東京下町散歩 江東区 (2):(門前仲町)から(清澄・白河)へ

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(門前仲町エリア) 門前仲町エリアの埋め立ての歴史は、現在の佐賀・永代・富岡・門前仲町あたりが第二期。寛永から承応まで(1624-1654)の頃である。第一期の小名木川以北が埋め立てられた後、隅田川に沿って海辺新田から南に開発されていったのであろう。南の越中島のあたりは、第三期。明暦の頃である。
埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
寛永6年(1629年);深川猟師町(佐賀・永代・福住・清澄・門前仲町)
承応年間(1652年);永代寺門前(富岡)
明暦年間(1655年);三十三間堂町(富岡)/ 越中島

(清澄・白河エリア)

第一期は小名木川以北が中心であるが、以南では海辺新田(清澄・白河・扇橋)が第一期、慶長から元和まで(1596-1623)の頃埋め立てられている。その東の、霊厳寺門前(三好)は万治元年(1658年)、築地町(木場、平野あたり)は元禄(1697年)、いずれも第三期に埋め立てられた。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
慶長元年(1596年);海辺新田(清澄・白河・扇橋あたり)
万治元年(1658年);霊岸寺門前町(三好)
元禄11年(1698年);元加賀新田(三好;松平加賀守の屋敷があったため)




本日のルート;
(門前仲町エリア)
相生橋>東京海洋大学・明治天皇聖跡の碑>越中島1丁目>古石場1丁目>古石場2丁目>越中島川>古石場文化センター>古石場親水公園>牡丹1丁目>大横川・黒船橋>深川猟師町>永代1丁目>永代橋東詰>門前仲町2丁目>富岡1丁目>深川不動>永代寺>富岡八幡>旧弾正橋>深川1丁目>採茶庵跡>仙台掘・海辺橋

(清澄・白河エリア)
清澄3丁目・清澄庭園・清澄公園>滝沢馬琴誕生の地>佐賀2丁目・セメント工業発祥の地>清洲1丁目・平賀源内電気実験の地>清洲橋>清洲橋通り>白河1丁目・清洲白河駅前>霊厳寺・松平定信墓>江戸深川資料館>三好1丁目>紀伊国屋文左衛門墓>平野2丁目・間宮林蔵墓>小名木川・万年橋

(門前仲町エリア)

有楽町線・月島駅;佃島から越中島に
門前仲町エリアからはじめる。有楽町線・月島駅に。清澄通りを進み相生橋を渡る。川の中ほどに中ノ島がある。橋を渡りきったところ、東京海洋大学の脇に明治天皇聖跡。
このあたり幕末は幕府の軍事調練場。明治になっても引き続き練兵場となっており、明治天皇が閲兵式に訪れた。越中島1丁目と永代1丁目の境、大横川が隅田川に合流するあたりに練兵橋という、そのものずばりの名前の橋が残る。
越中島の由来はその昔、隅田川河口に小島状の洲があり、その名が越中島と呼ばれていたとか、江戸時代このあたりに播州姫路藩・榊原越中守の屋
敷があったから、とか。これも例によってさまざま。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



古石場文化センター
少し進み右折し越中島通りに。ほどなく京葉線・越中島駅に。駅脇の地域案内板で情報を探す。近くに古石場文化センター。古石場という名前に惹かれる。また文化センターであればなにか面白い情報があるやに、ということで古石場文化センターに向う。
深川三中西交差点を左折。越中島川の掘留のあたりに調練橋・調練公園。このあたりも練兵場だったのだろう。掘に沿って進み古石場2丁目。古石場文化センターに。小津安二郎紹介展示コーナーが。地元、深川1-8-8で生まれた日本を代表する映画監督。古石場の由来は、江戸築城に必要な石の置き場であり、江戸市中の町屋の土台石の加工場、置き場であったため。

古石場川親水公園から大横川・黒船橋に

センターを離れ直ぐ北にある古石場川親水公園に。古石場川は牡丹2丁目、3丁目から越中島1丁目へと流れる大横川の分流。牡丹1丁目あたりで別れ南に。そして東に流れ平久川に続く。牡丹町は江戸時代、付近に牡丹がたくさん植えられていたから。1km弱の親水公園を歩き、大横川にかかる黒船橋に。黒船の由来は、「黒船」の来襲と関係ありや、とおもったのだが、どうもそうではないらしい。浅草蔵前黒船町が火災にあい、その替地となったため。

隅田川脇に深川猟師町跡
大横川に沿って永代2丁目を隅田川方面に。大島川支流にかかる巽川を越え、永代1丁目の永代河岸通りへ。このあたり深川猟師町跡。猟師とは言うものの、当時のこの語の使い方は狐や狸を捕るのではなく、魚や貝を採る漁師を指していた。熊井理佐衛門ら8名がこの地を埋め立て漁業を営んだ。船百六十九隻をもつ漁師町であった。

永代公園には江東区の歴史案内が
永大河岸通り左手の隅田川方面に永代公園。なんとなく足を踏み入れる。公園はどうということはないが、堤にそって江東区の埋めたての歴史の案内が。年代を追って、別のボードに地図とともに説明されている。結構見入った。結果的には『江東区のあゆみ』に掲載されている情報と同じもの、のようである

永代通り・深川不動尊
永代橋袂に。永代通りを東に一路、深川不動尊、富岡八幡へと向う。門前仲町2丁目に成田山深川不動堂。江戸の成田不動といったお寺。江戸初期から元禄にかけ成田山信仰が高まる。が、成田は少々遠い。で、富岡八幡別当・永代寺境内で成田山江戸出開帳。出張興行といったもの。

成田屋・市川団十郎の歌舞伎の影響もあり、ますますの成田信仰が盛り上がる。本山からの本尊を分霊し、「成田山御旅所」をつくる。出張所といったものだろう。明治になり神仏分離。富岡八幡と離れる。明治11年、永代寺跡地に「成田山御旅所」を「成田不動堂」となし、現在に至る。現在の永代寺は、永代寺の塔頭だった吉祥院聖天堂が、後に改称して名称のみを継承したもの。門前仲町はもとの永代寺の門前町ということ。


深川不動尊の横に富岡八幡
富岡八幡。長盛上人がこの地を埋め立てる。6万坪の埋め立て地を幕府に寄進。幕府から富岡八幡と永代寺を建てる許しを得る。坊さんなのでお寺を建てる必要があったにしても、何故八幡様。
言い伝えによれば、上人は先祖伝来の八幡大菩薩を護持。あるとき、「武蔵の永代島、そこの白羽の矢が立つところに私をまつりなさい」ということで八幡様が建てられた。八幡様は源氏の氏神。徳川家の手厚い庇護を受ける。
富岡八幡はまた、江戸勧進相撲発祥の地。京・大阪ではじまった相撲興行はトラブルも多く禁止令がでる。17世紀末になり春と秋の2場所の勧進相撲が許可。その地が富岡八幡。のちに本所回向院に移るがそれまでの100年に渡り、この地で本場所が開催された。
新横綱の土俵入りがこの八幡様でおこなわれる理由も納得。ちなみに、江戸時代の相撲の最高位は大関。横綱とは将軍の上覧相撲の栄誉に浴した大関に与えられる儀式免状であった。儀式というか称号としての横綱が番付上の横綱として登場したのは明治42年(1909年)のことである。


海辺橋の南詰めに芭蕉ゆかりの「採茶庵跡」
八幡様の東、掘跡に旧弾正橋(八幡橋)。元は楓川と鍛冶橋通りが交差するところに架かっていた橋。国産第一号の鉄橋。関東大震災の後この地に移される。もともとあった堀も埋められ遊歩道となった道に上にかかっている。
北に進み、高速道路に沿って富岡八幡、深川不動の裏手を歩き門前仲町交差点に。
交差点を右折し清澄通りを海辺橋に向かう。16世紀末埋め立てられた海辺新田がその名の由来、かも。塩気の含んだ井戸水しかない時代、水売り船が着いたところ。仙台掘にかかるこの橋の南詰めに採茶庵跡。松尾芭蕉の門下杉山杉風(さんぷう)の庵があったところ。芭蕉の銅像。芭蕉はここから船で千住に向かい、「奥の細道」に旅立ったと。門前仲町を離れ、次は清澄・白河エリアに向かう。 
 
(清澄・白河エリア)海辺橋を渡り平野地区。滝沢馬琴や間宮林蔵のゆかりの地
海辺橋を渡り門前仲町エリアから清澄・白河エリアに移る。平野1丁目。海辺橋北詰は滝沢馬琴誕生の地。戯作者・山東京伝に師事し、『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などを作す。平野の地名は、江戸時代、この地にはじめて町屋を開き名主となった平野甚四郎長久の姓がその名の由来。少し東にいった平野2丁目・本立院に間宮林蔵の墓。伊能忠敬に測量を学び、19世紀初頭、樺太を探検。樺太が島であることを発見。大陸との海峡を間宮海峡と名づけられる。
間宮海峡と名づけられたのはシーボルトの紹介である、とか。国禁の日本地図をシーボルトに渡したとして洋学者の高橋景保は獄死、シーボルトは国外追放となった、いわゆる「シーボルト事件」の密告者とされた林蔵であったが、シーボルトは林蔵の功績大として、評価したわけである。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


仙台堀に沿って清澄公園に
清澄公園清澄通りを仙台掘に沿って左折。清澄庭園・公園の南を西に進む。清澄1丁目に平賀源内エレキテル実験の地。六郷用水散歩の折、武蔵新田の新田神社で平賀源内に出会った。確か破魔矢を考案した、と。清澄の由来は、この地域一体を開拓した弥兵衛さんの姓が清住(清澄)であったから。
元禄に清澄(清住)となる前は、弥兵衛町と言う名であった。清澄1丁目の少し南は佐賀2丁目。セメント工業発祥の地。明治5年、明治政府が官営セメント工場をつくる。日本で始めてのセメント工場である。佐賀の名前は地形が肥前の佐賀湊によく似ているためにつけられた、とか。
清洲橋東詰に。清洲って、名古屋の清洲に由来するものと思っていた。が、実際は深川の清澄町と日本橋・中州町を結ぶ橋ということで名づけられたもの。橋は昭和3年、世界一美しいと言われるドイツのケルン橋に範をとってつくられたもの。
清洲橋通りを少し東に進む。右折し清澄庭園に。紀伊国屋文左衛門の別邸と伝えられ、幕末まで下総関宿藩主・久世大和守の中屋敷。明治になって三菱財閥・岩崎家の所有となる。「深川親睦園」として三菱社員の慰安、賓客のゲストハウスとして使われる。
関東大震災後、東半分が東京市に寄付された。「回遊式築山山水庭園」。泉水、築山、枯山水を主体にしてこの庭園には全国から奇岩が集められている。庭園の西側には清澄公園が広がる。しばし公園内を散歩し清澄通りに戻る。

白河地区は寺町跡
清澄通りを隔てた東側は白河地区。江戸時代からの霊厳寺、浄心寺、雲光院といた寺町になっている。霊厳寺の開山は雄誉霊厳上人。もとは霊岸島にあったもの。明暦の大火の後この地に移転。松平定信のお墓がある。徳川吉宗の孫。白河藩主。天明の飢饉では藩内で餓死者を出さず、名君と讃えられた。田沼意次を失脚させ、老中首座となり将軍家斉を補佐。寛政の改革を行った。白河の地名はこの松平定信が白河藩主であったため。昭和になって深川東大工町・霊岸町・元加賀町・扇橋町の各一部を合わせて白河町となった。
三好1丁目の成等院には豪商・紀伊国屋文左衛門のお墓。講談本で名高いみかん船で名をはせ、後に木材商となる。振袖火事の時には木曾材を買い占めて巨万の富を得た。が、大銭の鋳造を請負ったもののすぐに通用停止となり、大きな損失をうけ、晩年は非常にみじめであったという。平野の浄心寺には関東大震災の蔵魄塔が。江戸切絵図によれば、結構寺域が広い。庭園も描かれている。江戸時代、浄心寺の庭って観光名所だった、ってどこかで読んだことがある。

小名木川・万年橋

白河1丁目に深川江戸資料館。江戸時代の深川が再現されている。小名木川までのぼり、東に進む。東深川橋、西深川橋、高橋、そして隅田川河口の万年橋に。小名木川を渡れば、森下・住吉エリア、となる。 

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