守谷散歩 その Ⅳ;鬼怒川の開削水路を大木丘陵からはじめ、利根川との合流点まで辿る

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先回の散歩で鬼怒川が小貝川に合流・乱流する地帯から、大木丘陵の鬼怒川人工開削流路の始点辺りまで辿った。今回はその人工開削地点辺りからはじめ、大木丘陵の鬼怒川開削流路を辿り、利根川への合流点へと歩く。

先回の散歩では鬼怒川の川筋近くに辿りつくのが如何にも大変であった。暴れ川故、と言うか、水量豊富な川故なのか、川筋と堤の間には調整池を兼ねたような畑地や森林があり、川筋に沿っての遊歩道といった類(たぐい)の道はない。今回は前回の轍を踏まないように、Googleの航空写真でチェックするに、川筋まで緑地、畑地、その先に葦原らしきブッシュが茂り、川筋に遊歩道といった道はない。それでも、よく見れば、ところどころに緑地が開けたようなところがあり、そのあたりから川筋に足を運べるかも、といった程度の散歩の準備を行い、守谷へと向かう。

本日のルート;関東常総線・小絹駅>鬼怒川の川筋>川の一里塚>大山新田>大日山遺跡>鬼怒川の砂州>板戸井>清瀧寺>滝下橋>清瀧香取神社>大木地区>六十六所神社>大円寺>がまんの渡し>鬼怒川と利根川の合流点>県道46号>香取神社>正安寺>成田エクスプレス守谷駅

関東常総線・小絹駅
家を離れ、成田エクスプレスで守谷駅へ。そこで関東常総線に乗り換え小絹駅で下りる。先回の散歩でメモしたように、小絹の南北は「つくばみらい市」。市域の大半が小貝川の東岸にある「つくばみらい市」はこの小絹地区、昔の北相馬郡小絹村の辺りだけが小貝川を越え、鬼怒川東岸にまで突き出ている。 駅を離れ、整備された住宅が広がる絹の台地区を鬼怒川へと向かう。絹の台もかっては小絹、筒戸の一部であり、森や林、そして畑地の広がる一帯ではあったようだが、昭和末期の常総ニュータウン開発構想の一環として区画整理事業が行われ、平成元年(1989)のニュータウンのオープンに合わせて「絹の台」として独立した地域となった。

鬼怒川の川筋
おおよそ標高15mの台地からなる絹の台地区を進み鬼怒川に近づく。川筋に進もうと思うのだが、「絹ふたば文化幼稚園」や自然雑木林の保護された敷地があり、川筋には入れない。保護林に沿って成り行きで進むと道が川に向かって下ってゆく。
道を下りきった辺りで、鬼怒川が開け、川に沿って上流に向かってちょっとした距離ではあるが道が造成中であった。造成中の泥道を越え鬼怒川の流れの傍に立ち、両岸に迫る台地を眺める。上流が15m台地、下流が20m台地と少し崖面が高くなっている。
この台地を開削した往昔の工事をしばし想い、鬼怒の流れを離れ造成中の道を逆に進むと台地に公園といった一画が見える。先ほど見た造成中の道も、この公園整備の一環であろうか。ともあれなんらかの案内でもあろうかと歩を進める。

川の一里塚
坂を上り切ったあたりに公園が整備されており、公園の一角に大きな岩が置かれ、その前に「川の一里塚」とあった。案内には「鬼怒川の源は栃木県塩谷郡栗山村鬼怒沼である。川は山峡をぬい、日光中禅寺湖に発する大谷川と合流して関東平野を南下する。流路延長176kmに及び、守谷町野木崎地先で利根川に合流する。鬼怒川は古代、毛野川、毛奴川、衣川、絹川と呼ばれたが、中世以降鬼怒川となった。
以前、鬼怒川は谷和原村寺畑において小貝川に合流していたが、小貝川がたえず氾濫し水難に悩まされたため、元和年間(1621年頃)、細代から守谷町大木に至る約6.5kmを、幕府の命をうけた関東郡代伊奈忠治が苦心の末、約10年間かけて、開削した。そのため常陸谷原領三万石は美田と化し、同時に板戸井川岸の景は、中国の赤壁も比せられる名勝の地となったのである。平成5年4月 守谷町長 會田真一」とあった。
案内には守谷町、とある。つくばみらい市の小絹で下り、成り行きで進んでいるうちに、知らず守谷市域に入っていたのだろう。「川の一里塚」の少し北が市境となっている。
案内に「細代から大木に至る6.5キロを開削」とある。先回の散歩で地形図を見て、15m台地が鬼怒川の両岸に迫る細代が開削始点かと想像したのだが、それほど間違いでもなかったようである。それはそれとして、鬼怒川の開削水路は「つくばみらい市」と守谷市の市境辺りで、細代から南に下っていた流路が大きく西に迂回する。
地形図を見るに、鬼怒川東岸の標高10m地帯のつくばみらい市小絹の南には、久保ケ丘、松前台といった標高20mから25mの台地が広がる。一方、鬼怒川西岸の常総市内守谷と守谷市西板戸の市境辺りには標高5mの谷が台地に切り込んでいる。丘陵開削に際し、より開削の容易なルートを求め西に大きく迂回したのではあろう。物事にはそれなりの「理由」がある、ということ、か。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」

大山新田
「川の一里塚」の南は20-25m台地に標高15mの低地が切り込まれている。地名も「大山新田」などと、少々古風な地名を留め、その周囲を囲む台地の松前台、久保ケ丘の整地された住宅地と一線を画した畑地や森・林、そして谷戸が残る。
なんとなく気になり大山新田をチェック;太田新田は元は相馬郡大木村の飛び地であったよう。文献に大木村之枝郷大山村、ともあるので「大山村」と呼ばれていたのだろう。大山の由来は、一面杉の巨木が生い茂り、如何にも「大山」の景を呈していたため、とか。その大山村が大山新田と名を変えたのは、この地の領主であった徳川三卿のひとつ、田安家が江戸の明暦の大火に際し、江戸復興のため、この地の木をすべて伐採・拠出し、その跡地を新田として開墾したから、とか。なお、松前台、久保ケ丘も大山新田の一部であったが、常総ニュータウン計画に際し、大山新田から分離されて地名も松前台、久保ケ丘となった。

大日山遺跡
「川の一里塚」から鬼怒川に沿って進む。ブッシュの切れ目から川床まで足を踏み入れたりしながら、しばし川筋の景観を楽しみながら進むと、道は再び川岸から離れ、台地部分へと向かう。途中「山百合の里」といった緑地帯を見やりながら進む。道は畑地と森や林の残る大山新田地区と宅地開発された松前台の境界線を進む。右手に森や林、左手に宅地開発された風景を眺めながら先に進むと、道脇に石碑があり大日山遺跡とある。
説明もなにもなく、詳しいことはわからないが、この辺りに大日山と呼ばれる霊山があり、江戸の頃は近隣よりの善男善女で賑わった、とか。大日山がどの辺りを指すのが定かではないが、川岸の深い緑の一帯を見るに、手つかずの雑木林や落葉樹の巨木が茂っているようである。石碑は天和2年(1682)に建立された石塔の跡に建っているとのことである。

鬼怒川の砂州
大日山遺跡を越えると右手に鬼怒川が開ける。枯れて折り重なった葦のブッシュを踏み越えて川筋に出ると、岸から川の真ん中まで砂州ができている。こんなチャンスはなかろうと、岸辺に繋がれていた釣り用のボードを足がかりに砂州に進む。鬼怒川のど真ん中から前後左右、360度の鬼怒の景観を眺める。下流は標高25m台地の崖面が両岸から迫り、上流左手は川岸の5m低地の先に25m台地、右手には大日山遺跡辺りの標高25m台地など、開削された台地の地形を眺め、往昔の開削工事を想う。

板戸井
砂州で少しのんびりした後、岸に戻り松前台の宅地開発地の縁を進むと畑地帯に入る。宅地が切れるあたりから地区は板戸井となる。鬼怒川の両岸に迫る台地は標高25m地帯。大木丘陵の人工開削の最南部、最後の難工事の箇所ではあったのだろう。
鬼怒川の西岸に「西板戸井」地区が見える。鬼怒川の人工開削により台地が割られ、西側に残った昔の板戸井村の一部である。江戸の頃の板戸井村は現在の板戸井地区に松前台の5丁目から7丁目、薬師台の2丁目から7丁目までも含む一帯であったよう。上でメモした大山新田の地域分離と同じく、松前台、薬師台は常総ニュータウン計画時に板戸井地区から分離された。
なお、板戸井の地名の由来は平将門が相馬地方に七つの井戸を掘って飲み水とした、との伝説に拠る、と言う。「井」はそれで理解できるが、「板戸」ってどういう由来だろう。チェックするも、不明のままである。






清瀧寺
畑地を越え、豊かな構えの農家を見やりながら進むと県道50号、その南の緑の一画に清瀧寺。文正元年(1466)の開基ともいわれるが、しばしば兵火にかかり、記録が失われ詳しいことはわからない。境内では天台座主より「大僧正」の称号を受けた有徳のお住職の顕彰碑(平成15年建立)が目についた。また、札所番号だろうか、番号のついた小振りの石仏が点在する。



滝下橋
お寺を離れ国道を進み鬼怒川に架かる橋を渡る。滝下橋とあるが、橋名は先ほどお参りした清瀧寺に由来するものだろう。赤く塗られた鉄橋にような橋は、昭和30年(1955)に架橋されたもの。それまでは大木の渡しが鬼怒川の東西を繋いでいた、とのことである。





清瀧香取神社
滝下橋を渡り清瀧香取神社に。境内には清瀧寺でみた札所番号らしき番号のついた石仏が数多く佇む。鬼怒川の水路開削によって、清瀧寺とこの清瀧香取が水路によって隔てられる以前は、神仏混淆により寺と神社が同じ境内にあったのではあろう。寺と神社が別ものとして分けられたのは明治の神仏分離令以降のことであることは言うまでも、ない。
25m台地最南端にある神社の南には一面に平地が広がる。境内には「月読神社」、「御嶽神社」の石碑も建つ。「月読神社」、「御嶽神社」は散歩の折々に出合うことも多いのだが、「青麻(あおそ)岩戸三光宮」と刻まれたちいさな石祠は初めてのもの。

○青麻(あおそ)岩戸三光宮
青麻神社。WIKIPEDIAによれば、主祭神は天照大御神・月読神・天之御中主神。常陸坊海尊を併祀する。宮城県仙台市宮城野区に総本社があり、青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社、三光神社などと呼ばれる、と。社伝によると、仁寿2年(852)、山城国から社家の祖である保積氏が宮城に下り、一族の信仰していた日月星の三光を祀ったのが社の始まり。天照大御神が日、月読神が月、天之御中主神が星(宇宙)と言ったところだろう。
月読神って、その粗暴な所業故に天照大神の怒りをかい、ために月は太陽のでない夜しか、顔をだせなくかった、という昼夜起源の話となっている神様。その二人が共に祀られるのがなんとなく楽しい。境内の「月読宮」の石碑はそのことと関係があるのだろう、か。また、「青麻」は穂積氏が麻の栽培を伝えたことに由来する、とのことである。
その穂積氏は水運に携わっていたこともあり、「青麻(あおそ)岩戸三光宮」は水運の守り神であった、とか。滝下橋ができるまでは、この地に大木の渡しがあったとメモしたが、神社の境内を離れ、鬼怒川の川筋の近くに鳥居があり、そこに「船持中」と刻まれていた。船運に従事する人達によって奉納されたものであろう。なお、青麻岩戸三光宮の主祭神には月読神も含まれている。

大木地区
清瀧香取神社を離れ、滝下橋に戻り、清瀧寺脇を抜けて鬼怒川を下流に、利根川の合流点へと向かう。台地を下り川筋に沿って進むとささやかな水神宮の祠があった。このあたりは大木地区となっている。
地図を見るに、鬼怒川の東には「大木」、西には「西大木」とか「大木流作」と言った地名が残る。東側の大木には北は谷戸が入り組み、南は標高5mの低地が広がる。一方西側の西大木とか大木流作は一面の標高5m地帯。鬼怒川開削の後に利根川と鬼怒川に挟まれた三角地に新田開拓が行われ「大木新田」と称されたが、洪水の被害が夥しく、それ故に「流作場」と称されるようになる。現在残る「大木流作」はその名残り。年貢も洪水被害を前提とし、三年に一度の収穫で十分な年貢ではあったようである。
大木地区は明治10年(1877)に大木新田が大木村に合わさり、明治22年(1889)には北相馬郡の板戸井村、大山新田、立沢村を合わせ「大井沢村」の大字、昭和30年(1955)には北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字、平成14年(2002)には市制施行により守谷市の大字として現在もその地名を残している。

六十六所神社
地図を見ると、鬼怒川の東、低地の境目辺りに、六十六所神社とか大円寺がある。六所神社は散歩の折々に出合うこともあるが、六十六所神社という社ははじめて。ちょっと立ち寄ることに。
舌状台地と谷戸の入り組む台地の端、民家のすぐに傍に朱の鳥居。石段を上ると、ささやかな社があった。社にお参りし、社殿の周囲を歩くと、社殿横に、由緒の案内があり、「後小松天皇の御世、応永4年(1397)、出雲大社の大国主命の分霊を当地に勧請した、と。当時の拝殿、本殿造りの社殿は筑波以南には数少ない荘厳なる構えであったようであるが、明治18年の大木村の大火で焼失し、現在の社殿は昭和46年に再建されたもの」と。社殿裏手には東照宮の祠もあった、社の名前の由来は、大木村660番にあったから、とか、諸国巡礼の六十六部から、とかあれこれあるとのことだが、どれもいまひとつ、しっくりこない。

大円寺
六十六所神社の隣に大円寺。寺には平安末期から鎌倉初期にかけての作とされる釈迦牟尼仏が伝わるが、印象的なのは鐘楼の横の斜面にある巨木、案内によると、「天然記念物椋の木」。椋(むく)の木は栃木、茨城の中央部が北限。川沿いの水分の多いところに生育し大きく成長する」と。大木村の地名の由来となった巨木ではある。なお、大円寺や六十六所神社のある丘陵は「御霊山」とも呼ばれ、将門の七人の影武者を葬ったところとの言い伝えがあるようだ。



がまんの渡
大円寺から再び鬼怒川の堤防に戻る、この辺りも堤防と水路は大きく離れており、堤防から流路は葦のブッシュの先に微かに見える。先に進むと「利根川との合流点から2キロ」の案内。利根川の川筋は未だ見えない。
左手に広がる低地、調整池(池)を兼ねた耕作地ではあろうが、その先低地と台地をくっきりと区切る台地斜面の斜面林に見とれながら進む。堤防の傍にあるごみ処理施設や常総運動公園を見ながら先に進むと、左手の堤防下に低地にぽつんと木が残り、その脇に石碑とか案内らしきものがある。堤防を下りて案内を見ると、「がまんの渡し場の由来」とあった。
案内によると、「元和元年(1615)、家康公が鷹狩のため当地を訪れ、野木崎地区の椎名半之助家に滞在したとき、大雨のため利根川を渡るのが困難な状態となっていた。そこで、家康公は舟夫に「我慢して渡してくれ」と頼み川を渡ったので、「がまんの渡し」と呼ばれるようになった。当時鬼怒川はこの地を流れていないので、対岸は千葉県野田市水堀地区である。
鬼怒川が開削されてからは渡し場は1キロほど下流に映り、野木崎河岸と呼ばれ、明治から大正にかけて茨城県南の波止場として隆盛を極めた。
今から380年前、天下人となった家康公が武将を引連れこの地を訪れ数日滞在。そのお礼に田畑9反9畝を椎名家に与えられ、また家康公が使われた井戸跡も残っている」とあった。
案内にある「元和元年の鷹狩」と、説明の後半にある「今から380年前天下人となった」のくだりが、同じ時期のことなのだろうとは思うのだが、この時の家康の鷹狩の話しは、領内の民情視察を兼ねたものとも言われる。行程は鷹場のある越谷に行くも雨で鷹狩が叶わず、野木崎に移動、椎名家に滞在し、大雨の利根川を葛西方面へと向かったとのことである。ちなみに、「家康・水飲みの井戸」は常総運動公園の南端を東に進み地蔵堂のある辺りの少し北(守谷市野木崎1587)にあるようだが、今回は見逃した。そういえば、六十六所神社の東照宮も、野木崎と家康ゆかりのコンテキストで判断すれば、わかりやすくなった。

鬼怒川と利根川の合流点
河川敷に飛ぶモーターハンググライダ^-を先に進むと「利根川合流点です」の案内。とは言うものの、ブッシュの向こうに鬼怒川の川筋が見えるか見えないか、といった状態で利根川など全く見ることができない。これはもう、ブッシュを踏み越えて鬼怒川の川筋に出るしかない、と堤防を下り、葦のブッシュに入り込む。
枯れた葦が重なり合ったブッシュの中を、足元に注意しながら川筋へのルートを探す。トライアンドエラー繰り返しなんとか鬼怒川の川筋にでると、大木流作の三角州の突端で利根川と鬼怒川が合流していた。鬼怒川の砂州に足を踏み入れ周囲の景観をしばし眺める。例によって、「はるばる来たぜ」と小声で呟く。 砂州から川岸にk、しばらくブッシュの中を鬼怒川に沿って藪漕ぎをし、利根川の対岸に、先日歩いた「利根運河」の取水口を確認。
利根運河って、利根水運の初期ルートである利根川を関宿方面へと遡上し、そこから分岐する江戸川を経由して江戸へと進んだようだが、日数も3日ほどかかるためその日数を減らすためと、もうひとつ、関宿当たりに次第に砂がたまるようになったため開削されたように記憶している。その時はあまり気にも留めなかったのだが、利根運河の取水口のすぐ上で鬼怒川が合流している、ということは、水量の安定確保の意味でも、利根運河がこの地で開削されたのだろうか、などと少々の妄想を楽しむ。

県道46号
念願の鬼怒川と利根川の合流点も確認し、気分宜しく川筋を離れ堤防に。さて、どんなルートで駅まで進むか地図を見る。近くに電車の駅はない。どうせ歩くなら途中に神社や仏閣でもとチェックする。と、堤防から北に延びる県道46号に沿って香取神社と正安寺がある。正安寺も守谷散歩の最初に訪れた守谷中央図書館で、なんらか将門ゆかりの寺とあった、よう。ということで、駅までの帰路は県道46号に沿って戻ることに。
堤防脇の大野第二排水機場傍の水神様にお参りし、明治乳業の工場脇を北に進む県道46号に入る。道は低地の中を台地斜面林に向かって一直線に進む。道が台地に入ったあたりに香取神社があった。

香取神社
道脇から鳥居をくぐり境内に。古き趣の社殿にお参り。境内には狛犬と言うよりも、猿に似た石像が佇む。香取神社の眷属は鹿であろうし、何だろう?因みに御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。
それにしても茨城に入ったら香取神社が如何にも多い。先の散歩でもメモしたが、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』によれば、香取の社は上総の国、川筋で言えば古利根川(元荒川)の東に400社ほど分布しており、一方西側には氷川の社が230社ほど鎮座する。そして、香取と氷川の「祭祀圏」に挟まれた越谷の元荒川一帯には久伊豆神社が祀られている、と。「祭祀圏」がきっちりと分かれている。結構長い間散歩しているが、このルールをはずしていたのは赤羽に香取の社が一社あっただけである。往昔、川筋に沿って森を開き、谷の湿地を水田としていったそれぞれの部族が心のよりどころとして祀ったものではあろう。

正安寺
香取神社を離れ、県道46号を少し北に進み、成り行きで小道に入り正安寺に。構えはそれほど大きくないが落ち着いたお寺さまである。案内によれば、「創立は今から700年前の西暦1300年頃。安政3年(1856)に火災で焼失するも、安政5年に再建。本尊の阿弥陀如来は行基作との伝えあり、と。合祀されている寅薬師如来は静岡の峯の薬師の分身。元は野木崎辺田前(へたまえ)にあった医王寺に祀られていたが、明治に廃寺となり、ここに移された。
寅薬師の眷属である十二新将の真達羅(しんだつら)大将(寅童子)の化身が徳川家康であると言い伝えられており、徳川家の安全祈願を行ったことから「寅薬師」の名が起こったといわれている。 慶安2年(1648)には三代将軍家光から40石2斗あまりの御朱印地を賜っている」とある。
寅薬師如来の霊験は、特に眼病に効くとされるほか、薬師如来故か、あらゆる病気に霊験あらたか、ということで第2次世界大戦以前は埼玉県・群馬県、千葉県銚子地方の沿岸から水運を利用して多くの参拝に訪れた、とか。特に眼病には「瑠璃水」という目薬を施薬することを許可されていたとほどである(当然のこと、現在は、薬事法により許可されてはいない)。

成田エクスプレス守谷駅
正安寺を離れ、成田エクスプレス守谷駅に向かう。正安寺から県道46号に戻り、を東に進めば常磐道を越え、大柏交差点あたりで、つくばエクスプレスに交差し、線路高架に沿って進めば守谷の駅につけそうである。道を成り行きですすんでいると、県道46号の南に太子堂があったので、ちょっと寄り道。特に何の案内もない、お堂ではあった。
再び県道46号に戻り、常磐道を越え大柏交差点に向かう。と、道脇に「大柏橋」バス停の案内。橋という以上川があったのだろうか。地形図でチェックすると、台地に細い谷筋が切れ込んでいる。谷を流れる水路でもあったのだろう、と妄想する間もなく、丁度到着したコミュニティバスに飛び乗り守谷の駅に。後は一路家路へと。

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