東京下町散歩 中央区 (3) :日本橋・小伝馬・馬喰町へ

| コメント(0) | トラックバック(0)
日本橋・小伝馬・馬喰町へ
中央区散歩も3回目。中央区の北部地域に進む。千代田区・台東区・墨田区・江東区に境を接する地区、言い換えれば北を神田川、東を隅田川、西・南を日本橋川に囲まれた地域である。江戸開幕から明治にかけて最も古い歴史をもつ商業地域でもある。
家康入府の折は、このあたりも同様に一面に葦の生い茂る湿地帯。埋め立てには、和田倉門から日本橋川・常盤橋あたりにかけ道三掘を開削し、その残土を用いた、と。周辺の低湿地を埋め立て町人の住む商業地を設けた。
日本橋川沿いの魚河岸を中心とした各種河岸ができあがる。人の賑わいの地には当然のこととして歓楽地ができるわけで、人形町を中心とした歌舞伎小屋・浄瑠璃小屋、そして遊郭が生まれる。また、往来の旅人のための旅籠町としての馬喰町、集めた荷を扱う問屋街の横山町、といった一大商業コンプレックスがこの地域に形成された。








本日のルート: 日比谷線・茅場町 > 日本橋蛎殻町・水天宮 > 日本橋人形町・「玄治店跡」 > 日本橋堀留町・椙森神社 > 十思公園・「伝馬町牢屋敷跡」 > 日本橋横山町・馬喰町 > 浅草橋・郡代屋敷跡 > 両国橋・両国広小路記念碑 > 都営新宿線・馬喰横山町

日比谷線・茅場町駅

日比谷線・茅場町で下車。先回は永代通りを霊岸島・新川方面に向ったが、今回は新大橋通りを茅場橋方面に。茅場町のこのあたり、江戸以前は海の中。葦や茅の生い茂る沼沢地。大雑把に言って、現在の首都高速都心環状線、江戸川ランプから京橋ランプあたりが江戸時代の楓川。それ以前は日比谷の入り江に飛び出た江戸前島の東岸。
茅場の由来は茅職人が住んでいたから、とか。江戸切絵図でチェックすると、現在の昭和通りより北は町人町。南は武家地と町人の町が混在している。江戸橋から霊岸橋にかけての日本橋川に沿って、表南茅場町といった町人町がある。数多くの酒問屋が集まっていた茅場河岸がこのあたりたったのだろう。

茅場橋を渡り日本橋小網町・「行徳河岸」に

茅場橋を渡り日本橋小網町に。地名の由来は、小網稲荷神社があったから、とか、家康のために網を引き、肴御用を命ぜられたからとか言われるが定かならず。小網町といえば、市川・行徳からの船が着く行徳河岸があったところ。明治12年、船便の廃止まで江戸と下総をむすんでいた。近くには上総・信太を結ぶ信太河岸もある。このあたりは江戸から明治にかけての船便の要衝であったわけだ。

日本橋蛎殻町・水天宮

小網町の横には日本橋蛎殻町。江戸開幕のころは、江戸湾に面した隅田川河口の海浜地。埋め立てによって作られた。江戸切絵図には小網町の裏と酒井雅楽守の間、稲荷(とうかん)掘のあたりに「カキガラ」の地名が読める。絵図で見る限りでは大名の下屋敷・蔵屋敷とか中屋敷が多い。酒井雅楽守の東には銀座が。当初京橋にあった銀貨鋳造所が享和元年というから1801年、この地に移り、明治に大阪造幣局にその機能が移るまで貨幣を鋳造していた。
このあたりで有名なのは水天宮。新大橋通りと人形町通りの交差点近くにある。二位の尼が安徳天皇と建礼門院を祀った神社である。本宮は九州・久留米。久留米の大名・有馬家が土地を寄進して建てられた。江戸では三田の有馬家屋敷神であった。現在の慶応大学三田キャンパスのあたり。次第に民衆の信仰が高まり、一般に開放されるようになった。この地に移ったのは明治5年のこと。人影まばらなこの地も水天宮の移転とともに賑わいのある地となった、と。

日本橋人形町に「玄治店跡」

蛎殻町の北には日本橋人形町。このあたりは町人地。歌舞伎、人形浄瑠璃の小屋もあり、人形師が多かったのが、この地の由来。吉原に移る前の遊郭・元吉原もこのあたりにあったよう。甘酒横丁を過ぎ、都営浅草線・日比谷線の人形町の駅があるあたり、「玄治店跡」。こどもの頃、春日八郎の歌った『お富さん』の歌詞にあった名前。「粋な黒塀 見越しの松に  仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサォー 玄治店・・・ 」、である。
歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』が題材になっている。 ここにくるまで玄治店、ってなんのことだか知らなかった。幕府の奥医師岡本玄治の1500坪にもなる拝領屋敷があったことがその名の由来。
ついでに、芝居で有名な台詞。:「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、巡る月日も三年越し、江戸の親には勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷は喰詰めても、面へ受けたる看板の疵がもっけの幸いに、切られ予三と異名をとり、押借り強請りも習おうより慣れた時代の源氏店、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ。よくもお主(ヌシ)ア達者で居た なア。安やい、これじやア一分(ブ)じやア帰(ケエ)られめえじやねえか。〜」。
房州木更津。この地の顔役の妾お富。江戸の商家の若旦那与三郎(よさぶろう)が出会い一目惚れ。が、旦那に見つかり、与三郎は半死半生、体中に三十四箇所もの疵を受け放り出された。3年たったある日、身を投げたお富は、裕福な町人に助けられ、源氏店(「玄冶店」)の妾宅に囲われている。お富のもとに、無頼漢・蝙蝠安(こうもりやす)が一人の男を連れて小銭をたかりにやってきた。その男が与三郎。目の前にいる女が自分の運命を狂わせた当のお富だと気がついて言うセリフである。

日本橋堀留町・椙森神社

椙森神社日本橋人形町を越え日本橋堀留町に。江戸切絵図を見ると、小網町からの堀が堀留町の手前まで来ている。掘を留める、で「堀留」と。大商店やら問屋が集まる商業地であった。堀留町1丁目に椙森神社。「江戸名所図会」には堂々とした構えが描かれているが、関東大震災で倒壊。現在は鉄筋の少々つつましやかなお宮さまとなっている。案内によれば、平安時代には藤原秀郷が平将門追討の際に、戦勝祈願に訪れている。創建は平安時代。太田道潅も雨乞いのため、伏見稲荷の伍社を勧請し、深く信仰した。ために、江戸期には江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)のひとつ、椙森稲荷として人気を集めた。境内に「冨塚碑」。江戸時代に大流行の「富くじ」興行の場所としても有名であった。富くじは富突、とか突富ともよばれる。木札を錐で突いて富くじを決めたから、とか。

人形町通りを進み十思公園に「伝馬町牢屋敷跡」
人形町通りを北に進み日比谷線・小伝馬町駅を越え、日本橋大伝馬町・小伝馬町に。家康の江戸入府以前は、奥州街道が通っていた。伝馬町とは伝馬役がいたから。5街道の制とともにつくられたのが宿場、伝馬、助郷といった制度であるが、伝馬は馬の供給をおこなうもの。馬の供給の責務を負うかわりに地子(土地税)などが免除された、とか。
総武線をくぐり、十思公園に。伝馬町牢屋敷跡。切絵図には「囚獄 石田帯刀」とある。石田帯刀は牢役人の名前。吉田松陰終焉の地。石町時の鐘。江戸時代でもっとも古い時の鐘。将軍秀忠のとき、江戸城内にあったが鐘はうるさかったのか、太鼓に代わったので、鐘は場内からこの地に移った、とか。「囚獄 石田帯刀」のすぐ北に神田川の竜閑橋から今川橋へと川筋が見える。竜閑川なのだろう。ちなみに「十思」とは。唐の、時の皇帝への献上文・十か条。君主としてあるべき姿・十か条といったもの。「見可欲則思知足(徒に多くを望まないこと)」、とか、処高危則思謙降(地位が高いほど謙虚にしなさい)、といったもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


日本橋横山町・馬喰町
大・小伝馬町から北東方向に。日本橋横山町とか日本橋馬喰町。この一帯は一大問屋街。馬喰町には多くの旅籠。もともとは馬喰が往来する宿場町といった地域であった。ある時期まで、馬の売り買いはこの地でしか許されなかった、と。この地に郡代屋敷ができることをきっかけに、公事訴訟に地方から出向いた人たちの宿場がここに滞在した。また訴訟ごとの人だけでなく、宿にとまる商人が増えるに連れ、お隣の横山町で問屋業が発達する。宿屋と問屋のコラボレーションによって地方の人をこの地にひきつけたのであろう。神田川にかかる浅草橋の袂に。

浅草橋・郡代屋敷跡

郡代お隣の台東区をむすぶこの橋の袂に郡代屋敷跡。由来所;「江戸時代、関東一円および東海方面など各地にあった、幕府の直轄地(天領)の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理した関東郡代の屋敷があった跡。関東郡代は家康が関東に入国したときに、伊那忠次が代官職に任命され、のちに関東郡代とよばれるようになり、伊那氏が十二代に渡って世襲しました。その役宅ははじめ江戸城・常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火で焼失し、この地に移りました」と。ともあれ、散歩をはじめて以来、この関東郡代伊奈氏には玉川上水からはじまりいろんなところで良く出会う。利根川東遷事業、見沼田圃、赤山陣屋跡等など。新田次郎さんの『怒る富士』も伊奈氏を主人公にしたものだが、清々しい人物は、いかにも善い。

両国橋・両国広小路記念碑

墨田川にかかる両国橋の袂に、両国広小路記念碑。江戸名物の火事の延焼を避けるための火除け地。ただ、この空き地にはいつしか寄席、茶店、見世物小屋が立ち並び、一大歓楽街ともなった、とか。地名は東日本橋、といった無粋なもの。近くに薬研掘がある。薬研とは、漢方の薬種を砕くための鋳鉄製の器具のこと。V字型をしており、堀の形もV字形にくぼんでいるのが地名の由来。

日本橋浜町
下に進み日本橋浜町に。このあたり武家地と町地の入り混じった一帯。隅田川に沿っては大名の下屋敷・蔵屋敷がたちならび、浜町川というか竜閑川というか船入掘というか、ともあれ隅田川に平行に南北に貫く川筋には北のほうは町地、南のほうは蔵屋敷が連なっている。で、浜町といえば明治座。明治に市川左団次によってつくられた。歌舞伎座っぽいイメージであったのだが、近代的なビルであった。 あとは清洲通りを少し北に戻り、都営新宿線馬喰横山町から一路自宅に。これで中央区散歩はお終り。次回は江東区に移る。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://yoyochichi.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/74

コメントする

最近のブログ記事

予土往還 土佐街道・松山街道⑫ ; 高岡郡日高村から高知城下思案橋番所跡まで
先回は予土往還の山越え部をクリアした高…
予土往還 土佐街道・松山街道⑪ ; 高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高村へ
愛媛県上浮穴郡久万高原町の越ノ峠から…
予土往還 土佐街道・松山街道 ⑩ ; 薬師堂集落の「道分れ」から鈴ヶ峠へ
予土往還 土佐街道・松山街道 の散歩もこ…

月別 アーカイブ

スポンサードリンク