目黒区散歩 そのⅠ;駒場東大前から目黒へと

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休日、代官山で仕事があった。仕事といっても、「ご苦労さん」、って顔を見せるだけ。であれば、ということで、駒場東大前から代官山まで歩き、顔見世の後は、再び代官山から目黒の国立自然教育園に。しばし紅葉見物の後は時間次第で目黒不動方面に足を伸ばすことにした。(月曜日, 12月 19,2005のブログを修正)



本日のルート;駒場東大前駅>淡島通り交差>池尻大橋・246号線>目黒川>中目黒駅>旧山手通り・鎗ケ崎交差点>目黒川に戻る>茶屋坂>恵比寿ガーデンプレース>白金・庭園美術館>行人坂>大円寺>太鼓橋>大鳥神社>目黒不動>目黒駅

井の頭線駒場東大前
井の頭線駒場東大前下車。駅前の古本屋で『江戸東京学事始め;小木新造;筑摩書房』購入。散歩を始めて、地理・地形の本を結構買うようになった。
駒場の歴史は江戸時代、この地、駒場野に薬草を栽培していた御用屋敷から始まる。八代将軍吉宗が鷹狩を行って以来将軍の鷹狩場に。ちなみに鷹は必ず獲れるように演出がされており、その役職は綱差(つなさし)として代々受け継がれた、とか。幕末に徳川幕府はフランス人の軍事教官の建白に基づき、この地を軍事演習場とする計画を出した。が、周辺農民の起こした駒場野一揆により、実現せず。明治維新を迎え、駒場農学校が現在の東大駒場キャンパスの地に開校。鷹狩場がそのまま学校の用地となっている。

淡島通り

駅から淡島通りへとゆったりとした坂を登る。淡島通りと交差。先日会社のスタッフが結婚式を挙げた駒場エミナース前に。横の道を南に。都立芸術高校、駒場東邦学園、第三機動隊官舎に沿って歩く。
このあたりは昔、近衛輜重兵大隊があったところ。その西・筑波大学付属中学・高校のあたりは騎兵第一連隊、またその北には陸軍の練兵場広がっていた。ちなみに、目黒区の駒場、大橋、東山、世田谷区の池尻、三宿、下馬といったあたりは陸軍の施設が数多くあった。これらの地域に学校、病院、団地、自衛隊施設が集中しているのは軍用地を転用しているわけだ。





国道246号線・目黒川
国道246号線に向って結構下る。下ったあたりが東邦大学大橋病院。このあたり10m以上の標高差があるだろうか。246号線を渡って目黒川に。烏山川と北沢川が三宿池尻あたりで合流したものが目黒川。都の清流事 業にのっとり、落合下水処理場で高度処理された水が流れ込む。






西郷山公園
川に沿った遊歩道を歩く。目黒橋で山手通りと交差。西郷山公園・菅刈公園下を進む。菅刈とは、往時このあたり、目黒区から世田谷区にかけて菅刈庄と呼ばれた荘園であったため。

駒沢通り
遊歩道に沿って西郷山下、千歳橋、宿山橋を越え、東横線と交差。往時、目切坂から宿山橋をとおり東西に伸びる旧鎌倉街道が続いていた、とか。日の出橋を過ぎ駒沢通りに。駒沢通りを恵比寿方面に少しのぼる。

鎗ケ崎(やりがさき)交差点

旧山手通りとの合流地点、鎗ケ崎(やりがさき)交差点手前で少々のお仕事。しばしの間歓談。再び散歩に出かける。時間は午後3時過ぎ。どこまで行けるだろうか。

目黒川・田楽橋

目黒川沿いの遊歩道に戻り田楽橋。昔の舟入場。海運物資の集積地だったのだろう。中里橋を左折。清掃工場と金属材料研究施設、防衛庁官舎の間を登る。




茶屋坂
茶屋坂、新茶屋坂。目黒区教育委員会の「茶屋坂と爺々が茶屋」の由来書;茶屋坂は江戸時代に, 江戸から目黒に入る道の一つ。大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で 富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって, 3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し,「爺,爺」と話しかけたので, 「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りのときは立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことからこの「爺々が茶屋」を舞台に「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか、と。


国立科学博物館付属自然教育園
茶屋坂脇の紅葉が結構美しい。坂を登りきり、少々雑然とした民家のあたりを通り三田橋でJRを越える。恵比寿ガーデンプレースに。ウエスティンホテル東京と三越の間を通り、社会教育館交差点、恵比寿3丁目交差点に。右折し白金6丁目から外苑西通りを上り、松岡美術館を越えたあたりの信号を右折。国立科学博物館付属自然教育園に沿って法連寺、台北駐日経済文化代表処前を進み、目黒通りに。右折し国立科学博物館付属自然教育園の入口に。4時を過ぎており閉館。幸運にも隣の庭園美術館は午後6時までオープン。この美術館、昭和3年に建てられた旧朝香宮邸。紅葉結構美しい。ゆったりとうす暗がりの中散歩。思わぬプレゼント、って感じでありました。
(後日自然教育園を訪れたことがある。江戸期は高松藩下屋敷。明治期には陸海軍の火薬庫。大正期は白金御料地。湧水や極相林など、豊かな自然が残されていた)

行人坂

時刻は5時を過ぎている。あたりは真っ暗。とはいうものの、目黒近辺の「見所」は歩き終えておこう、ということで、行人坂に向う。目黒駅を越え、JRの線路を跨ぎ、すぐ左折。行人坂へ。坂を下る手前に富士見茶屋跡の由来書。富士山の眺めを楽しめる茶屋があった、とか。「江戸名所図会」にも、富士が見えるさま「佳景なり」と。行人坂に。坂の途中にある大円寺前を太鼓橋まで下る急坂。「江戸名所」に「行人坂とは白金台町より西の方目黒に下る坂をいう。寛永のころ、羽州(出羽)湯殿山の行者(行人)ここに大日如来堂を建てたる所なり、とある。
明和9年(1772年)、大円寺から出た火が折からの強風にあおられ、白金から神田、湯島、下谷、浅草まで江戸八百八町のうち六百二十八町を焼き尽くした。特に江戸城のやぐらも延焼したので、以降80年近く大円寺は再建を許されなかった、とか。この火事は振袖火事、芝・車町火事と並んで江戸三代火事のひとつ。行人坂火事と呼ばれている。
大円寺の石仏群はこの大火の供養のために、五十年という歳月をかけてつくられた。ちなみに、大円寺は八百屋お七の恋い焦がれた吉三郎が僧となって、処刑されたお七の菩提を弔った、と言われるお寺。吉三郎は行人坂を改修、さらには太鼓橋をかけた、とも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


太鼓橋

で、坂を下りきると目黒川にかかるのが、その太鼓橋。広重の江戸名所百景「目黒太鼓橋夕日の岡」。一面の雪景色。傘をさし橋を渡る人の影。江戸の昔に思いを馳せる。ちなみにこの橋、大正時代の豪雨で流されてしまった、とか。

権之助坂

太鼓橋を渡り右折。目黒通りを権之助坂から下りてくる目黒新橋方面に。権之助坂の由来は例によって諸説あり。総じて、菅沼権之助という名主の威徳を偲んで名づけたとか。

大鳥神社

目黒通りに。左折し山手通り大鳥陸橋・大鳥神社の交差点。渡りきったところに大鳥神社。目黒最古の神社。「日本武尊の御霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る。」とあり、大同元年(806年)社殿が造営された、との社伝あり。

目黒不動

真っ暗の中、もうひと頑張り。最後の目的地、目黒不動に向う。大鳥神社に沿って目黒通りのちょっとした坂を登りきったあたりを左折。住宅街に入る。角には目黒寄生虫館が。進む。森というか林にそって下ると滝泉寺・目黒不動。本尊は不動明王。往古より不動信仰の地として多くの人々の信仰を得る。
開山は808年天台座主慈覚大師円仁。不動明王の夢のお告げにより建立とのこと。徳川家光の信仰篤く、諸堂宇を再興し、山岳寺院配置の伽藍が完成。戦災により大半が焼失したが、戦後は仁王門、本堂などが再建され、現在にいたっている、と。
目黒区教育委員会の解説文には;境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷(とっこ)の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした、と。 境内に独鈷の瀧(とっこのたき)。江戸名所図会では次のように描かれている;『当山の垢離場(こりば)なり。往古承和十四年〔八四七〕当寺開山慈覚大師入唐帰朝の後、関東へ下りたまひし頃、この地に至り独鈷杵(とっこしょ)をもてこの地を穿ち得たまふとぞ。つねに霊泉滑々として漲(みなぎ)り落つ。炎天旱魃(かんばつ)といへども涸るることなく、末は目黒一村の水田に引き用ゆるといへり、と。台地から湧き出る水は、何処で見ても神秘を感じる。本日の予定はこれで終了。山手通りから目黒通りの権之助坂を登り目黒駅に。 

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