塩の道 千国街道散歩;大網峠越え

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塩の道散歩の二日目は大網峠越え。姫川筋を離れ、小谷山地にとりつき、その昔、荷継ぎ場とし賑わった大網集落に。大網の集落からはひたすら大網峠へと上る。 峠からは、これまたその昔、関所のあった山口集落に向かって下っていくことになる。距離12キロ、比高差600m弱、おおよそ5時間の峠越えである。

日本海側から小谷に至る塩の道のルートはいくつかある。大きく分けて姫川の西側(西廻り道)を進む「山の坊道」と、東側(東廻り道)を進む「地蔵峠道」、そしてこの「大網道」。糸魚川の少し西、青海を発した西廻り道は、虫川(関所があった)、夏中を経て大峰峠、山の坊を越え平岩の南で姫川筋に下る。糸魚川を発した東廻りみちは、山口のあたり(大網峠手前のルートもある)で二手に分かれる。「大網道」は大網峠を越えて平岩の南で姫川を渡り、葛葉峠手前で「山の坊道」と合流し、姫川西岸を南に下る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

一方、地蔵峠道は、山口(または大網峠手前)から戸土、横川へと進み、小谷山地の中を一路南下。1000mを越える 地蔵峠、三坂峠を越え南小谷駅の北(下里瀬)のあたりで姫川を渡る。ここで「山の坊・大網峠・地蔵峠」道はひとつになり、松本へと下ってゆく。

どの道がもっとも古く開けたのかは、はっきりしない。山の坊道の虫川の関は、所謂、謙信の「義塩」エピソードの頃に設けられたという説もある。地蔵峠道は、もっと古いかもしれない。横川集落からは大和朝廷時代の須恵器や土師器室町期の鍔口といった出土品が出ている。また、そもそもが、三坂峠(みさか)は御(み)坂峠との名前が示すように、古代祭祀跡ではないかとも言われる(『北アルプス 小谷ものがたり』)。実際、この地蔵峠道は他のふたつの道より、ずっと南で姫川筋に下る。古代の道は土砂崩れなどの危険が多い川筋を避け、尾根道を通ることが多い、とすれば、この地蔵道が最も古い道筋かとも思える。

で、今回歩く大網峠道であるが、この道は地蔵道が土砂崩れで不通になったときに開かれたとも言われる。姫川に橋がかかったことが転機になったとの説もある。 1647年に、「幅32mの橋がかけられ」とのことである。ともあれ、比較的新しい道かとも思う。歴史は新しいが、大網峠道は千国街道の「大通り」と呼ばれる。安政5年、1858年の記録によれば、塩の荷が、山口の関で6628駄、虫川では313駄。魚類は山口で13070駄、虫川では780駄。物流では山の坊道を圧倒している(『』塩の国 千国街道物語)。大網峠道が「大通り」と呼ばれた所以である。

大網峠道が塩の道・千国街道の代表的道筋であったことは間違いないだろう。とはいうものの、大網峠道に物流のすべてが集中した、ということでもないようだ。千国街道の物流を差配していた糸魚川の3軒の問屋毎にどの道筋を通るかを決めていたとも言う。また、現在でも土砂崩れで時に国道が普通になる、といった地崩れ地帯。一本の道筋で物流ルートが確保されたとは到底思えない。現代でも、平成7年の姫川温泉付近の土砂崩れのため国道が不通になった時には、山の坊道のルートに近いところに林道を作り、交通路を確保したとも言われる。時に応じ、状況に応じそれぞれの道がネットワークを組み、物流機能を確保していたのではあろう。少々イントロが長くなってきた。そろそろ散歩に出かけることにしよう。(2009年9月の記事移行)



本日のルート;姫川温泉>大網>芝原の六地蔵>横川の吊り橋>牛の水飲み場>菊の花地蔵>屋敷跡>大網峠>角間池>角間池下道標>白池>根道合流点>日向茶屋>大賽の一本杉>山口関所跡>糸魚川


姫川温泉
宿泊したのは姫川温泉・朝日荘。大糸線平岩駅を降り、姫川を渡ったところに宿があった。温泉は湯量も豊富。平岩と言う地名と関係あるのか、ないのか、温泉の大浴場は大岩を取り込んだ造りとなっていた。
この姫川温泉も平成7年の豪雨で地滑りの被害にあっている。どこだったか、土砂災害のため平岩駅付近で大糸線の線路が宙づりになった写真をみたことがある。復旧には2年ほどかかった、とも。
8時23分、宿を出発。近くにコンビニがあるわけでもないので、昼食用におにぎりを用意して頂いた。感謝。宿を出るとすぐ、崖から豊かな湯滝「源泉は姫川上流3キロ。温度は55℃」との案内。大網集落に向かって車道を歩き始めると、宿屋の女将の呼ぶ声が。何事かと引き返すと、「車で大網まで送りましょうか」、と。車での送迎が却って迷惑かと、遠慮してくれていた、よう。塩の道を歩く人にはストイックに「完全徒歩」を目指す方も多いのだろう。大網峠道は姫川温泉から姫川に沿って南に少し下ったあたりから山道に入り、大網集落へと続くわけで、車道を歩き始めた我々を見て、声をかけてくれたのだろう。
車で230mほどを一気に上る。山腹から大きな2本の導水管が姫川へと下っている。電気化学工業大網発電所への導水路。取水位標高357m、放水位標高234m、というから落差120mほど。姫川の上流5キロのところで取水している、とか。
七曲りの車道を車が進む。途中、道の右側に「塩の道」の道標が見えた。大網峠道なのだろう。5分程度で大網の集落に到着。[姫川温泉発;8時23分、標高257m]

大網

車は集落の中ほどまで進み、「塩の道」スタート地点まで送って頂く。宿のご主人に感謝し、車を降りる。あたりを見渡すに、大網は数十軒といった単位の山間の集落。江戸時代はこの地に千国街道の荷継ぎ問屋があり、大いに賑わったそうである。荷の積み替えを待つ牛が1日100頭近くもいた、とも言われるこの村落も、明治にはいり姫川筋に馬車道(現在の国道筋)ができて以来、静かな山村に戻った。
大網(おあみ)の集落が歴史に登場したのは、戦国末期と言われる。武田氏の流れの一族がこの地に住み、そして大網峠越えの道を開いた、と。実際、大網集落の北の山峡を通る地蔵峠道には、上杉軍と武田軍の戦いの跡や城跡(平倉城;上杉方)なども残る。現在でも大網には武田さんと竹田(ちくた)さん、って姓の住民が多いと言うことだし、武田の一族が、って話は、なかなかもってリアリティがある。
大網の地名の由来は例によって諸説あり。奴奈川姫が建御名方の出産に際し、産所に網を張ったことによる、との説がある。峠の遥拝、「拝む」からとの説もある。また、「麻績(おうみ)」「麻編(おあみ)」といった、「麻」に由来するとの説もある。大網は戦前まで麻の産地であった、と言うし、この説も捨てがたい。ともあれ、地名って、最初に音があり、それに物識り、というか文字知りが、なんらなかの蘊蓄を加え文字表記する ことが多いわけで、諸説定まることなし、ってことになるのだろう。[大網:8時28分、標高388m]

芝原の六地蔵

大網集落の塩の道始点は集落の中ほど。民家の裏といった細路を進むと上り坂。両サイドには草が生い茂る。墓地の間の道を上ると運動場のような広場に出る。案内もないので広場をうろうろ。近くの村人に道を尋ね、広場の小さな崖下に続く塩の道に出る。
道に沿ってグリーンのネット。マレットゴルフのコースとなっている。ゲートボールとゴルフを足して二で割ったようなこのスポーツは長野で生まれたもの。18ホールよりなる。そう言えば、先ほどの広場にも、それっぽいマットもあった。
道脇に石仏群。芝原の石仏群と呼ばれる。先に進むと、今度は赤い帽子をかぶった6体のお地蔵さん。これが「芝原の六地蔵」。六地蔵は散歩の折々に出会う。お地蔵さん、って釈迦の入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの仏不在の時期、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を迷う衆生を救済する菩薩。正確には地蔵菩薩。六地蔵って、六道それぞれに相対した地蔵菩薩であろう。

横川の吊り橋

芝原の六地蔵を過ぎると、本格的に山道となる。要所要所に道標があるので迷うことはない。木々の間の道をしばらく下ると沢にでる。開けた沢にかかる木の橋を渡り、再び山道を上る。細い山道を進むと水の音。木々に覆われた沢に吊り橋が懸かる。「横川の吊り橋」である。吊り橋は沢を跨ぐ。ガイドブックやインターネットでは、断崖絶壁といった記述があったが、高所恐怖症気味のわが身でも、それほどに足元が「ゾンゾン」するってこともなかった。
姫川は雨飾山の南麓に源流を発し、西に流れ姫川温泉の北で姫川に合流する全長15キロの川。山中の横川集落からは古代や、室町期の遺物が見つかっている。また大木の産地で明治14年には京都東本願寺の大柱用の欅の大木を送り出している。横川集落は塩の道・地蔵峠道の道筋。集落の近くの長者が原では、越後を目指す武田とそれを迎え撃つ上杉が相争ったと言うし、往時は交通の要衝であったのだろう。その横川の集落も現在は地崩れで全滅し廃村となっている、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。[横川の吊り橋;9時11分、標高289m]

牛の水飲み場
吊り橋を渡ると道は急な上りとなる。道は小さな沢に沿って上ってゆく。何度か小石を踏んで沢を渡る。沢の水が流れ落ちる岩場の脇も何度か横切る。山道を進む。結構きつい。何度目だったろう、小さい滝の流れ落ちる岩場をぐるりと廻り、岩場の上にでる。と、そこに「牛の水飲み場」の案内。足元の岩盤がそれっぽい。岩に穴があいているのは、牛を繋ぐためのものだろうか。
とはいうものの、こんな急峻な坂、しかも岩場を牛が上れるとは思えない。昔は人や牛の往来も多く、現在より道幅も広く、踏み固められていたわけだから、現在の荒れた山道のイメージでは判断はできないだろう。けれども、それでも、牛がこの山道を上るイメージは浮かばない。実際、この牛の水飲み場の穴は、崖下に落ちるのを防ぐ柵を立てる穴であった、という説もある。
牛がこの坂を上ったか、どうかの詮索はさておき、急峻な山道の荷運びの主役は牛ではなく人であった。歩荷と書き「ボッカ」と呼ぶ。当初、「カチ二」と呼ばれていたようだが、いつの頃からか「ボッカ」と呼ばれるようになった。
急峻な山道もさることながら、ボッカが大活躍するのは冬の時期。牛が荷を運ぶ時期は八十八夜(5月2日)から小雪(12月23日)まで、といった取り決めがあったとのことなので、それ以降はボッカが荷を運ぶことになる。急峻・狭隘な山道では道を進む優先権も決まっていた、と。北から南に進むボッカには必ず道を譲ることになっていた。根拠は何もないのだが、この南行(北塩)が幅をきかすのは、なんとなく荷受けの糸魚川の問屋の「力」って気もするのだけれど、北から南に流れる、塩とか魚類といったもののほうが、南から北に流れる麻、竹、漬わらび、タバコといったものより、有難かった、ということだろう。[牛の水のみ場;9時36分、標高463m]

菊の花地蔵
牛の水飲み場から30分弱ほど歩いただろうか、大きな杉の木の根元に佇むお地蔵さま。遭難したボッカを供養するため、と。豪雪地帯のこの地では半年近く雪に埋もれていることだろう。道から少し脇に上り、お参りを済ませ先に進む。このあ たりから道が少し広くなりブナの原生林に入っていく。[菊の花地蔵;9時59分、標高571m]

屋敷跡
菊の花地蔵から20分程度歩いたところに、いかにも人工的に開かれた場所。屋敷跡と呼ばれる。茶屋があったとも、炭焼き小屋があったとも言われる。10時21分、標高661mあたりの屋敷跡を離れ、最後の上り。沢筋なのだろうが、人牛の往来により、斜面が徐々に削られ道がU字に掘り込まれている。「ウトウ」呼ばれるようだ。U字部分の底のところを上る。結構キツイ。どのガイドにも、屋敷跡から峠がそれほどキツイ、とは書かれていなかったのだが、とんでもなかった。30分弱で、比高差170mほどを上ることになる。落ち葉に埋まった道を、疲れた足を引きずるように、大汗をかきながら這い上がると大網峠に到着。大網を出て2時間半、比高差560m上り続け、やっと大網峠についた。

大網峠
大網峠越えは、道に迷わないかどうか、少々緊張しながら歩いた。 Garminの専用GPS端末を購入したのは、この大網峠越えが心配だった、から。結果的には道に迷うようなことはなかった。秩父の釜伏峠越えのとき、日本三大名水という「日本水(やまと)」の案内に誘われ道に迷い、結構パニック状態になったことがある。今回は何もなくて、誠によかった。また、峠あたりには、ウルルと呼ばれる虻(アブ)の一種が生息し、刺されて腫れて始末が悪いとのことであり、マジに防虫ネットでも買おうとしたほどだが、これも、なんのこともなかった。
峠越えは、この大網峠を含め30ほどは越えただろう、か。山上りはそれほど興味がないのだが、街道を歩き、結果的に峠を越えることになった。甲州街道の小仏峠や笹子峠、甲州古道の時坂峠や大菩薩峠、鎌倉街道・山ノ道の妻坂峠、秩父巡礼道の釜伏峠や粥仁田峠、などなど。川に沿って道があり、邪魔な山塊があればトンネルを掘る、沢があれば橋を架けて一跨ぎといった現在の道路事情とは異なり、昔の人は、国を越えるときは峠を越えるしか道は、ない。
峠は、「たわ」に由来するとの説がある。山稜の「たわんだところ=鞍部」を越える、たわごえ>とうげ、ということ、だ。「手向け」からとの説もある。「遥拝」するところ、でもあったのだろうか。峠はもともとの漢字にはない。日本での造語である。山の上、下、を合わせたもの。言いえて妙で ある。木々に覆われ、全く見通しのきかない大網峠。上り続けた体を休め、ここからは、ひたすら下ってゆくことになる。
[大網峠;10時59分、標高834m]

角間池
大網峠から20分弱、標高差60mほど下るとブナやユキツバキの森の中に池が現れる。エメラルドグリーンといった色合いの水面。この池って、大蛇が流した涙の跡だとか。この地に伝わる伝説によれば、角間池の北東にある戸土の近くの大久保集落に池があり、そこにつがいの大蛇が棲んでいた。ある日、子供が誤って池に落ち溺れ死ぬ。村人は大蛇が飲み込んだと思い込み、夫の大蛇を殺してしまう。妻の大蛇は難を避け、野尻湖に逃れたのだけれど、そのとき悲しみのために流した涙が、角間池、白池、蛙池となった、ということだ(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
角間(かくま)は関東・東北によくある地名。かくれる>陰地、といった語義ではないか、とか。鹿熊と表記するものも、ある。
[11時12分、標高783m]

角間池下道標
池の畔にある戸倉山への登山口を横に見ながら、次の目的地白池へと下る。ほどなく道脇に石の道標。「右松本街道大網 左中谷道横川」と書いてある、とか。文政元年というから1818年の建立。ということは、ここが大網峠を越えて姫川に下る大網峠道と、粟(安房)峠、横川、大峠、地蔵峠、大峯峠と峠伝いに進む地蔵峠道の分岐点。中谷とは南小谷の北、姫川東岸にある集落。地蔵峠道が姫川へと下る南端あたりである。中谷道って、地蔵峠道の別名だろう、か。千国街道 も、新潟県側では、根知越、仁科街道、松本街道などと呼ばれ、長野側では小谷街道、千国街道、大町街道、糸魚川街道などと呼ばれていた。
[11時18分、標高770m]

白池
角間池から下ること30分弱。標高も200m以上下ったところに白池。角間池とは異なり、景色は開けている。池の畔、少し小高いところに諏訪神社の小さな祠。往時、この神社の神事が国境紛争解決の決め手のひとつになったと言う。
江戸時代、元禄の頃、この白池あたりの領有を巡り越後領の山口村と信州領の小谷村で争いが起こる。材木や芝の切り出しを巡る諍い、とも言う。山口の住民は横川が国境線であり、この白池一帯は越後領と主張。このあたりは上杉と武田が合い争ったところ。取ったり、取られたり、ということで、国境線などはっきりするわけもない。一種の国境紛争となる。
山口の住民は、紛争解決のため幕府に訴え出る。幕府は小谷村に対し、白池のあたりが信州領であることを示す明確な証拠を提出しろ、とのお触れ。小谷村は証拠を揃え江戸に出向く。中央区馬喰町の公事宿にでも泊まったのであろう。
それはともかく、幕府からは現地視察も踏まえ裁定を行い、結局は信州領と決まったのだが、その決め手のひとつが諏訪神社の神事。信濃一ノ宮の諏訪大社御柱祭りに合わせ、7年に一度、この白池そばの神木に「なぎ鎌」を打ち込む、という神事である。信濃の神さまのテリトリーということが信濃領である、との証しである、と・池の畔の小さな祠にも歴史あり、ってことだろう(『北アルプス 小谷ものがたり』)。

国境紛争の原因が、たかが材木と言うなかれ。昔は材木や芝は重要なエネルギー源であり、建築資源。建築云々は言わずもがな、ではあるが、エネルギー源としては、たとえば武蔵野の雑木林。これは江戸の人々のエネルギー源確保のため、一面の草原を薪用の雑木林に変えていった結果の姿。利根川の舟運路開発も、物流もさることながら、燃料用の芝木を運ぶことにあった、と言う。
塩の道に関しても、木材は重要な意味をもつ。一般に「塩木」と呼ばれることもあるが、これは塩をつくるための燃料用木材の呼び名。原初は、山の住民が木材を川に流し、海岸端で拾い上げ、それで塩水を煮て自分用の塩をつくる。ついで、多めに木材を流し、海岸端の人にその木材で塩を塩をつくってもらい、材木提供との交換に塩を手に入れる。大量に塩をつくる専業業者が登場するころになると、木材を塩の製造に関係なく日用燃料の薪として売り現金を得、そのお金で塩を買うようになった、と言う。材木や芝を巡っての諍いも、昔は生活に直接かかわる重大案件であったわけだ。

諏訪神社の祠から池脇に下る。池を望む休憩所で一休み。池脇の清水、湧水なのだろうがいかにも美味しかった。ここでお昼。ホテルで握ってもらったおにぎりを食べる。美味。
食後、あたりをぶらぶら。休憩所の裏手に平地。「白池のボッカ宿跡」との案内。文政7年、というから1824年。その年の12月17日朝、戸倉山から大雪崩が発生。2軒の家が押しつぶされ、宿泊者の信州ボッカ15人中12人が即死、家人11人のうち9人も即死と言う大惨事が起きた。その後この地にボッカ宿がつくられることはなかった。平成6年に発掘調査が行われ、約170年ぶりにボッカ宿の全体像が現れた、と言うことだった。
[11時39分、標高634m]

尾根道合流点
白池を離れ次の目標「尾根道合流点」に向かう。といっても、地図に尾根道合流点といった地名があるわけではない。勝手に付けただけ。地図を見ると、白池から大久保、戸土に向かって尾根道っぽい道が北東に向かて走っており、途中大きく西に折れ、しばらく進み北に折れ、それからは一路、山口集落へと向かっている。
塩の道は、地図にはないのだが、白池から尾根道を離れ北に向かい、尾根道をショートカットするようにまっすぐ進む。一度谷に下りて、再び尾根道に上るのか、とも思ったのだが、ぐるっと回る尾根道筋も標高を下げており、結局は下りだけで済んだ。地図には載っていないルートなので、道に迷わないように、GPSに合流点のポイントを登録したりと、結構慎重に準備したのだが、それは杞憂に終わった。白池から20分弱で到着した。
[12時16分、標高563m]

日向茶屋
尾根道との合流点あたりまで来ると、風景も少し里めいてくる。道も山道ではあるものの、雑草が生い茂り、野道めいてきた。標高も530mほど。大網峠からは300mも下ったことになる。尾根道への合流点から10分強歩くと日向茶屋跡。ここは、白池にあったボッカ宿が雪崩れて壊滅した後、それに替わるものとして建てられた、と言う。
ところで、日向って日当たりのいいところ。対するものが日影。この地名は東北から関東・中部地方に多い地名。GISを使い、関東・中部地方の日向230例と日影133例の立地を解析したデータによると、日向、日影とも山沿いの地帯に分布するのは当然として、日向は標高が低く、日影は標高が高い。太陽光を少しでも多く取りたいと、日影は標高が高いのだろう。日向の斜方位は南、南東、南西。日影は北、北西、北東が多く、一部に東と南東。日向の傾斜は比較的緩やかであるが、日影は傾斜が急。日向では耕地としていることも多いので傾斜は緩やかではあろうし、日影の傾斜が急なのは、そもそもが標高が高いのだから当然ではあろう(『GISを用いた「日向」「日影」地名の立地の解析;宮崎千尋』)。GIS,GPSを使ったデータ解析は地形フリークとしては大変ありがたい。
[12時半、53m]

大賽の一本杉

20分ほどかけて、150mほど下る。道端に大きな一本の杉。塞の大神と呼ばれる。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
[12時49分、標高389m]

山口関所跡

一本杉から30分、標高を130mほど下ると山口の集落。姫川を出たのが8時半前。おおよそ5時間で到着した。今夜の宿は糸魚川。が、糸魚川へと向かうバスは午後4時過ぎに一便あるだけ。車道脇の山口関跡を眺めたり、塩の道資料館に向かって歩いたり、雑貨屋でスナックを買ったりするにしても、時間が十分ありすぎる。どうせのことなら、JR大糸線の根知駅に向かって歩こう、とは思うものの距離は直線でも5キロ弱。また、なんとか、かろうじてもってきた天候も山口集落に入ったころから、雨がぽつぽつ。ということで、集落内、スキー場のところにある温泉で時間をつぶす。
山口は文字通り、「山への入り口」、から。地蔵峠道にしても、大網峠道にしても、この山口を通ることになる。戦国時代、上杉と武田の攻防においては戦略的要衝の地であったのだろう。ために、この地に口留番所が設けられ、街道の「出入り口」での物流を「留め」、物品に税を課す。塩一駄(塩俵2俵)に対しては、塩二升程度。そのほか穀物や魚の種類毎に細かく税金が定められていた。
藩の大きな財源を番所で徴収するって、縦横に「道」が通っている現在では想像するのは難しい。が、昔は、往来できる道など数限られており、数少ない往来のほかは人も通れぬ森や林や草地や湿地。交通の要衝の地に関や番所を置いておけば、効率的に運上金・銀を回収できたのであろう。
ちなみに、中世の頃、道路は基本的に有料道路であった。道なき道を悪戦苦闘して通るより、関所でお金を払い、道を進む。とはいうものの、淀川沿いの道だけでも380か所の関があった、と言う。それはあまりにやりすぎ、そんなことでは経済の流れが止まってしまうと通行税を廃止したのが織田・豊臣。その後徳川の時代に設けられた関所も、「入り鉄砲と出おんな」といった、政治・軍事上の監視所であった、よう。番所での運上徴収って、昔の道の姿を想像して、少しリアリティを感じることがでいる、かと・[13時18分、標高256m]

糸魚川
温泉でのんびり時を過ごし、4時過ぎのバスに乗り、今夜の宿泊地のあるJR大糸線・姫川に。夕飯はホテルで、などと考えていたのだが、事前に申し込まなければダメ、とのこと。仕方なく糸魚川市内に出向く。
適当に食事を済ませ、町をぶらぶら。偶然に塩の道の起点の案内。案内に誘われ海岸端に。打ち寄せる波を見ながら、北前船によってこの地に運ばれ、塩の道を牛や人の背で運ばれた品々に思いをはせる。千国番所の記録によれば、塩や四十物(あいもの;塩肴や乾物)、越中の木綿、越中高岡お金物、能登の輪島塗、加賀九谷の陶磁器類、九州の伊万里・唐津が塩の道を通過した、と。
「塩の道」と呼ばれるほど塩が大量に運ばれるようになったのは、瀬戸内海で作られた塩が大量に運ばれるようになってから。糸魚川近辺の塩田で作られる塩もさることながら、瀬戸内で塩の大量生産が可能になり、「売るほど」塩が生産されるようになってはじめて、商品としての塩が塩の道を大量に運ばれるようになったのだろう。
塩の道を歩く前は、塩の道って、越後の塩を信濃に運び込む道のこと、と思っていた。が、実際は、地元だけでなく瀬戸内海からの塩が運ばれるようになって本格的な「塩の道」となる。
また、塩の道を運ばれたのは塩だけではない。塩や魚類、日用品などを信州へと、また信州からは山の産物を越後へと運ばれた物流の大幹線であった。塩の道は、大名が参勤交代などに往来した街道ではなく、物流専門の幹線道路。牛の背で運ばれたであろう高原の千国越え、人の背で運ばれたであろう険路の大網峠越えを体験した2日の散歩でありました。

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