北区散歩 そのⅢ:赤羽台を歩く

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赤羽台地に旧軍の跡を辿る

北区を2回に渡って歩いた。が、なんとなく遣り残した感がある。崖線部もあるいた。沖積地帯・下町低地もあるいた。が、赤羽台に登っていない。稲付公園の丘から、香取神社の丘から、そして静勝寺の丘から眺めた武蔵野台地・赤羽台を歩いていない。ということで、赤羽台をぐるっと歩くことにした。赤羽台といえば陸軍の施設があったところでもある。ありし日の帝国陸軍の「跡」をランドマークに歩を進める。北区散歩番外編というところ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;赤羽八幡社>師団坂> 諏訪神社>赤羽緑道公園>公団赤羽団地>赤羽台西小学校> 赤羽自然観察公園


赤羽八幡社
 埼京線・赤羽駅で下車。西口に出る。埼京線に沿って北に進む。埼京線と京浜東北線が分かれるあたり、先般訪れた宝憧院(ほうどういん)への道筋、ということは日光御成道だとは思うのだが、そこを右折することなく埼京線に沿って北に進む。
東北・上越新幹線も同じルート上。 線路に沿った坂を登る。師団坂とも工兵坂とも呼ばれる。台地上に第一師団および近衛師団に属した工兵隊の施設があったため。
坂の途中に、赤羽八幡社。このあたり一帯の総鎮守。延暦3年(784年)征夷大将軍・坂上田村麻呂がこの地に陣を張り、武運長久を祈って八幡三社を勧請。その後、源頼光が社殿を再興、源頼政が改修、太田資清が社領として土地を寄進、道灌が社殿を再興(文明元年・1469)したとある。
また、江戸時代には、三代将軍家光の時に社領七石を与えられ、以後代々将軍家より御朱印を寄付された由緒ある神社。ちなみに、八幡三社って、加茂・八幡・高良神社、とか。この神社、武蔵野台地の東端。見晴らしはそれほどよくない。境内下を東北・上越新幹線、埼京線のトンネルが通る。 

師団坂
八幡さまを離れ、師団坂を登る。登りきったあたりに星美学園。ここはもと、陸軍第一師団工兵第一大隊旧舎跡。明治20年8月に丸の内からこの地に移る。
隊の変遷;明治7年東京鎮台工兵大隊として発足> 明治9年 工兵第一大隊として大手町に>明治10年 西南戦争出征> 明治20年9月赤羽に移る>明治27年日清戦争出征>明治37年日露戦争出征 ・旅順203高地作戦を戦う>大正3年第一次大戦 対独出征>大正7年シベリア出征 >昭和3年浮間橋架橋 浮間町民の寄金6000円で工兵隊が架橋 6000円橋と呼ばれる>太平洋戦争ではレイテ島で玉砕。 

東京北社会保険病院 星美学園に沿って西に台地上を進む。左手に低地、これを八幡谷と呼ぶようだが、その谷を隔てて向こうに台地が見える。赤羽台のこのあたり、どうも一筋縄ではいかない。台地の中に谷がある。すり鉢状の地形になっている。ということは、尾根道を歩き、一旦、谷に下り、再び向かいの丘に上るのか、はたまた尾根道を、ぐるっと、一周すれば向いの台地につけるのか、結構楽しみ。 

少し進むと東京北社会保険病院。もとの国立王子病院。明治20年9月に近衛師団工兵大隊がこの地に移転。隊の変遷;明治7年創設>明治10年西南戦争出征>明治20年この地に移る>明治26年近衛工兵中隊から大隊へと改称>明治28年日清戦争出征 大連台湾 >明治37年日露戦争出征鴨緑江旅順奉天会戦を戦う>大正3年 第一次大戦 対独青島出征 >大正7年 シベリア出征 >太平洋戦争ではシンガポール、スマトラに進駐。

 諏訪神社
東京北社会保険病院脇の道を北に。武蔵野台地の北端といったこところ。崖下に埼京線・新幹線の線路が走る。進行方向左手に公団住宅を眺めながら道に沿って西に下る。
下りきったところに諏訪神社。結局台地を一度下りることになった。諏訪神社のところで一度切れた台地は神社から西に盛り上がっていく。台地の縁を赤羽北3丁目から小豆沢2丁目そして志村坂上方面に歩いてみたい、とは、思いつつも、今回は台地下の谷筋を赤羽駅に続く道に進む。

赤羽緑道公園
進行方向左手の台地上の団地、社会保険病院を眺めながら、谷地の道を進む。逆側の台地は工兵作業場があったところ。途中に八幡小学校。このあたりは射撃訓練場。駅に抜けるトンネルの手前に赤羽緑道公園。こんなところ、台地に川が流れているわけもない。ひょっとして軍施設への軍用線路の跡では、と推論。その通りであった。
昔の地図を見ると、西が丘サッカー場近くにあった元自衛隊十条駐屯地赤羽地区、昔の陸軍兵器支廠や、緑道左手に広がる赤羽団地・もとの陸軍被服本廠あたりから引込み線が出ている。 
緑道の西の台地に桐ヶ丘団地。この地は昔、陸軍火薬庫。明治5年、明治政府というか、未だ幕府と戦っていた官軍の武器庫が作られたところ。その後、陸軍が引き継ぎ、第一師団・近衛師団が移ってきてからは、両師団の火薬倉庫を兼ねることに。
ここに火薬庫がつくられたことが、赤羽地区が陸軍一色となる契機となるわけだが、それにしても、なぜこの地に火薬庫が作られたのだろう。明治9年、加賀藩下屋敷跡に「板橋火薬製造所」がつくられたからだろうか。桐ヶ丘団地から西が丘サッカー場前を通り、板橋火薬製造所があった帝京大学医学部、東京家政大学あたりまで一直線に走る道は軍用道路であったと言われるし、あながちこの推論、間違いでもないかも。


公団赤羽団地
ゆるやかに上る赤羽緑道公園を進むと、ちょっと広い道路にあたる。緑道はここで切れる。左手に団地・公団赤羽団地。星美学園の台地から八幡谷を隔てた台地上に、結構立派な建物が見えたのだが、それは赤羽団地の建物だったのだろう。
この地はもと、陸軍被服本廠があったことろ。大正8年、麹町・本所・築地・深川に分散していた被服倉庫も合わせ、本所にあった陸軍被服本廠をこの地に移した。軍装だけでなく国民服も製造。戦時中一時上尾に移転。戦後米軍に接収され、戦車の修理工場ともなった、とか。

赤羽台西小学校
赤羽台西小学校あたりまで進む。ほとんど台地東縁。台地から低地に向かっていくつかの名前のついた坂道もある。西小学校あたりの庚申坂。赤羽西4丁目信号あたりの「三日月坂」。三日月坂を下りたところの「中坂」、など。
三日月坂の案内板のメモ:(坂の途中にある)道灌湯から東南へ登り中坂へでる坂。道灌湯のあたりに、大正三年(一九一四)に帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂、と。工場へ往来する馬車などで賑わったが、大正四年五月に工場は爆発事故で焼失。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができた。坂名はこれに由来。また、道灌湯が開業したことから道灌坂とも呼ばれている、と。

 赤羽自然観察公園
赤羽台西小学校から西に進む。谷地に「赤羽自然観察公園」。公園の南の台地も含めて、元陸上自衛隊十条駐屯地・赤羽地区の跡地。
自衛隊十条駐屯地は、もと東京砲兵工廠銃砲製造所。後の東京第一陸軍造兵廠。旧陸軍兵站の中枢であった施設。この自然公園のあたりも車両試験場であった、とか。十条駐屯地では戦後、米軍の戦車の修理などをおこなっていたわけで、戦車の走行テストでもおこなっていたのだろうか。単なる想像。十条のあたりを米軍の戦車が好き勝手に走っていた、という話を聞いたこともあるわけで、あながち間違いではないかも。 都営三田線・本蓮沼駅 赤羽自然観察公園の西側を通る道、これって、先にメモした桐ヶ丘の「火薬庫」から板橋の「火薬製造所」に走る軍用道路跡、だとは思うのだが、この道を西が丘サッカー場の手前まで歩き、稲付中学とサッカー場の間を西に進み、都営三田線・本蓮沼駅まで歩き、赤羽台散歩を終えることにする。後は、都営三田線に乗り、次の目的地板橋区・西高島平に向かう。

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