尾瀬散歩 Ⅲ:尾瀬について

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今でこそ、の尾瀬の自然の有り難味であるが、それっていつの頃からその有り難味が評価されるようになったのか、ちょっと調べてみた。

尾瀬が環境的「歴史」に登場するのは、明治23年。平野長蔵さんが尾瀬沼のほとりに長蔵小屋をたててから。その頃尾瀬の水資源を利用するため尾瀬ヶ原を水没させる計画が出される。長蔵氏は反対を唱えたがなかなか賛同者が得られなかった。ということはこの時期は「世間」からその有り難味を認められていない。

昭和9年尾瀬は日光国立公園の一部に指定された。ということはこの時期に「国」から評価された。しかし、昭和19年尾瀬沼からの取水工事が開始された。平野長英氏は学者たちと反対運動を繰り広げたが,昭和24年工事が終了。沼尻に堰堤が三平下には取水門ができ,樹木や湿原の一部が枯れてしまった。ということは、この時期も「本当に」有り難味は評価されていない。

さらに,昭和30年代後半尾瀬に自動車道を通す工事が強行され,沼山峠・鳩待峠への自動車道が完成。大清水と三平峠を結ぶ自動車道は、平野長靖氏の建設反対への奔走、また、昭和46年環境庁の発足、なおまた、初代長官大石武一氏(かっこよかった政治家だったなあ)の存在もあり、その建設は阻止された。この時期に正式に「本当に」ありがたいものとして評価定着したということであろう。

こういう展開になるとは想像していなかったのだが、三平下で国道401号線が突然切れていた理由がこれでわかった。ここに道路が建設される計画だったのだ。 前述のごとく、戸倉から大清水を経て、沼山峠へ抜ける山道は、古くから上州と会津とを結ぶ交易の道であり、出稼ぎ人々が行き交う道でもあったわけだが、ほぼ、そのルートに沿って、経済成長から置き去りにされた山村の産業振興と観光を目的に、自動車道を建設しようと計画されていたのである。国立公園となろうがどうしようが、この時期までは自然の有り難味より、生活の重みを減らすことのほうが重要であったのだろう。親子3代にわたって尾瀬の有り難味を訴え続けた、その思いの強さもやっとわかった。国立公園に眠ることのその意味合いもやっとわかった。

尾瀬の名前の由来だが、これも例によっていくつもある。尾瀬大納言藤原頼国からきたという説。これは平清盛との恋の鞘当に破れ京を逃れた、とか平家追討の戦に破れたとか、宮廷内の抗争に敗れたとか、以仁王のお供で逃れてきたとか、また大納言の名前も尾瀬大納言尾瀬三郎房利、といったりで、あれこれあってわけがわからないが、ともあれ、この尾瀬の大納言がこの地に住んだことから来たとする説。とはいうものの、「おぜ」という名が歴史上登場したのは江戸時代からで、それも「小瀬沼」であり、それ以前は単に国境を表す「さかい沼」、ふるくは「長沼」「鷺沼」とも呼ばれていたわけで、いまひとつ納得できず。また、安倍貞任の子どもだったり、尾瀬の大納言の部下だったりとこれもあれこれあるが、つまりは悪いやから=悪勢がこの地を襲ったからといった「悪勢説」。これも出来すぎといった感があるので不採用。

尾瀬、って「浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原」の意味
で、結局は地勢的特長から来る「生瀬」(おうせ)からきたという説。つまりは、浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったという説で自分としては納得。
今回の尾瀬歩きで土地勘ができた。次回は大清水・三平平ルートとは異なるもうひとつの群馬側からのルート。鳩待ち峠ルートで尾瀬ヶ原に行ってみよう。そして三条の滝方面へ降りてみよう。今年の秋までには。

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