東予市に残る河野氏ゆかりの地を辿る1回目は、赤滝城で思いのほか時間がかかり、予定していた文台城跡、大熊城跡を歩けなかった。
2回目は文台、大熊の城跡巡りからはじめるが、この城は1回目でメモした赤滝城と同じく、河野氏第22代当主・通清が、嫡子の23代当主・通信とともに攻め立てた城でもある。
■河野通信(第23代);源氏方として武功をたて東・中予に強い勢力を築く
当初不利であった戦況も、源氏方の攻勢により伊予での雌伏の時から反攻に転じ、高市氏を撃破。源氏の軍勢の一翼としても、壇の浦の海戦などで軍功をたてる。鎌倉幕府の開幕に際しては、頼朝に臣従を許された数少ない西国御家人のひとりとなり、奥州平定にも出陣する。
伊予への帰国に際し、通信は破格の待遇を得ることになる。それは、既に伊予の守護となっていた佐々木盛綱の支配を受けず、一族を率いることができるという許しを得たことである。鎌倉幕府が施行した守護。地頭の制度下、伊予の国の守護に補任された佐々木盛綱の指揮を受けることなく伊予の半分近くを治め得るという「半国守護」と称される所以である(異説もある)。 通信はこの特権を最大限に活用し、伊予の競合武将を圧倒し、13世紀には伊予の東予・中予に強い勢力を築き上げる。その直接の領地は所領五三箇所、公田六十余町に及んだと推測されている。
承久の変と河野通信の反幕挙兵
頼朝亡き後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が北条氏の支配する鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、河野通信は宮側に与する。幕府は伊予の反河野勢に命じ高縄城を攻めるも攻略叶わず、阿波・土佐・讃岐、さらに備後国の御家人の遠征軍の合力により高縄城は落城する。
幕府の恩顧にも反し、宮側に与した要因は、諸説ある。一説には桑村以東、また南予に勢力を伸ばそうとする河野氏の思惑があるとも説かれる。桑村以東は守護、南予は東国の有力御家人が抑えており、この乱を契機に東予への領地拡大、南予支配を目した故、と言う。
承久の変後の河野氏の没落
戦に敗れた河野氏は、一族のうち、ひとり幕府方に与した五男・通久(第24代)の軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められたほかは、上記、河野氏の所領五三箇所、公田六十余町、一族一四九人の所領も幕府に没収され、河野氏はその勢を失う。通信は通久の働きに免じ平泉配流となるも、一族の大半は討ち死や斬首に処される。
父の通清とともに、伊予の兵士の目代を追放、父を戦死させた額入道西寂を倒し父の仇を打つ。源平合戦では源氏を助け活躍する。
承久の変(1221)では上皇側につき幕府軍と戦うが、敗れて帰郷、高縄山で反抗を続けるが、捕らわれて奥州に流される。
続柄:通清の子
家督;不明
関係の社・寺・城;東禅寺(今治市)、大山祇神社、文台城、大熊城、赤滝城(丹原町
墓や供養塔;北上市(岩手県)
▽東禅寺の由緒;今治市東禅寺の歴史は極めて古く、伊予の国司河野氏の祖先小千命の十五代の孫予州太守越智益躬公によって建立されたものである。
推古天皇の十年、大陸より夷狄鉄人が兵は八千を率いて九州に侵攻し京都を窺わんとしたとき、益躬公は勅命を受けて兵庫蟹坂に於いて激戦の末、これを打ち取ったが、その際多数の臣下を討ち死にさせ、その菩提を弔う為伽藍を建立し東禅寺と号した。
益躬公没後詔により文武天皇はその勲功を賞し、太政大臣の位を贈られ鴨部大神と号された。(現在東禅寺の東方鴨部神社の祭神である)。
その後承久の忠臣河野通信公は東禅寺に於いて生誕成人され七堂伽藍を再建、又聖武天皇の御時(天平九年)、行基菩薩が本尊薬師如来を自作、安置される等輪奐の美を極めていたが、その後、幾たびかの戦火に逢い、又大東亜戦争の際子国宝本堂を焼失したが、幸い薬師如来は難を逃れ現在本堂に安置され御利益あらたかな佛さまとして広く尊宗をあつめている。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には通信ゆかりの地として、赤滝城、文台城、大熊城の他、東禅寺、大山祇神社、岩手県北上市が記載されいるが、とりあえず東予市内の河野氏ゆかりの地、ということで文台城、大熊城、そして、ちょっと東予市(現在の西条市)からはずれるが、お隣の今治市にある東禅寺を訪ねることにする。
文台城の登山口は、中山川が形成した扇状地である前平野の扇の要の辺り、国道11号・湯谷口交差点から志河川にそって志河川ダム方面へと車道を少し上り、松山道と交差する高架下にある。
この辺りは丹原の利水史跡を辿る散歩で、劈巌透水路や志川堀抜隧道などを訪ねて歩いたところであり、土地勘もあり、スムーズに登山口に。
登山口;9時38分
高架下、車道の山側に斜めに登山道が見える。ほどなく、竹林の中を進む。等高線を緩やかに横切る形で進み、最後は等高線をほぼ垂直に30mほど上ると平坦地に出る。少し藪を掻き分けると城址に到着。おおよそ10分程度で着いた。比高差も90m弱だろうか。先回の赤滝城とは違い、拍子抜けするほどの城跡散歩ではあった。
文台城址:9時50分:標高180m
藪を掻き分けるとその先に小祠と「史跡 文台城址」と書かれた、誠にあっさりとした木の標識があった。城からの眺め藪に遮られよくないが、木々の切れ目から見える周桑・道前平野の眺めは、見張台・砦として十分なものではあったのだろう。
文台城に関する概要は、先回メモした『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡東予市郷土館』)の河野通清項にあった。ここに再掲する。
◆文台城跡
南方山上且地方山上且地 丹原町志川
伊予の国司平維盛の目代は豪族河野通清に敗れて赤滝城(明河)にたてこもり、その部下は文台城(志川)、大熊城(鞍瀬)の両城によって河野軍を防いだ。 中山川に流れ込むふたつの支流がある。一つが鞍瀬川、もう一つが此処志古川である。
それぞれの河口の喉頚にあたる地点であり、両城も赤滝本城を守る前哨的の砦の役目であったが、激戦の末城は落ちた 丹原町文化協会」
下山;10時8分
下りもあっと言う間に下山。車のデポ地点の先に志河川ダムがあるので、ちょっと立ち寄り。
◇志河川ダム
案内には「道前・道後平野は瀬戸内海に面し、雨量が少ない地域で、たびたび旱魃の被害を受けてきました。このたけ1957-1967(昭和32-42)年に面河ダムや道前・道後の両平野に水を送る施設を国(農林水産省)が作りました。その後、夏季の農業は、水の心配をすることなく安心して営めるようになりました。
そして、1989-2008(平成元―20)年に古くなった施設の改修を行い、冬季用水などを確保するため佐古ダムと志河川ダムをつくりました(以下略)。」 ところで、志河川ダムの横の案内には「志古川湖」とある。「志河」、「志古」? 近くにあった記念碑には「志河川に依存する農民は元より、地元住民は、先祖代々志古の清流を命の水として、、、」とある。何らかのルールで使い分けているのだろうか?
◇その後の文台城
あれこれチェックしていると、武田信重(信勝の兄)が文台城主、との記録があった。伊予武田当主信勝が来島通総に討たれたとあるので、時代を下った秀吉の四国征伐の頃の話である。主家である河野氏から離反し織田>秀吉に与した来島通総により、河野氏に与した伊予武田氏が敗れた。伊予武田氏のあれこれは27代当主・河野通盛のとことでメモする。
文台城城址をゲットし、次に大熊城址に向かう。大熊城は小冊子の通清・通信の項にゆかりの地として記載されている。場所は昨年金毘羅街道を歩いた折に辿った笹ヶ峠近く。中山川が道前平野に流れ出す手前、鞍瀬川が中山川に合流する箇所を見下ろす標高302mの山にある。先回訪れた赤滝城は、その鞍瀬川を遡った処にあるので、赤滝城の前哨的砦として、文台城は中山川右岸、この大熊城は中山川左岸を固めていたのだろうか。
登山口;10時43分(標高194m)
笹ヶ峠手前、車道から右に旧道が下る辺りに車をデポ。かつての金毘羅街道が中山川と鞍瀬川が合流する落合から丹原に抜ける道筋であるが、国道11号・落合側は山道状態であるので、車で登山口に向かう場合は丹原方面からのアプローチしかない。 峠南側に、車道に沿って法面を斜めに上る道が登山道。登山道は大熊山のふたつのピークに立つ送電線の巡視路を利用することになる。登山口には送電線の巡視路杭があり、「四国電力 北松山線 57」とある。
西のピーク;11時10分(標高327m)
道を進むと竹林が現れる。その先、等高線を垂直に30mほど上ると尾根筋に出る。緩やかな尾根道をしばらく進み、右手が開けけた先に大熊山西側のピーク。57番送電線が建つ。比高差140mほど。登山口から20分強といった距離であった。
大熊城はこの西のピークも城砦の一部であった、とのこと。藪を漕いで辺りを彷徨うと、大岩の前に小祠が祀られていた。
◆北松山線
北松山線を「追っかける」と、西は石手ダムから更に西に、東は中山川の谷を横切り西ノ谷山から、石鎚連峰の北麓を進み西条市の西条変電所に続いていた。
大熊城址;11時27分(標高303m)
西のピークから東のピークに向かう。送電線巡視路の鉄杭があり、「58」の示す矢印が登山道となっている。ふたつのピークの鞍部に下り、15分ほど歩き、東ピーク手前で左手が開ける。その辺りで巡視路を離れ、右に上る踏み跡を進むと東ピークに到着する。
西のピークと異なり、送電線はピークの少し先にある。東のピークあたりの藪を漕ぎ、大熊城址の石柱と三角点を確認する。木々に遮られてはいるが、道前平野は一望。
◆その後の大熊城
通清・通信以降、大熊城が記録に残るのは、応仁の乱の頃。惣領家・教通(第33代当主)と予州家・通春に別れ内紛の真っただ中ではあったが、通春は河野家の危機を憂い、阿波・讃岐の兵を率い侵入した細川義春に備えるべく、その子通篤に命じ大熊城を守らせている((『伊予の歴史(上);景浦勉(愛媛文化双書刊行会)』))。明11年(1479)のことである。
この要衝の地の城に関係する人物は平氏の目代、目代を攻めた河野通清・通信親子。その他、時代をくだって予州家の河野通篤(後にメモする)が文明11年(1479)に、伊予に侵攻した細川義春と激闘の末、撃退している。
下山;11時50分
東のピークから折り返し、巡視路を登山口まで戻る。往復1時間ほどの行程であった。因みに登山口の少し左に、鉄塔巡視路の案内杭47番があった。こちらも巡視路だが、大熊城址は「57番」が目安。
次に、東予市のお隣、今治市にある東禅寺。丁度今治に用事があったので、ちょっと立ち寄り。
東予市のお隣の今治市にある。今治城から少し西側にある真言宗醍醐派のお寺さま。門前に遭った東禅寺の由緒は、前述の『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡東予市郷土館』)の河野通信公の項に上にメモした。
由緒に拠れば、このお寺さまは河野氏だけでなく、伊予の名族越智氏ゆかりのお寺さまでもあった。由緒にあった「夷狄鉄人」って?チェックすると、西アジアで甲冑を纏った部族を率いた首領のこと。伝わるところによれば、鉄人に率いられた部族が朝鮮半島を経て九州に上陸。周囲を平定し都へ向かう。推古天皇より討伐の命を受けた益躬は、大三島の大山祇より神の勝利の託宣と矛を受け、鉄人の傘下に下るふりをし、播州に上陸した後、隙を見て鉄人を誅した、といったお話し。
それはともあれ、河野通信に話を戻す。門前の由緒にはあっさりと説明されていたが、境内に「河野通信公塔」があり、そのわきに「東禅寺と河野通信」と刻まれた石碑があった。
案内をまとめると、「河野四朗通信は、保元元年河野通清の三男として東禅寺で誕生し、伊予国府で伊予権介という在庁官人として勤めていた。神仏に深く帰依し、東禅寺伽藍再興にも尽力。
屋島の合戦では平氏の地上軍主力を伊予に引きつけ討ち破り、義経の屋島占領を容易にする。壇ノ浦の合戦では村上氏らの水軍を率い、海に慣れない義経を助け平氏水軍を撃破。頼朝夫人政子の妹を娶り頼朝と義兄弟となり、鎌倉幕府内での権勢が約束されたにみえたが、頼朝と義経の対立により、義経と親しすぎた通信は幕府より疑いをもたれることになる。
源氏が三代で滅び、鎌倉幕府の実権が北条氏に移ると、鎌倉武士団に乱れがあるとみた後鳥羽上皇は、承久三年、朝廷に政権を取り戻すべく討幕の挙兵。上皇方についた通信は平泉に配流され、承応2年、義経と同じ平泉の地で68年の生涯を終えた。
弘安3年、通信の孫で時宗を開いた一遍上人により奥州平泉にある通信の墓参りがなされ、後に東禅寺に位牌が納められた。東禅寺は菩提所となり、通信を永代にて祀っている。
また、大正天皇により、大正5年11月28日、承久の乱における通信の忠勤を嘉賞し従五位の勲位が贈られている」といった旨の記述があった。
供養塔には「従五位」と刻まれていたので、この塔が建てられたのは、大正5年11月28日以降ということだろう。
◆「聖如意輪観世音菩薩」
「当寺に安置し奉る如意輪観世音菩薩は、其の由来極めて古く 天智天皇の代、当国の名族河野氏の祖越智直唐土にて得たる霊像にして此の尊像の加護により 直ら八名海上の波の難を免がれ無事本国に到着せることが出来た。
依って永久に尊信せんが為に当寺に安置し奉れる尊像にして除災招福の佛として霊験あらたかなり」と越智氏ゆかりの案内であった。
■河野通久(第24代);河野一族でひとり幕府方に与し、河野氏の命脈を保つ
承久の変において宮側につき大半が討死や斬首に処された河野一族のうち、通信の五男通久のみが幕府方に与した。その軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められ、第24代河野家当主となる。
貞応二年(1223)、通久は幕府に願い出て伊予国久米郡石井郷の領有を認められ、河野家は伊予国に戻る。その通久没後、河野家の家督は通久の弟である通継(第25代)が継承する。通継については家督相続を端に発する嫡庶の所領を巡る係争の他、見るべき事象が見当たらない。河野氏の衰退は続く。 なお、通継は通久の次子との説もある。長子は通時とされ、二度にわたる通時「義絶」の末、通継が総領家を継いだとされる。両者間では深刻な家督争いが行われていたようである(『湯築城と伊予の中世』)。
また。通久の頃から在鎌倉御家人から在京御家人と、在京奉公が中心となってゆく。
承久の変(1221)では高野氏側でただひとり幕府側に味方をし、貞応2年(1223)久米郡石井郷を領有して、同地の縦渕城を本拠とする。 長敬寺は、土地を寄進して建立したともいわれ、一説では、通久の娘が父の菩提を弔うために通久の名で寄進したともいわれている。
続柄;通信の子
家督:貞応2年(1223)から
関係の社・寺・城;長敬寺(東予市周布)
▽長敬寺
寿光山長敬寺無量寿院は、浄土真宗本願寺派の寺で御本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、信州よりこの地に来られた成然坊という偉い僧を、伊予の豪族河野九郎左衛門通久は尊信され、鎌倉時代の弘安六年(1283年)十町四方の土地を寄進されて寺を建立した。一説では弘安の役に手柄をたてた河野六郎通有の妻で通久の娘が父の菩提を弔うために通久の名で寄進したとも言われている。 このように長敬寺は伊予の豪族河野家ゆかりの寺である。第三代西念坊は京都本願寺 第三世覚如上人より寿光山無量寿院の号を賜わり、又第十四代唯円坊は京都本願寺第八世蓮如上人より法名を賜わっている。
永禄十一年、長曽我部元親が南予に侵入の時、河野通直の出陣要請を受けて越智、周敷、桑村の武将と共に、長敬寺からも唯円律師と河相太郎が兵を率いて出陣、長曽我部軍を土佐へ追い返している。
寺に河野左京大夫道宣が自分の血で書いた血書三部経が四冊残されており、市の文化財に指定されている。周布公民館 周布地区生涯学習推進委員会
小松今治自動車道の東予丹原ICの少し南にある浄土真宗本願寺派のお寺さま。山門を入り鐘楼を見遣りながら本堂にお参り。境内にある長敬寺の案内は上掲の通り。
河野氏との関係は強く、坊守には河野家惣領家の娘もいるようだ。また、上の案内にもあるように、この寺には僧兵勢力といった武士団を有したようで、長曾我部元親が南予・喜多郡に侵入し、西園寺氏、宇都宮市が元親の軍門に下り河野家に叛したとき、河野通直(第36代当主)に従い南予に出兵している。 秀吉の四国平定時、河野惣領家の滅亡とともに長敬寺も破壊され、武士団も解体された、と言う。
◆血書三部経
境内には血書三部経の案内がある。「市指定文化財 有形文化財古文書
血書(けっしょ)三部経 昭和58年7月18日指定
長敬寺(ちょうきょうじ)にある三部経は、無量寿経(乾)と無量寿経(坤) 観無量寿経(全) 阿弥陀経の四冊で、何れも横19cm、縦25cmの和綴本である。伊予守河野左京大夫道宣(みちのぶ 天正9年没)が病弱の上、下剋上(げこくじょう)の時代にあって、仏の救いを求め自ら血でこの三部経を書いた。現在、血の色は大分褪(あ)せて薄くなっているが、伊予の豪族河野氏と寺の歴史を物語っている。 東予市教育委員会」とあった。通宣は後述するが、35代河野家当主である。
◇周布
長敬寺のある辺りは、往昔道前平野の中心地であったよう。長敬寺から少し南に下った豊栄神社のある傍に、「古代文化の里」の案内があった。概略をメモすると、「周布は古代文化の里と伝えられ、今から2000年前の弥生時代には道前平野における弥生人の生活の拠点で、中国地方や讃岐地方から多くの物資や人が集まり栄えていた。
奈良時代には、都から伊予の国府に通じる南海道が村中を通り、周敷(しゅうふ)駅が設けられ、奈良の都や各地の文化が入ってきた。また周敷郡の郡役所があって、周敷村は政治・経済。文化・交通の中心地であった。 このことは、平成年から9年にかけて小松今治自動車道建設に伴っておこなわれた発掘調査で郡役人の用具や装飾具、高級役人か豪族の装飾具と思われる大陸の楽浪郡からの石製指輪、豪族の権威を示す石剣や祭祀供物、石器や弥生土器、弥生住居跡が出土したことからも証明されている」といったことが説明されていた。
案内のある辺りには古き趣の造酒屋も残る。造酒屋が残るということは、水にも恵まれていたのだろう。中山川や幾多の河川の伏流水が湧出する地点ではあったのだろう。
地図を見ると、この辺りの字は「本郷」とある。その意味は「郷」の中心地ということ。本郷には古代の郡家も 周敷駅が付近にあったという式内社である周敷神社もある。周敷連の姓を賜った先祖を祀ったもの、と言う。
◇徳威神社
少し南に下った吉田には「特威神社」もある。古き社で、案内を大雑把にまとめると「社伝によると顕宗天皇の3年(487年)阿閉事代の創始という。往古は「徳威神明宮」と称していたが、元慶3年(879年)に応神天皇を勧請して「徳威八幡宮」または「吉田八幡宮」と称した。また、南北朝時代には南朝方の軍勢催促のため、伊予に来られた日野中将が徳威八幡宮に参拝したことから、「勅使八幡宮」とも称せられた。
戦国時代、石根の剣山城、黒川氏の庇護を受ける。その後秀吉の四国征伐により黒川氏は滅び、社運は衰えた。
江戸になり、寛永13年小松藩の成立により、藩主一柳公が再興し郡内総鎮守とした。寺宝に、三百諸侯随一の能書家と称された藩主一柳直卿公の扁額がある」といった由緒ある社である。
周布が古くからの当地の中心地との案内も結構納得。2回目のメモはここまで。
2回目は文台、大熊の城跡巡りからはじめるが、この城は1回目でメモした赤滝城と同じく、河野氏第22代当主・通清が、嫡子の23代当主・通信とともに攻め立てた城でもある。
(マップは左上の四角部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)
●鎌倉期;勝利と没落●
鎌倉幕府御家人として武功を立て威を示すも、承久の変で宮方に与し没落
■河野通信(第23代);源氏方として武功をたて東・中予に強い勢力を築く
当初不利であった戦況も、源氏方の攻勢により伊予での雌伏の時から反攻に転じ、高市氏を撃破。源氏の軍勢の一翼としても、壇の浦の海戦などで軍功をたてる。鎌倉幕府の開幕に際しては、頼朝に臣従を許された数少ない西国御家人のひとりとなり、奥州平定にも出陣する。
伊予への帰国に際し、通信は破格の待遇を得ることになる。それは、既に伊予の守護となっていた佐々木盛綱の支配を受けず、一族を率いることができるという許しを得たことである。鎌倉幕府が施行した守護。地頭の制度下、伊予の国の守護に補任された佐々木盛綱の指揮を受けることなく伊予の半分近くを治め得るという「半国守護」と称される所以である(異説もある)。 通信はこの特権を最大限に活用し、伊予の競合武将を圧倒し、13世紀には伊予の東予・中予に強い勢力を築き上げる。その直接の領地は所領五三箇所、公田六十余町に及んだと推測されている。
承久の変と河野通信の反幕挙兵
頼朝亡き後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が北条氏の支配する鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、河野通信は宮側に与する。幕府は伊予の反河野勢に命じ高縄城を攻めるも攻略叶わず、阿波・土佐・讃岐、さらに備後国の御家人の遠征軍の合力により高縄城は落城する。
幕府の恩顧にも反し、宮側に与した要因は、諸説ある。一説には桑村以東、また南予に勢力を伸ばそうとする河野氏の思惑があるとも説かれる。桑村以東は守護、南予は東国の有力御家人が抑えており、この乱を契機に東予への領地拡大、南予支配を目した故、と言う。
承久の変後の河野氏の没落
戦に敗れた河野氏は、一族のうち、ひとり幕府方に与した五男・通久(第24代)の軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められたほかは、上記、河野氏の所領五三箇所、公田六十余町、一族一四九人の所領も幕府に没収され、河野氏はその勢を失う。通信は通久の働きに免じ平泉配流となるも、一族の大半は討ち死や斬首に処される。
▼河野通信(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼
承久の変(1221)では上皇側につき幕府軍と戦うが、敗れて帰郷、高縄山で反抗を続けるが、捕らわれて奥州に流される。
続柄:通清の子
家督;不明
関係の社・寺・城;東禅寺(今治市)、大山祇神社、文台城、大熊城、赤滝城(丹原町
墓や供養塔;北上市(岩手県)
▽東禅寺の由緒;今治市東禅寺の歴史は極めて古く、伊予の国司河野氏の祖先小千命の十五代の孫予州太守越智益躬公によって建立されたものである。
推古天皇の十年、大陸より夷狄鉄人が兵は八千を率いて九州に侵攻し京都を窺わんとしたとき、益躬公は勅命を受けて兵庫蟹坂に於いて激戦の末、これを打ち取ったが、その際多数の臣下を討ち死にさせ、その菩提を弔う為伽藍を建立し東禅寺と号した。
益躬公没後詔により文武天皇はその勲功を賞し、太政大臣の位を贈られ鴨部大神と号された。(現在東禅寺の東方鴨部神社の祭神である)。
その後承久の忠臣河野通信公は東禅寺に於いて生誕成人され七堂伽藍を再建、又聖武天皇の御時(天平九年)、行基菩薩が本尊薬師如来を自作、安置される等輪奐の美を極めていたが、その後、幾たびかの戦火に逢い、又大東亜戦争の際子国宝本堂を焼失したが、幸い薬師如来は難を逃れ現在本堂に安置され御利益あらたかな佛さまとして広く尊宗をあつめている。
google earthをもとに作成 |
■河野氏ゆかりの地を訪ねる■
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には通信ゆかりの地として、赤滝城、文台城、大熊城の他、東禅寺、大山祇神社、岩手県北上市が記載されいるが、とりあえず東予市内の河野氏ゆかりの地、ということで文台城、大熊城、そして、ちょっと東予市(現在の西条市)からはずれるが、お隣の今治市にある東禅寺を訪ねることにする。
◆文台城散歩◆
この辺りは丹原の利水史跡を辿る散歩で、劈巌透水路や志川堀抜隧道などを訪ねて歩いたところであり、土地勘もあり、スムーズに登山口に。
登山口;9時38分
高架下、車道の山側に斜めに登山道が見える。ほどなく、竹林の中を進む。等高線を緩やかに横切る形で進み、最後は等高線をほぼ垂直に30mほど上ると平坦地に出る。少し藪を掻き分けると城址に到着。おおよそ10分程度で着いた。比高差も90m弱だろうか。先回の赤滝城とは違い、拍子抜けするほどの城跡散歩ではあった。
文台城址:9時50分:標高180m
藪を掻き分けるとその先に小祠と「史跡 文台城址」と書かれた、誠にあっさりとした木の標識があった。城からの眺め藪に遮られよくないが、木々の切れ目から見える周桑・道前平野の眺めは、見張台・砦として十分なものではあったのだろう。
文台城に関する概要は、先回メモした『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡東予市郷土館』)の河野通清項にあった。ここに再掲する。
◆文台城跡
南方山上且地方山上且地 丹原町志川
伊予の国司平維盛の目代は豪族河野通清に敗れて赤滝城(明河)にたてこもり、その部下は文台城(志川)、大熊城(鞍瀬)の両城によって河野軍を防いだ。 中山川に流れ込むふたつの支流がある。一つが鞍瀬川、もう一つが此処志古川である。
それぞれの河口の喉頚にあたる地点であり、両城も赤滝本城を守る前哨的の砦の役目であったが、激戦の末城は落ちた 丹原町文化協会」
下山;10時8分
下りもあっと言う間に下山。車のデポ地点の先に志河川ダムがあるので、ちょっと立ち寄り。
◇志河川ダム
案内には「道前・道後平野は瀬戸内海に面し、雨量が少ない地域で、たびたび旱魃の被害を受けてきました。このたけ1957-1967(昭和32-42)年に面河ダムや道前・道後の両平野に水を送る施設を国(農林水産省)が作りました。その後、夏季の農業は、水の心配をすることなく安心して営めるようになりました。
そして、1989-2008(平成元―20)年に古くなった施設の改修を行い、冬季用水などを確保するため佐古ダムと志河川ダムをつくりました(以下略)。」 ところで、志河川ダムの横の案内には「志古川湖」とある。「志河」、「志古」? 近くにあった記念碑には「志河川に依存する農民は元より、地元住民は、先祖代々志古の清流を命の水として、、、」とある。何らかのルールで使い分けているのだろうか?
◇その後の文台城
あれこれチェックしていると、武田信重(信勝の兄)が文台城主、との記録があった。伊予武田当主信勝が来島通総に討たれたとあるので、時代を下った秀吉の四国征伐の頃の話である。主家である河野氏から離反し織田>秀吉に与した来島通総により、河野氏に与した伊予武田氏が敗れた。伊予武田氏のあれこれは27代当主・河野通盛のとことでメモする。
◆大熊城散歩◆
文台城城址をゲットし、次に大熊城址に向かう。大熊城は小冊子の通清・通信の項にゆかりの地として記載されている。場所は昨年金毘羅街道を歩いた折に辿った笹ヶ峠近く。中山川が道前平野に流れ出す手前、鞍瀬川が中山川に合流する箇所を見下ろす標高302mの山にある。先回訪れた赤滝城は、その鞍瀬川を遡った処にあるので、赤滝城の前哨的砦として、文台城は中山川右岸、この大熊城は中山川左岸を固めていたのだろうか。
登山口;10時43分(標高194m)
笹ヶ峠手前、車道から右に旧道が下る辺りに車をデポ。かつての金毘羅街道が中山川と鞍瀬川が合流する落合から丹原に抜ける道筋であるが、国道11号・落合側は山道状態であるので、車で登山口に向かう場合は丹原方面からのアプローチしかない。 峠南側に、車道に沿って法面を斜めに上る道が登山道。登山道は大熊山のふたつのピークに立つ送電線の巡視路を利用することになる。登山口には送電線の巡視路杭があり、「四国電力 北松山線 57」とある。
西のピーク;11時10分(標高327m)
道を進むと竹林が現れる。その先、等高線を垂直に30mほど上ると尾根筋に出る。緩やかな尾根道をしばらく進み、右手が開けけた先に大熊山西側のピーク。57番送電線が建つ。比高差140mほど。登山口から20分強といった距離であった。
大熊城はこの西のピークも城砦の一部であった、とのこと。藪を漕いで辺りを彷徨うと、大岩の前に小祠が祀られていた。
◆北松山線
北松山線を「追っかける」と、西は石手ダムから更に西に、東は中山川の谷を横切り西ノ谷山から、石鎚連峰の北麓を進み西条市の西条変電所に続いていた。
大熊城址;11時27分(標高303m)
西のピークから東のピークに向かう。送電線巡視路の鉄杭があり、「58」の示す矢印が登山道となっている。ふたつのピークの鞍部に下り、15分ほど歩き、東ピーク手前で左手が開ける。その辺りで巡視路を離れ、右に上る踏み跡を進むと東ピークに到着する。
西のピークと異なり、送電線はピークの少し先にある。東のピークあたりの藪を漕ぎ、大熊城址の石柱と三角点を確認する。木々に遮られてはいるが、道前平野は一望。
◆その後の大熊城
通清・通信以降、大熊城が記録に残るのは、応仁の乱の頃。惣領家・教通(第33代当主)と予州家・通春に別れ内紛の真っただ中ではあったが、通春は河野家の危機を憂い、阿波・讃岐の兵を率い侵入した細川義春に備えるべく、その子通篤に命じ大熊城を守らせている((『伊予の歴史(上);景浦勉(愛媛文化双書刊行会)』))。明11年(1479)のことである。
この要衝の地の城に関係する人物は平氏の目代、目代を攻めた河野通清・通信親子。その他、時代をくだって予州家の河野通篤(後にメモする)が文明11年(1479)に、伊予に侵攻した細川義春と激闘の末、撃退している。
下山;11時50分
東のピークから折り返し、巡視路を登山口まで戻る。往復1時間ほどの行程であった。因みに登山口の少し左に、鉄塔巡視路の案内杭47番があった。こちらも巡視路だが、大熊城址は「57番」が目安。
次に、東予市のお隣、今治市にある東禅寺。丁度今治に用事があったので、ちょっと立ち寄り。
◆東禅寺:今治市蔵屋敷2-14-2◆
東予市のお隣の今治市にある。今治城から少し西側にある真言宗醍醐派のお寺さま。門前に遭った東禅寺の由緒は、前述の『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡東予市郷土館』)の河野通信公の項に上にメモした。
由緒に拠れば、このお寺さまは河野氏だけでなく、伊予の名族越智氏ゆかりのお寺さまでもあった。由緒にあった「夷狄鉄人」って?チェックすると、西アジアで甲冑を纏った部族を率いた首領のこと。伝わるところによれば、鉄人に率いられた部族が朝鮮半島を経て九州に上陸。周囲を平定し都へ向かう。推古天皇より討伐の命を受けた益躬は、大三島の大山祇より神の勝利の託宣と矛を受け、鉄人の傘下に下るふりをし、播州に上陸した後、隙を見て鉄人を誅した、といったお話し。
それはともあれ、河野通信に話を戻す。門前の由緒にはあっさりと説明されていたが、境内に「河野通信公塔」があり、そのわきに「東禅寺と河野通信」と刻まれた石碑があった。
案内をまとめると、「河野四朗通信は、保元元年河野通清の三男として東禅寺で誕生し、伊予国府で伊予権介という在庁官人として勤めていた。神仏に深く帰依し、東禅寺伽藍再興にも尽力。
屋島の合戦では平氏の地上軍主力を伊予に引きつけ討ち破り、義経の屋島占領を容易にする。壇ノ浦の合戦では村上氏らの水軍を率い、海に慣れない義経を助け平氏水軍を撃破。頼朝夫人政子の妹を娶り頼朝と義兄弟となり、鎌倉幕府内での権勢が約束されたにみえたが、頼朝と義経の対立により、義経と親しすぎた通信は幕府より疑いをもたれることになる。
源氏が三代で滅び、鎌倉幕府の実権が北条氏に移ると、鎌倉武士団に乱れがあるとみた後鳥羽上皇は、承久三年、朝廷に政権を取り戻すべく討幕の挙兵。上皇方についた通信は平泉に配流され、承応2年、義経と同じ平泉の地で68年の生涯を終えた。
弘安3年、通信の孫で時宗を開いた一遍上人により奥州平泉にある通信の墓参りがなされ、後に東禅寺に位牌が納められた。東禅寺は菩提所となり、通信を永代にて祀っている。
また、大正天皇により、大正5年11月28日、承久の乱における通信の忠勤を嘉賞し従五位の勲位が贈られている」といった旨の記述があった。
供養塔には「従五位」と刻まれていたので、この塔が建てられたのは、大正5年11月28日以降ということだろう。
◆「聖如意輪観世音菩薩」
「当寺に安置し奉る如意輪観世音菩薩は、其の由来極めて古く 天智天皇の代、当国の名族河野氏の祖越智直唐土にて得たる霊像にして此の尊像の加護により 直ら八名海上の波の難を免がれ無事本国に到着せることが出来た。
依って永久に尊信せんが為に当寺に安置し奉れる尊像にして除災招福の佛として霊験あらたかなり」と越智氏ゆかりの案内であった。
■河野通久(第24代);河野一族でひとり幕府方に与し、河野氏の命脈を保つ
承久の変において宮側につき大半が討死や斬首に処された河野一族のうち、通信の五男通久のみが幕府方に与した。その軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められ、第24代河野家当主となる。
貞応二年(1223)、通久は幕府に願い出て伊予国久米郡石井郷の領有を認められ、河野家は伊予国に戻る。その通久没後、河野家の家督は通久の弟である通継(第25代)が継承する。通継については家督相続を端に発する嫡庶の所領を巡る係争の他、見るべき事象が見当たらない。河野氏の衰退は続く。 なお、通継は通久の次子との説もある。長子は通時とされ、二度にわたる通時「義絶」の末、通継が総領家を継いだとされる。両者間では深刻な家督争いが行われていたようである(『湯築城と伊予の中世』)。
また。通久の頃から在鎌倉御家人から在京御家人と、在京奉公が中心となってゆく。
▼河野通久(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』)▼
承久の変(1221)では高野氏側でただひとり幕府側に味方をし、貞応2年(1223)久米郡石井郷を領有して、同地の縦渕城を本拠とする。 長敬寺は、土地を寄進して建立したともいわれ、一説では、通久の娘が父の菩提を弔うために通久の名で寄進したともいわれている。
続柄;通信の子
家督:貞応2年(1223)から
関係の社・寺・城;長敬寺(東予市周布)
▽長敬寺
寿光山長敬寺無量寿院は、浄土真宗本願寺派の寺で御本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、信州よりこの地に来られた成然坊という偉い僧を、伊予の豪族河野九郎左衛門通久は尊信され、鎌倉時代の弘安六年(1283年)十町四方の土地を寄進されて寺を建立した。一説では弘安の役に手柄をたてた河野六郎通有の妻で通久の娘が父の菩提を弔うために通久の名で寄進したとも言われている。 このように長敬寺は伊予の豪族河野家ゆかりの寺である。第三代西念坊は京都本願寺 第三世覚如上人より寿光山無量寿院の号を賜わり、又第十四代唯円坊は京都本願寺第八世蓮如上人より法名を賜わっている。
永禄十一年、長曽我部元親が南予に侵入の時、河野通直の出陣要請を受けて越智、周敷、桑村の武将と共に、長敬寺からも唯円律師と河相太郎が兵を率いて出陣、長曽我部軍を土佐へ追い返している。
寺に河野左京大夫道宣が自分の血で書いた血書三部経が四冊残されており、市の文化財に指定されている。周布公民館 周布地区生涯学習推進委員会
■河野氏ゆかりの地を訪ねる■
◆長敬寺:愛媛県西条市周布141◆
小松今治自動車道の東予丹原ICの少し南にある浄土真宗本願寺派のお寺さま。山門を入り鐘楼を見遣りながら本堂にお参り。境内にある長敬寺の案内は上掲の通り。
河野氏との関係は強く、坊守には河野家惣領家の娘もいるようだ。また、上の案内にもあるように、この寺には僧兵勢力といった武士団を有したようで、長曾我部元親が南予・喜多郡に侵入し、西園寺氏、宇都宮市が元親の軍門に下り河野家に叛したとき、河野通直(第36代当主)に従い南予に出兵している。 秀吉の四国平定時、河野惣領家の滅亡とともに長敬寺も破壊され、武士団も解体された、と言う。
◆血書三部経
境内には血書三部経の案内がある。「市指定文化財 有形文化財古文書
血書(けっしょ)三部経 昭和58年7月18日指定
長敬寺(ちょうきょうじ)にある三部経は、無量寿経(乾)と無量寿経(坤) 観無量寿経(全) 阿弥陀経の四冊で、何れも横19cm、縦25cmの和綴本である。伊予守河野左京大夫道宣(みちのぶ 天正9年没)が病弱の上、下剋上(げこくじょう)の時代にあって、仏の救いを求め自ら血でこの三部経を書いた。現在、血の色は大分褪(あ)せて薄くなっているが、伊予の豪族河野氏と寺の歴史を物語っている。 東予市教育委員会」とあった。通宣は後述するが、35代河野家当主である。
◇周布
長敬寺のある辺りは、往昔道前平野の中心地であったよう。長敬寺から少し南に下った豊栄神社のある傍に、「古代文化の里」の案内があった。概略をメモすると、「周布は古代文化の里と伝えられ、今から2000年前の弥生時代には道前平野における弥生人の生活の拠点で、中国地方や讃岐地方から多くの物資や人が集まり栄えていた。
奈良時代には、都から伊予の国府に通じる南海道が村中を通り、周敷(しゅうふ)駅が設けられ、奈良の都や各地の文化が入ってきた。また周敷郡の郡役所があって、周敷村は政治・経済。文化・交通の中心地であった。 このことは、平成年から9年にかけて小松今治自動車道建設に伴っておこなわれた発掘調査で郡役人の用具や装飾具、高級役人か豪族の装飾具と思われる大陸の楽浪郡からの石製指輪、豪族の権威を示す石剣や祭祀供物、石器や弥生土器、弥生住居跡が出土したことからも証明されている」といったことが説明されていた。
案内のある辺りには古き趣の造酒屋も残る。造酒屋が残るということは、水にも恵まれていたのだろう。中山川や幾多の河川の伏流水が湧出する地点ではあったのだろう。
地図を見ると、この辺りの字は「本郷」とある。その意味は「郷」の中心地ということ。本郷には古代の郡家も 周敷駅が付近にあったという式内社である周敷神社もある。周敷連の姓を賜った先祖を祀ったもの、と言う。
◇徳威神社
少し南に下った吉田には「特威神社」もある。古き社で、案内を大雑把にまとめると「社伝によると顕宗天皇の3年(487年)阿閉事代の創始という。往古は「徳威神明宮」と称していたが、元慶3年(879年)に応神天皇を勧請して「徳威八幡宮」または「吉田八幡宮」と称した。また、南北朝時代には南朝方の軍勢催促のため、伊予に来られた日野中将が徳威八幡宮に参拝したことから、「勅使八幡宮」とも称せられた。
戦国時代、石根の剣山城、黒川氏の庇護を受ける。その後秀吉の四国征伐により黒川氏は滅び、社運は衰えた。
江戸になり、寛永13年小松藩の成立により、藩主一柳公が再興し郡内総鎮守とした。寺宝に、三百諸侯随一の能書家と称された藩主一柳直卿公の扁額がある」といった由緒ある社である。
周布が古くからの当地の中心地との案内も結構納得。2回目のメモはここまで。
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