文京区散歩 そのⅢ;関口台地と小石川台地、そしてその台地を分ける音羽の谷を歩く

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文京区散歩の三回目。西端の関口台地と小石川台地、そしてその台地を分ける音羽の谷を歩く。音羽の谷を形づくった川は弦巻川と水窪川。ともに池袋駅周辺の池や湿地を水源として護国寺・雑司ヶ谷の台地を西と東に別れて下り、音羽の谷で合流する。「御府内備考」には「幅九尺・・・・・水上は巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際より流出夫より當町(東青柳町)え入音羽町裏通り江戸川え流出申候・・・・流末に而は鼠ヶ谷下水と唱候よしに御座候」、とあるが、この鼠ヶ谷下水は水窪川だけでなく弦巻川をも含めての呼び名であり、特に最下流の人工水路を指していたようだ。

小日向の台地から音羽の谷に下る坂に鼠坂という名前の坂がある。鼠でなければとても上れないような急な坂であったが、この坂は別名水見坂とも呼ばれていたい。音羽の谷を流れる川筋がよく見えたからだろう。鼠ヶ谷下水はこの鼠坂に由来するのだろうか。それにしても音羽に鼠とはこれ如何に。それはともあれ、本日の散歩は、まずは雑司ヶ谷の西を下る弦巻川からはじめ、音羽の谷を下り関口台地に進む。その後は小石川台地をぐるりと廻って水窪川筋に戻り、護国寺の台地の東側を池袋駅近くの水源跡にもどろう、というもの。文京区散歩とは言うものの、始まりと締めが豊島区ではあるが、それはそれとして、ちょっと長い散歩に出かける。



本日のルート;JR池袋駅>丸池の碑(元池袋史跡公園)> 明治通り>弦巻通り(大鳥神社参道)> 法明寺>鬼子母神>大鳥神社>都電荒川線>首都高速5号線>護国寺西交差点>大町桂月旧居跡>目白通り>胸突き坂>水神社>関口芭蕉庵>新江戸川公園>神田川>江戸川交差点>今宮神社>服部坂>小日向神社>新渡戸稲造旧居跡>切支丹屋敷跡>蛙坂>深光寺>林泉寺>地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅 >小石川植物園>千川跡>簸川神社>不忍通り_猫又橋跡>不忍通り_春日通り交差>護国寺>東青柳下水跡>吹上稲荷神社>坂下通り>都電荒川通り交差>東青柳下水跡源流点>JR池袋駅

丸池
池袋駅を北口に下り、駅前を西へ弦巻川のあった丸池へと向かう。ホテルメトロポリタンの東脇に元池袋史跡公園というささやかなスペースがある。ここが弦巻川の水源であった丸池の跡。池袋という地名の由来ともなったところでもある。「袋」は低湿地の地勢を表すことが多いという。低湿地に湧水の湧き出る池があったのだろう。その面影は、今はない。もっとも、東京芸術劇場の地下では現在でも大量の地下水が湧き出ているようで、多くのポンプで排水しているとの話を聞いたこともある。目には見えないところで未だに自然の力が保たれている、ということか。 300坪もあったと伝わる丸池を水源とし、弦巻川はここから南西に下り明治通りに進む。池袋警察所から明治通りへと向かう道を進み、JR線、西武池袋線のガード下を通り明治通り手前に進む。道端に案内地図。如何にも水路跡といった道筋などないものか、とチェック。と、JR線と西武新宿線の間に緩やかに曲がる道筋があり、その道筋らしき続きが明治通りを渡り、その先を東へとこれも緩やかに蛇行する。しかも、その道筋は「弦巻通り」とある。これって弦巻川の川筋の、はず。偶然に川筋が見つかる。これは幸先がいい。

明治通り
道を少し戻り、JR線と西武池袋線の間の最低部で信号を渡り、先に進む。道なりに進み、西武池袋線下を潜り、小料理屋など昭和の雰囲気を残す街並みを進み明治通りに。道の反対側には時に訪れる古書店・往来座。ちょっと立ち寄り数冊購入。

弦巻通り
少し先に進み弦巻通りに入る。大鳥神社参道とある。先の都電荒川線との交差するあたりに大鳥神社があるが、そこへの参道ということ、か。ビッグネームの「鬼子母神」を差し置いての「大鳥神社参道」ということは、大鳥神社ってよっぽどの由緒があるのか、はたまた地元とのつながりがめっぽう強いのか、ちょっと気になる。

法明寺
緩やかにうねる道筋を進む。と、道の北側になんとなく雰囲気のあるお寺さま。桜並木の参道を進むと法明寺とあった。開基810年という古刹。元は威光寺と呼ばれる真言宗の寺であったが、14世紀の初め日蓮宗に改め法明寺となった。江戸の頃には徳川将軍家光より御朱印を受けるなど、代々将軍家の庇護を受ける。有名な雑司ヶ谷の鬼子母神はこの寺の飛地境内にある。境内には豊島一族や小幡景憲の墓がある。豊島氏は鎌倉から室町にかけ石神井城を拠点に、このあたり一帯に覇を唱えた一族。江古田の戦いで太田道灌の軍勢に敗れ勢は衰えるも、生き延びた一族は徳川氏に仕え八丈島の代官となった。ここに眠る豊島氏はその八丈島代官であった豊島忠次の一族である。
小幡景憲は江戸時代の軍学者。徳川氏に仕えるも、大阪の陣では豊臣方に与したとされるが、その実、徳川に内通していた、と言われる。事実、戦後1500石で徳川氏に仕えている。武田の遺臣でもあった小幡景憲は甲州軍学の集大成である『甲陽軍艦鑑』をまとめた。

鬼子母神
鬱蒼たる社叢の中に鬼子母神が佇む。室町の頃、永禄4年(1561)目白台(護国寺西交差点近く、清土鬼子母神のあるところ)で鬼子母神像が見つかり、東陽坊の堂宇に納められる。東陽坊はその後大行寺となり、さらに法名寺に合併したというが、それはそれとして、人々の信仰篤く、「稲荷の森」と呼ばれたこの地に鬼子母神堂を建てた。天正6年(1578)の頃、という。古来、この地には武芳稲荷が祀られ、ために「稲荷の森」と呼ばれた、と。
鬼子母神信仰がさらに盛んとなったのは江戸の頃、加賀前田藩前田利常公の息女により本堂が寄進されてから。門前にお茶屋や料亭が建ち並び大いに賑わったとのことである。前田家との関わりは、鬼子母神が納められた大行院が加賀藩前田利家公のゆかりの寺院であったため。子授け、安産、子育ての神ということもあり、鬼子母神への篤き信仰が従前よりあったのだろう。鬼子母神はインドの仏法守護の毘沙門さまの武将の奥さま。1000人もの子どもがおり可愛がっていたのだが、他人の子供は別物。当たるを幸いに「食べ」ていた。それを改心させようとお釈迦様が、鬼子母神の子供を隠す。鬼子母神は半狂乱。頃合いをみてお釈迦様が、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と言った、とか。以来改心し子授け、安産、子育ての神となった、と言う。
境内を歩く。権現造りの本堂は古き趣。前田家息女の寄進のものが現在まで残っているのだろうか。本堂に向かって右手に鬼子母神像。本堂の像は柔和な表情とのことだが、こちらは結構厳しい表情。仏法護持の職務故、か。左手に法(のり)不動堂。どちらかと言えば密教系の不動堂があるのは、法明寺がもとは真言系の寺院であった名残だろう。本堂を少し離れたところに武芳稲荷。この地のもともとの地主神。脇に大きな公孫樹(いちょう)がそびえる。樹齢700年以上、とか。
境内にある駄菓子屋・川口屋は江戸の頃からの店。すすきの穂を束ねたみみずくの人形「すすきみみずく」は鬼子母神の名物。江戸の頃、夢のお告げで生まれた、と。団子屋には「おせんだんご」。簡潔なる名通信文「おせん 泣かすな 馬肥やせ」とは関係なく、1000人の子供がいた鬼子母神にちなんで、多くの子宝に恵まれることを願う。本堂裏手には妙見堂。北斗七星を神格化した妙見さまは、もともとは空海の真言宗からはじまったものだが、日蓮との結びつきも強い。伊勢において日蓮の前に妙見菩薩が現れ仏教の未来を託された、とか。そのような縁起もあり法華教の布教者は全国の妙見宮の復興に尽くしたと。そういえば大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮関連の寺院に妙見さんが目につく。ちなみに鬼子母神の「鬼」の表記だが、第一画目の点がないものもある。鬼の角を外した姿と示すものであろう、とか。

大鳥神社
境内を離れ再び弦巻川跡をたどる。東京音楽大学の間を抜け、道は如何にも川筋であったがごとくゆるやかにうねりながら進む。道が都電荒川線と交差する手前に大鳥神社。明治通りの入り口よりこの道筋は大鳥神社参道とあったわけで、いかほど大振りなる社かと思ったのだが、まことに普通の神社であった。
この神社、もともとは鬼子母神の境内にあった、という。江戸の頃、松江藩主の嫡子が高田村の下屋敷にて疱瘡を患い療養。ために、疱瘡除けの神として名高い出雲の鷺明神(大社町鷺浦)を鬼子母神の境内に勧請したとされる。「我 これより鬼子母神の神籬(ひもろぎ)の内に鎮座し衆人を衛護せん 若し広前の石を拾い取りて護符とせば決して悪瘡に悩まされることなかるらん」とは鷺明神の言。なぜ鬼子母神の地かはわからない。この地に移ったのは明治になってから。神仏分離で鬼子母神の境内を離れ、少々流浪の時期を経て篤志家の支えでこの地に移った。
大鳥神社と言えば酉の市。ご多分に漏れずこの社も江戸の頃から酉の市が開かれた。江戸末期の記録に『今年より雑司が谷鬼子母神境内鷺明神へ十一月酉の祭とて詣づること始まる是より年々賑わえり(武江年表)』、とある。あれ?あれ?鷺(さぎ)?鷲(わし)じゃないの?酉の市って、足立・花畑の大鷲神社にしても、埼玉・久喜の鷲宮神社にしても、浅草の鷲(おおとり)神社にしても「鷲(わし)」のはず。「鷺(さぎ)」も鳥には違いはないのだが、何がどうなっているのだろう。鷺(さぎ)大明神は素戔嗚尊の妻女であり、その実体は十羅刹女といった神も仏も皆同じ、というか、ぐちゃぐちゃな話もあるが、『新編武蔵風土記稿』では鷺明神社の祭神を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)としている。祭神もあまりひっかからない。酉の市で名高い浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれていたようだ。鬼子母神にも妙見堂がある。こういったことが関係したのだろうか。よくわからない。

雑司ヶ谷台地
都電荒川線を越える。進むにつれ道の左手に台地の高みが感じられる。道を離れちょっと台地へと寄り道をする。成り行きで進むと宝城寺とか水仙寺。宝城寺の門前には「祈雨日蓮大菩薩」の石柱がある。その横、少し坂を上る途中の水仙寺こと御嶽山清立院青竜寺は改築されたのだろうか、新しい建物となっていた。疱瘡快癒祈願の「疱守薬王菩薩」や雨乞いの松がある、とか。「江戸名所図会」の御嶽坂には崖上に瀧清寺、御嶽堂や講雨松。崖下あたりに堂宇、これはたぶん宝城寺、そしてその脇を流れる弦巻川が描かれている。川の周囲はひたすらに畑地が続くのみである。
水仙寺前を台地に上る。雑司ヶ谷台地と呼ばれ、武蔵野台地の末端が浸食されてできたもの。台地上の雑司ヶ谷霊園は明治になってできたもの。それ以前は将軍鷹狩りのための御部屋、そして農家が点在していたとのことである。台地上から弦巻川に開析された谷地を想う。地形図を見ると法明寺から清立院を結んだあたりが崖線。関口台地との間の窪みが弦巻川の谷筋である。しばし崖線に沿って進み、成り行きで弦巻川、というか弦巻通りに戻る。

不忍通り・清戸坂
下町の雰囲気を残す道筋を歩き首都高速5号池袋線の走る都道435号線に出る。高速道路の向こうには豊島岡の台地の高みがある。道を南に下り不忍通り・護国寺西交差点に。どこで見たのか忘れたのだが、交差点近くに大町桂月の旧居跡がある、と。桂月の紀行文のファンとしては、これは一度訪れるべし、と。旧居は文京区目白台3丁目。不忍通りが目白通りに合流する清戸坂を南へと渡り目白台に。この坂が清戸坂と呼ばれるのは、清戸道に上る道であった、から。目白台2丁目で目白通り(清戸道)に合流する。
清戸道は清瀬の清戸に向かう道。始点は江戸川橋のあたり。そこから椿山荘脇を通り西に進み目白、練馬と、おおざっぱに言って目白通りの道筋を進み清瀬に向かう。清瀬での将軍の鷹狩りの道とか、近郊の野菜を江戸に運ぶ道とか、あれこれ。とまれ一度辿ってみたい古道である。清戸?清土?鬼子母神像がみつかったという「清土」鬼子母神は「清戸」坂の脇、目白台2-14-8にある。清瀬の清戸も由来では「清い土」からとのことである。清土は清戸道の元の由来を残した名前か、鬼子母神像を掘りだした清い土からのものか、はてさて。

大町桂月旧居跡
道を渡り大町桂月さんの旧居跡を探す。あちらこちらとさまよいながら、住宅街の中に旧居跡の案内を見つける。奥は空き地となっていた。明治の末にこの地に住んでいた、という。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

胸突坂
ここからは弦巻川の川筋を離れ関口台地の崖線へと進むことに。目白台の台地を成り行きで進み目白台3丁目交差点あたりに出る。目白通りを少し東に戻り、関口台の崖線へと右に折れる。一度訪れた胸突坂を下るため。
道の右手には和敬塾。首都圏の男子大学生の学生寮といったもの。旧細川侯爵邸跡でもあり、細川家の発意かとも思っていたのだが、前川製作所創業者一族が創始者であった。前途有為なる学生を支援したもの、か。先に進むと永青文庫。熊本藩主細川家が収集した日本・東洋の美術品が並ぶ。和敬塾やこの永青文庫、そしてその下に広がる新江戸川公園を含め、この辺り一帯は熊本藩細川家の屋敷跡である。あまりに重厚というか静かな佇まいであり、門外漢が気楽に足を踏み入れるという雰囲気ではない。先に進む。永青文庫の名前は建仁寺塔頭である「永」源院と細川藤高の居城・「青」龍寺から。
右手に新江戸川公園の緑を見やりながら急坂を下る。胸突坂。「むなつきさか」と読む。急坂故の名前だろう。案内には、「坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である」、と。とはいうものの、「自分の胸を突くようにしなければ上れない」ってどういうこと?胸突の意味がよくわからない。「胸を突かれたように息ができない」といった定義もあり、このほうがわかりやすいのだが。はてさて。坂を通したのは元禄10年(1697)のことである。

水神社
足元をとられないように胸突坂をゆっくり下る。コンクリートで固められてはいるのだが、雨上がりでのスリップが少々怖い。下る途中に水神様。神田上水の工事の安全を祈り祀られた。大きな銀杏の木も茂り、こぶりながら祠もあり趣もそれなりに、ある。
神田上水は江戸のはじめの頃、江戸の人々、というか、中心はお武家様用であり余水を町屋の人が、といったところではあろうが、とまれ、江戸の人々に飲料用の水を供給するため設けられた人工の水路。元々あった平井川の川筋を改修し、豊かな井の頭の湧水と結んだ、とか。
神田上水を守る水神様はこの付近に二カ所ある。この関口と目白台。目白台の水神様には行ったことはないのだが、目白通りの関口フランスパンのあたりという。どちら関口水神社であり,少々わかりにくいのだが、もう一カ所のほうにはまだ湧水がわいているとも聞いた。そのうち行ってみたい。

芭蕉庵
胸突坂を隔てて水神社の向かいに関口芭蕉庵。「ご自由に」とは言われても,少々足を踏み入れにくいしっかりした構えの門を入り、野趣豊かな園内を歩く。ひょうたん池の周囲を一回りし、さみだれ塚とか芭蕉堂を辿る。
さみだれ塚は芭蕉の句である「さみだれに隠れぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓としたもの。芭蕉庵の前面に広がる早稲田田圃を琵琶湖にみたて詠んだもの。「庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり」は江戸図会に描かれる芭蕉庵あたりの景観である。芭蕉堂は芭蕉の33回忌を記念して弟子が建てたもの。
芭蕉庵には今までに数回訪れたことがある。神田上水を井の頭の水源から下り、この地を訪ねた。また、関口台地からの湧水が芭蕉庵中にわき出ると、湧水を見るためだけにこの地を訪ねたこともある。この庵の案内を見て、芭蕉が神田上水の改修工事に参画していたことは記憶に残ってはいたのだが、俳人の芭蕉と利水技術者との関連がよくわからない。いい機会なのでチェックする。
文京区教育委員会の案内によれば、「芭蕉は延宝5年から8年(1677から1680)まで神田上水の改修に参加し、龍穏庵という庵に住む」と言う。松尾甚七郎と称する伊賀・藤堂藩の侍であった、とする説もあるが、この頃にはすでに藤堂家を致仕している。俳諧で身をたてんと江戸に下り、藤堂家時代に身につけた水利技術で身過ぎ世過ぎを過ごしていたのだろう。本拠地は日本橋。俳句仲間の魚問屋の貸家に住み、ときどきこの地に出向き後に龍穏庵とよばれるようになる「庵」で寝泊まりしていたようだ。ちなみに、俳号「芭蕉」を使い俳句で一本立ちしたのは、この改修事業の2年後のことである。

新江戸川公園
神田川を少し西に戻り返し新江戸川公園に向かう。江戸の頃熊本藩細川家の下屋敷であったが、現在は文京区が管理している。目白台の崖線を活用し、傾斜面を活かし、台地からの湧水を池に取り入れた回遊式泉水庭園として景観学の書籍などでしばしば取り上げられている名園。「明暦の大火後どの大名も中屋敷、下屋敷をもつようになると、山の手の条件のよい場所は次々と大名屋敷によって占められていった。それらは武蔵野丘陵の豊かな自然をとりこみ庭園を配した私邸あるいは別邸としての役割をもった(中略)。多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読みとれる(『東京の空間人類学:陣内秀秀信(ちくま学術文庫)』)、と。
園内の遊歩道も尾根道風であり誠に、いい。元は3000坪程度であったようだが、次第に拡張し最終的には38000坪といった広大な敷地となった。数年前に訪れたときは入場料が必要だったように思うのだが、今回(2010年8月)は無料で入場できた。

椿山荘
神田川を江戸川橋交差点へと折り返す。芭蕉庵前をかすめ先に進むと左手崖面には椿山荘。江戸の頃、上総・久留里藩黒田家の下屋敷であったものを明治になって元勲山形有朋が購入し、「椿山荘」と名付けた。『江戸砂子』に「椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』ともあるように、この地は南北朝の頃から椿山と称される椿の名所であった、よう。桜の季節の花見の宴や結婚式などの折り、その庭園は歩いているので今回はパス。

関口大洗堰跡
左手に崖面を意識しながら江戸川公園に沿って進むと関口大洗堰跡に。この地に大きな堰があり井の頭から引かれた神田上水の水を保つとともに、江戸湾からの海水を防いだ。今でこそ東京湾の渚はこの地からはるか彼方ではあるが、江戸開闢の頃は現在の日比谷あたりは一面の入り江であったわけで、この関口のあたりまで海水が押し寄せるのはそれほど不自然ではない。関口の名前の由来も堰があったことから。
神田上水はこの地で二手に分かれ、ひとつは上水として後楽園にあった水戸藩江戸屋敷に引かれ、その後水道橋で懸樋にて神田川を渡り、石樋・木樋をもって神田や日本橋へと水を導いた。もうひとつは神田川の流れとなり、お茶の水の切り通しを抜けて大川に注いだ。公園には堰跡を残す。

音羽谷
江戸川橋交差点に。護国寺から江戸川橋に下る道筋は音羽谷と呼ばれ、関口台地と向かいの小石川・小日向台地を分ける。江戸の頃は紙漉が盛んであったと言う。その昔、この音羽の谷筋には関口台地に沿って弦巻川が、小石川・小日向台地に沿って水窪川(東青柳下水とも)が流れていた。今はともに暗渠となりその名残はないが、その昔は清流がながれていたのだろう。「みずまやの 牛の腹ゆく ほたるかな」とは蛍の名所であった弦巻川を詠んだ句である。音羽谷の出口で合わさったふたつの流れは伏樋で神田上水を潜り江戸川橋の下で神田川に注いだ。現在水窪川は坂下幹線と呼ばれる雨水幹線として音羽通りの下を通り神田川に注いでいる。ちなみに、音羽の由来は奥女中の拝領地であったから。

今宮神社
次は小日向台地と小石川台地を辿ることに。小日向台地は小石川台地南端部の支尾根といったものだろうか。茗荷谷のあたり、地下鉄丸の内線の操車場あたり地形の窪みによって分けかれているのだろう。江戸川橋交差点を越え小日向の台地に向かう。
道路脇の地図を見ると、目白坂下交差点近くに今宮神社がある。別名「玉の輿神社」とも称されるように、今宮神社は将軍綱吉の生母・桂昌院とのゆかりの社。八百屋の娘から将軍生母にまで上り詰めた桂昌院が篤い信仰を寄せたが故の呼び名である。それはそれとして、護国寺も桂昌院の発願によるもの。なんらかの関係があるのか、と思い訪れることに。
こぶりな社は護国寺建立の時に京都の今宮神社を分祀したものであり、この地には明治の神仏分離令にともない移り来たとのことであった。桂昌院と大いに関係があった。境内には明治時代、製紙業者が和紙に掛けて招聘した「天日鷲の命」の社がある。鷲>わし>和紙、といった連想ゲームだろう、か。

服部坂
今宮神社を離れ、さてどこから台地に取り付こうかと思案する。道脇の地図を眺めると、小日向神社とか新渡戸稲造旧居とか切支丹屋敷跡といった案内。フックが掛かる。まずは小日向神社に。台地下に沿った道を進む。神田川から2筋ほど入ったこの道路道は昔の神田上水の水路筋。このあたりは開渠で水戸藩の江戸屋敷に向かう。この道は上水通りとも呼ばれていたようだが、上水が廃止された後に水路を石で覆ったため現在では巻石通りと呼ばれる。
大日坂下交差点を越え区立五中前を左に折れ坂を上る。服部坂とある。名前の由来はかつて坂の上に服部権太夫の屋敷があったから。永井荷風は「金剛寺坂 荒木坂 服部坂 大日坂 等はみな 斉しく 小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・」と書く。今は高い建物が多く、それほどの見晴らしはないのだが、少し前の昔にはよき眺めであったのだろう。それぞれの坂は巻石通りを上る坂である。先ほど通り過ごした大日坂は往時坂の上に大日堂があった、から。

小日向神社
坂を上ると小日向神社がある。ここは服部権太夫の屋敷跡。古き社とのことで訪れたのだが、これといった趣は、なし。小日向神社は氷川神社と八幡神社というふたつの古き社が合祀して明治2年にできたもの。氷川神社は天慶3年(940)、当時の常陸国の平貞盛が現在の水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立した。八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい、現在の音羽1丁目に鎮座していた。どこかの古地図で見たのだが、今宮神社のところに田中八幡があったが、そこが古地だろう、か。
ところで小日向だが、日向って、てっきり「日当たりのいい南面地」」と思い込んでいたのだが、実際は人の名前。文禄の頃の文献に、このあたりを領地とする鶴高日向という人いた、とある。で、家が絶えた後このあたりを「古日向」と称していたのが、いつの頃か「小日向」となった、とか。

新渡戸稲造旧居跡
台地上の道を成り行きで進む。誠に偶然に新渡戸稲造旧居跡の案内に行き当たった(文京区小日向2-1-30)。農政学者・教育者。内村鑑三とともに札幌農学校に学び、キリスト教の洗礼を受ける。その後東京帝国大学に学び、アメリカ、ドイツに留学し帰国後は自由主義的、人格主義の教育者として活躍。国際連盟設立に際してはその事務局次長に就任。『武士道』の著者としても知られる。




切支丹屋敷跡
民家の脇に切支丹屋敷跡の石碑。この地は宗門改役井上政重の下屋敷跡(文京区小日向1-24-8)。案内をメモ;江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改役に任じ、キリスト教徒を厳しく取り締まった。この付近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保3年(1646年)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。享保9年(1724年)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政4年(1792年)に廃止された、と。
島原の乱の後、筑前に漂着したイタリア人宣教師を収容したのが切支丹屋敷の始まり、とか。宣教師の転向を強要するのが最大の目的であった、とも。神父フェレイラ、そして神父を転向させようとする井上政重を描いた小説に『沈黙』がある。また、新井白石の『西洋紀聞』は収容された宣教師のヨハン・シドッチを尋問しまとめたもの。

切支丹坂
切支丹屋敷の辺りまで来ると小日向台地の左側の崖線もすぐそこ。谷間には丸ノ内線のヤードがある。この谷間が小石川の台地から小日向の台地をわけているのだろう。碑の前を進み左折すると坂があり、丸の内線のガードへと続く。その坂は切支丹坂と呼ばれる。
志賀直哉の小説『自転車』に切支丹坂の描写がある;恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケ(むつか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた(『自転車』)。子供の頃自転車に熱中し、あちらこちらと走り回った、とか。坂の雰囲気を少し味わい、切支丹屋敷跡へと折り返し、茗荷谷駅方面へと向かう。

蛙坂
道なりに進むと茗荷谷へと下る坂に。道脇の案内によると「蛙坂」とある。メモ;「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)。『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている、と。

茗荷坂
坂を下りきったところに深光寺。滝沢馬琴の墓がある。『南総里見八犬伝』で知られる。深光寺と拓殖大学の間を上る坂は「茗荷坂」。案内をメモ;「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。(中略)茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」、と。

林泉寺
茗荷坂の途中に林泉寺。しばられ地蔵をおまいりに伺う。階段を上り本堂脇に石仏があり、縄で巻かれていた。いつだったか葛飾東水元の南蔵院の、しばられ地蔵にお参りしたことがある。本家本元はそちらか、ともおもったのだが、こちらのお地蔵様も『江戸砂子』に「小日向茗荷谷林泉寺の縛られ地蔵に願かけの時、地蔵を縛り、叶うとほどくと言われ、地蔵縁日には大変な賑わいであった」と書かれている。結構昔から人々の信仰を集めていたのだろう。
説明書きにあった「しばられ地蔵」の名前の由来をメモ;昔、呉服屋の手代が地蔵様の前で休み、居眠り。その間に反物を盗まれる。奉行は石地蔵が怪しいとして縄をかけ、奉行所に運ぶ。物見高い見物人もそれについて奉行所内へ。許しもなく奉行所内に入った者たちに対し奉行は、罰として三日以内に反物を持ってくるように、と。で、集まった反物の中に盗品を発見、犯人も逮捕したという話が「大岡政談」にある、とか。この話の元になったのは葛飾区東水元の南蔵院だが、縛られ地蔵はこのころより有名になった、と。この話はわかったようで、よくわからない、がそれはそれとして寺を離れ坂を上り茗荷谷駅に。台地上にある茗荷谷駅では、いまひとつよくわからなかった茗荷谷の「谷」たる所以がわかった小日向台の散歩であった。

東京大学付属植物園
さてと、散歩もそろそろ最終段階。池袋から護国寺の東を流れ音羽の谷に注いでいた水窪川(東青柳下水)に向かう。茗荷谷駅から台地上の春日通りを進み不忍通りの交差点へともおもったのだが、どうせのことなら小石川台地を一度下り、白山台地との境をつくる谷端川の川筋を辿ろうと。少々迂回することになるが、ここまで来たら、どうということも、なし。
茗荷谷駅から昔の東京教育大学、現在の筑波大学跡地である教育の森公園脇の坂を下り東京大学付属植物園の北西端に。植物園に沿って進む道が昔の谷端川の川筋である。(ここから谷端川を北に上り猫又橋跡までは以前歩いた谷端川散歩の記事をコピー&ペースト)。
東京大学の付属施設であるこの植物園の歴史は古い。貞享元年というから、1684年、徳川綱吉の白山御殿の跡地に、幕府がつくった薬草園・御薬園が、そのはじまりである。三代将軍家光のときに麻布と大塚につくられた薬草園をこの地に移したわけだ。園内には八代将軍吉宗のときにつくられた、小石川養生所の井戸なども残る。養生所は山本周五郎の小説『あかひげ診療譚』でおなじみのものである。台地上や崖線をゆったりと歩く。巨木、古木のなかで最も印象的であったのがメタセコイヤ。垂直に天に伸びる姿はなかなか、いい。
谷端川はこのあたりで千川と呼ばれる。その所以は、この川筋は源流点で千川用水の水を取り入れていたから。別の説もある。千川用水開削の目的がもともと、小石川白山御殿・本郷湯島聖堂・上野寛永寺や浅草寺などの御成御殿への給水のため、ということ。神田・玉川上水からの給水が地形上不可能なため、新たな上水道を開削したわけだ。 要町から先の千川上水というか用水の流路をチェックしておく。要町3丁目から北東に東武東上線・大山駅付近まで登る>その先、都営三田線・板橋区役所駅前が北端のよう>その後は、駅前通・旧中山道に沿って南東に下る>明治通りとの交差するあたりで王子への分水>さらに旧中山道を下り巣鴨駅前・巣鴨三丁目で白山通・中山道通りに>白山通りを進み白山前道から白山御殿に給水、といった段取りでこの小石川植物園あたりまで進んできている。
この用水、将軍様だけでなく、駒込の柳沢吉保の六義園といった幕府関係者への給水、また本郷地区の住民も上水の恩恵に浴した。その後白山御殿閉鎖にともない、いくつかの紆余曲折はあったものの上水の給水はなくなり、水田灌漑用の用水として機能した、と。

簸川神社
小石川植物園の脇、台地の上に簸川神社。第五代孝昭天皇の時代というから、5世紀の創建と伝えられる古社。この神社、もともとの社号は氷川神社。簸川となったには大正時代になってから。天皇自体は伝説の天皇かもしれないが、その当時から簸川=氷川=出雲族の神様をまつる部族がこのあたりに住んでいたのだろうか。氷川神社のメモ:氷川は出雲の簸川(ひかわ)に通じる。武蔵の国を開拓した出雲系一族が出雲神社を勧請して氷川神社をつくる。武蔵一ノ宮は埼玉・大宮の氷川神社。武蔵の国に広く分布し、埼玉に162社、東京にも59社ある、とは以前メモしたとおり。もとは小石川植物園の地にあったが、その地に館林候・徳川綱吉の白山御殿が造営される。ために、おなじところにあった白山神社とともに元禄12年(1699年)、この地に移った。八幡太郎義家奥州下行の折、参籠した、といったおなじみの話も伝わっている。
簸川神社坂下一帯は明治末期まで「氷川田圃(たんぼ)」と呼ばれる水田が広がっていた、とか。神社階段下に「千川改修記念碑」。白山台地と小石川台地に挟まれた谷地を流れる川筋は水はけが悪く、昭和9年には暗渠となる。「千川通り」のはじまり。千石の地名は、千川の「千」と小石川の「川」の合作。

猫又橋
民家の間を続く谷端川跡を進み不忍通りに。横切ると、歩道脇に「猫又橋の親柱の袖石」の碑。「この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけていたので根子股橋と呼ばれた」との説明文。谷端川はこのあたりでは千川とか小石川と呼ばれるようになる。交差点の上は猫又坂。不忍通りが千川の谷地に下る長い坂。千川にかかっていた猫又橋が名前の由来。猫又とは、根子股とは別に、妖怪の一種であったという説もある。このあたりに、狸もどきの妖怪がいたとか、いないとか。

本伝寺
不忍通りを東に、千石3丁目交差点を越えゆるやかな再び小石川台地に上る。春日通りとの交差点の手前に立派なお寺様。本伝寺。何気なく入った境内に波切不動があった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』に波切不動堂が描かれている。『鬼平犯科帳;逃げた妻』;大塚の波切不動堂は、はじめ伊勢の国の或る村に安置されてあったのを、かの日蓮上人が伊勢路を旅するうち、霖雨のため水量を増した河を渡りかねているとき、老爺に姿を変えた不動明王が河の水を切って上人を渡河せしめたという。この不動明王の本尊を東国へ運び、大塚の地に移したのも日蓮上人だそうな。 「農民、その塚上、松の木の下に一宇の草堂を営建して、これを安置したてまつる」と、物の本にある。 いまは、東京都文京区大塚仲町の内だが、当時は江戸の郊外のおもむきがあり、それでいて、新義真言宗豊山派の大本山.護国寺が近いだけに、町なみもととのい、種々の店屋も軒を連ねている、と。
昔はこの本伝寺の場所ではなかったようだが、本伝寺にしても波切不動堂にしても『江戸名所図会』にも描かれている。本伝寺は大きな境内に不忍通りとおぼしき道を人が往来している。波切不動は狭い境内ながら、多くの人が往来する。物売り、駕籠、馬子、主人と奉公人とおぼしき連れなどなど。道は春日通りであろう。

富士見坂
台地上で春日通りと交差し、今度は小石川の台地を下り東青柳下水の水路跡に向かう。この坂は富士見坂。昔はここから富士が眺められたのだろう。道脇の案内によれば、この坂上の標高は28.9m。区内の幹線道路では最高点とか。昔は、狭くて急な坂道であったようだが、大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった、と。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。「とりかごをてにとりさげてもわがとりかひにゆくおほつかなかまち(会津八一)」「この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)」。富士が詠われていないようだが、既に富士の眺望は過去のものとなっていたのだろう、か。

護国寺
護国寺の東側、いかにも水路跡といった通りを確認し、ついでのことでもあるので、護国寺へ足をのばす。お寺の門というより、武家屋敷の門構えといった惣門を入り境内に。五万石以上の大名家の格式をもつ門構えとか。五代将軍綱吉が生母である桂昌院のために建てた寺院であれば当然、か。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、 この門は、中期元禄年間のもので、特に重要な文化財である、と案内にあった。
境内を本堂の観音堂へと向かう。不老門に通じる石段の右手には富士塚。『江戸名所図会』にそれらしき姿があったので気にしていたのだが、疲れのためか富士塚に行くのを忘れてしまった。本堂の観音堂は国の重要文化財。お参りをすませ、八脚門・切妻造りの堂々とした仁王門をくぐり不忍通りに。

水窪川・東青柳下水跡
不忍通りを戻り直し水窪川・東青柳下水の流路跡とおぼしき地点に戻る。根拠はないのだが、北から不忍通りへと合流し、通りの南を先に続く細路がいかにも水路跡といった雰囲気であった、から。結果的にはオンコースであった。不忍通りを渡った水窪川・東青柳下水跡は大塚2丁目・旧東青柳町を小日向の台地の下を進み、弦巻川の流れと合わさり江戸川橋で神田川に合流する。水窪川跡を源流へと向かう。源流点はサンシャイン60の近くということはわかってはいるのだが、流路はそれほどきちんと残っているとも思えないので、とりあえす成り行き、ということで先に進む。
皇室の御陵である豊島が岡御陵東側の石垣に沿って進む。豊島が岡御陵は護国寺と一帯になった台地となっており、その崖下を進む。民家の軒先といった流路を進むと、吹上稲荷神社がある。吹上>吹上御所>皇室>豊島が岡御陵、といった連想ゲームで、なんらかありがたい社かと、ちょっと寄り道。

吹上稲荷神社
社の裏手は鬱蒼とした赴き。豊島が岡御陵の社叢に連なる緑だろう。元和8年(1622)、徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神を勧請し、江戸城中紅葉山吹上御殿につくられた。もとは「東稲荷宮」と呼ばれた、と。後に水戸家の分家・松平大学頭家に、そして宝暦元年(1751)に大塚村民の鎮守神として現在の小石川4丁目に移遷。この頃に吹上御殿に鎮座していたことから名前も「吹上稲荷神社」と改めた。その後、護国寺月光殿から大塚上町、そして大塚仲町へと移遷し、明治45年に現在地に移った。

水窪川源流点
川筋跡に戻り先に進むと坂下通りに。根拠はないのだけれど、川筋跡とおぼしき道が坂下通りを越え、湾曲して進む。たぶんそれが川筋跡だろうと先に進む。道脇には大谷石の石垣で段差をつけた家があり、なんとなく川筋の雰囲気がある。道なりにぐるりと迂回し、再び坂下通りに。この先は流路らしき道は残っていない。崖下から離れないように先に進む。だけ、道すがらポンプ井戸などが残る。小さな商店街をかすめ先に進むと都電荒川線に当たる。成り行きで造幣局東京支局の石垣下に。幣局東京支局は戦犯を収容した巣鴨プリズンのあったところ。石垣下をかすめ、都電荒川線東池袋四丁目駅あたりに進む。近くに川筋跡らしき道が残る。
この先は川筋跡の痕跡はなにもないが、源流点とされる東池袋1丁目23の美久仁小路に向け高速5号線をくぐり、豊島岡女子学園脇を通り源流点に到着。池袋の繁華街、コンビニの脇に美久仁小路があった。
かつてはこのあたりから都電荒川線の池袋4丁目駅あたりまでは一面の湿地であったようだが、一帯の丘陵地であった「根津山」を切り崩し埋め立てられた、とか。弦巻川にしても、この水窪川にしても池袋付近にあった池や湿地を源流として護国寺の東西を下っていたわけである。今は昔、ということ、か。これにて少々長かった本日の散歩を終える。ちょっと疲れた。

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