伊予 歩き遍路;五十六番札所・泰山寺から五十七番札所・永福寺を打ち、五十八番札所・仙遊寺へ

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先回は五十四番札所・延命寺からはじめ、今治市街にある五十五番札所・南光坊を打ち、市街を離れ五十六番札所・泰山寺へと辿った。今回は泰山寺からはじめ高縄山地が今治平野へと落ちる丘陵地に建つ五十七番札所・永福寺、五十八番札所・仙遊寺へと向かう。
丘陵越えとはいいながら永福寺への道は標高90mほど、仙遊寺も標高280mほどである。残暑とはいいながら、酷暑を過ぎた季節となった。のんびり丘陵への遍路道を辿ることにする。



本日のルート;
五十六番札所・泰山寺から蒼社川へ
小泉七丁目四つ辻の道標>酒蔵隅の道標2基>蒼社川へ
蒼社川から五十七番札所・永福寺へのふたつの遍路道
石清水八幡経由の遍路道
四村の道標>五十嵐の道標>石清水八幡表参道口>石清水八幡拝殿>五十七番札所・永福寺への下り道
玉川回りの道
お旅所橋傍の道標>八幡集落の道標>八幡神社参道裏口に>五十七番札所・永福寺
五十七番札所・永福寺から五十八番札所・仙遊寺へ
舟形地蔵丁石>「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑>犬塚池の道標>大塚池土手手前の舟形地蔵>犬塚池から車道との交差点に>土径を進み再び車道に>静道道標と丁石、遍路墓>五十九番札所・国分寺への分岐点>十八番札所・仙遊寺

泰山寺から蒼社川へ

えひめの記憶 泰山寺から蒼社川へ
「栄福寺への遍路道は、泰山寺下の駐車場から100mほど南西へ向かい、奥の院から下りてきた道と交差する。その交差する所にある友澤邸(小泉7-36)北角の四つ辻に天保15年(1844)建立の道標がある。
道標に従って左折し、まっすぐに南東へ向かう。まもなく田畑の中の狭い田んぼ道を行く。400m余り進むと、矢野邸(小泉4-10-8)横の四つ辻に出る。その道に面した古い酒蔵の隅を切り込んだ所に、2mを越す静道道標が立ち、手印が刻まれた地蔵道標が安置されている。さらに南東に進む道は、家並みの中に入って舗装はされていても、昔ながらの細い道であり、国道317号も横切ってそのまま蒼社川(そうじゃがわ)へと向かう」

小泉七丁目四つ辻の道標
奥の院からの道を戻り、泰山寺駐車場前を通る道との四つ角に道標が立つ。お地蔵様と手印、そして「遍ろ道」と刻まれた順路を示す面、「天保十五年辰九月建立」と文字が刻まれた面、「當村上所中」と刻まれた面を持つ道標が民家の塀の前に立つ。




酒蔵隅の道標2基
遍路道は南東に一直線に進む。国道317号の一筋西の道と交差する箇所、道の東側に茶色の木造倉庫といった建物の角が切り取られ、そこに道標と小祠が祀られる。
大きい道標が静道道標。「右 和霊大明神 三十丁 奈良原本社 五里」と南東を指し、南西へと直進する面には手印とともに「へんろ道」と刻まれている。2mほどのあるかと思われる立派な道標である。
和霊神社
南西に進んだ今治市玉川町法界寺に和霊神社が見える。そこだろうか。そこであるとすれば、当初法界寺村の庄屋の屋敷神として宇和島の和霊神社から勧請し祀られたものが、人々が崇敬すること篤く、今治藩主により現在の地に社殿が建てられた、とのこと。
祭神は神話に登場する神ではなく、宇和島にある本社と同じく宇和島藩家老の山家清兵衛公頼公。藩政に殉じた公の徳を多とし、宇和島藩の枠を越え、遠くは広島までの百姓・漁民・町人といった大衆の守護神として信仰を集めたようである。
奈良原神社
かつて今治市玉川町の標高1041m、楢原山にあったが現在は別宮大山祇神社の境内社として遷座しているようだ。
開山は役小角とされ、鎌倉時代以降山岳修験の霊山として多くの行者が常住した、とのこと。西条市丹原にある西山興隆寺から高縄山地に取りつき、東三方ヶ森へと尾根道を進み楢原山へと向かう修験の道もあった、と言う。
社への崇敬は昭和30年(1955)代にも400を超す講中があったと言うが、氏子の今治市内への移転、社の崩落もあり、別宮大山祇神社に遷座したとのことである。昭和9年(1934)には国宝「伊予国奈良原山経塚出土品」が楢原山頂で発見されている。

道標にあったふたつの社をチェックすると、共になんとなく気になる社であった。機会を見て歩いて見ようと思う。予期せざる贈り物を得た心持である。

蒼社川へ
遍路墓
酒蔵隅の道標の先は細路となる。細路を抜け国道を横切った先の車の通れない狭い道を南西に一直線に進み、道なりに少し広くなった道に出る。その道を進むと前方に特別養護老人ホーム日高荘の白い建物が見えてくる。遍路墓は建物北側に並んで立っていた。

「えひめの記憶」には「蒼社川の土手沿いに老人ホーム日高荘があり、同じ敷地内の遍路道沿いに遍路墓が15基ほど整理されて並び、「四国遍路無縁墓地」の立て札が添えられている。歩き遍路がふと手を合わせながら通り過ぎると聞く。泰山寺からこの堤までおよそ1kmである。日高荘前の土手を上がると、幅100m余の蒼社川である」と記す。

蒼社川左岸の道標
「土手沿いに走る道のガードレールの川側に、道標などの石造物を整理して並べている。1基は嘉永3年(1850)のもので、「遠山に眼のとどきけり秋の月」の俳句も刻まれた静道道標である。道標の手印は川を渡る方向を指している。その脇に4基の舟形地蔵、左端の地蔵は6角形の台石の上にある。少し離れて左にもう1基道標がある(えひめの記憶)」と記される道標に向かう。

日高荘脇の土手に上る道を上り切った川傍のガードレールの中にいくつもの石碑・石仏が立っていた。

静道道標
静道道標は南を指す。かつては橋もなく、渡河していたようである。「えひめのい記憶」にも、「『四国遍礼名所図会』には「惣?川常に河原をとぶる。大水の節ハ渡船す」とある。古老の話では、この辺り戦前は、水枯れのころ、川の流れが幾筋かになって中洲ができて、流の両側に石を組み、その上に3枚ほどの板を置いて仮の板橋として渡っていた。ところが大雨になると大河となり板橋も流れ、板とともに流れた遍路もいたという。(中略)昭和5年(1930)刊の『札所と名所 四国遍路』には「折柄天気つゞきの秋の半ば、ほんのちょろちょろ水が一筋、河原を流れ、板橋がそれを渡ってゐる。春夏の豪雨には一たまりもあるまい。いや、そのときは十四、五町上流になってゐる熊橋と言ふのを越すのださうな」と記されている」と渡河の情景が記されている。
角形道標
舟形地蔵から下流にほんの少し離れたとことに道標がある。文字などは摩耗して門外漢には読むことができなかった。








対岸の道標
「対岸に回ると徳重と中寺の境、そこにも道標が川を挟んで道標(私注;静道道標と角形道標)と向き合うように立っている。栄福寺への道と泰山寺への道をそれぞれ示した大正11年(1922)建立のものである。1.5m四方に2段のぐり石で囲い、その中に道標と舟形石仏や遍路墓が7基まとめられている(えひめの記憶)」とある対岸のい道標に向かう。

川沿いの道を上流に向かい山手橋を渡り、蒼社川の南を流れ山手橋の少し下流で蒼社川に注ぐ谷山川に沿って道を左折、しばらく歩くと道標の立つ箇所に着く。
道標には川に向かって北を示す手印とともに泰山寺、西に向かっては永福寺と文字が刻まれていた。道標を囲む石碑、石仏は「えひめのい記憶」に記される舟形石仏や遍路墓であろう。
蒼社川
Wikipediaに拠れば、「高縄半島のほぼ中央、松山市、東温市との境の白潰(しろつえ)の北壁に源流を発し、北流し、鈍川渓谷を形成。支流を集めつつ、今治市法界寺付近で今治平野に流れ込み、北東に流れを変え、やがて燧灘に注ぎ込む。上流は県立自然公園に指定されている。
高縄半島の上流域の大きく花崗岩質でもろく風化しやすいため、過去、藩政期から幾度か洪水の記録があり、川床の掘削を行った。幾度か上流に植林が試みられたが、決定打にはならなかった。
一方、「恵み」の部分として、洪積平野として今治平野を形成したほか、今治に水資源を供給し、タオル製造業や染色業の発達を促した。1971年(昭和46年)には上流に玉川ダムが整備され、旧・今治市とその周辺の自治体に農業用水、工業用水及び上水を供給している。
古くは「総社川」と記した。なお、今治市蒼社町は1976年(昭和51年)の住所表示によって作られた町名である」とある。

タオル製造業や染色業の発達を促した、蒼社川の水質が高度成分の低い軟水であり、この軟水を用いて晒しを行うことで繊細で柔らかな風合い、鮮やかな色が表現できることにあるようだ。
白潰は上述東三方ヶ森の西にあり、水源はこの東三方ヶ森とされる。また、今治平野に出る法界寺地区にはこれも上述和霊神社がある。蒼社川の源流点にも行ってみたくなった。

蒼社川から永福寺へのふたつの遍路道

「えひめの記憶」には「蒼社川を渡ってから栄福寺への道は二通りある。一つは四村(よむら)、五十嵐(いかなし)を通って、石清水八幡へ北東側から上り南西側の中腹にある栄福寺へ下る道、もう一つは谷山川沿いに玉川町に入り、石清水八幡の南西側に回って栄福寺へ上る道である」とある。

石清水八幡経由の遍路道
どうせのことならふたつの遍路道をカバーする。まずは石清水八幡の建つ丘陵を越えの道を辿る。

えひめの記憶 蒼社川右岸から四村(よむら)・五十嵐を経て
石清水八幡表参道へ
「先ず四村、五十嵐を通る道だが、天保7年(1836)の記録『四国遍路道中雑誌』には「惣蛇川越而よ村少し行きていがなし村二致〔到〕る」とあり、今も四村、五十嵐に道標が残っている。(中略)この四村を抜けて五十嵐へ続くかつての遍路道を明確にすることはできない。そこで現在の道で道標をたどることにする。 蒼社川を渡った徳重から谷山川沿いに500mほど進む。そこで山手橋を渡ってきた県道今治丹原線に合流する。左折して300mほど南東に進み、県道から分岐して八幡山に向かって右折する。
田んぼの中を100mほど進むと、秋山邸(四村173)北隅の四つ辻に、頭部が折損した道標が立っている。
そのまま集落の中を100mほど直進すると三差路があり、左折して佛城寺前を過ぎ、次の四つ角を右折して八幡山に向かって直進すると山の麓を回る道に突き当たる。桧垣邸(五十嵐444)前に道標があり、左に150m足らず行くと石清水八幡神社参道表口である。

四村の道標
記事に従い、蒼社川に沿って流れる谷山川脇の道を西に進み、山手橋を南北に走る県道155号まで戻り左折。南東に進み、佛城寺に至る道を目安に右折すると、運よく最初の四つ角、民家の塀前に道標があった。摩耗し文字も手印もわからなかった。



「えひめの記憶」には「四村については、遍路にかかわる次のような伝説が残っている」とし、「与州越智郡今治の内、余村といふ所に治右衛門といふものあり。遍礼も数度して、遍礼の事を殊勝におもひ、遍礼人に宿をかしいたはれり。我家の前に数畝の畠あり、土地あしくして、なにをうへてもそだたず、打捨置しが、遍礼にあたへんとて、芋をうへて見しに、事々敷肥さかえ、よろこび遍礼人に心まかせにすヽめけり。これを遍礼人にあらざる人くへるにあじなくしてくはれず、ミな人ふしぎといひあへり」と記す。
要は作物の育たない土地に、遍路の接待にと育てた芋が実る。遍路は美味しく食べるのだが、そうでない人にはなんの味もしない芋であった、と。

五十嵐の道標
道を進み佛城寺に道があたる箇所を左折、次の角を右折し八幡山前を通る道にあたるT字路の山側に、草で覆われ、少々傾いた道標があった。手印と「へんろ」の文字はかろうじて読めた。






えひめの記憶 石清水八幡表参道から八幡山を越えて永福寺に
 「石橋を渡ると、すぐ右に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と彫られた万延元年(1860)銘のある碑が立ち、左側の草叢(むら)の中には道標(私注;2基)がわずかに頭を出している。
また、『四国遍礼名所図会』に「石鳥井有り。是より弐町坂也」。とあるが、正面には延享2年(1745)建立の古びた石の鳥居があり、道はそこから左右にくねりながら勾配のきつい石段が200m余り続いて山頂の八幡神社に至る。樹々に囲まれた深閑とした上り道である。
八幡山の山頂からの眺めを『四国遍路日記』では、「此山ヨリ見バ今治三万石ヲ目ノ下二見ナリ。誠二碁盤ノ面ノ様ニテ田地斗也。真中二河在、北ハ海手向ヒハ芸州ナリ」と記している。今でも今治市内から瀬戸内まで一望下にすることができる風光の地であるが、今は茂った木々が眺めをさえぎっている山頂からは滑り降りるような道や石段が南西に下り、150mほどで栄福寺に至る」

石清水八幡表参道口
五十嵐の道標のあるT字路を左折すると、ほどなく石清水八幡の表参道口に。 正面に石灯籠を左右に配した鳥居が見える。その手前右手に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と刻まれた石碑が立つ。
表参道口の道標2基
参道口左手、社前の道に面した草むらに2基の道標があった。ひとつは半分に折れた(埋もれているとは思えない)ように見える。もうひとつには手印や「へんろ」の文字は読めるが、手印はあらぬ方向を示している。どこからか集められた2基がここに置かれたものだろうか。



石清水八幡拝殿
石の鳥居を潜り二度屈曲する石段を上る。標高90m、比高差60mほどではあるので、それほどきつい石段でもない。上り切ったところは大きく開かれた境内となっている。拝殿にお参りし、境内端に。「えひめの記憶」には木々に遮られるとあるが、現在は伐採されたのか、から今治市街はもとより、瀬戸の海、しまなみ海道までの眺めが楽しめる。
石清水八幡宮
参道表口の石柱に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と刻まれていたように、神仏混淆の頃は、この社が五十七番札所であった。現在の札所・永福寺は別当寺であった。五十五番札所である南光坊と別宮大山祇神社との関係と同じである。
貞観元年(859)河野深躬により勝岡に勧請され、勝岡八幡宮と称された。永承年間(1746~53)源頼義が、山城国の男山によく似た現社地に、石清水八幡宮に倣って社殿を造営し、石清水八幡宮と改称した。伊予国の一国一社八幡宮(国府の近くに創建された八幡宮)である。
河野深躬
河野深躬は河野氏の祖とされる河野玉澄から数えて4代目当主とされるが、鎌倉以前の河野氏については、国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は善応寺の一帯。伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。歴史に登場するのは第21代当主・河野通清からである。
源頼義
先日、松山市内を横切る歩き遍路で桑原八幡に出合ったとき、「松山の八社八幡の二番社。源頼義が伊予の国の鎮護として八社八幡を定めたとき、二番社とされたと伝わる。平安から鎌倉にかけて源頼義が下向して八幡宮を勧請・造営したという伝承の陰には、地方武士の協力があったといわれる」との案内があった。

「えひめの記憶」には、「『予州記』には「伊予入道頼義、当国の国司として在国あり、親経(私注;河野親経。河野通清の母の親、ということは通清の祖父ということか)と同志にて、国中に四十九処之地蔵堂、八ヶ所の八幡宮建立せらる」とあり河野家代々の崇敬を受けていたとみられる」とある。
源頼義は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。初代誠和源氏の4代目棟梁(頼朝は9代)。伊予守に任じられたのは事実としても、下向するとは思えない。「えひめの記憶」によれば、「任地に赴かない遙任であったろうし、源頼義が命じたものかは不明であるが、実際は河野氏(親経)によって勧請されたものであろう。そこに源頼義が登場するのは、頼義前代の頼信のころから始まっているとされる清和源氏と八幡宮の関係故のことではあろう。

永福寺への下り道
境内の南に永福寺への下り口(裏参道からの道)がある。「えひめの記憶」に「山頂からは滑り降りるような道や石段が南西に下り、150mほどで栄福寺に至る」とある道を下る。鬱蒼とした木々に覆われた階段状に整備された土径を下ると五十七番札所・永福寺の境内に至る。



玉川回りの道
蒼社川から永福寺へのもうひとつの遍路道をメモする。

えひめの記憶 蒼社川からお旅所橋へ
「玉川回りの道は、蒼社川を渡って徳重から谷山川沿いに進み、今度は県道今治丹原線を横切って、さらに谷山川沿いを上流に向かう。左前方に八幡山がみえ、川の両側には田んぼが広がっている。八幡山の尾根筋が今治市と玉川町の境界である。
600mほど進むと左に八幡山の山裾(すそ)を回る細道があり、右側には谷山川に架かった「お旅所橋」がある。その細道の入り口に3基の道標がある。百度目の茂兵衛道標と小形の道標、それに上部折損の添句もある静道道標である」

お旅所橋傍の道標
何故に「玉川回りの道」と言うのだろうとちょっと疑問。玉川町は現在今治市に合併しているが、かつては越智郡玉川町と、行政区が異なった故の命名だろうと思う。
それはともあれ、「玉川回り」の記事に従い、谷山川に沿って山手橋の南を南西に進むと、谷山川が八幡山北端最接近するところに「お旅所橋」が架かる。橋の道を隔てたところには鳥居が建つ。そこがお旅所であろうか。 お旅所の側から谷山川に沿った車道から細路が分岐する箇所に3基の道標が立つ。
茂兵衛道標
順路を示す手印の面には文字が刻まれるが摩耗して門外漢には読めないが「百度目為供養 願主 中務茂兵ヱ義教」と書かれているようだ。車道に面した面には「明治二十一年五月吉日」とあるが、その逆面には「右 榮福寺」と読める。文字通りであれば、車道を進めということだが、手印方向とちょっと異なる。







静道道標
上部が書けたのだろう「一廿丁」らしき文字が読める。
道標
「左 へんろ道」と刻まれる。










えひめの記憶 お旅所橋から八幡神社参道裏口に
「この山裾(すそ)を回る遍路道は山沿いの幅1mほどの小川に沿い、右側は田畑が広がる細い道である。400mほどで八幡(やわた)集落に入り、左折する細道との三差路に道標がある。
右側の道をさらに50mほど行くと八幡神社参道裏口に至る。左側に表口と同じ万延元年(1860)の銘が彫られている「伊豫一国一社石清水八幡宮江三丁/四国五十七番霊場」の碑が立っている。右側には仙遊寺と栄福寺を指示した茂兵衛道標もある。

八幡集落の道標
丘陵裾の土径を道なりに進み集落に入ってふたつめの三差路に道標がある。この三差路で左に進めとの遍路道案内があった。この道を進むと直ぐに参道に出た。「近道」のようである。







八幡神社参道裏口に
「近道」を戻り三叉路右手の道を進み、次の角を左折すると八幡神社参道裏口に出る。
八幡神社石柱
正面に「伊豫一国一社石清水八幡宮江三丁」、参道面に「四国五十七番霊場」と刻まれた石柱が立つ。万延元年(1860)建立とあるから、神仏混淆の時代、八幡様が札所であったことを示す。






茂兵衛道標
参道側には「榮福寺」、参道前を南に進む車道側には手印と「願主 中務茂兵衛義教」などの文字と共に「佐禮」の文字が読める。「佐禮」は次の札所である「佐礼山仙遊寺」のことである。






五十七番札所・永福寺
参道を100mほど上り栄福寺に。本堂、大師堂にお参り。「えひめの記憶」には「大師堂前には「施主伊藤萬蔵」「周旋人中務茂兵衛」と二人の名が並んで彫られた香台がある。伊藤萬蔵は、四国雪場の各所に石造物を寄進している名古屋の人である。また、本堂のぬれ縁には今も古び九松葉杖を何本も乗せた箱車が奉納されているが、西端さかえは「本堂に『高知県沖ノ島宮本武正十五歳男、イザリガタチマシタ、奉納』と書いた古い貼紙があった。」と記し、梅村武氏によると昭和8年(1933)奉納の日付があるという」

大師堂左前の香台には記事がなければわからなかったであろう「施主伊藤」「周旋人 中務」の文字が確認できた。箱車は残念ながら見逃した。

永福寺
「現在五十七番札所は八幡山の中腹にある栄福寺であるが、もとの札所は八幡山の山頂にある「石清水八幡宮」であった。澄禅や真念の遍路記には、栄福寺の名はなく「八幡宮」とのみ記している。栄福寺は長福寺、大乗寺、乗泉寺と幾度か寺名が変わったようで、栄福寺となったのは寛政4年(1792)であるという。
また長福寺は貞享年問(1684~88)ころに八幡宮の別当寺となっており、栄福寺がこれを継いだのである。四国遍礼名所図会には、「八幡社別当栄福寺」と記され、栄福寺を別当寺としている。その栄福寺は、明治維新の神仏分離によって石清水八幡神社と分かれ、独立して札所となった(「えひめの記憶」)」

永福寺の道標
「えひめの記憶」には「途中の左脇道に高さ40cmほどの自然石の道標がある。この脇道は道標(73)の三差路からの細い近道である。栄福寺入り口には「是よ里佐禮山まで二十丁」の徳右衛門道標があり、その後に下部が折損した道標が石垣に持たせかけてある」と記す。
近道の自然石道標
道標は、上述の八幡集落の道標から「近道」を進み参道のあたる手前の草に覆われた石垣前にあった。文字などは摩耗して読めなかった。




永福寺入口の道標2基
1基は徳右衛門道標には「是よ里佐礼山まで二十丁」と刻まれる、と。次の札所・仙遊寺の文字が刻まれるが、方向は仙遊寺を示してはいない。また、石垣に立てかけられている道標には手印と「四国五十七番札所」の文字「所」で折れているように見えた。




五十七番札所・永福寺から五十八番札所・仙遊寺へ

えひめの記憶 永福寺から犬塚池へ
「栄福寺の参道を下って、参道入口を左折し、八幡山の山裾を回る小川沿いの遍路道を南東に進む。
八幡集落を出るとすぐ右に田んぼが開け、小川沿いの細道の正面は高さ10mもある池の堤である。この間500mほどであるが、川を隔てた山裾に作礼山(佐礼山)への舟形地蔵の丁石が4基立っている。(中略)池の堤の下、左側の上り口に「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑が立っている。
そこから堤の下の道を右に進むと池への上り口の所に道標がある。堤に上がると犬塚池が拡がる。途中に13丁の地蔵丁石がある。池は文化14年(1817)に完成した周囲約4kmほどの溜(ため)池である」

舟形地蔵丁石
参道裏口まで戻り、四つ角を左折。舗装された道を山裾を小川に沿って進む。八幡集落の南端の民家が数軒建つ辺り、水路脇の山裾に舟形地蔵丁石がある。道なりに進むと民家が切れるあたりにももうひとつ舟形丁石が立っていた。 「えひめの記憶」には「丁石中央の地蔵菩薩像の右に「是より○丁 施主○○」と彫られているものが多いが、彫られた願主はすべて「覚心」である。


覚心についてはよくわからないが、栄福寺大師堂前の石垣沿いの、「是より八幡宮二丁願主覚心/善関良財童子」と刻まれた舟形地蔵については、覚心が子供の供養のために建てたものであろうという。またそれと並んだ舟形地蔵には、「是より佐礼山十八丁.../享保十五年六月十八日願主覚心」とある。 施主の居住範囲や地蔵への刻字などからみると、覚心は、享保年間(1716~36)ころの、八幡を中心とするこの地域の人で、亡き子の供養もこめて地蔵丁石建立を発願したのであろうか。

ともあれ覚心による丁石は作礼山まで遍路道脇に点々と立っている。 18基のうち4基(3・4・6・17丁)は確認できず、1丁と2丁、12丁と13丁の丁石の順番がそれぞれ逆の位置に立っている」とある。

「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑
舗装された道を進むと、土砂採取場のあたりで道は分岐し、遍路道は左に進む。その角に舟形地蔵丁石(?)が立つ。
舗装の切れた道を犬塚池の土手に向かって進むと池の水の吐口があり、その先に「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑が立つ。碑の手前に犬塚の碑と舟形地蔵丁石があった。


犬塚
「えひめの記憶」には「栄福寺と仙遊寺の間の使い役をしていた犬にまつわる次のような伝説が残っている。犬塚池 作禮山の麓に在り。堤下に犬塚有り、因りて名づくと云ふ。(中略)昔義犬あり、仙遊寺と八幡山栄福寺と両寺に愛せしに、仙遊寺の鐘鳴る時は佐(作)礼山に来り、栄福寺の鐘鳴る時は八幡山に登る。或時両寺の鐘一時に鳴りければ南北に狂ひ走り、遂に此堤下に斃れて死にけり。仍って此処に塚を築く、犬塚是なり」とある。
伝説は永福寺と仙遊寺の住職を兼ねていた僧が可愛がっていた犬といった記事もあった。それはそれとして「名勝八幡山犬塚池作礼山」の名勝って何を指すのだろう。八幡山・犬塚池・佐礼山一帯のことだろうか。池の堤に上り周囲の景観を眺める。「名勝」と言われれば、そのようにも思える。

犬塚池土手下の道標
池の堤下の土径を進み、土手下を流れる水路を渡る手前に道標があった。順路を示す「佐礼山」は読める。他の面にも文字が刻まれているのだが、「八」の他は薄学の身には詠むこと叶わず。








大塚池土手手前の舟形地蔵
水路を渡り土手に上る道の左手に舟形地蔵が立つ。これも覚心建てた丁石だろうか。八幡の民家辺りにあった2基、犬塚池に分岐する道角の1基、犬塚池土手下の1基とこの1基。文字は読めないが形は同じように見える。
覚心の建てた丁石は18基。確認されているものは14基。そのうちの5基かもしれない。



えひめの記憶 犬塚池から仙遊寺への車道へ
「道幅50cmほどの池沿いの道を300mほど行くと池から離れ、やがて木立に囲まれた道が、急坂の擬本のコンクリート階段となる。この間に丁石(私注;2基)が道端や目の高さくらいの山肌に立っている。また昭和57年(1982)ころには、池と分かれる辺りに「(手印)をされみち」の道標が立っていたそうだが、今は見えない。
階段を上がった所で、山の中腹を横切る2車線の道と交差するが、それを横切り、細い坂道を登る。100mほどでまた車が通行できる道に出る。その手前に覚心の丁石とともに6基ほどの遍路墓がまとめられている」

犬塚池から車道との交差点に
犬塚池の土手脇にある首をくっつけたようなお地蔵様から先は、鬱蒼とした木立の中を歩くことになる。土径を辿ると2基の舟形地蔵もあった。5分ほど歩くと前が開け、階段を上ると車道に出る。
この車道は里に出る道であり、仙遊寺への車道はこの交差箇所の少し西で分岐する。



土径を進み再び車道に
遍路道は車道をクロスし、遍路案内に従い再び土径に入る。道の左手に舟形地蔵、その先にも舟形地蔵が立つ。土径をほんの数分歩くと、前が開け車道に出る。その手前に舟形地蔵と遍路墓が。この舟形地蔵には「九丁」の文字が読めた。記事にある覚心の舟形道標であろう。

えひめの記憶 車道を国分寺道分岐点へ
「昭和20年(1945)以前のここから寺までの遍路道は明らかではない。現在の道は作礼山(標高281m)の山頂近くにある仙遊寺まで車で上れるように拡幅整備されたアスファルトの道である。今までの遍路道に比べると随分緩やかである。600mほど進むと左側に静道道標が立ち、その横に覚心の5丁石とともに10基余の墓石が整理されて並んでいる。この道標は昭和57(1982)年には道の右側に立っていたという。
この遍路墓群から100mほど上ると、右は仙遊寺の上り道、左は仙遊寺から打戻って五十九番国分寺へ向かう分岐点に至る。ここには、真念、徳右衛門、静堂の標石が残されている

静道道標と丁石、遍路墓
「車道をしばらく上る。途中、ヘアピンカーブで曲がる箇所では今治を一望でき、遠くしまなみ海道、瀬戸の海をも見える。ペアピンカーブから少し進むと、道の左手に大きな石柱があり、周囲には石灯籠や幾多の石造物が見える。記事にある静道道標、地蔵丁石、そして遍路墓である。

静道道標には「嘉永七年」といった年号が刻まれる。静道道標右手には舟形丁石も見える。その右手、石灯籠の先には幾多の遍路墓が並ぶ。
「えひめの記憶」には、「整理された遍路墓の中には、阿州・駿州・出羽等からの遍路に混じって「内海源助」と記されたものがある。9丁の丁石(私注;前述の車道に出る手前の遍路墓と共にあった船形地蔵丁石)の所にも「内海源助墓」の墓石がある。
この地に2基の墓標が残されている内海源助は天明3年(1783)に南部藩八戸に生まれた。天明の大飢饉(ききん)では人肉まで食べなければ生きてゆけなかったという。彼もまたそうして育てられた。その事を後に知った彼は、「人を犠牲にして生きる腐れ身に未練はあらじ、せめて大師の救いを求め懺悔をなし、悪しさ宿命に泣いた人々の菩提を弔い浄土へお送りすべし」と陸奥の国を出発し、途中出羽国横田で知人の戸籍を借り、約10年後にこの地にたどり着いて命を果てた」とある。

五十九番札所・国分寺への分岐点
この遍路墓群から先に進み次の札所・国分寺への分岐点に。分岐点の木標には「国分寺6.7km 仙遊寺0.1km 窓の峠1.0km」とある。仙遊寺を打った後は、ここまで戻り、五十九番札所・国分寺へと下ることになる。
この分岐点には徳右衛門道標、真念道標、静道道標があると記事にあったが、「真念と徳右衛門の道標が並んで立つのは珍しい。また真念道標隣に地蔵像があり、その台石に静道居士の「よきとこへこころしづめてはなのやま」の句が、さらにその下の台石に「本堂江三丁」と刻まれている(えひめの記憶)」と記される。

お地蔵様の像とともに「是より国分寺一里」が読める道標は徳道衛門道標ではあろうが、その横に、少し小振りな道標がある。それが真念道標だろう。また、これら道標手前には静道の句が刻まれるというお地蔵様もあった。
窓の峠
窓の峠は仙遊寺の南にある。方向は仙遊寺の逆方向を指しているのだが、どのようなルートで進むのだろう。逆方向であれば仙遊寺の丘を一度下り、谷山川の谷筋を上るのがそれらしき道かと思うのだが。
それはともあれ、この箇所に「窓の峠」の案内がある、という意味合いは「四国の道」のコース案内ということだろう。


永福寺から仙遊寺へのもうひとつの遍路道 別所回りの道

「えひめの記憶」には、「栄福寺から南西400mほどにある別所集落から仙遊寺へ登る道も古くからあったが、その道は戦後幾たびかの改修で道幅4mほどの道に変わったと近在の人は言う。現在は犬塚池のそばを通る前述した旧遍路道よりも車で行ける別所回りの道を仙遊寺へ向かう遍路がほとんどである。この道にも道標が残されている。
栄福寺より南西に進むと別所の大山積神社の所で玉川別所橋より上ってきた道に合流する。そこに「四国の道」の標識があるが、その根元に上部折損の小さな道標があり、100mほど進むと左側に風化して判読しにくい道標が横倒しになっている。(中略)この道はやがて前記の犬塚の池沿いの道と合流して仙遊寺へと通じている」とある。

玉川別所橋から三島神社を経て進む道は舗装された車道となっており、車でのお遍路はこちらが便利だろう。記事にある「四国の道」の木標の辺りには道標は見つからなかった。またその先にあるという道標も訪問時(2017年8月)には道路工事で封鎖中のため確認することはできなかった。

えひめの記憶 五十八番札所・仙遊寺;仁王門から参道を本堂に

仁王門
「国分寺への分岐か「さらに道を登ると左手に仁王門があり、手前の道沿い左側に、数基の地蔵の中に覚心の「是より壱丁」と刻まれた舟形丁石がある(えひめの記憶)」
堂々とした仁王門。「補陀落山」と書かれた額がある。山号は「佐礼山」とあるのだが、どういう所以なのだろう。補陀落山は観音菩薩のホームタウン。このお寺さまの本尊は千手観音とあるので、その故なのだろうか。
千手観音といえば、お寺の案内に「この寺の本尊は、天智天皇の守護菩薩であった千手観音です。観告さまの像は、海から竜登川を登ってきた女の竜が一刀刻むごとに三度礼拝して作り上げたといわれ、「竜女一刀三礼の作」ともいわれています。
また、阿坊仙人と称する僧がここで40年間仙人のような生活をした後、雲のごとく姿を消してしまったといわれており、このことから仙遊寺という寺号が付いたといわれています」とあった。仙人云々の伝説からの寺名由来は雲と遊ぶが如く卒然として姿を消したということだろうし、三礼が佐礼に転化し山号となったのだろうことは推測できる。
仁王門左前のお地蔵様群の中に舟形地蔵丁石があるとするが、どれが地蔵丁石だろう。いままで道端で見てきた地蔵丁石と似た丁石はない。形からすれば結構大きな船形地蔵があるのだが、それだろうか。それはともあれ、地蔵群の中にあったミニチュア地蔵群はなかなかよかった。

覚心の丁石
「車道は仁王門の右を通り境内へと続くが、昔ながらの遍路道は仁王門を通り抜け、手すりの付いた石段を登る。途中右側に、覚心の「是より二丁」と刻まれた舟形丁石が立っている。この丁石は、先の丁石と入れ替わっているようである(えひめの記憶)」

仁王門を潜ると、沢をうまく利用した石段の参道となっている。地図をみると本堂までおおよそ60メートルほどの比高差。石段の中央には鉄パイプの手摺があり、上り下りのお遍路の便宜に供している。
記事にある覚心の丁石は、それらしき舟形地蔵はあるのだが、文字の確認ができずどれが丁石か確定できなかった。

弘法師御加持水 
「さらに登ると左側には、小屋に覆われた「弘法師御加持水」と石柱が立てられ、水口から清潔な水が流れ出ている。この泉には弘法大師が錫丈(しゃくじょう)で清水を掘り出したという杖立伝説が伝えられている。また、このあたりの里人が日照りと疫病に悩んでいたので霊泉を大師が教えたとも、大師がこの水を加持して病人に施すと、たちまち病気がなおったとも伝えられている(えひめの記憶)」

「弘法師御加持水」と刻まれた石柱の脇にある小祠の下はコンクリートで作られた水槽のようにも見える。ここに御加持水が溜まり、沢に落ちているということだろう。ちなみに「御加持水」とは仏の霊験により衆生を守る水。加護に近い。

西国三十三ヶ所観世音石像
「参道途中には西国三十三ヶ所観世音石像が一番から三十三番まで立ち並んでいる。石段を登りつめると仙遊寺に至る(えひめの記憶)」

沢に沿って石段参道を上ると、参道脇に観音様が並ぶ。西国三十三観音霊場の札所一番は熊野・那智山の青岸渡寺。熊野古道・中辺路を歩いたことを思い起こした。
仁王門の扁額「補陀落山」が観音様のホームタウンであったこととともに、このお寺さまの本尊である千手観音へと観音様を収斂させていく。

本堂
仙遊寺は地元の人々には、「おされさん」と呼ばれ親しまれている。境内には二層の屋根のある本堂、大師堂、鐘楼、最近(平成12年)建てられた宿坊などがある(えひめの記憶)」
Wikipediaの記述を簡単にまとめると「仙遊寺(せんゆうじ)は、愛媛県今治市玉川町にある高野山真言宗の寺院。作礼山(されいざん)、千光院(せんこういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
天智天皇の勅願によって伊予の大守越智守興が堂宇を建立した。空海(弘法大師)が本寺に逗留して修法を行った折には、伽藍を復興し井戸を掘ったとされる。江戸時代に荒廃してしまったが、明治初期に宥蓮上人が再興した」とのことである。

静道道標
鐘楼の北西に心精院静道の「龍燈桜 国分寺へ五十丁」の道標がある。この道標には静道の「入相のかね惜しまるる桜かな」という句が刻まれている。龍燈桜については『今治夜話』に7月17日の夜、湊黒磯より龍灯が出現し、海から龍灯川をさかのぼってこの樹にかけられたとの伝説が記されている(えひめの記憶)」

鐘楼の北西、というより、境内北の崖端手前に道標が立つ。正面の文字は大きくしっかり刻まれているのだが、門外漢には読むことはできなかった。側面には「當城下 丁字屋」らしき文字が刻まれていた。 当然のことながら、記事にある「入相のかね惜しまるる桜かな」は読むこと能わず。「入相(いりあい)の鐘」とは日暮に寺でつく鐘。
記事にある龍燈とは主に海から生じる「怪火」。佐礼の由来として、龍女(龍宮に住む仙女)が千手観音を刻む度に三礼したとメモしたが、その龍女は龍灯川(今治市東鳥生町で瀬戸内に注ぐ)を遡りこの寺にて観音様を彫上げたわけだが、その後も龍燈(怪火)が龍灯川を遡りこのお寺さまの桜の木にかかった、とのことである。

これで五十六番札所・泰山寺から五十七番札所・永福寺を打ち、五十八番札所・仙遊寺へと辿った。次回は仙遊寺の丘陵を下り五十九番札所・国分寺へと向かう。


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