京都散歩;黒谷金戒光明寺から哲学の道へ

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年の暮れに京都を歩いた。本年の散歩の書き納めとして京都散歩のメモをしてみようと思った。少々の危惧はあった。古都京都。時間・空間が幾重にも入り組んで、視点を定めないでメモをはじめると、あれやこれやとまとまりがなくなるのでは、といった思い。案の定というか予想通りというか、の散歩メモとなった。


本日のルート;蹴上>粟田口鳥居町・南禅寺前>琵琶湖疎水記念館・南禅寺草川町>スタンフォード日本センター>白川院>二条通り>京都市動物園>岡崎南御所町>岡崎公園>平安神宮>丸太町通り>岡崎神社>黒谷金戒光明寺>真如堂(真正極楽寺)>白川>白川通り>鹿ケ谷通り>鹿ケ谷泉屋博古館>有芳園>>疎水分流>大豊神社>哲学の道>熊野和王子神社>永観堂>東山中学・高校>野村美術館>南禅寺>仁王通り>三条通り>三条大橋>川原町三条>四条川原町>木屋町通り

岡崎

岡崎のスタンフォード日本センターに仕事があった。仕事といっても、ちょっと挨拶するだけ。地下鉄東西線の、「蹴上」で下車し南禅寺の近くのセンターまで歩く。「蹴上」は「けあげ」と読む。

蹴上

蹴上げって、このメモをまとめるまで完全に思い違いしていた。明治時代に完成した琵琶湖疎水には用水と発電と水運といったいくつかの機能がある。水運では、琵琶湖と鴨川を結んだわけだが、この岡崎付近は琵琶湖との勾配が急すぎるため、船を台車に乗せて、線路を移動させたという。その船を動かす梃子の姿を勝手にイメージして、それを「蹴上げ」と呼ぶのだろうと思っていた。
実のところ、蹴上げは船とか台車とかは関係ない。源義経にその由来があった。義経、当時の遮那王が奥州に下る際、この地で美濃の侍一行とすれ違う。武者の馬が泥水を蹴り上げ遮那王の衣服を汚す。激怒した遮那王は武者と従者の9人を斬り殺したという。義経というかタッキーとのイメージと違って少々オドロオドロシイ。が、これが蹴上という地名の由来伝説。
『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)に、次のように書かれている。○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經 其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ、と。
思い違いをもうひとつ。船を台車に乗せて、線路を移動させ急勾配の水位差を吸収する方法をインクラインという。これも、インク=友禅染めから来ている愛称と勝手に思い込んでいた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


左手に都ホテルを眺めながら蹴上交差点を越え、粟田口鳥居町の蹴上発電所、国際交流会館を左に見ながら南禅寺前交差点に。右折すれば南禅寺。先を急ぐ。琵琶湖疎水記念館を越え、京都市動物園の裏手、岡崎法勝寺町にスタンフォード日本センター。

白川院

挨拶をすませ夜の食事会の段取りを終え、とっとと散歩に戻る。センターの直ぐ近くに白川院。現在は私学共済の旅館であり料亭だが、元々は白川大臣と呼ばれた藤原良房の別荘があった。で、藤原師実の時に白河天皇に献上。天皇はこの地に寺院をつくることに。それが法勝寺。

法勝寺
法勝寺は「国王の氏寺」と呼ばれ、代々の天皇家の尊崇を受ける。後にこの地には他にも次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれた、と。中でも法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものであった。が、14世紀半ば南北朝の時代に火災で燃失しそのご再建されることはなかった、という。

ホテルに向う。平安神宮の北にある。歩く。白川院の前の二条通りを京都市動物園に沿って進み、京都市美術館手前の交差点を右折。岡崎通。岡崎南御所町を岡崎公園に沿って北に。平安神宮を左手に眺めながら丸太町通りまで進む。丸太町通り沿いのホテルにチェックイン。

荷物を降ろし、はてさてどこを歩こうか、と地図を見る。近くに金戒光明寺。このお寺、幕末の京都守護職会津容保候の本陣があったところ。結構京都に来ているけれど、未だ散歩する機会がなかった。それではと地図を眺めてルーティング。黒谷金戒光明寺>真如堂>白川通りから鹿ケ谷通り>哲学の道>熊野和王子神社>永観堂>南禅寺>そして夕刻の四条木屋町でのご接待の場所に、とのルートを設定した。

岡崎神社

黒谷金戒光明寺に向う。丸太町に面した岡崎神社の西隣あたりに黒谷金戒光明寺への参道がある。まずは岡崎神社におまいり。平安末期、京の都に疫病、天変地変。その原因は失意でなくなった人々の祟り。その御霊を鎮め、返す刀でその人々の力を頂くという御霊信仰をもとに祀られた神社。
岡崎神社は東光寺の鎮守社でもあった。東光寺って祇園・八坂神社の前身。八坂神社の祇園祭ももとは御霊信仰から生まれたお祭。両神社のつながりを納得。で、名前の岡崎、意味は「岡の先っぽ、先端」の意味。その岡にあたるのが吉田山であり黒谷栗原の岡。その南に広がる平安神宮、南禅寺あたりまでを岡崎と呼ぶ。岡崎神社は文字通り、岡の先端に位置してる、ってわけだ。

黒谷金戒光明寺
岡崎神社近くの参道を登る。黒谷南門に至る参道。表参道ではなく、直接、文殊塔下の墓地・黒谷墓地に出る。文殊塔への階段を上る。京都の町並みが眼下に広がる。標高は100m程度だが、東山の山並みを含めた京の都の眺めは素晴らしい。文殊塔には運慶 作の文殊菩薩像がある、とのことだが、この三重塔はがっちり閉じられており最近開けた雰囲気はなにもなかった。

会津小鉄
石段を下りる。途中、「会津藩士の墓」の墓標。山頂部分を歩く。道の途中にちょっとしたお堂・西雲院。中に入る。会津小鉄のお墓。会津小鉄、って昨今では暴力団・会津小鉄会で名前を聞くが、本来は幕末の侠客。本名上阪(こうさか) 仙吉。京都守護職・会津藩主松平容保の命により、家業の口入れ屋として、また、裏では新選組の密偵として活躍。会津藩が鳥羽伏見の戦いで敗れ、賊軍の汚名のもと路上に放置されていた戦死者の遺体を収容し供養し。官軍の迫害を恐れず,黒谷会津墓地を西雲院住職とともに守り続けたという。

会津藩殉難者墓地

西雲院を少し進むと「会津藩殉難者墓地」。文久2年(1862)から鳥羽伏見の戦いまでの、幕末の動乱で命を亡くした会津藩士352名が眠る。「会津藩殉難者墓地」の先には、真如堂・吉田山への道が続くが、本堂も何も見ていないので引き返す。

御影堂
石段を下り、本堂に向う。途中ちょっとした池そして橋。橋を渡り阿弥陀堂から本堂(御影堂)。御影堂には法然上人75歳の御影(坐像)が。この地は法然上人がはじめて草庵を営まれた地。これが浄土宗最初の寺院となった。ちなみに黒谷とは、法然上人が修行した比叡山西塔の庵室のあった場所。

鎧の松

本堂の脇には、熊谷直実の鎧をかけたという「鎧の松」が。一ノ谷の合戦で、平家の若武者、平敦盛を討ち取った直実。この世の無常を悟り、京に戻って、法然上人のもとで出家、敦盛の菩提を弔いながら余生を過ごしたという。そのほか、出家の折によろいを洗ったとされる「鎧池」や直実と敦盛の供養塔などもある、とのこと。

三門
本堂から三門に。本堂もそうだが、三門も堂々たる構え。三門を出て表参道に面する高麗門まで歩き、その思いをいよいよ強くする。お寺というより城砦といってもいいほど。堂々たる石垣、石段。会津候がここを本陣としたのもうなずける。徳川家康は京都に一旦事あるときに備え、知恩院とこの黒谷の寺を城構えとして造作した、とか。京都御所にも2キロ、東海道への出入り口、戦略的要衝の粟田口まで1.5キロ、4万坪の寺域、50以上の宿坊をもつこの黒谷の寺、というか城を本陣としたのは、実際目で見、歩いて全くもって実感。

真如堂

真如堂に向う。どこ でこのお寺の名前を覚えたのか定かではない。が、紅葉の名所ってことだけは覚えている。黒谷金戒光明寺の高麗門を出て、お寺に沿って進む。ゆるやかな登りを左前方に吉田山を眺めながら進む。天台宗のこのお寺、応仁の乱のときは東軍の本陣となったとか。ために堂宇ことごとく焼失。宝暦年間(1751~64)に建立と伝わる三重塔などを眺めながらブラブラ。

小林祝之助を記念する碑

紅葉の季節はハズしているので、なんともはやフォーカスなし。本堂裏手を歩いていると石碑があった。何気なく眺める。第一次世界大戦で義勇兵としてフランス空軍に所属し,空中戦で戦死した小林祝之助(おばやししゅくのすけ)を記念する碑。大正14年に建てられた、と。 
京都新聞の連載記事「岩石と語ろう」で紹介された記事;明治二十五年(一八九二)年,大豊神社(左京区鹿ケ谷宮ノ前町)宮司の長男として生まれ,錦林小,立命館中学,同大学と進んだ。大正二(一九一三)年,祝之助は伏見の深草練兵場で,初めて見た飛行機が着陸に失敗し,操縦士が死亡したのを目撃し,衝撃をうけた。これをきっかけに空を飛ぶことにあこがれ,飛行機の操縦を学ぶため,つてを頼って第一次大戦のさなかに渡仏,その後正式に仏航空兵となって空で独軍機と戦った、と。

真如堂から本堂の裏手を歩き、再び金戒光明寺の境内に。「会津藩殉難者墓地」、西雲院、文殊塔、そして再び京の町並みを眺め石段を降り、黒谷南門に。岡崎神社に下りる途中、神社裏手に沿って白川通りに抜ける小道があった。左折し坂道を下り丸太町通りと白川通りの交差点に。

鹿ケ谷地区

交差点を渡り鹿ケ谷地区に。鹿ケ谷といえば僧俊寛たちが平家打倒の陰謀を企てた鹿ケ谷の山荘のあるところ。その山荘って何処にあるのか調べてみた。地図で見る限りでは、ノートルダム女学院と霊厳寺の間を送り火で有名な大文字山のほうに入り込み円重寺、波切不動尊を過ぎ、その名も納得の、「談合谷」の中腹にあったという。本日は時間もなく、予定もないのでパスする。が、いやはや京都は奥深い。地理と歴史が幾重にも重なり、メモが次々と分岐する。鹿ケ谷云々はこの辺でやめておこう。

哲学の道

白川を超え、鹿ケ谷下宮ノ前町にある泉屋(せんおく)博古館、住友コレクションの名で知られる中国古代青銅器の名品を展示するユニークな美術館を過ぎ、住友家の別荘・鹿ケ谷別邸とよばれる有芳園の角を右折。少し進むと疎水、そしてここが哲学の道。
慈照寺(銀閣寺)付近から南禅寺あたりまで、琵琶湖疎水分流に沿って遊歩道がある。2キロ程度のこの道、哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。「人は人吾はわれなり とにかくに 吾行く道を吾は行くなり」のフレーズも有名。

大豊神社

哲学の道を歩く前にスタート地点近くの大豊神社に。この地域の地主神。境内にある大国主命を祀る末社・大国社には狛犬ならぬ、狛鼠が。おなじく境内にある日吉・愛宕社は狛犬ならぬ、狛猿と狛鳶があった。洒落か?ともあれ、先を急ぐ。

熊野和王子神社
哲学の道をちょっと進むと熊野和王子神社。東大路丸太町にある熊野神社、東大路七条にある新熊野(いまくまのと読む)神社の二社と共に、京都三熊野の一社。永暦元年(1160)、後白河法皇が紀州の熊野権現を永観堂禅林寺に迎え禅林寺新熊野社・若王寺と呼ばれたこともある。その後、明治初年の神仏分離によって仏を棄てて神を取った、のは熊野散歩でメモしたとおり。
ちなみに、この神社の御神木「椰(なぎ)」の葉で作られたお守りは、あらゆる悩みをナギ倒すとして人気商品、であるとか。

疎水分流は熊野和王子神社のあたりで消える。その先に松ヶ崎浄水場。ちなみに、疎水分流はここから北に流れ、北大路通りのあたりで高野川に合流している。高野川は出町柳で賀茂川と合流し、鴨川となる。

永観堂

熊野和王子神社を越えたあたりで道なりに右折。永観堂の塀に沿って下り、再び鹿ケ谷通に。通り沿いに永観堂。聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山派の総本山。紅葉で有名。もう少々早く来て折ればと少々残念。で、時間も遅くアポイントの時間も迫ってきたので、参拝はパス。

小川治兵衛

野村證券創設者の別荘を美術館とした野村美術館を右手に南禅寺を左手に眺めながら歩く。このあたりは京都有数の豪邸地区。スタンフォード日本センターの先生から、このあたりは別格地域。「野村美術館」、平安神宮の「神苑」の名園をつくった7代目小川治兵衛、通称「植治」の美の一端でもご堪能あれ、との言葉ではあったが、なにせ、その先生とのアポイントの時間が迫る。南禅寺前から琵琶湖疎水に沿って仁王通りを急ぎ足で歩き、東大路通りで左折し三条通りに。三条大橋を渡り、川原町三条から四条川原町。そして待ち合わせの木屋町通りに進み、本日の散歩は終了。

カシミールで地図を作る際、気がついた。手持ちの京都地区地図データは20万分の1のものしかない。これではどうしようもない、ということで西日本の5万分の1の地図データが収録されている『カシミール3D GPS応用編』を購入。通常関東地域は2万5000分の1の地図で作成しているので少々物足らない。そのうちに西日本の地図データもきちんと揃えなければ。

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