日野 低地散歩;多摩川と浅川に挟まれた低地を歩く

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先日、百草園から高幡不動や平山城址など多摩丘陵を辿った。丘陵からは浅川・多摩川によって発達した沖積低地、その先に河岸段丘と台地などが見える。丘陵、台地、平地、これが日野の地形の特長、とか。丘陵散歩は終わった、次は沖積低地をさまよい、さらには日野台地を歩こう、と。今回は低地編。高幡不動からはじめ、浅川・多摩川沿いの沖積低地を歩こうと思う。 




本日のルート;京王線・高幡不動駅>若宮愛宕神社>向島用水親水路>石田寺>八幡大神社>安養寺>万願寺の一里塚>源平島>万願寺の渡し>都道256号線>日野本陣跡>問屋場・高札場跡>普門寺>大昌寺>八坂神社>宝泉寺

京王線・高幡不動駅
北口に下り浅川へと向かう。駅のすぐ北に水路がある。場所から言えば、高幡用水だろう。浅川と程久保川を繋いでいる。浅川の南には、この高幡用水のほか、西から平山
用水、南平用水、向島用水、落川用水、そして一宮用水と並ぶ。大雑把に言えば、それぞれの用水は浅川から取水し浅川に流す、浅川から取水し程久保川に流す、程久保川から取水し浅川に流すといった水路網となっている。ついでのことながら、浅川の北には多摩川から取水し多摩川へ流す用水、それと湧水を水源として浅川に流す水路網が残っているようだ。ことほど左様に、日野には全長180キロとも言われる用水網がある。

若宮愛宕神社
水路を越えるとすぐ若宮愛宕神社。いかにもあっさりとしたお宮さま。創建の年代は不詳だが、縁起が残る。若い旅の僧が高幡不動金剛寺を訪れ、不動明王に脇士がいないのは残念と二童子を彫りあげる。別れを告げる僧を見送りに集まる村人の前で、その旅僧は忽然と姿を消す。村人は旅僧を神仏の化身と崇め、その地に祠を祀り別旅(わかたび)明神と名付ける。その祠が若宮神社の前身であり、その後、高幡不動裏の丘陵地にあった愛宕神社を合祀し現在の若宮愛宕神社となった。

向島用水親水路
若宮愛宕神社を北に、潤徳小学校脇を過ぎると再び水路。向島用水と呼ばれ、浅川から取水し程久保川に流す。高度成長期には、コンクリート護岸の排水路・ゴミ捨て場と化していた水路であるが、現在では土で固めた護岸に戻され向島用水親水路として美しく整備されている。潤徳小学校には水路を引き入れつくったビオトープがある、とか。ビオトープはドイツ語。もとはギリシャ語のビオ(「命」)+トポス(「場所」)から。生物が棲みやすい環境に変えた場所、と言ったところか。









石田寺
浅川に出る。少し堤を進み「ふれあい橋」を渡り浅川北岸に。浅川に沿って東に進む。多摩都市モノレールが走る新井橋を越え、日野高校の手前を北に抜け石田寺に。このお寺様には新撰組の土方歳三のお墓がある。お墓があるといっても、ここに眠るというわけではなく、このお寺は土方一族の墓所であり、墓碑といったもの。明治100年を記念して土方家が建立した土方歳三顕彰碑が榧(カヤ)の大木の木陰にあった。
石田寺の東隣に浅川水再生センターがある。土方歳三の実家は、この下水処理場の北のはずれにあったと言うが、度重なる多摩川の氾濫のため屋敷は500m程西に移った。それはそれとして、多摩川と浅川の合流点の三角州にあった土方歳三の実家の家業は散薬つくり。浅川の土手に茂る「牛革草」という野草をもとに打ち身薬をつくった。新撰組も打ち身治療の常備薬として使った、とも伝わる。熱燗と一緒に服用といったなんともユニークな薬であったようだが、昭和23年に成立した新薬事法では認可されず製造は終わった、とか。

石田寺を離れ土方歳三の実家に向かう。なるほど、道すがらの家には「土方」姓が多い。成り行きで進み土方歳三の実家に。古本屋で買った書籍(昭和49年刊)には藁葺きの古民家といった写真が掲載されていたのだが、平成の今では美しく建て替えられていた。




八幡大神社
多摩都市モノレールの万願寺駅を経て国道20号線・日野バイパスに沿って西に進む。万願寺は寺跡も寺歴もなにもわかっていない。文政11年(1828年)に著された『新編武蔵風土記』にも「万願寺ノ名ハ古キモノニモイマタ所見ナシ」とあり、当時から既に万願寺の所在が不明であったようだ。
バイパスの一筋北に八幡大神社がある。一帯は万願寺中央公園の東端といった処。鬱蒼とした鎮守の杜と言うよりは、至極あっさりとした広がりをもつ境内。昭和24年、境内神木を伐採し拝殿を新築したとの記録が残るが、そのこととも関係あるのだろうか。
創建の年代は不詳ではあるが、14世紀の前半、武蔵七党の西党・田村駄二郎が男山八幡を勧請した、と。境内の南、道路に面して宝篋印塔と六基の庚申塔が並ぶ。宝篋印塔など多摩地方にはそれほど多く残るわけではないのだが、四本のパイプでガードされただけであり、少々寂しそう。宝篋印塔は墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。




安養寺
八幡大神社の横の道を進むと安養寺に。西党・田村氏の館跡と伝わる。西党は日奉(日祀)氏とも称する。日奉(日祀;ひまつり)は音読みすれば「にし」ともなる。西(日奉)宗頼をその祖とし、日野・八王子の周辺地域に形成された地方武士団。武蔵守として武蔵国府に下向した宗頼は、任期満ちても都に戻らず日野市東光寺あたりに土着。鎌倉期に多摩川・浅川・秋川流域の氏族を広げる。由井氏、平山氏、川口氏、立川氏、そしてこの田村氏である。延喜式に挙げられた勅使牧のひとつである石田牧はこのあたりとする説もある。
この地は田村氏の後裔・田村安栖の在所でもある。田村安栖は、小田原合戦で敗れた北条氏政・氏照の切腹の場として小田原の屋敷を当てる。京都三条戻り橋に晒されたふたりの首級を、秀吉に懇願し引き取り荼毘に付し、小田原と八王子に埋葬した。






万願寺の一里塚
安養寺を離れ、万願寺の一里塚に向かう。万願寺中央公園の北端に水路。上田用水だろう。道なりに北に進み多摩都市モノレールが中央高速に交差する少し手前に万願寺の一里塚。 案内文によると、「江戸時代初期の甲州街道は、現在の国立市青柳あたりから多摩川を渡り、市内源平島に通じ、万願寺を経て日野宿に入った。この一里塚は日本橋から9里目のもので、慶長年間甲州街道が開かれた折につくられたものと伝えられる。径7~8m、高さ3m、塚上には榎が植えられていた」、と。
一里塚は江戸五街道整備のとき、旅人の行路の目安として一里毎に小塚を造り榎の木を植えた。万願寺の一里塚は大久保長安の監督のもと築かれた、との記録がある。通常道の両側にあるのだけれど、この一里塚は南側の一基のみ残る。その塚は一昔前まで塚は雑木に覆われていたようだが、平成15年頃から雑木は取り払われ公園風に整備されている。北にあった塚は昭和43年に取り壊され住宅地となっている。



源平島
一里塚から少し南に戻り多摩都市モノレールの道筋から離れ、都道503号へと折れる。北に進むとほどなく水路。日野用水上堰だろう。先に進むと中央高速手前に公園がある。何気なく見ると「源平島西公園」とある。少し東には「源平島東公園」もある。ということは、このあたりが先程の一里塚にあった「源平島」であったのだろう、か。





万願寺の渡し
中央高速をくぐり高速道路に沿って道なりに進むと多摩川にあたる。土手に「万願寺の渡し」の案内。取り立てて何があるわけではない。多摩川を眺める、のみ。万願寺の渡しは、対岸の国立市青柳とこの地を結ぶ。当初の甲州道中の道筋は六社宮(現大国魂神社)がある府中宿で鎌倉道から分かれ、多摩川沿いの低地を分倍河原、本宿、四谷に進み、「石田の渡し」で多摩川を渡り、石田村から「万願寺の一里塚」を経て日野宿に進んだ。しかし、この道筋は多摩川の氾濫などで不安定でもあり、多摩川の低地を避け崖線を進み、国立市の青柳からこの「万願寺の渡し」で多摩川を渡る道筋に変更された。
この「万願寺の渡し」ルートも17世紀後半になると、少し上流にある「日野の渡し」に変更される。それ以降公道は「日野の渡し」となり、「万願寺の渡し」は地元の人たちのための生活道となった、とか。将棋に「王手は日野の万願寺」というセリフがある。江戸防衛の戦略拠点としての日野・多摩川の重要性を示す言葉でもある。

都道256号線
土手でしばしの憩いの後、日野宿に向かう。多摩都市モノレールの道筋まで戻り、成り行きながらも、江戸初期の甲州道中をイメージしながら進む。大雑把に言って甲州道中は万願寺の一里塚からほぼ一直線に都道256号線の日野警察前に進む。道筋にはお寺もあっただろうと、万福寺脇まで進むも、なんらかの名残も見あたらず。中央高速をくぐり再び日野用水上堰を越え、江戸道の道筋であろう通りを日野警察前交差点に進む。新奥多摩街道とのT字路を越え川崎街道入口T字路へ。T字路の西に日野本陣跡がある。

日野本陣跡
本陣跡に入る。奥まで進むと日野観光案内所があり地図や案内パンフレットなどが揃っている。七生丘陵を歩いた時、日野市郷土資料館を訪ねたことがあるのだが、そこではお散歩関連資料が手に入らなかっただけに、誠に有り難かった。
本陣跡は幕末当時の名主屋敷を今に残す造り、という。入り口には明治天皇ご休憩の記念碑があった。幕末の当主は佐藤彦五郎。天然理心流の剣技に優れ、同門の近藤勇とも親交があった。また、土方歳三の姉と縁を結ぶなど、後の新撰組との結びつきも強く、鳥羽伏見で敗れた後、ふたたび兵を挙げ甲陽鎮撫隊として甲州に向かう
新撰組を援助。自らも義勇軍・春日隊を率いて進軍するも、甲陽鎮撫隊は既に勝沼の戦いにおいて官軍に敗れ去った後。彦五郎は出兵を咎められ一時身を隠すも、有志の懇願により後に公職に復帰。初代の南多摩郡長となる。
明治天皇がこの地に訪れたのは明治14年2月。八王子御殿峠での兎狩りを楽しみ、あまりの愉快さ故に、予定を変更し、翌日も雪の蓮光寺の丘(聖蹟桜ヶ丘近く)での兎狩りを思し召す。その道すがら、休憩のために立ち寄ったのがこの屋敷であった。お酒の好きな明治天皇のため地酒でもてなした、と。
おもてなし、と言えば、太田直次郎こと蜀山人・太田南畝との交流が面白い。幕府のお役人太田直次郎は玉川通普請掛勘定方として、玉川(多摩川)巡検のためしばしば当
地を訪れ、佐藤家に止宿。当時の佐藤家当主であった彦右衛門が、取り寄せた信州のそばを手打ちでもてなした。太田直次郎はその味に感激し表したのが、世に伝わる「そばの文」である。 蕎麦の文:それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど食料にあつる故に麦と名つくる事加古川ならぬ本草綱目にみえたり、されど手打のめでたきは天河屋が手なみをみせし事忠臣蔵に詳なり、もろこしにては一名を鳥麦といひ、そばきりを河濡麺といふ事は河濡津の名物なりと方便の説をつたふ、(中略)ことし日野の本郷に来りてはじめて蕎麦の妙をしれり、しなのなる粉を引抜の玉川の手づ
くり手打よく素麺の滝のいと長く、李白か髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ、これなん小山田の関取ならねど日野の日の下開山といふべし そばのこのから天竺はいざしらず  これ日のもとの日野の本郷 」 

問屋場・高札場跡
本陣跡から道を隔てて日野図書館がある。ここはもと日野宿の問屋場・高札場のあったところ。問屋場は宿の公用業務管理センターと言ったもの。公用の旅人のため人馬を取り継ぐ業務と、同じく公用の書類や品物を次の宿に届ける飛脚業務を行った。高札場は公用文を掲げておくところ。

普門寺
日野図書館脇を北に入る。ほどなく普門寺に。創建は室町初期。元は日野本宿(日野駅の東方)に牛頭天王社ともにあり、牛頭天王の本地仏である薬師如来を祀る神仏習合の寺であった。室町末期には普門寺、牛頭天王(現在の八坂神社)はともに現在の地に移るも、明治の神仏分離の時まで牛頭天王の別当寺として続いた。
普門寺に観音堂がある。元は下河原西明寺の閻魔堂であったものを明治にこの地に移した。旧本堂でもあったこの観音堂は小ぶりではあるが誠に流麗。散歩で多くにお堂を訪ねたが、その中でも印象に残るお堂である。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、明治の初期は850坪もあった、と言う。その境内では、本陣の名主・佐藤彦五郎が代官・江川太郎左衛門の下知のもと組織した日野農兵隊が洋式軍事調練に励んだ。





大昌寺
都道256号線に戻り、西へと進み成り行きで南へ下ると日野用水下堰にあたる。用水を越えると大昌寺に。江戸開幕期、八王子の名刹・大善寺(関東十八壇林のひとつ;壇林とは僧侶の教育機関)の高僧の隠居所として開かれた。開設間もない日野宿に人々の懇請に応じてのことであろう。この寺は名主・佐藤家の菩提寺。ゆったりとした品のあるお寺さまである。

八坂神社
大昌寺を離れ、用水に沿って西に進むと八坂神社。通称「天王さま」。木々は切り払われ、社は結構現代的な建築様式でつくられている。歴史は古い。普門寺のところでメモしたように、創建は室町初期。牛頭天王と呼ばれた。縁起によれば、近くの土淵の地で洪水の後、淵に光り輝く牛頭天王の神像を見つけ、その像を祀ったのが社の起源、と。祭神は素戔嗚尊。
牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
上に、御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトと書いた。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

宝泉寺
六脚ひのき造りの山門をくぐり境内に。本堂は平成13年に新築落成。境内もきれいに整備されている。この寺には新撰組六番組隊長・副長助勤の井上源三郎が眠る。日野宿名主・佐藤彦五郎に天然理心流を紹介したのは源三郎の兄・松五郎と言われる。客殿の南には、裏山を借景にした庭園がある。
日野の低地散歩はこれでお終い。JR 日野駅に戻り、家路へと。次回は河岸段丘と台地を歩く。 日野は飛火野(烽火;のろし)から興ったとの説がある、奈良時代の和同3年、飛火野を嘉字に改めるべしとの勅宣によって「日野」となった、と。また、西党の祖である日奉宗頼が日野宮権現を勧請したのが由来との説もある。日野中納言次朝ゆかりの者がこの地に来住したことに関連づける説もある。またまた、日当たりのいい土地といった地形からの命名、との説も。誠にもって地名の由来は諸説ありて、定まることなし。 

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