土佐 歩き遍路:第二十六番札所 金剛頂寺から第二十七番札所 神峯寺へ

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今回は金剛頂寺から神峯寺まで,常の如く標石を目安に旧遍路道を歩く。距離は30キロほどだろうか。行当岬に突き出た海岸段丘の上部台地面に建つ金剛頂寺から段丘崖を下り、海岸線を進み往昔材木の商いで栄えた吉良川の町を抜け、河岸段丘の段丘崖と海岸に挟まれた道を羽根岬へと進む。 羽根岬は中山越えと称される旧遍路道をトレースする。中山越えの遍路道は海岸段丘に上り、台地面を辿り段丘崖を海岸線へと下りる。
海岸線に下りた遍路道は、かつて海陸の交通の要衝、材木の商いで栄えた奈半利、田野の街を抜け海岸段丘の段丘崖と海の間の道を進み安田に入り、安田からは海岸線を離れ、神峯寺の建つお山へと向かうことになる。
今回は、羽根岬の中山越えの遍路道で遍路道案内を見逃し結構時間をロスした。なんとなく遍路道では、とは思いながらも注意することなく草に覆われた遍路道案内を見逃した、お気楽に通り過ぎたため遍路道の案内を探し台地を彷徨うことになった。 諦めかけたときに何気に見たガードレールに貼られた小さな遍路道のタグを見付け、その遍路タグをキーポイントとして何とか遍路道を繋ぐことができた。「ノイズ」を感じた時は必ずチェックを再確認した散歩ではあった。
ともあれ、メモを始める



本日のルート
金剛頂寺から国道55号の下山口へ
金剛頂寺>金剛頂寺の西門>2基の遍路墓>自然石の標石と舟形地蔵>4丁石>不動岩道との分岐点>五輪塔と5丁石>地蔵尊と6丁石>平尾の下山口
不動岩経由の遍路道
不動岩道との分岐点>法満宮>不動岩
■平尾下山口から神峰寺への遍路道■
平尾>吉良川>羽根の中山越道右折点
中山越え
取り付き口>車道をクロスし再び車道に>>車道を逸れて坂を折り返す>車道をクロスし再び土径へ>遍路案内に従い生活道に出る>遍路案内に従い生活道に出る>段丘崖を下りる>加領郷の下山口
加領郷漁港>弘法大師霊石跡>奈半利の標石>高札場跡>奈半利川東詰めに2基の巨大石碑>田野の標石>岡御殿>丈丈川>六地蔵>不動の滝>安田の茂兵衛道標>土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架を潜る
神峯道
神峯神社の鳥居前に標石2基>東谷川右岸に標石>道の右手に標石>22丁>21丁石>23丁>19丁>16丁石>遍路道分岐点>車道に出て再び土径に>9丁石>8丁石>7丁石>駐車場>第二十七番札所神峯寺




金剛頂寺から国道55号の下山口へ

金剛頂寺の西門
金剛頂寺から安芸郡安田町にある次の札所神峯寺まではおおよそ30キロ。金剛頂寺からの遍路道は大師堂の先から裏門(西門)から出て海岸沿いの集落である平尾に下りる。
西門に出ると舗装道路に当たる。遍路道はこの舗装道を西進する。




2基の遍路墓(13時12分)
舗装道は直ぐ北に折れるが、遍路道は少し狭くなった道へと直進する。舗装された道を少し進むと、道の右手に2基のへんろ墓が祀られる。共に「播州加西郡綱引村」とあり、没年月も「九月五日、八月廿八」と刻まれていた。同じ村を出て、この地で倒れるに至る、どのようなっドラマがあったのだろう。情感乏しきわが身にも少々感ずるところ有之。




自然石の標石と舟形地蔵(13時20分)
更に西に進み、南北に走る道に当たると遍路タグ。案内に従い左折。少し進むと道の右手に上部が壊れたような舟形地蔵と自然石の標石。少し大きい自然石の標石には「備後国:といった文字と共に「神峰寺六里」の文字が刻まれる。
簡易舗装された道はここまで。遍路道はここを右折し土径に入る。周囲は如何にも台地面といった風情。既述の海岸段丘の台地面を実感する。



4丁石(13時26分)
遍路タグの案内に従い、一時民家前の舗装道に出るも、直ぐに土径。遍路タグに従い進むと道の右手に舟形地蔵丁石。「四丁」と刻まれる。




不動岩道との分岐点(13時32分)
道なりに少し進むと道がふたつに分かれ、直進方向には「不動岩経由 第27番札所神峯寺」の案内。右に折れる道には「四国のみち」の指導標。共に遍路道ではあるが、直進ルートはしばらく台地面を進み段丘崖を不動岩へと下りるが、右折する遍路道は分岐点より台地面を離れ一直線に平尾の集落に下りてゆく。不動岩には惹かれるのだが、右折遍路道を選んだ。

五輪塔と5丁石(13時34分
少し進むと道の右手に五輪塔。小型ではあるが、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、(笠形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形(団形?)=空輪(くうりん)という五輪塔の形式を備え、それぞれの部位には地、水、火、風、空を表す梵字の種子が刻まれていた。 五輪塔を越えると道は急斜面の段丘崖を一直線に下ることになる。途中、道の右手に「五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時36分)が立っていた。

地蔵尊と6丁石(13時44分)
急斜面の遍路道を下ると右手に上部が欠けた地蔵尊らしき石造物。ほどなく「六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時47分)。遍路道はこの辺りから等高線をトラバース気味に緩やかな傾斜で里へと下りてゆく。


平尾の下山口(13時59分)
前面に開ける土佐の海を見ながら緩やかな里道を下ると旧国道に出る。そこが平尾の下山口。下山口の前には「道のえき キラメッセ」があった。少し道に迷ったこともあるが、金剛頂寺を出ておよそ1時間弱で台地を下りた。段丘崖の比高差は150mほどではあったが、道が荒れており、等高線の間隔も狭い急坂であった。
行政区域は金剛頂寺のあった室戸市元乙から台地途中より室戸市吉良川町丙になっていた。

金剛頂寺道


不動岩経由の遍路道

下山口から西へと次の札所に向かおうとこのルートをとったのだが、なんとなく不動岩が気になり結局少し東へ引き返し行当岬突端の不動岩に行くことにした。で、お参りした後、次いでのことではあるので、上述不動岩道分岐点からの遍路道を確認しようと、不動岩から分岐点までピストン。 不動岩経由のお遍路さんも多いという。分岐点から不動岩への順でメモする。

不動岩道との分岐点
上述平尾に下りる道へと右折することなく直進する。しばらくは海岸段丘面を20分程度のんびり歩くことになる。






法満宮
道を進むと右手に社。法満宮とある。ここが段丘面の端。ここからは段丘崖のジグザク道を行当岬突端の不動岩に向かって下りてゆく。段丘崖から不動岩のある海岸部は再び室戸市元甲に代わる。



下山口
国道55号へと斜めに下るコンクリート舗装のアプローチの先、海側に不動岩の堂宇が見える。分岐点からおよそ30分弱。段丘崖の比高差は100m強だが、ジグザグ道であり、平尾に下りる急坂に比べれば少し楽かとも思う。


不動岩
茂兵衛道標
国道55号を渡りお不動さんの境内に。国道を渡ったところに道標が立つ。お色直しされた茂兵衛道標。正面には「西寺八丁 神峰へ六里余」、側面には常の如く茂兵衛在所である「周防国大島郡椋木村 願主中務茂兵衛義教」と共に「二百七十一度目供養」の文字、裏面には「迷う身越教へ天通す法の道」の添歌と大正七年九月吉辰」の文字が刻まれていた。
添歌
現在比定されているも茂兵衛道標263基ほどの道標のうち、37基に句歌が刻まれる、と。 句歌は臼杵陶庵の作。本名臼杵宗太郎。明治9年、12歳で第七十六番札所金蔵寺に入寺。以来俳句を学び、茂兵衛とは巡礼時に金蔵寺納経所にて知己を得、後に茂兵衛建立の道標に句を添えた。
空海(弘法大師)の足跡
境内を進むと岩の横に「空海(弘法大師)の足跡」の案内。「この岩は不動堂から金剛頂寺への遍路道にあったものを移設したものです」とある。
不動堂
石段を上ると不動堂。お堂の傍に案内。「お不動さん お堂は海の安全のため波切不動がまつられ、そばにある高さ約40mの岩(砂岩)は「不動岩」あるいは「お不動さん」と呼ばれています。
今でも漁師はこの岩の沖で航海の安全を願い、お神酒をあげた後、船を旋回させる儀式を行います。
この岩の周辺は、真言宗を開いた空海が修行した場所といわれ、古くより信仰の対象であります。 第26番札所の金剛頂寺は明治時代まで女人禁制のであったので、女性はここで納経を行っていました。
補足説明;海岸に広がる左岸は、何千年も前に深海に降り積もった海底の砂です。海底は、地震をともなう海底の盛り上がりによって陸になりました(後略)」とあった。
不動岩
六地蔵が並ぶ古い小社前を通り岩場に向かう。五輪塔や舟形地蔵が並ぶ岩場を進み不動岩に。巨石には大小の窟がある。室戸岬で見た御蔵洞の小型版といったもの。大師修行の窟なのだろう。 前面に広がる海と岩礁に砕ける浪は如何にも修行の地の趣を呈す。





平尾下山口から中山越取り付き口へ

平尾から吉良川に
平尾の集落から遍路道は旧国道を進み、黒耳集落の先で国道55号に合流するが、その直ぐ先で浜側への旧道に入る。この辺りの住所は吉良川町丙から吉良川町甲となる。
黒耳
黒耳の地名由来は、「海岸に黒松などを植えて日陰をつくり魚を集めるのが魚つき林。黒松の山の緑を「黒ミ」」とある(「土佐地名往来」高知新聞より。以下「土佐地名往来」)


吉良川
国道を逸れた旧道は吉良川漁港を抜け、その先で国道を斜めに横切り東の川左岸を進み、東の川橋(昭和11年架橋)を渡る。
橋を渡ると道の両側に古き趣の民家が並ぶ。その町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようだ。
Wikipediaには「吉良川町は古来より木材や薪などの森林資源の集積地として京阪神に出荷していた。鎌倉時代の「京都石清水八幡宮文書目録」にも木材産地として吉良川の名が記されている。明治時代より近郊で産出するウバメガシから備長炭が生産されるようになった。
大正時代になると製炭技術が発達し吉良川炭は日本を代表する良質な備長炭となっていった。京阪神を中心に海路で出荷され、帰りの船で日用品を持ち帰り、その交易で明治から昭和初期にかけて繁栄した。その経済力を背景に町並みが形成された」とあった。
遍路道の両側にも往時の繁栄を伝える商家や漆喰の壁が印象的な巨大な土蔵が現れた。
吉良川町の海岸段丘
Google mapで作成
旧町並みを抜け西の川に架かる吉良川橋(昭和11年架華僑)を渡ると吉良川町乙。旧い町並みの風情は乏しくなるが、集落の裏に控える河岸段丘に惹かれる。
室戸岬近くの河岸段丘は上部面が自然のままであり、山地との違いがあまりよくわからないのだが、金剛頂寺のある行当岬に面する台地もそうだったが、吉良川町の河岸段丘も上部面が開墾されており、いかにも段丘面といった景観を呈する。




羽根の中山越道右折点
しばらく段丘崖下の旧道を歩き立石の辺りで国道55号に合流。ここからしばらくは国道を歩くことになる。
立石からしばらく歩くと室戸市羽根町甲に入る。羽根町は室戸市の西端。安芸郡奈半利町と接する。
国道を進み羽根川手前で旧路に入るが、羽根川橋手前で国道に合流。橋を渡ると室戸市羽根乙。国道を少し進んだ遍路道は尾僧の辺りで国道を右に逸れ旧道に入る。 小川をふたつ越え右手に市営住宅が見え、ぞこに入る角に遍路道右折の案内がある。ここを右折して中山越えの道に入る。
羽根の由来
古くは波禰、八禰。鳥の羽のような地形説、跳ね石由来説、根は山裾で、八つの集落説もある(「土佐地名往来」より)


中山越え

中山越えルート図


中山越え取り付き口
市営住宅の中を抜け遍路タグの案内に従い舗装された狭い道を進む。前面にはこれも河岸段丘である中山越えの台地が見える。





車道をクロスし再び車道に
道なりに進むと土径となり、40mほど高度を上げると車道に出る。車道に出た遍路道は車道をクロスし土径を進む。ヘアピンで曲がる車道をショートカットする道であった。



車道を逸れて坂を折り返す
ートで補強された傾斜法面が見える。遍路道は車道から180度方向を折り返し、この法面斜面の道を上ることになる。
斜面方面が車道にあたることろには遍路道案内があるのだが、草に覆われ見落としてしまうので注意が必要(実際私も見落とし、結構台地を彷徨うことになった)。

車道をクロスし再び土径へ(10時46分)
ターン気味に折り返して斜面を上り木々に覆われた土径を進むと再び車道に。ガードレールに小さな遍路タグが張られる。上述の180度ターン部の遍路道案内を見逃し、台地を彷徨い諦めかけたとき、このガードレールに貼られた小さな遍路タグが目に入り、中山越えをトレースし得ることになった遍路タグである。
遍路道は車道を横切り土径へと進む。遍路道の案内は木に吊るされた遍路タグ。これも注意しないと見逃しそう。

遍路案内に従い生活道に出る(10時53分)
木々に囲まれた道を進み沢の源頭部を迂回すると背丈より高い草に覆われた平坦部に出る。その先に遍路道案内、案内に従い右折すると台地上集落の生活道に出る。生活道は舗装されていた。



土径に入る(11時)
案内に従い生活道を左折し、農家庭先に祀られた小祠を見遣りながら舗装された集落の生活道を進む。道なりに進むと遍路道案内。そこから先は土径に戻る。




段丘崖を下りる(11時4分)
ほどなく台地面の端となり、その先は木々に覆われた段丘崖を下りることになる。比高差は70mほどだろうか。それほどキツイ下りではなかった。




加領郷の下山口(11時13分)
民家の塀に挟まれた道を抜け下山口に。途中道に迷い時間をロスしたため上り付き口からの時刻表示は省き、オンコース地点へのタグ地点からの時刻だけ表示するが、そこから下山口までおおよそ30分。上り取り付口からオンコース遍路タグ地点までの推定時間は30分錫。1時間弱で中山越えはできるだろう。下山口は安芸郡奈半利町となる。



             ■中山越下山口から神峯寺へ

加領郷漁港
下山口の国道55号の壁面には遍路案内があり、右を指す。案内に従い旧国道を西進する。国道を挟んで海側に加領郷漁港。遍路道は国道に合流する。
加領郷の由来は「木材を伐り出す船曳場が漁業を営む地となり加漁郷となり、土地も開墾され加領郷と転訛」と「土佐地名往来」にある。

弘法大師霊石跡
国道に合流し加領郷漁港を越えると直ぐ、国道海側に4mほどの巨石が立ち「弘法大師霊石跡」と刻まれる。国道を挟んで海側と山側にお堂。海側のお堂が大師堂。
巨岩が大師堂に食い込み、お堂の中の岩(霊石?)の窪みに大師座像が祀られる。お大師さんが修行の途次、その法衣を洗われたと伝わる「御たらい岩」の霊石がこれだろうか。お堂から40mほど離れたところにある平たい岩がそれ、との記事もあった。
山側のお堂は台風のときなどに大師像を移すためのもの、とか。

奈半利の標石
国道を進み、海岸側の貯木場を過ぎたあたりで遍路道は国道55号を離れ旧道を奈半利の町並みに入る。
右手に三光院、八幡宮を見遣り道を進み、長谷川を渡るとその先、道が分岐する角、登録有形文化財濱田家住宅」の案内のある石積みの上に2基の標石が立つ。大きい標石には「峯寺江二里 奈半利住人 蔦屋松右衛門」といった文字、小さい標石には上部に梵字と大師像、その下に「従是 寛政二」といった文字が刻まれる。
分岐点の右手、運送会社の大型トラック駐車場の先に白壁の蔵が印象的な濱田家住宅があった。
奈半利
奈半利は奈半利川の下流三角州に開けた町。養老年間(717-724)には古代官道・野根山道が開かれ陸・海交通の要衝となった。『土佐日記』にも承平5年(953)1月10日の項に、「けふはこのなはのとまりにとまりぬ」と記される。難所である室戸沖を無事航行するための風待ち港でもあったのだろう。中世には室戸岬東側の甲浦港と並ぶ廻船港として栄えたと言う。
陸路も奈半利は室戸岬東岸の甲浦に出る野根山街道の起点。土佐の藩主も難所の室戸沖航行を避け、野根山街道を甲浦に向かった。奈半利は参勤交代時の宿場町でもあった。
陸海交通の要衝に加え、先ほど国道脇に見た大きな貯木場が示すように、この地は木材の集散地としても栄えた。奈半利川の上流にある日本三大美林のひとつ、簗瀬杉がこの地から海路で各地に運ばれた。明治から昭和初期にかけてがその全盛期と言う。材木で財をなした豪商の家が残るという、先ほどみた濱田家住宅も材木商ひとり?と思ったのだが、どうも造り酒屋・質屋であったようだ。
因みに奈半利の由来は「ナは魚、ハは庭、魚のいるところ、また田の物の生るところなど諸説ある(「土佐地名往来:より)

高札場跡
標石を直進しT字路にあたると右折。道の右手に正覚寺を見遣り国道55号をクロスし、最初の少し広い通りを左折。西進すると国道493号手前に「高札場」の案内。「野根山街道はここの高札場を起点として野根山連山を尾根伝いに、東洋町野根を結ぶ延々五十キロ余で、養老二年(718)には既に利用されていた歴史と伝説に富んだ自然遊歩道である」とある。
上述の如く野根山街道は藩政時代の参勤交代の道。装束峠を越える標高900mほどの尾根道を辿る道である。この参勤交代の道は後年愛媛の川之江に出る土佐北街道に変更した(1)。参勤交代の遅延には罰則もあったようで、紀伊水道の風待ちを避け、波の穏やかな瀬戸の海を浪速へと渡るようにしたのだろう。
高札場脇に小堂があり石仏が祀られる。その先民家の間を北へと延びる少し狭い道が往昔の野根山街道ではあろう。
安芸郡
野根山街道を地図で辿り東洋町までトレースする。と、室戸岬東岸の東洋町も西岸の奈半利と同じく安芸郡域であった。安芸郡は現在東洋町、奈半利町、田野町、安田町、北川村、馬路村、芸西村からなる。明治期には現在の室戸市、安田町の西の安芸市を含めた地域が安芸郡であったようだが、その中から室戸市、安芸市が誕生し現在の安芸郡域となった。それにしても安芸市の西に芸西村が飛び地のように安芸郡として残る。安芸ではなく西の香西市との合併の話があるという。なんらかの歴史的・文化的事情故のことだろうか。
正覚寺
行基菩薩開山、本尊も行基作と伝わる聖観音、また行基作と伝わる不動明王、毘沙門天が祀られていたようだが、天正11年(1582)に火災ですべて焼失。にもかかわらず藩政時代は陸路の幕府巡検上使の宿泊所、中老格式を保った真言宗のお寺さま

奈半利川東詰めに2基の巨大石碑
国道493号をクロスし西進。奈半利川に架かる奈半利川橋東詰に2基の巨大な石碑が立つ。共に5mほどもあるだろうか。
右側の石碑の表には「土佐日記 那浪泊」、裏面には「承平六年一月十日紀之貫之朝臣帰京の際此の地に泊まる」といった文字が刻まれる。
左の石碑は表に「維新志士 贈正五位 能勢達太郎成章生誕の地」の文字が刻まれ、裏面にはこの地に生まれ、蛤御門の戦いに敗れ屠服。若干二十二歳。十七烈士と称されたといったことが記されていた。

田野の標石
奈半利川橋を渡ると安芸郡田野町に入る。遍路道は奈半利川橋西詰ですぐ国道を逸れ旧道に入る。直ぐに三叉路。その角に自然石の標石。手印と共に「へんろ道」の文字が読める。手印に従い角を右折し田野の町並みに入る。




田野
田野は、安芸郡中央部に位置し、古代は那波郷に属し、鎌倉時代初め、高田法橋が奈半利川の治水に努め、"田野郷"を開いた。藩政時代、奥地、魚梁瀬の山林資源の開発により、"田野五(七)人衆"と称される藩御用商人達が富を持ち、"田野千軒ガ浦"として繁栄した。
幕末「安芸郡奉行所」「藩校田野學舘」が設置され、安芸郡下における政治、経済、文化の中心地として栄えてきた。明治21(1888)年田野村発足。大正9(1920)年に町制を敷いて田野町に改称し、現在に至る(「田野町」の資料より)。
奈半利の歴史をチラ見しているとき、奈半利浦には天保3年(1683)、奈半利の商人が所有する八端帆以上の大型廻船42、それに対しこの浦を利用した田野の「商人の大型廻船が奈半利を上回る60隻とあった。現在の静かな町からは想像できないが、往時の繁栄をメモの段階で理解できた。

岡御殿
町並み西進した道がその先少し狭くなる角、電柱に遍路道左折の遍路タグ。指示に従い右折し南に進むとT字路にあたる。そこに遍路道右折の案内。右折西進すると道の左手に趣のあるお屋敷。「岡御殿 藩政時代末期の面影が残る貴重な建物。格式高い書院造りが特徴で土佐藩主が東部巡視の際に本陣として使用した豪商岡家の屋敷(後略)」といった案内があった。
岡徳左衛門(米屋)
田野町の資料には「田野浦五(七)人衆の筆頭豪商で、藩主山内候の参勤交代時の宿泊所(本陣)指定を受ける(岡御殿)。藩の御用金を調達し、近隣の村々の馬を集め"一文銭"を積んだ馬が明神坂を上っているのに、後尾の馬はまだ岡の門前にいたと言う"大輸送話"が伝えられている。(※田野~明神の現距離約8km)」とあった。

丈丈川
岡御殿の先、T字路を左折し南進すると丈丈川に架かる新町橋。橋の南詰めに堂々として美しい蔵が見える。造り酒屋濱川商店の酒蔵。県の指定文化財。
丈丈川(安居掘)
上述田野町の資料にある地図には、この丈丈川は安居掘とある。人工的に開削された水路のようだ。安居(あんこ)掘りについて、田野町史には「嘉永元年から万延元年(1846~1860)まで田野浦庄屋を務めた辻斧之進(弘道)はその間、新町の裏、高礼場(旧役場あたり)の所を掘り割り、浜田・新町の北の田地を水害から救った。当寺、「辻が馬場食た岡の下の堀を見よ」と村人たちが歌ったのは、安居堀敷地が郷士岡家の馬場であったからである」といったことが書かれていた。
上述田野町の資料(町のおぼえがき帳)の地図をみると、旧役場は新町橋の南詰の東、その東に「高札場」の表示がある。新町はこの辺り、浜田は新町の西の地区。

六地蔵
新町橋を渡った遍路道は次の角を右折、浜田を抜け八幡宮を右手に見遣り国道55号(国道493並走区間)に接近。遍路道はそのまま国道の南を進む。浜側は墓地が広がる。ほどなく道の右手に六地蔵尊と書かれた木の標識。台石を含め80センチほどの高さ。案内には「六地蔵 人は死後、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を歩むという。その六道で衆生を救済するのが六体の地蔵尊である。
安永四年(1775)田野浦の商家米屋と福吉屋と地元の人々がそれぞれ二基ずつ計六体の地蔵を建てたものである。元は八幡宮の馬場にあった。
米屋は上述岡屋敷の主。福吉屋は米屋を含めた蔦屋・常盤屋・虎屋などの「田野五人衆」と呼ばれた豪商のひとりである。奈半利の標石に刻まれた「蔦屋」とはこの田野5人衆にある蔦屋であろうか。
田野の由来
田野の海岸段丘(Google mapで作成)
田野は棚、つまりは段丘が原義と『土佐地名往来』にある。GoogleMapで確認すると、なるほど開墾された海岸段丘面がはっきりわかる。六地蔵は段丘崖と海に挟まれたところにある、ということだ。









不動の滝
六地蔵を越えると安芸郡安田町に入る。安田町に入ると旧道は国道55号を斜めに横切り山側を進む道となる。
道の右手に不動堂。その傍に不動明王が祀られた小堂と段丘崖を落ちる滝がある、不動の瀧と呼ばれるようだ。地形図を見ると滝の部分の等高線が北に切れ込んでいる。海岸段丘面に集められた水が地下水となりここから落ちているのだろうか。



安田の茂兵衛道標
遍路道は安田川に架かる安田川橋を渡り、右手に八幡宮、さらに誓願寺を見遣り進むと四つ辻に。その角に茂兵衛道標が立つ。正面に「神峰道 古れより三十五丁阿ま里」、左面に「左 高知」などと刻まれた茂兵衛125度目巡礼時のもの。

土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架を潜る
茂兵衛道標から旧国道を離れ、第二十七番札所の建つ山へと向かうことになる。茂兵衛道標から北西へと進み東谷川に架かる橋を渡り右折。その前に土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架が見える。
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線
正式名勝は阿佐線。当初徳島県海部町の牟岐駅から高知県南国市の後免を結ぶ「四国循環鉄道構想」のもと計画された路線の「名残り」。阿佐線は阿波と徳島を結ぶ線といった想いではあったのだろう。
旧国鉄の再建法などにより計画は凍結。高知側は高知県が主体となり土佐くろしお鉄道が節理され、平成14年(2002)に開業に至った。阿佐西線とも呼ばれる。
一方、徳島県側の区間(阿佐東線〈あさとうせん〉)のうち、牟岐駅 - 海部駅間がJR四国牟岐線(当時は国鉄牟岐線)として昭和48年(1973)に、海部駅 - 甲浦駅間は阿佐海岸鉄道阿佐東線として平成4年(1992)にそれぞれ開業している。残る甲浦駅 - 奈半利駅間は未成線であり、高知東部交通の路線バスが結んでいる。


神峯道〇

神峯神社の鳥居前に標石2基
土佐くろしお鉄道の高架を潜ると直ぐ、東谷川の西岸傍に神峯神社の鳥居が建つ。明治四十二年一月建立と鳥居に刻まれるが、「神峯神社」の石額は新しい。
鳥居前にはいくつかの石造物が並ぶが、その中、鳥居左右に標石。左側の標石には「従是神峯三十二丁 明治十三」といった文字が刻まれる。
右側の標石には「右 従是神峯 三拾八丁 明和五」といった文字が読める。



東谷川右岸に標石
鳥居から道を隔てた東谷川傍に自然石の標石。摩耗激しく文字は読めない。東谷川右岸の道を進むと右に分岐する橋があり、その直ぐ先、ガードレールに挟まれて標石が立つ。手印と共に「へんろ道 昭和三十九年」といった文字が刻まれる。



道の右手に標石
先に進み、民家を越えてた空地の先、道の左手草叢に隠れるように石造物と並び上部の欠けた舟形地蔵が立つ。「*九丁」とある。この辺りから札所まではおおよそ3キロというから、「二十九丁」なのだろう。
遍路道はその先で東谷川にかかる「さかもと橋」を渡ると、お山への取り付口となるが、道は舗装されており車も走る。




22丁・21丁石
舗装された道を上ると道の右手に舟形地蔵丁石。「廿二丁」と読める。さらにその先に上部の欠けた舟形地蔵。「*一丁」の文字が読める。廿一丁石だろう。




23丁・19丁
更にヘアピンカーブの手前、道の左手に「廿三」と刻まれた舟形地蔵。順が違うが道路整備などでよくあること。
その先、左手から登って来た比較的広い車道との合流点にある民家からちょっと下がったあたりに「十九」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。
丸い小石の並ぶ地層
ほとんどが側面補強されてはいるが、時に残る地層面には丸い小石が列をなす。数百万年前海底が隆起した証左とのことである。
地図には山裾付近に「安田町化石体験場」といった場所もある。270万年前に隆起した海底部の地層に残る化石発掘体験ができるとのこと。上述丸石が海底から隆起した地層というエビデンス。


16丁石
車道合流部を先に進むと右手に「十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。車道は参道道としてお山に登るが、遍路道はその先で車道を離れ土径へと入る。






遍路道分岐点(14時15分)
道の左に大きな石碑。その前に「神峯寺参道」「神峯寺徒歩道」左の案内。石碑の前には「十山丁」と刻まれた舟形地蔵丁石、「従是本堂*」といった標石が並ぶ。そのほか上部の欠けた舟形地蔵丁石らしき石造物が並んでいた。車道を離れ土径を進む。

車道に出て再び土径に
ジグザクな道を10分ほど歩き高度を30mほど上げると車道に出る(14時24分)。ヘアピンのカーブを曲がるとすぐ土径に入る遍路道案内(14時26分)。遍路道は蛇行する車道を一直線に突ききるルートとなっている。上り口に舟形丁石が立つ、「*丁」と丁数は読めない。

9丁石
5分ほど歩き高度を30mほど上げると車道に出る(14時31分)。車道に出た遍路道は少し左に歩き、カーブ手前で土径に入る(14時31分)。その上り口に「九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。


8丁石
等高線を垂直に5分ほど上ると車道に出る(14時37分)。車道をクロスし土径に入るところに「神峯寺本堂790米」と刻まれた新しい標石とその傍に「八丁」と刻まれた舟形地蔵が立つ。



7丁石(14時44分)
その先、車道を2度クロスし7分ほど歩き高度を20mほど上げると車道に出る(14時44分)そこには「七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立っていた。7丁石から先は車道を歩きお寺さまに向かう。






駐車場(14時56分)
車道に入った遍路道ではあるが、この車道は比較的等高線の間隔が広くなった尾根筋を直線で登ると言った急こう配の坂。「注意 これより急坂、急カーブにつきご注意ください」と書かれた案内が立つ。駐車場までは300m。10分強坂を上り、高度を60mほど上げると駐車場に着く。休憩できるお店もあった。
駐車場脇には「神峯山観光案内図」と共に「神峯寺」の案内が立ち、「四国霊場第二十七番所「神峯寺」 竹林山と号し真言宗豊山派に属する。本尊は行基菩薩作と伝える十一面観音、開基は聖武帝の天平二年本尊を古屋谷(ふるやだに)に安置したと伝えられ、大同四年弘法大師が勅命により本尊を神峯神社に合祭して観音堂と称え、明治四年神仏分離のため廃寺、明治二十年二月住職間崎天竜師が現在地に再建竹林山地蔵院と改め、昭和十七年現在の神華寺となる。
四国八十八ヶ所のうち、当寺は屈指の難所とされていたが、自動車道が開設されて入山が安易となった」とあった。駐車場から山門まではまだ60mほど高度をあげなければならない。


第二十七番札所神第峯寺

山門
駐車場右手の坂を上ると山門前に着く。右手に神峯神社の参道口鳥居が建つ。
山門前に自然石に「第廿七番札処 神峰 法師龍円尼 安政四巳年生 時五十四才建立」と刻まれた文字の下に尼僧像が刻まれている。更にはその左に手印と明治四十三年六月」と刻まれる。 これってどういうこと? 


チェックすると山門はこの龍円尼の寄進したものとのこと。上述神峯寺の案内に、明治の神仏分離で一時廃寺となったが、明治二十年二月住職間崎天竜師が現在地に再建したとあったが、龍円尼はこのとき住職間崎天竜師と共に寺の再建に尽力したようである。 「時五十四才建立」とは、明治20年、54歳の時に山門を建立したということだろう。 で、「明治四十三年六月」は?龍円尼の徳を記念して山門の見えるこの場所に石碑を立てた日時のことではないだろうか。
そばには「四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石も立っていた。

鐘楼
山門を潜ると鐘楼。この鐘楼も龍円尼の寄進と言う。龍円尼については全国を歩き資金を集め寺の整備に努めたといった記事があったが、それ以上のことははっきりしない。

本堂・大師堂
鐘楼脇より石段を上り正面に本堂、その右手に大師堂が並ぶ。
Wikipediaには、「神峯寺(こうのみねじ)は、高知県安芸郡安田町唐浜にある真言宗豊山派の寺院。竹林山(ちくりんざん)地蔵院(じぞういん)と号し、本尊は十一面観音。
真っ縦(まったて)と呼ばれる急な山道を登った神峰山(標高569.9m)の中腹(標高430m付近)にあり四国八十八箇所で9番目の高さで高知県では一番である。「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる屈指の難所として知られ、江戸時代は麓の前寺で遥拝し納経をすませる遍路もいたほどであった。
寺伝によれば神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し「観音堂」と名付けたとされている。

その後、堂塔が多くあったが、元和年間(1615~1624)火災によりすべて焼失、その後、本堂と大師堂と鎮守社のみ再建され、十一面観音も麓にあって廃寺になっていた別当の神峯寺から納めて復調する。しかし、険しい山中の札所ゆえ別当になっていた麓の常行禅寺や前札所の養心庵(明治の神仏分離時点でどちらも廃寺)で遥拝し納経するものも多かった。なお、江戸末期、常行禅寺での納経帳に「奉納 本尊十一面観音 土州竹林山 神峯」と記されている。
幕末、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の母は弥太郎の開運を祈願して現在の安芸市より片道20キロメートルの道のりを素足で三七日(21日間)通い続けた逸話がある。
明治初年の神仏分離令によって神峯神社だけが残り寺院としての部分は廃寺となり、本尊と札所は金剛頂寺に預けられ、金剛頂寺で納経をしていたが、明治20年(1887年)もとの憎坊跡に堂舎を建立し本尊と札所を帰還させ再興した。大正元年には茨城県稲敷郡朝日村の真言宗地蔵院の寺格を移し、そして、昭和に入って、それまでの神峯から神峯寺と称するようになった」とあった。

境内には神峯の水、火炎を向背とした不動明王、伊藤萬蔵寄進の香台のみえる地蔵堂などもあtった。


●「真っ縦」
神峯寺への遍路道は「真っ縦」、「遍路ころがし」の難所と言う。現在は大半が車道となっており、往昔の「真っ縦」といった険しさを感ずることはなかったが、取りつき口が標高17mほど。お寺さまは標高430mほどであるので、比高差400m強上るわけで、キツイ上り遍路道には違いない。 現在大半が車道となった遍路道ではあるが、その道を開く物語がWikipediaに記されていた。簡単にまとめると;昭和50年(1975)、新住職に就いた南寛彦師が麓から寺に直接上る車道整備を発願。門徒総代を理事長とした神峯道整備事業団を結成し中心メンバ‐3名と4人作業員の7名で着手。2年後一応の完成を見るも、その後も住職が整備を続け、平成元年に神峯道は町道へと無償提供された。その後平成33年には麓から中腹まで片側1車線の広域農道が開通し神峯道とつながった、と。
広域農道とは遍路道に左から合流した広い道のことである。

神峯神社
鳥居脇に標石
標石には「県社 神峰神社 従是三丁 明治三十年」といった文字が刻まれる。
本日のメモはここまで。次回は第二十八番札所大日寺に向かう。

山門右手にあった鳥居を潜り300段以上もある石段を上ると本殿がある。Wikipediaには「 神峯山(標高569.9m)の山頂近くの標高500m付近にあり、神峯寺の約250m上った所に位置する。神峯寺の前身である観音寺との神仏習合の宗教施設であったが、明治初期の神仏分離令により仏教施設が廃され神社のみが残った。明治20年(1887年)に神峯寺が再興され、現在は神峯寺の奥の院という位置づけとなっている。
神峯神社日記によれば、神武天皇が東征の際、この山を神の峯とし石を積み神籬を立てて祀ったことが起源と伝えられている。
本殿の向かって右奥上方には燈明巌(とうみょういわ)と呼ばれる岩がある。この岩は太古から夜が更けると青白く光っていたと言われている。天変地異などの異変が起こる前兆として光ると言われており、日清戦争、日露戦争、関東大震災、太平洋戦争、南海地震の前に光ったと伝えられている;とある。
社務所から四国のみち」展望台へと向かうと。その下に大師腰掛岩がある。羽根、行当、室戸岬の 遠望が楽しめる。

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