島社を見遣り右折すると天満宮、素婆倶羅社、宇都伎社、本殿と続く。
●素婆倶羅社と宇都伎社
素婆倶羅社、宇都伎社は末社ではあるが、本社社殿と同規模の大きな社殿。素婆倶羅社の祭神は少名毘古那命。少名毘古那命は大国主命とペアで登場し、国造りから酒造りまで多様な分野をカバーする。ここでは安産など女性の守護神とされる。
宇都伎社の祭神は大地主神(おおとこぬしのかみ) 倉稻魂神(うかのみたまのかみ)。大地主神は田畑を司る神であり、倉稻魂神は室町以降には稲荷神として民衆に信仰された穀物豊穣の神。この社は衣食住を司る神と、さぬき七福神の布袋尊を祀る。布袋さんの大きな袋には日常生活に必要なものがすべて入っていた。とか。
境内には満蒙開拓者殉難之碑の碑、海軍少年飛行兵之碑、忠魂碑など鎮魂のための石碑や十二支巡りの造作、桃太郎話に仮託した犬・猿・雉と吉備津彦・倭迹迹日百襲姫命の石造、竜神の像など多くの石碑・石造が「展開」する。あまりにいろいろなものがありすぎて、とてもすべてメモできそうもない、
いくつものログに、田村神社はご利益神のテーマパークとの記述があったが、その通り。延喜式讃岐一之宮といった荘厳な雰囲気ではなく、なんだか明るい。平成21年(2009)に創立1300年を記念して大改装を行ったときの方針であった、とか。
Wikipediaをもとに田村神社の概要をまとめると;「田村神社(たむらじんじゃ);一帯は湧水地であり、現在も当社の奥殿が深淵の上に建てられているように、水神信仰を基盤とした神社である。別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。「田村」の社名は鎮座地名による。
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと:別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)、猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)、天隠山命 (あめのかぐやまのみこと;別名を高倉下命(たかくらじのみこと)、天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。 田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。
社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていた。
朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」の扁額が残っている。
また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。これは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである。
天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わったのちも祈願所として崇敬された。
延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏により一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。その際、一国一宮として選ばれていた四国八十八箇所の札所と本地・正観音像は、一宮寺に移される。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。現在に伝わる神宝は「田村神社古神宝類」として国の重要文化財に指定されている」
あまりにいろいとありすぎて、祭神のあれこれなどを深堀する気力がなくなってしまった。というより、祭神は後世の政治力学で創出されたものであり、もともとは境内に龍神として示現される水神様を祀ったものだろう。社の建つ地はかつて香東川の川淵であったよう。付近には出水(泉)も多く、社の本殿奥に神座があり、その下には深い淵があり水神である龍神が棲むという伝説がある。社の別称に「定水大明神」とあった。その語感からは、いかにも絶えることのない水を想起する。そんな稲作の生命線である水を水神として信仰の対象としたのがこの社のはじまりではないだろうか。 田村神社はこの辺りで終わりにし、遍路道へと戻ることにする。
県道12号の北に地蔵堂と2基の標石
一宮寺から屋島寺への遍路道は仁王門を出て、田村神社の塀に沿って北に進む。途中右折すれば上述田村神社の北参道の大鳥居に出るが、遍路道は直進し県道12号を超える。県道の対面に北東に進む水路がある。遍路道はその水路に沿って進むことになる。
少し進むとブロック造りの地蔵堂があり、その前に標石2基が立つ。ひとつは茂兵衛道標。手印と共に「扁んろ道 明治十九年」の文字が刻まれる。もう一基の標石には手印と「八十三番一ノ宮寺ハコチラ」と刻まれる。
茂兵衛道標の手印は北を指すが、これはどうも高松市街真ん中にある高野山別院経由屋島寺への遍路道を指すようで、直接屋島寺に向かう道はここを右折する。
県道172号と水路合流点の標石
右折するといっても現在、そこは道と言うか民家の間の水路といったもので、特段道はない。とりあえず水路脇を進み県道172号に合流。
古い資料には国道との合流点に標石があるというが、なかなか見つけられない。あちこち探していると、水路が国道下に潜り込む手前、水路の石垣に標石らしきものが挟み込まれている。石垣を組み上げるために利用したのだろうか。
自然石標石
県道を越えた遍路道は北東へと上る、と古い資料にある。が、現在ではこの辺りは宅地開発されており遍路道は消えている。
次の目印は一筋北の道筋にある自然石道標。遍路道ではないだろうが水路に沿って進み、一筋北の道に出て右折し少し東に向かうと、道の左手に自然石の標石があった。手印と共に「左やしま」と刻まれていた。
三名神社東の標石
自然石の指示に従い道を左折。水路に沿って北東へと進むと「おさか脳神経外科病院」の南に出る。その東は国道192号。遍路道は国道を渡り東へと進む。ほどなく道の左手に三名神社があり、そこから50mほど進むと道の左手に標石がある。手印に従い左折し北に向かう。
手引き地蔵
北に折れる角、道の右手が一段高いスペースとなっており北西角に小堂がふたつ並ぶ。洪水のため流されて来たものとされ、「手引き地蔵」と呼ばれるようだ。
手印だけの標石が続く
北に進むと一筋先の道との交差に手印だけの標石。更に一筋先の交差部にも少し傾いた手印だけの標石。手印は北を指すが民家の敷地となっており先に進めない。道を右に折れる。
田圃の中を進む
道を右に折れると直ぐに民家傍に標石が立つ。手印は北を指す。指示に従い田圃の中の細路を進む。次の遍路道のルート目安は光臨寺傍にある標石だが、そこまでは標石もなく、成り行きで進むしかない。
光臨寺傍の標石
田圃の中の道を右折>左折>右折>左折と繰り返し県道147号に一旦出る。その先も成り行きで北進し水路脇に続く道に出る。
弧を描く水路脇の道を進み県道280号東側に。そのまま光臨寺の北側の道を進むと県道166号に当たる。合流点を左に折れると県道右側に標石。「右屋し満道 左高ま津道」と刻まれる。
太田天満宮
次のルート目安は太田天満宮だが、古い遍路道資料にある標石から北東に進む道はない。ここから先天満宮までは標石もなく、どうしたものかとあちこち彷徨うと、標石から少し南に戻った水路脇に遍路タグがあった。
遍路タグに従って水路脇の道を進み県道171号に。が、その先は遍路道案内のタグも見つけることができず、結局成り行きで進み太田天満宮の少し東に出る。今回は宅地開発などで旧遍路道が分断され、ルート確定が結構難しい。
伏石八幡
次のルート目安は伏石八幡。その間標石はない。古い資料にある道筋は、太田天満宮を左に見て県道171号を東進し、琴平電鉄を越えた一筋先の道を左に折れて北進。高松自動車道の高架を潜り、一筋北の道にあわさる交差部から北東に進む道筋に入り伏石八幡に進む、とある。その資料に従い伏石八幡前の参道に出る。
●伏石神社
伏石八幡の由緒を刻んだ石碑に三石神社の由来とある。どういうこと?石碑には「伏石神社 三石神社の由来 祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命 慶長七年寺島弥兵吉長の創建と伝えられ昔から当社東の方立石神社南東の居石神社とともに三所八幡又三石八幡といわれている。祭神は毒蛇を憎みその危害から人々を守る神として知られている。
今から三百七十七年前慶長六年八月のある晩この村の郷士寺島弥兵吉長は家から南西約三百メートルの林の中から出ているあやしい光を見つけた。不思議に思いながらそのまま寝たが、あくる晩もまた次の晩もその光が見えるのであった。不審に思った吉長はその正体を見届けようと家来を連れて林にわけ入った。あやしい光は林の中程にある大きな石から出ており、その石は方一丈余(約三メートル四方、高さ三尺約一メートル)ちょうど伏したような形のもので地面に埋まっている部分はどれくらいあるか想像もつかない大石であった。
吉長は「これはただの石ではない。神様が自分を呼び寄せるために光を出したに違いない」と一心に石に祈りそのわけをおうかがいしたのである。神様のお告げは次のようであった。
ここから二百歩ばかり東へ行くと立石という大きな石がある。松縄村には流石があり、また屋島の麓蒲生の海底には鰭石(ひれいし)といわれる石がある。この四つの石はみな神の宿る神石である。世の人々はこれを知らないから今ここにそのありかを教えておく。これからは神として年ごとの祭りを怠ってはならぬ」と。吉長はおそれ多く思いここに社を建て村の産土神としてまつることになったという。
〇亀石
幣殿の北に大きな亀石がある。この亀石は寺島屋敷の西南角に安置していたものを第十四代政吉氏が昭和二年の寄贈したものである。
〇立石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
伏石神社の参道を東へ進むこと約三百メートル。大きなもちの木を中心とした森がある。ここに鎮座ましますのが立石神社である。この神社は昔から三所八幡又三石神社のひとつとして崇敬されている。約三百七十年余り前寺島弥兵衛吉長が伏石のかみさ神に祈りを捧げたとき神様から教えられたご神石(立った形をしている石)があり、これが神体として祀られている。
〇居石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
保安年間居石五郎右衛門網光が祀ったものでその子孫は姓を佐藤といい又居石ともいう。 当社は保安五年居石五郎右衛門網光が勧請したもので出水「鹿の井」と深い関係がある。(以下略)」。
ここからわかることは、神の宿る石は四つであるが、ひとつは海底であり社を建てることができないため、神の宿る石をご神体とした社を三社建立。それが三石神社。この伏石神社はその第一社。由緒にある松縄村の流石とは伏石神社の南東、高松自動車道のすぐ南にある居石神社。ここが第三社と言うことだろう。
野田池の地蔵堂と標石
遍路道は野田池に向かう。伏石八幡鳥居前に東西に続く大きな道は「馬場道」と称されるようだ。この先、野田池までの遍路道ははっきりしない。野田池手前の蓮池土手に地蔵堂が残るとあるので、成り行きで県道43号を東に越えて蓮池に。
池の北東角にある地蔵堂を確認し伏石中央公園の東端を北に進み野田池に。池の土手に地蔵堂が立つ。脇の石碑には「このお地蔵さまは享保十二(西暦1727)湛明元江和尚と宝暦六(西暦1757)博道覚性沙弥二人のため、また野田池の安全と多くの人々の冥福を祈って建立されたものと思われる」とあった。年号は没年であろう。地蔵堂の脇には手印だけの標石もあった。
松縄東公園の南に2基の標石が続く
野田池から先の遍路道もはっきりしない。古い資料には野田池からまっすぐ北に300m進み右折。そこから東に進み、比較的大きな道を越えると標石があり。そこを左折し北へと向かい松縄東公園の東側に出るとある。松縄東公園への途次には2基の標石がある、とのこと。
●Google Street Viewで標石確認
野田池からの北進は距離が300mほど、とあるので右折箇所は分かるのだが、そこから東進した後に左折する箇所がはっきりしない。その曲がり角を特定するためGoogle Street Viewを活用。資料にある曲がり角の標石と松縄東公園へ北進する道の途中にあるという2基の標石を探す。 松縄東公園から南へとStreet Viewでチェックし2基の標石は確認できた。曲がり角の標石を見つけることはできなかったが、なんとなくルートが見えてきた。
野田池を出発。北に300mほど進み右折し東進。チェックできた標石に北進する道を左折。少し北に進み手印だけの標石を確認。そこから先にT字路。右折し次の角を左折し松縄東公園へと進むと直ぐ、道の右手の家庭菜園端に標石があった。この標石の手印の上には元の石が庇(ひさし)の用に張り出している。あまり見かけない姿の標石だ。
琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石
古い遍路道資料には、松縄東公園から先は北に進み、県道10号を越えて松縄北公園方向へ進むとあるが、県道10号南に建物が建ち先に進めない。取り敢えず建物を迂回し松縄北公園へと進む道を辿るが遍路標識は見当たらない。
古い資料に拠れば、ルート目安となる標石は琴平電鉄長尾線歩行者踏切を渡ったところにあるとのこと。成り行きで道を進み右折・左折を繰り返し線路脇の道筋に出る。道を東に進み琴電の歩行者踏切を渡ると標石があった。
夷神社
踏切を渡った遍路道は琴電の線路に沿って進み、琴電踏切を渡ることなく交差点を直進し、詰田川に架かる木太橋を渡る。道は県道10号とある。川に沿って少し進み、道が南にカーブする手前に夷神社。遍路道は夷神社脇の道を左に入る。
●夷神社
「祭神 八重事代主命 この社には、釣り竿を担ぎ鯛を小脇に抱えた石像がある。漁師たちが守護神として蛭子神(八重事代主命)を祭ったと言われている。
夷神社は蛭子宮(讃岐国名所図会)、蛭子の社(入江神社記)、蛭児大明神(翁謳夜話・讃州府誌)などと称せられている。また全讃史には「何年に祭られたが知らずとあり、寛永以前はこの地は入江にて漁者も住居し、蛭子宮ありて、地名を夷と言う。
寛永十四年(1637)生駒藩の時、この地以北の地を干拓して新田とした」と記されている。
夷神社は海岸線に位置し、地名も夷村と名付けられたと言われる歴史の古い神社である。昭和六十一年に本殿を改築して、夷地区の集会所としても使われている。 平成十年五月 木太地区文化協会」
分かれ股地蔵と標石
夷神社脇の細路を進み車道に出る。遍路道はここを左に折れて北に向かう。少し進むと道が二股に分かれる。その分岐点に小さな地蔵堂と標石がある。石柱には「分かれ股地蔵」とある。地蔵様の右手にある標石には「右屋島 左高松 寛政十」といった文字が刻まれる。
高須公民館脇に標石
道を北に進むと高須公民館の南、隣の建物の間に挟まれるように地蔵尊が祀られる。その高須公民館の北西角に標石。手印と共に「防州大島郡安下庄 嘉永」と言った文字が刻まれる。遍路道は手印に従い右折する。
春日川橋東詰に標石
高須公民館の北を右折し北東進した遍路道はT字路で左折。JR高徳線の軌道を潜り県道155号に出る。そこで右折し春日川に架かる春日川橋に。橋の西詰に地蔵堂。「ぽっくり地蔵」とある。また橋を渡ると東詰にお地蔵さまが石柱上に座る標石があり、手印と共に「右やしま寺 明治三十年」と刻まれる。手印に従い県道を更に東に進む。
新川橋東詰に標石
次いで新川に架かる新川橋を渡ると橋の東詰に標石があり、手印と共に「やし満 右一之宮 東徳島 西高松 北やし満」と刻まれる。遍路道はここを左折し県道155号を離れ県道150号に乗り換え相引川の右岸を北に進む。
●相引川
なんだか面白い名前。チェックするとその由来は、「川の両端がともに海に繋がっているため、潮の満ち引き時には川の水が東西両方向から満ち、両方向へ向かって引いていくことから、相引川と呼ばれるようになったとする説がある。また、東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もある」とあった。
それにしても奇妙な川。その成り立ちをチェックする。Wikipediaに「源平合戦(1185年)の時代には屋島と四国本土はかなり離れていた。江戸前期までは海であり、満潮時には海水が東西から満ち、干潮時には東西に分かれたことから「相引浦」と呼ばれたという。
生駒氏統治時代(1600年 - 1640年)の寛永14年(1637年)、生駒高俊が堤防を築かせ、屋島と四国本土は陸続きになったが、松平氏統治時代(1642年 - 1871年)になって、古来の妙跡を惜しんだ初代藩主松平頼重の命によって1647年(正保4年)に水路が復元され、現在の相引川の形が完成した」とあり、続けて「鎌倉前期の軍記物語の『平家物語』には、「・・・潮の引いています時には、陸と島との間は馬の腹もつかりません。」と記述され、浅い海であったとされている。また、1633年(寛永10年)の『讃岐国絵図』は、屋島は海を挟んで島として描かれている。そして、1789年頃(寛政頃)の『讃岐一円図』は、屋島は川で隔てられた島であり、1808年(文化5年)に測量された『伊能大図』は、現在と同様に相引川を挟んで島となっている」とそのエビデンスを示していた。
相引川・大橋北詰にお堂と標石
相引川に架かる大橋を渡ると北詰に立派なお堂が建つ。お不動さんを祀るとされるお堂の庇の下に4基の石造物とその外側に5基の石柱が残る。
石柱は旧大橋の石柱。「大橋」と刻まれる。4基の石造物はすべて標石を兼ねているようである。そのうち1基は角柱標石、3基は舟形地蔵丁石。角柱標石には正面に「南無阿弥陀仏」、「是よりやしま寺へ十九丁 一のみや江百五十丁」と刻まれる。建立近視者の菩提を弔う石碑のようだ。3基の舟形丁石には「一丁目 享保」「右扁ろミち」「二丁目 享保十」と言った文字が刻まれる、と言う。
双ッ池南の標石
北に進み、琴電潟元駅と、如何にも往昔の干潟の趣を残す駅の東側にある踏切を越え三叉路を北東に進む道をとる。しばらく進むと県道14号と交差。遍路道はここで左折し県道14号に乗り換えて北に進む。
ほどなく右から道が合わさる前面に土手。道の交差する土手下に「四国のみち」の指導標、大きな角柱石碑と共に標石があり、手印と共に、「左やし満道 文政二」といった文字が刻まれる。 傍には「屋島遍路みち案内(弘法の道)」があり、屋島寺への上り、屋島寺から八栗寺へと下る遍路道筋にある12か所の旧跡の案内があった。
●八十五番札所八栗寺への遍路道
この交差部を左へと、屋島の山裾を進む道も遍路道。屋島寺を打ち終えた後、ここまで戻り次の札所八栗寺へと向かう遍路もいたようだ。
遍照院傍に「四国のみち」指導標
標石に従い道を進むと、二ツ池の西側、道の左手のガードレール外に標石がある。大師坐像が浮き彫りとなった結構大きな標石だ。手印と供に「一のみやミち 百三十丁」と刻まれる。
次第に急坂となった道を進み、左手に屋島小学校を見遣り先に進むと、道の右手に遍照院がありその先で道は二つに分かれる。その分岐点に「四国のみち」の指導標が立ち、遍路道は直進。 上述双ッ池土手下の「遍路みち案内」に、遍照院には弘法大師作の仏像が祀られる、とあった。
屋島寺表参道登山口
舗装された道を進み、民家も途切れ林に入る頃、道の左右に3基ほど舟形地蔵標石が続く。「七丁目」「九丁目」、共に「享保十一」と刻まれる、と。
道の左右の未舗装箇所には結構な数の車が停る。屋島寺なのか屋島のお山なのか、ともあれ車をここまで寄せて屋島へと向かうようだ。道はその先で石段となる。
石段付近には標石らしき傾いた石柱、左手の林の中にも舟形地蔵。「右 左」といった文字が刻まれており、標石となっている。
弘法大師加持水
石段となり車の進入を止めた先も幅3mほどの舗装された道が続く。4分ほど歩くと道の右手に多数の石造物があり、石柱に「弘法大師加持水」とあり、案内には「弘法大師が、仏天を供養し誦呪加寺(呪文を読み仏の加護保持を祈とうすること)をしたといわれる水です。
干ばつで各地の池や井戸水が枯れても、この湧水は絶えることがありません。 また、路傍の石碑に字が刻まれていますが、弘法大師の筆跡だと伝えられています」とあった。
数個の自然石に囲まれた湧水がかろうじて残っていた。
弘法大師加持水の先、道の右手に2基の舟形地蔵が並ぶ。
十二丁・十三丁石
加持水からほどなく道の右手に地蔵石仏、次いで4分程あるくと十二丁、更に5分ほどで十三丁の舟形地蔵丁石が現れる。道は相変わらず舗装され、朝の散歩のお山に上り、そして下りてくる多くの人にすれ違う。
不喰梨弘大師
十三丁石から4分程歩くと道の右手に再び石仏群が現れる。中央の等身大坐像の台座には「不喰梨弘大師」の文字が刻まれる。その横、大きな石碑は「くわすのなし これよ里本堂へ三丁 文政六」と刻まれ丁石ともなっている。
不喰梨の案内には「空海(弘法大師)が屋島に登ったとき、梨がおいしそうに熟していたので一つ所望をなさいました、でも持主は「うまそうに見えてもこれは食べられない不喰の梨です」と嘘を言ってことわりました。その後、この梨はほんとうに石のように固く食べられなくなってしまつたと伝えられています」とあった。
梨に限らずこの類の伝説は多い。芋、蕨、栗、柿、胡桃、そして水など。パターンも意地悪な場合は「不自由」に、親切な村人の場合は「恵まれる」といった勧善懲悪の型をとる。 こういった救荒食物や弘法水といった伝説は中世以降全国を遊行した高野聖に拠ることが多いと言う。
畳岩
不喰梨から数分で十五丁の舟形地蔵丁石。そこから5分ほどで畳岩。西行法師が屋島で「宿りしてここにかりねの畳岩,月は今宵の主ならぬ」と 詠じたとされる。屋島の頂上部を構成する讃岐岩室安山岩という固い岩石の発達した板状節理に拠る。
因みに屋島の美しい台形姿を構成するのは山頂部の堅い讃岐岩質安山岩は固く侵食に耐え元の姿を留める一方、中腹より下の花崗岩質は削れられなだらかな斜面となった故、と言う。 畳岩の直ぐ先には2基の舟形地蔵が並ぶ
名号石
数分進むと不動明王の石仏、さらに数分で自然石に「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号石。前述「屋島の遍路みち案内」には、「地元の人はこの石の前でこけると腹がいたくなるから転ばぬようにせよ」とのいいつたえから、この石を腹くわり石と呼んでいる」とあった。屋島には弘法大師が仏の名を刻んだ名号石が3基あるとのことだが、これはそのひとつ。
徳右衛門道標
西国観音霊場二番札所の石仏をみやりながら進み右に折れると屋島寺の山門前に石段。石段を上る途中、右手に徳右衛門道標。「是より八栗寺迄一里 右八くり道 寛政十二」といった文字が刻まれる。この道標、常の徳右衛門道標と大師坐像の姿が異なり椅子にお座りになっていなかった。
それよりなにより、「右八くり」の示す方向は?先に建つ仁王門を越えると右折し屋島南嶺裾を南西に続く道がある。その道を指すのだろうか。はっきりしない。
八十四番札所 屋島寺仁王門
徳右衛門道標の先ににに仁王門。八十三番札所 一宮寺より八十四番番札所 屋島寺までの旧遍路道を繋いだ。次回は屋島寺から八十五番札所八栗寺までの旧遍路道を辿る。
その、時に現れる標石の位置確認はGoogle Street Viewを活用。古き資料に残るデータからおおまかな道筋や標石の位置を推定し、Google Street Viewでチェック。幸いにして今回は市街地ということもあり結構Street Viewで標石を確認することができた。
そしてその位置をiphoneにインストールしているG-Map Toolという無料GPS活用アプリにプロット。その位置を目安に旧遍路道資料にあるルートに極力近い道筋を辿るといったもの。辿ったトラックログはGPS watchであるSUUNTO Traverseでとり一宮寺から屋島寺までの遍路道をなんとか繋げた。便利になったものである。
ともあれ、散歩に出かける。
本日のルート:八十三番札所一宮寺>田村神社>県道12号の北に地蔵堂と2基の標石>県道172号と水路合流点の標石>自然石標石>三名神社東の標石>手引き地蔵>手印だけの標石が続く>光臨寺傍の標石>太田天満宮>伏石八幡>野田池の地蔵堂と標石>松縄東公園の南に2基の標石が続く>琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石>夷神社>分かれ股地蔵と標石>高須公民館脇に標石>春日川橋東詰に標石>新川橋東詰に標石>相引川・大橋北詰にお堂と標石>双ッ池南の標石>遍照院傍に「四国のみち」指導標
屋島寺表参道登山口>弘法大師加持水>十二丁・十三丁石>不喰梨弘大師>畳岩>名号石>徳右衛門道標>八十四番札所 屋島寺仁王門
八十三番札所一宮寺
一宮寺への遍路道は、順打路である八十二番根香寺からのふたつのルート、香西口ルートと鬼無口ルートのいずれの道を辿っても、また逆打ルートである七十九番天皇寺から八十一番白峰寺、八十二番根香寺を経て八十番国分寺に至り、そこからこの八十三番一宮寺へと辿る遍路道をとっても共に境内西側に至る。一宮寺の正面仁王門は境内の東側にあり、順路は寺の北西角、大師堂脇から入ることになるし、逆打ちルートは西門(裏門)から境内に入ることになる。
順打路より境内に入ると左手に大師堂。大師堂の右手に本堂がある。境内は比較的こじんまりとした趣。Wikipediaに拠れば、「神毫山 大宝院 一宮寺。一宮寺(いちのみやじ)は、香川県高松市一宮町にある真言宗御室派の寺院。讃岐国一宮の田村神社に隣接する。本尊は聖観音。 寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 ? 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 ? 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。
1584年(天正12年)の兵火により焼失するも、宥勢大徳により中興される。延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常によって田村神社が両部神道から唯一神道に改められたため当寺以外に12あったと云われる宮寺は廃止される。唯一存続を許された当寺は、それまで神社とは一体で同一場所にあったが、分離され現在地に移転、別当寺は解職され、本地仏であった正観音像は当寺の本尊となり、一国一宮として選ばれていた神社の四国八十八箇所83番札所は当寺が引き継いだ。 明治初期の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行われ現在に至る」とある。
義淵は玄昉、行基の師であり当寺は古刹であったようだ。それはともあれ、その後神仏習合の時世のもと、田村神社の別当寺となるが、17世紀には高松藩主により田村神社と分離され、現在の地に移ったとある。
両部神道とは、日本の神は仏教の仏が衆生救済のため仮の姿で現れたとする真言宗の本地垂迹説をもとにした神仏習合思想。唯一神道とは吉田神道とも伊勢神道とも呼ばれるようだが、仏は日本の神が仮の姿で現れたものとする説。主客逆転、日本の神を外来の神である仏の上位にとらえているように思える。
お寺がなんとなくこじんまりしていると感じたのは、この田村大明神から分離され、唯一残された一寺といった歴史も関係しているのだろうか。
●薬師如来
本堂手前左に石の祠に薬師如来が祀られる。祠には石の扉がある。意地悪なおタネばーさんが扉から頭を入れると地獄の釜の音が聞こえ、頭が抜けなくなった。罪を悔い改めると願うと扉が開き助かった。弘法大師の戒めであるとの話が伝わる。
●三基の石塔
本堂左側に古く大きな石造りの塔が並ぶ。そのうち一基には宝治元年(1247)の銘がある。大宝院供養塔と称されるこの3基の石塔は孝霊天皇、百襲姫命 (ももそひめのみこと)、吉備津彦命(五十狭芹彦命とも)。18世紀中頃に田村神社から移したとのこと。百襲姫、吉備津彦は第七代孝霊天皇の子とも伝わる。
●仁王門
菩薩堂にお参りに境内東の仁王門に。仁王と大わらじのある仁王門を潜ると正面は田村神社の境内を区切る塀が南北に続く。
■茂兵衛道標
仁王門左に茂兵衛88度目の道標。「四国第八拾三番 四国八十四番屋島寺道 明治十九年」といった文字が刻まれる。右側にも標石。「右 仏生山道十八丁 左やしま道三里」、手印と共に「釈迦涅槃像・圓光大師御旧跡 見真大師御直作像 仏生山 是より十八丁」と刻まれる。
〇仏生山
仏生山とは仏生山法然寺のこと。一宮寺から南東、高松市仏生山町にある法然上人二十五霊場のひとつ。
Wikipediaには「鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。
江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した[1]。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松松平家の菩提寺とした」とある。
田村神社
仁王門を出て田村神社に向かう。正面仁王門前に南北に続く塀にそって北に進み、右折し境内北側の大鳥居前に出る。一宮寺は田村神社の別当寺でもあったわけで、この寺と社を遮るような塀に少し違和感。どうも、かつて一宮寺仁王門に向かい合うように田村神社の鳥居があったようだ。いつの頃状況が変わったのか不明ではあるが、田村神社は平成21年(2009)に大改装が行われたとの記事があった。その折にでも一宮寺に面する鳥居はなくなったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
●裏参道
ともあれ大鳥居を潜り境内に。結構大きい。金ぴかのお迎え布袋尊に迎えられる。讃岐七福神巡りの布袋尊が田村神社であるためだろうか。赤い鳥居の裏参道を進むと中央に八咫烏と刻まれた石碑が立つ。この社の祭神の中に高倉下命が記される。神武天皇の東征時に登場する熊野の神である。それ故の八咫烏であろうか。
●北参道
裏参道の赤い鳥居を左折すると、今度は中央にさぬき獅子を置く北参道。ここも赤い鳥居が続く。参道を進み正面に七福神巡り、弁天社、宮島社を見遣り右折すると天満宮、素婆倶羅社、宇都伎社、本殿と続く。
●素婆倶羅社と宇都伎社
素婆倶羅社、宇都伎社は末社ではあるが、本社社殿と同規模の大きな社殿。素婆倶羅社の祭神は少名毘古那命。少名毘古那命は大国主命とペアで登場し、国造りから酒造りまで多様な分野をカバーする。ここでは安産など女性の守護神とされる。
宇都伎社の祭神は大地主神(おおとこぬしのかみ) 倉稻魂神(うかのみたまのかみ)。大地主神は田畑を司る神であり、倉稻魂神は室町以降には稲荷神として民衆に信仰された穀物豊穣の神。この社は衣食住を司る神と、さぬき七福神の布袋尊を祀る。布袋さんの大きな袋には日常生活に必要なものがすべて入っていた。とか。
境内には満蒙開拓者殉難之碑の碑、海軍少年飛行兵之碑、忠魂碑など鎮魂のための石碑や十二支巡りの造作、桃太郎話に仮託した犬・猿・雉と吉備津彦・倭迹迹日百襲姫命の石造、竜神の像など多くの石碑・石造が「展開」する。あまりにいろいろなものがありすぎて、とてもすべてメモできそうもない、
いくつものログに、田村神社はご利益神のテーマパークとの記述があったが、その通り。延喜式讃岐一之宮といった荘厳な雰囲気ではなく、なんだか明るい。平成21年(2009)に創立1300年を記念して大改装を行ったときの方針であった、とか。
Wikipediaをもとに田村神社の概要をまとめると;「田村神社(たむらじんじゃ);一帯は湧水地であり、現在も当社の奥殿が深淵の上に建てられているように、水神信仰を基盤とした神社である。別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。「田村」の社名は鎮座地名による。
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと:別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)、猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)、天隠山命 (あめのかぐやまのみこと;別名を高倉下命(たかくらじのみこと)、天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。 田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。
社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていた。
朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」の扁額が残っている。
また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。これは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである。
天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わったのちも祈願所として崇敬された。
延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏により一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。その際、一国一宮として選ばれていた四国八十八箇所の札所と本地・正観音像は、一宮寺に移される。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。現在に伝わる神宝は「田村神社古神宝類」として国の重要文化財に指定されている」
あまりにいろいとありすぎて、祭神のあれこれなどを深堀する気力がなくなってしまった。というより、祭神は後世の政治力学で創出されたものであり、もともとは境内に龍神として示現される水神様を祀ったものだろう。社の建つ地はかつて香東川の川淵であったよう。付近には出水(泉)も多く、社の本殿奥に神座があり、その下には深い淵があり水神である龍神が棲むという伝説がある。社の別称に「定水大明神」とあった。その語感からは、いかにも絶えることのない水を想起する。そんな稲作の生命線である水を水神として信仰の対象としたのがこの社のはじまりではないだろうか。 田村神社はこの辺りで終わりにし、遍路道へと戻ることにする。
■屋島寺への旧遍路道■
一宮寺から屋島寺への遍路道は仁王門を出て、田村神社の塀に沿って北に進む。途中右折すれば上述田村神社の北参道の大鳥居に出るが、遍路道は直進し県道12号を超える。県道の対面に北東に進む水路がある。遍路道はその水路に沿って進むことになる。
少し進むとブロック造りの地蔵堂があり、その前に標石2基が立つ。ひとつは茂兵衛道標。手印と共に「扁んろ道 明治十九年」の文字が刻まれる。もう一基の標石には手印と「八十三番一ノ宮寺ハコチラ」と刻まれる。
茂兵衛道標の手印は北を指すが、これはどうも高松市街真ん中にある高野山別院経由屋島寺への遍路道を指すようで、直接屋島寺に向かう道はここを右折する。
県道172号と水路合流点の標石
右折するといっても現在、そこは道と言うか民家の間の水路といったもので、特段道はない。とりあえず水路脇を進み県道172号に合流。
古い資料には国道との合流点に標石があるというが、なかなか見つけられない。あちこち探していると、水路が国道下に潜り込む手前、水路の石垣に標石らしきものが挟み込まれている。石垣を組み上げるために利用したのだろうか。
自然石標石
県道を越えた遍路道は北東へと上る、と古い資料にある。が、現在ではこの辺りは宅地開発されており遍路道は消えている。
次の目印は一筋北の道筋にある自然石道標。遍路道ではないだろうが水路に沿って進み、一筋北の道に出て右折し少し東に向かうと、道の左手に自然石の標石があった。手印と共に「左やしま」と刻まれていた。
三名神社東の標石
自然石の指示に従い道を左折。水路に沿って北東へと進むと「おさか脳神経外科病院」の南に出る。その東は国道192号。遍路道は国道を渡り東へと進む。ほどなく道の左手に三名神社があり、そこから50mほど進むと道の左手に標石がある。手印に従い左折し北に向かう。
手引き地蔵
北に折れる角、道の右手が一段高いスペースとなっており北西角に小堂がふたつ並ぶ。洪水のため流されて来たものとされ、「手引き地蔵」と呼ばれるようだ。
手印だけの標石が続く
北に進むと一筋先の道との交差に手印だけの標石。更に一筋先の交差部にも少し傾いた手印だけの標石。手印は北を指すが民家の敷地となっており先に進めない。道を右に折れる。
田圃の中を進む
道を右に折れると直ぐに民家傍に標石が立つ。手印は北を指す。指示に従い田圃の中の細路を進む。次の遍路道のルート目安は光臨寺傍にある標石だが、そこまでは標石もなく、成り行きで進むしかない。
光臨寺傍の標石
田圃の中の道を右折>左折>右折>左折と繰り返し県道147号に一旦出る。その先も成り行きで北進し水路脇に続く道に出る。
弧を描く水路脇の道を進み県道280号東側に。そのまま光臨寺の北側の道を進むと県道166号に当たる。合流点を左に折れると県道右側に標石。「右屋し満道 左高ま津道」と刻まれる。
太田天満宮
次のルート目安は太田天満宮だが、古い遍路道資料にある標石から北東に進む道はない。ここから先天満宮までは標石もなく、どうしたものかとあちこち彷徨うと、標石から少し南に戻った水路脇に遍路タグがあった。
遍路タグに従って水路脇の道を進み県道171号に。が、その先は遍路道案内のタグも見つけることができず、結局成り行きで進み太田天満宮の少し東に出る。今回は宅地開発などで旧遍路道が分断され、ルート確定が結構難しい。
伏石八幡
次のルート目安は伏石八幡。その間標石はない。古い資料にある道筋は、太田天満宮を左に見て県道171号を東進し、琴平電鉄を越えた一筋先の道を左に折れて北進。高松自動車道の高架を潜り、一筋北の道にあわさる交差部から北東に進む道筋に入り伏石八幡に進む、とある。その資料に従い伏石八幡前の参道に出る。
●伏石神社
伏石八幡の由緒を刻んだ石碑に三石神社の由来とある。どういうこと?石碑には「伏石神社 三石神社の由来 祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命 慶長七年寺島弥兵吉長の創建と伝えられ昔から当社東の方立石神社南東の居石神社とともに三所八幡又三石八幡といわれている。祭神は毒蛇を憎みその危害から人々を守る神として知られている。
今から三百七十七年前慶長六年八月のある晩この村の郷士寺島弥兵吉長は家から南西約三百メートルの林の中から出ているあやしい光を見つけた。不思議に思いながらそのまま寝たが、あくる晩もまた次の晩もその光が見えるのであった。不審に思った吉長はその正体を見届けようと家来を連れて林にわけ入った。あやしい光は林の中程にある大きな石から出ており、その石は方一丈余(約三メートル四方、高さ三尺約一メートル)ちょうど伏したような形のもので地面に埋まっている部分はどれくらいあるか想像もつかない大石であった。
吉長は「これはただの石ではない。神様が自分を呼び寄せるために光を出したに違いない」と一心に石に祈りそのわけをおうかがいしたのである。神様のお告げは次のようであった。
ここから二百歩ばかり東へ行くと立石という大きな石がある。松縄村には流石があり、また屋島の麓蒲生の海底には鰭石(ひれいし)といわれる石がある。この四つの石はみな神の宿る神石である。世の人々はこれを知らないから今ここにそのありかを教えておく。これからは神として年ごとの祭りを怠ってはならぬ」と。吉長はおそれ多く思いここに社を建て村の産土神としてまつることになったという。
〇亀石
幣殿の北に大きな亀石がある。この亀石は寺島屋敷の西南角に安置していたものを第十四代政吉氏が昭和二年の寄贈したものである。
〇立石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
伏石神社の参道を東へ進むこと約三百メートル。大きなもちの木を中心とした森がある。ここに鎮座ましますのが立石神社である。この神社は昔から三所八幡又三石神社のひとつとして崇敬されている。約三百七十年余り前寺島弥兵衛吉長が伏石のかみさ神に祈りを捧げたとき神様から教えられたご神石(立った形をしている石)があり、これが神体として祀られている。
〇居石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
保安年間居石五郎右衛門網光が祀ったものでその子孫は姓を佐藤といい又居石ともいう。 当社は保安五年居石五郎右衛門網光が勧請したもので出水「鹿の井」と深い関係がある。(以下略)」。
ここからわかることは、神の宿る石は四つであるが、ひとつは海底であり社を建てることができないため、神の宿る石をご神体とした社を三社建立。それが三石神社。この伏石神社はその第一社。由緒にある松縄村の流石とは伏石神社の南東、高松自動車道のすぐ南にある居石神社。ここが第三社と言うことだろう。
野田池の地蔵堂と標石
遍路道は野田池に向かう。伏石八幡鳥居前に東西に続く大きな道は「馬場道」と称されるようだ。この先、野田池までの遍路道ははっきりしない。野田池手前の蓮池土手に地蔵堂が残るとあるので、成り行きで県道43号を東に越えて蓮池に。
池の北東角にある地蔵堂を確認し伏石中央公園の東端を北に進み野田池に。池の土手に地蔵堂が立つ。脇の石碑には「このお地蔵さまは享保十二(西暦1727)湛明元江和尚と宝暦六(西暦1757)博道覚性沙弥二人のため、また野田池の安全と多くの人々の冥福を祈って建立されたものと思われる」とあった。年号は没年であろう。地蔵堂の脇には手印だけの標石もあった。
松縄東公園の南に2基の標石が続く
野田池から先の遍路道もはっきりしない。古い資料には野田池からまっすぐ北に300m進み右折。そこから東に進み、比較的大きな道を越えると標石があり。そこを左折し北へと向かい松縄東公園の東側に出るとある。松縄東公園への途次には2基の標石がある、とのこと。
●Google Street Viewで標石確認
野田池からの北進は距離が300mほど、とあるので右折箇所は分かるのだが、そこから東進した後に左折する箇所がはっきりしない。その曲がり角を特定するためGoogle Street Viewを活用。資料にある曲がり角の標石と松縄東公園へ北進する道の途中にあるという2基の標石を探す。 松縄東公園から南へとStreet Viewでチェックし2基の標石は確認できた。曲がり角の標石を見つけることはできなかったが、なんとなくルートが見えてきた。
野田池を出発。北に300mほど進み右折し東進。チェックできた標石に北進する道を左折。少し北に進み手印だけの標石を確認。そこから先にT字路。右折し次の角を左折し松縄東公園へと進むと直ぐ、道の右手の家庭菜園端に標石があった。この標石の手印の上には元の石が庇(ひさし)の用に張り出している。あまり見かけない姿の標石だ。
琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石
古い遍路道資料には、松縄東公園から先は北に進み、県道10号を越えて松縄北公園方向へ進むとあるが、県道10号南に建物が建ち先に進めない。取り敢えず建物を迂回し松縄北公園へと進む道を辿るが遍路標識は見当たらない。
古い資料に拠れば、ルート目安となる標石は琴平電鉄長尾線歩行者踏切を渡ったところにあるとのこと。成り行きで道を進み右折・左折を繰り返し線路脇の道筋に出る。道を東に進み琴電の歩行者踏切を渡ると標石があった。
夷神社
踏切を渡った遍路道は琴電の線路に沿って進み、琴電踏切を渡ることなく交差点を直進し、詰田川に架かる木太橋を渡る。道は県道10号とある。川に沿って少し進み、道が南にカーブする手前に夷神社。遍路道は夷神社脇の道を左に入る。
●夷神社
「祭神 八重事代主命 この社には、釣り竿を担ぎ鯛を小脇に抱えた石像がある。漁師たちが守護神として蛭子神(八重事代主命)を祭ったと言われている。
夷神社は蛭子宮(讃岐国名所図会)、蛭子の社(入江神社記)、蛭児大明神(翁謳夜話・讃州府誌)などと称せられている。また全讃史には「何年に祭られたが知らずとあり、寛永以前はこの地は入江にて漁者も住居し、蛭子宮ありて、地名を夷と言う。
寛永十四年(1637)生駒藩の時、この地以北の地を干拓して新田とした」と記されている。
夷神社は海岸線に位置し、地名も夷村と名付けられたと言われる歴史の古い神社である。昭和六十一年に本殿を改築して、夷地区の集会所としても使われている。 平成十年五月 木太地区文化協会」
分かれ股地蔵と標石
夷神社脇の細路を進み車道に出る。遍路道はここを左に折れて北に向かう。少し進むと道が二股に分かれる。その分岐点に小さな地蔵堂と標石がある。石柱には「分かれ股地蔵」とある。地蔵様の右手にある標石には「右屋島 左高松 寛政十」といった文字が刻まれる。
高須公民館脇に標石
道を北に進むと高須公民館の南、隣の建物の間に挟まれるように地蔵尊が祀られる。その高須公民館の北西角に標石。手印と共に「防州大島郡安下庄 嘉永」と言った文字が刻まれる。遍路道は手印に従い右折する。
春日川橋東詰に標石
高須公民館の北を右折し北東進した遍路道はT字路で左折。JR高徳線の軌道を潜り県道155号に出る。そこで右折し春日川に架かる春日川橋に。橋の西詰に地蔵堂。「ぽっくり地蔵」とある。また橋を渡ると東詰にお地蔵さまが石柱上に座る標石があり、手印と共に「右やしま寺 明治三十年」と刻まれる。手印に従い県道を更に東に進む。
新川橋東詰に標石
次いで新川に架かる新川橋を渡ると橋の東詰に標石があり、手印と共に「やし満 右一之宮 東徳島 西高松 北やし満」と刻まれる。遍路道はここを左折し県道155号を離れ県道150号に乗り換え相引川の右岸を北に進む。
●相引川
なんだか面白い名前。チェックするとその由来は、「川の両端がともに海に繋がっているため、潮の満ち引き時には川の水が東西両方向から満ち、両方向へ向かって引いていくことから、相引川と呼ばれるようになったとする説がある。また、東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もある」とあった。
それにしても奇妙な川。その成り立ちをチェックする。Wikipediaに「源平合戦(1185年)の時代には屋島と四国本土はかなり離れていた。江戸前期までは海であり、満潮時には海水が東西から満ち、干潮時には東西に分かれたことから「相引浦」と呼ばれたという。
生駒氏統治時代(1600年 - 1640年)の寛永14年(1637年)、生駒高俊が堤防を築かせ、屋島と四国本土は陸続きになったが、松平氏統治時代(1642年 - 1871年)になって、古来の妙跡を惜しんだ初代藩主松平頼重の命によって1647年(正保4年)に水路が復元され、現在の相引川の形が完成した」とあり、続けて「鎌倉前期の軍記物語の『平家物語』には、「・・・潮の引いています時には、陸と島との間は馬の腹もつかりません。」と記述され、浅い海であったとされている。また、1633年(寛永10年)の『讃岐国絵図』は、屋島は海を挟んで島として描かれている。そして、1789年頃(寛政頃)の『讃岐一円図』は、屋島は川で隔てられた島であり、1808年(文化5年)に測量された『伊能大図』は、現在と同様に相引川を挟んで島となっている」とそのエビデンスを示していた。
相引川・大橋北詰にお堂と標石
相引川に架かる大橋を渡ると北詰に立派なお堂が建つ。お不動さんを祀るとされるお堂の庇の下に4基の石造物とその外側に5基の石柱が残る。
石柱は旧大橋の石柱。「大橋」と刻まれる。4基の石造物はすべて標石を兼ねているようである。そのうち1基は角柱標石、3基は舟形地蔵丁石。角柱標石には正面に「南無阿弥陀仏」、「是よりやしま寺へ十九丁 一のみや江百五十丁」と刻まれる。建立近視者の菩提を弔う石碑のようだ。3基の舟形丁石には「一丁目 享保」「右扁ろミち」「二丁目 享保十」と言った文字が刻まれる、と言う。
双ッ池南の標石
北に進み、琴電潟元駅と、如何にも往昔の干潟の趣を残す駅の東側にある踏切を越え三叉路を北東に進む道をとる。しばらく進むと県道14号と交差。遍路道はここで左折し県道14号に乗り換えて北に進む。
ほどなく右から道が合わさる前面に土手。道の交差する土手下に「四国のみち」の指導標、大きな角柱石碑と共に標石があり、手印と共に、「左やし満道 文政二」といった文字が刻まれる。 傍には「屋島遍路みち案内(弘法の道)」があり、屋島寺への上り、屋島寺から八栗寺へと下る遍路道筋にある12か所の旧跡の案内があった。
●八十五番札所八栗寺への遍路道
この交差部を左へと、屋島の山裾を進む道も遍路道。屋島寺を打ち終えた後、ここまで戻り次の札所八栗寺へと向かう遍路もいたようだ。
遍照院傍に「四国のみち」指導標
標石に従い道を進むと、二ツ池の西側、道の左手のガードレール外に標石がある。大師坐像が浮き彫りとなった結構大きな標石だ。手印と供に「一のみやミち 百三十丁」と刻まれる。
次第に急坂となった道を進み、左手に屋島小学校を見遣り先に進むと、道の右手に遍照院がありその先で道は二つに分かれる。その分岐点に「四国のみち」の指導標が立ち、遍路道は直進。 上述双ッ池土手下の「遍路みち案内」に、遍照院には弘法大師作の仏像が祀られる、とあった。
●八十四番札所 屋島寺表参道●
屋島寺表参道登山口
舗装された道を進み、民家も途切れ林に入る頃、道の左右に3基ほど舟形地蔵標石が続く。「七丁目」「九丁目」、共に「享保十一」と刻まれる、と。
道の左右の未舗装箇所には結構な数の車が停る。屋島寺なのか屋島のお山なのか、ともあれ車をここまで寄せて屋島へと向かうようだ。道はその先で石段となる。
石段付近には標石らしき傾いた石柱、左手の林の中にも舟形地蔵。「右 左」といった文字が刻まれており、標石となっている。
弘法大師加持水
石段となり車の進入を止めた先も幅3mほどの舗装された道が続く。4分ほど歩くと道の右手に多数の石造物があり、石柱に「弘法大師加持水」とあり、案内には「弘法大師が、仏天を供養し誦呪加寺(呪文を読み仏の加護保持を祈とうすること)をしたといわれる水です。
干ばつで各地の池や井戸水が枯れても、この湧水は絶えることがありません。 また、路傍の石碑に字が刻まれていますが、弘法大師の筆跡だと伝えられています」とあった。
数個の自然石に囲まれた湧水がかろうじて残っていた。
弘法大師加持水の先、道の右手に2基の舟形地蔵が並ぶ。
十二丁・十三丁石
加持水からほどなく道の右手に地蔵石仏、次いで4分程あるくと十二丁、更に5分ほどで十三丁の舟形地蔵丁石が現れる。道は相変わらず舗装され、朝の散歩のお山に上り、そして下りてくる多くの人にすれ違う。
不喰梨弘大師
十三丁石から4分程歩くと道の右手に再び石仏群が現れる。中央の等身大坐像の台座には「不喰梨弘大師」の文字が刻まれる。その横、大きな石碑は「くわすのなし これよ里本堂へ三丁 文政六」と刻まれ丁石ともなっている。
不喰梨の案内には「空海(弘法大師)が屋島に登ったとき、梨がおいしそうに熟していたので一つ所望をなさいました、でも持主は「うまそうに見えてもこれは食べられない不喰の梨です」と嘘を言ってことわりました。その後、この梨はほんとうに石のように固く食べられなくなってしまつたと伝えられています」とあった。
梨に限らずこの類の伝説は多い。芋、蕨、栗、柿、胡桃、そして水など。パターンも意地悪な場合は「不自由」に、親切な村人の場合は「恵まれる」といった勧善懲悪の型をとる。 こういった救荒食物や弘法水といった伝説は中世以降全国を遊行した高野聖に拠ることが多いと言う。
畳岩
不喰梨から数分で十五丁の舟形地蔵丁石。そこから5分ほどで畳岩。西行法師が屋島で「宿りしてここにかりねの畳岩,月は今宵の主ならぬ」と 詠じたとされる。屋島の頂上部を構成する讃岐岩室安山岩という固い岩石の発達した板状節理に拠る。
因みに屋島の美しい台形姿を構成するのは山頂部の堅い讃岐岩質安山岩は固く侵食に耐え元の姿を留める一方、中腹より下の花崗岩質は削れられなだらかな斜面となった故、と言う。 畳岩の直ぐ先には2基の舟形地蔵が並ぶ
名号石
数分進むと不動明王の石仏、さらに数分で自然石に「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号石。前述「屋島の遍路みち案内」には、「地元の人はこの石の前でこけると腹がいたくなるから転ばぬようにせよ」とのいいつたえから、この石を腹くわり石と呼んでいる」とあった。屋島には弘法大師が仏の名を刻んだ名号石が3基あるとのことだが、これはそのひとつ。
徳右衛門道標
西国観音霊場二番札所の石仏をみやりながら進み右に折れると屋島寺の山門前に石段。石段を上る途中、右手に徳右衛門道標。「是より八栗寺迄一里 右八くり道 寛政十二」といった文字が刻まれる。この道標、常の徳右衛門道標と大師坐像の姿が異なり椅子にお座りになっていなかった。
それよりなにより、「右八くり」の示す方向は?先に建つ仁王門を越えると右折し屋島南嶺裾を南西に続く道がある。その道を指すのだろうか。はっきりしない。
八十四番札所 屋島寺仁王門
徳右衛門道標の先ににに仁王門。八十三番札所 一宮寺より八十四番番札所 屋島寺までの旧遍路道を繋いだ。次回は屋島寺から八十五番札所八栗寺までの旧遍路道を辿る。
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