千葉 手賀沼散歩 ; 我孫子から手賀沼を辿り利根川へ

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我孫子から手賀沼を歩き、利根川に
手賀沼を歩くことにした。千葉県の北、我孫子市の南に広がる。正確には、我孫子市・柏市・印西市・白井市にまたがる沼である。
手賀沼を歩こうと思ったきっかけは、松戸や北小金で出会った「小金の牧」というキーワード。野馬の放牧地であった下総台地の原野の原風景をすこしでもイメージしたかった、から。沼の周辺であれば、「昔を偲ぶ」自然が残っているであろう、といった思惑、である。前もっての事前知識は何も、ない。沼の脇をひたすら歩き、我孫子市の北を流れる利根川との合流点まで行ければいいか、といった段取りで自宅を出る。 

 



本日のルート:我孫子駅>楚人冠公園>志賀直哉邸跡>白樺文学館>手賀沼公園>手賀沼遊歩道・手賀大橋>水の館>高野山新田>手賀曙橋・ 手賀川>手賀川>利根川

我孫子駅
下北沢で地下鉄千代田線に。JR常磐線に乗り入れている。そのまま我孫子駅に。我孫子市は利根川と手賀沼に挟まれたベッドタウンというべき、か。我孫子の地名の由来は諸説ある。大和朝廷時代の官職にある「阿毘古」からとの説。この阿毘古って、大王に魚や鳥などの食糧を貢進する氏族であった、とか。網曳が転じたとする説もある。網曳とは朝廷に海産の魚貝を貢進する職制のことである。常陸川(現在の利根川)や手賀沼の魚貝を供していたのだろう、か。その他、「アバ(くず れた)・コ(処)」が転じたといった説もあり、これといった定まった説は、ない。
我孫子駅に下りる。常のことのように、名所案内を探す。駅前に案内が。白樺派と我孫子のかかわりを中心に紹介されている。武者小路実篤、柳宗悦、志賀直哉、杉村楚人冠、バーナード・リーチなどの名前がある。そのほかに柔道の嘉納治五郎、柳田國男なども我孫子ゆかりの人物として紹介されていた。 駅の南に手賀沼。その手前に志賀直哉邸跡、そして白樺文学館がある。折りしも、娘の文学作品鑑賞のお手伝いで漱石の『こころ』を読み直していた。この『こころ』って新聞小説であり、漱石の次の書き手が志賀直哉であったのだが、志賀直哉が「わたしゃ書けない」といったばっかりに、漱石が疲労困憊した、って記事を読んでいたところ。これも因縁であろうかと、まず手始めに志賀直哉ゆかりの地を訪ねることにした。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


楚人冠公園
駅を南に下り国道356号線に。ここは昔の成田詣の街道。緩やかな坂を下る。道脇に楚人冠公園。段丘上にある。観音山という高台。杉村楚人冠の邸宅跡。明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト。朝日新聞の最高幹部でもあった。校正係りであった石川啄木の才能をいちはやく見出した人物。随筆家・評論家としても知られる。関東大震災後、別荘のあったこの地に移り住む。『アサヒグラフ』で手賀沼を紹介したことが、我孫子が別荘地・北の鎌倉ともよばれるようになったきっかけ、とか。近くに柳宗悦の屋敷があり、その中にバーナード・リーチが住んでいた、と。

志賀直哉邸跡
楚人冠公園脇を下り、「手賀沼ふれあいライン」に。目的の志賀直哉邸跡は、この車道の一筋北にはいったところ。緑2丁目にある。弁天山の一角。楚人冠邸とは異なり、どちらかといえば、段丘下・斜面林の中といった場所。ここは、武者小路実篤とともに白樺派を創設した直哉のはじめての持ち家。結婚後まもなくの大正4年から12年までこの地で過ごした。妻康子は実篤のいとこ。また、実篤と直哉は学習院仲間、と。
邸跡は現在公園となっている。段丘斜面、道より一段高いところにある公園には、ちいさな家屋の一部が残されている。小さな湧き水もあった。直哉はこの地で「城崎にて」、「和解」、「小僧の神様」などの作品を書く。小説の神様と呼ばれるようになった作品である。「暗夜行路」の前編刊行までこの地に住み、その後京都・山科、奈良高畑町、そして鎌倉へと移ることになる。

白樺文学館
志賀直哉邸跡を下りる。公園斜め前に「白樺文学館」。B級路線一直線の我が身には、少 々敷居が高いのではあるが、とりあえずどんなものかと中に入る。個人の篤志家が建てた記念館。入館料を200円払う。ボランティアのスタッフの方に説明していただく。
お話いただいたことのまとめ;この地に文人が多く住み始めたきっかけは、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎。明治の頃、この地に別荘をもった治五郎は理想の学園をつくろうとしていた、とか。甥の柳宗悦を呼び寄せる。宗悦は民藝運動起こした思想家。素朴な民藝に芸術が宿る、と。志賀直哉はこの宗悦のすすめにより、この地に移る。
白樺派の同人である武者小路実篤をこの地に呼んだのは志賀直哉。直哉はここ我孫子に8年住む。実篤は2年ほどこの地に住み、理想の地を求めて九州・宮崎の地に「新しき村」を建設。大正7年のことである。しかし、この村も昭和13年にはダムのため水没。埼玉県の毛呂山に移る。先日埼玉の毛呂山町の散歩のとき「新しき村」って案内が目に入ったが、それって以上の経緯を経て移ったもの、であった。6年後実篤は「新しき村」を離村。村外会員となった。これもいつだったか、調布市仙川を散歩していたとき、国分寺崖線上に実篤公園があった。実篤の邸宅が残っていたが、それは村外会員となってからのこと、ということ、か。歩いていればあれこれ「襷」が繋がってくる。
館内には実篤、直哉の記念の作品が展示されている。いいなあ、とおもったのはバーバードリーチの絵。リーチといえば陶器が有名ではあるが、手賀沼を描いたエッチングの絵が素敵であった。また芹沢銈介氏の装丁なども素敵であった。が、よくよく考えたら芹沢銈介氏って、人間国宝。少々失礼なるコメントであったと、反省。
二階の展示の中に、漱石の書簡。新聞小説の連載を断わる志賀直哉に対して困り果てた漱石の姿が目に浮かぶ。「志賀の断わり方は道徳上不都合で小生も全く面喰らいましたが、芸術上の立場からいうと至極尤もです。今まで愛した女が急に嫌になったのを、強いて愛したふりで交際しろと傍から言うのは少々残酷にも思われます」、と。上にメモしたように、娘とともに、というか、娘のために、というか、それより、親父の威厳を示すため、というか、ともあれ、丁度漱石の作品研究をしていたところであったので、偶然の出会い驚く。予定調和、というべけんや。

手賀沼公園
白樺文学館を離れ、手賀沼の畔を目指す。手賀沼公園に。公園手前に市の生涯学習センターター。図書館もあるので、なにか郷土資料などないものかと中に入る。特になし。センターを離れ、隣の手賀沼公園に。バーナード・リーチ碑や血脇守之助の碑。血脇守之助って、明治・大正・昭和にわたる歯科医師会の重鎮。東京歯科大学の創始者。それよりなにより、野口英世の物心両面にわたるスポンサーとしてあまりにも有名。




手賀沼遊歩道・手賀大橋
公園から先は水辺に沿った遊歩道を進む。手賀沼遊歩道。遊歩道より一筋水際の土手道を進む。葦や水草を眺めながら散歩。少々の風もあり、寄せては返す波の音も。遊歩道でウォーキングを楽しむ人を眺めながら、こちらは、たらたら、と散歩。姿勢を正しく腕を振って、といったスタイルとは真逆のスタイル。1キロほど進むと我孫子高校。その先には手賀沼大橋が沼を跨ぎ柏市と我孫子市を繋ぐ。

水の館
手賀大橋を越えると手賀沼親水広場。広場と「手賀沼ふれあいライン」の間に「水の館」。手賀沼に関する歴史・自然環境に関する展示室やプラネタリウムがある。ここに来るまで、手賀沼のことなどなにも知らなかった。暢気に歩いてきたのだが、手賀沼って最近まで水質ワースト1位であった、とか。平成12年ワースト1位(COD14)、平成13年ワースト2位(COD12)、平成14年ワースト9位(COD8.2)、平成15年ワースト6位(COD8.4)といった按配だ。
水質浄化に取り組み環境は改善しつつある、と。水質汚染の要因は生活排水と産業排水。1955年頃までは水は十分澄んでいたとのことだが、急激な周辺人口の増加に汚水処理が間に合わなかった、ということ、か。沼に注ぐ川は大堀川と大津川ではあるが、どちらも地図で見る限りでは市街地に源流点があるように見える。であれば、それほど水量が多いわけではないだろうし、水源は生活排水といった時代もあったの、かも。
ともあれ、手賀沼は汚れた。その対策としては、利根川の水を導き、手賀沼の西端に注ぐ大堀川に流し水質を改善する。利根川から取水されたこの水路は北千葉導水路と呼ばれる。また沼の南にある北千葉第二機場では浄化用水を注ぐ。このような浄化計画の成果だろうか、ワースト1位からは外れるようになっている。

高野山新田
水の館を離れ再び手賀沼遊歩道に。水の館のすぐ北には鳥の博物館。皇族が勤務する山科鳥類博物館であろう。いまひとつ鳥に興味がないので今回はパス。沼の反対方向、北側は台地が続く。印旛手賀自然公園の手前、高野山新田の向こうの台地の緑の中に香取神社と水神山古墳。白樺文学館でのレクチャーで伺ったことだが、文学館があったあたりは葦原であったとか。台地の下まで沼がせまっていたのであろう。手賀沼って、もともとは、洪積台地にできた浸食谷。それが溺れ谷、有体に言えばリアス式のギザギザ谷となり、さらには常陸川(現在の利根川)の土砂にせき止められて沼となった。往古、香取海の入江。手下浦(てかのうら)と呼ばれていた、と。
このあたりの地名・高野山新田、って干拓によって開かれた新田、か。本格的に干拓工事がはじまったのは、1958年から。沼の半分が干拓された、とか。沼の北には根戸新田、我孫子新田、高野山新田、岡発戸新田、都部新田、中里新田、日秀新田など。沼の南には戸張新田、簔輪新田、大井新田、鷲野谷新田、染井入新田、片山新田、手賀新田など。これだけ新田が地名に残っているわけで、半分が干拓されたといっても違和感なし。
沼の南といえば、利根川から手賀川の東を進んできた北千葉導水菅は、手賀沼に至り南岸を進み、さらには大堀川に沿ってのぼり、流山市の野々下あたりの坂川放流口まで続いている。ここから放流された利根川の水は坂川を下り、江戸川に注ぐ。この導水路は手賀沼の汚染対策だけではなく、利根川と江戸川を結び江戸川の水量を補っている、ということだ。先般行田を歩いたとき、利根川と荒川を結ぶ武蔵水路に出合った。これは東京オリンピックのとき、汚れた隅田川が少々見苦しかろうと隅田川上流の荒川の水を少しでもきれいにしようとした、と。この北千葉導水路は、水路沿いの手賀沼の水質浄化とともに、首都圏への水の供給源としても機能している。

手賀曙橋・ 手賀川

市民農園脇を進み、滝下広場を越え印旛手賀沼自然公園がある水際を進む。岡発戸新田南の峠下公園を過ぎ、湖北集水路を越えると我孫子高校の野球場。このあたりが手賀沼の東端。植生浄化施設脇を進み、手賀沼フィッシングセンターに。手賀曙橋。水門も兼ねた橋となっている。ここで手賀沼は終わり、手賀川となる。歩きはじめて5キロ前後といった距離であった。ここから利根川との合流点までおよそ7キロ、というところ。
手賀川は、手賀沼の東端から利根川までを繋ぐ水路である。かつて手賀沼は、そのまま利根川につながっている沼だった。干拓によって沼の東半分が広大な農地となり、西半分の手賀沼はひとまわり小さくなって残された。で、その手賀沼と利根川を繋いだ水路がこの手賀川というわけだ。

手賀川
手賀川に沿って土手道を進む。すぐ先に手賀第三揚水機場・手賀第三排水機場。北千葉導水って、手賀川の南に埋設されているわけで、この施設って、どういった役割なのだろう。地図をみると、手賀川の一筋北に水路がある。通常排水機場って、支川の水をポンプで汲み出して浸水被害を防ぐもの。大雨などで支川が氾濫しはじめたら、その水を支川より水位の高くなった手賀川に放水するのであろう。
土手道を進む。1キロ単位で目印がたっており、それを目安に歩く速度を計る。1キロを10分で進む。水道橋の北詰を進み、次は浅間橋。手賀第二排水機場。手賀沼からほぼ3キロといったところ。
浅間橋の南北にはまっすぐにのびる道路がある。これは、昔の千間堤の跡。江戸時代の享保年間、千間というから、およそ1.8キロにわたって堤が築かれていた。見沼散歩の折にも登場した、伊沢弥惣兵衛の建議で干拓を計画。もともとは沼全体の干拓を計画していたようだが、計画を変更し、この千間堤を築き、沼を東西に分ける。西はそのまま残し、堤より東を干拓することにした、と。江戸の町人高田茂右衛門友清が請け負った、とか。が、完成後しばらくして堤は決壊。上でメモしたように、大規模な干拓工事が実施されたのは、第二次世界大戦後。昭和43年になって完成。500HAの水田ができあがった、ということだ。
浅間橋を越え、1.5キロ程度で手賀沼週末処理場。家庭排水を集めて浄化し川に流す。先ほど手賀第三揚水機場・手賀第三排水機場のところで、手賀川の一筋北に水路が走るとメモした。この水路は手賀沼週末処理場から出ている。ということは、少し上流まで水を運び、手賀川の水質の浄化も行っているのだろう、か。
手賀沼週末処理場。ここまでくれば、利根川の堤まで2キロ程度。川筋を離れ処理場を迂回し成行きで東に進む。JR成田線を越え先に進む。川筋に北千葉揚排水機場。大雨・台風といったとき、水位の高くなった利根川の水を水門で防ぎ、同時に水位が高くなった利根川に手賀川の水を放水できるようにしている。北千葉揚排水機場の先に国道356号線。道の向こうに土手、というか堤防。利根川に到着。

利根川
土手の上を最寄りの駅、JR成田線・木下駅に進む。木下は「きおろし」と読む。このあたりの河岸から江戸に雑木を運んでいたのが名前の由来。木下は、利根川船運の要衝の地であったよう。「木下河岸跡」の案内によれば、「寛文の頃(1661~72)、香取・鹿島神宮などへの参詣と銚子の磯めぐりを楽しむ「木下茶船」と呼ばれる、江戸町民の人気を集めた乗合船が発着するようになり、利根川下流へ向う旅客や銚子、九十九里からの鮮魚の陸揚げで賑わうようになった。最盛期には50軒余りの旅籠や飲食店が軒を連ねていた」、と。 木下河岸と市川の行徳河岸の間には「木下街道」が走る。現在の国道59号線。木下からは鮮魚が、行徳からは鹿島神宮などへの行楽客を運ぶ道として利用された。又、常陸の麻生藩、下総の高岡藩・小見川藩といった大名がこの街道を通っていた、と。 ともあれ、往時は交通の要衝であった、木下という地名を新たに記憶に刻み、本日の予定終了。それにしても、往時の交通の要衝の駅舎は、駅員の姿も見えない素朴なものでありました。

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