2015年3月アーカイブ

月例の田舎帰省の途中、京都で途中下車し「琵琶湖疏水」を大津の琵琶湖取水口から京都・蹴上まで歩いてみようと思った。きっかけと言うほどのきっかけはないのだが、結構昔に仕事で京都の岡崎にあった京都のスタンフォードセンター(現在は同志社大学に移っていると聞いている)に行ったとき、近くにあった蹴上のインクラインを歩き、それが運搬船を琵琶湖疏水に繋げる傾斜鉄道であったとか、先日友人と南禅寺傍の日向大神宮から京都一周トレイルのハイキングコースを大文字焼の火床を経て銀閣寺に下ったのだが、そのとき南禅寺の水路閣を訪ね、煉瓦造りの水路橋を走る水を見て、それが琵琶湖疏水からの流れである、といったことを知り、そのうちに歩いてみたいと思っていたことにある。
とはいうものの、琵琶湖疏水そのものについても、その意義など前もって調べることもなく、歩いていればあれこれ案内もあるだろうと、例によってのお気楽なスタイル。タイトルには「琵琶湖第1疏水」を歩く、などと書いてはいるが、これも散歩をはじめて琵琶湖疏水には第1疏水、第2疏水、第2疏水連絡トンネルがあるのがはじめてわかって付けたものである。
琵琶湖疏水散歩のルートも詳しく調べることもせず、始点の大津の取水口から終点の蹴上までには4つの隧道があるようなので、水路に沿って成り行きで進み、隧道箇所は山越えの道があれば道を上り、迂回路があればそこを利用し、道が無ければ藪漕ぎでもして尾根に這い上がればいいか、といった行き当たりばったりのルーティング。ことほどさように誠にお気楽に琵琶湖疏水散歩をはじめることになった。


本日のルート;JR大津駅>琵琶湖第1疏水取水口>三保ケ崎水位観測所・三保ヶ崎量水標>琵琶湖第1疏水揚水機場>大津閘門と制水門>「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内>琵琶湖疏水案内>第1疏水第1トンネル東口>三井寺南別所・両願寺の石碑>旧神出>長等神社>小関越えの道標>等正寺の測量標石>小関峠>分岐点>第1竪坑へと道を下る>第1竪坑>国道161号・西大津バイパス>第2竪坑>第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)>緊急遮ゲート>藤尾橋>測水橋>洛東用水取水口>柳山橋(第2号橋)>四ノ宮舟溜り>諸羽トンネル>東山緑地公園>第2疏水トンネル試作物>諸羽舟溜り>諸羽トンネル東口>安朱橋(第4号橋)>安祥寺川水路橋>安祥寺橋(第6号橋)>妙応寺橋(第7号橋)>天智天皇陵>第8号橋・第9号橋>山ノ上橋(第10号橋>第1疏水第2トンネル東口>第1疏水第2トンネル西口>日ノ岡取水場・日ノ岡舟溜り跡>第11号橋>第1疏水第3トンネル東口>「本邦最初鉄筋混凝土橋」碑>藪漕ぎ撤退>大名号碑>日ノ岡宝塔様縁起>日ノ岡峠>九条山浄水場>日向大神宮参道に合流>第1疏水第3トンネル西口>九条浄水場ポンプ室>琵琶湖第2疏水合流点>蹴上舟溜り跡>合流トンネル入口>疏水第4トンネル>インクライン・運輸船>山ノ内浄水場導水管>合流トンネル出口>洗堰>蹴上発電所水圧鉄管>第4トンネルからの水路>南禅寺トンネル>南禅寺水路閣>蹴上・ねじりマンポ

JR大津駅
新幹線を京都駅で下り、大津駅まで引き返し、琵琶湖疏水の取水口のある琵琶湖畔に向かう。駅前の案内には琵琶湖疏水取水口のある大津港への道筋には「北国街道」の案内もあるのだが、なにせ琵琶湖疏水を京都まで歩き、本日中に田舎の愛媛に戻ることを考えれば、寄り道する気持ちの余裕もなく、疏水取水口のある国道161号に架かる新三保ヶ崎橋に急ぐ。

琵琶湖第1疏水取水口
新三保ヶ崎橋に立ち、琵琶湖疏水取水口を眺める。幅50mほどもありそうな大きな取水口である。大津港マリーナとしても使われているようでヨットも係留されている。
タイトルに「琵琶湖第1疏水取水口」と書いたが、イントロでメモしたように、疏水散歩のスタート地点に立ったときは単に「琵琶湖疏水取水口」としか思っていなかった。大津から京都への疏水散歩の途中にある案内により、琵琶湖疏水には第1疏水、第2疏水、第2疏水連絡トンネルがあることを知って付けたものである。
取水口のある大津港は、かつては遠浅の砂浜であったようだが、疏水工事の土砂で埠頭、と言うか疏水取水のための堤防を造ったとのことである。

○琵琶湖第2疏水取水口、第2琵琶湖疏水連絡トンネルの取水口
で、この新三保ヶ崎橋が架かる取水口は第1疏水の取水口。それでは第1疏水、第2疏水連絡トンネルの取水口は?メモの段にチェックすると、第1疏水取水口から埠頭を隔てたお隣にあった。事前準備無しの入り当たりばったりでは後の祭りが多いのだが、今回もその轍を踏むことになった。

三保ケ崎水位観測所・三保ヶ崎量水標
新三保ヶ崎橋から「琵琶湖第1疏水取水口」を眺めたとき、左手に疏水施設らしきものが水中に建っていた。取水のポンプアップ施設かとも思い、確認のため橋を渡り、埠頭を疏水施設らしき構造物に向かったのだが、柵で囲まれ近づくことはできなかった。
気になってメモの段階にチェックすると、それは「三保ケ崎水位観測所」であった。簡単に言えば、量水標を基準に琵琶湖の水位を計測する施設である。現在琵琶湖では平成4年(1992)の4月以降、片山(伊香郡高月町)、彦根市、大溝(高島郡高島町)、堅田(大津市)、そしてこの三保ケ崎(大津市)の5ケ所の量水標の平均値で琵琶湖の水位を測定しているとのことである。
ちなみに、この三保ケ崎水位観測所であるが、琵琶湖疏水の計画段階で取水予定地の調査のため、明治14年(1881)に三保ヶ堰量水標が設置され、湖水の水位増減を測定しはじめたとのことである。

琵琶湖第1疏水揚水機場
橋の西側に石組みと煉瓦造りの3つのアーチ水門をもつ建物がある。水路に沿って前後2つのハーフゲートがあり、水路と大津取水口を遮断できるようになっている。散歩の当日は特段に案内もなく、如何なる目的の建物か不明であったが、チェックすると揚水機場とのことであった。
この揚水機場は琵琶湖の水位が下がり過ぎた時、琵琶湖疏水に揚水する目的で昭和29年(1953)に設置された。揚水の基準は琵琶湖の水位が「-40cm」になった時ポンプ揚水をはじめると言う。

○琵琶湖の水位
ここでちょっと疑問。「琵琶湖の水位が-40cm」とあるが、それでは琵琶湖の水位って?チェックすると、歴史的には明治7年(1874)に琵琶湖からの唯一流れ出す、瀬田川の瀬田の唐橋傍に設けた鳥居川観測点を基準水位(水位ゼロ)としたと言う。B.S.L.(Biwako Surface Level)と表された観測点は、当時、オランダ人技師のエッセルの指導のもと、これ以上水位が減ることはないだろう、と推測される地点に設けたもの、と言う。
当時は正確な標高点を測定する基準もなく、B.S.L.(琵琶湖基準水位;水位ゼロ)がT.P. + 84.371mと決まったのは後のこと。東京湾霊岸島での潮位観測を終え、それをもとに明治17年(1884)にT.P.(Tokyo Peil;東京湾平均海面;peilはオランダ語で「水位」の意味)を決定し、明治24年(1891) 「日本水準原点」が設置されてからのことである。因みに琵琶湖基準水位である84.371mとは大阪城の天守閣の高さと同じと言う。
○水位ゼロ
現在琵琶湖水位ゼロ(満水位)は洪水、渇水時のB.S.L の84.371m.±0.3mと設定されているとのことである。我流解釈ではあるが「-40cm」で揚水するとは「84.371m.マイナス0.3m」より0.4m下がった水位のときに揚水する、ということだろう。平成6(1994)年9月15日、琵琶湖水位観測史上最低の-123cmとなった大渇水ではポンプの稼動で危機を乗り切った、とのことである。

大津閘門と制水門
水路脇を進み、京阪電鉄石山坂本線を越えた先の橋の向こうに、鉄製のゲートが設けられ、煉瓦や石で構築された立派な施設がある、鉄製のゲートの右手には塵芥の入流を防ぐ柵を備えた水門が見える。ここも特に案内はなく、水路には前後ふたつのゲートが設けられ、その先に柵を備えた水門からの流路が合わさる石組みの合流点がある。
これまた、如何なる水路施設かとチェックすると、水路のゲートは閘門であり、柵を備えた水門は制水門であった。
○閘門
閘門は散歩を初めて知った水路施設。日本最古、というか、規模はともあれスエズ運河より古く造られた閘門である埼玉の「見沼通船堀」や、小名木川の「扇橋閘門」など散歩の折々に出合う。
閘門は水位の異なる川を繋ぐものである。見沼通船堀は水位の異なる見沼代用水西縁と見沼代用水西縁東縁を、扇町閘門は隅田川と荒川を繋ぐ施設である。低い水路側から高い水位の川に進むには、簡単に言えばゲート内に入り、水を注水し水位を上げて先に進む。逆の場合、高きから低きに進む場合はゲート内に入り、水を排水し水位を下げて先に進む、といったものである。

この大津閘門も基本は同じ。琵琶湖の水位が低下した場合に備え、琵琶湖疏水、正確にはこの「琵琶湖第1疏水」は閘門を境に、水面を1.5m低くしてあるとのこと。B.S.L.(琵琶湖水位ゼロ)より1.66m低いところを川底とし、これに水深1.5mの水深を保ったとも言う。疏水を往来する船は閘門のゲートに入り、ゲート扉体に設けられたスライドゲートを開閉することにより注排水を行い、先に進む。
○制水門
制水門は琵琶湖第1疏水の水位調節機能を行うため、取水口から疏水に水を取り込んでいる。閘門の琵琶湖側の水深は3mとのこと。琵琶湖疏水の通船は昭和23年(1948)に廃止されてはいるが、大津閘門はそのまま残され、制水門から水を今も取り込んでいる。






水路は一直線に長等山に向かう
掘割となった水路は一直線で正面の山に向かう。取水口から先の水路を「大津運河」とも称するようである。正面の山は長等山と呼ばれるようだ。時間もなく、今回は疏水に限定しょうとパスした三井寺の山号でもある。在原業平の読んだ「世の中をいとひがてらに来しかども憂き身ながらの山にぞありける」に由来するとか。

「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内
冬枯れで水量も少ない疏水に沿って進むと「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内があった。「第1トンネル入口の扁額」は「氣象萬千(きしょうばんせん)伊藤博文 筆 様々に変化する風光は素晴らしい」とある。
チェックすると、范仲淹の「岳陽楼記」の一節とあった。范仲淹は北宋の政治家・文人、後楽園の由来ともなった、「先憂後楽」もこの「岳陽楼記」である。

案内には第1疏水の流路、散歩コースと史跡が示されており、一安心。デジカメに写真を撮りながらも、大雑把な立ち寄りポイント、そしてルートを頭に入れる。
さらに、案内には、琵琶湖疏水の説明があった。案内に拠れば、「琵琶湖疏水は、明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた京都の復興を目指して、明治18年(1885)年に建設を始め、明治23年(1890)に第一疏水が完成しました。
疏水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使われ、さらに日本初の事業用水力発電に用いられました。生み出された電力によって、工業が発達し、日本発の電気鉄道が走るなど、京都はにぎやかさを取り戻していきました。琵琶湖の豊かな水を引いたことは、京都の発展をもたらしました」とある。
○水車動力
ここではじめて琵琶湖疏水の意義、概要などがわかった。いくつか気になることが出てきた。「明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた」とは?チェックすると、人口は遷都後には三分の一が流出したとの記事もあった(京都大学新聞)。これなど典型的な指標かとも思う。
○多目的用途
また、「疏水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使われ、さらに日本初の事業用水力発電に用いられました」とあるように、疏水は多目的疏水であったようだ。
○水車動力・水力発電
次いで気になったのは目的の最初にある「水車動力」。水車と産業振興の因果関係は?チェックすると、「京都経済同友会」のなどに拠ると、当初の目論見では工業推進のため疏水の水を活用し、大規模な水車による工業推進を図ったとのことである。
しかしながら、大規模な水車設置は京都には適しないと判断し、水車動力の計画は変更、その代案として浮上したのが水力発電所建設とのことであった。説明には「さらっと」書いてあるが、「日本初の事業用水力発電々」の背景にはこのような事情もあったようだ。
なお、水車も完全に無くなったわけではなく、琵琶湖疏水分線(支流)である通称「哲学の道」沿いに精米・製綿・撚糸・鍛冶の用途で設置され、明治36年(1903)にはその数21か所であった、とのことである。

○電気鉄道
「さらっと」と言えば、「生み出された電力によって、工業が発達し、日本発の電気鉄道が走るなど」との説明も、あれこれチェックすると、事はそれほど簡単ではなかったようである。日本初の発電所が建設されたとは言え、明治の中期、京都に電力需要がそれほどあったわけでもなく、採算がとれなかったよう。
ために、供給先を工業化とは関係のない一般家庭への発電・供給をおこなっていた電燈会社に売電をおこなうが、それでも採算ラインには程遠く、それではと、大口供給を自ら設立したのが「日本初の電気鉄道(路面電車)」。明治28年(1895)のことである。
○電気事業の発展
その後、時代の推移とともに京都の電力需要も増大し、明治の後半には電力需要が疏水収入の中核に発展してゆく。またこの時期京都の工場立地数は東京、大阪を上回ったほどであり、説明の通り疏水は「京都の発展」をもたらしたとのことである。

琵琶湖疏水案内
扁額の案内の少し先に、「琵琶湖疏水案内」があった。説明には「琵琶湖疏水は、大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通り、京都市蹴上へと流れる人工の水路です。延長約9キロメートル。京都市の飲料水、発電、物資輸送、農業用水などの多目的利用のために企画されました。
第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邊朔郎の指導のもとに着工、同23年に開通。第2疏水は明治45年(1912)に完成。工事が国家的レベルの事業であったことを示すように、隧道の各洞門には伊藤博文を始めとする著名人が揮毫した扁額が掲げられています」とある。
「琵琶湖第1疏水取水口」のところで、散歩をはじめたときは単に琵琶湖疏水と思っていたのだが、歩いてみて、琵琶湖疏水には第1疏水、第2疏水があると知ったのはこの案内を見てからである。また、第2疏水をこの場でチェックしていると、第2疏水連絡トンネルがある、ということも、この場ではじめてわかった、といった為体(ていたらく)である。
それはそれとして、疏水の延長は約9キロとのこと。12キロと書いた記事もあり、京都市水道局の資料をチェックすると、取水口から蹴上上までが8,180m,蹴上下の南禅寺船溜までは8,762mであった。それでは取水口と蹴上の上部までの高低差はどのくらいかチェックする。4mとか3.4mとかいろんな記述がありはっきりしないが、ともあれ、3キロを1m下がるといった緩やかな勾配で進むようだ。実際水路を見ても、ほとんど水平に見えるほどである。
○田邊朔郎
また、説明に「青年技師田邊朔郎の指導のもと」とある。青年技師って何歳?チェックする。文久元年(1861)生まれ。明治10年(1877)工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学し、同16年卒業。卒業論文が『隧道建築編』、『琵琶湖疏水工事編』ということもあり、疏水工事を企画していた京都府知事・北垣国道に請われ京都府御用掛となり、明治20年(1887)琵琶湖疏水工事すべての責任者となる。ということは、責任者となったのは26歳ということ、か。
因みに、後に北垣知事の女婿となり、北海道庁長官であった北垣長官のもと北海道官設鉄道の計画・建設にあたるなどを経て、京都大学工科大学長就任。退官後も大阪地下鉄計画など各地の鉄道建設計画に関与した。
○北垣国道
明治の官僚・政治家。高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任した。
第三代京都府知事の時、琵琶湖疏水事業を推進する。「京都大学新聞」に拠れば、「「東京遷都」後、京都は人口の3分の1が流出し著しく衰退。彼はその京都復興手段に琵琶湖疏水を選んだ。もともと琵琶湖疏水は明治時代に突然現れたのではなく、江戸時代初期よりさまざまな開削計画が浮上していた。東や北から京都へ物資搬入するには人馬で山を越えねばならず、そのコストは物価高となって京都にはね返る。琵琶湖から京都へ水を引く利はまず運送にあり、そして近代化の時代には工業のための水車動力となった」とある。
琵琶湖疏水建設は多目的用途を目したものであり、水車動力は発電所建設に変更するといったことは既にメモしたのでここでは省略するが、計画実現には薩長の思惑(疏水管轄の農商務所は薩摩閥、土木管轄の内務省は長州閥)、また疏水計画に反対する滋賀県との交渉に苦慮したようである。滋賀県は琵琶湖の渇水期に疏水によって更に水量が減少するわけで、滋賀の人にとっては死活問題である。

これって、四国の吉野川の分水を求めメリットを得る四国3県(高知・香川・愛媛)と、季節による水量の変動が激しい暴れ川の吉野川によって洪水被害、分水によって更に渇水といったデメリットが加速する徳島県との鬩ぎあいを想起させる。詳しくは吉野川総合開発計画をご覧いただくことにして。ともあれ、 困難な折衝ののち、大阪・滋賀と水害予防工事費を京都府が負担することで合意し、琵琶湖疏水建設への道が拓けた、とのことである。

第1疏水第1トンネル東口
取水口から545m。疎水の第1トンネルの大津口に。トンネルはここから山科の出口まで2,436m山中を進む。鉄柵で囲われ近くに下りることはできないが、煉瓦造りの美しい造形美である。ゲート上には案内にあった「扁額」も見える。「扁額」と言えば、トンネル内壁にも「寶祚無窮(ほうそむきゅう)北垣国道 筆 皇位は永遠である」と刻まれた扁額がある、と言う。
○鉄扉
ところで、東口ゲート上の扁額の文字を注意して見ていると、トンネルにはゲートが付いている。何らかの事情でトンネルを閉じる必要があるのだろう、それって流れを止めることではあろうとは思いながらチェックすると、これも滋賀と京都の洪水時の対処を巡る攻防が見えてきた。
明治28年(1896)、琵琶湖一帯は未曽有の大雨に見舞われた。9月8日には分量水標の水位は327cmに達した。この水位は明治18年(1885)の洪水より55cmとも60cmを越えるものであった。琵琶湖疏水の制水門の扉は明治18年(1885)の大洪水の水位より45cm高く造っていたが、洪水はそれを乗り越え疏水に流入した。京都側は京都へ洪水の流入を防ぐべくトンネル入り口を鉄板や木材で塞いだ。9月13日は更に水位が増し、分量水標の水位は388mを示し、大津は浸水し、閘門の開放を求めることになる。 この事態に際し、如何なる対処がなされたか不明ではあるが、その結果としてできたのがこの鉄扉である。鉄扉には4箇所の孔を造り、水位上昇し鉄扉を閉鎖しても、水が疏水を流れることになった。もっとも、その流量は京都側が必要とする水量、水力発電に支障がない、と記されていた。
滋賀県は琵琶湖疏水建設の交渉に際し、水門ゲートの開閉権を主張した理由が、何となく分かったように思える(結果的には京都側がその権限をもつことになったが)。その後、昭和47年(1972)から始まった「琵琶湖総合開発」などにより、瀬田川の浚渫、いくつかの洗堰、バイパス水路の設置などにより、異常水位は調節できることになり、この鉄扉は現在使われることはないようではある。

三井寺南別所・両願寺の石碑
長等山に潜った辺りで疏水に沿って続いた道は切れ、水路と離れ、扁額案内にあったルートに従い山裾の道を左へと折れる。案内にあった次のルート上の目安は長等神社である。
長等神社に向かって先に進むと、古き堂宇があり「三井寺南別所両願寺」と刻まれた石碑がある。
その石碑のすぐ先にも正面には「三井寺南別所両願寺」、左側に「かたたげんべゑ  くびのてら」と刻まれている。どこにも説明もないので、とりあえずそのときは「首の寺」ってなんだろう、と思って通り過ぎたのだが、チェックすると、「堅田源兵衛 首の寺」とのこと。堅田の漁師である源右衛門が蓮如のために差し出した息子である源兵衛の首、のことであった。
由来によれば、当時延暦寺より仏敵として攻撃の対象とされた蓮如が、大切な親鸞聖人の木像(御真影)を三井寺(延暦寺)に預け在所を転々とする。三井寺は延暦寺で内部分裂が置き、山を下った僧侶が建てた寺であり、山門(延暦寺)と寺門(三井寺)に分かれ抗争が続いていたため。敵の敵は味方ということで御真影を預けて旅立ったのだろう。
その後、御真影を祀るお寺もでき、さて、三井寺に御真影を返してもらおうとしたのだが、三井寺は、二人の人の首をもってこなければ返さない、と。これを聞いた堅田の源右衛門は息子の首を切り落とし、自分の首とふたつ差し上げるので御真影を返してほしいと願ったとのこと。さすがの三井寺もこの行動、というか信心故に御真影を返した;というお話。ロジックはさっぱりわからないが、とりあえずこれが「かたたげんべゑ  くびのてら」のお話である。

旧神出
ほどなく朱色の楼門をもつ長等神社前に。楼門脇に案内があり「旧神出」とあり、「長等神社は、天智天皇の頃に、日吉神社から素戔嗚尊、太山咋命の二神を勧請したことに始まりますが、この二神は長等山の山頂に勧請されました。のち、天喜二年(1054)に至り、現在の社地に移り、これにより神出の地名が起こったと伝えられます」といった説明があった。

長等神社
神社のHPに「長等神社は、西暦667年頃の天智天皇の御世、近江大津宮の鎮護として長等山岩座谷の霊地に須佐之男命を祭祀されたことを起源とする1300年の歴史を持つ神社です。
後に園城寺(三井寺)の守護神として勧請合祀された大山咋大神(日吉大神)など五柱の主祭神を祀る神社として、 繁栄と安定を願う多くの皇族の方々や著名な武将に愛されてきた大社です。
当神社は、大津市指定文化財である豪華な朱塗りの楼門、全国的にも類例の少ない五間社流造の本殿、 それを取り囲む回廊など、見所の多い神社です」との説明があった。

豪華な朱塗りの楼門は明治37年(1904)に室町時代の様式にのっとった秀作で、明治時代の楼門の代表作とされる、とのことである。
○平忠度の歌碑 (平清盛末弟)
境内に平忠度の歌碑がある。「さざなみや  志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」と刻まれる。説明には。「平清盛の弟、平薩摩守忠度の詠んだこの歌は有名で、「平家物語」や「千載和歌集」にみえている。平忠度は一度訪れたであろう平清盛を想い起こして、平家都落ちの際に詠んだのではないかと伝えられている。
この歌碑は長等山の山上に建てられている碑より、多くの人々に見て頂くために、その歌碑を模して、当神社の境内に建碑したものである(昭和57年)」とあった。
○平忠度
平忠度って魅力的な武将。熊野古道散歩のとき、「薩摩守忠度の生まれたところ」との標識に出合った。この地で生まれた女性が、鳥羽上皇の御所で働き平忠盛に見初められ忠度を生む、忠盛の出世とともに、忠盛の嫡男・清盛の弟として忠度も出世する。
歌碑は倶利伽羅峠の合戦に敗れ西に落ちる途中、忠度は京に引き返し、藤原俊成に「勅撰集がつくられつときは、一首でも加えて欲しい」と託した歌。世を憚ってか読み人知らずで千載和歌集におさめられた、と言う。 因みに、ただ乗り=無賃乗車のことを何故に「薩摩守」と言うのかなど、忠度のあれこれに関心がある方はこちらをご覧下さい。

小関越えの道標
次のポイントは案内にあった「小関峠」。Google Mapで山科へと抜ける道筋を確認しながら進むと三叉路に当たった。そしてそこには正面に「蓮如上人御旧跡」、左右に「かたたげんべゑ くびのてら」と刻まれ、矢印で「本願寺 御抱所 等正寺」と示される。チェックすると、どうも、源兵衛の首は先ほどの両願寺だけでなく等正寺にも祀られると言うし、それ以外にも、堅田の光徳寺にも祀られるとも伝わるようだ。
また、この石碑の脇に正面に「小関越」、右側に「右 三井寺」、左側には「左 三井寺」と刻まれた道標が建つ。道標脇にあった案内には「大津市指定文化財有形民俗文化財 石造小関越道標 ;北国海道(西近江路)から別れて藤尾で東海道に合流する約五kmの道は、かつて東海道の間道として小関越と呼ばれていました。
この道標が立つのは、小関越から園城寺(おんじょうじ)(三井寺)へ向かう道の分岐点にあたります。江戸時代中頃の建立で、高さは約95cmあります。三面に、「左り三井寺 是より半丁」「右小関越三条五条いまく満(ま) 京道」「右三井寺」と刻まれています。
三井寺は西国三十三所観音巡札の第十四番札所として多くの参詣者がありました。刻銘の「いまくま」は第十五番札所京都の今熊野観音寺のことで、この道が巡札道であったことを示す資料ともなっています。昭和50年1月大津市指定有形民俗文化財に指定されました」とあった。

等正寺の測量標石
「小関越」の道標に出合ったことで、小関越えのオンコースであることを確認し、峠へと向かう道、といっても住宅街を抜ける舗装道ではあるのだが、その道をしばし進むと六地蔵が並び、その先に「「南無阿弥陀仏」と刻まれた大きな石塔が建つ。散歩の時は、何気なく写真を撮ったのだが、メモする段になり、この石塔の土台石は測量標石であり、測量標識を示す「不」に似た刻印もあったようだ。
この測量標石を知るにつけ、琵琶湖疏水9キロ弱を高低差3.4mで繋いだ測量技師が気になった。チェックすると島田道生という測量技師が登場した。工事責任者の田辺朔朗とともに北垣知事の疏水事業推進の両輪として活躍した人物である。
○島田道生 島田道生はクラーク博士で知られる北海道開拓使仮学校第一期生として卒業し、北垣知事が県令であった高知県に勤務していたが、京都府知事となった北垣氏に請われ京都に移り、上でメモしたように疏水事業が始まる以前の明治14年(1881)には、三保ヶ崎量水標を設置するなど、疏水事業の開始に向けて琵琶湖疏水基本構想の際の測量図作成をおこなった。
疎水事業が開始されると、島田道生が主導する測量は正確を極め、左右から掘り進められた2436mの第1トンネルが開通した時は高低差1.2mm、中心差7mmの違いしかなかったと伝わる。
その後の島田道生は田辺朔朗と同じく、北海道長官に異動した北垣国道を追うように北海道に移った。

小関峠
峠への道を進む。峠道とは言っても生活道路のようであり、舗装されている道は車の往来もある。道を上るにつれ、左手には沢があるようで、薄暗くなんとなく「湿った」雰囲気の道ではある。
峠近くに小関加圧ポンプ場。通常標高の高い配水池に水を導送水するため加圧する施設。配水池でもあるのだろうか、などと思いながら先に進み峠に到着。特に標識はないが、二体のお地蔵様が祀られる祠が峠かと思われる。この祠は「峠の地蔵さん」として地元の人たちが平成元年に別の地にあったお地蔵様をこの地に移し祠を建てた、とか。

分岐点
小関峠の祠を少し進み、空が開けたあたりで道は二手に分かれる。分岐点には「小関越えの道分岐点」の案内があり、琵琶湖疏水は左と示されてあるので道を間違うことはない。
○藤尾奥町配水池
草の繁る左手に下りてゆくと、右手に鉄柵に囲まれた巨大な施設が見える。なんとなく水路関連施設だろか、などと想うのだが何の案内もない。チェックすると、この施設は「藤尾奥町配水池」であった。下りの道に迫るような圧迫感のある構造物は巨大水槽のようである。ということは、先ほどの小関加圧ポンプ場はこの配水池に送水する施設であったのだろうか。

第1竪坑へと道を下る
「藤尾奥町配水池」を越え、右手は山の斜面、左手は段々の畑や資材置き場が続き、古道を歩くといった趣はない、道を下りながら、案内地図でチェックした、この辺りの道の途中にあるであろう「第1竪坑」を見逃さないように、注意しながら道を下ると、左手に如何にも「竪坑」といった施設が見えてきた。

第1竪坑
鉄柵に囲まれた施設の中に円形の塔が見える。それが第1竪坑であろう。鉄柵に掛けられた案内には「琵琶湖疏水第1竪坑 第1疎水の第1トンネルは大津の三井寺下と藤尾の両側から掘り進められた。同時に藤尾川から約740m(第1トン年ル全長の三分の一の地点)のところに第1竪坑を掘り下げ、その底から大津の三井寺下・藤尾の東西両側出入口に向けて掘り進め、東西のトンネルが貫通した。このようにして明治23年(1890)に完成した第1トンネルは当時日本で一番長いトンネル(全長2,436m)となった。
竪坑とは地表から垂直に掘り下げた坑道で、工事の促進・換気・採光のためにつくられた。竪坑の深さは約50m、地上から5.5mまでの抗口上部は、直径5.5mの円形、それ以下の 部分は3.2m x 2.7mの楕円形になっている。
琵琶湖疎水工事の責任者であった田邊朔郎は、昭和14年(1939)工事を振り返って、「一番苦しんだのは竪坑だが、同時に安全を与えてくれたがのあの竪坑」と語っている。
なお、平成8年(1996)には第1疏水のトンネル(第1、第2、第3)の各出入り口、第1竪坑、第2竪坑、第11号橋(本邦初鐵筋混凝土橋),山ノ谷橋、蹴上インクライン、南禅寺水路閣の12箇所が国の史跡に指定された」とある。

案内には、ルート地図とともに、第一隧道第一シャフト平面図、田邊朔郎の説明(1861(文久元年)~1944(昭和19年)明治10(1877)年工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学し、同16年卒業。卒業論文が琵琶湖疎水にかかわるもので、卒業してすぐに琵琶湖疎水工事のために京都府に採用され、同20年琵琶湖疎水工事全ての責任者となった)があった。

案内にある12か所の国の史跡はチェックポイントとして記憶に留めながらも、案内にあった「一番苦しんだのは竪坑だが、同時に安全を与えてくれたがのあの竪坑」とのフレーズがちょっと気になった。
チェックすると、竪坑開削着工が明治18年(1885)8月6日。約50m下のトンネル水路予定地まで掘り終えたのが明治19年(1886)4月17日。当時は50m掘り終えるために8カ月と11日、日数で言えば255日を必要としている。1日20cmといった進捗状況である。

その主因は、当時は電力もなく、カンテラの灯りのもとノミとハンマーによる手掘りで開削が行われということもあるが、最大の問題は予想を超える湧水であったようだ。湧水対策に苦慮し、蒸気動力のポンプが工事後半から活用されるようにはなるが、アドバイザーが解決法を求めて渡米したほどである。フレーズにある「一番苦しんだ」とはこのことを指すのだろうか。
また、「同時に安全を与えてくれた」というのは、換気・採光,また土砂の排出などは当然のことではあろうが、あれこれチェックしていると案内とは異なり、トンネルの掘削着工が第一竪坑の完工を待ってはじめられたといった記事があった。
○竪坑と第1トンネル工事着工
上の案内には「第一疎水の第一トンネルは大津の三井寺下と藤尾の両側から掘り進められた。同時に(中略)第一竪坑を掘り下げ、その底から大津の三井寺下・藤尾の東西両側出入口に向けて掘り進め」とあるが、ある記録では第一竪坑の完工が明治19年(1886)4月17日。第一竪坑から大津口に向けて掘削着工が明治19年(1886)4月17日。大津口の掘削着工が明治19年(1886)9月26日。
また、第1竪坑口から藤尾口への掘削が着工されたのが明治19年(186)4月17日。藤尾口からの工事着工されたのが明治19年(1886)9月2日、とされている。
これを見る限りでは第1トンネルの大津・藤尾口からの工事着工は第1竪坑の完工を待って工事がはじまっている。第1竪工での経験を生かしたのか、トンネル水平部の平均掘削距離は1日1.5mのスピードで進んでいる。これが、「一番苦しんだのは竪坑だが、同時に安全を与えてくれたがのあの竪坑」の意味するところだろうか。単なる妄想。根拠なし。
因みに、大津口と第1竪坑1,696mが貫通したのは明治22年(1890)2月27日である。

国道161号・西大津バイパス
右手に竹藪、左手に畑を見ながら小径を下ると民家も増え、普門寺の甍の向こうに国道161号・西大津バイパスの橋台が見えてくる。西大津バイパス橋台のほぼ下にある小祠で休憩しながら、次の目的地である第1竪坑の案内に載っていた「第2竪坑」をチェックする。


第2竪坑
今までの案内地図には記載されていないのでGoogleで検索。どうも西大津バイパスの東の民家の裏手にあるようだ。第1トンネルの竪坑であるからには、トンネル西口までの何処かあるだろうからと、Google Mapで第1トンネル藤尾口(西口)と大津東口を結んだ線あたりをチェックすると、西大津バイパスに沿って流れる小川の北のように思える。
川に沿って進む車道を歩きながら川の北を注意しながら進み、川の北に入る道をチェックしながら進むと、南に下る川が少し西に向かう手前の民家の奥に竪坑らしき施設が目に入った。
場所は民家の奥で先に進むことはできない。道に戻り、民家脇に川のコンクリート補強堤が川に沿って続く。狭い背の上を注意深く進み、川向こうに第2竪坑が見える場所に出る。
鉄柵で囲まれており中に入ることはできない。また特に案内も見つからなかった。あれこれチェックするとこの竪坑の主目的は換気・通風。工事途中で西口から300mほど掘り進んだ辺りで急に換気が悪くなったため、送風機の新設より低コストであった坑道掘削が開始された、とのこと。工期も1ヶ月ほどで、第1竪坑掘削で悩まされた湧水トラブルもなかった、と言う。

第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)
Google Mapで確認しながら第1トンネル西口に向かう。左右を緑に囲まれた美しい水路の先にトンネル吐口がみえてきた。鉄柵で中に入ることはできないが、道との比高差があまりないので、「扁額」もはっきり見える。
ここにも「扁額でたどる琵琶湖疏水」があった。扁額は「廓其有容(かくとしてそれかたちあり) 山縣有朋 筆 疎水をたたえる大地は、奥深くひろびろとしている」とある。
また、トンネル大津口で見た「扁額でたどる琵琶湖疏水」と同じく、疏水ルート地図と疏水に関する案内もあった。前の案内と重複する部分は省略し大枠をまとめると「疏水工事の中でもっとも難しかったのは、長等山を貫く7第1トンネルで、トンネル出入り口(三保ヶ先・藤尾)と竪坑(シャフト)から掘り勧められた。竪坑から大量の水が湧き出し、工事は困難を極めた。トンネルはほとんど人力だけて掘られた。
建設当初3つのトンネルがあり、各出入り口には明治の元勲が文字を書いた扁額(門戸等に掲げる横に長い額)が掲げられている」 とあった。案内は第1竪坑で補足説明したことでもある。

当日は誠に、お気楽に歩いただけではあったのだが、メモの段階であれこれ気になることが多く、メモが結構長くなってしまった。琵琶湖第1疏水散歩の第一回のメモはここまでする。
六十五番札所・三角寺から地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へ下るピストン散歩の復路のメモ。往昔、六十五番札所・三角寺から奥の院・仙龍寺にお参りした遍路は、地蔵峠を下った先にある茂兵衛道標から右に折れ、法皇山脈の南麓をトラバースし「峰の地蔵尊」に至り、そこから土佐街道と一部重なりながら法皇山脈の北麓の平山集落に下り、六十六番札所である讃岐の雲辺寺へと向かった、と言う。
その遍路道の道筋については、詳しい資料も見つけられなかったので、「えひめの記憶」の記事にあった、茂兵衛道成から右に折れ、後は市仲集落に有るという真念の道標、その先にも丁石が幾つかある、という情報だけを頼りに、基本成り行きで進むことにする。 往路で茂兵衛道標を右に折れる道筋を見たのだが、道とはいえない、倒木・藪が待ち構える荒れた遍路道のようである。その藪漕ぎがどの程度続くのかわからないが、ともあれ、先回の土佐街道・横峰越えで寄り道した平山集落から峰の地蔵尊までの遍路道と「繋ぐ」ことを唯一の目標に、奥の院・仙龍寺から復路の散歩を開始する。


本日のルート; Ⅰ.往路;六十五番札所・三角寺>奥の院遍路道へ>最初の舟形地蔵丁石>道標>茂兵衛道標>沢を渡る>48丁石>47丁石>沢を渡ると42丁石>41丁石>39丁石・38丁石>35丁石>33丁石・32丁石>31丁石・30丁石>29丁石>車道>地蔵峠>奥の院への下り道>20丁石・19丁石>桜馬場・18丁石>17丁石・16丁石>15丁石・14丁石>車道に出る>再び車道に>茂兵衛道標>「金光山仙龍寺」の石柱>不動堂>4丁石・新四国霊場分岐点>清滝>弥勒堂・仙人堂>奥之院

Ⅱ.復路:奥之院>奥の院出発>「大師修行之護摩岩窟」分岐>4丁石分岐点>茂兵衛道標分岐>車道に復帰>石垣に地蔵丁石>市仲集落>真念道標>15丁石・17丁石>18丁石と道標>大嶽神社と丁石>丁石2体>「四国中央東幹線」鉄塔>奉納石仏>林道に出る>国道から分岐>峰の地蔵尊>堀切峠>尾根道の車道を三角寺分岐へ>三角寺



奥の院出発;10時30分(標高283m)
岩壁を借景に趣のある奥之院の写真を撮り、鐘楼脇から石段を上る。銅山川に注ぐ、豊かな水量の支流を跨ぐ朱の橋を渡り石段を上る。石段脇には四国八十八箇所霊場に替わる幾多の石仏が佇む。八十八番から進む、逆打ちルートである。
葛篭折れの石段を上り、道の左手、右手に佇む石仏を見遣りながら上る。結構きつい。途中、85番石仏の側には「奥之院まで一丁」の丁石があった。

「大師修行之護摩岩窟」分岐;10時40分(標高332m)
道を進むと、大きな道標があり、「大師修行之護摩岩窟 第六拾五番奥之院」と刻まれる。大師が護摩修行を行った地であろうと、ちょっと道をそれる。すぐに崖が迫り、足元がしっかりとしない下りがある。
落ち葉でスリップしないように、山肌に手を添え狭い急坂を慎重に下ると、左手に「へんろ道」の案内。そこを上ると直ぐ岩窟があった。岩窟は狭く斜めに迫り出した岩場の奥にあり、奥に石仏が祀られる。快適とは言い難い。お参りを済ませ元の道に戻る。




4丁石分岐;10時45分(標高378m)
元に戻り先に進むと、石段も消え、岩場に鎖がついた場所にでる。このあたりが事故の起こる箇所ではあろう。それほと険路とは思えないが慎重に進む。仙龍寺を見下ろしながら進み、葛篭折れの山道を進むと、往路で清滝へと折れた4丁石分岐点に戻った。







茂兵衛道標分岐;12時(標高472m)
不動堂を越え「奥の院八丁 / 三角寺五十丁」、右側に「箸蔵寺七里 / 雲邊寺五里」との手印のある茂兵衛道標まで戻る。手印に従えば、倒木、ブッシュが迎える。
先はどうなるか分からないが、とりあえず手印の示す道筋へ入る。倒木を乗り越え、立木を踏み敷き先に進む。ほどなくブッシュを抜け、沢を越え杉林に入る。踏み跡を探すも、それらしき跡もなく、成り行きで進む。



「 車道に復帰;12時10分(513m)
道無き山肌を進み、これって遍路道?などと思いながらも先へ進むと山側が開け、ほどなく車道に戻る。茂兵衛道標から10分強で車道に復帰したことになる。えひめの記憶」には、「不動堂から市仲への道は、もはや歩く人がないため一面雑草や雑木に覆われ、途中の谷では10m近くにわたって道が崩落している。このあたりは昔から難渋する道だったのだろう。
『四国遍路日記』に「件ノ坂(八丁坂)ヲ山ノ半腹ヨリ東二向キテ恐シキ山ノカケヲ伝ヒ往ク」という記述が見える。この記述から見れば、いま辿った遍路道は、荒れた道とはいうものの、それほどのこともなく、往昔の遍路道はこの地で道に復帰せず、更に山道を進んだのだろうか?それにしては、この先には進めそうには思えない、などと少々悩む。

石垣に地蔵丁石;12時13分(513m)
道に復帰し、遍路道跡らしき痕跡はないものかとすすむと、数分で地蔵丁石が山側の石垣に佇んでいた。丁数は摩耗して読めないが丁石があったことで、この道筋が遍路道であろうとちょっと安心。

市仲集落;12時15分
地蔵丁石の先には道の下に民家が集まる。市仲の集落であろう。谷筋が開け、銅山川の谷筋、その先の四国山地の眺めは美しい。
集落で左に上る道がある。遍路道はここを左に折れるのだが、なんの標識もなく、Google Mapには左に折れた道が途中で消えるので、真っ直ぐ道を進んだ のだが、結構進んでも「えひめの記憶」に説明されている遍路道標が現れない。「えひめの記憶」には「やがて遍路道は市仲の集落に入り、かつての新土佐街道と合流して堀切峠に向かう。この合流点あたりに真念道標が立ち、さらにその先の左崖上にも2基の道標がある」とのことであり、真念道標は市仲の集落からそれほど離れてはいないはずである。
で、何となく地図アプリの「距離測」に入っているZenrinの地図を見ると、Google Mapでは途中で切れていた道が掘切峠近くまで続いている。その道が遍路道であろうと左に折れる分岐点まで戻る。山地図にも国土地理院の6000分の一の地図にも載っていない道がどういう経緯でZenrinの地図に載っているのだろう。

真念道標;12時18分標(標高513m)
左に分岐した道を少し上ると、石垣下に誠にささやかな石柱がある。まさか、とはおもいながも注意深く見ると、「みち」とか「の院」といった文字が刻まれている。上部が破損し正面の文字は摩耗し全く読めないが、これが真念道標であった。
○真念
「えひめの記憶」をもとに真念についてまとめておく。「四国遍路が一般庶民の間に広まったのは江戸時代になってからといわれる。その功労者の一人に真念がいる。その真念の出自や活動については、ほとんど皆目といってよいほど明らかでない。
真念の著作(『四国邊路道指南(みちしるべ)』・『四国?礼功徳記(へんろくどくき)』)や、真念たちが資料を提供して寂本が著した『四国礼霊場記』の叙(序文)や跋(ばつ)(後書き)に拠れば、『霊場記』の叙に、著者寂本は、「茲に真念といふ者有り。抖?の桑門也。四国遍路すること、十数回」と讃え、また『功徳記』の践辞でも木峰中宜なる人物が、「真念はもとより頭陀の身なり。麻の衣やうやく肩をかくして余長なく、一鉢しばしば空しく、たゝ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼(へんろ)せる事二十余度に及べり」と記している。 あるいはまた『功徳記』の下巻で「某もとより人により人にはむ、抖?の身」とみずから書くように、真念は頭陀行を専らとする僧であり、なかでも弘法大師に帰依するところきわめて深く、四国八十八ヶ所の大師の霊跡を十数回ないしは二十数回も回るほどの篤信の遊行僧だった。あるいは高野山の学僧寂本や奥の院護摩堂の本樹軒洪卓らとのつながりから推して高野聖の一人だったと解してもよいだろう」とある。

ところで、現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。

15丁石・17丁石;13時3分・13時9分(標高511m・523m)
真念道標から先に進むと標石と出合う。「十五丁」と刻まれる。雑草の茂る開けた地から森に入ると「十七」と刻まれた丁石が石垣の奥まったところに佇む。






18丁石と道標:13時12分(標高522m)
先に進むと「十八」と刻まれた丁石。コンクリートの壁面に囲まれる。その先に道標。「奥の院」とか「天保十四年」と刻まれる。1729年の建立。施主は半田村(?)矢野」と読める。








大嶽神社と丁石;13時17分(標高535m)
道脇に鳥居が建つ。大嶽神社とある。ちょっとお参りと上りはじめたのだが、結構進んでも社が見えない。撤退し、遍路道に戻り杉林の中を進むと摩耗し丁数の読めない丁石。胴の廻りに亀裂がはいっていた。







丁石2体
数字は刻まれているだが丁数がしかとは読めない丁石を見遣りながら進む。








「四国中央東幹線」鉄塔;13時39分(標高505m)
沢にかかる橋を渡り、再び沢に出合う。沢傍に胴体だけの石仏が建つ。丁石だろうか?その先に「四国中央東幹線」の案内。左に入ると鉄塔が建つ。奥之院に下る途中、桜馬場に鉄塔があり、愛媛県の伊方発電所から香川県の讃岐発電所まで、瀬戸内側を東西185キロ結ぶ50万ボルトの基幹送電線であり、川内、東予、讃岐の3変電所と四国中央(東幹線・中幹線・西幹線)から構成されているとメモしたがこの鉄塔も往路の桜の馬場にあった鉄塔も四国東幹線の鉄塔であった。


20丁石;13時30分(標高505m)
道を進むと崖に嵌め込まれたような仏様。丁石かどうか素人には判別できない。その先には「二十」とはっきり刻まれた丁石があった。










林道に出る:13時35分(標高498m)

杉林が竹林が混じる辺りで遍路道は林道に出る。林道からカーブする道を下ると国道139号に出る。出口は工事現場の集積所といった風情で、とても遍路道へのアプローチとは思えない。
案内も無いし、また、そこを入ったとしても、林道から竹林で遍路道に入る辺りも案内がないので、この堀切峠側から遍路道に入るのは結構難しそうである。その上、この遍路道の入口の直ぐ南に、如何にも遍路道といった風情の道(鉄塔巡視路だったように思う)が国道から右に折れる。この巡視路はすぐ先で竹林に消えるのだが、堀切峠から奥の院への遍路道をアプローチする人は、十中八九この道に入るように思う。念のためメモする。

国道から分岐;13時40分(標高487m)
遍路道を国道319号に出た反対側に、「へんろ道」の案内。竹の生える道の堤を進むと一瞬木立の中に入るが、そこもすぐに抜け空が明るくなり尾根にでる。








峰の地蔵尊;13時46分(標高491m)
尾根には「峰の地蔵尊」が建つ。享和2年(1902)の建立である。峰の地蔵尊前の尾根道を走る車道脇には「雲辺寺」への手印が刻まれる。
先日の土佐街道・横峰越え散歩で、土佐街道の途中にあった「廻国供養塔」に指す「奥の院」に惹かれ、寄り道し、道を辿りこの峰の地蔵尊に出た。要は、峰の地蔵尊にある「雲辺寺」への遍路道の手印が指す方向とは、峰の地蔵尊の道を隔てた間伐展示林の林道を進み、途中左に折れると廻国供養塔に出ることになる。これで、愛媛最後の札所である「六十五番三角寺奥の院・仙龍寺」から讃岐最初の札所「六十六番雲辺寺」への遍路道が繋がった。何となく嬉しい。

堀切峠;13時50分(標高484m)
峰の不動尊から数分で掘切峠に出る。さて、ここからどのルートにしよう、とちょっと悩む。坂道を下り、先日歩いた、三角寺から平山集落へと直接進む遍路道、これは今朝車で走った道でもあるのだが、その遍路道を辿るか、尾根道を走る車道を辿り、今朝三角寺から地蔵峠への上りの途中でクロスした地点まで戻ろうか?
結局、尾根道の車道を歩くことにしたのだが、これが結構きつかった。上りが延々と続き、2キロ半ほどを300mほど上ることになった。



尾根道の車道を三角寺分岐へ;14時30分(標高751m)
舗装道をだらだらと、途中に見える四国中央市や瀬戸の眺めに一息つきながら1時間ほど歩き、三角寺からの上りの分岐点に。








三角寺;13時30分(標高351m)
ここからおよそ1時間下り、三角寺に辿り着く。これで本日の散歩は終了。駐車場では「奥の院まで行ったんかね?」と駐車場を所有するお店のおじいさんと世間話をし、一路実家へと車を走らす。





六十五番札所・三角寺から地蔵峠を越えて、吉野川水系銅山川の谷筋にある奥の院・仙龍寺へと下った。きっかけは先日歩いた土佐北街道散歩。四国中央市の瀬戸内側から法皇山脈を越え、銅山川筋にある新宮へと辿る土佐北街道、通称「横峰越え」と称されるこの街道を辿ったわけだが、尾根筋へと上る途中、遍路道標である「茂兵衛道標」が建ち、「へんろ道」の札が木に掛けられている。チェックするとこの土佐北街道の一部は、遍路道としても利用されていた。
土佐北街道を辿りながらも、遍路道の「行方」への想いに抗し難く、ちょっと寄り道し、 「茂兵衛道標」から遍路道を辿り尾根筋の「峰の地蔵尊」まで歩いた。そのときは峰の地蔵尊から引き返し元の横峰越えへと戻ったのだが、遍路道はその先、銅山川の谷筋にある六十五番札所・三角寺の奥の院である仙龍寺へと続くと言う。
チェックすると、この遍路道は、六十五番札所・三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へお参りし、法皇山脈の南麓をトラバースし「峰の地蔵尊」に至り、そこから土佐街道と一部重なりながら法皇山脈の北麓の平山集落に下り、六十六番札所である讃岐の雲辺寺へと向かう歩き遍路の道であった。
三角寺からの上りはどうと言うこともない山道のようだが、地蔵峠を越えて奥の院に下る道は険路と言う。その「険路」って、どの程度のものなのか、また、四国総奥の院とも称される仙龍寺の風情は如何なるものか、との思いが今回の散歩となったわけである。 ルートを想うに、奥の院の辺りにはバスの便はない。ということで、基本三角寺からのピストンとし、三角寺に車をデポし、奥の院に向かい、復路は往昔の遍路が辿った道を「峰の地蔵尊」まで進み、先回の土佐北街道で歩いた奥の院への遍路道と繋いだ後、成り行きで三角寺まで戻ることにした。ルートは往復で長くても6時間もあればいいかと大雑把な計算をし、少し早めに実家の新居浜を出て車でスタート地点の三角寺へと向かった。

ちょっと余談。実はこのメモを始めようとPCに移したデジカメの写真の「三角寺フォルダー」を探したのだが、どこにも見当たらない。どうも間違って消し去ったようだ。先日の土佐北街道・横峰越えの時も、写真のシャッターのタイミングが調子悪く、まともな写真が撮れておらず、結局撮り直しに往復6時間かけて雪の土佐北街道を歩いた。今回もまた6時間かけて撮り直しか、などと少々気が重かったのだが、試にとGoogleで「データ削除 復元」で検索すると、ごみ箱で消し去ったデータ、SDカードにから消去したデータを復活させるフリーのソフトがあった。 まずはPCでスキャンしごみ箱から消し去った削除データ一覧を探すが痕跡はない。一縷の望みでデジカメのSDカードをスキャンすると、なんと削除した写真が一覧に現れた。写真を選択し見事に復元。削除した後に撮ったデジカメを削除していなかったのがよかったのかもしれない。あまりの嬉しさと、データ復元のフリーソフトをつくってくれた方に感謝を込めてここにメモした。


本日のルート;
Ⅰ.往路;六十五番札所・三角寺>奥の院遍路道へ>最初の舟形地蔵丁石>道標>茂兵衛道標>沢を渡る>48丁石>47丁石>沢を渡ると42丁石>41丁石>39丁石・38丁石>35丁石>33丁石・32丁石>31丁石・30丁石>29丁石>車道>地蔵峠>奥の院への下り道>20丁石・19丁石>桜馬場・18丁石>17丁石・16丁石>15丁石・14丁石>車道に出る>再び車道に>茂兵衛道標>「金光山仙龍寺」の石柱>不動堂>4丁石・新四国霊場分岐点>清滝>弥勒堂・仙人堂>奥之院

Ⅱ.復路:奥之院>奥の院出発>「大師修行之護摩岩窟」分岐>4丁石分岐点>茂兵衛道標分岐>車道に復帰>石垣に地蔵丁石>市仲集落>真念道標>15丁石・17丁石>18丁石と道標>大嶽神社と丁石>丁石2体>「四国中央東幹線」鉄塔>奉納石仏>林道に出る>国道から分岐>峰の地蔵尊>堀切峠>尾根道の車道を三角寺分岐へ>三角寺

六十五番・三角寺へ
実家のある新居浜を出発して、三角寺にナビをセットする。予想では、先般の銅山川疏水散歩のとき辿った上柏町辺りから山道に入っていくのかと思ったのだが、ナビはその地を通り過ぎ、11号線の三島川之江IC入口を越えたあたりにある、三角寺右折の大きなサインも見遣り、上分町で国道92号線、そして松山自動車道を潜る。
どこかで見た景色である。先に進み県道5号・土佐北街道を右に折れる。これって、土佐北街道散歩の時に辿った平山集落へ上る道。車は平山集落まで進み、集落バス停先の「三角寺」の案内に従い右折。この道は先回の土佐北街道の写真撮り直し散歩のとき、ピストンの戻り道で時間に余裕もあり、尾根から三角寺まで進み、平山集落へと辿った道。この道は三角寺から直接平山集落へと進む遍路道でもあるのだが、今回はその山麓の遍路道を逆に車で進むことになった。
勝手知ったる、とはいいながら、一車線の道。対向車に出合わないようにと祈りながら走ることしばし、三角寺に到着。駐車場脇の木箱の料金入れに200円を納め、三角寺の境内への石段を上る。

六十五番札所・三角寺;7時45分(標高372m)
自然石で造られた50分石段を上ると中央に鐘楼が吊られる仁王門が建つ。愛媛では唯一の鐘楼門とも聞く。門を入ると左手に「おびんずる様」、右手に納経所、正面に庫裏。 ○おびんずる様
「おびんずる様」こと、「なで仏」に最初に出合ったのは足立区の関原不動尊。この「おびんずる様:賓頭盧尊者」はいつも赤ら顔。早い話が飲兵衛の仏様。お釈迦様のお弟子さんではあったが、内緒でちびちび。御釈迦さんに説教され禁酒を誓う。が、つい一献。ということで破門。一念発起で修行。お釈迦さんも努力を認め、本堂の外陣であれば、ということで傍にはべるのを許された、って仏様である。
○三角池
庫裏の左の石段の上に大師堂。その手前には三角池と弁財天。この三角池がお寺さまの名前の由来。寺伝によれば、聖武天皇(在位724?49)の勅願のもと行基菩薩により開創した由霊山三角寺に、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れる。大師は、本尊の十一面観音像を彫り、さらに、不動明王像も彫り、三角の護摩壇を築き21日間、国の鎮護を祈念し「降伏護摩の秘法」を修法されたとのこと。この護摩壇の跡が庫裡とささやかな薬師堂の間にある弁財天の祀られるこの「三角の池」の中の島である。
○一茶の句碑
三角池から左手奥にある本堂に進む途中に樹齢300~400年といわれる山桜。桜の傍には、江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき詠んだ、「これでこそ 登りかひあり 山桜」の句碑が残る。
○本堂
境内の南端に本堂。このお寺さま、嵯峨天皇(在位809?23)の厚い信仰をうけ、寺領300町歩を所有し、七堂伽藍を備える大寺であったが、土佐の長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、本尊以外を焼失。現在の本堂が再建されたのは嘉永2年(1849)であり、昭和46年(1970)に修復されている。
○茂兵衛道標
本堂の対面に手印とともに「奥の院」と刻まれた石柱がある。奥の院の文字の脇下には「是より五十八丁 中務義教」とも刻まれている。石柱右側には「壱百七拾六度目目為供養建之 發願主 中務茂兵衛義教」と刻まれた文字が読める。生涯279回の遍路巡礼の記録を持つ中務茂兵衛建立の遍路道標であった。義教は巡礼百回を越えてから改めた名前のようである。
この道標は奥の院までの行程58丁を示す。1丁はおおよそ109mとのことでもあるので、6キロ強といったとことではあろう。山道でも峠までは上りだが、あとは下りであるので2時間もあれば奥の院まで辿れそうである。
□中務茂兵衛
中務茂兵衛の道標識には、先日歩いた土佐北街道、また、80番札所である讃岐の国分寺の近くで出合った。中務茂兵衛は幕末から明治・大正にかけて遍路史に足跡を残す人物である。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、380回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。 遍路行が88回を数えたことを記念して道標建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか;「えひめの記憶」より)道標建てたと言われる。

奥の院遍路道へ;7時55分
境内で奥の院への遍路道のスタート地点を探す。大師堂辺りなど探すも、それしき箇所は見あたらない。丁度お寺様の関係者らしき方がいらっしゃったので、お聞きすると本堂の南端から遍路道が続くとのこと。
本堂の南の石垣東端に手印らしきものと「三角寺」と刻まれた石碑があり、そこから寺を抜け集落の坂道を上ると「へんろ道」の案内もあり、この道が奥の院へと向かう遍路道ではあろう。



最初の舟形地蔵丁石:8時(標高390m)
寺叢を抜けると周囲が開ける。石垣の手前には「自然遊歩道 市民の森奥之院経由」の道標も建つ。等高線に沿って進みほどなく林に入るも、左手が開け、道傍に舟形の地蔵丁石が佇む。丁数は刻まれているのだが、摩耗してはっきり読めない。






道標;8時2分(標高404m)
等高線に垂直に上り切りった辺りに「左 へんろみち」と刻まれた道標。へんろ道は、等高線400mの辺りを、等高線に沿って南に切れ込んだ谷筋を進む。道傍に胴体がふたつに切れた地蔵さま。丁数は刻まれていない。目の前には四国中央市、瀬戸の海、また六十六番札所・讃岐の雲辺寺のある山稜が拡がる。谷を少し進んだ辺りには胴体だけの丁石も残っていた。

茂兵衛道標;8時9分(標高427m)
等高線400mから少し標高を上げながら谷筋へと進むと、道が分岐する三叉路交点に大きな道標が建つ。正面には「奥の院へ五十六丁」、右側に「弐百五十一度目為供養 願主 中務茂兵衛義教」、左には「大正二年」と刻まれる。大正二年といえば、茂兵衛が69歳のとき。251回目の遍路巡礼の折りに建立したものだろう。
因みに、三角寺の丁石が58丁、ここが56丁、ということは、先ほどの舟形地蔵丁石は57丁石ということではあろう。




沢を渡る:8時11分(標高440m)
茂兵衛道標から数分で440m等高線がU字カーブする箇所、谷筋に当たる。谷筋に流れる沢の傍にお地蔵様が佇む。昔は水場として重宝されたことだろう。








48丁石;8時16分(標高473m)・47丁石;8時19分(標高501m)
沢を渡り450m等高線に沿って、ぐるっと沢筋を廻り切ったあたりにも胴体が切れた舟形地蔵丁石が佇む。丁数はわからない。そこから道は等高線を斜めに上ると「四十八」とはっきり刻まれた丁石があった。
48丁石の直ぐ先、500m等高線の辺りに「四十七」と刻まれた丁石。その先、550m等高線の辺りには頭だけが残った丁石が残っていた。

42丁石;8時29分(標高551m)・41丁石;8時33分(標高557m)
等高線550mから10mほど下がった谷筋を進み、U字に切れ込んだ沢を渡る。 沢から550m等高線辺りまで上ったところに「四十二」と刻まれた舟形地蔵丁石が佇む。
ほどなく「四十一」と刻まれた丁石。その傍の沢傍に石柱が建つ。舟形丁石ではないようだが、なんだろう。どの沢だか忘れたが、上に石が積まれた石柱もあった。
39丁石・38丁石;8時41分(標高623m)
等高線を斜めに上る道脇に何気なく立てられた39丁石、その先には道の少し高いところに38丁石が佇む。



38丁石・35丁石;8時45分(標高647m)
38丁石を見遣り先に進むと35丁石があり、その先に奥の院への手書きの道案内と「草刈依頼」の案内。へんろ道を整備するため、時間に余裕がある人に雑草の下刈りを依頼しているようだ。先を見る冬枯れの時期かブッシュも無いようであり、そのまま先に進む。


33丁石・32丁石;8時49分(標高692m)
木の根っこに佇む33丁石、そして木の傍で少々傾いた32丁石と続く。












31丁石・30丁石;8時53分(標高715m)
ほとんど道の真ん中に建つ32丁石、そして道傍の枯葉に埋もれた31丁石と続く。












29丁石;8時56分(標高725m)
空が開けた辺りの道傍に29丁石が建つ。その先は尾根筋。そこは道で森が切れる。「えひめの記憶」に拠れば、三角寺から奥之院への山道は「路程五十八丁、山中岩端をとり、崎嘔を歴て至る(『四国?礼霊場記』)」というような難所であり、『四国遍路日記』の中で、地蔵峠への上り道について「誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル」といったように、古くから多くの遍路記の中に道中の苦労が記述されている、とあったが、現在の道は地元の方々のご苦労の賜か、きちんと整備されており、特段険路といった道ではなかった。

尾根道の車道に出る;8時57分(標高738m)
森を切り開いた道は法皇山脈の尾根道を東西に走る道。東は平石山を経て翠波高原から四国中央市へ下る道と合わさる。西は、先日歩いた堀切峠を越え呉石の方に続いている。








地蔵峠;9時5分(標高773m)
車道を横断し「へんろみち」の案内に従い、再び木々の間に入るも、すぐに空が開け、道を左に進むと、道標と4体の仏様が佇む地蔵峠に到着する。 「えひめの記憶」には「峠道の右側に4基の地蔵が並んで立っている。右から2番目は地蔵道標(92)、その左も仏海による地蔵道標(93)で、1番左は26丁の地蔵丁石である。仏海(1710~1769)は、道行く遍路のために土佐に接待庵(仏海庵)を建てたことなどで知られる木食(もくじき)僧で、2年ほど奥之院に滞在して千体地蔵を製作したと伝えられている。道標に刻まれた寛保3年(1743)は、彼の奥之院退山の年である。なお、これら地蔵群と道をはさんで反対側には、奥之院への案内を彫り込んだ道標も立っている」とあった。

奥の院への下り道
地蔵峠で少し休憩し、奥の院への下り開始。下り道は険路とある。事故も起きるようで、三角寺さまも、このルートはあまりお勧めしない、といったコメントもあり、また、、前述の澄禅は『四国遍路日記』の中で、峠からの下り道についても「深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景ニ於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事廿余町シテ谷底二至ル(「えひめの記憶」)」などと描かれており、どのような険路・難路かと少々怖れてはいたのだが、道は整備されておりハイキングコースといったものではあった。


丁石
銅山川の谷筋、その向こうに聳える四国山地の景観を眺めながら道を下る。等高線を垂直に下る道脇に摩耗され丁数の読めない舟形地蔵丁石が二体。下ったほうの一体には「三」のような数字が読める。23丁石であろうか。




20丁石・19丁石;;9時14分(標高684m)

23丁石辺りからは等高線に沿って緩やかに杉林の中を下る。等高線に垂直気味に、少し急な山道を進むと木の前に「二十」、その先、等高線をトラバース気味に少し下ったところに「十九」と読める丁石が佇む。











桜馬場・18丁石;9時16分(標高671m)
19丁石から少し下ると鉄塔の建つ緩斜面に出る。桜馬場と称される。緩斜面の南に大きな桜の木(馬場桜)が立ち、その手前に舟形地蔵丁石。18丁石ではないかと思う。
ところで、この鉄塔の送電線、地図で延々と東へと辿ると、先日金比羅さんの奥の院、阿波の箸蔵寺へと歩いたときに出合った鉄塔に繋がっていた。以下はその箸蔵街道散歩の時の鉄塔のメモ
「箸蔵街道から更に東に辿ると四国電力讃岐変電所(香川県綾歌郡綾歌町)が終点であった。が、西側がどこがスタート地点かはっきりしない。あれこれ記事を見ていると、愛媛県の伊方発電所から香川県の讃岐発電所まで、瀬戸内側を東西185キロを結ぶ50万ボルトの基幹送電線が目にとまった。川内、東予、讃岐の3変電所と四国中央(東幹線・中幹線・西幹線)から構成されているとのこと。なんとなくこの基幹送電線網の鉄塔かとも思える」と。

17丁石・16丁石:9時18分(標高614m)
桜馬場から等高線を垂直に、坂道を下る。木の根元に丁石があるが、丁数は摩耗し読めない。が、少し下ったところに「十六丁」とくっきりと刻まれた丁石があったので17丁石ではあったのだろう。









15丁石・14丁石;9時21分(標高607m)
更に等高線を垂直に坂道を下ると、また摩耗し丁石が読めない丁石。先に進むと道を大木が遮り、その手前に舟形地蔵丁石。なんとなく「十四」と読める。先ほどの丁石は15丁石ということだろう。 









集落の道に出る;9時24分(標高564m) 
杉林の向こう、下が明るく開けた辺りに、またも丁石が摩耗した丁石があり、その先で車道に出る。険路との情報は、ここまでの間、なんということのないハイキングルートといったものであった。







再び集落の道に;9時30分(標高520m)
この辺りは大窪集落とのこと。道を横切り、杉林の遍路道を下る。少々荒れた山道を、道傍にある「天王権現」の石碑を見遣りながら下ると再び道に出る。東西に走る道の傍には薪が積まれた小屋が目につく。




茂兵衛道標;9時33分(標高507m)
道を横切り、石垣の間を再び山道に入る。ほどなく石段が現れ下りきったところに大きな道標。山道に下って数分といったところである。 道標の正面には「奥の院八丁 / 三角寺五十丁」、右側に「箸蔵寺七里 / 雲邊寺五里」、左に「明治三四年 吉日」、裏には「奥の院 / 185度目為供養 / 願主 中務茂兵衛義教」とある。茂兵衛道標であった。
「箸蔵寺七里 / 雲邊寺五里」の手印を見ると、遍路道は石段横の石垣手前を右に向かうようである。夥しい倒木、立木が茂り遍路道は整備されてはないようである。奥の院・仙龍寺参拝の後は、この地まで打ち返し、堀越峠へと進んでみようと思う。




「金光山仙龍寺」の石柱
茂兵衛道標のすぐ先に「金光山仙龍寺」と刻まれた石柱。ここが奥の院との結界、すなわち聖と俗の境界ということであろう。「えひめの記憶」によれば、「不動堂の参道右側には3基の地蔵が並んでいて、そのうち右側の頭部のない地蔵は雲辺寺への道標(97)、他の2基はいずれも9丁の地蔵丁石である。三角寺からの一連の地蔵丁石は、この9丁のものをもって終わる」とあった。三角寺から峠の上り下りにお付き合い頂いた舟形地蔵丁石に感謝。



不動堂;9時40分(標高488m)
結界からほどなく不動堂。このお堂を奥之院跡とする説もあるようだ。不動堂の左には茂兵衛道標と享保14年(1729)に建立の8丁の丁石がある。茂兵衛道標には「奥之院へ八丁 毎夜本尊御直作厄除大師尊像のご開帳アリ霊場巡拝の信者ハ一夜の通夜ヲシテ御縁結ビ現當二世ノ利益ヲ受ケラルベシ 中司義教誌 荷物ハ持参スルモヨシ又ハ店に預ケ置キ参詣通夜スルモヨシ」とも刻まれている、と。「店に預ケ」云々は往昔この辺りに数件の茶店があった、とか。







8丁石
不動堂から奥之院までの間を「八丁坂」と称される。いままでより傾斜も心持ち急になり、左右に崖が現れる。また、不動堂から奥之院までは今までの舟形地蔵丁石に代わり、8丁から1丁までの丁石となる。4丁石に下る途中で何気なく撮った丁石には「六丁」と刻まれていた。


4丁石・新四国霊場分岐点;4丁石分岐;9時53分(標高384m)
道を進むと進路が二つに分かれ、直進方向には「崩落箇所あり危険注意」の案内と石仏が見える。その分岐点には標石が2基建ち、一基は「奥の院四丁・右清瀧道」と刻まれた丁石と、「新四国霊場」と刻まれていた。
この4丁石のある分岐点は、そのまま進むと直接奥之院に至り、右に折れると清滝を経由して奥之院へと向かう道であり、また、奥之院境内から清滝、この分岐点を経由して奥之院境内へと一周する新四国霊場の道筋でもあった。道筋には四国霊場に替わる88の石仏が並ぶ。分岐点の辺りに見えた石仏は、新四国霊場51番札所(松山の石手寺)を示す仏様であったようである。
○新四国霊場
「えひめの記憶」に拠れば、新四国霊場は、「明治時代後期に仙龍寺では、裏山に新四国霊場を開設することを念頭において、山内の清滝への参道の整備を行った。さらに明治45年(1912)に当時の住職服部覺禅や中務茂兵衛が中心になって新四国霊場の開設を計画して開創にこぎ着け、大正3年(1914)に記念法会を行っている」とある。
仙龍寺境内の記念碑に、「二三篤信のものと相謀り、一八佛恩報謝のため、一者老若男女の輩をして容易二新四國霊場を巡拝せしめ以て普く大師の霊光尓浴せしめんとて、彌々新四國八十八箇の霊場開設を発願し、十方の信者諸彦に對してその本尊の造立を委嘱す。(中略)郡内二十餘ヶ寺の僧侶を屈請し記念法會と共に山内新四國霊場開眼のために庭儀曼荼羅供の大法會を行ふ」と刻まれるように、容易にお大師様の功徳を受けるようにとの企画ではあろう。

清滝へ
清滝への道を進む。直進する崩壊箇所が危険、といったこともあるが、実のところ、散歩のときは、この道筋は新四国霊場として周回コースとなっていることは知らず、大きな滝を見てみたいといった動機でのコース取りであった。どちらを歩いても結局は同じではあった。
杉やモミの木立の中を札所をしめす石仏にお参りしながら道を進む。道すがら、奥之院の伽藍の屋根、遠く銅山川の谷筋なども見える。

清滝;9時57分(標高370m)
札所36番の石仏が佇むところに清滝。落差30m、幅5m。現在でも行者の水垢離修行が行われている、と言う。写真を撮るために滝に接近し撮り終え、先に進む道を探す。が、道筋が見あたらない。崖を這い上がり、道を探すが、どうみても普通の人が通れるようなルートではない。
一旦滝まで戻り、滝から下る沢を見ると、左に続く、沢を渡るルートが見える。余りに滝に近づき過ぎたため、ルートを見逃したようだ。さっきの藪漕ぎは何だったんだろう、などと思いながら沢を渡り奥之院へと向かう。







弥勒堂へ
自然林の緩やかな山道を進む。道傍には幾多の仏さまが佇む。尾根に上り切り、尾根に立つ仏様、路傍の岩盤したに佇む札所の仏様を見遣りながら、すこし急な坂を下り奥之院へと向かう。





弥勒堂・仙人堂;10時17分(標高285m)
ほどなく弥勒堂、そのすぐ下に仙人堂が建つ。このふたつのお堂は、仙龍寺を開いた法道仙人を祀る。寺伝によれば、法道仙人はこのお寺さまに訪れた弘法大師にお寺を譲ったとのこと。
で、法道仙人って誰?Wikipediaに拠れば、「法道(ほうどう)は、インドの仙人。鉄の宝鉢を持っていたことから、空鉢(くはつ-)、空鉢仙人(からはちせんにん)とも呼ばれる。
6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされる。播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺す、勅願寺を含む数多くの所縁の寺がみられる。また、日本に渡るときに牛頭天王と共に渡ったとされその牛頭天王は姫路市にある広峰神社に祭られ、その後現在は八坂神社中の座に祭られたとされている」とある。
実在の人物とのエビデンスはなにも無いが、播磨国には法道仙人が開いたとされる寺院は百箇所以上もある、と言う。尾道にもゆかりの寺院が残るが、播磨へと向かう途中での縁起であろうか。
上人でなく仙人と称されるのは、数々の奇跡譚に由来するのだろう。なんとなく役行者とイメージが重なるが、役行者が山岳修験系の呪術を得意とする優婆塞(正規の仏教僧ではない行者)なのに対して、雑密(呪術的要素が強い密教)の修法を得意とする僧とされる。

奥之院;10時15分(標高275m)
石段を下り切りると、そこには「新清瀧新四国霊場道」の標石が建つ。奥之院の本堂(通夜堂とも)前に立って独特の造りの造作を眺める。通夜堂とも称されるように、宿坊(現在はないようだ)・庫裡も兼ねているためであろうか。情緒ある旅館といった趣きである。本堂は建物2階にある。
本堂前はコンクリートで固められた広場に見えるが、下には無明川が流れておりコンクリート橋梁である。往昔は木で造られ、岩壁に掛造様式で建てられた本堂と結んでいたとのことである。靴を脱ぎ本堂を歩きご本尊の弘法大師と脇に控えるお不動さまにお参り。
境内の案内によると、「奥之院略縁起 山号を金光山、寺号を仙龍寺。弘仁6年お大師様42歳のときこの山に登山せられ、その当時、この山に住んでおられた法道仙人より、この山を譲り受け、岩窟に滝澤大権現と開運不動尊を勧請して厄除けと虫除けのふたつの御誓願をたてて、岩窟に籠もって21日間護摩の修行をおこなった霊跡である。
この護摩修行成満の後、自らの姿を彫刻し、この山に安置したのがご本尊。爾来今日まで、当山のご本尊を厄除大師、虫除大師と申し伝えられ多くの人の帰依を受けている」と。本尊の「弘法大師」は本堂の2階に祀られる。
○四国総奥の院
また、他の案内には、前述同様に説明とともに、「爾来千有余年、代々の山主は一刻も法灯を絶やすことなく、現在では全国から奥之院大師を信仰し、四国総奥之院の歴史を刻む」とあった。総奥之院がいかなるものか不明ではあるが、徳島の真言宗御室派の大瀧寺、香川の真言宗善通寺派の與田寺も四国総奥之院と称する。因みにこの仙龍寺は真言宗大覚寺派のお寺さまである。

三角寺を出発しておおよそ2時間強で奥の院・仙龍寺についた。なんとなく丁石を注意して歩いていたら、メモも結構多くなった。散歩自体は、ここから再び三角寺までひきかえしたのだけれども、今回のメモはここで終え、復路は次回にまわすことにする。


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