伊予 丹原散歩 そのⅡ;丹原の利水史跡を辿る

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丹原の利水・治水史跡散歩の第二回は「兼久の大池」、そして、その池の近辺にある利水史跡である「高松の横井」と「古田(コタ))の水路」を目指す。
兼久の大池の位置ははっきりしているが、それ以外の史跡は「丹原町の文化財」に掲載されている史跡名、地区名、説明記事と1枚の写真のほかはなんの手掛かりもない。
「伊予・丹原散歩 そのⅠ」でメモしたように、地形を読んで目的地を予測したり、地形から感じるなんらかの「ノイズ」をもとに史跡を辿り当てたり、勘を頼りに進んだり、運を天に任せた成り行き散歩となった。


○丹原利水史跡散歩
第一回;史跡①劈巌透水路史跡②中山川水菅橋>史跡③衝上断層>史跡④両岸分水工>史跡⑤志川堀抜隧道
第二回;史跡⑥釜之口井堰>史跡⑦掛井手(かけいで)>史跡⑧兼久の大池>史跡⑨高松の横井史跡>⑩西山興隆寺史跡>⑪古田の水路
第三回;史跡⑫関屋切抜水道>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑭庄屋井手>史跡⑮中山川逆調整池>史跡⑯大頭(井)堰
(なお、史跡②中山川水菅橋、史跡④両岸分水工、史跡⑬関屋川の堰堤、史跡⑮中山川逆調整池、史跡⑯大頭(井)堰は「丹原町の史跡」に指定されているものではなく、個人の興味・関心より便宜的に史跡と表記した。また史跡⑯大頭(井)堰は丹原ではなく小松地区でもある)



本日のルート;史跡⑥ 釜之口井堰>旧井堰>史跡⑦掛井手(かけいで)>厳島神社>水路橋>史跡⑧兼久の大池>史跡⑨高松の横井>八雲神社>第三横井>史跡⑩西山興隆寺>史跡⑪古田の水路>上池

最初の目的地は「兼久の大池」。そして、その水は中山川の「釜之口堰」から取水され、水路を導かれて「兼久の大池」に溜められるとのことである。ということで、「兼久の大池」へのルートは釜之口堰から始めることにする。

釜之口堰は関屋川が中山川に合流するところにある。国道11号の丹原町明穂にある明穂交差点を県道149号へと北に折れ、中山川を渡り、最初の交差点を中山川に沿って上流に向かって進み、関屋川との合流点の釜之口堰まで進む。

史跡⑥ 釜之口井堰
■水田100町歩(約100 ha)以上をかんがいする井堰(せき)の水口を「釜の口」という。丹原町長野、高松から田野を経て、東予市吉田、周布にいたる穀倉地帯をかんがいするこの水路は、道前平野南部農民の生命線であった。松山藩は、ここに「水会所」を設けてこれを管理したが、この地点はまた、松山から西条に至る「金毘羅街道」の要衝であり、幕末のころまでは、付近には茶店、旅篭(はたご)が軒を並べ、「釜の渡し」には渡船が設けられてにぎわっていたという(「丹原町の文化財」より)。

関屋川との合流点手前には水路施設と「釜之口井堰と金比羅道」の案内、それと3基の石碑があった。「釜之口井堰と金比羅道」には「釜之口は千町歩(1,000ヘクタール)を灌漑する水口のことで、田野、丹原、周布地区の千町歩にわたる水田の用水を賄ってきた。道前平野農民の生命線であり、藩財政を左右する重要な井堰であった。松山藩は、ここに『水会所』を設けてこれを管理した。 現在の新堰は2年かかって昭和29年完成し関屋川の下を暗渠とし、昔から苦しんだ用水問題が解決した。さらにその後、笠方ダム、中山川ダムの灌漑用水路の建設により、この地方の灌漑は一層完璧となった。
また松山からの金比羅道は延暦23年(804)にできた。松山から中山川沿いの山間部を越え、来見(宿場町)を通り、釜之口渡で中山川を渡り明穂に出て、大頭・小松陣屋町へと進み西条に至る。
釜之口は金毘羅街道の要所で、水会所や茶屋・旅籠などが数軒並び、『釜之口渡し』には渡船が設けられ賑わったという。金毘羅大門より二十二里の里程標、金比羅街道渡舟場跡、右金比羅街道等の里程標がある(西条市教育委員会)」とあった。

●旧井堰
案内に関屋川が中山川に合流する辺りに、「旧井堰」と「吐水余」が書き込まれている。「吐水余」は「余水吐」の表記順が逆転しているだけだろうが、これは「新堰堤」から取水され「取付水路」を通り、関屋川を暗渠でくぐり、「兼久の大池」へと流れる水路の余水を吐き出すところであろうか。「兼久の大池」へと流れる水路から中山川へと流れ出す水の流れがあった。
「旧井堰」の遺構でもないものかと土手を中山川の川床に下りる。が、余水吐の水路に遮られその先に進めない。水路の手前にもそれらしきものは見当たらない。で、関屋川左岸から入り込む。ブッシュが激しく、堰堤があり少々難儀しながら余水吐の水路辺りまで進むが、鉄筋の桁が荒れ果てたままで残るだけで、それらしき旧井堰を見つけることはできなかった。
「愛媛の記憶」には「中山川筋の各井堰の構造は、木工沈床堰か或いは続框石詰堰に限られ、セメントの使用は一切禁止された。遮水手段としては、僅かに阻水板を框の両側にうちこみ、その前部に「しだ」をあて、赤粘土で充填する程度で、井堰の方向も用水の自然流入に便利なように、斜めに設計された。しかし、その構造は貧弱で洪水のたびに流失したり破損した。しかも、釜之口堰の位置が洪水の度に関屋川からの流出土砂の埋積で、井口が閉塞され取水に支障を受けることが度々あった」との説明があった。これでは遺構が残ることはないだろう。
現在、関屋川が中山川に合流する上流にコンクリート工法の新井堰が設けられているが、これも「愛媛の記憶」に、旧堰が「昭和二五年九月三日、ジェーン台風によりおよそ五〇mを流失、さらに九月一三日のキジア台風で被害は一層増大した。これによって釜之口堰の根本的改築の必要性がおこり、同二六年関係町村との水利協定書の調印をとり、釜之口新井堰の移転改築が決定され同二七年二月に着工し、同二九年四月末に完成した」との説明があった。

○水会所
案内に、釜之口堰から取水された水は、「道前平野南部農民の生命線であった」とある。「愛媛の記憶」に「和名抄に「田野郷」の名をとどめているところからみても、1,500~1,600年前に既にこの釜之口井堰は存在していたと推測される」とあるようにその歴史は古い。
また案内に「松山藩は、ここに「水会所」を設けてこれを管理した、とあるが、道前平野南部農民の生命線として各集落への分水をめぐり水争いが起こるため代官所がこれを管理したということであろう。
「愛媛の記憶」には「釜之口井堰の分水については、松山藩領主蒲生忠知の寛永九年(一六三二)すでに、村々間の差縺について(中略)記されており、一七世紀の初めころは代官所より任命された釜之口水裁許役によって分水の采配が行われ、差縫を防止していた。寛永九年の水騒動以後、水落としについて直接代官所より役人を差し向け、分水状況を見分けて裁許するよう改められたのである。
その後も各村々の間で水落としについての差縺を防ぎ、円満に分水を行うための協議がくり返され(中略)、元禄五年(一六九二)には大番落に関する細かい取り決めができた。また大番落前の諸準備をはじめ、大番落の開始時期や定法による分水方法の規定、井口番預かり番人及び井口番改役の配置などが改定された。この時の取り決めが基礎となって、文久元年(一八六一)四月の取り決めができ、その大部分が現在に及んでいる)と説明されていた。

○金毘羅街道
同じく案内にあった、3基の石碑は「金毘羅大門より二十二里の里程標」、「金比羅街道渡舟場跡」、「右こんひら道長野村中」と刻まれた道標であった。金比羅街道とは讃岐の金刀比羅宮への参詣道。松山から道後平野を進み東温市横河原で重信川を越え、川内まで進み、案内にある「中山川沿いの山間部を越え、来見(宿場町)を通り」、この釜之口渡に至るわけだが、この山間部の道筋ってどのようなルートであるのか気になりチェック。
この中山川沿いの山間部を越える道を往昔「中山越え」と称した。川内町から県道327号に沿って山間部に入り、松山自動車道と平行に進んだ県道327号が北に向かうあたりで県道を離れ、南に折れ九十九折れの道を檜峠に。そこから板屋、土谷集落へと舗装された道を南に下り、国道11号への合流の手前から再び山中に入る。中山川の左岸の山中1.5キロ程進むと中山逆調整池の脇に2本の源田桜。桜三里とも称され、江戸の頃は8500本近くもあった桜も千原鉱山の煙害で現在はこの2本を残すのみ。往昔はこの辺りから中山川を橋で越えていたとのことだが、現在は中山逆調整池の底に沈み、道は中山逆調整池の堰堤を越え国道11号に出る。
一旦国道11号に出た金比羅道は、すぐに国道の南の山裾に入り千原集落の五所神社の辺りに出る。そこから一度国道11号まで下り、下り切ったとことろをから再び山へと道を折り返し、国道11号に沿って山裾を進む。道は荒れており、現在は人が通る気配のない道である。
藪道を数キロ進み、鞍瀬川が中山川に合流する落合の手前、松山自動車道の唐子川が聳える山道を川に沿って進み、笹ヶ峠との間の鞍部を抜け、里道を来見に進み、そこから中山川に沿って下るとこの釜之口に至る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

史跡⑦ 掛井手(かけいで)
■釜之口堰から兼久の大池に向かってほぼ一直線に水路が続く。この水路のことを「掛井手(かけいで)」と呼ぶ。石積みの導水路のことである。「西条市 水の歴史館」には「掛井手(かけいで)とは、丹原町長野の末友地区にある左側の樋門から大池までの距離2.86キロメートルの水路のことをいいます。その間ほぼ一直線で幅2メートル、深さ平均2メートル(所によって約3メートル)の掘割水路を石積みで造っていましたが、昭和25年-26年の兼久の大池の樋の大改修の際に、以前より小ぶりの三方張りのコンクリート水路になりました。(中略)
掛井手の流れを見ても分かるように流れは緩やかです。大池予定地の方が高いといって反対した、古老や庄屋の意見にもうなずけるところがあります。測量技術の発達していなかった当時に、喜三左衛門の卓越した水利土木技術には目を見張るばかりです」とある。

○兼久の大池と越智喜三左衛門
なるほど、流れは穏やかである。「西条市 水の歴史館」には続けて「松山領周布・桑村両郡代官の星野七郎正直(ただなお)は、当時の釜之口用水流末の5ケ村(高松・今井・池田東西、願連寺)の水不足を補うため、貯水池を造り旱害(かんがい)に備えたいと考え、自ら池としての適地を踏査しました。 そこで天明7年(1787)11月代官の星野は、大池構築にはここが(注;兼久の大池のある場所)最適の場所であるとして藩許(松山藩の許可)を乞い、準備期間の2年間のあいだに古老や庄屋を召集し意見を求めました。
愛ノ山の麓(ふもと)に大池を造りたいという代官の星野の話を聞いた古老や庄屋たちは、一同口をそろえて、「池を造るにはもってこいの(理想的な)場所・地形であるが、大池予定地の方が中山川の水流より高い」との意見が大勢で、「中山川の釜之口から池に用水が流れていかず、疎水(そすい)の点で大いに問題があるから思いとどまったほうがいい」と難色を示しました。
これに対して水利土木に精通した大庄屋の越智喜三左衛門は、「御一同が地形の高低を議論されるのはもっともである。しかし、自分は過去数年来、この試みについての志しをもっている。釜之口辺りから土地の高低をみるに、やや下流下につく感があるから、疎水の心配には及びますまい」と自信の色を浮かべて熱心に説得をしたといいます。
その後、喜三左衛門は、測量技術の発達していない当時に、釜之口から大池予定地まで数十の提灯を配置し、高低を調べることを思いつき、村人の協力のもと、夜になるのを待って中山川の南側にある赤坂山(標高233m)へ登り、土地の高低を目測・心測するなど、およそ3ヶ月にわたって熱心に調査研究したと伝えられています。
そうして自信を得た喜三左衛門は、遂に衆議を一蹴して、断然疎水が可能であると代官の星野に進言しました。ここにおいて、代官は藩命を仰ぎ、寛政元年(1789)11月9日ついに待ちに待った藩許が下りました。同年12月7日の起工ということは間髪いれぬ速さであって、喜三左衛門がこの時を治下の農民と共にいかに待ち構えていたかが伺えます」とある。

越智喜三左衛門は劈巌透水路を掘り抜いた庄屋である。劈巌透水路が9年の歳月をかけて完成したのが元禄元年であるので、間髪を入れずこのプロジェクトに参画したことになる。

●厳島神社
長野、西長野地区の民家の間を縫うように水路は続く。掛井手(かけいで)を辿ると水路は厳島神社の境内脇を抜け先に進む。推古天皇の御宇に厳島神社の御神体が舟で中山川を逆上ってきたので、国司が現在地に奉祀したという、との縁起が残る。

●水路橋
厳島神社を越え、更に一直線に進む。県道48号とクロスする辺りでは民家の数も減り耕地が広がる。県道を越え先に進むと水路は高松川に当たり、水路橋となって川を越える。「西条市 水の歴史館」には「高松川の下を斜めに渡る石積みの暗渠は手付かずの状態でしたが、昭和29年に直径1.5メートルのコンクリート管に改修され、さらに51災(昭和51年の災害)で高松川を直角に横断するコンクリート製の水路橋に改修されています」とあった。
水路橋脇の橋を渡り、愛ノ山の山裾に沿って先に進むと、左手が開けてくる。兼久の大池はその先にあった。

史跡⑧ 兼久の大池
■松山藩代官星野七郎正直の「周布郡高松村新成池塘記」によると、寛政元年(1789)2月9日藩許を得、同年12月7日に起工、着工後わずか1年5ヶ月の寛政3年(1791)4月に完成 。
功役(人夫)85,000有余、新築堤防220間、池の周囲850間、池内蓄水18800坪(約70万立法メートル)と記されている大規模なものである。 造成決定前には、遥か南の中山川の釜之口より導水するため、水位の高低を巡り反対意見もあったが、来見村の庄屋越智喜三左衛門が夜間提燈を配列して高低を調査、疎水の可能を主張し、池の造成を決定したとつたえられる。
釜之口からの距離2860m、その間、ほぼ一直線に幅2m、深さ2mの掘割水路をつくり、全部石積みとした。受益面積は約500町歩(500ヘクタール)である(「丹原町の文化財」より)。

大池の堤防に立つ。休憩所などが整備されている。脇にあった案内には「寛政元年(1789)11月着工、時代の代官星野直正によって同3年4月完成した。池の内池とも呼ばれて面積11町7反(1170アール)、貯水量46万トン、道前第一の大池である。その受益面積は高松、今井、池田、願連寺、周布の約500町歩(500ヘクタール)におよぶ水源を釜之口に求めているが、この水路の掛井手を完成させたのは来見の庄屋越智喜佐衛門である。
測量技術の開けておらない当時に、夜提灯を配置して土地の高低、寺尾の赤坂山から目測するなど3カ月かけて調査研究、自信をもってこの断行の推進となったと伝えられる。
現在は石積みかコンクリート水路に改修され、大池は道前平野土地改良区の管理のもと、笠方ダム(注;面河ダムのこと)の調整池として有効に使用されている(平成6年 丹原文化協会)」とあった。

兼久の大池は道前平野第一の大池とのこと。 「西条 水の歴史」によれば、丹原地区や小松地区、東予地区の住民は、谷川の表流水や河川の伏流水を生活用水とし、またかんがい用水としても古くから利用してきました。
安定的なかんがい用水を確保するために、江戸時代中期ごろからため池の築造がはじまり、大正時代まで続いています。現在でも、丹原地区55ヶ所、小松地区29ヶ所、東予地区39ヶ所、西条地区70ヶ所のため池が活躍をしています。ほとんどのため池が、現在も道前平野土地改良区の「かんがい用水の調整池」として使われています」とあった。
先日四国霊場散歩の折、札所60番の横峰寺への途中に見かけた「大谷池」も明治に造られたものではあるが、その水は道前平野土地改良区の「かんがい用水の調整池」として両岸分水工で別れた「右岸幹線」の水が供給されていた。

多くは自然・地形の特徴を生かした「ため池」ではあろうが、兼久の大池は人工的に造られたため池である。上でメモしたように、松山領周布・桑村両郡代官の星野七郎正直(ただなお)は、当時の釜之口用水流末の5ケ村(高松・今井・池田東西、願連寺)の水不足を補うため、貯水池を造り旱害(かんがい)に備えたいと考え、自ら池としての適地を踏査し、その結果最適と考えた予定地を、後方二面を愛ノ山(198.4m)に囲まれ、南境には高松川が貫流し、おおよそ三角形のくぼ地で、一部凹湿地もあり、そのほとんどは田地であったこの地とした。
「西条 水の歴史」によれば、「工事起工後は治下の農民と力をあわせ池造りに励み、機械力のない時代の大工事であったにもかかわらず、着工後1年4ヶ月余りの突貫工事を行い寛政3年(1791)4月15日に完成しました。
『大池池塘記』(おおいけちとうき)には「課するに農隙(のうげき=農作業の合間)を以ってし日事を妨ぐるなし」と記されていますが、それは治者(ちしゃ)側の理想であって、実際には賦役督励(ふえきとくれい)がかなり厳しかったようで、またそのような言い伝えもたくさん残っているようです。
延べ人数85,805人8分で、463日間でこの工事が完成していますが、この間には農繁期(田植えや稲刈り約80日)や、雨の日や嵐の日(愛媛県の降雨日年間平均約100日)もあったということからすれば、実工事日数はおおよそ278日くらいであったと思われます。すなわち1日の平均出動賦役人数は約300人くらいであったということが想像出来ます」とある。

○兼久の大池と高松川
ところで、兼久の大池の地を池建設の適地とした理由として「後方二面を愛ノ山(198.4m)に囲まれ、南境には高松川が貫流し」とある。なるほど地形図を見るとその通りではあるが、愛ノ山が独立丘陵として高縄山地から切り離れており、山地と南北に開かれた愛ノ山の谷合には川根の集落があり、その谷間を高松川は南に下り愛ノ山をぐるりと取り巻き、北へと向かう。一方、同じ南北に開かれた谷合にある川根の集落からは北に向かう水流があり、その水流は愛ノ山の北東部で合流している。なんとなく「ノイズ」を感じチェックすると、「西条 水の歴史」に「丹原地区では、元和2年(1616)の中山川の決壊で民家・田野上方の寺院(道満寺)の流失、川根谷の出水で高松川の流路変更」といった記述があった。
どのように流路が変更したのか定かではないが、普通に考えれば、高松川は、元は北へと流れていたように思える。もしそうであれば、兼久の大池は池建設の立地として選ばれていたのだろうか?どうでもいいことではあるがちょっと気になる。

○兼久の大池築造後の越智喜三左衛門
兼久の大池を完成させた越智喜三左衛門はその後謎の死を遂げている。「西条 水の歴史」によれば、兼久の大池築造にまつわる哀しい歴史として、古老の間に伝える口碑(こうひ)では、大池の落成式の祝いは丹原町北田野の願成寺(がんじょうじ)で盛大に執り行われ、喜三左衛門は帰途の石経河原(いしきょうがわら)で何者かによって刺殺されたという説があります。
また、一説では落成式ではなく、代官所からの帰途、疲れを覚えたので、現在の丹原町田野小学校前の大松の下にあった茶屋で憩い、そのとき勧められたお茶に毒が入っていたため、帰宅すると同時に絶命したともいわれています。越智喜三左衛門の墓碑には寛政9年巳6月3日と没年が記されているため、兼久の大池完成から6年を経過していることになります。したがって、落成式の帰途の刺殺は誤って伝えられたものであり、越智家においては毒殺説が伝わっているといいます。
原因は、水路構築の際の地所(じしょ=土地)の取り扱いに対する怨恨(えんこん)だともいい、また喜三左衛門の成功を妬(ねた)んでの所為(しょい=しわざ)ともいわれていますが、いずれにしても喜三左衛門の不屈の功績を讃え、死を惜しむ人々の哀情(あいじょう)に発した伝説であると思われます。喜三左衛門の村人を思う熱い心は、200年以上たった今でも村人の心の中に残っています」とのことである。

今までの史跡は場所などは特定できていたが、これからの史跡は「丹原町の文化財」に掲載されている史跡名、説明、写真以外に手掛かりがない。とりあえず記載されている地区に向かって後は成り行き、運任せの「宝探し」である。

史跡⑨ 高松の横井
■高松地区には、横井(「よこいど」とよむ)特殊水源が3本ある。水源は高松地区の西方およそ1キロ余りの芦ヶ谷池跡およびその付近50mから100mほど離れた地点で、石積み、または土管を用いた暗渠で、そのうち2本は、すぐそばを流れる高松川の川底を横断している。
横井は旱魃の時にも涸渇することなく、飲料水はもちろん、灌漑用水としても重要な役割を果たしている。
竣工の年月は詳らかではないが、施工者は高松村に入庄屋として定住した千原村庄屋黒河丈左衛門といわれる。丈左衛門の墓が山本庵の境内にあり、天保14年(1843)没と刻まれている。
横井の完成は文政(1818-1829)の終わりか、天保のはじめの頃と推測される。第三水門が最も新しい(「丹原町の文化財」より)。

次の目的地は「高松の横井」。「丹原町の文化財」の記述の中にある、「山本庵」、写真の横にあるイラストで高松川が大きくカーブし、その角に神社がある、といった手掛かりをもとにチェックするに、兼久の大池の前を流れる高松川が愛ノ山を大きく迂回しカーブする辺りに八雲神社があり、また山本庵があった。高松の横井の場所は特定できないが、とりあえず八雲神社へと向かう。 八雲神社の鳥居から少し左手の空き地に車を停めまずは八雲神社にお参り。

●八雲神社
古き趣のある参門を抜け、竹林に囲まれた石段を上り拝殿にお参り。祭神は素盞鳴尊(すさのをのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)。神社の由緒には、往古より郷土の神として斎祀され、たまたま八坂神社の神領の地となったので祇園別宮となり神領圏を広げたが、徳川期になって産土神となり領主の護持を得て明治4年村社に列格する、とあった。八雲とは、素盞鳴尊、稲田姫命を娶り、須賀の地に居を求め、そこで雲の立つを見て詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣  妻籠みに その八重垣 つくる その八重垣 を」からだろう。

社へのお参りを終え「横井」探しを始める。八雲神社の鳥居の脇に暗渠があり、激しい水量の音が響く。この水路が高松川の川底を横断したものか、単に高松川から取水した水なのか、近辺を彷徨うも、よくわからない。
それではと、イラストにあった水路が描かれている山本庵に向かう。社から高松川まで戻り、橋を右に見ながら川沿いの道を進むと消防団のポンプ蔵置場で道が3つに分かれる。

●第三横井
で、その分岐点の手前右側に神社の幟を建てる石柱があり、何気なくその傍を通り過ぎるとき、その下を見ると石組みの水場が見えた。その姿が「丹原町の文化財」に掲載されている「第三横井」と似ている。「ためつすがめつ」チェックするに、確かに「第三横井」であった。偶然の出合いに感謝。「第三横井」をゲットした後、消防団のポンプ蔵置場左の道を進み山本庵に。庵のあたりの水路には結構多い水が流れていた。
あてどもなく高松の集落を彷徨うが、これといって横井らしきものに当たらない。それではと水源を求め「芦ヶ谷池跡」へと思うのだが、地元の人にお聞きしてもはっきりしない。また「芦ヶ谷」の方向は高松川の上流部方向と教えてくれたが、それは高松地区の北といった方向であり、「丹原の文化財」にある「西方およそ1キロ余り」と方向が異なる。

それではと、「丹原の文化財」のイラストに遭った水路が高松川の川底を横断している高松川右岸の2ヵ所辺りを探す。橋を渡り、右に折れそれらしき構造物を探す。と、右岸を橋から少し上流に進み、高松川に沿い北に向かうと、南、そして西へと向かう道の3方向に分岐するところに分水口らしきものがあり、勢いのある水音が響く。そしてそこから川岸に進んだところで一瞬開渠となり、そこにある管に水が流れ込む。
これが高松川の川底を横断する口かとも思ったのだが、高松川に水が注がれており、その水が川を横断する用水の余水なのか、単に排水しているだけなのか素人には判断できない。ということで、もうこれ以上の詮索は困難かと、第三横井をゲットしたことで良しとして、高松の横井探しを終えることにする。


次は古田(こた)の水路。古田地区は広く、「丹原町の史跡」から大体の場所を推測するに、「区画整理のため、部落に幅8尺(2.4m)の幹線道路をつくり」とあるので、google mapで古田地区にある区画整理された集落を探すと、名刹西山興隆寺の東に山麓の傾斜地にそれらしき集落が見える。確証はないが、この集落ではないかと西山興隆寺を目指す。
高縄山地と愛ノ山を分ける川根の谷を抜ける県道151号を北に進み、西山興隆寺への案内を左に折れ、坂を上り西山興隆寺に。

史跡⑩ 西山興隆寺
■利水施史跡ではないが、ついでのことであるので、古刹をお参りすることに。駐車場に車を置き、山門をくぐり参道を進む。参道脇の千年株をみやりながら長い階段を上り、城様式で組まれた石垣を見ながら最後の石段を上り本堂にお参り。境内に沢が流れる広大なお寺さまである。
Wikipediaによれば、「西山興隆寺(にしやまこうりゅうじ)は、真言宗醍醐派の別格本山。山号は仏法山。仏法山仏眼院興隆寺と称する。本尊は千手千眼観世音菩薩。紅葉が有名で、紅葉の名所である「西山」を付して「西山興隆寺」と呼ばれている。四国別格二十霊場第十番札所、四国三十六不動尊第八番札所、四国七福神(えびす)。
創建の経緯は定かでない。寺伝によれば、皇極天皇元年(642年)に空鉢上人によって創建されたといい、その後報恩大師、空海(弘法大師)が入山し、桓武天皇の勅願寺ともなったという。源頼朝、河野氏、歴代の松山藩主、小松藩主をはじめとする地元の有力者の尊崇を得て護持されてきた。現在では、真言宗醍醐派の別格本山となっている。
興隆寺は、多数の国・県・市指定文化財を有しているが、本堂 (寄棟造、銅板葺き。文中4年(1375年)の建立。寄棟造であるが、大棟が著しく短いため、宝形造のように見える)、宝篋印塔、銅鐘は重要文化財(国指定)に指定されている」とあった。

史跡⑪ 古田の水路
■文化2年(1895)大火後、芥川源吾は画期的な防災対策として、水路をつくった。区画整理のため、部落に幅8尺(2.4m)の幹線道路をつくり、村のかみに新池を築造し上池と称し、平時は灌漑用水に、非常の時は用心水に利用することとし、上池と谷川に連絡する水路を各道路に沿って開削し、各戸に用心水を溜める1坪くらいの小池をつくった。
現在も水は常時流れているが、上水道・消火栓ができ、昔の面影は薄れている。 古田庵には、「供養永世念佛宝塔」があり、また、「古田大火災150年忌供養塔」を昭和37年建立し、先人の業績を讃えている(「丹原町の史跡」より)。

●上池
西山興隆寺でのお参りを済ませ、「古田の水路」探しを始める。「丹原町の史跡」によれば、「村のかみに新池を築造し上池と称し」とある。Google Mapでチェックすると、集落の最上部に池が見える。確証はないが、そこが上池と想定し、そこに車を停め、そこから「平時は灌漑用水に、非常の時は用心水に利用する」水路を探し集落へと下ってゆく。
区画整理された集落には斜面を下る数筋の道と、その道と直角に交差する道が整備されており、道筋に沿ってかすかな水路が残る。この溝が古田の水路かどうか全く確信はないのだが、集落を彷徨っていると、「丹原町の文化財」に記載された「古田庵」があり、また「丹原町の文化財」に掲載された「古田の水路」と同じ写真の民家石垣に出合い、やっと。ここが「古田の水路」であると判明し一安心。

●古田の集落
「愛媛の記憶」によれば、「古田の集落:丹原町の古田は壬生川に注ぐ新川の一支流が山麓ぞいに形成する扇状地上に立地する集落である。この小扇状地は傾斜が急で、扇頂で一四〇m、扇端で五〇mで、この間は距離にして七五〇mである。古田の住民は第二次大戦前には池田の北の三軒屋付近まで耕作に行く者も多かったが、米・麦などの収穫物を馬や荷車で運びあげるのは難渋したといわれている。
古田の集落は西山興隆寺の門前町であったというが、現在の集落にその面影は見られない。集落は、急斜面の扇状地面に、扇頂から扇端に三列の道路が走り、その道路にそって家屋が整然と並んでいる(写真2―24)。この整然とした集落は文化二年(一八〇五)の大火の後に計画的に設定された集落であると伝えられる。古田の集落は文化二年二月一日、おりからの西風にあおられて、母屋八六戸、納屋等の附属建物を合わせると、総計一三〇余棟を全焼し、集落内の三分の二が灰儘に帰したという。このような大火が発生したのは、一つには扇状地に立地する水不足の集落の悲劇であったといえる。
村の復興は当時の庄屋芥川源吾が、松山藩主に直訴し、藩の助力を得てなしとげたという。集落内には三筋の大道を貫通し、その道路に沿って防火用水路をめぐらし、その水源として扇頂部に池を構築した。火災に際しては池の樋を抜くと、一度に三筋の水路に水が流れ、防火に役立つように設計されていた。また各戸は道路に面しては空地とし、家屋はいずれも宅地の西側に寄せて建てられていたが、これも防火への備えであった。さらに各家の門口には防火用水を満たす「掘」がみられ、防火には細心の注意が払われていた。また、大火後の家屋の再建にあたっては、興隆寺の光憧上人が寺領の木材三〇一本を提供したと伝える。

現在、古田の集落を訪ねると、往時の姿はそのまま残されている。ただ防火用水をはっていた各農家の「掘」は、近年次第に埋め立てられ、その残象をとどめるものは八個にすぎない。この集落では飲料水は井戸水に頼り、各戸井戸を掘削していた。その深さは、扇頂に近い方では三m程度、集落の下手の方では五m程度であったので、飲料水源として井戸を掘削することは、それほど困難ではなかったと思われる。洗濯場は水路の末端や集落から離れた灌漑水路ぞいにあり、汚物などはそこで洗い、集落内の環境衛生に留意することが義務づけられていた」とあった。

場所の特定できない利水史跡も一応ゲットできた。後は堀割隧道など少々難物が控えているが、運を天に任せて次回も進むことにする。

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