予土往還 土佐街道・松山街道 ⑦ ; 水ノ峠へから池川へ

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先回の散歩で大規模林道から水ノ峠を繋いだ。水ノ峠から先は、峠傍から直線距離700m、比高差200mを下る「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠」道が残るが、そこから先、土居川と安居川が合流する池川の町までの道筋がはっきりしない。
『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも、「池川口番所から水ノ峠への往還は坂本、白髪、寄合などの各集落を経る道」との記述のみであり、ルート図も概要を示すだけである。
現在池川から寄合、ツボイといった水ノ峠近くの集落まで一車線ではあるが完全舗装の道が続いており、その途次如何にも旧路かと思える破線が国土地理院地図に記載され、各集落を繋いでいる。
が、地図上の分岐箇所には標識もなく、藪が茂り踏まれた道筋が見当たらない。藪漕ぎは今まで十分に「堪能」しているので、標識があればまだしも、なんの確証もない藪に入る気力はなく、結局水ノ峠からの旧水ノ峠道を下りた後は、車道を池川まで下りることにした。
で、今回の旧予土往還繋ぎ散歩の唯一の旧路である旧水ノ峠道であるが、先回の散歩で幹線林道脇に立っていた「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識から取り付いたのだが強烈な藪。藪漕ぎしながら急登を這い上がる気力は30分ほどで失せ撤退した。
こんな藪を歩く人がいるとも思えないのだが、「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識がある以上、土佐街道を繋ぐには避けるわけにもいかないか、との想いもあり、少々気は重いのだが旧水ノ峠道をトレースすることにした。
ルートは藪漕ぎ急登は勘弁と、車を旧水ノ峠登山口傍にデポし、水ノ峠まで5キロほど歩き水ノ峠から下山口を探し下ることにした。結論からすれば特段の下山口はなく、杉林の急斜面の直ぐ先は猛烈な藪。途中、なにか文化的遺構があるならまだしも足元も見えない急斜面の藪を下るのは少し危険でもあり、旧水ノ峠道のようでもある国土地理院記載の「破線」トレースにこだわることなく少しでも歩きやすいルートを辿ることとし、偶々出合った沢筋を下り、「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識の立つ場所傍の幹線林道に下りた。
沢筋は藪からは解放されるが、下るにつれ岩場が多くなり2箇所ほどロープがなくては岩場を下りることが危険で、高巻きするなどしてギャップをクリアすることになった。沢登りの経験がこんなところで役に立つことになろうとは思いもしなかた。
今回の総括としては土佐街道を繋ぐということだけのために旧水ノ峠道を下ったが、このルートは藪にしても沢にしても街道歩きからはほど遠く、歩くことはあまりお勧めできない。幹線林道脇に立っていた、「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識も水ノ峠側に「下山口」がなかったわけで、とすればこの標識は登山用というより、ここが旧水ノ峠道の登山口でしたよ、と示す旧跡案内といった趣旨での標識かもしれない。
表題の「予土往還 土佐街道・松山街道 ⑦ ; 水ノ峠へから池川へ」とするのは少々面はゆいが、ともあれメモを始める。



本日のルート;
旧水ノ峠道
車デポ地から水ノ峠へ>水ノ峠>橋ヶ藪ルートに下山口標識は見つからない>林道から下山開始>急斜面のザレ場>踏まれた道に>沢筋に>沢に水が流れ始める>林道とクロス>幹線林道に出る
旧水ノ峠登山口標識から池川へ
(ツボイ・寄合・坂本)
池川
池川口関所>送番所>池川神楽>天明逃散集合の地>山頭火の歌碑


旧水ノ峠道■

旧水ノ峠道;赤は実行ルート。緑・青は想定ルート


車デポ地から水ノ峠へ;午前9時10分
「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠上り口」の立つ幹線林道傍に車をデポし水ノ峠まで5キロほど舗装された林道を歩く。先回の散歩で水ノ峠直ぐ傍まで車を寄せることができることはわかっていたのだが、どうしたところ同じ道を歩かなければならないわけで、であれば旧水ノ峠道を下った後に疲れた体で車デポ地まで歩くより、下山後すぐに車に乗れるようにと、「先苦後楽(こんな熟語はないが)」を選んだわけである。
車デポ地発は午前9時10分であった。

水ノ峠:午前10時52分
水ノ峠大師堂
地理院地地図破線部が林道と合流する箇所
水ノ峠直ぐ手前に国土地理院に描かれる破線部が林道と合流する箇所がある(標高1100m)。旧水ノ峠道かとも思われるのだが、特段の標識もない。当初はここから旧斜面を下ろうと思っていたのだが、どなたかの記事に水ノ峠登山口から上り、林道合流の手前、標高1080m辺りからトラバーズ気味に左に折れ、南の橋ヶ藪方面から水ヶ峠に繋がる国土地理院記載の破線に向かい水ノ峠に上るログがあった。
林道合流する直ぐ手前から折れるには何らかの意味、旧水ノ峠道の「下山口」標識などでもあるのかもと取敢えず確認に向かうことにする。
車デポ地からほぼ2時間弱で水ノ峠に到着。小休止し下山口確認に向かう。

橋ヶ藪ルートに下山口標識は見つからない
登山標識より地理院破線を進む
リボンを目安に破線T字部を左折

休憩後、橋ヶ藪からのルートアプローチ口を探す。大師堂前の広場西端部からアプローチ箇所はないかと探すが見つからない(実際は広場西端部にあるお手洗いの小屋脇から踏み込まれた道があったのだが、その時は見逃した)。

掘割道に戻る
尾根筋に下山口標識は見つからない
仕方なく先回の散歩で水ノ峠鞍部にあった「明神山登山口10km 雑誌山3.7km」の案内箇所(午前11時23分)から国土地理院地図に記載される破線部に沿って進むことに。
リボンを見遣りながら先に進み国土地理院地図記載の破線部がT字に合わさる箇所を左に折れる。一面の笠原で道筋はなにも見えない。成り行きで歩きやすいところを進むと沢筋に下りてしまった。地理院破線部から大きく逸れており軌道修正し、南東に突き出た1080m等高線の尾根筋に戻る。と、尾根筋には掘割風の踏み込まれた道筋に出た(午後12時3分)。
掘割道を上ると大師堂前の広場に出た
場所はどなたかのログで見た林道手前で左に折れ、橋ヶ藪方面からのルートと合流する付近。辺りを彷徨い「下山口」の標識を探すが見当たらない。またトラバース気味に旧水ノ峠道と想定される国土地理院記載の破線部に繋がる踏まれた道筋も見当たらない。「下山口」といった旧水ノ峠道を示すものがあればまだしも、等高線1080m辺りをトラバースする先は藪。敢えてこのルートを進む気にもなれず、林道から下ることとし、水ノ峠に戻ることにする。
掘割の道を少し上ると大師堂前の広場西南端にあるお手洗いの横に出た(午後12時23分)。下山口探しに彷徨うことおおよそ1時間であった。

林道から下山開始;午後12時32分
林道から下山開始
直ぐ藪に
水ノ峠から林道を少し戻り、林道から国土地理院記載の破線部に入る。下り口部分は杉林といった雰囲気もあるが高度を⒑m弱下げると藪となる。等高線から考えて、橋ヶ藪のルートから山腹をトラバースして地理院破線部へと向かったとすれば結構な藪を進むことになっただろう。

藪の中、急斜面のザレ場;午後12時57分
急斜面のザレ場
その先も藪
歩きやすい箇所を下ったため位置は国土地理院地図に記載される破線部から外れているのだが、その破線部に戻ったとしても所詮は藪。軌道修正し敢えて藪の中を左に振ることは止め、成り行きで少しでも藪の「薄い」箇所を下ることにする。
急坂の藪の中を20mほど高度を下げると急斜面のザレ場。念のためロープを出し下る。前回の幹線林道「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠上り口」から取り付いたとき沢筋らしき藪の急登を這い上がった。藪が切れた先も急登であれば、下りにはロープがあったほうがいいだろうと用意していった。急斜面だが藪より「より少なくいい」(午後12時57分)。急斜面の先も藪。勘弁してほしい。

踏まれた道に;午後13時51分
一瞬藪が開ける
が、直ぐに藪
急斜面の藪のため足元に注意しながら小枝を折敷き下ってゆく。藪漕ぎを30分以上格闘すると開けた場所に出る(午後13時43分)。が、それも一瞬。少し「薄く」はなったがそれでも依然藪が続く。


踏まれた道が現れる
沢に続く予感の道に
藪を少しでも歩きやすいルートを探して進むと踏まれた感のある道に出る。標高は1040mほどだろうか。
20分ほど成り行きで進むと高度を?mほど下げると、踏まれた道は沢筋に続くような感のある小石の転がる道筋となる(午後14時8分)。

沢筋に;午後14時15分
そこから10分弱、成り行きで踏まれた感のある道筋を進むみ高度を10mほど下げると、切り込まれ明らかに沢筋と思われる枯れ沢にでる(14時15分)。標高は1000mほど。林道からほぼ半分下ったことになる。地形図を見ると北東に切れ込んだ等高線が幹線林道まで続いている。理屈から言えば沢が幹線林道と繋がることになる。旧土佐街道と思われる国土地理院記載の破線のことは頭に何もなく、このまま幹線林道まで沢が続いてほしいと願う。

沢に水が流れ始める;午後14時52分
枯れ沢を下る。処々で左右から沢筋が合流してくる。次第に沢筋の切れ込みも深くなり、沢に転がる岩も大きくなってくる。足元に注意しながら30分ほど沢を下ると沢に水が流れはじめる。下るにつれて水量も多くなってくる。
標高970m辺りで沢筋は国土地理院地図に記載の破線部を掠る。破線部はそこから西へと進むが、敢えて藪に戻る気力はなく、迷うことなくそのまま沢筋を下る。

林道とクロス;午後15時23分
沢を下るにつれ大岩部も現れロープを出すか、迂回ルートを探すか悩むような箇所も現れる。この時は沢筋にギャップをクリアできる足場をみつけ下に下りる。結構沢登りをしているが、時に沢を下らざるを得ない時があるが、基本下りは危険であり更に慎重に沢を下る。沢に慣れていない方はロープがあったほうがいいかと思う。当日は6㎜x10mロープ2本持って行った。
30分ほど沢を下り標高930m辺りで沢は林道(?)とクロスし土管で林道下を抜ける。一度林道に上がり左右を確認。東へと広い道筋が続くが、旧水ノ峠登山口のある西側は直ぐ道が切れ藪となっている。国土地理院地図に記載される破線部は直ぐ先なのだが、藪に入るのは一瞬でも勘弁してほしいと、林道を抜けた先の沢筋に再び入り込むことにした(午後15時30分)。

幹線林道に出る;午後16時
幹線林道手前の危険箇所
幹線林道に出る
クロス部から直に沢に入るのはギャップがあり、東から大きく廻り込み沢に入る。幹線林道まで比高差50mほど。沢が幹線林道に合わさる箇所にギャップなどないことを祈りながら15分ほど沢を下ると先に幹線林道が見えてきた(午後15時45分)。
が、そこには大岩の大きなギャップがありロープを使うか高巻するしかクリアする術はない。少々考え、左岸を高巻することに。が、高巻した先は岩場ではないがギャップのある崖と急斜面。ロープを出すのが安全なのだが、そもそも足元が不安定で立ち木にしがみついているといった状態。ロープをだすのも一苦労。仕方なく崖面に立ついくつかの立ち木を順にホールドしてトラバース気味に急斜面に軟着陸。
急斜面も立ち木をホールドしてなんとか沢筋に戻る。ザックに収納し取り出すことを面倒がらずはじめからロープを出して岩場を下りればよかった。 この箇所は結構危険。林道クロス部からは沢筋をさけて藪漕ぎで50mほど下るほうがいいのかもいしれない。
ともあれ危険部をクリアし幹線林道に出る。時刻は午後16時。林道から下山しはじめて3時間半ほど時間がかかってしまった。直線距離では700mほどだが、トラックログでの距離は3キロ強となっていた。急斜面と藪と沢ルートであればこんなものなのだろうか。膝の痛みを庇いながらではあるにしても、俯角20度弱の坂を下りるにしては少し時間がかかり過ぎるるようにも思える。



旧水ノ峠登山口標識から池川へ

水ノ峠から池川へ

幹線林道から見たツボイ・寄合数楽
坂本の茶畑

既述の如く旧水ノ峠登山口標識から池川への予土往還の道筋は。『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも、「池川口番所から水ノ峠への往還は坂本、白髪、寄合などの各集落を経る道」との記述のみであり、ルート図も概要を示すだけである。詳しいルート図はみあたらない。
池川から寄合、ツボイといった水ノ峠近くの集落まで繋がる完全舗装の道の途次、国土地理院地図に記載される旧路らしき破線部との交差部になにか予土還を示す標識などないものかとチェックはしたのだが、標識はおろか踏まれた道筋も見ることができず草藪が広がるだけであった。
予土往還を繋ぐ散歩としては少々残念ではあるが仕方なく車道を池川の町まで下ることにした。
標高880mほどの水ノ峠登山口から一車線ではあるが完全舗装の道を進み、高度を100mほど下げツボイ、寄合の集落を抜け、曲がりくねった山腹の道を下ると標高250mの辺りに坂本の集落。茶処なのだろうか茶畑が広がる。 チェックすると仁淀川町は藩政時代、土佐藩主に献上茶を産した茶処であったよう。日本一の透明度を誇る仁淀川に養水する名水の地、山間部での昼夜の寒暖差、春先の霧。お茶の生産に最適の地とのことであった。
坂本の集落から右手下に小郷川を見遣りながら東進し、小郷川が土居川に合わさる辺りで池川の町に入る。

池川

池川口関所・口番所
小郷川が土居川に合わさる辺り,小郷川の北詰で道は国道494号に合流する。合流箇所を国道494号に出た右手に「予州高山通り略図」があり、その案内の立つところに「池川口関所碑」と記される。石碑は国道合流点角の土蔵が建ち、如何にもといった古き趣のある民家の敷地内にそれらしき石碑が見えた。このお屋敷が池川口関所跡ということだろう。

案内には池川口関所とあるが、多くの記事には池川口番所とある。口留番所との記述もある。どれも同じものだろう。




池川送番所跡
土蔵などを残す池川の町を進むと。道の左手の空地にに「送番所跡」と書かれた木の標識が立つ。口関所(番所)と送番所の違いは?
〇口番所・送番所
口番所(関所)は口留番所とも称され、Wikipediaには「江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。主に藩に出入りする旅行者や商品の監視を任務としていた。前者には農民や欠落人(犯罪者)の逃亡防止・傷を負った者・女性、後者には専売品(各藩の特産品)の密輸防止や運上逃れの防止(品質や価格を維持するため)の目的とともに米などの穀物や金銀銅などを藩内に留めて必要な物資を確保しておく意図を有していた」とある。
一方送番所は「公用の書状・荷物を宿場から宿場へ送る任務などを行った公的施設。番所には番屋と馬屋が設けられ国中に急用ができると「笹飛脚」(書状を結んだ笹の葉が枯れないうちに走る特急便)が冬でも褌一丁で走ったといわれ峻嶮、野根山街道三十五キロを三時間で走り抜けた笹飛脚がいたといわれている」といった説明があった。
池川の町は伊予の国と国境を接し、北の椿山から高台越を経て伊予の面河村大味川に繋がる道、用井(もちい)から瓜生野経由で美川村東川を結ぶ予土往還瓜生野越えの道筋(現在の国道494号筋)、また現在辿っている予土往還高山通り越えの道筋を扼する交通の要衝の地にあり、紙の抜け買い、抜け荷の監視、お留山監視のため口番所を設けたのだろう。
因みに紙の抜け買い、抜け荷とあるのは、池川紙一揆でもメモしたように、山間部である池川の地は年貢として米の替わりに紙を納めていたことによる。また「お留山」とは「江戸時代、藩に管理・支配された山林。入山・狩猟・伐採が禁止されていた(Wikipedia)」とある。
口番所はこの地の他、用居、安居川に沿って県道362号を北上した安居土居にも設け監視・管理の任にあたったとのことである。
池川神楽
道を進み山側から道が合流する箇所、仁淀川町池川支所の建つコーナーに「重要無形文化財指定 池川神楽 池川神社保存会」と書かれた木の案内がある。 観光案内には「400年の伝統を受け継ぐ土佐最古の神楽。 池川神社社家・安部家を中心に伝承されてきたもので、文禄2年(1593)「神代神楽記」に土佐の神楽としては最古のものと記されています。演目は14通りあり、中でも「児勤の舞」は土佐神楽の中でも池川神楽にのみ見られる特異な舞です。国の重要無形民俗文化財に指定されています」とあった。
〇池川神社
社の案内には「古くは池川郷の総氏神とされ、伝えによれば平家の落人安部肥前守藤原宗春らが建久二年(1191)寄合の地に移住、同五年に神社を勧請したという。この安部氏が代々神職を勤める」とある。
天明逃散集合の地
その先、国道494号が左に分かれる分岐点を右の道をとり地図にマークされる「山頭火の歌碑」へと向かう。道が土居川に合流する安居川に架かる北詰を右に折れ土居川傍、地図に「安の川原」とマークされる川床に接した広場に下りる。「山頭火の歌碑」は土居川に面した善法寺辺りに立つようだ。
その途次、道の左手ガードレール傍に「天明逃散集合の地」の案内。天明逃散のことは土佐街道散歩の途次、栗滝峠でも標識に出合った。
この地の案内には
「天明逃散集合の地 ■ 平成17年7月26日 池川町指定史跡
天明2年(1782)から全国で大飢饉が始まり農民の暮しは困窮の度を増す中、更に池川の農民は藩命により紙の自由売買が禁止された上に年貢取立の重圧に苦しんだ。困惑した池川・用居の農民は松山藩(現久万高原町菅生山大宝寺)に逃散を決意。ここ"安の川原"に男子601人が集まり池川紙一揆を起こした。 池川町教育委員会」とある。
山頭火の歌碑を探して歩いていると、土佐街道歩きの途次黒滝峠や水ノ峠で出合った、池川紙一揆集合の地であったわけだ。
池川紙一揆逃散の道
池川紙一揆とは山間部において米納の代わりに紙を藩に現物していたわけだが、搾取に苦しみ起きた農民一揆。農民一揆には徒党を組み暴徒と化すもの、強訴に及ぶもの、他国に逃亡する逃散があるが、この池川紙一揆逃散の道とは、天明七年(17 87)2月26日、土佐藩への貢祖である紙の現物納入に苦しむ池川の農民六百人が逃散を決め伊予に逃亡したもの。
そのルートは寄居の集落から水ノ峠、雑誌山北麓の通称「雑誌越え 高山通り」を経て黒滝峠で伊予に入る。黒滝峠からは数回に渡り歩いて来た土佐街道の逆ルート、猿楽岩から尾根筋を進み七鳥に下る通称「予州高山通り」を進み(七鳥に下る山麓に高山集落の地名が地図にある。高山通りの由来だろうか)、久万の四国遍路第44番札所大宝寺に庇護を求めた。
結局、この寺において帰国後処罰されないことを保証され、3月21日大宝寺を離れ帰国の途につく。帰路は土佐街道・松山街道のもうひとつのルートである、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠?)を経て用居の番所で取り調べを受けた後、池川に戻ったとのことである。
山頭火の歌碑
山頭火の歌碑を探す。善法寺の境内には見つからない。安の川原に下りて鮎釣りだろうか釣り人を見ていると、一段高い高台にある善法寺の石垣に、川の流れに向き合った山頭火の歌碑があった。
石碑には中央に大きく「野宿 わが手わが足われにあたたかく寝る 山頭火」と刻まれ、その下に「山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ、主人に教えられて、二里ちかく奥にある池川町へ出かけて行迄、九時から十二時まで、いろいろの点で、よい町であった。行乞成績は銭七十九銭、米一升三合、もったいなかった。渓谷美、私の好きな山も水も存分に味った、何と景色のよいこ」と刻まれる。
四国遍路の途次、時に山頭火の歌碑に出合う。中にはその地で詠まれたものではなく、その趣の近きゆえのものもあったが、この句は当地で詠まれたもの。 昭和14年(1939年)、11月1日よりはじまる『四国遍路日記』の11月18日の項に「十一月十八日 好晴、往復四里、おなじく。
山のよろしさ、水のよろし さ主人に教えられて、二里ちかく奥にある池川町へ出かけて行迄、九時から十二時まで、よい町であった(行きちがう小学生がお辞儀する)。
行乞成績は銭七十九銭、米一升三合、もったいなかった(留守は多かったけれど、お通りは殆んどなかった、奥の町はよいかな)。
渓谷美、私の好きな山も水も存分に味った、野糞山糞、何と景色のよいこと! 三時には帰って来て、川で身心を清め、そして一杯すすった。
明けおそく暮れ早い山峡の第二夜が来た、今夜は瀬音が耳について、いつまでも睡れなかった。
宵月、そして星空、うつくしかった。
"谿谷美"
"善根宿"
"野宿"
行乞しつつ、無言ではあるが私のよびかける言葉の一節、或る日或る家で―― "おかみさんよ、足を洗うよりも心を洗いなさい、石敷を拭くよりも心を拭きなさい"
"顔をうつくしくするよりもまず心をうつくしくしなさい"
(十一月十六日)(十一月十七日)(十一月十八日)
あなたの好きな山茶花の散つては咲く(或る友に)
野宿
わが手わが足われにあたたかく寝る
夜の長さ夜どほし犬にほえられて
寝ても覚めても夜が長い瀬の音

橋があると家がある崖の蔦紅葉
山のするどさそこに昼月をおく
びつしり唐黍ほしならべゆたかなかまへ
岩ばしる水がたたへて青さ禊する
山のしづけさはわが息くさく」とある。
種田山頭火
「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」といった自由律俳句に魅される山頭火の事跡に初めてであったのが、松山の一草庵。酒と病、それゆえの奇行、一族の悲劇などもあり出家し酒と旅に生きた山頭火の終の棲家となったのが一草庵。松山在住の句人・高橋一洵の奔走で用意されたもの。昭和14年(1939)10月のことである。
山頭火は、「私には分に過ぎたる栖家である」と記し、その労苦に感謝し高橋一洵に「落ち着いて死ねさうな草枯れる」を呈した。 「死ぬることは生まれることよりむずかしいと、老来しみじみ感じた」山頭火が、一草庵を終の住処とした境地である。翌昭和15年3月には、改めて「落ち着いて死ねそうな草萌ゆる」と詠んでいる 昭和15年10月11日没。
山頭火と四国遍路
「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」によれば。「山頭火は人生で2度四国遍路に出ている。最初は昭和2年から昭和二年から三年にかけてのことで、これは中国、四国、九州地方一円の前後七年間にわたる壮絶な行乞大旅行のひとこまであった。そしてこの時には四国八十八ヶ所をすべて順拝したとされるにもかかわらず、残念なことに彼自身の手で旅の記録が焼却されてしまったこともあって、詳細な足跡は不明となってしまった」とする。
この池川の歌碑は山頭火2度目の四国遍路遍路の時こと。「えひめの記憶」には昭和14年10月1日に松山に着いたあと、すぐ10月6日に四国遍路へと松山を出発し、11月1日阿波からはじめるも11月16日高知で挫(ざ)折した。
その記録である『四国へんろ日記』は、11月1日撫養(むや)を出発して、徳島に入ろうとする日から始まり、11月16日高知で挫(ざ)折し、一路土佐街道を面河を経由して松山に戻り12月15日一草庵に入り、日記は12月16日で終える。
日付からみればこの歌碑は四国遍路に挫折し松山へ戻る途地の歌である。歌碑には「野宿 わが手わが足われにあたたかく寝る」と「野宿」とあるが、「十一月十八日 好晴、往復四里、おなじく」にある「おなじく」は前日の日付には「善根宿」とあるので、池川でも野宿ではなく善根宿に寝たようにも思える。
句は淡々としているが、「えひめの記憶」には「無一物で出立、覚悟の遍路であったはずの山頭火が、「行乞が辛い」と言って、11月10日から高知で数日滞在し、郵便局に足を運ぶが、期待したもの(金銭)が届かず、11月16日とうとう一か月有余の四国遍路を中断し、土佐街道を松山に向かう。このことを大山澄太氏は次のように解説している。
 (この旅は)世間からは、ほいとう扱いにされ、宿にも泊りにくい五十八歳の老廃人の旅と見るべきである。筆致は淡々としているが、よく味読すると、涙の出るような修行日記である。彼はこの旅で心を練り、ずい分と、体を鍛えさせられている。果たせるかな土佐路に入ってからいよいよ貰いが少くなり、行乞の自信を失った、頼むというハガキを、柳川の緑平と、広島の澄太に出した。高知郵便局留置と言うので、二人は彼の言うて来た日に着くように為替を切って送金したのであるが、彼の足が予定よりも早すぎて、高知に四日滞在してそれを待ったがなかなか着かない。そこでへんろを中止して仁淀渓谷を逆って久万から松山へと道を急いだのであった」と記す。
大山 澄太(おおやま すみた)
1899年(明治32年)10月21日[1] - 1994年(平成6年)9月26日)。日本の宗教家、俳人。
岡山県井原市出身。大阪貿易語学校(現・開明中学校・高等学校)卒業後、逓信省に入省し、逓信講習所教官、逓信事務官、内閣情報局嘱託、満州国郵政局講師などを務める。戦後愛媛県で著述、社会教育をおこなう。「大耕」主宰。1963年、愛媛県教育文化賞を受賞。種田山頭火の顕彰にも努めた。山頭火に関する著書も多い。

気まぐれにひとつの歌碑をちょっと深堀するとあれこれ見えなかったものが現れてくる。
これで今回の水ノ峠から池川までのメモを終える。予土往還高山通りを繋ぐとうたった趣旨からすれば唯一の旧予土往還の旧路である旧水ノ峠道も強烈な藪に日和り(ひより)想定ルートでなく藪から解放された沢を下り、その後も旧予土往還の道筋がわからず、車道を池川まで下ることになった。なにかの折、旧路情報が見つかればその時になって考えてみようとは思うが、藪漕ぎはもう十分に堪能したので、藪の有無がGOサインか否かの要因とはなるだろう。
とまれ、次回は池川の直ぐ先、見の越から鈴ヶ峠への尾根に取り付くことにする。

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