多摩丘陵散歩;南多摩駅・大丸城址から稲城の丘陵に

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先日、稲田堤で降り、小沢城址のある丘陵地を歩いた。が、車窓から小沢城址があるこの丘陵より北にも、東西に広がる丘陵がある。京王多摩センターとか南大沢、唐木田などに行く途中、丘陵に囲まれた低地を若葉台まで進む。そんなときにも車窓から眺め、北に広がる丘陵が結構気になっていた。
丘陵の「向こう」はどうなっているのだろう、と。『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を見ていると、多摩川にかかる是政橋の近くに大丸城址がある。是政 の渡しのあった交通の要衝の地。とりあえず、この大丸城址からはじめましょう、ということで、最寄の駅JR南武線・南多摩駅に。京王稲田堤で降り、商店街をJR南武線稲田堤まで歩く。




本日のルート;南武線・南多摩>医王院>大丸公園>普門庵>円照寺>止乃豆乃神社>城山公園>城山交差点>稲城五中入口>百村(もむら)>鶴川街道>武蔵野貨物線>京王稲城駅>尾根越え・迷い道>京王稲城駅

JR南武線・稲田堤駅

JR南武線・稲田堤駅。南武線を利用したのはこれで2回目。最初はもう30年以上も前になるだろうか。印象としては、あまり美しくない客車、どこかの路線からのお下がりといった印象であった。
南武=南武蔵=川崎を主舞台とするこの路線、はじまりは多摩川砂利の運搬、その後は青梅や五日市の石灰を京浜工業地帯に。日本鋼管とか浅野セメントに運んで いた、とか。そういえば秩父駅で見た武甲山など、石灰の採掘のため山肌が強烈に削り取られている。また、先日歩いた青梅の辛垣城址も大正時代まで石灰の採掘が続いていたとのこと。

ともあれ、南武線、なんとなく野暮ったい、と思っていたのは砂利とか石灰の運搬、といったところにあったのだろうか。が、今回乗って車体も新しい。川崎と立川を結ぶ、あたりまえのコミューター列車と様変わりしていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図

南多摩駅
矢野口駅、稲城長沼駅と進む。矢野口って合戦、矢合わせの名残の地名だろうか。電車はどんどん丘陵から離れてゆく。が、南多摩駅に近づくにつれ、電車は再び丘陵に接近。一安心。南多摩駅で下車。いやはやローカルな雰囲気一杯の駅。ともあれ、本日の散歩を開始する。

例によって駅前の案内板で大丸城址と付近の見所を確認。大丸城址は案内にはない。城山公園の表示。それが城址だろう。駅付近に医王院とか普門院とか円照寺といったお寺。そして円照寺の近くに大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)。なんとなくありがたそうな名前。

大麻止乃豆乃天神社
駅を離れ、川崎街道に出る。右手に進み医王院。左手に戻り小高い丘にある普門院、円照寺をちらり拝見しお寺左手にある石段をのぼる。大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)に。ひっそりと、かつ、こじんまりした神社。延喜式内社と言われている。が、青梅の武蔵御獄神社も延喜式の大麻止乃豆乃天神社である、と。どちらもエビデンスに乏しい。武蔵府中の大国魂神社も武蔵の六所宮を集めて総社となる以前は、大麻止乃豆乃天神が祀られていたわけで、どうしたところで大麻止乃豆乃天って、神結構由緒ある神社ではあったのだろう。

祭神は櫛真知命(くしまちのみこと)。火難・盗難よけの神。江戸時代には「丸宮社」と呼ばれていた。地名の大丸(オオマル)も大麻止(オオマト)の訛りではないかとも言われている。ちなみに、川の中洲のことを間島(まと)、とも。間島への船着場を「大間島の津」=おおまとのつ、と言う人もいる。川の中州の船着場がそれほどありがたいともおもえない。ともあれそのうちにこのお宮さんの由来など調べておこう。

力任せに丘陵に取り付く
お宮を後に城山向う。川崎街道に戻り、南多摩駅交差点を左折し峠道に進む。直ぐに右手に丘陵へ登る道。城山への道には少々早いかとも思ったが、丘に登る。これが大失敗。道なき道を進むはめになる。すぐに休憩所。

なんとなく道がある。先に進む。金網が続いている。金網に沿って踏み分け道。何とか進める。どうしたところで、オンコースではなさそう。進む。左下にいかにもオンコースの舗装した道が見える。が、ここまで来た以上、進むしかない。ということでなんとか広場に到着。
後からわかったのだが、この金網の向こうはどうも米軍多摩サービス補助施設らしい。米軍で、働く人のレクレーション施設です。野球場、ゴルフ場、アーチェリー、などなどがあるようだ。?昔は陸軍の弾薬庫だったわけだし、不法侵入しなくてよかった、よかった。


大丸城址
広場から尾根に向って登る木の階段。結構きつい。尾根に上ると快適な散歩コース。が、どこにも大丸城址の案内はない。何回かおこなわれた発掘調査によれば、山頂部には主郭とかちょっとした建物跡、その周りには空堀と土塁といった曲輪程度。要は見張り台程度の山城があったよう。

城山交差点
道なりに下ると向陽台の城山交差点に出た。城山交差点あたりの景色、なんとなく見覚えがある。会社の同僚を車で送ったのはたしか、このあたり、などと思い起こしながら、向陽台2丁目の稲城5中入口交差点に。東に向って道路が作られている。

稲城駅
百村(もむら)に入り、松の台通りを鶴川街道に下る。結構な坂道。魅力的な地形のうねり。鶴川街道に下り、武蔵野貨物線の高架下を通り、三沢川を過ぎ稲城駅に到着。
稲城駅からは、よみうりゴルフクラブのひろがる丘陵を横断することに。道があるのかないのか、そもそもゴルフ場を突っ切ることができるのか、すべて不明。とりあえず、当たって砕けるだけ。折りしも雨。雨あしも次第に激しくなる。傘を差し、城址橋から山裾に続く大通りを進む。

行き止まりにパン屋。脇から少し進むが結局行き止まり。戻る。山裾を少し西に。山に入る道を探す。武蔵野貨物線・生田トンネルの入口近くから山に入る道。ちゃんと整備されている。これなら、と進む。

道に迷い右往左往

成り行きに進む。西に進んでいるよう。畑地に。さらに進む。行き止まり。戻る。東に進み、南に下る。西と南に進む道の分岐。はてさてどちらか、と迷う。南に。後から分かったのだが、西に進めば尾根道に通じていた。が、南に進む。
東に折れ、北に進みそれから大きく時計方向逆回り。里に下りる。着いた。丘陵を越えた! あれ、どこかで見たことがある景色。結局廻りまわってもとのパン屋の近くに戻ってきた。ガックシ。本日、これ以上歩く気力なし。雨も更に激しくなる。中止。次回再チャレンジとする。

稲城の地名の由来

稲城の地名の由来は不明。稲毛一族の本拠の地であるので、「稲毛」であれば問題もないのだが、どこかの記録に、どういった理由か分からないが「稲毛」を不可 とし「稲城」とした、と。稲をつかって小沢城とか大丸城を護ったことに由来する、などと言われる。が、真偽の程不明。ともあれこの地名は明治22年につくられた。東長沼、矢の口、大丸、百村、坂浜、平尾の6つの村があつまり稲城村となった、という。

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