昭和の森公園を分水界とする三つの川を辿る そのⅡ;鹿島川を印旛沼に下る

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昭和の森公園を分水界とする三つの川を辿る そのⅡ;鹿島川を印旛沼に下る 先回の散歩では当初の予定である鹿島川を印旛沼へとの散歩が、村田川の谷戸に入り込みその景観の美しさもあってそのまま歩を進め、東京湾に注ぐ流れに沿って市川まで辿った。単なる自然豊かな地と思っていた村田川流域には、はるか古い昔からの歴史があり多くの興味深い発見があった。もう少々村田川流域の「深堀り」を、とは思いながらも、今回は当初予定の鹿島川を辿る。
成り行きで源流に、といった先回の反省及び学習から、今回は鹿島川の水路最上端と言われる土気駅の少し東北にある調整池から散歩をはじめる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

その調整池から如何にも水路跡といった地形を辿り「昭和の森」にあるという本来の源流点を確認し、その源流点から鹿島川の流路を下ることにする。鹿島川が印旛沼に注ぐ佐倉まではとても1回ではいけそうもない。地図を見て、ほどほどの距離で電鉄の駅があるところは千葉都市モノレールの千城台。おおよそ20キロほどあるだろうか。今回はどのような谷津田の景観が広がり、新たな発見があるのか楽しみである。



本日のルート;JR土気駅>鹿島川の水路最上流点の調整池>本寿寺>あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園>「ホキ美術館」>昭和の森>小食土廃寺>鹿島川の源流部>鹿島川の水路最上流点の調整池>上大和田町;宝蔵院・熊野神社>下大和田町;鹿殿神社>千葉東金道路>千葉市若葉区;東金街道>正八幡宮>宮古橋>古泉町;子安神社・六社神社>御霊神社>御成道;平川>第六天神社

JR外房線・土気駅_午前11時30分
先回とおなじくJR外房線・土気駅で下車。今回は駅の少し北東にある調整池に向かうため北側に下りる。先回歩いた駅の南は再開発されニュータウンである「あすみが丘」が広がるが。駅北は昔ながらの町並である。地名も千葉市緑区土気町。現在は一部を除きほぼ町域は外房線の北に限られるが、元の土気町は誠に広いものであった。
WIKIPEDIAによれば、明治22年(1889)の町村制施行にともない土気町、大稚村、大木戸村、小山村、越智村、高津戸村、上大和田村、下大和田村、小食土村、板倉村の一部が合併し、山辺郡土気本郷町が発足。結構広い。明治30年(1897)には山辺郡と武射郡が統合し山武郡が発足し山武郡土気本郷町。昭和14年(1939)には山武郡土気町。昭和44年(1959)に千葉市に編入され緑区土気町となる。但し、先回の散歩で、旧土気本郷町を構成していた村はそれぞれ緑区の町として分かれているようだし、土気地域の一部が「あすみが丘東」となり、現在の町域となっているのだろう。土気という地名の由来は先回の散歩にメモしたのでここでは省略。

鹿島川の水路最上流点の調整池_午前11時35分
土気駅の北側から駅前を通る大網街道を東に向かい、鹿島川の水路最上流点の調整池に。村田川の源流部を鹿島川のそれと間違えた先回の反省を踏まえ、水路最上流部から地形をチェックしながら源流部を捉えようとの思いである。
駅前を通る大網街道は近世、佐倉藩の外湊として発展した現在の千葉市の中心から外房を結んだ歴史ある道筋。道を東に進み、丘陵へと上る道の手前を少し北に入ったところに調整池を確認。後は、地形を見ながら周囲より低いところをひたすら昭和の森まで辿ることになる。

外房線の踏切_11時39分
外房線の踏切を越える。踏切の東には昭和の森へと続く丘陵が続く。現在の外総線は電化され、何事もないように大網まで走るが、明治29年(1896)1月に蘇我と大網間が開通した頃は、土気と大網間のこの丘陵の急峻な地形をトンネルや橋の建設をできるだけ少なくするような地形を選び、現在の路線と比較しカーブが多く、短いけれども急勾配のトンネルからなる路線となっていた。現在の路線とは75%異なっているとのことである。
土気と大網間は1000m進んで25m上るという急勾配の難所であり、当時の蒸気機関車の馬力では濡れた線路ではスリップし立ち往生することもあったようである。当然のことながら煤煙もすさまじく、そのためもあってか、その間にあった旧土気トンネルは昭和29年(1954)からは切り通しとして開削工事がなされたようである。その切り通しは現在埋め直されている、とか。次回の昭和の森分水界散歩では太平洋へと注ぐ川筋を下る予定であるが、その際にでも旧路線の路線跡を「かすって」みたいと思う。

本寿寺_11時43分
踏切から道を上るとその南に再び調整池。鹿島川の源流への想定水路上でもあるので、この調整池からも、先ほどの大網街道北の調整池にも養水されているのだろう、か。調整池の東に林があり、そこに本寿寺がある。ちょっと立ち寄り。
竹林の丘を上ると結構な本堂。縁起によると酒井氏が土気城を築城した時、千葉市内浜野町にある本行寺の日泰上人を招き城の裏鬼門に建立。酒井氏は戦国時代に東金を拠点に上総北部を支配した地方領主。小田原の後北条に抗するも敗れ、小田原北条が滅亡した後は徳川の旗本として仕えた。
このお寺さまは東上総七里法華の根本道場として、酒井氏の領内の寺院を日蓮宗に改宗させる宗教政策の中心寺院のひとつであった、とか。七里法華とは、酒井定隆が海難から救ってくれた日泰上人と約束したもので、一国一城の主となった折には、領地内をすべて日蓮宗の寺院とするといったもの。海難から救われた、っていう話は「半僧坊」をはじめ枚挙に暇ないので、縁起のパターンのひとつではあろう。境内には日泰上人や酒井氏5代の供養塔、七里法華根本道場の碑などがある。
境内を西に進み調整池脇の竹林・藪に入る。湧水跡か調整池への踏み分け道でもあろうかと藪漕ぎをするが、どうも南には進めないようなので引き返し、元の調整池の西を上る道に戻る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園_午前11時56分
調整池の西の坂を上ると調整池の南に整地されていない広場。広場の西には「あすみが丘東」のニュータウンが迫ってくる。広場を抜け水路跡を探すと、道路を隔てた南に少し蛇行する緑が見える。道路を渡ると「あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園」。蛇行の具合からして、如何にも水路跡の風情である。公園の南端には小さい土管が見える。水を通すものかとチェックすると、狸の通る「けもの道」とあった。

「ホキ美術館」
房谷公園の周囲は「あすみが丘東」ニュータウンの宅地で埋まる。房谷公園を越えた辺りからはさすがに地形を読んで水路を辿ることは難しそうになってきた。こうなれば、とりあえず「昭和の森」の最上部まで進み、そこから逆に房谷公園まで地形を読みながら下ることに方針転換。 房谷公園の南の宅地を進み、ホキ美術館脇を通り昭和の森の入口に。
「ホキ美術館」は、その名前だけから判断し、何故かわ知しらねど前衛芸術っぽい美術館と思いパスしたのだが、メモする段になってチェックすると、ホキは保木氏と言う実業家がつくった写実絵画専門美術館であった。作品を見るに写真以上に精密な絵画に結構惹かれる。次回の外房への水路を辿る散歩の際には、必ず足を止めようと思う。

昭和の森_午後12時5分
ホキ美術館脇の道を進むと昭和の森公園の緑が見えてくる。成り行きで進むと、昭和の森出入り口があり、大きな駐車場も見えてきた。先回進んだ昭和の森は公園全体の西端部分の谷戸・森林地帯であり、メーンの公園部分はこちらのほうであった。
昭和の森のHPの案内によると:昭和の森は、市の中心部から東南に約18km、緑区土気地区に位置する面積105.8ha、南北2.3km、東西0.8km の市内最大、県内でも有数の規模を誇る千葉市の総合公園。公園の西側は、標高60mから90mの下総台地に連なり、東側は九十九里平野と下総台地を分ける高低差約50mの崖地(海蝕崖)に接する。展望台(海抜101m)からは、九十九里平野と太平洋の水平線が一望。
公園の一部が県立九十九里自然公園に指定され、良好な自然環境が残されているため、四季を通じて草花や樹木、野鳥や昆虫など多くの種類の植物や生き物が見られ、平成元年には、わが国を代表する公園の一つとして「日本の都市公園100選」に選定された、とあった。

小食土廃寺_午後12時12分
芝生の広がる公園を進む。最高地点から北に向かう窪みを探して芝生と林の境目辺りを辿ると「小食土廃寺」の案内があった。「やさしど」と読む。「小食土」の由来は先回の散歩メモに任すとして、案内をまとめると、天平13年(741)に聖武天皇が国ごとに国分寺・国分尼寺建立の詔を発すると、各地の豪族は競って寺院を建てた。昭和の森公園内にも「小食土廃寺」という寺の跡が見つかった。8世紀後半のものであり、東西15m、南北12mの御堂の土台や倉庫跡が見つかっている。また、出土した瓦は市原にある上総国分寺跡のものと同じで、この地域が国分寺と密接な関係があったことが推定される、とあった。
先回の村田川散歩も含めわかったことだが、千葉市に編入される以前の広域土気町(あすみが丘、あすみが丘東を含めた昔の土気村、大椎村など)は、内陸部であるにもかかわらず古墳時代から栄えていたようだ。古墳群が存在し、大化の改新後には「総の国」から上総国山辺郡となったこの辺りには、この小食土廃寺だけでなく、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔が出るより先に大椎廃寺(あすみが丘7丁目)が建立されている、とのこと。また、この昭和の森には、この小食土廃寺以外に8世紀の古代神社跡をもつ荻生道遺蹟も発掘されているようである。平安末期になると、先回の散歩でメモしたように大椎城が築かれ、平忠常は大椎城を拠点として、上総・安房・下総を制圧。子孫は後に千葉氏として栄えることになる。単なる気まぐれで訪れた土気地域であるが、上総の「中核地帯」と言ってもいいような地域であった。

鹿島川の源流部_午後12時15分
鹿島川の源流部を探すに、それらしき谷戸といった源流部は見つからない。公園に整備するときに本来の谷戸部分などを整地してしまったのだろう、か。現在、昭和の森公園には芝生のところどころに雨水を集める「集水枡」が埋められているようである。
仕方なく、芝生の広がる公園最上部から北へ向かう窪みを求め、その窪みに沿って下ると、その窪みは公園北の林を迂回しその北側に回り込み、その窪地の公園内の終点部はかすかな湿地となっていた。窪みの終点の先には道路を隔てて「ホキ美術館」があった。これで不明であった房谷公園から昭和の森までの水路跡がぼんやりと見えてきた。
ぬかるみの公園内窪地最終地からガードレールを乗り越え、ホキ美術館の東の道を北へと進み、ほとんど凸凹の痕跡など残らないニュータウンの中を成り行きで進み房谷公園に。そこからは、先ほど上ってきた道を下り、大網街道北にある調整池に戻る。これからが水路として続く鹿島川散歩のはじまりとなる。

再び鹿島川の水路最上流点の調整池_午後12時35分

源流点からの水路を確認しながら出発地点の調整池にやっと戻ってきた。周囲は金網で囲まれ近づくことはできない。案内によれば、「土気調整池;集水面積180ha 私設面積2ha 総貯水面積68,000? (雨水貯水量56,000? 農業用貯水量12,000?;管理者 千葉市下水道局管理部 下水道維持課)、とあった。鹿島川の最上流点は「下水道」扱いということ、か。
調整池の西側の道を下り、調整池からの鹿島川の出口をチェックしようと思うのだが、池の北側は水草の類いのブッシュで覆われている。中に入り込み水路まで進もうとしたのだが、あまりのブッシュに諦め、元の道に戻り農道を回り込み田圃の畦道を調整池まで戻る。調整池からの水の出口を確認し、水路下りをはじめる。

水路が合流_午後13時5分
金網に挟まれた細流からはじまる鹿島川は左右を丘陵に囲まれた美しい谷津田の中を下る。田圃脇の細い灌漑用水といった趣であり、川といった風情にはほど遠い。谷津田には農家は一軒も見当たらない。ほどなく、右手の丘陵脇から金網に囲まれた水路が鹿島川に合流する。鹿島川を囲む丘陵崖下には幾多の湧水がある。という。この水路も湧水の導水であろうか。それとも、丘陵上にあるゴルフ場に池が見えるが、そこに溜まる水の調整のための水路であろう、か。Google Mapで見るに、ゴルフ場の調整池の排出口らしき位置とぴったり水路が重なっているので、ゴルフ場の調整池からの流れのように思える。

宝蔵寺_午後13時23分
田圃の畦道といった鹿島川の堤を下り「石井フラワーファーム」のビニールハウスをやり過ごし、未だ田圃の畦道といった鹿島川の土手を覆う草をかき分けながら先に進む。このあたりまでくると農家が見えてくる。上大和田地区の集落。古くは下大和田地区と会わせて旗本久保勝正の領地。勝正は織田信雄、秀吉に仕えた後、秀忠(後の2代将軍)に仕え、大番の組頭を勤め上総国山辺郡のこの地に領地を賜わり、関ヶ原や大坂夏の陣にも参陣した。寛永7年(1630)勝正の代のとき、領地のうち200石を弟勝次に分与し上大和田村として分村した。上・下大和田村は幕末まで久保氏の支配が続いた。
丘陵地にお寺さま。古い三門の残るこの寺さまの本堂は明治の学制発布の折り、大和小学校が仮設された。明治6年(1873)のことである。先回の散歩の折りにも出合った善徳寺や長興寺、そして常円寺など、お寺様が小学校として機能したケースが多い。

熊野神社_午後13時35分
宝蔵寺から少し北に熊野神社。この地の産土神ではあるが、鳥居や拝殿などは平成11年(1999)新築されたもの。狛犬までも平成11年のもの。この年に全面的な改築がなされたのだろう。奥の本殿は昔の名残を残す。全国3000社とも称される熊野神社であるが、235社の福島に次いで千葉県には189社と全国で二番目に多い熊野神社が佇む。因に本家本元の和歌山は40、出雲(島根)は31社と以外に少ない。以外に多いのは熊本158、岩手176、宮城133、愛知125、静岡102社など。如何なるプロセスでこのような普及となっているのかちょっと好奇心が刺激される。

鹿殿神社_午後13時51分
丘陵裾の道を進み県道131号と交差。鹿島川はその西で萩ノ原天満宮のある千葉市緑区高津戸の谷戸から下大和田の谷戸を下る小川と合流する。谷戸からの湧水や根垂れ水を集めてくだるのだろう、か。合流点にも興味を覚えるのだが、県道を北に少し進んだところに鹿殿神社がある。あまり聞いた事のない社の名前に惹かれて神社に向かう。
雰囲気のあるお宮さま。鳥居は天明6年(1786)に奉納されたもの。中央に継ぎ目が残る。参道は新しく平成16年に改修されたもの。狛犬はのっぺりとしている。風雪がもたらした故か、本来の姿かは不明。鹿と思えば鹿とも思える。拝殿にお参り。拝殿前の石灯籠には鹿が彫られていた。
由緒によれば、「御祭神武甕槌命 創立は百二代御花園天皇の御字寛政四年紀元二千百二十四年。百四代御柏原天皇の文亀三年(注;1503年)には古領主酒井定隆が参籠し、代々の武運を祈る。百十三代東山天皇の元禄年間に社殿を再興 住民が御神徳を仰ぎ、以来産土神として鎮際、今日に至る」とあった(注;「寛政」は「寛正」の表記ミスだろうか。御花園天皇の時代は「寛正」と思うのだが。寛正4年は西暦1463年。)。
武甕槌命(たけみかずちのみこと)は、日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて出雲(いずも)国に下り、大国主命(おおくにぬしのみこと)を説いて国土を奉還させたことで知られる。鹿島神宮や春日神社で祀られている神様。鹿を社の名にしている所以、か。
○水準点
鳥居の右脇には水準点。散歩の折々に神社で出合う。先日草加を散歩したとき、谷塚駅近くの富士浅間神社にある慶応元年の銘の手水舎には高低測几号(水準点)の銘が刻まれていた。 案内によれば、「内務省地理寮が明治9年(1876)8月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三・九五三メートルです。測量の基準となったのは霊巌島(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。その後、明治17年(1884)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。以後、手洗石も明治40年代(1907~1912)と昭和7年(1932)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます(草加市教育委員会)」とあった。また、同じく草加宿の北端にあった神明社にも同様の高低測几号があった。


千葉東金道路_午後14時17分
県道を離れ再び鹿島川に戻る。未だ農業用水路といった風情の川筋である。谷津田の広がる谷津(戸)の景観を楽しみながら進むと先に高い橋桁が見えてきた。千葉東金道路である。東金道路は京葉道路の千葉東ICから分岐し東金市に至る。
鹿島川とクロスする千葉東金道路の橋桁下はブッシュ状態。少し進むが足元が覚束なく撤退。東金道路が丘陵と接するところまで迂回し丘陵裾の道を進み、成り行きで道を進み鹿島川に架かる殿川橋交差点に。
殿川橋より再び鹿島川の土手を進む。殿川橋の先で千葉市緑区から若葉区に入る。心持ち川幅が広くなったようにも思える。が、未だ小川に変わりはない。谷津田も川の右岸は緑のみだが、左岸の県道126号筋には人家が見えてきた。道なき土手を進むと中野町と和泉町の境目あたりで東金街道と合流。道脇は自動車整備工場なのか運送会社といった会社があり、川筋から東金街道には力任せで押し上がる。

○東金街道_午後14時50分
東金街道は千葉市中央区本町1丁目の広小路交差点から東金市台方の東金病院前に至国道126号・128号の千葉県道路愛称名。その昔の東金街道は、江戸と木更津を結ぶ街道(上総道、木更津道、房総街道な度と称される)から分岐し松ヶ丘、鎌取、野田(現在の誉田)、土気を経由し大網に至る土気往還からの分岐道。土気往還を現在の松ヶ丘バス停で北に分岐し仁戸名、川戸を進み、千葉東金道路の大宮ICの少し西の坊谷津を経て佐和、川井地区を進む。そして野呂地からは中野、山田台をへて東金に向かった。千葉市街から弧を描くように野呂地区に向かう現在の東金街道とは異なり、京葉道路松ヶ丘ICあたりから大雑把医に言って一直線で野呂地区を結び、野呂から先は現在の東金街道辺りを進んだのではないだろうか。
土気往還とともに東金街道は、外房・九十九里海岸地方の物資流通路の役割を果たしていたが、特に九十九里海岸地方の海産物を、千葉を経由して江戸に運搬するための重要な陸送路であった。この東金街道は明治以降現在の東金街道が整備されてからはその重要性は失われ、付近の住民の生活道路となっている。

富田揚水機場_15時21分
若葉区中野町と若葉区古泉町を区切るように流れる鹿島川に沿って北に進む。川は未だ小川の域を出ることはない。土手、というか田圃の畦道も草が茂り、藪漕ぎならぬ草小漕ぎで進む。川の脇に鎌田揚水機場などを見やりながら北に向かうと川筋が西にその向きを変えるあたりに富田揚水機場。この辺りから川筋が少し大きくなる。地図をみると、川の東にゴルフ場のある大きな丘陵がある。その南には中野の谷戸も見える。この一帯からの湧水や根垂れ水を集めた水路なのだろうか。その水路が富田揚水機場手前で合流している。

富古橋_午後15時51分
左右を挟む丘陵に沿って西に流路を向けた鹿島川の南北の丘陵に社が地図に見える。ちょっと立寄り。まずは川筋を離れ北の丘陵にある正八幡宮に向かう。結構長い参道を上り拝殿にお参りし、次は逆の南の丘陵にある子安神社、第六神社に向かう。鹿島川には富古橋が架かる。富田町と古泉町を結ぶ故の命名だろうか。
橋を渡り古泉町の集落を歩く。立派な構えの農家を見やりながら道から少し入り込んだ、農家の一部といった緑の中に子安神社、そこから少し南に六社神社があった。通常、六社神社は六柱の神を祭神とすることによるが、律令制の総社の中には六所神社と称し、その国の一宮から六宮の祭神を勧請したものがある。国司が赴任の折り、領国の一宮から六宮まで御参りする手間を省くため、国府近くに建てられた、とか。

御霊神社_午後16時28分
富古橋に戻り地図を見ると左手に御霊神社と県道66号脇に第六天神社がある。ちょっと寄り道。富古橋を再び渡り集落を越えるとその先に緑の丘陵が見える。御霊神社はその丘陵にある。丘陵に囲まれた谷津田をぬけ御霊神社に。赤い鳥居の参道を上る。巨木に囲まれた社はトタン屋根のようなささやかな社にお参り。
御霊神社って、散歩の折々に出合うが、その祭神はさまざま。御霊・怨霊を鎮めるための創建がその本義であろうが、5柱の神々(五霊)を祀るもの、祖先神を「御霊」として祀る者などさまざまである。

鹿島川の支流・平川_午後16時35分
御霊神社の西に広がる谷津田に下りる。この谷津田の中を水路が通る。源流をチェックすると外房線・土気駅の北西あたりまで水路が続いている。そこから左右を丘陵に挟まれ、この地まで、途中千葉東金道路の野呂パーキングアリアの西辺りの谷戸からの水を東金道路の手前で集め、谷津田を下ってくる。水路は少し北に進み鹿島川に合流している。
先日の村田川もそうだが、いくつもの谷戸からいくつもの水路が合流しひとつの川となって下る。遥かの昔、この台地が浸食されて出来た丘陵が複雑に、かつ、重層的に重なり合いながら続いており、その幾多の谷戸から生まれる湧水や根垂れ水が上総の川の水源ではあったのだろう。
支流の流れる谷津田を成り行きで進み大六天手前の道に。道を西に進み支流を跨ぐ。橋に「平川」「中田橋」とあった。この川筋は平川であった。

御成街道_午後16時41分
道を大六天へと進むと道脇に「御成街道」、と。御成街道(東金御成街道)とは、徳川家康の「鷹狩り」のために、佐倉城主土井勝利に命じ、船橋と東金の間に造られたおよそ37キロの道のこと。両総台地の分水界を、坂道はS字としたほかは、ほぼ一直線に、約37㎞にわたって東西に延びている。
ルートをチェックすると、船橋駅の少し南東の船橋御殿>大神宮、県道8号中野木をへて成田街道入口交差点>ここから県道69号を一直線で進み京成線を越え、実籾交差点>国道16号とのクロスまで一直線に南東に進む>国道16号から東は県道66号を六方町の六方五叉路>六方五叉路から県道66号を離れそのまま一直線に進み県道64号マで進む>県道64号佐倉街道を少し南に下り、鎌池交差点で佐倉街道を離れ、総武本戦を越え、国道51号若松交差点まで南東に一直線に下り、千城台駅北東の御成台1丁目交差点>そのまま直線でお茶屋御殿跡>第六天>袖ヶ浦カントリークラブ北端>県道289号に当たる>東千葉カントリークラブ辺りで国道409号>南東に下り東金御殿のある東金駅付近に。確かにほぼ一直線のルートである。
この街道には、沿道の村々の農民たちが石高に応じて駆り出され「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」、「船橋大神宮と東金台方新田で狼煙を上げて直線を定めた」などという伝承があり、別名「一夜街道」、または「提灯街道」、「権現道」などとも呼ばれているが、実際は慶長18年(1613)12月12日(表記旧暦;新暦で1614年1月21日)から翌年の1月7日(表記旧暦;新暦で西暦1614年2月15日)にかけて造られたものである。
また、道路とともに、将軍が休息・宿泊する船橋御殿(現船橋東照宮)、御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、東金御殿(現千葉県立東金高等学校)もつくられた。
家康が慶長19年1月に初めて東金・九十九里方面を訪れて以来、秀忠や家光もこの街道を利用した。その後寛永7年(1630年)を最後に東金方面での鷹狩は行われなくなり、寛文11年(1671年)頃には3つの御殿も取り壊しになった。(東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存)。
御成街道は明治維新後各所で分断されたが、東金市田間から山武市小松までは千葉県道124号緑海東金線として現存しているほか随所に街道の一部が残り、また、八街市内の一部は市指定の史跡となっている(WiKIPEDIA)。

大六天神社_午後16時46分
御成街道を進むと富田入口交差点。交差点脇にバス停があり、「千城台」行きのバスがある。時刻表を見ると10分ほどで到着する。当初はもう少し北の川崎十字路辺りまで進み、そこから千城台の駅まで歩こうと劣っていたのだが、このような有り難い誘惑には抗する理由もなく、予定変更。ヒットエンドランで交差点脇にある第六天神社にお参りしバスで千城台に戻ることに。
大六天神社(第六天神社との表記が多い;以下第六天)とは、第六天の魔王を祭る社。第六天魔王と言えば、信長の信仰篤き社。こまかいことはさておき、その魔王のもつ破壊的部分が気に入り、常識や既存の価値観を破壊する己の姿をもって、第六天魔王と称した、と。中部・関東に多く、西日本にほとんどみかけないのは、その強力な法力を怖れた秀吉が廃社に追い込んだ、とか。
それはともあれ、神仏混淆の続く江戸の頃までは第六天神社においては、仏教の「第六天魔王」が祭られていた。それが、明治の廃仏毀釈の際、仏教色の強い第六の天魔を避け、祭神を神道系の神々に書き換えたり、第六+天神、を分解し、本来関係のない、天神様を前面に出したりもしているようである。

タウンライナー千城台駅
大六天神社を駆け足でお参りし、バスに乗り、タウンライナー千城台駅に。途中御茶屋敷殿といったバス停の案内を聞きながら、そのうちに東金御成道散歩もいいなあ、などとの想いをはせながら、駅から一路家路へと。距離20キロ弱。時間5時間程度の散歩であった。 

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