東京下町散歩・江東区 (1):(埋め立ての歴史)へ

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メモ
折に触れ江東区は歩いている。富岡八幡に出向いたり、清澄公園を歩いたり、亀戸天神におまいりしたり、小名木川に沿って江東区を西から東まで歩いたり、と結構歩いている。江戸の町歩きとしては定番のところである。が、今回は中央区散歩に引き続き、埋め立ての歴史を頭に入れながら歩いてみようと思う。葦原・湿地が埋め立てられ、町屋に変わりゆく姿をイメージしながら歩くことにする。
江東区を東西に貫く小名木川を行徳まで歩いたとき、海岸線の直ぐ脇を通る小名木川を描いた古地図をみたことがある。江戸初期、今の江東区はほとんど海の中、ということである。諸々の資料には、江東区って葦の生い茂る低湿地って書いてある。それがどのようなプロセスを経て今の江東区が形作られたのか、江東区発行の『江東区のあゆみ』をもとにまとめておく。


より大きな地図で 江東区_埋め立ての歴史 を表示          赤い線が第一期。緑の線が第二期。青が第三期。

江戸以前
江東区は、天正18年(1590年)の家康入府以前は、ほとんどが葦の茂る低湿地。現在の総武線あたりが海岸線であった、とか。もう少し時代を遡り、室町時代の古地図を見ると、陸地は寺島(墨田区東向島)から小村井、そして平井を結ぶ線以北。その南には海というか、川というか湿地というか、ともあれ陸地からはなれたところに、亀井戸とか柳島(現在の亀戸天満宮の近く)とか、中ノ郷(東駒形)、牛島(向島)といった島というか洲が書かれている。江戸以前は江東区域って、ほとんどないも等しい、ということである。

江戸時代
江東区域が「浮上」するのは江戸以降。本格的な江戸の都市建設・天下普請がはじまり、関西方面からこの新開地に入り込み土地の埋め立て・開拓が始まってから。『江戸のあゆみ』によれば、江戸期の開発は3期に分かれる、と。

第一期:<慶長から元和まで(1596-1623):小名木川以北、西は隅田川沿岸から東は猿江あたりまで。小名木川以南は海辺新田(清澄・白河・扇橋)が開発。

第二期:寛永から承応まで(1624-1654);隅田川に沿って海辺新田から南に開発。現在の佐賀・永代・清澄・富岡・門前仲町あたりが埋め立てられる。さらに、城東地区の砂村・亀高村(北砂)・荻新田(東砂)・又兵衛新田(東砂)・亀戸村の一部も開拓される。

第三期:明暦から幕末まで(1655-1867);代表的なところでは明暦の越中島、万治(1658年)の砂村新田、霊岸寺門前(三好)、元禄(1697年)の平井新田・石小田新田(東陽町)、築地町(木場、平野あたり)、享保(1716年)の十万坪(千田新田:千田・千石・扇橋あたり)といったもの。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


江東区の土地開発の歴史を頭に入れ散歩に出かける。
コースは江東区発行の『こうとう文化財マップ』の地域分類に従い
I;門前仲町エリア Ⅱ;清澄・白河エリア Ⅲ;森下・住吉エリア Ⅳ;木場・東陽町エリア Ⅴ;亀戸エリア Ⅵ;大島・砂町北部エリア Ⅶ;砂町中南部エリア
以上七地区に分けメモをする。

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