峠越えの最近のブログ記事

先回国見峠を越え、土佐の城下から伊予の川之江を結ぶ土佐藩参勤交代の道・土佐北街道を遮る峠は南国市から国見登山口のある香美市穴内を繋ぐ権若峠(コンニャク・ゴンニャク)を残すだけとなった。標高1000mほどの国見越えを2回にわけて道を繋いだ後でもあり、標高は600mほど、距離は国見越えの三分の一といったもの。しっかりしたルート記録は見当たらないが、この程度ならなんとかなろうかとお気楽に取りついたのだが、これが大誤算。標高1000mクラスの法皇山脈・横峰越え笹ヶ峰越え、国見越え()といった土佐北街道の峠越えで一番難儀することとなった。

Google Earthで作成
難儀した要因は、「半端ない」荒れた道、その結果としての途切れたルート。季節柄伸び放題のブッシュ。クリティカルな箇所に見当たらなかった標識、そして何よりも、誠にお気楽に取りついた心の持ちようといったところだろうか。
一度で軽く終わると思ってはじめた権若峠越えではあるが、初回は穴内ダム湖側から取りつき、荒れて消えた道と雨のため撤退。2回目は南国市側の登山口から取りつき、結構難儀しながらも初回撤退箇所となんとか繋いだ。
初回は途中撤退ではあったが、撤退箇所までは土佐北街道をトレースしており、2回目も峠からその撤退箇所をターゲットに、倒木で荒れそして消えたルートを辿ればよかったわけで、それがなければ目標となる箇所がないまま消えた道で途方に暮れたであろうから、それはそれでよしとして、2回にわたる権若峠越えの記録をメモする。


今回のルート
初回;穴内ダム湖側から権若峠を目指す(途中撤退)
車デポ:10時53分>登山口・参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト>倒木が道を塞ぐ・撤退

2回目;南国市釣瓶の登山口から権若峠を越え、一回目の撤退地点を繋ぐ
釣瓶登山口へ>左手渡瀬>釣瓶登り口>「歴史の道 北山道 権若峠まで2㎞」標識>「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」標識・中休場>「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」の標識>沢場>東西に延びる尾根筋が見える>峠手前の藪漕ぎ>権若峠>山路に向け藪に入る>境界標石>堀割道に出る>土佐北街道の標識>沢筋右岸を進む>鶏石>沢筋に下り左岸に渡る>先回撤退地点>参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;>「参勤交代北山道」の標識>参勤交代北山道の標識>登山口・参勤交代北山道の標識


初回:穴内ダム湖側から権若峠を目指し、雨と荒れた道のため撤退

車デポ:10時53分
権若峠越えの第一回は国見越えの登山口のあった穴内ダム湖側から取り付くことにした。権若峠の下山口側からの取り付きであり、遍路道で言うところの「順打ち」の三倍困難とされる「逆打ち」であるが、標高も550mほどの峠でもあるし、ピストンで戻れば、「順打ち」での峠への上り口となる南国市の釣瓶まで行くこともないだろうしなあ、といった想いであった。
取り付き口は、先回の国見越えの登山口のあった穴内ダム湖北岸を更に西に進み、赤荒谷橋を越え、両国橋を渡りダム湖南岸に移った地点で県道268号を離れ林道を少し進んだ辺りのようだ。
両国橋を渡るまでは舗装された県道を進み、左に分岐する林道分岐箇所に。分岐箇所の林道は簡易舗装ではあるが、なんとなく舗装もすぐ切れそうであり、県道脇の空きスペースに車をデポし林道を歩きはじめる。
穴内
「土佐地名往来」には「大豊の集落。"助ける"を意味する古語あななう。この地を助け合って開拓した歴史に由来。
両国橋
両国橋の由来は?国を跨るわけでもないのだが、この橋の少し西からダム湖の南へと延びる尾根が香美市と南国市、昔の香美郡と長岡郡の境となっている。それに関係あるのだろうか。不明である。

登山口・参勤交代北山道の標識:11時4分(標高430m)
車をデポし、県道から左に分かれて林道をすすむ。途中から簡易舗装も切れていた。10分ほど歩き、南に入り込んだ等高線に沿った林道の南端をグルリと廻ったあたり、右手に伐採された杉林が広がるところの狭い沢筋(水は流れていない)脇に「参勤交代北山道 権若峠登り口(六八九米)」の標識があった。「六八九米」は権若峠まで689mということだろう。このときは楽勝気分ではあった。



参勤交代北山道の標識;11時16分(標高450m)
標識はあったのだが、足を踏み入れると直ぐに伐採で荒れた杉林の中。踏み跡もなく途方に暮れる。どうしたものかと、それらしき道筋を探していると杉に巻かれた青色のリボン(11時9分)が目に入った。このリボンが土佐北街道の案内かどうか不明であるが、とりあえずリボンの巻かれた杉の先へと進む。
ほとんど成り行きで5分ほど進むと、杉に巻かれた赤いリボンとともに「参勤交代 北山道」の標識を発見。オンコースであることが分かり一安心。

参勤交代北山道の標識;11時23分(標高460m)
標識はあったが、その先も明確な踏み跡はない。杉の伐採箇所を抜け、少し落ち着いた山相の中、踏み跡らしき道筋5分ほど進むと右手は青、左手は赤と青の里リボンが巻かれた立木があり、その先に「参勤交代 北山道」と書かれたプレートが木に巻き付けられていた。
この辺りまで進むと、登山口標識辺りでは掘り込まれてはいるが水が消えた沢筋に水が現れてくる。

参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;11時25分(標高480m)
沢の左岸(と言うほど大きな沢ではないのだが)を数分進むと赤いリボンと「参勤交代北山道」の案内が立木に巻き付けられており、またその直ぐ先にも坂本龍馬のイラストの描かれた「土佐街道」の標識が大岩手前の立木に巻き付けられていた。

倒木・藪が道を塞ぐ・撤退;11時26分(標高490m)
結構標識も増え、これは楽勝かと思いながら踏み分けられた道を進むと細い立木に赤いリボンが巻かれている。が、その先は倒木で道が塞がれる。一本だけならなんとかなるのだろうが、折り重なった倒木でその先は藪。「半端ない」荒れ具合である。
何処かに踏み跡などないものかとあちらの藪、こちらの藪とルートを探すが、それらしきものは全く残っていない。また間が悪いことに晴れの天気予報にも関わらず雨が降り出す。雨具は用意していなかったのだが、なんとなく空模様が怪しいので杖替わりにもっていたビニール傘で雨を凌ぐが、傘をさしての藪漕ぎは少々難儀。
権若峠まで比高差80mほどで、這い上がるだけならなんとかなりそうだが、今回の目的は土佐北街道のルート探し。このまま悪戦苦闘しても土佐北街道のルートに出合うかどうかわからない。ということで、ここで撤退決定。次回、オーソドックスに南国市釣瓶の登山口から権若峠に向かい、今回の散歩でルート確定した坂本龍馬のイラスト地点までを繋ぐことにする。

初回撤退ルート



2回目;南国市釣瓶の登山口から権若峠を越え、一回目の撤退地点を繋ぐ


釣瓶登山口へ
南国市は国分川が四国山地を抜け高知平野に顔を出す地。ほとんど高知市まで来たよ、などと思いながら高知道の南国インターを下り、国道32号を領石川に沿って少し北に戻り、国道が高知道の真下で領石川(りょうせき)を渡った少し先、宍崎辺りで県道33号に乗り換える。県道33号の分岐点に「権若峠登り口まで3.8km」の標識がある。
領石
「土佐地名往来」には「根曳峠への登り口の集落。地検帖には龍石。竜に似た奇岩?竜岩寺という寺名に由来する?」とある。
宍崎
「土佐地名往来」には、「猪狩りが盛んに行われた戸山郷の入り口の集落。 また猟犬のことをシシザキと言う」とある。
県道33号を亀石まで進み、そこで奈路川に沿って直進する県道にから離れ右折し、領石川に沿った道に入る。分岐点には「ここが釣瓶橋です。権若峠釣瓶登り口まで2.3キロ」の標識がある。
奈路
「四万十町地名辞典」には「山腹や山麓の緩傾斜地を高知県では「ナロ」と言う。高知県だけの地名」とある。

左手渡瀬
領石川に沿って道を北に進むと道の左手に「左手渡瀬」の標識と「権若峠釣瓶登り口まで1.1km」の標識が立つ。
「左手渡瀬」が気になりちょっと立ち寄り。標識には「中谷川を西岸に渡る」との説明もある。何のことだろう?チェックする。 「左手が渡瀬」の意味だろうとおもったのだが、「左手渡瀬」という固有名詞であり、「西岸に渡る」とは、どうも往昔の土佐北街道が五良兵衛川(領石川)に北から合わさる中谷川の右岸へとこの地で渡ったようである。
土佐北街道のこの地までのルート
高知の図書館に行けば詳しい資料もあるのだろうが、ルートに関する資料がWEB上ではあまりヒットしなかった。唯一見つけた『土佐の自然』の記事「参勤交代道(領石‐ゴンニャク峠)の自然と地誌、山崎清憲」だけを頼りに推定すると、「土佐の城を出た街道は、比島・一宮・布師田・中島へと進む。中島で御免方面へと南下する土佐東街道と別れた北街道は領石へと北に道を取る。領石の天満宮の辺りには領石口番所があり参勤交代の休憩所でもあったようであるから、道は領石川の右岸を進んで来たのだろう。
天満宮を越えた北街道は国道32号と高知道が重なり合う辺りで「一之瀬」を渡り領石川左岸に出たようだ。一之瀬の場所は国道32号と高知道が重なり合う辺りにある二つの堰の内、上流側の堰辺りとのこと。
左岸を進む北街道は現在の楠木橋(同書には「楠本)とあるが楠木では?)辺りにあった楠木渡瀬を渡河し、右岸に。
右岸に渡った街道は、北から亀石川が領石川に合流する先で「瓶の本渡瀬」を渡河し再び左岸に移り、奈路川が領石川に合流する地点を領石川沿いに進み、この地で領石川(五良兵衛川)から離れ、中谷川を右岸に渡る」といったルートかと思われる。

釣瓶登り口と梼方面への分岐点;9時12分
土佐北街道が中谷川右岸を進んだ、というのはメモの段階で分かったこと。当日は「左手渡瀬」の標識横にあった「権若峠釣瓶登り口まで1.1km」の標識の案内に従い、中谷川左岸の車道を進む。
ほどなく中谷川に東側から梼山川が合わさる。車道は梼山川に沿って少し進むと釣瓶登り口と梼方面への分岐点に。分岐点には「釣瓶登り口左手200m」「梼方面右」の標識が立つ。道脇にスペースを見付け車をデポし、釣瓶登りへと左手の道を進む。

釣瓶登り口:9時14分(標高150m)
道を進むとほどなく右手に標識が見える。「権若峠登山口」「峠まで二千三百三十米 約2時間半かかる 標高五百五十米」とある。ここが峠への上り口である。



下り付の渡し
標識の手前の立ち木に登山者のために竹の杖が用意されている。なにか手頃なものは無いかと寄ってみると、手書きで「ここが「下り付の渡し」です。昔の飛び石が残っています。ゴンニャク峠までは2㎞430m」と書かれたプレートが立ち木に括られていた。
当日はなんのことかよくわからなかったのだが、メモの段階で梼山川左岸から右岸への渡瀬のことだろうということがわかった。
ということは、参勤交代道は、先ほど「左手渡瀬で中谷川の右岸」に渡ったわけだから、どこかで左岸に渡らなければならない。あれこれチェックすると場所は比定されていないが途中「中渡瀬」で中谷川を左岸に渡り、そのまま梼山川左岸へと進み、「下付の渡し」で梼山川を右岸に渡ったようである。川には飛び石で渡ったという適当な石が並ぶ。参勤交代の折には、板橋を架設したとのことである。

「ゆすの木」が多くある地ではあるのだろう。龍馬脱藩の道を梼原から歩いた、その梼原も同じ由来である。
釣瓶
釣瓶の由来は不明。瓶は「かめ・びん」のことだろう。途中亀石川があったが、その由来は瓶の形をした岩があることに拠る。地検帳では亀石だが、州郡志には瓶岩とある。で、釣瓶だが、「釣瓶落とし」というフレーズがある。一直線に落ちていく様を表す。垂直な大岩でもあった故の命名だろうかと妄想。 因みに,『高知の地名;角川書店』の亀石村の項に、「梼山の西に菎蒻坂を隔てて釣瓶落山がある」とする。上述の妄想、あながち妄想とは言えない、かも。

「歴史の道 北山道 権若峠まで2㎞」標識;9時25分(標高200m)
よく踏み込まれた道、掘り割りの道を10分ほど上り標高を50mほど上げたところに「権若峠まで2㎞」の標識が立つ。中谷川と梼山川の合流点に向けて南西に突き出た尾根筋を上って行くようだ。


「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」標識・中休場:9時44分(標高370m)
「権若峠まで2㎞」標識から20分、高度を150mほど上げると道の左手に「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」の標識があり、少し平場となっている。標識の先、道の右手にも標識が立ち「中休場」とある。参勤交代の休憩所といったところだろう。

「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」の標識:9時58分(標高410m)
比較的急な尾根筋の道を上ってきた土佐北街道は、「中休場」では等高線の間隔が広い平場となっており、その先も等高線をゆっくりと斜めに上る。10mほど高度を上げた後、等高線の間隔の広い尾根筋に入り、ゆっくりと高度を20mほど上げたところに「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」が立つ。

沢場;10時18分(標高530m)
「権若峠まで1000m」の標識から先、等高線の間隔も狭まり少し険しくなった尾根筋の道を等高線に垂直に60mほど高度を上げる。標高370m辺りからは尾根筋を離れ、592mピークの山を、トラバース気味に等高線を斜めに60mほど高度を上げると、雑草も幾分水気を帯びたものになり、その先で小さいながらも沢となって水を集める箇所に出る。谷側がちょっと崖っぽい。
登山の時期にもよるのだろうが、沢の前後に草が生い茂り道は見えない。踏み違えて崖に落ちるのは勘弁と、山側に道でもないものかと彷徨うが、それらしき踏み跡はない。結局ものと沢場に戻り、慎重に足元を確認しながら進むと、崖に沿って道が続いていた。草が茂ってなければ、道筋も見え、なんということもない道ではあろうと思う。

東西に延びる尾根筋が見える;10時33分
沢場のルート探しで時間をとったため、距離からすればほんの数分歩いたところで前面が開け、権若峠へと繋がる東西に延びる尾根筋が見えてくる。峠まであと少し。



峠手前の藪漕ぎ;10時36分
東西に延びる尾根筋を見たときには、峠に着いた、くらいのつもりでいたのだが、そのすぐ先で背丈より高い草が一面に拡がり道が消える。左手が一段低くなっており、そこを迂回するのかと取り付き口を探すが、足を踏み入れるようなアプローチもない。
地図には権若峠の表示もないため、目安として目指す方向もわからない。撤退?その言葉もちょっと頭をよぎる。が、もう少しもがいてみようと、地図を見る。登山口には権若峠は標高550mとあった。地図には西の592mピークと東の621mピークの間に結構広い鞍部があり、そこが標高550m。藪に阻まれた場所の目と鼻の先。そこが権若峠であろうと藪漕ぎに入る。
左手の一段低くなっているところに落ちないように、草を踏みしだき、撤退に備えてナイフで草を刈り、道を造りながら成り行きで藪を漕ぐ。と、進み始めて直ぐ草藪を抜け平場に出た。

権若峠;10時49分(標高550m)
平場は一部ぽっかりと草藪がないところがあり、そこに石標が立つ。「参勤交代 北山道」「歴史の道 北山道 権若峠」とあった。西端からは土佐が一望。太平洋まで見下ろせる。
帰りのルートの峠からの下り口をはっきりさせるため、藪から峠の平場に出た箇所の草を刈り込み、ピストン復路時の取り付き口を造る。藪から平場に出るときは問題ないのだが、平場から藪に復路で取り付き口がわからず苦労することが多いためである。刈込を終えて少し休憩をとる。
上記時刻では藪漕ぎから峠まで13分となっているが、これは逡巡・ルート探しなどあれこれ彷徨い、迷ったため。実際は数分、いや一分程度の距離かもしれない。
権若峠までの行動時間は釣瓶の登山口から実質1時間半といったところだろか。登山口には2時間半とあったが、結構ゆっくり歩いてもそれほどはかからないように思う。
権若峠
権若峠までのルート
「コンニャク峠」とも「ゴンニャク峠」ともある。「コンニャク峠」は「土佐地名往来」には「コン ニャクに類した食物の自生する峠」とも書かれており、『土佐の自然』の「参勤交代道(領石‐ゴンニャク峠)の自然と地誌、山崎清憲」の項には「土佐州郡誌には「菎蒻(コンニャクク」を当てている」とある。
コンニャクはゴンニャクとも言うとのことであるので、それなりに理解はできるのだが、『土佐の自然』には続けて「地名の由来はさだかでないが「国府村史」には、延喜官道の「五椅駅」を比定し、約音から転じたもので、頂上の広場を「オムマヤトコ」と記している」との記述がある。浅学のわが身にはこの説明がさっぱりわからない。

古代官道である南海道の駅には土佐の本山に「吾椅(あがはし)駅」があったとされる。五椅駅は「吾椅(あがはし)駅のことではあろうが、「あがはし」が約音(フランス語のリエゾンみたいなもの)から転じて(これも正確には「約音から転じた」の主語が何か不明ではある)、どうして「ゴンニャク」となるのか不明である。全国に「ゴンニャク」と称される山は他にもあるが、どれもその由来は不明となっている。
ついでのことながら、「転じたもので」と「頂上の広場を「オムマヤトコ」と記している」の繋がりも分からない。繋がりを無視すれば「ヤマトコ」は何となく「山床」のような気もするし、鞍部を表す美しい言葉と妄想する。なんの根拠があるわけでもない。
この権若峠を越えれば、土佐北街道に立ち塞がる峠はすべて越えることになるので、いつか土佐街道の峠と里道を繋ぐ折にでも高知の図書館を訪ねればなんらかの資料があることを期待する。

下山路に向け藪に入る;10時53分(標高550m)
水休憩をとり、穴内ダム側へと下ることにする。とはいいながら、下山側も背丈より高い草藪が茂る。草の向こうには木々が茂る。アプローチの目安はなにもない。根拠は何もないのだが、先回の撤退箇所から沢筋が伸びていたので、峠へと入り込んだ550m等高線の突端に向かうことにする。

境界標石;11時2分(標高550m)
強烈な藪を踏みしだき、戻りのために草を刈り先に進むと木立の茂る箇所に。草から木立に変わっただけで強烈な藪に変わりない。木の枝を折り、力任せに先に進むと標石がある(11時2分)。文字は読めないが頭部分が赤く塗られており境界標石のようにも思える。東西の尾根筋は北の香美市と南の南国市の境界である。

堀割道に出る;11時9分(標高550m)
こんな藪を延々と下るのか、などと気が滅入り始めた頃、突然目の前に掘割道が現れる。土佐北街道のルートであってほしいとの思いもさることながら、なんとなく藪漕ぎから解放されそうな予感が嬉しい。

土佐北街道の標識;11時11分
掘割道を下ると、すぐに道の左手に赤いリボンが巻きつけられた木立があり、「参勤交代 北山道」の標識も木に括られている。予想より簡単に土佐北街道に出合えた。こんなにしっかりと踏み込まれた道があるとは、先回の逆ルートの荒れ具合からして予想できず、外れた予想が誠に嬉しい。

沢筋右岸を進む;11時16分(標高540m)
よく踏み込まれほぼフラットな鞍部の道をゆるやかに下る。途中、龍馬をイメージしたような「土佐街道」の標識を見遣り、木に括られた赤いリボンに出合う辺りで南北を550m等高線で囲まれた鞍部を離れ、550m等高線まで切り込まれた沢筋上流端の右岸を540m等高線に沿って巻きながら進むことになる。 道から沢が見えるわけではないが、地図では沢筋との比高差は10mほどあるように思える。

鶏石;11時19分(標高540m)
沢筋右岸を数分進むと赤いリボンの道標があり、その先に大きな岩がみえてくる。「鶏岩」と書かれた標識が木に括られていた。由来などの説明はない。「鶏岩」を越えた土佐北街道は沢筋に向かって下ることになる。道はそれほど荒れてはいない。

沢筋に下り左岸に渡る;11時26分(標高500m)
沢筋へと、5分ほどかけて30mほど下ると右手に荒れた倒木地帯が見えてくる(11時25分)。周りは藪に覆われている。先回の撤退地点に近づいたようだ。
道はその先でささやかな沢を左岸に渡る、両岸には赤のリボンが木に括られたおり、沢を越えて先に進む。

先回撤退地点;11時31分
道が続いて欲しい、との思いは直ぐに消える。沢を越えてすぐ藪や倒木で道が完全に消えている。倒木で荒れた辺りに道が続いていたのだろうが、仕方なし。GPSを頼りに先回撤退地点まで藪漕ぎ、そしていくつもの倒木を乗り越え進むのみ。
藪漕ぎ・倒木乗り越え・倒木潜りではあるが、今回はターゲットポイントがはっきりしているため気持が楽である。先回はどちらに向かえば土佐北街道に出合えるかもわからないため撤退したが、今回は先回の撤退地点までは土佐北街道をトレースしているわけであり、力任せの藪漕ぎではあるが、先の見通しがついており、安心して進むことができた。
どこをどう進んだか、通りやすい箇所を進んだわけであり、このトラックログが土佐北街道とは思わないが、5分ほどで先回撤退した倒木に到着した。

参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;11時40分(標高480m)
一応道は繋げた。いくつかの倒木の中で最も北にある倒木の北側には赤いリボンも木に括られており、この倒木まではオンコースとは思うのだが、ちょっと気になることがある。 先回この倒木で道が塞がれ、どこかにルートがあるものかと彷徨ったとき、倒木から少し戻った龍馬のイラストのある大岩の辺りから沢を右岸に進む方向にも赤だったか青だったか、ともあれリボンが木に括られていた。リボンの先にも大岩があるのだが、その先も荒れておりリボンもなく雨の中進む気力もなく元に戻った。今回も、なんとなく気になり再度チェック。結局道は見付からなかった。倒木へのルートが北街道のオンコースであるのだろ、と納得。

権若峠から穴内下山口まで

ルート繋ぎ地点から下山口まで

当時はこの地で土佐北街道のルートを繋ぎ終えたとし、ピストンで車デポ地に戻ったのだが、以下、下山口までを先回のメモの時刻を逆転し編集しなおして掲載する。なお、時刻は下山口から先回撤退地点まで実質20分もあったかどうか、といったものであり想定時刻は省略する。

以下は先回のメモの再掲。登山口から撤退地点まで20分程度でもあり、想定時刻は省略する。メモは時刻を逆転し編集し直し掲載する。

「参勤交代北山道」の標識
沢の左岸(というほどの沢でもないく、この辺りから水も消えるが)道を下ると「参勤交代 北山道」と書かれたプレートが木に巻き付けられている。その傍には赤と青のリボンもある。踏み跡らしき道を数分くだると次の標識に出合う。


参勤交代北山道の標識
杉に巻かれた赤いリボンとともに「参勤交代 北山道」の標識。杉の伐採地帯に入り踏み跡などはわからない。それらしき道を進むと杉に巻かれた青色のリボンがある、それを目安に道を下る。とはいうものの、道が消えているだけで、林道が目に入るわけでどちらにせよ、下山の心配はない。

登山口・参勤交代北山道の標識
荒れた杉林の伐採地を数分下り、水はながれてはいないが掘り込まれた沢筋に沿って下ると登山口・参勤交代北山道の標識のある下山口に着く。

これで土佐北街道の峠はすべてクリアした。後日、峠間を繋ぐ里道を辿り、土佐の城下町から愛媛の川之江まで続く土佐北街道を繋いでみようと思う。
土佐北街道国見越えの2回目。初回は香美市土佐山田町の穴内から国見峠を越え、杖ヶ森の巻道にある下山ルート標識まで辿った。特に下山ルート標識と書いてあるわけでも、吉延の文字があるわけでもないが、それまで比較的平坦であった巻道から沢に向かって下って行く分岐点であるため、長岡郡本山町吉延へと下る下山ルート標識と記したわけである。

当日は高知道を大豊ICで下り、吉野川に沿って県道439号を長岡郡本山町本山まで進み、樫ノ川が吉野川に注ぐ手前で県道267号に乗り換え、樫ノ川に沿って本山町吉延に。そこからは地図に描かれた杖ヶ森から吉延に下りる登山道らしき「実線」を成り行きで進めるところまで詰めることにした。
吉延からしばし舗装された道を進み、舗装が切れるあたりに「国見山登山口」の標識があった。その傍には「参勤交代道」の標識もあり、そこが参勤交代道の下山口であろうと車をデポし、杖ヶ森の巻道にある吉延下山口ルート標識を繋ぎピストンでデポ地に戻った。歩く前は、遍路道用語にある「順打ち」の3倍困難とされる「逆打ち」で進むわけであり、少々難儀なことになろうかと思っていたのだが、標識がしっかり整備されており道迷いは杞憂に終わった。誠に有難かった。
ルートメモは説明の便宜上、ピストン復路の所用時間・時刻を参考に、先回の吉延下山ルート標識地点に到着した時刻に続けるかたちで記載する。



本日のルート;吉延への下山ルート標識>沢を左に逸れて木の桟道に>トラロープのある急坂>参勤交代道標識>参勤交代道標識>左手の山道に入る>林道交差・参勤交代道標識>作業道(林道)に出る>水の本>林道交差・参勤交代道標識>参勤交代北山道標識>林道に出る;標識に従いすぐ山道に入る>「参勤交代道 右の谷へ」の案内>最初の開閉フェンス>2番目の開閉フェンス>参勤交代道標識1>参勤交代道標識>3番目の開閉フェンスと土佐北街道標識>作業道を逸れて右に下りる>4番目の開閉フェンス>5番目の開閉フェンス>6番目の開閉フェンス>7番目の開閉フェンス>車デポ地


杖ヶ森の下山ルート標識から開閉フェンス部まで

吉延への下山ルート標識;13時44分(標高960m)
「参勤交代道」と書かれた標識から沢に向かって下りてゆく。特段、「下山ルート標識」と記されているわけではないが、杖ヶ森を巻くしっかりした道を逸れて沢筋に下るため、下山ルート標識とメモした。
最初はしっかりと踏み込また道であるが、沢筋に近づくにつれちょっと荒れてくる。

沢を左に逸れて木の桟道に;14時(標高940m)
15分ほど下りた辺りで沢から逸れて山道に乗り換える。目印は左手に見える木の桟道とロープ。この乗り換え地点が少し分かりにくい。往路で辿ったにも関わらず、復路では沢を先へと下ってしまい、何となくおかしいと引き返すことになった。ちょっと注意が必要。

トラロープのある急坂;14時3分(標高930m)
木の桟道を進み数分歩くと少し急な斜面が現れる。荒れた斜面にはトラロープが張られている。トラロープを張るほどの危険な箇所ではない。



参勤交代道標識11; 14時8分(標高910m)
小振りな倒木が「敷かれた」山道を5分ほど進むと比較的広い道に出る。交差箇所には標識があり、下りてきた道と作業道を左に進む方向が指される。標識に従い左に折れて道を進む。ここまではおおよそ「国土地理院地図(新版)」に描かれた「破線」上を進んできたようだ。
なお、標識名は行政区が本山町に入ると、土佐北街道を「参勤交代道」と記してあるので以下も標識名を「参勤交代道」とメモする。

参勤交代道標識12; 15時2分(標高900m)
比較的広い作業道を500m等高線に沿って道を4分ほど進むと、T字路分岐点に当たる。コーナーには、土佐街道を示す坂本龍馬のイラストが括られた標識が立つ。標識に従い右に折れる。
なお、交差箇所を左に折れる道は地図に破線で描かれており、吉延下山ルート標識のあった箇所と繋がっている。沢を下りてきた参勤交代道の一筋西のルートでる。

林道を逸れ左手の山道に入る;15時8分(標高890m)
林道を数分進むと、林道左手に逸れる細い道があり小枝に赤いリボンが架っている。土佐街道の標識はないのだが、何となく気になり林道を逸れて左手に入る。倒木も多く、少し荒れた道を数分進むと、林道に出る。

林道と交差・参勤交代道標識13;15時12分(標高870m)
林道との交差箇所には「参勤交代道」と書かれた標識が立ち、林道を越えて下に進む方向を示す。地図を見ると林道は龍馬のイラストのある箇所へと繋がっている。左に逸れた山道は尾根に沿って迂回する林道をショートカットしていた。

作業道(林道)に出る;15時20分(標高820m)
指示に従い林道を越え、これも少し荒れた道を下る。木に括られた黄色や青のリボンを目安に、小さめの作業道を越えて少し下ると、おおよそ10分ほどで比較的しっかりした作業道(林道)に出る。

水の本;15時35分(標高790m)
作業道(林道)に出ると、特に標識もリボンもないのだが、林道を越えて下る踏まれた道があり、そこを下る。結構荒れた道を10分ほど下ると「水の本」の標識。昔は冷水が湧きでており旅人の喉を潤したとのことだが、現在はその名残は何もない。大きく抉られ、荒れた沢筋といったものであった。
「水の本」の標識には「国見の石垣まで約50分」「新道のヒララまで約35分」との案内もある。国見の石垣は通って来たのでわかるのだが、「新道のヒララ」は不詳。「新道のヒララ」の方向は下り方向を指している。

林道と交差・参勤交代道標識14;15時40分(標高750m)
水の本から先も荒れた道を5分ほど下ると比較的大きな作業道(林道)に出る。林道を交差するように両方向を示す「参勤交代道」の木標が立つ。




参勤交代北山道標識15;15時45分(標高750m)
T字路となった林道を標識に従い北に進むと、道を進むと右手に「歴史の道 参勤交代北山道」の標識が立つ。道はこの標識から林道を離れ山道を下りる。



林道に出る;標識に従いすぐ山道に入る;15時50分(標高720m)
「歴史の道 参勤交代北山道」の標識から、落ち着いた山道を数分下ると、「歴史の道 参勤交代北山道」の標識から逸れた林道に合流する。林道に合流した土佐北街道は、合流部の直ぐ先の林道曲がり角に立つ「参勤交代道」の標識に従い、林道を逸れて山道に入る。

「参勤交代道 右の谷へ」の案内;15時55分(標高690m)
雨が降れば沢筋となるような、少し掘割状となった道を5分ほど下ると立木に「参勤交代道 右の谷へ」と書かれた板が括られている。「右の谷」とは今下って来た谷筋であり、この道筋が土佐北街道であることを確認するだけだが、下から延びてきた谷筋がここで二手に分かれており、吉延の里から国見峠方面に上る時には役立つ標識だ。


開閉フェンス部ルート詳細


最初の開閉フェンス1;16時5分(標高640m)
右手に獣侵入防止のフェンス、左手は掘り割られた沢筋の間の道を10分ほど下り、少し沢筋が荒れた先で作業道に出る。作業道は右方向へと続いているが、土佐北街道は合流部正面にあるフェンスを抜けて下ることになる。フェンスの中には「参勤交代道」の標識が立つ。フェンスを閉じるチェーンを外し、中に入るとチェーンを元に戻して先に進む。

2番目の開閉フェンス2;16時8分(標高620m)
最初のフェンスから数分、20m弱下ると再びフェンスで道が塞がれる。フェンスの先には広い作業道が見える。チェーンを外し作業道に出る。
このフェンスには「参勤交代道」と書かれた小さな板が括られ、吉延の里から国見峠方面への土佐北街道を案内している。実のところ、余りに小さい板であり往路ではこのフェンスを入るのがオンコースとわからす、作業道を右手へと進み、何となく成り行きで2番目のフェンスに出た。下りは問題ないが、吉延の里から国見峠方面に上る方は、ここが要注意ポイント。

参勤交代道標識16; 16時14分(標高620m)
フェンスの開け閉めに少し時間がかかり、表記時刻は数分立っているが、フェンスの直ぐ先に「参勤交代道」の標識があり、作業道から逸れて山道を真っ直ぐ下りる。



参勤交代道標識17; 16時17分(標高600m)
道を数分下ると、下が開け作業道とビニールハウスが見えてくる。作業道脇の山側に「参勤交代道」の標識が立つ。標識に従い左に折れて作業道を進む。



3番目の開閉フェンスと参勤交代道標識;14時20分(標高600m)
道を少し進むと開閉フェンスがある。このフェンスはビニールハウスの農家の便宜の為か開かれていた。フェンスの先には「歴史の道 土佐街道」とか、「参勤交代道」と「新道のヒララへ」の標識がある。
「新道のヒララ」は作業道を上る方向を指す。前述「水の本」に「新道のヒララへ約35分」とあったが、最初の開閉フェンスがあった辺りが水の本からおおよそ30分ほど。往路で二番目のフェンスの街道案内を見落としビニールハウスに沿った作業道を進むと棚田などもあり、里の気配がした。根拠はないが、この辺りが「新道のヒララ」なのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

作業道を逸れて右に下りる;16時23分(標高580m)
作業道を逸れる箇所
下りたところ
作業道を数分進み、道が左手に折れるところで作業道を逸れて坂を下りる踏まれた道がある。土佐街道はここで作業道から逸れて坂を下りる。標識も何もなく間違いやすいので注意が必要。
この道筋が土佐街道とわかったのは、吉延の里から国見へ向かう往路の標識に沿って進みこの地に出たからである。ピストン往復の賜物ではあった。

4番目の開閉フェンス2;16時23分(標高580m)
街道は作業道から下りて直ぐ右手にある開閉フェンスを開けて進むことになる。作業道を下りた道は左手に続いているので注意が必要。開閉フェンスの先は背丈より高いブッシュの中を進むことになる。

5番目の開閉フェンス3;16時27分(標高550m)
道を数分歩きブッシュも落ち着いた頃、5番目の開閉フェンスが現れる。フェンスを開け閉めし、一瞬作業道に出ると、文字はほとんど読めないが土佐街道の標識も立つ。



6番目の開閉フェンス4;16時29分(標高550m)
作業道を数分下り、作業道がふたつに分岐する箇所に6番目の開閉フェンスがある。ブッシュの道を進むと道の左手に田圃が見える。田圃をグルリと迂回して進む。



7番目の開閉フェンスB;16時33分 (標高530m)
道を進むこと数分、7番目の開閉フェンスが現れる。これが最後の開閉フェンスである。開閉は復路であり馴れたものであったが、往路で最初に開閉フェンスに出合った時は、開き方がよくわからずちょっと戸惑った。フェンスの先に右手に進む作業道があるが、この道は六番目の開閉フェンスに繋がっている。

車デポ地;17時(標高500m)
開閉フェンスの先の作業道を右に折れ、7分ほど進むとT字路に出る。T字路手前右角には「国見山」と書かれた標識。T字路突き当たり箇所には上り・下りの「参勤交代道」を指す標識が草に覆われて立っている。杖ヶ森の巻道にあった吉延への下山ルート標識からおおよそ3時間で下りた。当日の実際行動時間は9時57分にこの車デポ地を出発、15時3分にデポ地に戻った。おおよそ6時間のピストン行であった。

初日の上り3時間半、下り3時間として、国見越えには6時半ほどの時間がかかった。当初は土佐北街道の峠越えはこれで終わりとは思っていたのだが、国見越え南に権若(こんやく)峠があることがわかった。この峠を越えれば土佐北街道の峠越えはすべてクリアとなる。ということで、次回は権若峠越えに向かう。


国見越え



高知との県境からはじめ香川県境まで、愛媛の遍路道繋ぎの旅を終え、さて次は。繋ぎ旅の続きというわけでもないのだが、土佐北街道の峠越えをすることにした。
古代の太政官道、藩政時代の土佐藩主の参勤交代の道ともなった土佐北街道は土佐から愛媛の川之江を結ぶ。土佐北街道は愛媛県四国中央市の新宮から法皇山脈を越えて旧川之江市(現在の四国中央市)に至る横峰越え、高知県長岡郡大豊市立川から笹ヶ峰(標高1016m)を越え四国中央市の馬立に下る笹ヶ峰越えのふたつの峠越えは既に歩いている。 その道筋に峠はないものかとチェックすると笹ヶ峰越えの南に、標高1089mの国見山を越える国見越え、その南に標高592mの権若峠越えがある。とりあえずこのふたつの峠を越え、その後で里道を繋ごうと思う。
今回は国見越え。地図をみると上り口から峠、また峠から里までも共におおよそ6キロ。単独車行のためピストン折り返しを考えれば、共に6時間ほどみておくのが無難。ということで2回に分けて歩くことにした。
基本、標識は上りは分かりやすいが、逆方向は遍路の逆打ちではないけれど結構標識チェックが難しいだろうと覚悟していたのだが、長岡郡本山町から国見峠までの「逆打ち道」は標識がしっかりして安心して上ることができた。感謝。
それはともあれ、国見越えの第一回は穴内の登山口からはじめ、国見峠を越えて杖ヶ森の巻道にある吉延の里への下山ルート標識までメモする、

本日のルート;繁藤で国道32号から県道268号に乗り換え>国見登山口>作業道に出る>作業道から土径に入る>駕篭すり石>沢筋から作業道に>フェンス部・土佐北街道標識>フェンスに沿って作業道に>フェンス部の北端部上側の作業道を進む>土佐北街道標識>作業道に出る>作業道を交差>嫁ケ岩・姑ケ岩>山目野分岐>送電線鉄塔>林道が作業道と交差>おけいの岩>「旧参勤交代北山越え」標識>国見山分岐>国見の石垣>杖ヶ森を巻いて進む>吉延への土佐北街道下山ルート標識

繁藤で国道32号から県道268号に乗り換え
国見越えの上り口をチェックすると高知県香美市土佐山田町上穴内(あなない)、穴内川ダム北沿いの道にある。月例帰省の田舎である愛媛県新居浜市から高速を使えば2時間弱で行けそうだ。午前8時過ぎに出発し、松山道・高知道を進み高知道大豊インターで下車。国道32号に乗り換え吉野川水系穴内川に沿って南に下り土佐山田市繁藤に。繁藤橋に架かる繁藤橋手前で県道268号に乗り換え登山口に向かう。
繁藤堰堤
国道32号を進み高知自動車道の高架を潜った先に吉野川水系穴内川を堰止めた繁藤堰堤がある。上流にある穴内川ダムと一体のものであり、穴内川ダム湖を上池、この堰堤を下池とも呼ぶ。日中は穴内川ダム湖から水を落とし穴内川発電所で発電し、夜間は堰堤に貯めた水を穴内川ダム湖に揚水し再利用している、と。
それより気になったのは、堰堤右岸から伸びる破線。分水界を越えて太平洋に注ぐ国分川支流の新改川まで延びている。チェックすると、水量の乏しい新改川へ穴内川の水を導水する甫喜峰(ほきがみね)疏水路と称されるものであった。構想は野中兼山に拠るが、計画が実施されたのは明治になってから、という。水は高知県初の水力発電所にも供された。
この疏水は更に南に延び山田用水となって山田、鏡野まで続くとのこと。そのうち歩いてみたいものだ。

国見登山口;10時20分
県道268号を穴内川に沿って進むと穴内川ダム堤が見えてくる。穴内川貯水池と称されるダム湖の北の道に沿って進み、山目野橋を渡りしばし車を走らすと、右に切れ上がる簡易舗装の作業道の先に「参勤交代北山道 国見峠登り口」の木標が見える。国見峠まで5015mとあった。この地の南にある権若峠からの土佐北街道はダム湖に埋もれている。ダム湖が干あがれば、旧穴内村にあった「穴内送り番所」、国見山への取り付き口であった「堂の本地蔵」などが現れるとのことである。
穴内川ダム
吉野川総合開発計画の一環として当初多目的ダムとして構想された。しかしながら、吉野川の水を巡る徳島県と他県との利害調整が難航したため、四国電力が水力発電単独の事業として着手し、昭和36年(1961)着工、昭和38年(1963)完成した。
通常発電専用のダムではあるが、徳島県との協定により緊急渇水時用に一定量の水をプールしており、平成17年(2005)の大渇水期に一度だけ放水を行っている。
吉野川の水を巡る徳島県と他県の争い
詳しくはこちらのページを参照してほしいが、争点を端的に言えば吉野川の水による恩恵を受けること無く、逆に水害に見舞われる徳島県と、吉野川による水害被害の心配もなく、分水による恩恵だけを受ける他県との利害関係と言える。
吉野川の下流域は川床が低く水利に利用できず、四国山中の大雨による鉄砲水の被害を受ける徳島県と、水の乏しい愛媛や香川に分水し、かつ徳島への利水を勘案したものが??野川総合開発計画である。

作業道に出る;10時22分
遍路杖が用意されている登山口から国見越えに向かう。アプローチ部は整備された土径であるが、すぐに倒木で塞がれた荒れた道となる。それも数分で作業道に出る。登山口手前に見た簡易舗装の道である。

作業道から土径に入る;10時23分
作業道に出た遍路道はすぐ先で再び土径に入る。標識は無く、作業道の左手、作業道から逸れて左に上る細い土径にある木に吊られた赤いリボンが目安。当日は少々不安であったが、この道がオンコース。

駕篭すり石;10時25分
シダに覆われた土径を2分弱進むと沢筋に近づく。沢筋の少し落ち着いた遍路道には、道を塞ぐ大岩がある。「駕篭すり石」と称されるようだ。参勤交代の土佐のお殿様の乗った駕篭の底を擦った岩と伝わる。中央部が気持ち削り取られているのは駕篭の底を擦らないようにとの配慮だろうか。

沢筋から作業道に
地図にはないのだが、道は沢筋を進み一筋の細流となった沢を越える。沢を越えた先は再び藪となり、成り行きで進むと空が開けた辺りで右手の先に大岩が見える。道はその辺りから左に折れる。背丈ほど伸びた草を踏みしだき、それらしき「道」を先に進むと作業道に出る。
注意;往路では気が付かなかったのだが、作業道に出る藪の途中で沢に架かる木橋を渡っていたことが復路で分かった。背丈まで延びた草で足元が見えなかったのだろう。ピストン復路で作業道から藪道に入ろうにも左右が沢となっており、右往左往した末に沢に架かる木橋(?)らしき通り道を見付けた。ピストンの賜物。ちょっと注意が必要。
上りはブッシュから作業道に出るので問題ないが、下りの場合作業道からブッシュに入ることになるが、ブッシュに隠れた木橋を渡るには足元を注意して進む必要がある。

フェンス部に;10時31分(標高500m)
作業道に出た右手はフェンスに囲まれ厳重に施錠されている。その中は巨大な岩が点在してはいるが、その他特に何もあるように見えない。伐採地であればフェンスの理由もよくわからない。土砂崩れによる空白地帯なのだろうか。衛星写真でも、この部分だけが不自然にぽっかりと崩壊している。
フェンス部から作業道は左の山に向かうが、これも衛星写真でチェックすると、登山口近くからの作業道が、このフェンス部を経て北西へと山に上っているように見える。この作業道は土佐北街道ではない。

土佐北街道標識1;10時32分
さて、作業道に出たのはいいのだが、土佐北街道は?と、フェンス手前のブッシュの中に傾き、朽ちかけた木標があり、文字も消えかけているが「土佐北街道標識」のようだ。ここでやっとオンコースであることが確認できた。

フェンスに沿ってフェンス北東端の作業道に;10時35分
フェンスに沿って上ること2分強。フェンスの北西端辺りに出た。右手はここも厳重に施錠されており、フェンス部から北に廻り込むように作業道がある。


フェンス部の北端部上側の作業道を進む;10時40分
フェンス部を囲む作業道を進むと、作業小屋の傍から作業道から分かれ左に入る土径がある。何となく遍路道のように思えちょっと進むが、どうも違うよう。作業道が遍路道とも思えないのだが、とりあえず先に進む。フェンス部北部上からの穴内川ダム湖の景色がなかなか、いい。

土佐北街道標識;10時55分(標高530m)
この作業道が土佐街道?などと思いながらフェンス北端部を進むと、フェンス部北西端あたりで作業道が切れ、左に折れるブッシュ道となる。思うに、元の土佐北街道はフェンスに囲まれた崩壊地か伐採地を通り、ブッシュ道の辺りに続いていたのだろう。
登山口からアプローチ部の詳細ルート
背丈ほどある草道を少し進むと草に埋もれるように「土佐北街道」の標識があった。メモではフェンス部から標識まで15分となっているが、途中遍路道らしき道を探したり、穴内川ダム湖を眺めたりしたりであり、実際はもっと短時間で標識まで行けるだろう。 注意;標識のある箇所からの道は少しわかりにくい。左右に道があるが右に進むのがオンコース。上りのときは標識に従い問題なかったが、ピストン復路で標識から右へと進んでしまい、途中で何となく気づき元に戻った。逆道ではちょっと注意が必要。

作業道に出る;11時3分(標高580m)
遍路道は標識から右に進み、南東に突き出た尾根筋を上ることになる。8分ほどで高度を50mほど上げると作業道に出る。
注意;この作業道合流箇所も、上りはブッシュから作業道に出るので問題ないが、ピストン復路で作業道からブッシュへの下り口部で少し戸惑った。GPSでログはとっていても戸惑うほどのブッシュであり、逆道を下りてこられる方は少し難儀しそう。下りで作業道に出合った箇所から、ほんの少し右をブッシュの中へと入り込めばいい。

作業道;11時10分(標高595m)
作業道を交差し尾根を上る道を7分ほど進むと作業道に出る。地図には記載されていな作業道が多い。標識は無いが、赤いリボンを目安に作業道から山道に入る。


嫁ケ岩・姑ケ岩;11時15分(標高620m)
作業道から5分ほど進むと大きくオーバーハングした巨大な岩と出合う。「嫁ケ岩、姑ケ岩」と呼ばれているようだ。その昔、道中で喧嘩となった嫁と姑。泣きながら大岩に逃げ、追いかけてくる姑から逃げるべく傘を開いて大岩から飛び降りる。後を追った姑も傘を開いて飛びおりようとしたが、傘は開くことはなかった、と。言わんとすることが、いまひとつわからないが、ともあれ巨大な一枚岩である。

山目野分岐;11時42分(標高750m)
大岩から30分弱、高度を130mほど上げると尾根筋が開け平場となる。頭上には送電線が走っている。この地は送電線鉄塔巡視路との合流点。穴内川ダムに沿って国見山登山口に向かう途中ダム湖に架かる山目野橋を渡ったが、鉄塔巡視路はこの橋の少し西からこの地に延びている。地図に破線で描かれている。また、この地は北から延びてきた林道の終点でもある。

送電線鉄塔;11時48分(標高770m)
林道を少し北に進むと、林道から逸れ左に入るリボンがある。左に折れ少し進むと送電線鉄塔が立っていた。鉄塔のあるピークから下るとピークを巻く林道に出た。








林道が作業道と交差:11時58分(標高760m)
等高線の間隔の広い平坦な尾根道を進むと林道は作業道と交差。赤いリボンを目安に尾根筋の道に入る。
尾根筋を進む道は作業道と交差し、馬の背を越え、等高線を垂直に50mほど上ぼり、その先で910mピークを巻き30分ほどで高度を150mほど上げる。

おけいの岩;12時25分(標高910m)
910mピークから尾根筋を進むが、ちょっと尾根を巻き気味のところに大岩がある。「おけいの岩」と呼ばれる大岩のようだ。その昔、古田村(本山町古田)に住む「おけい」さんと呼ばれる女性がいたそうだ。男勝りの「おけい」さん、夜道を国見越え。が、大岩の窪みで火を焚き雨に濡れた身体を乾かし髪をとかす。と、その時通りかかった飛脚がその姿を見て物の怪と。逃げる飛脚を「物の怪とは違う」とおけいさんが追っかけた、とか。この話も何が言いたいのかよくわからない。

「旧参勤交代北山越え」標識;12時59分(標高1030m)
おけいの岩を越すと、道は尾根筋を進むことになる。標高930mから950mの比較的平坦な尾根道を進むと標高980m地点辺りで道は尾根を巻く「破線」から逸れ、尾根筋を進み高度を50mほどあげる。
登山道と思っていた地図上の「破線」から逸れるので、ちょっと心配にはなったのだが、標高1030m辺りからは等高線に沿って平坦な道を進み、背が低くなった木々の間を進むと平場に出た。そこには「旧参勤交代北山越え」の木標と「国見越え 殿様道」の案内があった。
●「国見越え 殿様道」
「国見越えの道は"北山通り"とも言われた参勤交代の道でもあった。この北山越え参勤交代の順路は高知―布師田(ぬのしだ)―領石―穴内―本山―川口―立川番所から伊予馬立に達している。
その中で南嶺の穴内川に沿う「穴内」は、国見越えの拠点であると同時に、西方を通る赤荒越えの入り口ともなっていた。
この穴内には藩政時代に番所が置かれ、穴内―本山の往還は険路で非能率であったにも関わらず、荷役の送夫が多く利用されていた。これは本山が北嶺地方の中心地であり、かつ藩主の止宿地であったからである。
また、九代藩主豊 雍(とよちか)公が国見峠より海を見て、"山幾重越えつつ見れば土佐の海や 千里の波も霞む長閑さ"と詠まれていることから、土佐湾もはるかに見えて眺めは素晴らしい。 平成7年 高知県」

標識が整備されてきた

標識から先は木々に覆われトンネル状になった比較的広い道を少し下り気味に進む。道に沿って掘割の道もあり、そこにも道標がある。チェックすると、来た方向に「参勤交代道へ」、逆方向に「赤荒峠 国見山登山口へ」とある。「参勤交代道」はいいとして、真逆にある「赤荒峠」と「国見山登山口」が同方向に指されている。少し下ったところで赤荒峠からの道が左から合流しているようだ。国見山登山口はその先にある。
道筋には「参勤交代道 本山方面」「参勤交代道香美方面」とか「歴史の道 参勤交代 北山道」といった標識が並ぶ。行政区が峠を境に土佐山田町(現在香美市)から長岡郡本山町に変わったためだろうか、標識が整備されているように思える。ちょっと安心。また、呼称も「参勤交代道」とされているようだ。

国見山分岐;13時10分(標高1010m)
標識がいくつも並ぶ道筋を20mほど高度を下げると国見峠への分岐点に。当日はピストン往復のため国見山はパス。道の左手に立つ「歴史の道 参勤交代北山道」や先ほど見た「国見越え 殿様道」の案内の立つ箇所から林道を離れ左手、杖ヶ森方面に向かって山道に入る。地図では林道は分岐手前で切れているが、杖ヶ森分岐辺りまで繋がっていた。

当初の予定では国見峠か国見山分岐点でピストン折り返しの予定であったが、明日本山方面の里から上り、本日の最終地点と道を繋ぐ予定であり、繋ぎ地点となる、わかりやすい下山ルート地点まで進むことにした。道が消えても、目標として上る地点を確認するためである。

国見の石垣;13時33分(標高950m)
分岐点から尾根筋を進み、少し荒れた急坂を下り高度を60mほど下げると馬の背となった箇所があり、「国見の石垣」の案内がある。「国見峠まで約30分 水の本まで約50分」とある。
国見の石垣って?特に組まれた石垣があるようにも見えない。チェックすると、西の杖ヶ森との鞍部を20mほど土石を積み上げ、上り下りを緩やかにした道を指すようである。工事は江戸中期に行われたようである。

杖ヶ森を巻いて進む;13時39分(標高960m)
国見の石垣から先は960m等高線に沿って杖ヶ森(標高1019m)を巻くように、比較的広く平坦な道を進む。東に突き出た尾根筋箇所はリボンの指示に従いちょっと狭い道に入るが、尾根筋をショートカットすると直ぐに元の道に戻る。

吉延への土佐北街道下山ルート標識;13時44分(標高960m)
ショートカットして戻った道に「参勤交代道」の木標が立つ。沢に向かって下ってゆくようだ。ここが長岡郡本山町吉延への下山ルート地点であろう。明日途中で道が消えた場合の目標となる箇所もこれで確認でき、往路はここで終了。往路は3時間半弱。ピストンでのデポ地戻りが16時47分。復路3時間。計6時間半ほどの散歩となった。
南予の山越え・峠越えの遍路道、松尾峠と柏坂の間を繋ぎ、柏坂を下りた里から宇和島へと向かう遍路歩きの2日目。
初日は予土国境・松尾峠を越えて下りた里、小山の集落から愛媛県愛南町を進み40番札所・観自在寺を打ち終えて柏坂上り口までを繋いだ。二日目は柏坂を下りた里である宇和島市津島町上畑地から宇和島市街へと進む。津島町から宇和島市街の間には松尾峠(予土国境の松尾峠と同名)があり、常の如く単独・車行のため峠ピストンに時間がかかり、結局、宇和島市街入り口で時間切れとなった。



本日のルート
大門から岩松へ
大門バス停>薬師堂>内田の観音堂>オサカの鼻の地蔵堂>芳原の延命地蔵・芳原庵寺
岩松の町
臨江寺>旧小西家跡>獅子文六記念碑
岩松から上谷へ
岩松橋>保木から熱田に>下谷から松尾峠取り付口に>遍路道案内
松尾峠越え
松尾峠への取り付き口から松尾峠□
遍路小屋;午前9時4分>旧道との交差箇所の道標:9時20分>峠の切通し;9時31分
□松尾峠から旧国道との合流点に
清掃センター脇に出る;9時46分>旧国道と合流;9時56分
旧国道合流点から柿ノ木の庚申堂まで□
旧国道から土径の遍路道に>県道46号に出る>柴折堂>県道46号から土径の遍路道に入る>柿ノ木の庚申堂
デポ地へのピストン折り返し
松尾隧道>旧道分岐点>車デポ地に
柿ノ木から佐伯番所跡へ
柿ノ木庚申堂から千歳橋へ
旧国道と国道56号の合流点へ>国道56号・千歳橋へ
千歳橋から普達橋へ□
薬師川手前に3体の石仏
薬師川から佐伯番所まで
赤土鼻の茂平道標>並松街道>馬目木大師堂>佐伯の町番所跡


大門から岩松へ

「えひめの記憶」には、「灘道は、津島町上畑地(かみはたじ)の大門で再び国道56号を横切り、旧上畑地村の旧庄屋屋敷や禅蔵寺薬師堂を左に見て、高岡橋から山沿いに芳原川左岸を北上する。小祝から芳原にかけては「梅三里」といわれ、かつて梅の並木があったというが今はその面影はない。
鴨田橋より山沿いを西に進み、下畑地(しもはたじ)内田の観音堂の右側を通り、芳原川に架かる金剛橋に至る。ここから道は、国道を横切り山裾(すそ)を北上しオサカの鼻の地蔵堂を経て、再び東の山際(ぎわ)を芳原庵寺や延命地蔵の芳原に向かい、さらに北進して岩松に至る」とある。

大門バス停
先般の柏越えの車デポ地であり、また旧内海町柏から柏越えをして戻ってきた上畑地の大門バス停が今回のスタート地点。国道56号の西、山裾の遍路道を進む。

薬師堂
大門バス停からの国道56号の西、山裾に沿って続く遍路道を入ったところを直ぐ山側に入ると薬師堂がある。このお堂は先回の散歩の締めにお参りしたのだが、便宜上再掲;
茅葺お堂の案内には「愛媛県指定有形文化財 禅蔵寺薬師堂一棟
この建物は方三間(間口)、5.61メートル、一重、方形造、茅葺である。創建は室町時代末期とされ、その様式を残して江戸中期に再建されている。
外部は素朴な草庵風の日本の伝統的民家様式で、構造および内部1は唐様である。特に花頭窓は禅宗様の古い形のものである。
建築年代は板札によると、天正年間(1573-91)とあるが、寺の伝説によると、天文年間(1540)ごろ、畑地鶴ケ森城の鶴御前のため、津島城主越智通考が祈願所として建立したと伝えられる。
平成2年、向背、花頭窓、内陣そのままに解体修理された」とあった。

内田の観音堂
高岡橋を右に見遣り、芳原川左岸の山裾の道を進む。途中、芳原川は保場川を合せ北へと下る。道は鴨田橋の西詰で山裾に沿って西に向かい内田の観音堂下に出る。
大瀧山観音寺。曹洞宗のお寺さま。観音堂と記されていたので小祠かと思っていたのだが、新しい本堂が建っていた。特に案内はなく、資料もみつからないのだが、本尊は観音様なのだろう、か。

オサカの鼻の地蔵堂
内田の観音堂を離れ道なりに進み芳原川に架かる金剛橋を渡る。「えひめの記憶」には「国道を横切り山裾(すそ)を北上しオサカの鼻の地蔵堂を経て」とあるが、ちょっと混乱。「オサカの鼻」の言葉に惹かれ、記事通りに進んでも地蔵堂は見当たらない。「鼻」とあるので、「突き出た」ところであろうと、金剛橋のひとつ下流の於泥橋の辺りの国道56号傍を探すが、みつからない。
で、国道左手を見ると小山がある。根拠はないのだが、国道建設時に開削された丘陵先端部?とも想い、国道を左に折れ於泥橋の東詰めに進むと、丘陵突端部に小祠がありお地蔵様が祀られていた。
ルートは正確には、金剛橋を渡り、国道を進まず、芳原川右岸に沿って進み、於泥橋東詰めから丘陵先端部を廻りこみ国道56号に進む、ということだろう。 於泥とは文字通り「泥沼」。「オサカ」の由来は不明。



芳原の延命地蔵・芳原庵寺
オサカの鼻の地蔵堂から国道56号に戻り、芳原川右岸の山裾の道を進む。芳原の集落に入ると道脇に延命地蔵。
芳原の芳原庵寺は延命地蔵のある四差路を右に折れた芳原集会所の傍にあり、小さな石仏群の右端に地蔵堂の小祠が建っていた。
耳神さま
延命地蔵に戻り、山裾の道を進み、道沿い山側に建つ耳神さまの小祠にお参りし道を進むと岩松に入る。

金剛橋から岩松への別ルート
「えひめの記憶」には、「このほかに金剛橋の手前を芳原川左岸の土手沿いに進み、オサカの鼻の地蔵堂の左側を通り、岩松へ入る道もあったという。いずれにせよ遍路道は、後背湿地の沼沢地を避け、山際や土手などの微高地を通っていた」とある。於泥の地名が示す通り、一帯は湿地帯であったのだろう。


岩松の町

「えひめの記憶」には「道は岩松代官所跡前を通って街道沿いに密集した町並みの商店街を北に進み、臨江寺の手前で左折し、旧小西家の蔵通りを北西に進み(後略)」とある。

臨江寺
記事に従い、道なりに進み、芳原川が北から下る岩松川に合わさり、北灘湾に注ぐ地にある旧津島町の中心地である岩松に入る。
記事にある岩松代官所跡はチェックしても不明のため、古き趣の町並みが残る道筋を進むと、道の右手に少し趣の異なるお寺の山門が見える。臨江寺山門である。
道脇に案内があり「江戸時代に林光寺から臨光寺に変わったといわれます。小西家の菩提寺。本堂は大正2年、山門は昭和14年の建立。山門中央上部の櫓窓が大正ロマンのつくりになっていてとても珍しいものです。
どちらも総ケヤキ造り」と。
元はは黄檗宗であったが、享保2年(1717)、臨済宗妙心寺派となったようだ。後述する本小西家及び東小西家が大檀那となり、欅普請8間4面の大本堂を建立。本尊薬師如来を安置。山門及び庫裡、位牌堂も建立された、とある、

本堂と境内の地蔵堂にお参り。池に宝船が浮かぶのは大旦那小西家が商いに使った千石船のイメージだろうか。
山門の地蔵堂と閻魔堂・大師堂
山門に戻ると、2階は鐘楼、左は延命地蔵堂、右は閻魔堂と大師堂となっていた。
案内には「えんま様と十王佛様 閻魔大王ははもとは、ヒンドゥー教の神様で、死後の世界の王様で、地蔵菩薩の化身とされています。
閻魔大王の眼は、太陽のように眩しくその声は、幾千もの雷が鳴り響くような恐ろしい声です。たいがいの死者は、閻魔大王に会うなりその恐ろしい姿に気を失うのだそうです。
その閻魔大王は、前世での生き様が記されている閻魔帳を開き恐ろしい声で、死者にその罪を読み上げていきます。
閻魔様が唐の時代の役人の服装をしているのは、仏教が中国を経由するとき、道教の影響を受けた為だと言われています。
。 また十王佛とは道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う裁判官です。 この思想によれば、人間を初めとするすべての衆生は、
没して後、七日ごとにそれぞれ
・秦広王(初七日忌、不動明王)・初江王(十四日忌、釈迦如来)
・宋帝王(三七日忌、文殊菩薩)・五官王(四七日忌、普賢菩薩)
・閻魔王(五七日忌、地蔵菩薩)・変成王(六七日忌、弥勒菩薩)
・泰山王(四十九日忌、薬師如来)追加の審理で、平等王(百ヶ日忌、観音菩薩) ・都市王(一周忌・勢至菩薩)・五道転輪王(三回忌、阿弥陀如来)となる。
この後、中国から伝わった十王信仰に江戸時代以降、日本独自の解釈で更に三仏を加えたものを「十三仏信仰」と呼び、蓮上王(七回忌、阿?如来)・抜苦王(十三回忌、大日如来)・慈恩王(三十三回忌、虚空蔵菩薩)となる。この三仏は生前の罪を裁く裁判官というよりも迷える死者を救い導く仏としての側面が強いとされる。
仏師曰く、ここに鎮座されている 左 閻魔大王と十王佛  右 弘法大師の仏像は、今から700年前の鎌倉時代(1185-1333)頃に造られた物だと考えられる。平成29年(2017)修復」とある。

説明の文の繋がりにちょっと変なところがあるが、それはともあれ、すべての衆生は没後、七日おきに七回審判を受けるとされるが、各ステップで問題なしとされると中抜けでき転生するとのこと。また通常5回目の閻魔大王が最終審判者として引導を渡すようである。
もっとも、中には7回の審判でも決まらない厄介な者もあるようだが、その場合でも7回目の審判で、とりあえず六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)のいずれかに配され、8回目から10回目は救済処置の審判として、地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちた者を救済し、修羅道・人道・天道に配された者には更なる徳をつむ処置がなされるとのことである。
我々が七日ごとに法事をおこなうのは、大王の審判に際し、生前の罪を減じる嘆願であり、また、供養の態度も審判の対象となるが故、という。

閻魔堂の閻魔様や十王佛、大師堂は新しく修復されたようで、少々可愛すぎる像となっている。但し、亡き人の経帷子をはぎ取る奪衣婆像は修復されず、古き趣の像として閻魔様の前に坐っていた。

なお、山門の左右に地蔵と閻魔が分かれて配置されているのは、閻魔さまの本地仏が地蔵菩薩であり、お地蔵さまと閻魔さまがペアとなって山門に建つのが通例故とのことである。

旧小西家跡
旧小西家の蔵通りを辿る。記事にある臨江寺手前を左折し進むが、蔵はあるが更地が多く蔵通りといった雰囲気は残っていない。岩松川まで進み、少し下流に進むと大畑旅館があり、その傍に「大畑旅館 元東小西邸。東小西時代にも、一時期「松風荘」という料理屋を経営していました。獅子文禄が小説『てんやわんや』を書いた部屋があることでも有名です。大正期の建物です」とある。 建物は新しく、最近建て変えられたように見える。
小西家
「えひめの記憶」には「第二次大戦前の岩松に君臨し、その繁栄をほしいままにしたのは、小西家であった。小西家は貞享元年(一六八四)宇和島から岩松に移住してきた酒造商であり、三代目の当主は藩主村候より苗字帯刀を許され、以後小西と名乗るようになった。寛政一〇年(一七九八)御荘村に新田開発をしたのを契機に、以後幕末に至るまで僧都川の河口と岩松川の河口に長崎新田や胼ノ江新田を相次いで開いた。また幕末には近家塩田を経営し、蝋座頭取役にも任ぜられ、宇和島藩では最も家格の高い庄屋であった。
小西家には本家小西家と、その分家の東小西家があり、岩松の町の中心部に居宅を構えていた。本家小西家は大地主であると共に酒造と製蝋を経営していた。酒造は明治中期に、製蝋も同年代ころには廃止する。
昭和初期の小作料は約六〇〇〇俵であったので、その所有地は水田二四〇町歩程度であったと推定されている。水田は津島町内のみならず、遠く南宇和郡の御荘・城辺町にも及んだ。水田以外に畑、山林、借家も多く所有し、山林は約二〇〇町歩、借家は町内に約一二〇軒所有していたという。
東小西家も大地主であると共に、明治末年まで醤油・生蝋の生産を営んでいた。明治二八年の所有地は水田四三町歩、畑五町歩、借家は三三軒、小作料は四〇〇石であった。また金融業も営み、明治以降その所有地を拡大する。昭和初期の小作料は四〇〇〇~五〇〇〇俵程度であったので、その所有地は水田一六〇~二〇〇町歩程度であったと推定される。山林は三〇〇~三五〇町歩程度、借家は一三〇軒程度所有していたという。
本家小西家と東小西家は第二次大戦後急速に没落する。その契機になったのは農地改革による小作地の解放であったが、それ以前に山林を売却したこと、東小西家では昭和二〇年、本家小西家では同二三年相次いで当主が死亡し、その相続税や財産税が多く賦課されたことも、両家の没落を早めた。本家小西家と東小西家は町の中心部に、河岸から旧国道までの間に、共に一五〇〇坪の宅地を持っていた。
国道ぞいに本宅があり、その裏に米倉や宝物倉があり、岩松川にのぞんで離れ座敷が配置されている構造は両家に共通していた。現在は共に数一〇軒の家に分割所有されているが、両小西家の本宅の大屋根、離れ座敷、東小西家の本座敷や宝物倉、醤油倉や庭園などは今日に残り、往時の繁栄の跡をしのぼせてくれる。また町内には棟割長屋式の家屋が多数残存しているが、これらはいずれも両小西家の借家の名残をとどめるものである」とある。

岩松の近世・近代
「えひめの記憶」をもとにまとめる:山地に阻まれ、物資輸送として陸上交通が機能しない時代、岩松川の河口左岸に延びる岩松は津島郷(旧津島村)の物資の集散地であり、藩政時代より船運により物資の積み出しが盛んな湊町として栄える。
藩政時代の最も重要な集散物は櫨(ハゼ;木蝋の原料)であり、明治から大正にかけては山間部で生産された木炭や杭木であり、木炭は大阪に、坑木は北九種の炭田へと海路送られた。
明治末期から昭和の初期にかけては、北灘・下灘などの宇和海沿岸の段畑地帯で養蚕業が盛んになり、そこで生産された繭の集散地となり、この地に製糸工場も誕生し、最盛期の昭和初期には4つの工場で働く女工さんの数が400名から500名にも達した。明治の末年から昭和の初期にかけてが、岩松の繁栄はその頂点に達していたとのことである。
岩松川の上流からの土砂の堆積により、大正初期には岩松の湊に大型船が停泊できなくなり、大正年間には岩松から少し西に離れた近家に港を移すなどするも、岩松は陸上交通が整備されるまでの明治・大正年間・昭和初期に至るまでは海運物資の集散地として栄えた。
この状況に変化が起きるのは、明治末年以降はじまる道路網の整備。松尾峠により隔てられていた宇和島との交通も、明治43年(1910)松尾峠に馬車道が開通、大正8年には津島郷と南宇和郡の間に鳥越トンネルが開通。大正8年(1919)には宇和島と御荘の間にバス路線も開通する。
この結果、津島郷の物資の集散地は次第に宇和島に移り、岩松の衰退がはじまることになる。
陸上での物資輸送の進展につれて、海運の町である岩松の町は次第に物資の集散地としての役割を終えることになる。
昭和30年()、近隣の6町村が合併し北宇和郡津島町が誕生し、この岩松が行政の中心地となるが、岩松の旧市街は山地と岩松川に挟まれ市街地拡張はできない。ために昭和30年以降岩松川右岸の水田を埋め立て、更には昭和38年(1963)に津島大橋が架橋されるに際し、右岸に国道バイパスが通るに至り、現在の市街地が形成されるに至る。平成17年(2005)、市町村合併で宇和島市となり。現在に至る。

獅子文六記念碑
蔵跡と共に更地も目立つ町並みを見遣りながら東小西邸跡から少し下流に下ると「てんやわんや」の案内。「てんやわんや 岩松は「てんやわんやのまち」といわれています。作家 獅子文六は、昭和二十年十二月から約二年滞在しました。
彼は小説『てんやわんや』で岩松を「相生町」と紹介し、ここに暮らす人々をおもしろおかしく描いています。

「えひめの記憶」には新橋近くの岩松川に沿う国道脇に、文六の「思いきや伊予の涯にて初硯(すずり)」の句碑が立っ、という。ちょっと寄り道。新橋を渡ると、橋の少し下流、国道と岩松川に挟まれて歌碑があった。
歌碑の脇に平成9年(1997)の銘がある石碑に説明文がある。簡単にまとめると「ペーソス溢れるユーモア小説の第一人者である獅子文六氏は、夫人の縁で戦後の2年間、当地の東小西家に寄寓。その間に見聞したことをいくつかの作品にまとめた。作品には「てんやわんや」「大番」「娘と私」、他短編、随筆などがあり、岩松の名は小説の舞台として全国的に知られることとなった。 こうした当地に対する貢献に報いるため、獅子文六氏より寄せられた句の中から選び建立した」とあった。
夫人の縁とは、最初のフランス人の妻と別れた後再婚した静子夫人が、この岩田の出身であったとのこと(碑文では見えない箇所があり、文字通りでは「たまご夫人」と読めるのだが、そんなわけはないだろうし。。。)
文六餅
ついでのことながら、臨江寺への旧岩松の町並みを進んでいると、文六餅の店があり、その店頭に「名物にうまい物あり"文六"餅」の経緯などが懸れている。興味があれば写真をご覧頂くこととして、フックが掛かったのはその横にある「我が小説 娘と私 ウソを書くもの」との赤く描かれた大文字とともに、長文の説明文。
この赤字の三題話に惹かれ説明文を読むと、小説とはウソを書くもの、ツクリゴトを書くものを身上とする文六氏が、ふとした心の迷いで『娘と私』を書き、申し訳なく、その罰は十分おもい知らされた、と。今度でつくづく懲りた。我と我がプライバシーを侵害したのだから訴訟もできない」とある。
『娘と私』は最初の婦人との間に出来た娘との日常を描いた私小説に近いものであり、ツクリゴトとは真逆のものであったわけである。このお餅屋さんが、店頭にこの文章を選んだ心持は?ともあれ三題話の謎解きが楽しめた。

岩松から上谷へ

「えひめの記憶」には、臨江寺手前で左折し旧小西家の蔵通りを北西に進んだ遍路道は、「田んぼの中(現国道56号が通っているところ)を旧高田村の保木に出て、慶応2年(1866)に付け替えられる前の岩松川を飛び石伝いに渡っていた。 伊達家の『岩松川絵図面』によると、岩松川は山麓の保木から南下して岩松小学校、JAえひめ南農協津島支所の所を大きく迂(う)回しながら海に流れ込んでいたようで、現在よりかなり西方の山際を流れていたらしい。明治44年(1911)、町の北端に岩松大橋が完成し通行は容易になった。
遍路道は岩松川を渡り、高田の保木から熱田へ進み、国道を横切り津島高校の裏側から山裾(すそ)を北へ進む。下谷を過ぎ再び国道を渡って上谷に入ると2体の石仏がある」とする。

 地図を見ると、岩松川右岸の山裾に沿って水路が走り、岩松小学校、JAえひめの山側を抜けて新橋の少し下で岩松川に注ぐ。この水路が付け替え前の岩松川の本流であったのだろうか。遍路道は湿地を避けて山裾を進んだと思うが、記事に「明治44年(1911)、町の北端に岩松大橋が完成し通行は容易になった」とある岩松大橋に向かう。

岩松橋
臨江寺から旧町並みを抜けると遍路道の案内があり、その先に岩松橋がある。平成22年(2010)竣工とある。記事にある岩松大橋とイメージが異なる。少し手前に戻り遍路道の道標手前の岩松川沿いに、「岩松大橋」の案内と「岩松橋」と記z間れた橋跡がガードレールに挟まれて残る。対岸には橋跡らしい姿も残している。
案内には「岩松大橋 大正10年頃の建築。側面にキーストン(要石)やキャピタル(柱頭)の模様があります。建設当時は欄干も鋳鉄で装飾され、中央部にはガス灯が設置してあったが、大戦中に鉄の没収により今の形となりました」とあった。新しい橋の完成とともに取り壊された。「今の形となりました」とあるので、この案内は平成22年(2010)以前のものだろう。
「えひめの記憶」には岩松大橋の完成は明治44年(1911)とあるが、はてさて。

旧市街から新しい岩松橋に出る手前に道案内がある。「松尾坂(へんろみち)」は国道筋を進むよう左折し橋を渡るが、右折方向に同じく「野井坂(へんろみち)」とある。野井坂は、満願寺で篠山道が合流した中道が、野井坂峠を越えて柿の木の庚申堂で灘道と合流する道筋である。

保木から熱田に
今回は、国道筋ではなく、かつての遍路道ではなかろうかと推測する山裾の水路に沿った道を進むことにする。遍路案内は特にないが、水路が岩松川に注ぐ辺りからJAえひめ、岩松小学校の裏手を進む。汐入という如何にも河口らしき地名を越え、保木から熱田へと抜ける。


下谷から松尾峠取り付口に
「えひめの記憶」には、熱田を越えると、国道を横切り津島高校の裏手の山裾を北に進む、とあるので、成り行きで国道56号に戻り、遠近川を渡り津島高校脇に出る。
遠近川左岸の山裾の道はほどなく国道に戻り、少々国道を進むと右に分岐し下谷の集落へと入る。下谷の集落を抜けると道は国道と交差し、遍路道は国道を越えて上谷の集落に入る。
当日は見逃したが、国道を交差し道を少し進み、Y字路を右の細路に入ると、遠近川の支流の少し手前に2体の石仏があるとのことである。地図を見ると遍路道はその支流に沿って松尾峠方面へと向かっているように見える。

遍路道案内
下谷から遍路道が国道をクロスし上谷の集落に入る道の左、ガードレールに「遍路道 このまま国道を600メートル トンネル左側に登り口あります」の案内。この案内が左に入ることなく国道を進み、上谷の2体の石仏を見逃した因でもあるのだが、「えひめの記憶」では、いまひとつ分からなかった松尾峠越えのアプローチ点がはっきりし、一安心。


松尾峠越え

国道を進み、旧国道の三差路を越え、しばらく国道に沿って歩くと新松尾トンネルがあり、その手前左手に「遍路道 宇和島松尾峠案内図」とその先に取り付き口が見えた。

松尾峠への取り付き口から松尾峠
「えひめの記憶」には、「道は旧国道(市道祝森線)松尾峠への三差路を越え、国道56号を横断し、人家付近から昭和53年(1978)に完成した新松尾トンネル(1710m)上の急峻な山道を登る」とある。「旧国道三差路を越え、国道56号を横断し、人家付近から山道を登る」との説明の「国道56号を横断し」が今ひとつよくわからないが、取り付き口に来る途中で、国道から右に分岐し松尾峠へと続く道がある。
偶々ピストンでの戻る最後の最後で、道を間違え、トンネル右手を下る道に入り込んだ。途中から戻りはしたのだが、その道は下に続いており、上述分岐点からの道とつながっているのかもしれない。
「愛媛の記憶」がいつの記事か不明だが、現在ではこの記述と異なり、トンネル左手から上ることになる。もっとも、トンネル左右からの道は直ぐにひとつになる。

遍路小屋;午前9時4分
峠への取り付き口手前の広いスペースに車をデポし松尾峠越えに。上ると直ぐに遍路小屋。落書きなのか、意図した励ましのメッセージなのか、外観は少々煩いが、中はマットレスっぽいものが敷かれ、屋根だけ、壁無しの遍路小屋に比べれば、快適な夜が過ごせそうではあった。

旧道との交差箇所の道標:9時20分
土径に入り、遠近川に注ぐ沢を越え15分ほどで高度を150mほど上げると東西に走る道に出る。「えひめの記憶」に「やがて明治41年(1908)から3年かけて完成した旧道に出るが、現在は荒れるにまかせ昔の面影はない」と記された道ではないかと思う。
旧国道の松尾隧道の竣工が昭和26年(1991)と言うから、明治44年から昭和26年までは、この旧道を往来していたのだろう。 どうでもいいことだけど、記述にある国道、旧国道、旧道、とくに旧国道と旧道が頭の中で混乱し、実際にこの「旧道」と交差するまで、遍路道は旧国道と交差するものと思い込んでいた。
それはともあれ、旧道と交差した遍路道の脇に道標と筒に入ったお地蔵さんがある。道標には、岩松、四十番札所(観自在寺)、四十番札所奥の院(篠山神社)への里程が刻まれていた。
「えひめの記憶」には「旧道と遍路道が交差する草むらの中に、昭和8年(1933)に建てられた道標がある」とするが、草は冬枯れの季節か、整備のおかげか、きれいに取り除かれていた。
道標横には、洒落っ気なのか遊び心なのか、円筒にお地蔵様が佇む。結構惹かれる。

峠の切通し;9時31分
旧道から10分、ほぼ等高線に沿った広く緩やか道を進むと切り通しに出る。こここが松尾峠。旧津島町と宇和島市の境となっている。
切通しを越えると四阿があり、休憩できる。嘗ての茶屋跡とのこと。峠の真下に松尾隧道が抜ける。

松尾峠から旧国道との合流点に
「えひめの記憶」には、「茶屋跡から左に折れてまた旧道に入り、木々の間から農免道路を左下に見ながら下る。緩やかな斜面をしばらく下って旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る。お堂のすぐ前を県道宇和島城辺線(46号)が通り、山裾(すそ)の道を約500m東進すると柿の木の庚申堂に至る。天和元年(1681)建立という古い庚申堂は、松尾坂越えの灘道と野井坂越えの中道の合流点である」と柿の木の庚申堂までの案内がある。

記事は柿の木の庚申堂まで結構あっさり書いているが、道筋は旧国道に下りた後、土径に入ったり、県道46号に入ったり、またそこから分かれて土径に入ったたりと、結構複雑。最もわかりにくかったのは、芝折堂が県道46号筋にあったことである。右往左往した結果のルートを以下メモする。

清掃センター脇に出る;9時46分
茶屋跡から路傍に立つ遍路道案内に従い左に折れる。右に進む道もあり、うっかりすると右へと行きそうではあるので気を付けて。
遍路道は竹林、掘り割りの道、杉林、名は知らないが植林ではない自然な木々の中を下る。
記事に農免道路を左下に見ながらとある。地図で確認するに、松尾隧道手前で右に折れ半島部へと向かう道に農免道路と記載されている。
15分ほどで高度を150mほど下げると、右手に宇和島市の清掃センターが見え、道は山際清掃センターの間を進む。
農免道路
正式には「農林漁業用揮発油税財源身替農道」。農業用の機械に使われた分のガソリン税を財源に、農業のために必要な道路(農道)を整備したのが農免道路である。

旧国道と合流;9時56分
右手に清掃センター、左手に採石場・工場と遍路道には似合わない景観の中を10分ほど進むと舗装道路に出る。松尾隧道を抜けてきた旧国道である。

当日は、車デポ地へのピストンの基本通り、ここから折り返し新松尾トンネル前の車デポ地に戻ったのだが、ルート説明の便宜上、柿の木の庚申堂までメモを続ける。時刻は省略し、所要時間だけを記す。

旧国道合流点から柿ノ木の庚申堂まで
「えひめの記憶」には「緩やかな斜面をしばらく下って旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る。お堂のすぐ前を県道宇和島城辺線(46号)が通り、山裾(すそ)の道を約500m東進すると柿の木の庚申堂に至る。天和元年(1681)建立という古い庚申堂は、松尾坂越えの灘道と野井坂越えの中道の合流点である」と記される

旧国道から土径の遍路道に
左手に巨大な砕石場を見ながら国道を少し下ると、道路右手に遍路道の木標があり、右手に入る指示がある。来村川に注ぐ支流の沢にかかる小橋を渡り土径に入る。

県道46号に出る
沢を見遣り、崖上に通る県道46号を見上げながら沢の右岸を5分ほど下ると県道46号に出る。崖上を進む県道46号は強烈なヘアピンカーブで曲がり、遍路道との合流点に下ってくる。

柴折堂
GPSツールがあるので、県道46号に下りたのは分かったのだが、柴折堂は?「えひめの記憶」には「旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る」とあるだけ。旧国道と交差しははっきりしないが、「小川沿い」を頼りにGPSで地図をチェックすると、県道46号を少し旧国道との合流点に向かったところに、右岸を下っていきた沢がある。
確証はないのだが、とりあえず沢まで道を戻ると、橋が架かり「柴折橋」とある。小川に沿ってとあるのでこの辺り?橋の南詰に少し広い場所があり、その奥に小祠が見える。特に表記はないが、ここが柴折堂だろう。遍路道が県道46号に出る地点からほんの少しの場所にあった。

県道46号から土径の遍路道に入る
柴折堂から県道46号を山側に5分弱戻ると、道の左手に案内があり、左手に下る土径がある。案内には、「庚申堂への遍路道 松尾峠から宇和島市中心部に向かうこの遍路道は、昔の伊予と土佐を結ぶ宿毛街道の灘道で、人や物資の行き交う交通の要路でした。
宿毛街道には伊予に入ると、一番西寄り海岸沿いのこの「灘道」、宇和島藩の官道であった「中道」、一番東寄りで篠山(1065m)を越える「篠山道」の三ルートに分かれ、遍路もこのいずれかを辿りました。中道と篠山道は宇和島市津島町の満願寺で合流し、さらに野井坂を越えて来て、この先(約三百m)の庚申堂で灘道と合流します。
明治以降、車両通行にため道路整備が進みルートが変わったところが少なくありませんが、歩いてだけ利用できるこの庚申堂への遍路道は昔をしのばせる貴重な歴史遺産です。宇和島市教育委員会」とある。中道と合流する柿の木の庚申堂への遍路道である。

柿ノ木の庚申堂
左・中道 右・灘道






木々の間から左手の旧国道や畑地を見遣りながら6分ほど歩くと柿ノ木の庚申堂に出る。






お堂の下にある案内には、「この庚申堂のある地点(宇和島市祝森柿ノ木)は、かつての宿毛街道中道と灘道が合流する交通の要地でした。
伊予宇和島と土佐宿毛を結ぶ宿毛街道には、西寄り海沿いの「灘道」、真ん中の「中道」、東寄りで篠山(1065m)を越える「篠山道」の三ルートがあり、遍路道もほぼこれに重なっていました。江戸時代初期にはここから南方の岩淵(宇和島市津島町岩淵)で分岐(合流)していたのですが、江戸時代中期に北宇和郡岩松が経済発展するにつれ、灘道は松尾峠を経て宇和島城下と直結するようになり、この庚申堂前で中道と分岐するようになりました。
庚申堂は、古くは中国道教に由来すると言われますが、六十日毎に巡ってくるい庚申の日に徹夜をして神仏を祀り災厄を避けるという民間信仰に基づくものです。柿ノ木庚申堂では弘法大師の伝承による青面金剛が本尊とされており、猿がその使いとされます。
当地(宇和島市祝森清水)に明治時代まであった表具所では、遍路土産に木版仏絵を販売していたとのことで、その中のひとつとして、庚申の絵柄のものもあり、青面金剛と猿を刻した木版が現在も個人蔵で伝わっています 宇和島市教育委員会」とある。

灘道と中道のルートを説明の通り解釈すると、江戸初期には岩淵で分岐していた、とあるので宿毛街道は満願寺のある岩淵に3ルートが集まり、野井坂峠を越えて、この柿ノ木に出ていたことになる。現在の灘道・松尾峠越えは無かったということだ。また、上述岩松の繁栄も江戸中期からということを意味する。 「えひめの記憶」には、「岩松から岩淵の満願寺への道は、かつて灘道を通り宇和島城下に行く旅人や遍路は必ず通った道である。しかし、岩松から高田を経て松尾峠越えの道が開かれた明治以降は極度に人通りが減少し、満願寺もかつての賑(にぎ)わいが見られない」とある。最初、この記述が何を意味するのかよく分からなかったのだが、上記庚申堂にあった案内と組み合わせて、やっとわかった。また、松尾峠越えの灘道は江戸中期から開かれたが、荷馬車の往来なども可能となった明治44年の旧道開通により人や物の流れが松尾峠ルートの灘道に変わった、ということだろう。
お堂の東側、宇和島道路との間を庚申堂に下る中道をしばらく眺め、灘道と中道の合流点を実感する。
庚申堂の由来
「昔、柿木部落に孝行な兄弟がおりました。兄は地蔵菩薩を信じ、弟は青面金剛を崇拝していました。
そこえ弘法大師が巡ってこられ、兄弟に感心され、それぞれ仏像を刻んで下さいました。それから兄弟の子孫は代々長命を保ち栄えたので、松ケ鼻に地蔵堂を、松尾坂の麓に青面金剛のお堂を造っておりましたが、乱世となり子孫は四散し、堂は壊れ像は土中深く埋没してしまいました。
時は移り、天和元年(1681)北宇和郡深田(広見町)の庄屋河野勘兵衛道行が祝森で余生を送っていたとき霊夢のお告げと一匹の猿の導きで松尾坂の麓で蒼面金剛を掘り出しお堂を建て安置した歴史のある建物で明治三十三年(1900)に再建せられ柿木祝川住民の心のより所として大切に保存をしております。平成十四年 柿木庚申堂保存会」


■デポ地へのピストン折り返し

当日は松尾峠を下り、清掃センター脇の旧国道と繋いだ時点で車をデポした新松尾トンネルの南口までピストンで折り返した。ピストンルートは、松尾峠下の松尾隧道を見ておきたい、ということもあり、旧国道を戻ることにした。

農免道路
旧国道の松尾隧道手前に標識があり、大きな文字で「農免道路」と書かれた下に道方向が「下波 三浦」 直進方向が「津島」とある。この標識では、どちらの道も農免道路と読めるのだが、地図には右の三浦隧道を抜け下波・三浦に向かう道を農免道路としている。津島方向へ進む旧国道が農免道路ということはないと思うが、標識だけではよくわらない。農免道路標識まで、遍路道と旧国道合流点からおおよそ15分程度だった。

松尾隧道
昭和26年(1991)開削された松尾隧道に入る。遍路案内などの写真では結構古い趣の隧道と見えるが、現在では改修工事がなされたのか、ふつうのトンネルと変わることがない。
先ほどの農免道路の標識、その支柱に「農耕車優先」といったプレートを想えば、旧国道も農免道路として財源確保され改修されたのか、清掃センター設置に伴う津島からの利便性確保のため改修されてものか、根拠もないのに、あれこれ妄想が膨らむ。

旧道分岐点
松尾隧道を見たいがために、お気楽に旧国道を戻りはしたのだが、地図をみると車デポ地点へは結構大廻りとなる。地図を見ると松尾隧道上の松尾峠に戻り、往路の遍路道を下るのが最短距離。
旧国道松尾隧道出口から松尾峠へと続く「実線」はあるのだが、途中で道が切れ藪となる。藪漕ぎは勘弁と、旧国道に戻り少し先にす進むと、簡易舗装の道が旧国道から分岐する。
どこに進むかよくわからないが、とりあえず道を進むと見たような景色。道脇は道標と円筒に座るお地蔵さまもある。遍路道が「旧道」と交差する箇所だった。この道が、松尾隧道が開かれる以前の「旧道」であることが、そこではじめてわかった。往路のルートメモの旧道云々はこれを踏まえてのことである。松尾隧道を抜けておおよそ20分で遍路道に戻った。

車デポ地に
旧道からは往路の折り返し。最後の最後で前述の如く道を誤り、新松尾トンネルのデポ地逆側に進んでしまった。結果的には、この道筋が「えひめの記憶」から解釈さえる道筋と思えるのが「成果」ではあったのだが、この道から国道56号に途中から下りようにも、国道との間に沢があり、沢が切れる上部は法面が高く、国道に下りることはでない。結局道を戻り、車デポ地側への踏み分け遍路道に入り、車デポ地に戻った。旧道交差地点からおおよそ25分程度であった。


■柿ノ木から佐伯番所跡へ

□柿ノ木庚申堂から千歳橋
旧国道と国道56号の合流点へ 庚申堂から旧国道と合流した県道46号を進み、宇和島道路の高架を潜り国道56号との合流点に。「えひめの記憶」には「遍路道は柿の木から宇和島城下までは中道(宿毛街道の主道)をたどる。新旧国道の分岐点から旧国道(現県道宇和島城辺線)に寄った崖下に7体の石仏が祀(まつ)られている。右端の地蔵の台座に里程を刻んだ道標がある」と記すが、辺りを結構探したがそれらしき石仏を見付けることができなかった。

国道56号・千歳橋へ
新旧国道の合流点付近から先は、「ここから中道は国道56号の西側を北へ向かって進む。清水の山腹にある小さなお堂前を通り、現在の旧国道より少し高い所を通っていた。しばらく進んで常夜灯や子安地蔵を過ぎ、また国道に出て千歳橋を渡る」と「えひめの記憶」にある、国道56号の西側の山裾を進む道に入る。
清水の山腹にある小さなお堂の前を通り、現在の旧国道より少し高い所を通っていた、とするが、清水の集落の一部に山側に一瞬入る道の他に、旧国道より高い所を通る道筋は見つからない。一瞬山側に入る道に小さなお堂があったのかもしれないが、見逃した。
来村川に沿って道なりに旧国道を進み、道が国道56号に出た所には常夜灯とその裏手に子安地蔵堂があった。
常夜灯で一瞬国道56号をかすめるが、すぐに左、山裾を進む道があるので、特に根拠はないのだが、旧国道だろうか、などと思いながら道を進み、千歳橋で国道56号を渡る。

千歳橋から普達橋へ
千歳橋を渡ると、松が鼻で右に入る道がある、とりあえず道に入るが、すぐに国道に出る。その先で再び右に入る道がある。「えひめの記憶」のには、「再び国道から分かれて狭い保田(やすだ)の旧国道に入って間もなく、左手の居林邸(保田甲483)の入口に「岩松へ三里一丁」と刻まれた道標がある。これは宇和島藩村明細帳を集成した『大成郡録(たいせいぐんろく)』の里程から考察して、どこからかここに移設されたものと思われる」とある。住所から見て、この道筋だとは思うのだが、それらしき道標を見付けることはできなかった。
この道筋もほどなく国道に出るが、保田のバス停がある辺りから、またまた右に入る道がある。旧国道?と思うほどの細い道だが、これもほどなく国道56号に出た。「えひめの記憶」の記憶には、「旧国道(中道)より一段高い山寄りに遍路道が通っていた。山寄りの道筋に小さな大師堂があり、享保8年(1723)と刻まれている小さな大師像と道祖神が祀られている」とある。この細い道より更に右に入り込むと大師堂と道祖神があったようだ。

薬師川手前に3体の石仏
「えひめの記憶」には、この先の遍路道について、「遍路道はさらに進んで薬師谷川左岸に至る。国道に架かる普達橋からやや上流、薬師谷川の左岸の渡河地点に3体の石仏があり、真中の地蔵の台座に「此道御城下迄三十一丁」と刻まれた道標がある。ここから川幅約15mの薬師谷川を飛び石伝いに右岸に渡り、寄松・並松(なんまつ)を経て宇和島城下を目指して進む」とある。 記事に従い進むと薬師川で行き止まりとなる。民家脇を山際に廻り込み道を進むと、薬師川を背に岩の上に3体の石仏・石碑があった。右手の石碑は遍路墓と言う。

薬師川から佐伯番所まで

赤土鼻の茂平道標
国道56号にかかる普達橋を渡り、丘陵が西に突き出た下保田で国道56号のバイパスといった宇和島道路と分かれた国道56号は、丘陵に沿って右に折れ北東へと進む。
寄松を進み並松2丁目辺り、丘陵が西に突き出た辺りで旧国道は国道56号から分岐する。分岐箇所辺りを赤土鼻と呼び、小高い丘になっていたようだが、国道開削時に削られたようである。
道の分岐点には茂兵衛道標が立つ。手印が左右に分かれ「観自在寺十里 和霊神社四十一番 四十番奥の院へ廿丁余」「明治四十四年」といった文字が読める。 四十番札所の奥の院とされる四十一番札所(龍光寺)まで廿丁余(2キロ強)ということだろうか。
「えひめの記憶」には「国道56号から並松に入る三差路西側の水野邸(中沢町2-4-11)横に茂兵衛道標がある。ここは昔、湿地帯でこの道標は田んぼの畦(あぜ)道に建てられていたという」とある。

並松街道
この分岐から先は「並松街道」と呼ばれていたようである。「えひめの記憶」には、「赤土鼻から国道と分かれて並松の旧国道「並松街道」に入る。並松は道のり約6丁を「並松街道」と呼び、街道沿いの松並木が多くの旅人や遍路を慰めたという。真念は『四国邊路道指南』の中で「これより宇和島城下迄なミ(並)松、よき道也。」と記し、英仙本明は『南海四州紀行』の中で「道悪ク並松曲疲タリ。」と記している。約120年の時差があるが、道路の表記は大きく異なる」とする。また「明治15年(1882)当時の並松の道幅をみると「狭キハ壱間半ヨリ広キ八三間二至ル凡平均弐間」56)と記され、街道の道幅は城下に次いで広い。道の両側は古い民家や商店が建ち並び典型的な街村をなす」ともある。

馬目木大師堂
山際から元結掛(もとゆいき)を進み、神田川(じんでん)手前、三差路の右手山際に馬目木大師堂がある。お堂の前に巨大な立派な常夜灯、石仏の小祠、寺の裏手には五輪塔や石碑が並ぶ。お堂前の銀杏の巨木が古き趣を増していた。

境内にあった案内には「弘法大師が開かれたという、九島鯨谷の願成寺は、四国霊場四十番の札所観自在寺(御荘平城)の奥の院であったが、離れ島にあるため巡拝に不便であったので、寛永8年(1631年)に結掛の大師堂に移し、元結掛願成寺といった。この寺は明治になってからさらに国鉄駅の近くの竜光寺に合併せられた。
この大師堂を馬目木大師堂といういわれは、弘法大師は九島の願成寺を造られたものの、海を渡って九島までお札を納めに行くのは大層不便なので、宇和島の海岸にあった渡し場に遥拝所をた。そしてこれに札を掛けよと、馬目木(ウバメガシ)の枝を立てていたものが、いつしか根づいて葉が茂るようになったという。
元結掛の地名については、いつの頃かここで信仰心のあつい人が頭をそって仏道に入り、その髪を元結(まげをしばるひも)でこの馬目木に掛けておいたから「もとゆい木」といわれるようになったとも、またこの土地は海岸通りで、通行人の元結がこの馬目木の枝にひっかかるので名付けたともいわれている。 現在もお堂と馬目木が残り、土地の人の深い信仰心の対象となっている」 とあった。
地図で見ると現在、九島は橋で宇和島と結ばれていた。

佐伯の町番所跡
神田川を少し下流に戻り佐伯橋を渡る。橋には「佐伯橋 富田信高が城主の時代、佐伯権之助の家老屋敷があったのが名前の由来です。
明治4年、須藤頼明がこの橋の上で泥酔した農夫にからまれ無礼討ちしました。禁止令が出る直前で最後の無礼討ちと言われています」と共に、「佐伯町御番所跡 南部から城下町に入る際の御番所。手形改めの後通行人はここにあった井戸で往来の汚れを洗い流したそうです」とあった。
橋の北詰はカラオケ店となっていた。
富田信高
富田 信高(とみた のぶたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。伊勢安濃津城主。津藩第2代藩主。関ヶ原の戦いの功績によって、伊予宇和島藩初代藩主に転じたが、改易された(wiki)。
どうでもいいことだろうが、改易の理由をチェックすると、信高の夫人と、その弟、そしてその甥の間のトラブルに巻き込まれてのトバッチリを受けたといったもの。こんなことで改易になるのかと、Wikipediaをもとに、ちょっとメモする;事のはじまりは、夫人の甥である宇喜多左門が、夫人の弟である石見津和野藩主坂崎直盛の婢(小童とも)と密通。怒った直盛が左門を討たんと送った家臣が返り討ち。左門は信高のもとに逃れる。直盛は引き渡しを求めるが果たせなかった。
その間、信高は伊予板島城に転封となり、これが宇和島藩となる。転封にともない、左門は日向延岡藩主のもとに身を隠す。
事が動いたのは、信高の夫人が、左門の援助にと米とともに送った手紙が直盛の手に入り、直盛が将軍家に訴え出たこと。結果、夫人の罪が咎められ、信高は改易され、岩城平藩で蟄居、左門は死罪に処される。
但し、これは表向きの理由で、実際は大久保長安事件に連座したのが真相とも言われる。
これで本日の散歩は終了。後は城下を抜け、窓峠、歯長峠を越えて旧卯之町の明石寺を繋ごうと思う。明石寺を繋げば、予土国境から今治までの遍路道がやっと繋がる。



GoogleEarthで作成
先回二日をかけて南予の山越え・峠越えの遍路道、松尾峠と柏坂を越えた。今回は1泊二日の予定で松尾峠と柏坂の間を繋ぎ、柏坂を下りた里から宇和島へと向かうことにする。
初日は予土国境・松尾峠を越えて下りた里、小山の集落から愛媛県愛南町を進み40番札所・観自在寺を打ち終えて柏坂上り口まで。二日目は柏坂を下りた里である宇和島市津島町上畑地から宇和島市街へと進む。 津島町から宇和島市街の間には松尾峠(予土国境の松尾峠と同名)があり、常の如く単独・車行のため峠ピストンに時間がかかり、結局、宇和島市街入り口で時間切れとなった。
遍路道を繋げる散歩をはじめた西予市宇和町(卯之町)の明石寺までは、宇和島市街を抜け、窓峠や歯長峠を越えなければならない。うまくいけばあと一回、少なくとも一泊二日で動けば、なんとか卯之町まで繋がりそうだ。先は見えてきたが、やはり南予は遠い。

今回スタートする小山から先、土佐の宿毛と宇和島を結んだ宿毛街道には篠山道・中道・灘道の3ルートがある。今回の散歩は海岸沿いの灘道を辿る旅。小山の集落から愛媛県愛南町を進み、まずは篠山道と分かれ、その先で中道と分かれ、海岸沿いの灘道を辿り40番札所・観自在寺を打ち終え、柏坂上り口までを繋ぐことにする。



本日のルート;
松尾峠と柏坂の間を繋ぐ;小山から40番札所「観自在寺へ
小山から豊田へ
小山集落の石祠と3基の標石>小山の番所跡>道端の小さな地蔵と地蔵台座>春日神社>松尾大師堂>広見の道標>札掛の篠山神社・一の鳥居;篠山道分岐 >県道299号と交差>惣川への土径に>旧赤坂街道の案内>県道299号に上る >上大道の集落に>大宮神社傍の休憩所>上大道の徳右衛門道標;灘道と中道分岐>県道299号を離れ土径に進む>南廻り(?)県道299号との交差箇所に道標>南廻り(?)県道299号に合流>豊田の徳右門道標と自然石の手印道標 >釈迦駄馬の供養塔広場
□豊田から僧都川沿いに観自在寺へ□
僧都川の堤防上の道を進む>御荘焼豊田窯跡>城辺橋脇の道標>40番札所・観自在寺
■松尾峠と柏坂の間を繋ぐ 観自在寺から柏坂へ■
長崎から笹子谷へ>日の平から国道56号に>八百坂切り通し手前から猫田に入る>猫田から国道56号へ>厳島神社の道標3基>菊川から梶屋集落へ>梶屋から室手へ>室手から柏へ

■松尾峠と柏坂の間を繋ぐ■

小山から豊田へ
先回越えた二つの峠の間を繋ぐ散歩は、松尾峠を下り、車道と繋いだ小山の集落からはじめる。

小山集落の石祠と3基の標石
先回は松尾峠を越え、舗装された道に下り、一瞬舗装道を離れ土径を進み、ふたつの小川が合わさる先、山裾に沿って道が西に廻りこむ辺りの小山の集落まで進んだ。今回スタート地点はこの回り込み箇所立つ、小さな自然石の祠と3基の標石から。
徳右衛門道標
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター(以下略)」によると、「標石群の右端には「くわんじざいじへ三り」と刻まれた武田徳右衛門の道標がある。土地の人の話では、以前は松尾峠の登り口にあったという。
境界石
ふたつの境界石について、「えひめの記憶」は、「中央には「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた領界石と遍路道標を兼ねた道標があり、さらに左端には道標とは字体は異なるが、「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた高さ2.7m (9尺)の立派な領界石が並ぶ。
一本松町教育委員会の説明によると、この2本の領界石は、平成3年、橋の工事の際橋げたとして使用されているのが発見された。いずれも二つに折れていたものを修復し、番所跡近くのこの場所に移築したという。前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石は、長さ2.4m(8尺)の遍路道標に併用されている中央の標石であると思われる。

この標石の正面に刻まれている遍路道の案内は、明治13年(1880)とあり、領界石を後世に遍路道標として再利用したものである。
さらに天保5年(1834)の『伊達宗紀公御歴代事記』に、「10月17日、土州境小山村土州御境へ榜示ノ立石迴着」とあり、榜示立石を船で運んだことや土州方の立会いを打診したことなどが記されている。標石群の左端の標石は、この時建てられたものではないかと考えられている。

説明にある「前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石」とは、松尾峠に立つ境界石のところで「えひめの記憶」から引用した、「宇和島藩では領界の目印として、はじめは木柱を立てたが、貞享4年(1687)3月に石柱にしたという。そのことについて『幡多郡中工事訴諸品目録』によると「松尾坂御境目示榜示杭今度与州より御立替候処、ミかけ石長八尺幅七寸四方、文字従是西伊豫國宇和嶋領と切付漆墨入と有右之境杭立被申由(以下略)」)と記されている」境界石のことである。この中央の境界石は、元々は松尾峠に立っていたもの、ということだろう。
左端の境界石の説明にある「土州境小山村土州御境へ榜示ノ立石」の場所はこの説明だけでは不詳である。

小山の番所跡
標石群から少し進んだ民家の傍に「小山御番所」の案内があり、「愛南町指定文化財 史跡 小山御番所井戸 小山御番所は、藩政時代に宇和島藩が国境の出入りを取り締まるため、土佐との要衝である松尾坂の伊予側に設けた番所であり、宇和島藩の中でも特に重視され、能吏が常駐していた。
明治五年の学制発布後、建物は、明治八年より心導学校として使用された。現在、建物は残っていないが、その当時使用していた井戸のみが残っている」とあった。
井戸は道から少し奥まった民家の庭に見える。道端から写真だけ撮らせてもらった。学制における「心導学校」とは如何なるものか、不詳。

道端の小さな地蔵と地蔵台座
小山の番所跡の直ぐ西、T字路に「観自在寺 13.7km」の木標があり、遍路道は右へと折れる。木標の対面角に誠に小さな石仏と舟形地蔵、それに石仏の台座らしきものがあった。道を北に進むと県道299号にあたる。
因みに、観自在寺まで13,7kmとすれば、観自在寺まで3里(⒓キロ)とする前述徳右衛門道標は松尾峠の入り口とするのは、土佐側ではなく伊予側、すなわち小山の近くでなければ間尺に合わなくなってしまう。

春日神社
南北を囲む丘陵の間を抜ける県道299号を越え、北の丘陵裾に沿って少し西に進むと春日神社がある。鳥居も狛犬も石塔も、なんとなく印象に残る「風化」具合である。使っている石の加減なのだろうか。狛犬は江戸の年号、鳥居は明治の年号が刻まれる。この春日神社の直ぐ西に遍路休憩所があった。

松尾大師堂
山裾の道を西に進み、県道299号に合流。県道を少し進むと、南側の丘陵に沿って進む道の分岐点がある。その傍に松尾峠と書かれた道標が立つのだが、どう見ても、南側の道を進む方向を示しているように思える。
「えひめの記憶」には「かつての遍路道は、峠を下りたところから県道299号を左にそれて下ったようである」といった記述がある。この道筋だろうか。それにしても、順路と逆路で異なる道筋を木標で案内しており、ちょっと混乱しそう。
それはともあれ、分岐点から先に進み、南北の丘陵が迫る鞍部を越えると、道は下り坂となる。坂の途中、道の左手に松尾大師堂が建つ。
松尾峠にあった松尾大師堂のところで、「「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」には「かつての大師堂は道路開通後、地元の有志がもらい受け、一本松町広見(合併し、現在は愛媛県南宇和郡愛南町)に移築した。現在峠には新たな大師堂の再建が進み、平成13年12月に落慶法要を行った」とメモしたが、この大師堂がかつての一本松町広見に移された松尾大師堂だろうか。 かつての一本松町は増田、正木、広見、小山から成ったとされるが、増田と正樹は北東の山間の地、小山は南の地域、とすればこの辺りから盆地一帯が広見であったと推測される。

広見の道標
坂を下り、盆地を走る国道56号を横切り、250mほど進むと神社の幟立にくっついて道標が立つ。摩耗し刻まれた文字を読むことはできなかったが、「観自在寺までの里程を刻む(「えひめの記憶」)」との記述がある。




札掛の篠山神社・一の鳥居;篠山道分岐
県道299号を進み、札掛で遍路道は県道から右に分かれる。分岐点には「遍路道」の案内もあり迷うことはない。準平原状の台地を道なりに少し進むと「篠山神社」と刻まれた鳥居と小祠がある。
「えひめの記憶」には、「ここは中道と篠山道(篠山往還)との分岐点である。遍路は必ずこの札掛を通り、初めての遍路は札所ではないが、必ず篠山(おささ)か土佐の月山(おつき)を参詣するならわしになっていた。
おささとおつきの関係をみると、「辺路札打申に月崎を打候へば篠山を不打、篠山を打候へば月崎を打不申候」(『淡輪記』))とあり、またこの篠山については、『四国邊路道指南』に「初遍路ハさヽやまへかへるといひつたふ。(中略)ひろミ村、さヽへかけるときハ荷物をこの所におく。」)と記している。
篠山権現は、標高1065mの高所にあり、そこへ至るのは難路であったことから、札掛で篠山権現のお札を置いて遙拝すれば篠山を打つことになるとされるようになった。札掛という地名の由来であるという。
土地の人は、「札掛には田中家のようにお札や遍路地図などのお土産を売った家や遍路宿もあり、昔は大変賑(にぎ)わった。お遍路さんのお接待で、地区のお大師講(こう)の者はてんてこ舞いしたと聞いている。今はバス路線(県道299号)からはずれた札掛の前神様は見向きもされない。」と嘆く」と記される。
灘道・中道・篠山道
GoogleEarthで作成
「えひめの記憶」には「松尾峠から宇和島市祝森柿の木への遍路道は、ほぼ宿毛街道と重複し、中道・篠山道・灘道の三本の道筋がある。
松尾峠を越えた宿毛街道は、一本松町札掛で中道から篠山道が分かれ、さらに同町上大道(うわおうどう)で中道から灘道が分岐する。中道は、大岩道(だいがんどう)・小岩道(しょうがんどう)の峠を越え、岩淵を経て柿の木に至る。篠山道は、四十番観自在寺奥の院篠山を越え、御内(みうち)を経て大町で中道に合流する。灘道は、観自在寺を経て一部海岸沿いを進み、柿の木で再び中道と合流して宇和島城下に至る」とあり、
また「真念が貞享4年(1687)に出した『四国邊路道指南』によると、御荘町平城(ひらじょう)の観自在寺からの道筋について、「一すぢ、なだ道、のり十三里。一すぢ、中道大がんだう越、のり十三里。一すぢ、ささ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」と記され、
さらに「『愛媛県歴史の道調査報告書第七集宿毛街道』には、一本松町札掛から宇和島市柿の木までの三本の遍路道のうち「遍路が多く通った道は『灘道』で、次いで『篠山道』であった。『中道』は『四国邊路道指南』に記されているように、遍路道の一つであったが、その道の急峻さ、観自在寺の所在地などからして遍路道としての使用頻度(ひんど)は高くなかった。」と記されている。近世以降の遍路は、ほとんど灘道を通ったものと思われる。時代の流れによって中道、篠山道の順で歴史から姿を消していくことになるが、現在でもわずかの遍路が柏坂の灘道を通っている」とする。
今回辿る柏坂越えは、海岸沿いの灘道ルートである。なお、『四国邊路道指南』に「三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」とあるのは、江戸の中頃まで旧津島町岩松から柿ノ木に抜ける松尾峠越えの道は開かれておらず、灘道も岩淵にある満願寺から野井坂峠を越えて柿ノ木に下っていたようである。
月山神社
月山(つきやま)は、高知県大月町にある神社(私注;足摺半島の最南端部)であり、現在は月山神社であるが、明治の神仏分離以前は神仏習合の番外霊場「月山」であった。
白鳳時代、役の行者(役小角)が山中で三日月の霊石を発見し月夜見命、倉稲魂命を奉斎したことに始まる。その後、空海(弘法大師)が巡錫し、霊石の前で二十三夜月待の密供を行ったと伝えられている。明治の神仏分離以前は「守月山月光院南照寺」と号する勢至菩薩を本尊とする寺であったが、それ以降は月山神社と改称された。高知県幡多郡大月町月ヶ丘1443(Wikipedia)

県道299号と交差
篠山神社・一の鳥居を離れ、道なりに進むと「へんろみち」と書かれた木の標識があり、右に折れショートカット気味に坂を下ると山裾を大きく廻っていた県道299号に出る。道の北には産業廃棄物処理センターがあった。




惣川への土径に
遍路道は県道を少し戻り、産業廃棄物処理センターの建物の西から土径に入る。ここにも「へんろみち」の案内があり迷うことはない。遍路道は惣川が浸食した赤坂の谷へと下りてゆく。惣川を越え左手に田圃を見遣りながら遍路道を進む。

旧赤坂街道の案内
遍路道はほどなく県道299号から分岐した、舗装された道にあたる。舗装道に上る手前のガードレールに「旧赤坂街道(昔の遍路道) 地道ですが歩けます」と書かれた案内がある。案内に従い舗装道を少し進み、直ぐに土径に入り段丘崖を上る。
実のところ、この辺りの道筋は、「えひめの記憶」を読んでも、ルーティングが思い描けず、出たとこ勝負ではあったのだが、ちゃんとした案内があり、何とか昔の遍路道を辿ることができた。

県道299号に上る
案内に従い河岸段丘を40mほど上る。道は県道299号の下段丘崖を緩やかな坂道で上り、ほどなく県道299号に出る。竹林や木々に覆われた道は「癒しの道」との案内があった。

上大道の集落に
県道299号から少し上ると上大道の集落に出る。集落に出たのはいいのだが、いままで要所要所にあった、遍路道の案内が切れる。「えひめの記憶」には「札掛からの遍路道は、惣川が浸食した急傾斜の赤坂の谷を越え上満倉(かみみちくら)に至る。上大道(うわおおどう)のバス停を過ぎ大宮神社や満倉(みちくら)小学校前を少し進む」とある。上大道のバス停は分からないが、地図で確認すると、大宮神社が県道を西に進んだところにある。集落の中の道を成り行きで進み県道に出て大宮神社を目安に進む。

大宮神社傍の休憩所
記事にあった満倉小学校は見当たらなかったが、大宮神社は県道脇にあり、その傍に遍路休憩所がある。そこに惣川からこの先にある僧都川に沿って御荘の町までの遍路道案内があり、この先のルーティングに役立った。

上大道の徳右衛門道標;灘道と中道分岐
休憩所を越えた先の道の分岐点に道標と小さな地蔵が並び立つ。道標は徳右衛門道標。「これより左りくわんじざいへ壱里半」と刻まれる。
「えひめの記憶」には「ここで道は、西へ下り城辺町太場(だいば)から豊田を経て観自在寺へ至る灘道と、北へ向かって緑の代官所を経て宇和島に通ずる中道の二手に分かれる。江戸後期まで観自在寺への遍路道は、灘道と分岐する峰地(御荘町)まで、この中道を通っていたと思われる」とある。
ここが江戸の後期以降、山中を抜ける中道わかれた海岸を進む灘道の分岐点とのいうことだ。

県道299号を離れ土径に進む


今回進むのは灘道。休憩所にあった旧遍路道案内の通り、県道299号を少し進むと左に折れ、柿畑やミカン畑を見遣りながら先に進むと、簡易舗装も切れ、畑脇を進む土径となる。


南廻り(?)県道299号との交差箇所に道標

土径に入ると道は僧都川に向かって緩やかに下る。坂の途中に小さな祠があり、松尾様とある。由来は不明。社にお参りし坂を下ると舗装された道に当たる。 遍路道は道をクロスし先に進むが、その入り口に小さな道標があった。
ところで、「えひめの記憶」には、この道を県道299号としているが、地図では県道299号は、上述大宮神社先の徳右衛門道標から右に分かれた宿毛街道中道筋となっている。あれこれチェックすると、地図には記載されていないが、ふたつに分かれたこの道筋も一本松城辺線として県道299号となっていた。仮に「南回り県道299号(旧県道)」としておく。

南廻り(?)県道299号に合流
山裾を曲がりくねる旧県道から土径に入り、ショートカットで進むと石仏を祀る小祠があり、更に道なりに進むと県道に戻る。合流箇所には「松尾峠 11.9km 観自在寺 4.km」と書かれた木標があった。

◆ところで、「えひめの記憶」には、「灘道は、一本松町上大道(うわおおどう)で中道と分岐する。町境を越えて城辺町太場(だいば)に入って間もなく、県道一本松城辺線(299号)を右折して尾根を下る。この道は江戸後期に拓かれたという遍路道である」が、県道との位置関係がどうしても合わない。最初は、県道に合流し、右に折れて進む上記ショートカットルートかとも思ったのだが、「えひめの記憶」には、上記説明に続けて「豊田の入口に手印のついた自然石の道標がある。ここで県道299号と再び合流する」とあるので、この合流箇所より前ということになるのだが、そうなると、県道を「右折」ではなく「左折」しなければ間尺が合わない。はてさて?

豊田の徳右門道標と自然石の手印道標
県道299号を進み、僧都川手前で左折し、川の左岸を進む曲がり角手前の小橋の脇に、徳右衛門道標と自然石の手印道標がある。徳右衛門道標には「これよりくわんじざいへ一り」と刻まれる。また、「えひめの記憶」には「道標の手印は向きが逆になっており、のちに移動してここに建てたものと思われる」とあるが、自然石の手印道標は順路を示しており、とすれば徳右門道標の手印のことかとも思えるが、摩耗して手印は見えなかった。

釈迦駄馬の供養塔広場
徳右衛門道標と手印道標の間の小橋を渡ると広場となっており、「豊田窯跡(有形民俗文化財) 富岡喜内(久治兵衛)が、妹の子、稲田峰三郎と共に開いた窯で、シャカダバ窯ともいう。金彩の色絵も焼き、大切に荷造りして馬につけて運び、深浦港から積み出したという」と共に幾つかの石仏・石塔が建つ。
「えひめの記憶」には「小さな橋を渡ると地蔵や石塔が集められた釈迦駄馬の供養塔広場がある。この広場はサネモリ(実盛)様を祀(まつ)り、ここで篠山大権現の神火を受けて、近在の村々へ火送りがなされた。ここからこの地方の虫送りの行事が始まったという」とあった。

サネモリ(実盛)様
サネモリ(実盛)様とは諸説あるが、一説には平家の名将・斎藤実盛に拠るとも言われる。斎藤実盛は相模を本拠とする源氏の棟梁・源義朝重臣として仕えるも、上野国に勢を増した義朝の弟・義賢と義朝との争いに際し、敗れた義賢の子、後の木曾義仲の命を救った武将として知られる。
義朝亡きあと平氏に仕え、頼朝挙兵後も平氏への恩顧を忘れず平家方として奮戦。老いを隠すため白髪頭を黒く染め、平家方の義仲追討軍の将として北陸に転戦するも討死。命の恩人を打ち取った義仲が嘆悔やんだ話は有名である。 で、何故に虫送りに斉藤実盛が、ということであるが、戦いの折、乗っていた馬が稲の切株に躓き、ために討ち取られた、と言う。稲の切株憎しと、稲を食い荒らす(稲虫・ウンカ)となった、という。
虫送りとは、稲の虫を集め、ムラの外へ送ることで、稲などの虫害を防ごうとすることである。虫送りの唱え文言は徳島では、
「実盛虫はどこへ行った 西のはてまで 後さらえ ドーンドン」とか、
「斉藤実盛様のお通りじゃ、飛べるムシャ飛んで来い、這えるムシャ這って来い」、
「サイトコ ベットコ ウッテントン イネノムシャー トサヘイケー」、

兵庫では
「おくった おくった
稲虫おくった
実盛さんは ごしょろくじゃ
よろずの虫 ついてこい
ようさらぁ いなむし
こんがり こんがり こんがった

ブントンカカァ、トンカカヤ
実盛様のお通りじゃ」
などと地域によって異なる。
また、社寺に集い神事や法要をおこなった後、たいまつの火を焚きながら、カネ、太鼓を叩き大声で文言を唱えながら、幟(のぼり)や札を掲げ行列を組んで水田をめぐり、虫を集め村の境界まで送り出す、「サネモリサマ」という藁(わら)の人形を用い、担いだり馬に乗せたりして運ぶ、あるいは船に乗せて送り出すなど行事様式も地域によってことなるようである。
因みに、虫送りが特に西日本で盛んな理由は、西日本ではウンカによる稲の被害が大きかったためであるといわれる。

斉藤実盛由来の説の他、「稲の実(サネ)を守る 」、田植え完了の共同祝日である「サナブリ」「サノボリ」の転化説などもあるようだ。

◆釈迦駄馬
広場にある地蔵や石塔の右端の石塔は、元禄7年(1694)に建てられた「四如来碑」と呼ばれるようだ。正面に「本師釈迦牟尼如来」、右側に「南無薬師如来」、左側に「南無阿弥陀仏」、裏面に「南無大日如来」と刻まれる故。豊田の集落がかって「釈迦駄馬」と称され由来とも。豊田となったのは、庄屋の先祖が山口県の豊田郷を領する豊田氏であった故、との記事を見た。
それでは「駄馬」は? チェックすると、丹波とか多摩と同義と言う。「崩れた>山間渓谷の平坦地」との意味だが、この地がそれほどの山間の僻地とも思えない。更にチェックすると、花とり踊りの「踊り駄場」、闘牛の「突き合い駄場」というように、村人が集い行事を起きなうな所を「駄場」と称し、その場がある地域を「駄馬」と称した、といった記事があった。納得。


豊田から僧都川沿いに観自在寺へ

僧都川の堤防上の道を進む
サネモリ様の広場から直ぐ先で道は左に折れ、古き町並みを残す豊田を進む。ほどなく「観自在寺 3.6km」の木標に従い道は右に折れ、僧都川の堤防に。遍路道は堤防上の遊歩道を進むことになる。
僧都川
なにやら、雅な名称でありチェックすると、僧都の元は「左右水」とある。水源が2箇所とも、水車の古名である「左右水」に由来するといった説明があった。

御荘焼豊田窯跡
堤防上を進むと、休憩所の手前に「御荘焼豊田窯跡」の案内。「御荘焼豊田窯 御荘焼」は 久治兵衛が今から約150年前に始めた焼物で、かつては砥部焼とともに有名でした。ここから北へ約300mのことろに「御荘焼」の代表的な窯の一つ豊田窯の窯跡があります。豊田窯はその後、富岡喜内と改名した久治兵衛が甥の稲田峰三郎と共に明治初期に開いた磁器の窯で、別名「シャカダバ窯」とも呼ばれ、高級品のほか、日用雑記も多量に焼いていたとも伝えらています」とある。先ほど出合った「サネモリ様」の広場にあった窯元跡のことだろう。

城辺橋脇の道標
堤防の道を西に進み、左手に常盤城があった旧城辺町の独立丘陵を見遣りながら城辺橋に。橋の脇に道標がある。「平城へ二十二丁」「大正十年」と刻まれたこの赤茶けた道標は、移設されたものと言う(「えひめの記憶」)。道標の直ぐ脇の木標に「観自在寺 1.4km」とあるが、二十二丁は2.4キロ(1丁は約109m)であるので、なるほど1キロほど誤差がある。
「えひめの記憶」には「遍路道はこの付近から飛び石伝いに僧都川を渡り、平城の観自在寺に向かって進む」とある。橋の掛かっていない頃、遍路はこの辺りで渡河していたのだろう。
現在の遍路道は橋脇の木標の案内に従い、僧都川に沿って更に西に進む。
常盤城
現在諏訪神社が鎮座する独立丘陵は、戦国期にこの地を領した御荘氏の拠点となったところ。その歴史を簡単にまとめると、鎌倉時代に南宇和郡は比叡山延暦寺末寺蓮華院の荘園となるが、建武2年(1336)、叡山諸門跡が統合され青蓮院となると、坊官(僧侶の代官)が下向し後に御荘氏(前御荘氏)を名乗る。室町期に御荘氏は土佐中村の一条氏と豊後の大友氏により追われ、一条氏の家臣である勧修寺氏の一族が治めることとなり、御荘(後御荘氏)を名乗る。
戦国期に土佐の長曽我部氏により落城した、と言う。
御荘の地名の由来は観自在寺荘の尊称である観自在寺御荘に拠る。

豊田から観自在寺への別ルート
左谷へ
豊田から観自在寺への遍路道について、「えひめの記憶」には、「遍路道は街村の町並みをなす豊田の中ほどで右に折れ、川幅が広く水量の多い僧都(そうず)川を飛び石伝いに渡り、左谷(さこく)に出る。(中略)城辺町緑の左谷に出てた遍路道は鞍部(あんぶ)を越え、峰地から二手に分かれる。
西へ直行すれば観自在寺への灘道、北へ進めば前述した大岩道越えの中道である。この峰地の台地から御荘町役場に出て、旧国道と合流して西進すると観自在寺山門下に至る(中略)時を経て、この渡河地点は利用されなくなり、遍路道は僧都川左岸を通って城辺の町に入り、常盤城址や佛眼寺を左に見ながら通過した。」とある。

峰地
とりあえず、道筋を辿ってみる。僧都川の右岸に渡り、僧都川を渡ってきた県道299号と、僧都川に沿って進む44号の交差点を左折。県道299号を進み、左右を丘陵に挟まれた左谷の集落に入り、緩やかな坂道を上り、長月川が開削した谷筋に下りる。県道299号と県道295号の交差点が峰地。
この峰地までの道筋は上大道で分かれた中道の道筋である。上大道で灘道と分岐した中道は、柏床で僧都川を渡り、左谷を抜けて峰地へ。ここから観自在寺を打ち、再びこの地に戻り、中道を宇和島へと向かうことになる。

また、「えひめの記憶」には「豊田集落の人口にある道標より南へ直進して山際を通り、城辺の町に出る遍路道もあったという」とする。地図を見ても、上述 「南廻り(?)県道299号との交差箇所の道標」から城辺の町に繋がる道筋の記載は見当たらなかった。

40番札所・観自在寺
更に西に進み観栄橋を渡り観自在寺に。小高い段丘上に建つ境内に入り、本堂、大師堂に御参り。
境内にあった「八体仏十二支守り本尊」に惹かれる。千手観音菩薩(子年守り本尊)、虚空蔵菩薩(丑年・寅年)、文殊菩薩(卯年)、普賢菩薩(辰年・巳年)、勢至菩薩(午年)、大日如来(未年・申年)、不動明王(酉年)、阿弥陀如来(戌年・亥年)からなる石仏に手を合わせる外国人の歩き遍路さんが印象に残る。 境内には江戸時代、この地の俳人である岡村呉天が建てた芭蕉の句碑があった。 「春能夜や籠人遊可し堂の隅」と刻まれる、と。「はるのよや こもりどゆかし どうのすみ」と読む。
観自在寺

「寺伝によれば平安時代初期の大同2年(807年)平城天皇の勅願によって、空海(弘法大師)は、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩を刻み安置して開創したと伝えられている。このとき残った霊木に庶民の病根を除く祈願をし「南無阿弥陀仏」と彫ったと云われる。なお、その版木により押印された手ぬぐいを購入することができる。
また、平城天皇は勅額「平城山」を下賜し、当地に行幸されたと云われ、一切経と大般若経を奉納を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修したとされている。
江戸時代初期の寛永15年(1638年)に京都の空性法親王が巡拝、薬師院の号を受けた。その後、宇和島藩主伊達宗利の勅願所になったという歴史をもつ。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有したが、火災で消失。延宝6年(1678年)に再建されたが、昭和34年(1959年)に失火で本堂を焼失、現在の本堂はその後に建立された(Wikipedia)」
方角盤
「えひめの記憶」に「山門の天井には直径1mほどの珍しい方角盤がある。干支(えと)の絵で方角を示した巡拝者用の案内板と思われる。干支の絵は色あせているが中央に亀が描かれ、西の酉(とり)の方向を向いている」とある。 山門下から上を眺める。「干支の絵は色あせているが」とあったが、色は鮮やか。修復されたのだろうか。

道標
「えひめの記憶」には「観自在寺参道沿いに墓所があり、その右側の石柱に「これよりいなりへ十四里半」と刻まれた道標がある。「いなり」とは三間(みま)町にある次の札所四十一番稲荷山龍光寺のことである」とある。
民家に囲まれた狭い参道の境内向かって右手に小さな墓所があり、その右の石柱に「是*いなり***」といった文字が読める。この石柱が道標だろう。
三つの遍路道
駐車場に「伊予遍路道の入り口 観自在寺」と書かれた案内があり、「伊予遍路道の入り口 観自在寺 四国霊場第40番札所観自在寺は、伊予最初の札所で、第1番札所霊山寺から最も遠く、四国遍路の裏関所とも言われています。
観自在寺から第41番札所龍光寺に向かう道筋は、灘道・中道・篠山道の3ルートに分かれます。江戸時代初期、四国遍路の庶民化に大変貢献した真念が1687年に刊行した"四国邊路道指南(しるべ)"には、観自在寺からの道筋として、
「一すぢ、なだ道、のり十三里。一すぢ、中道大がんだう越、のり十三里。 一すぢ、ささ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」と記されています。
しかし、江戸時代後期、宇和島藩は遍路の増加に伴って統制を強め、1769年の触書では、遍路の通行を灘道と篠山道に限り、そのため中道を遍路が通行することは厳しく禁じられました。

霊山としてあがめられる篠山(標高1065m)を越える篠山道を通る道路もありましたが、人家の多い灘道の利用がその当時から一番多く、明治以降の近代的道路整備も、灘道を中心に進められ、県道(現国道56号)等が整備されました。 戦後も自動車交通の発展に伴い自動車道の整備(新設、拡幅、舗装、トンネル化等)が進められました。
近代的整備がされなかった区間の遍路道は土の道として残され、通行が途絶えることもありましたが、逆に昔の風情をとどめ、歴史的文化的価値は少なくありません(以下省略)」の説明。
それよりなにより、説明とともに灘道・中道・篠山道の詳しいルートが示されている。「えひめの記憶」をもとに、大体の3ルートの道筋を推定はしていたのだが、この地図は誠に有難い。中道と篠山道散歩も、春の頃歩くのも、いいかと思い始める。

松尾峠と柏坂の間を繋ぐ 観自在寺から柏坂へ

観自在寺から先の遍路道について、「えひめの記憶」は「灘道は、観自在寺隣の平城小学校前から西進し、南宇和地区広域農道を横切り、八幡神社北側の道を進み、右手の興禅寺や来迎寺の下を過ぎると、かつて平城の港として栄えた貝塚港に至る。『旧街道』によると、「札所から西に行くと貝塚があり、間もなく僧都川口の長崎に着く。
国道56号は長崎から海岸沿いについているが、国道ができるまでは平山まで渡し舟があり、約500mの海上を1日何回か旅人を運んでいた。」という。かつての沼沢地や遠浅の海岸は、愛媛県が昭和56年(1981)までに埋め立て、ホテル・遊技場・プールなどのレジャー施設を整備し、「南レク御荘公園」として開園したとある。
灘道は、この港から北の笹子谷へ向かって上り、山越えで長洲(ながす)へ下る。庄屋屋敷を経て日ノ平から川沿いに下って海辺に出る」とある。

衛星写真でチェックすると山裾を進んでいる。かつては山裾まで海が迫っていたのだろう。実際、前述常盤城のあった独立丘陵の辺りまで海が入り込んでいたということであり、また、現在国道の通る「南レク御荘公園」の周囲も、如何にも湿地といった趣を今に伝える。
観自在寺にある灘道も、「えひめの記憶」にある灘道も、現在の国道に沿った道筋となっているが、上述説明にあるように、長崎から笹子谷への道を進むことにする。

長崎から笹子谷へ
特に遍路道の案内もないのだが、山裾の道を成り行きで進み笹子谷から日の平に抜ける道に向かう。道が笹子谷へと向かう道に当たるところに「右 へんろみち」の石柱が立つ。結構新しい。道を進み緩やかな上り、そして下りで日の平の集落に出た。

日の平から国道56号に
丘陵に挟まれた日の平集落から南西に進み再び国道56号に。この丘陵地を迂回するルートを進んだということは、現在御荘港がある一帯は、かつては海であったということだろう。

国道56号に出た先の灘道について、「えひめの記憶」は、「ここからほぼ国道に沿い、ゆるい坂道を上り平山の集落に入る。八百(はっひゃく)坂の切通しの手前を右折し、山あいの猫田に向かう。このあたりは「ミショウ柑」の産地で傾斜地一面を柑橘(かんきつ)園が覆(おお)っている。
猫田より西に大きく迂回して坂を下ると八百坂である。ここで再び国道と出会い、菊川の厳島(いつくしま)神社の方向に進むと神社横の国道沿いに、里程を示す3基の道標が並んで立っている。これらは最近ここに移設・建立されたと思われる」とある。

八百坂切り通し手前から猫田に入る
現在の遍路道は国道を進んでいるが、「えひめの記憶」の記述に従い、八百坂切通し手前で国道56号と分かれ猫田に入る。猫田までは等高線に沿って進む。


猫田から国道56号へ
猫田の集落からは標高を50mほど下げながら西へとる。舗装はされている道ではあるが、狭く木々に覆われた道を下ると国道に出た。切り通しがいつの頃できたのか不明であるが、切通しが出来る前の道筋としては、この道筋が「自然」かな、などと衛星写真を見ながら想う。

厳島神社の道標3基
国道56号を進むと、左手に如何にも社の杜。国道脇に3基の道標が立っていた。 左端の道標には「平城へ一里二十三町」「明治四十五(1912)年五月祭誕」とあり、中央の道標には「きくかわはし」、右端の道標には「柏へ一里十五丁半」と刻まれる。左端の道標には上部に穴が開いている。神社の幟用ではあろう。

菊川から梶屋集落へ
「えひめの記憶」には、この先の遍路道に関し「遍路道は八百坂のバス停で国道と分かれ、右手の川沿いをさかのぼり、菊川小学校の傍(そば)を通り梶屋に向かう。道は梶屋集落の段丘崖下を再び国道まで上ると、途中の段丘崖に8体の地蔵が祀られ、薄暗い木陰の道は昔の遍路道の雰囲気を醸(かも)し出す」とある。
記事に従い国道56号を少し戻り、国道から右に入る道へ。その分岐には遍路道の案内があり、その標識は国道を直進とある。少々迷うが、分岐角に立つ「四国みち」は分岐道方向を示していることもあり、結局「えひめの記憶」にある道筋へと分岐道を進むことに。
梶田の地蔵
菊川左岸の山裾の道を進み、梶屋の集落で川を右岸に渡り、上を走る国道との比高差20mほどある河岸段丘下の道を進む。記事にある段丘崖の地蔵はどこにあるのかわからない。
偶々犬の散歩をしていた地元の方に尋ねるが、よくわからないが、先に進み国道に上る荒れた土径入り口にそれらしきものを見たような気もする、と。
地元の方の案内で、梶屋集落を過ぎた先の国道へと上る土径への分岐箇所に。 その角に「へんろみち」といった消えかかった文字の木標がある。その角上の叢に地蔵と思えば地蔵とも見える石仏が一基。他の地蔵はその横の段丘崖を上る土径にあるのかと上り始める。案内して頂いた地元の方も、こんな荒れた通を通る人などいないよ、と。
確かに荒れた道。地蔵だけを楽しみに上るが、何もないまま国道56号に出てしまった。地蔵は何処に?道を引き返し地元の方に尋ねるが、それらしきものを見たことはないとのとこであり、結局諦めて国道を先に進むことにした。

梶屋から室手へ
「えひめの記憶」には「現在の国道は切通しで室手(もろで)の峠を越えているが、灘道は国道より高い山腹沿いを通り、室手の峠を経て内海村の柏へ入っていた。国道の改修で灘道沿いにあった「右へん」と刻字された小さな道標は内室手の藤田邸の入口に移設された。過去2回にわたる峠の開鑿(かいさく)でかなり掘り下げられた切通しを越えると目の前が突如開ける。室手からの眺望はすばらしい。現在、波静かで澄んだ海面に真珠養殖のフロートが点在し漁船が行き交う」とある。

地図を見ても、室手(もろで)峠の切り通しの右手、山腹を峠へと抜ける道は見当たらない。仕方なく国道56号を進み、国道脇にある道標を見遣りながら、室手の切り通しを抜ける。
切通しを抜けた先に広がる宇和海の眺めは誠に美しかった。宇和海の眺めも素晴らしいのだが、国道下の狭い入り江に見える室手の集の景観に惹かれた。

室手から柏へ
「室手海岸沖の三ツ畑田島や鹿島を遠望しながら進むと内海村の中心地柏に至る(「えひめの記憶)」とあるように、宇和海に浮かぶ三ツ畑田島や鹿島(角島?)といった岩礁小島を見遣りながら国道56号を進み、旧内海村の中心地である柏に入る。遍路道は町の入り口で国道から右に折れ、柏川に架かる柏橋脇の2基の道標にあたる。
1基は平城への里程石であり、観自在寺への案内、もう1基は中務茂兵衛の道標であり、刻字の中に「舟のりば」と案内されており、柏坂越えを避け、柏から舟を利用した遍路もいたのでは、とは先回メモの通りである。

ここで先回歩いた「柏坂越え」のルートと繋がった。本日はこれで終了。明日は、柏坂を下りた大門から宇和島の市街へと向かう。


南予の遍路道を辿る1泊二日の旅の二日目。宇和郡愛南町柏から宇和島市津島町上畑地に抜ける柏坂を越える。
初日は高知の宿毛にある39番札所・延光寺からはじめ、予土国境の松尾峠を越え愛媛の宇和郡愛南町小山まで下りた。本来なら、そのまま遍路道を進み、愛南町御荘平城にある40番札所・観自在寺へと進むのだろうが、今回も常の如くまずは峠越え・山越えの道を「潰し」、そのあと平場を辿り、遍路道を繋ぐ、といった段取り。松尾峠の次に待つ山越えが柏坂である。
柏坂は片道12キロほどありそうだ。ピストン往復では8時間もかかることになる。ちょっと難儀。ピストンを避ける手段を想うに、柏坂の上り口、下り口が国道56号に面している。宇和島市から宿毛まで鉄路もないわけで、国道であればさすがにバスが走っているのではとチェックすると、柏坂への上り口の柏、下り口の大門にはバス停があり、午前7時代からバスが走る。 ということで、柏坂越えは当初覚悟してきたピストンを避け、下り口の大門バス停近くに車をデポし、バスで柏まで移動。柏で下車し柏坂越に向かうことにした。

本日のルート;
大門バス停>柏バス停>柏橋脇の道標>山崎橋脇の道標>柏坂取り付き口>野口雨情の詩〈歌?〉>柳水大師堂>林道と交差>牛止めの石組>清水大師堂>コメン木戸>接待松>つわな奥>猪のヌタ場>女兵さん 思案の石>思案坂>狸の尾曲がり>鼻欠けオウマの墓>クメヒチ屋敷>林道と交差>馬の背駄馬>道標>茶堂休憩所>茶堂集落の農家に>二本松大橋>小祝橋脇の道標>芳原川に合流>三島橋>大門バス停>大門の薬師堂>車デポ地

大門バス停;午前7時18分
宿泊地の宿を出て津島町上畑地、国道56号にある大門バス停に。ゆったりとスペースをとった立派なバス停である。かつては「魔の横断歩道」とも称された危険極まりないバス停であったようだが、平成3年(1991)に交通事故予防のため現状の姿に造り変えられたようである。
で、車のデポ地を探すに、なかなか適当なところが見つからない。遍路道でもある大門バス停から芳原(ほはら)川左岸の道脇に一旦車をデポするも、民家が近く、なんとなく落ち着かない。結局右岸の国道手前の空地を見付け車をデポし、バス停に。
定時にバスが到着。国道を進み嵐坂隧道を抜け、宇和海に沿って走り、西に長く飛び出した由良半島の首根っこの鳥越隧道を通り、右手に宇和海を眺めながら灘を経て内海隧道を抜け柏のバス停に。
国道56号
今でこそ快適な国道56号ではあるが、整備されたのはそれほど昔のことではないようだ。宇和島から宿毛を結ぶ道路が県道から二級国道を経て、一級国道に指定されたのが昭和38年(1963)。昭和37年(1962)の舗装率は14%といった記録もある。
国道となり本格的に改修工事が行われたのは昭和40年(1965)から。昭和47年(1972)には改修工事は完了。隧道21カ所(7315m)、橋梁37カ所を造り、宇和島と宿毛を繋いだ。
国道指定前の道
藩政時代の道筋は別途メモするとして、明治以降の国道56号の道筋の概略をメモする。
車馬の往来や物資の輸送といった、「道路」と呼ばれる道の改修は明治から。宇和島から宿毛に至る「宿毛線」は当初県道三等であったが、明治?年(1879)里道に降格。この状況を改めるべく、明治26年(1893)には県会において「宿毛線」の県道編入の建議が可決されるも、翌27年(1894)には県会で否決され明治末までその状態が続いたようである。
このような状況のもと、明治41年(1908)から43年(1910)にかけて難所である松尾坂越えの道が竣工し、一車線の砂利道ではあるが、宇和島市街から津島町岩松をつなぐ道は、明治末までにはできていたようだ。
が、この大門のある畑地もそうだが、岩松以南、下灘に繋がる道の整備はずっと遅れた、と。その因は、往来は船便に頼っていた故、とのことである。 一方、南の御荘側からの道の整備は、県会での県道編入の否決を受け、南宇和郡7ヶ村の代表が県道編入の請願をおこない、明治29年(1896)、御荘村貝塚より一本松村境に至る区高知県境に至る里道が改修されるに至る。明治32年(1899)には城辺より一本松を経て高知県境に至る道が「仮定県道」に編入。この改修工事が明治44年(1911)には内海村まで行われ、明治44年(1911)には初めて御荘村から平山(現在の御荘港の北)までの区間が改修され、翌明治45年(1912)には菊川を経て柏に達した。
平城から柏までの改修が終わると、道路改修は中断。柏から北に更に改修工事を延ばすべく、大正2年(1913)には、「いくつかの候補路線の中から、海岸線の路線(現在の国道筋)改修を陳情し、大正4年(1915)には柏崎まで開通。大正8年(1919)には鳥越隧道も完成し、北の畑地と南の御荘が繋がったようだ。
とはいうものの、大門から直ぐ南の嵐坂隧道が抜けたのは昭和18年(1943)、柏から柏崎の半島を迂回せず大浜に抜ける内海隧道が開通したのは昭和45年(1970)のこと。
道の整備は「ぼちぼち」といったペースであり、本格的な整備は一級国道昇格の昭和38年(1963)を待つことにはなるが、昭和25年(1950)の愛媛を走る自動車保有台数は4,932台、昭和39年(1964)でも68、690台というから、道路整備のペースもこの数字を見れば、あまり違和感がない。
明治の道路規定
「内海町史」には、「明治6年(1873)、「河港道路修築規定」が制定され、全国的幹線道は一等、脇往還・枝道は二等、その他の地方道は三等に規定される。明治9年(1876)には「太政官達第六十号」で国道、県道、里道に分類される。 宇和島から宿毛に至る「宿毛線」は当初県道三等であったが、明治?年(1879)里道に降格。
明治17年(1884)の「南宇和郡柏村里道等取調牒控」によれば、北宇和郡上畑地村境字フタマタより南宇和郡菊川村境字ヌメリバエ」に至るいわゆる「柏坂越え」の道は、里程一里十八丁で平均幅一間の里道一等と記されている」とある。
里道をめぐる道路制度上の変遷も面白いのだが、それよりなりより、山道に対し里道と、適当に使っていた「里道」が、制度としての役割を知ってしまった以上、今までの様には気楽に使いにくくなった。

柏バス停;7時34分
大門バス停から16分ほどで柏バス停に到着。由良半島の首根っこの鳥越隧道を境に、宇和島市津島から南宇和郡愛南町柏に入る。
柏バス停のある柏は、現在は愛南町であるが、平成16年(2004)、御荘町・城辺町・一本松町・西海町と合併し愛南町となるまでは、南宇和郡内海村の役場のある村の中心地であったようだ。
旧内海村
内海の地名の由来は、由良半島の南半分、御荘港を囲み西に延びる半島の北部までを村域(後年、南内海村として分離)とし、内海湾を囲んでいたから、とか。
モータリゼーションの視点から、陸の孤島とも呼ばれて久しかった当地の歴史は古く、寛治四年(1090)の「加茂社古代荘園御厨」に「伊予国内海」とあり、当時の内海一帯は京都の賀茂社の御厨(神領。神社の「荘園」と言ったもの)として下賀茂神社に海の恵を寄進していた、と。
移動手段を舟の視点から見れば、山に囲まれ、また海岸まで山が迫るこの地域も、舟で生計を立てる村人にとっては、それほどの「障害」ではなかったことかとも思える。

柏橋脇の道標:7時37分
国道から柏川の北詰にある「柏坂休憩地2.5㎞」の道標に従い、柏川右岸を進む。ほどなく柏橋に。橋の袂の商店の角に2基の道標が立つ。小さい道標は御荘の「平城 二里**」と刻まれる里程石。もう一基は茂兵衛道標。柏坂方面の石面には「龍光寺」と刻まれ、柏橋を左岸に渡る方向を示す面には愛南町御荘平城にある「観自在寺」と刻まれる。この道筋が旧道であり、遍路道ではあろう。
旧道とはいいながら、柏のすぐ北にある国道56号・内海隧道が開通したのは昭和45年(1970)であるから、ほんの最近まで、この道を柏崎に向けて進み半島を迂回して大浜へと出ていたのだろう。
茂兵衛道標にはその旧道に沿って「左 舟のりば」と刻まれる。柏坂越えを嫌って柏から舟を利用した遍路もいた、という。

山崎橋脇の道標;7時47分
道を進むと山崎橋の袂に自然石の道標がある。「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」によると「山崎橋の袂に柏坂越えの里程を示した自然石の道標があり、「坂上二十一丁 よこ八丁 下り三十六丁」と刻まれている。
この道標は昭和61年(1986)まで田んぼの傍らに放置されていたものを「柏を育てる会」の人たちが現在地に移転、修復したという。
津島町上畑地小祝(こいわい)までの全道程65丁(約7 km)はさほどの距離ではないが、多くの旅人や遍路が苦労したのは坂上21丁の急坂、標高450mの峠に登る急勾配の上り坂である。
この柏坂は、戦後間もないころまで地域の生活道路として利用され、向こう側の津島町畑地や上槇地区とは頻繁(ひんぱん)に行き来があったという。海岸部を通る現在の国道が整備されるにつれ、柏坂を通る人は減少し、道は荒廃していたが、内海村や「柏を育てる会」の人たちの懸命な奉仕作業で生き返った。道端に桜の苗木を植え、道の補修・整備を行い、旧遍路道「柏坂」を復活させ、先人の残した歴史的遺産を守る活動を続けている。この道は現在、環境庁の「四国のみち」に指定され、自然歩道として再び光を浴びてきた。毎年、春には「へんろ路ウォーク大会」が開催され賑(にぎ)わうという」とある。

柏坂取り付き口;7時49分
山崎橋と自然石道標の間、柏川右岸にある遍路道案内の先に一件の民家が見える。民家のある角に立つ「柏坂休憩所1.7km」の「四国のみち」の案内に従い、左折し民家前を進むと土径に。民家脇が柏坂越えの取り付き口となっていた。 取り付き口には「柏坂登り口」「柳水大師堂まで2.5km つわな奥展望台まで4.4km 大門バス停まで12.2km」の案内が立つ。
「えひめの記憶」には「澄禅は「夫(それ)(観自在寺)ヨリ二里斗往テ柏ト云所ニ至、夫(柏)ヨリ上下二里ノ大坂ヲ越テハタジ(畑地)卜云所ニ至ル。」と『四国遍路日記』に記している。登り口から標高350mの柳水(やなぎみず)大師堂のある柏坂休憩所まで約1.7kmの道程である」とある。
登り口の案内と「えひめの記憶」に記された柏坂休憩所までに距離は異なっているが、とりあえず大門バス停まで12キロ強歩けばいいことだけわかれば十分な情報である。
柏坂越え(前半)
●澄禅の『四国遍路日記』 先回の散歩のメモの空性法親王の箇所で「えひめの記憶」には、「近世になって世情が安定するとのともに四国遍路は盛んになっていったが、近世以前から近世にかけてのまとまった四国遍路資料はごく限られたものしかない。そのうち、嵯峨大覚寺の空性法親王が寛永一五年(一六三八)八月より一一月にかけて四国霊場を巡行した折の記録『空性法親王四国霊場御巡行記』や、それから一六年後の承応二年(一六五三)七月から一〇月にかけて四国を巡った京都智積院の僧澄禅の『四国遍路日記』などは、もっとも初期の遍路資料として貴重なものである」としたが、この僧澄禅の『四国遍路日記』について、同じく「えひめの記憶より以下引用する;
「この日記は、現在宮城県塩釜神社に写本が残されている。筆者の澄禅は肥後国球磨郡の生まれで、新義真言宗の本山の一つ京都智積院の僧である。この遍路は澄禅四一歳の時のことであり、承応二年(一六五三)七月一八日に高野山をたち、一〇月二六日結願まで九一日間の旅であった。
柏坂越え(後半)
この旅の記は、巡拝した寺社の縁起や里程の紹介のみならず、各地の庶民生活に目をとめて、人情・風俗・言語・宗教などの細かな観察なども記しており、四国の地方史の資料として、また江戸初期の遍路の実態をよく伝える資料として価値が高い。
伊予路の部分を見ると、四二番仏木寺、四四番菅生山太宝寺などの縁起説話や、四五番岩屋寺の迫割岩の話、四六番浄土寺に詣でた折に宿った久米村武知仁兵衛など、各地の正直篤信な人たちへの感銘、五五番三島宮や六二番宝寿寺における旧知の僧との語らい、石鎚山の雪景の印象、六五番三角寺への山道の険阻と紅葉の美景への賛嘆などに筆を費している。なかでも、弘法大師練行の場と伝えられ、一遍上人再出家の幽境岩屋寺と、四国八十八か所巡りの元祖衛門三郎ゆかりの五一番石手寺の記述は詳しい。
澄禅が記す衛門三郎転生譚は、伊予国浮穴郡荏原の庄の強慾な長者として知られる衛門三郎説話とは異なり、伊予の大守河野殿の下人で石手寺の熊野一二社の掃除番であったとする珍しい説であるから、次に引いておく。
中古ヨリ石手寺ト号スル由来ハ、昔此国ノ守護河野殿トテ無隠弓取、四国中ノ幡頭ナリ。石手寺近所ノ温ノ泉ノ郡居城ヲカマエ猛威ヲ振フ。天正年中迄五十余代住ケルト也。扨、右ノ八坂寺繁昌ノ砺、河野殿ヨリモ執シ思テ衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル。
毎日本社ノ長床ニ居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ慳貪放逸ノ者也。大師此三郎ヲ方便ヲ教化シテ真ノ道二入度思召ケルカ、或時辺路乞食ノ僧二化シテ長床二居玉フ。例ノ三郎来リ見テ、何者ナレハ見苦キ躰哉ト頻テ追出ス。翌日又昨日居玉フ所二居玉ヘハ又散々ニ云テ追出ス。
三日目二又居玉フ、今度ハ箒ノ柄ヲ以テ打擲シ奉ル。其時大師持玉ヘル鉄鉢ヲ指出シ玉ヘハ此鉢ヲ八ツニ打破ル。其時此鉢光ヲ放テ八方二飛去ル。衛門三郎少シ驚、家ニカエレハ嫡子物二狂テ云様ハ、吾ハ是空海也、誠二邪見放逸ニシテ我ヲ如此直下ニスル事慮外ノ至也、汝力生所ノ八人ノ子共ヲ一日力内二蹴死ヘケレトモ、物思ノ種ニ八日可死云テ手足ヲチゝメ息絶ヌ、其後次第~~'ニ八人ノ子共八日二死セタリ。其子ヲ遷セシ所トテ八坂ノ近所ニ八ツノ墓在リ、今ニ八墓ト云。
後悔した三郎は髪を剃り、四国中を巡行して子供の菩提を弔う。二一度の辺路行の間、大師も姿を変えて随行し、三郎の慈悲心の堅固なのを見てとると三郎の前に姿を現わして、生涯一度の望みを叶えてやると約束する。三郎が河野家の子に生まれることを望むと、大師は三郎に石を握って往生することを教える。
三郎は一二番焼山寺の麓に往生したが、やがて河野家の世継の子孫が生まれて三日目に左手を開けると三郎の名を記した石を握っていたので、この石を込めた本尊を据えて安養寺を石手寺と改めたという。衛門三郎発心譚に、空海の飛鉢説話、玉の石の後日譚を含む詳細な説話の記録として注目される。
澄禅は伊予路を過ぎるにあたって「凡与州ノ風俗万事上方メキテ田舎ノ風儀少ナシ。慈悲心薄ク貪俗厚、女ハ殊二邪見也。」と感想を記している。次の讃岐についても「凡讃岐一国ノ風儀万与州ニ似タリ」と記しており、瀬戸内側の両国の風俗・人情と、「惣テ阿波ノ風俗貴賤トモニ慈育ノ心深シ」「凡土州一国ノ風俗貴賤トモニ慈悲心深キ」と記された阿波・土佐の印象を比較することも興味深い」。

野口雨情の詩(歌?)
坂を5分ほど歩くと木標が立ち
●「沖の黒潮荒れよとままよ船は港を唄で出る 野口雨情」
とある。
「十五夜お月さん」「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「黄金虫」「シャボン玉」「あの町この町」「雨降りお月さん」「証城寺の狸囃子」と言った童謡で知られる野口雨情は、昭和12年(1937)の日中戦争勃発により戦時色が強まり童謡作家としての活躍の場は狭まることとなるが、雨情の雄渾なる書を求める人の招きに応じ全国各地へ揮毫の旅を続けたという。

愛南町のHPに拠れば、「昭和18年(1943年)、雨情は突然軽い脳出血に冒され、それまで全国を駆け歩いていた雨情はそれ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。雨情が内海村を訪れたのはこの最後の揮毫旅行においてである(私注;「えひめの記憶」には。当地を訪れたのは昭和?年(1937)とある)。
雨情が内海村に立ち寄った直接的理由は不明ではあるが、柏の長尾魁氏の書簡による招きに応じたものと思われる。各種の聞き取り調査等によって、内海村に来た雨情は柏の旅館「亀屋」及び「旭屋」で揮毫料半折十円の揮毫会を催し、時化による航路欠航のため約一週間の滞在を余儀なくされ「亀屋旅館」に投宿したものと思われる。 
内海での詩作数は14作に及ぶ(「愛南町HP)とのことであり、この詩もそのひとつ。歌は更に道端に続き
最初の歌から8分ほど歩くと
●「雨は篠つき波風荒りよと国の柱は動きやせぬ」
そこから3分歩き、「国道56号 1.4km 柏坂休憩所 1.1km」の木標の脇に
●「松はみどりに心も清く人は精神満腹に」の歌。
さらに4分で
●空は青風菜の花盛り山に木草の芽も伸びる
更に6分、右手が開ける少し手前に
●松の並木のあの柏坂幾度涙で越えたやら
10分弱歩き「国道56号 2km 柏坂休憩所 0.5km」の木標の先に
●梅の小枝でやぶ鶯は雪の降る夜の夢を見る

歌を見遣りながら道を進むと、知らず標高を200mほどあげ、等高線230mラインまで上がっていた。坂は一部等高線に垂直に近いラインを進むことはあるが、おおむね等高線を斜めや平行気味に進む、予想に反して、結構楽な上りではあった。

柳水大師堂;8時36分
取り付き口から50分弱で柳水大師堂に。標高330m程だろうか。四阿があるが、そこか柏坂休憩所のようだ。その奥に柳水大師堂が建つ。
「柳水の案内」には、「むかし柏本街道のこの地に四国遍路の弘法大師が立ち寄られ、往還の旅人の渇きをいやすため柳の杖をつき立てたところ、甘露の水が湧き出てきたので、柳水と云うようになったとのことで、そのお杖が根付いて一本の柳が代々育っています。
また柏には、大師がお顔を剃られたと伝えられている「剃りの川」の井戸と、腰をかけられた石も法性寺とその附近に現存しています」とあった。

大師堂脇の湧水が「柳水」だろう。案内にあった、「剃りの川」の井戸と、腰をかけられた石も法性寺、はここで説明されても、後の祭りではある。
なお、案内にある柏本街道とは柏坂の別名のようである。
歌休憩所のも野口雨情の歌が建つ
●遠い深山年ふる松に鶴は来て舞ひきて遊ぶ

柏坂越えの道
柳水大師堂を離れて先に向かう。取り付き口からの柏越えの道は、結構広い。歩き遍路の峠越えの道はほとんど狭い土径、踏み分け道といったところが多いのだが、よく「整備」されている。上述、地元のボランティアの方の努力の賜物ではあろうが、この道は長い間、内海村と津島を結ぶ幹線道路であったこともその一因かと思う。
上述、「内海村史」に「明治17年(1884)の「南宇和郡柏村里道等取調牒控」によれば、北宇和郡上畑地村境字フタマタより南宇和郡菊川村境字ヌメリバエ」に至るいわゆる「柏坂越え」の道は、里程一里十八丁で平均幅一間の里道一等と記されている」とあるように平均幅一間の道であったようだ。
「えひめの記憶」には「明治15年(1882)の愛媛県行政資料『土木例規』によれば、「北宇和郡上畑地村北宇和郡下畑地村境ヨリ南宇和郡柏村ニ至ル県道筋字郷ノ町ヨリ井場マデ狭キハ四合ヨリ広キハ弐間ニ至ル凡平均七合」と記され、県道といえども道幅は平均1m程しかなく極度に狭いことが分かる」とするが、これは、県道(私注;実際は「里道」?)という観点から見れば、ということではあろう。

林道と交差;8時45分
柳水大師堂から10分弱で遍路道は舗装された道と交差する。道を渡ったところに木のベンチがあり、そこに遍路道の案内が貼られていた。
案内には「伊予遍路道 龍光道 第41番札所 龍光寺まで41㎞ 伊予遍路道は、弘法大師ゆかりの地を辿る全長1400㎞にも及ぶ壮大な回遊型巡礼路のうち、第40番から65番までの26ヶ所の札所とそれらをつなぐ約573㎞の遍路道です。
伊予(愛媛県)は、迷いから解かれる「菩提の道場」と呼ばれています。 龍光道は、第40番札所観自在寺から第41番札所龍光寺へ至る遍路道です。海側の灘道、篠山を越える篠山道、幕府巡検使の通った中道と3つのルートがあります。柏坂は、江戸時代後期に最も多く利用された灘道の中で、リアス式海岸の宇和海の絶景が眺望できる山道です。 四国遍路日本遺産協議会」とあった。
灘道・中道・篠山道
「えひめの記憶」には「松尾峠から宇和島市祝森柿の木への遍路道は、ほぼ宿毛街道と重複し、中道・篠山道・灘道の三本の道筋がある。
松尾峠を越えた宿毛街道は、一本松町札掛で中道から篠山道が分かれ、さらに同町上大道(うわおうどう)で中道から灘道が分岐する。中道は、大岩道(だいがんどう)・小岩道(しょうがんどう)の峠を越え、岩淵を経て柿の木に至る。篠山道は、四十番観自在寺奥の院篠山を越え、御内(みうち)を経て大町で中道に合流する。灘道は、観自在寺を経て一部海岸沿いを進み、柿の木で再び中道と合流して宇和島城下に至る」とあり、
また「真念が貞享4年(1687)に出した『四国邊路道指南』によると、御荘町平城(ひらじょう)の観自在寺からの道筋について、「一すぢ、なだ道、のり十三里。一すぢ、中道大がんだう越、のり十三里。一すぢ、ささ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」と記され、
さらに「『愛媛県歴史の道調査報告書第七集宿毛街道』には、一本松町札掛から宇和島市柿の木までの三本の遍路道のうち「遍路が多く通った道は『灘道』で、次いで『篠山道』であった。『中道』は『四国邊路道指南』に記されているように、遍路道の一つであったが、その道の急峻さ、観自在寺の所在地などからして遍路道としての使用頻度(ひんど)は高くなかった。」と記されている。近世以降の遍路は、ほとんど灘道を通ったものと思われる。時代の流れによって中道、篠山道の順で歴史から姿を消していくことになるが、現在でもわずかの遍路が柏坂の灘道を通っている」とする。
今回辿る柏坂越えは、海岸沿いの灘道ルートである。

牛止めの石組;8時59分
舗装された林道(?)脇にある「柏坂へんろ道」の木標に従い土径に入る。開けた南の山波を見遣りながら進むと野口雨情の歌
◆山は遠いし柏原はひろし水は流れる雲はやく

そのすぐ先の道脇に石垣が見える。石組の脇に「岩松村 土居儀兵築営」と刻まれた石碑が立つ。特に案内もないのだが、この後辿る「ゴメン木戸」にあった案内から妄想するに、牛止めの石垣ではないかと。怖がりの牛は1mの段差があれば下りることができない、と。
怖がりといえば、沢を渡るとき、沢に渡した木の間から沢が見えるだけで足がすくんで動けないため、木の間に隙間を空けないように土止めをした、といった記事を思い出した。

清水大師堂;9時5分
牛止めの石組(?)から先は450mから460m等高線の間に沿った平坦な道となる。柏坂越えの最高峰は標高502mの大師峰だが、遍路道はピークを巻いて進む。 5分ほど歩き「柏坂休憩地 0.7km 茶堂休憩地2.7km」の木標の下部に「清水大師堂30m」の案内。

左に折れて道を下ると小祠とその横にささやかながら崖からの湧水が。案内には「大師水 ある年の夏、一人の娘巡礼がこの地にさしかかった時、余りののどの渇きに意識を失い倒れてしまいました。するとそこへ弘法大師が現われ、娘を揺り起こしながら、傍らにあるシキミの木の根元を掘るようにと言い、姿を消しました。意識を取りもどした娘が、シキミの木の根元を掘り起こしてみると、真清水が湧き出し、娘がその水を飲むと持病の労咳がすっかり治ったという話が残っています。
また、この地において、昭和?年頃までは、毎年旧暦の7月3日になると、近郷近在の力士による奉納相撲が行われ、多くの人が集まり、市がたっていたそうです」とあった。
大師堂前は少し広く切り開かれた平坦な地となっており、奉納相撲はできそうであった。

コメン木戸;9時16分
清水大師堂で少し休み、崖道を上り返して遍路道に戻る。10分弱歩くと「ゴメン木戸」の案内。「この辺一帯は昭和?年代迄大草原で、近在農家の中の草刈り場であった。
明治の頃には放牧が行われ、津島の牛が南宇和郡内へまぎれ込むのを防ぐため、頂上(通称ヒヤガ森、502メートル)へ向け、延々と石畳が築かれていた。牛は1メートル位の高さがあれば降りないという習性(二次元動物)を利用したものる。と思われ、ここに木戸が設けられていて、人々は「ゴメンナシ」と言って通行したそうである」とある。
先ほど見た石組を牛止めの石垣では?と想像したのはこの案内の記事故である。今、この地にその放牧地の面影はない。

接待松;9時21分
平坦な尾根筋の道を5分ほど歩くと「接待松」の案内。「接待松(別称ねぜり松)跡 ある日、病気で足の不自由な人が箱車に乗り、50人程の人々によって、大綱をかけ引っ張り上げてもらっていました。
丁度この地にさしかかった時、俄に一陣のつむじ風が吹き荒れ、蛇のように曲がりくねった大松が箱車を押し潰すかのように思われ、思わず箱車から逃げ出そうとしました。そのはずみで、長年の足の病が治ったという話が残っています。
また、弘法大師ゆかりの日には、地元の人達がこの場所で、お遍路さんに茶菓子の接待をしていたといわれていますが、名物となっていた大松は、昭和30年頃に伐採され、今は朽ちた株を残すだけとなりました」とある。 「ねぜり」とは「ねじ曲がった」といった意味だろう、と思うのだけど、箱車云々との関係は、いまひとつよくわからない。








つわな奥;9時25分
接待松から5分で左手が大きく開ける。素晴らしい眺め。あいにくの雨模様ではあったが、雨に煙る由良半島もなかなか、いい。「えひめの記憶」のには「 江戸初期の俳人で、遍路としてここを訪れた大淀三千風は「柏坂の峯渡り日本無双の遠景なり九州は杖にかかり伊予高根はひじつつみにかたぶく。」と眺望のすばらしさを称え、
高群逸枝は『娘巡礼記』の中で「『海』...私は突然驚喜した。見よ右手の足元近く白銀の海が展けてゐる。まるで奇跡のやうだ。木立深い山を潜って汗臭くなった心が、此処に来て一飛びに飛んだら飛び込めさうな海の陥(おと)し穽(あな)を見る。驚喜は不安となり、不安は讃嘆となり、讃嘆は忘我となる。暫しは風に吹かれ乍ら茫然として佇立(ちょうりつ)。」と歓喜している。つわな奥展望台からは、すぐ眼下に宇和海に浮かぶ由良半島や竹ヶ島(私注;由良半島の北に浮かぶ)が手にとるように鳥瞰(ちょうかん)できる」とある。
「つわな」とは「つわぶき」とある。海沿いの草原や崖、林の縁に見られる常緑の多年草のようだ。





猪のヌタ場;9時33分(標高420m)
「つわな奥」を過ぎると再び木々の中に。5分ほど平坦な道を進むと「猪のヌタ場」の案内。「イノシシが水溜り(ここは電話線が通っていた電柱の跡)の泥の中で水浴みをし、更に傍の木に体をこすりつけ、付着している寄生虫を殺し毛づくろいをする所をヌタ場といい、この街道沿いにも数ケ所あるが道ばたにあるのはここだけである」とある。
結構いろんなところを歩いたが、さすがに「猪のヌタ場」も案内ははじめてである。「猪のヌタ場」を越えると、尾根筋に沿って下ることになる。

女兵さん 思案の石;9時37分(標高380m)
5分ほど尾根筋を下ると「女兵さん 思案の石」の案内。「食料難の時代、かつぎ屋の兵次郎(ひょうじろう)さん──女のような姿態をしていたので、人呼んで「女兵さん」──ヤミ物資をかつぎここ迄来ると、不意に雲をつくような大入道が現れ「コラッ女、こっちえ来い」「わたしゃ、男なんですよ」「ナラ証拠を見せい。わしのより立派やったら、コラエテやらい」
腰を抜かさんばかりの兵さん、やおらニッコリ、褌に手をかけました。兵さんをからかったつもりの大入道、一物をチラッと見、あわてて退散しながら「上には上があるのお、わしゃたまげた」と。

内容はともあれ、この類の笑い話も「トッポ話」のひとつだろうか。「えひめの記憶」には「トッポ話の風土」として、「トッポ話は南予の、それも潮風のあたる地域で醸し出される笑い話であるとされる。宇和海は瀬戸内海とはいくらか潮の色や動きが異なるのか、その沿岸の住民たちの気風や性格、それに行動の型も特異なものがあるようである。三崎十三里といわれる佐田岬は宇和海型の思考と瀬戸内型のそれを截然と分かつ障壁のごときものであるかもしれぬ。太平洋黒潮文化圏と呼ばれるものがあるとすれば、いくらかそれに近いように思われる。
「ここいらでは当りまえのことでも、よその人に話したら〝おかしい〟ことがようありますらい...」と南予の人はいう。獅子文六の小説『てんやわんや』に、あるいは『大番』に描かれた饅頭を底なしに食う男、ラブレターをガリ版で刷って配る男は実在したし、そのことは「なぁんちゃ、ちっとも〝おかしい〟こたぁあるかい」程度の日常茶飯事であった。風土がそもそも多少の怪奇性を帯びているとすれば、そこに生息する生きものもいささが奇矯であってもしかたがないと思うのは第三者の観方であって、当人たちはすこぶる正常なのである。
宇和海の島や沿岸には稲作に適する水田はごくわずかで、急傾斜の山肌に営々として小石を築きあげて段畑を作った。そこに麦・藷をうえて主食とし、宇和海の干し鰯を副食として生きてきた。イモとカイボシ、これほどの食文化の理想型を無意識のうちに実践してきた、あるいは実践せざるをえなかった人々は他にはあるまい。農耕型と一種味わいのちがう準海洋型の南予人の発想がトッポ話を育んできたといってもよい。とにかく、親切明朗で奇抜であり、そのくせ適当に狡猾でもあるのが南予準海洋人の性格であるとされる。
第三者からすれば突調子もないことを言ったりしたりする者はトッポサクと呼ばれ、いくぶんかの軽蔑忌避の念をもって遇されかねぬが、トッポ話はおのれを愚にして他をもてなす謙譲の技法なのである。粒々辛苦の果てに生み出した奇想天外な主題を巧みに構成して効果的に語るのがトッポ話である。それは一つの技芸であり、文学であり、かねてまた人を愛し遇する技術でもある。宇和海の潮風と太陽が生み出した人間の話術である」とする。
更に続けて「えひめの記憶」には「『えひめのトッポ話』として、「海があって山があって小さな集落があって、一般に南予と呼ばれる伊予の南部地方は、ある意味で日本のふるさとであります。人々のやさしさはこれに尽きるものはなく、自然の美しさもこれに優るものはありません。そして、ここには〝トッポ話〟があるのです。遠い昔、藩政時代の苦しさを自ら慰めるためにそれを笑い飛ばした人々の生活の知恵がありました。数限りない底抜けに明るい話が、親から子へ、それから孫へと語り継がれ、それが今しっかりと伝えられています」と、『えひめのトッポ話』のまえがきのなかで編者和田良誉は述べている。「えひめの...」と名付けられているが、内容的にはこのまえがきに明らかにされているように「南予の...」〝トッポ話〟である」とする。
「女兵さん」の話は上述説明に当てはまるか否か、少々疑問ではあるが、他にはなかなか面白い「トッポ話」もあった。獅子文六さんの名が出たが、この先津島の町で獅子文六ゆかりの地に出合うことになる。

思案坂;9時40分
女兵さんが何を思案したのか、思案の石って何?といったことはトッポ話からはよくわからないのだが、女兵さんの案内のすぐ先に「思案坂」の木標が立つ。尾根筋を下る緩やかな坂ではある。








狸の尾曲がり;9時45分
緩やかな坂を10mほど標高を下げると「狸の尾曲がり」の案内。「昭和61年秋、「四国のみち」の調査に来た、県の係官3名、この街道のはえぬき「三兄(さぶにい)」の案内にしたがい、峠から下りる途中雑草茂るこの地で、道を誤って反対側に入り、しかも逆に100メートルばかり上った。若い係官「オッチャン、さっき通った所に出たんじゃない。木の皮を削っているよ」
ハッとした三兄「アリャ古狸め、またワルサしおって」
皆さん、ここで、ご同伴が、美人やハンサムに見えなかったら「ソレワ大ごと」──気いつけなはれや」とあった。

鼻欠けオウマの墓;9時51分
更に5分ほど下ると「鼻欠けオウマの墓」の案内。「明治のはじめ、梅毒にかかり、鼻が無くなったお馬さん、女性自身をしゃもじでたたきながら、くりかえしていました。
「お前の癖がワルいから、わしゃ鼻落ちた」
若いころの面影もないオウマさんを、里人たちは大事にいたわり、死後婦人病除けに、参拝された時期があったそうです」とある。
おおらかといえばそうでもあるが、上述「えひめの記憶」に「粒々辛苦の果てに生み出した奇想天外な主題を巧みに構成して効果的に語るのがトッポ話である。それは一つの技芸であり、文学であり、かねてまた人を愛し遇する技術でもある」とするほど昇華されているとは思えないのだが。。。

クメヒチ屋敷;9時55分
数分下ると「クメヒチ屋敷」の案内。「むかし、ここにひなびた館があり、おクメさん、おヒチさんの美人姉妹が住んでいて、近在の男達が米一握り水一桶持参し、遊びに来ていました。やがて玉のような男子が生まれ、「クメヒチ」と名ずけ大切に育てられましたが、姉妹は当時流行した、悪性のオコリ(赤痢といわれている)にかかり、二人とも、アッとゆう間に亡くなりました。
成人したクメヒチさんは、ここに一庵を建て、二人の霊をまつったそうです。 現在は厠の跡らしい石組みが、うかがえる程度ですが、今にもオクメさん、オヒチさんが現れて来そうな幽玄な気のする所です」とあった。辺りに屋敷跡は特に見えなかった。

林道と交差;9時57分
ほどなく林道と交差。地図を見ると東側の芳原川の谷筋から繋がる実線ともうひとつ、延々と東に向かい観音岳の北麓を巻き、宿毛街道中道の小岩道と繋がる実線が描かれている。西は直ぐ切れていた。
なにか面白い展開は?と地図を眺めたのだが、特になにも確認できなかった。

馬の背駄馬;10時1分
林道をクロスし土径に入り少し進むと、「馬の背駄馬」の木標があり、その先のやせ尾根に「馬の背」の木標が立つ。やせ尾根が馬の背というのはよく知られた言葉だが、そこに駄馬、この場合はダメ馬というより、荷を運ぶ馬といった意味だろうが、その関係についての説明はなかった。




道標;10時15分
そこから10分強歩くと道標がある。「へんろ道」と刻まれた道標の手印は「南の第40番観自在寺方面を指す。「えひめの記憶」には「四十番いなり寺」と間違って刻字されている」とある。何が間違い?「いなり寺」とは宇和島にある第41番札所・龍光寺」。が、手印は観自在寺方向を指しているわけで、「四十番観自在寺」とするのが正しい、ということだろう。





茶堂休憩所;10時21分
道標から5分程歩くと四阿がある。茶堂休憩所についた。実のところ、道の途中から大雨となり、四阿で雨具に着替え。屋根のある四阿で気が抜けたのか、休憩所近くにある「トッポ話」の案内を見逃したようだ。
実際に目にしたわけではないのだが、チェックすると「土佐の愚か村話の名人が、津島町の茂八と、トッポ話の試合に来ました。名人が茂八を訪ねると、家の前では?歳あまりの女の子が遊んでおり、「茂八さんはおるかの」と聞くと、留守だといいます。「どこへ行ったのか」と尋ねると「父やんは裏の山がかやりよる(くずれている)いうので、線香持ってつっぱりに行ったぞなし」と答えます。土佐の名人、さすが茂八の娘と感心して「お母やんは...」と聞くと、「母やんは座敷で、のみにぽんし(ちゃんちゃんこ)を着せて遊ばしよる」といいます。名人はこれではとうてい茂八にかなわぬとばかり、ほうほうのていで逃げ帰ったとか。
津島町には、このような楽しいトッポ話(ほら吹き話)が数限りなくあります」とあったようだ。「トッポ話」っぽい「トッポ話」を見逃してしまった。ちょっと残念。

茶堂集落の農家に;10時28分
四阿で着替えを終え道を下ると、石垣があり、空が開け、一瞬里に下りたのかと思うが、すぐに前面が広がる先の景色は未だ山中。が、突然一軒の農家が現れる。遍路道は左折の案内が農家に掛る。
たまたま農家にお婆さんがひとり。雨宿りを兼ねてお話し。地図で見るに、未だ結構な山の中。時に息子さんが来てくれるので、淋しくはないなどとおしゃべりを楽しむ。
名残惜しいが、雨の中先を進むとすぐ先に廃屋があった。この山間の茶屋の注楽には一軒の農家が残るだけのようである。
「えひめの記憶」には「茶堂の地名について「茶堂は藩政時代から明治初期にかけて栄えていたところで、有名な茶ガマがあったところからその名がついたといわれる。」と『旧街道』に記されている。
また『津島町の地理』には、「茶堂は明治末年には11戸の集落であったが、その後、挙家(きょか)離村が続き、昭和37年(1962)には5戸の集落になっていた。さらに58年にはわずか2戸の寂しい寒村になってしまった。(中略)この茶堂は柏坂越えの中間にあり、明治末年の11戸のうち、5戸が遍路宿を営み、収容人員は40人ほどであったが、春のシーズンには3倍程度の宿泊客を収容した。」と記述され、時代の波に翻弄(ほんろう)された灘道沿いの様子がよくわかる」とあるが、現在は1軒のみのようである。

二本松大橋;10時56分
標高190m辺りの茶堂の集落、といっても一軒だけだが、ともあれ集落を離れ、上述廃墟の脇を抜け、「国道56号 2.9km 茶堂休憩所 1km」と書かれた木標を見遣りながら、広い間隔の等高線となる緩やかな尾根筋の道を30分ほどかけて100m強下ると、沢に小橋がかかる。橋脇には「二本松大橋」と木標にある。 小祝川の支沢に架かる橋ではあろうが、「大橋」とはさ、ギャップを感じる。とはいうものの、沢に架かる丸太の一本橋に比べれば「大橋」ではあろう。




小祝橋脇の道標;11時5分
二本松大橋から10分弱、「国道56号 1.8km 茶堂休憩所2.1km」とある木標に従い、沢に沿った道を下り小祝川に架かる小祝橋に出る。やっと里に下りてきた。橋の東詰めに道標が立つ。「えひめの記憶」には「これよりいなりへ...」と刻まれた道標がある。土に埋もれて施主(せしゅ)や願主の名は見えないが、標石の形からして願主は徳右衛門と思われる」とある、

芳原川に合流;11時26分
橋から先は舗装された道となる。民家が点在する上畑地の集落を20分ほど進むと小祝川は芳原川に合わさる。川は芳原川となって下り津島の街で宇和の海に注ぐ。



三島橋;11時47分
芳原川に沿って山裾の道を20分ほど歩くと、前方に国やっと道56号が見えてくる。民家が建ち並ぶ集落の「国道0.2km 茶堂休憩所3.7km」の木標脇にある三島橋を渡り国道に向かう。



大門バス停;11時51分
柏坂を上りはしめて4時間半、大門バス停に到着。バス路線をチェックし、ピストンは不要となったが、当初の計画通り、ピストンで柏バス停まで戻ったとすれば、午後4時を過ぎることになったかもしれない、ピストンすることなく柏越えを終え、ちょっと嬉しい。






大門の薬師堂;12時
車デポ地に戻る前、バス停にある「薬師堂」にお参り。大門バス停からの国道56号の西、山裾に沿って続く遍路道を入ったところを直ぐ山側に入ると薬師堂がある。
茅葺お堂はなかなか、いい。案内には「愛媛県指定有形文化財 禅蔵寺薬師堂一棟
この建物は方三間(間口)、5.61メートル、一重、方形造、茅葺である。創建は室町時代末期とされ、その様式を残して江戸中期に再建されている。
外部は素朴な草庵風の日本の伝統的民家様式で、構造および内部1は唐様である。特に花頭窓は禅宗様の古い形のものである。
建築年代は板札によると、天正年間(1573-91)とあるが、寺の伝説によると、天文年間(1540)ごろ、畑地鶴ケ森城の鶴御前のため、津島城主越智通考が祈願所として建立したと伝えられる。
平成2年、向背、花頭窓、内陣そのままに解体修理さいた」とあつ。

車デポ地;12時10分
車デポ地に戻る。時間は十分あるのだが、なにせ突然の大雨。天気予報では昼過ぎまで天気はもつ、とのことでもあり、雨具は念のため用意した簡易雨具のみ。とてもではないが、既にびしょ濡れであり、冬の寒さもあり体力も消耗し、これ以上歩く気力はない。本日はこれで終了とする。
次回は、予土国境の松尾峠の下り口から柏坂越えの上り口を繋ぎ、さらにこの地大門から津島の町を通り、松尾峠(予土国境に松尾峠とは別)を越えて宇和島まで進もうと思う。
11月の中旬、1泊2日の予定で南予の遍路道を歩くことにした。遍路道を歩く、とはいいながら、今回は二つの峠越え・山越えが中心である。
初日は土佐(高知県)での最後の札所である39番・延光寺からスタートし、予土国境の松尾峠を越え伊予(愛媛県)の愛南町に入る。二日目は愛南町を抜ける平坦地の遍路道をスキップし、南宇和郡愛南町の北端・柏から柏坂を越えて宇和島市津島へと抜けることにした。
愛南町の御荘には40番札所・観自在寺もあり、本来ならば予土国境を越えた後、愛南町の遍路道を辿り柏坂越えとしたいのだが、なにせ時間が足りない。今回も常の如く単独・車行であり、峠越え・山越えの後はピストンで車デポ地に戻らなければならない。倍の時間がかかる。おまけに季節柄日暮が早い。
初日の松尾峠越えは5キロ強、往復で10キロ程度ではあるが、田舎の愛媛県新居浜市から高知の39番札所・延光寺のある宿毛市まで高速を使っても3時間強の時間がかかり、松尾峠越えが精一杯だろう。平場を辿る時間の余裕はない。 2日目の柏坂越えは片道12キロほどもありそう。ピストン往復で8時間、1日がかりの山越えで、とても平場を歩く余裕はないようだ。
ということで、今回は平場歩きをスキップし、松尾峠越えと柏坂越えに計画を絞ったわけだが、初日は計画どおり。二日目は柏坂の登り口と下り口にバス停があり、ピストンは不用となり爾間の余裕はできたのだが、途中で予想外の大雨。ちゃんとした雨具を持参していなかったこともありびしょ濡れとなり、柏坂を越えて散歩続ける気力は失せた。結果的には2日目も計画通りのルーティングとなった。

今回南予の遍路道を歩くことにしたのは、思い向くまま気の向くままに辿った幾つもの愛媛の遍路道歩き・峠歩きの「間」を繋げる散歩の一環。西予市宇和町(かつての卯之町)の43番札所・明石寺からはじめた遍路道を繋げる散歩も、東予の西条市までつながった。
ここにきて、どうせのことなら西予市宇和町より南、高知県から愛媛県に入るところから道を繋げようと思ったわけだ。
南予は遠い。卯之町の明石寺まで、またいくつかの峠がある。基本は峠を「潰し」、その後に平場の遍路道を辿り43番札所・明石寺へと繋ごうと思う。あと何度か南予往復とはなりそうである。

本日のルート:
39番札所・延光寺から宿毛市街へ
39番札所・延光寺>遍路道分岐に茂兵衛道標>支尾根の丘陵を越えて国道56号に出る>県道4号を宿毛市街へ>宿毛大橋脇の遍路小屋>貝塚大橋>宿毛貝塚
宿毛から松尾峠取り付き口に
山裾の遍路道入り口に車をデポ>錦の集落に向かう>錦>小深浦>大深浦
松尾峠越え
松尾峠取り付き口;12時21分>松並木の跡>街道の石畳>茶屋跡>松尾大師堂跡>松尾峠>藤原純友城址>左手前面が開ける>林道・舗装道に出る>(松尾峠取り付き口に戻る)
松尾峠下り口から小山の集落へ
林道と繋ぐ;15時18分>小山の集落;15時30分

愛媛県新居浜市から高知県宿毛市へ
午前6時前には家を出て、高速道路の松山道(有料)に乗り、宇和島北インターから先は、一部有料区間はあったものの、そのまま宇和島自動車道(無料)を走り、宇和島市の市街を越えた津島岩松で自動車専用道を下り国道56号に入る。 国道56号に下り、右手に早朝の美しい宇和海を見遣りながら走り、愛媛県の最南端・愛南町を抜け宿毛市に入る。
札所39番・延光寺は宿毛市街を抜け、松田川を渡った先をしばらく走り国道56号から少し入った山裾にあった。おおよそ3時間強の車行であった。
自動車専用道路が無料?
結構距離の長い(18キロ弱)宇和島自動車道が無料?何故とチェックすると、松山自動車道では平成22年、松山インター以西の高速道路を無料化する社会実験が行われたとあった。その名残だろうか。

39番札所・延光寺から宿毛市街へ

39番札所・延光寺
国道56号を左に折れ、田圃の真ん中の道を、山地からの支尾根のそのまた枝尾根の間に向けて入ると延光寺がある。途中高架橋桁の工事が行われている。地図をチェックすると、丘陵支尾根を切り開いた、いかにも道路工事らしき道筋が見える。国道バイパスでも通そうとしているのだろうか。
それはともあれ、仁王堂を潜り境内に入ると左手に鐘楼、参道を右に曲がるあたりに大師堂、右に曲がった先に本堂、その間に護摩堂があった。
Wikipediaに拠れば、「延光寺(えんこうじ)は、高知県宿毛市にある真言宗智山派の寺院。赤亀山(しゃっきざん)、寺山院(じさんいん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第三十九番札所。
寺伝によれば聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる。
伝説によれば延喜11年(911年)赤い亀が境内にある池からいなくなったが、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から戻ってきた。そこで現在の山号、寺号に改めたという」とある。
目洗い井戸
「目洗い井戸」は本堂から納経所に向かう途中にあり、「延暦十四年、弘法大師久しく当山に錫を止め再興の法を修せられるに浄水乏しきを嘆かれ、本尊に擬して地を堀り加持すれば霊水自ずから湧き出る。
大師この水を宝医水と名付け閼伽水に用う。一切衆生難苦得楽の為に八十八支の煩悩を断ぜしむ。今の眼洗井戸なり 云々」とあった。
閼伽(あか)水とは、仏前などに供養される水のこと。サンスクリット語アルギャの音写、原義は価値ある物を意味する。仏教における本尊に供養する重要な供え物のひとつで、塗香(ずこう;お香)、華鬘(けまん;飾り花輪)、焼香(しょうこう)、飯食(ぼんじき)、 灯明とともに六種供養と称される、と。


赤亀と梵鐘の像
仁王堂から境内に入った右手に庭園があり、そこにある。「亀の背負うこの梵鐘には、「延喜十一年正月...」の銘が刻まれる。総高33.6cm、口径23cmの小さな鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている」と説明にあるのだが???
梵鐘は亀の背中にくっついており、とても鐘として使えるとは思えない。チェックすると、亀が運んだと伝わる梵鐘は廃物稀釈で廃寺となった折に押収され、県議会で使われ、寺が再興なったとき戻されるも、国の重要文化財に指定となった現在は通常一般公開していないようである。要は、梵鐘を背負った亀は伝説をイメージ化して造られたものかと思える。

遍路道分岐に茂兵衛道標
延光寺を離れ遍路道を進む。寺を出ると直ぐに道脇に「40番 観自在寺 歩き遍路道」の案内があり、道は車道から逸れて土径に入る。その角に石の道標が立つ。中務茂兵衛建立の道標である。
正面には「第三十九番」、歩き遍路道側には「四十番 是ヨリ七里」と刻まれる。

支尾根の丘陵を越えて国道56号に出る
車道から分かれた遍路道はすぐに丘陵地に入る。木々に覆われた遍路道も5分程度で空が開け、10分強で丘陵を下り中山の集落に出る。
そこからは、支尾根の丘陵に囲まれた田圃の中の道を5分強進むと国道56号に出る。

県道4号を宿毛市街へ
国道36に出ると、遍路道は押ノ川、小森、と進み和田から県道4号に入り松田川に架かる宿毛大橋を渡り宿毛市街に入る。おおよそ5キロ弱。単調な車道を進むことになる。
国道56号
高知県高知市を起点とし愛媛県松山市を結ぶ一般国道。昭和28年(1953)に二級国道松山高知線として指定。昭和38年(1963)に一級国道56号となり改築事業に着手。国道筋の隧道、トンネルもおおよそ昭和45年(1970)以降に完成したものがほとんどだ。
それ以前の国道56号の道筋については、2日目の柏坂越えの箇所でその経緯をチェックしようと思うが、宿毛トンネル傍には、手掘りの宿毛隧道が昭4年(1929)には掘られていたとか、後ほど辿る松尾峠の北の国道56号・一本松隧道脇には増田川沿いに昭和10年頃には旧道が通った、といった記事もあるわけで、往昔の伊予と土佐を結ぶ主要往還である宿毛街道を、馬車道程度ではあろうが、整備していったように思える。 ◆田圃の中が分水界
山塊を穿つ宿毛街道の道筋を伊予から宿毛まで辿り、更に土佐の中村まではどうなっているのだろうと地図をチェックすると、宿毛から中村までは谷筋を進み、道を遮る山塊はない。この道筋は容易に通せたのだろうなどと地図を眺めていると、奇妙なことに気が付いた。
中村に注ぐ中筋川の源流域と、宿毛に注ぐ松田川の源流域が、延光寺から宿毛市街に向かう途中の押ノ川地区の田圃でほとんど繋がりかけている。先日、兵庫県のJR宝塚線・篠山口駅近くで見た、武庫川水系と加古川水系が田圃の中で繋がる姿を思い起こした。

宿毛大橋脇の遍路小屋
宿毛大橋を渡った橋詰に遍路小屋が見えた。遍路小屋の脇には案内図が見える。実のところ、今回の散歩では、常に遍路道指南とする「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」が予土国境・松尾峠の愛媛側からしか記事がない。県を越えての高知側の記事がないのは当然と言えば当然だが、高知県側の遍路道情報はないわけだ。
図書館で一応遍路道をチェックしたのだが、詳しいルート図は見当たらない。WEBにも感想記は多くあるのだが、肝心のルート図が見当たらない。仕方なく、地形図で大雑把な松尾峠へのアプローチを想定はしていたのだが確証はあく、現地でトライアンドエラーかと覚悟していた。
が、遍路小屋脇に遍路道案内があり、そこには宿毛市内から松尾峠までのルート図が示されていた。
図書館で見た遍路道案内には国道56号を進み、直接大深浦へと国道を離れ進むようであり、地図を見てその道筋を想定していたのだが、案内図には遍路道は宿毛市街から山裾の道に入り、錦、小深浦から大深浦へと進んでいた。
ルート確定したのは嬉しいのだが、なにせ単独・車行。山裾の道は土径であろうし、ピストン往復の距離が大幅に増えることも確定した。
へんろ小屋
この「へんろ小屋」は四国四県にあり、平成28年(2016)4月現在で55のへんろ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、歩きお遍路さんには大きな助けとなるかと思う。

貝塚大橋
遍路道案内に拠れば、遍路小屋から松田川沿いの道を北に進み、宿毛文教センターの手前を左に折れ、宿毛郵便局前を西に進み、宿毛警察署前から右手に分岐し、その道を進み国道56との合流点を右折。与市明川に架かる与市明川橋の手前・長田交差点で左折。与市明川橋のひとつ下流に架かる貝塚大橋へと市街地を抜ける。案内の通り宿毛市街を抜けると。橋を渡った北詰めには「へんろ道 松尾峠」の案内があった。一安心。
与市明川
地名が面白い。由来をチェックすると「土佐地名往来(高知新聞夕刊連載記事)」に「与市の名田。田圃に付けた名」とある。「明」は「名」に置き換わったのだろう。与市の意味は不詳だが、名田とは?Wikipediaをもとにチェックすると大名に繋がる話が現れた。
その話とは、7世紀末から8世紀初頭にはじまった律令制度が9、10世紀になると、その基礎となる支配人民単位からの租税徴収が困難となり、租税徴収を公田(土地)単位に変わる。それに伴って国衙の経営する公田を名田、また名と呼ばれる租税収取単位へと再編された。
この名田制度は11世紀より広まった荘園にも採用され、荘園内の耕作地は名田へと再編成されていった。公的・私的を問わず、支配者は「人」単位でなく「名田=土地」単位で公事・年貢を収取するようになった、ということだろう。
で、この名田を経営する者を田堵と称していたが、田堵が力をつけ名田の永代保有権を有するに至り、その名称も名主となる。大名とはもとは大きな名田を領有するものであり、名田制度は室町時代の守護領国制のもとゆるやかに解体がはじまり、戦国時代時代には戦国大名の一円支配により完全に解体し、安土桃山時代の太閤検地により名田は完全に消滅するが、領国支配者は守護大名、戦国大名、江戸の大名とその名を遺した。

宿毛貝塚
田圃の中を通る道を進むと、ほどなく「史跡 宿毛貝塚」と刻まれた石碑が立つ。その裏一帯は平坦な草地となっている。案内には「国指定史跡 宿毛貝塚 宿毛貝塚は、縄文時代中期(約4,000年前)~後期(約3,000年前)の貝塚で、昭和32年7月27日に国の史跡に指定されています。
貝塚は、当時の人たちが廃棄したごみ箱で、貝殻が最も目につきやすいことから貝塚と呼ばれておりこの宿毛貝塚からも縄文土器及び石器、獣骨、魚骨、貝類などが出土し、人骨も発見されています。
明治後半に、郷土史家寺石正路によって初めて学術的に紹介され、それ以来四国西南部に所在する貝塚として、全国的にも有名な貝塚となり、また、昭和24年8月には、高知県教育委員会によって発掘調査が行われ、東と西の貝塚を持つ四国で最大規模の貝塚であることが確認され、東貝塚からは縄文人骨が発見されました。
東貝塚と西貝塚は約60m離れた場所にあり、住居址等はまだ未発見ですが周辺に形成されていることが考えられます。なお、指定地のうち西貝塚については昭和53年度に公有化され、昭和61年度及び62年度に、史跡保存修理工事が実施され、整備が図られました。
この貝塚は縄文時代の生活を知るうえで極めて貴重な遺構であり、私たちの祖先の歩みを理解するためにもかけがえのない文化遺産です」とあった。

宿毛から松尾峠取り付き口に

山裾の遍路道入り口に車をデポ
貝塚近くで出合った方に、山裾を進む道のことを尋ねると、車では行けない、とのこと。広い貝塚に車を置けばいい、とは言われたのだが、さすがに国指定史跡敷地に車デポするのは躊躇われ、車を先に進める。
道が狭くなった先に急勾配の坂があり、その途中の左手に空き地があった。そこに車をデポし、松尾峠へ繋がる遍路道を辿ることにする。

錦の集落に向かう
デポ地から急坂を上る。のどやかな風景だ。振り返ると、急ぎ通り抜けた宿毛の市街が見える。急坂を上り切ったあたりで舗装も切れ土径となる。 土径を5分ほど進むと道は二つに分かれる。案内に従い下道を進むと前方が開け海と島が見える。
衛星写真でチェックするに、島は松田川が宿毛湾に注ぐ広い河口部にある大島のように思える。海も遠浅だろうか、河口部は砂州状態のようだ。その先、宿毛湾の向こうに見える山並みは幡多郡の半島部分だろう。地図を見てはじめて宿毛市街は宿毛湾より少々奥まった、松田川下流域にあるのがわかった。
宿毛平野の形成と地名の由来
松田川河口に形成される宿毛平野は、宿毛貝塚の時代、縄文時代中期(約4,000年前)~後期(約3,000年前)には遠浅の海であったが、松田川の運ぶ土砂の堆積により砂州が形成され、沖積平野が形成されていった。 この宿毛平野の原型をなす沖積平野は、満潮時には湿地状態となり葦が生い茂ったようだが、枯れた葦のことを古代の人は「すくも」と称した。藻屑を「すくも」とするなど諸説あるようだが、枯れた葦を宿毛の由来とするのが主流のようだ。宿毛という文字は、「すくも」の音に後世あてはめたものである。

錦の集落
道を進むと錦の集落に。車デポ地からおおよそ20分弱といった距離。歩いているときは山間の集落かとも思ったのだが、地図で見ると松田川近くまで落ちる支尾根に挟まれ、前方が松田川河口に向かって開けたところではあった。
錦の由来
「宿毛市歴史館」のWEBの記事に拠ると、「この地に住む法華津四郎の妻は京の都の人で、織物をよくし、為に村名を「錦」とした、とある。法華津四郎の出自は不明だが、この地を領した一条氏は五摂家のひとつであり、応仁の乱を避けてこの地に中央から下向したとあり、法華津某の妻が都の出といったストーリーは真偽はともあれ違和感は、ない。
なお、一条氏、長曽我部氏に仕えた立田九郎右衛門は、村の北の新城山に居館を構えたとされるが、その出城を村の西の山麓に置き、錦城と称したようである。

小深浦の集落
錦の集落の遍路道を辿り、再び農家脇から丘陵越えの土径に入る。ちょっとした切り通しを抜け、右手に池が見えるとそこは小深浦(こぶかうら)の集落。錦から10分弱であった。
小深浦の集落の周囲は一面の田圃。地名から推測するに、往昔は深く入り込んだ入江の浦(漁村)ではあったのだろう。実際衛星写真を見ると、深浦の南は松田川の河口に出来た砂州(現在は埋め立てられている)と、それに続く大島から入り込んだ入り江となっており、船運の拠点となっている。昔は深浦の入り江から舟が行き来していたのだろう。
土佐の褐牛
小深浦の田圃の真ん中南北に貫く小川(新城山の山麓が源流)の脇に石碑があり、「土佐の褐牛 モーすぐ伊予やけん ことお(注;「お」は小文字)たら ちいと休まんかね」と刻まれる。 土佐の褐牛は明治の頃、九州より移入され、水稲二期作の盛んな土佐で使役牛として盛んに飼育されたようだ。農耕牛としての需要が無くなった現在、土佐の褐牛は食用として改良が重ねられているとのことである。
で、「ことお」って? 気になってあれこれチェックすると、「こたう ことうた」で「疲れる。身にこたえる。一日歩きまわってことうた(疲れた)」との記事があった。

大深浦の集落
小川を越えてそのまま丘陵の道を進み、5分程度で大深浦の里を走る車道にでる。ここも元々は入り江の浦(漁村)ではあったのだろう。小深浦より気持大きな「浦」に見える。
何故に山麓の道を?などとも思っていたのだが、往昔現在の海岸沿いの道は一面の湿地・海であったとすれば、至極納得の道筋ではあった。
それはともあれ、松尾峠越えはこの大深浦から取り付くことになる。山裾の道を車道と繋ぎ終え、ひとまずピストンで車デポ地に戻る。

松尾峠越え

松尾峠取り付き口;12時21分
宿毛貝塚近くの車デポ地まで戻り、山裾の道を大深浦の車道と繋いだところに戻り、遍路道でもある狭い車道を松尾峠の取り付き口まで進める。
車道は土径に入る松尾峠の取り付き口まで進めることはできたのだが、そこは民家の倉庫・車庫の前。さすがにそこに車をデポする勇気はなく、道を少し戻り、適当なスペースを見つけて車をデポし、峠への取り付き口に向かう。
松尾坂口番所
峠への取り付き口へと向かう途中に「松尾坂口番所」跡があったようだが、車で走った為か見逃した。一応案内をメモしておく「松尾坂口番所跡 松尾坂は、伊予と土佐を結ぶ重要な街道であったため、その麓にあったこの番所(関所のこと)はすでに長宗我部の戦国末期から設置されていた。
慶長6年(1601)山内氏入国後も、この番所は特別に重視され、四国遍路もここと甲浦以外の土佐への出入りは許されなかった。そのため多くの旅人でにぎわい、多い日で三百人、普通の日で二百人の旅人があったと古書に記録されている。この旅人を調べ、不法な出入国者を取り締まったのが番所で、関守は長田氏であり子孫は今もここに居住している」と。

松並木の跡;12時35分(標高130m)
峠への取り付き口には「松尾峠 1.7km」の木標。思ったより短そうだ。ゆるやかな上りの右手にはミカン畑が続く。ミカン畑は結構長く続き、5分ほど歩き、右手が大きく開ける谷筋はミカンの木で埋め尽くされていた。
少し進み今度は左手が開け、宿毛湾が少し見える辺りに「松並木の跡」の案内板。「松尾坂の街道全体に松並木があったが、戦時中軍部の指示により船の用材にするためすべての並木松が伐採され、その根は掘られて松根油の原料とされた。その掘り跡が街道の各所に残っている」とあった。

街道の石畳;12時39分(標高180m)
松並木の案内の先は竹林。その先の土径は木で土止めをした階段になっている。脆い地盤を補強しているのだろうか。と、その先に「石畳」の案内。「この道は重要な街道であったため、雨水で土の流失のおそれがある所では、ところどころこのような石畳がしかれ、路面を整備していた」とある。
石畳と言えば、それらしき名残も感じられるが、箱根の旧東海道東坂の敷き詰められた石畳を見てしまっている身には少々説得力に乏しい。

茶屋跡;12時52分(標高290m)
石畳の辺りからは尾根筋を巻き10分強歩くと左手が開け、宿毛湾が一望のもと。かつてはこの地に峠の茶屋があったようで「茶屋跡:土佐側にあった峠の茶屋跡で、旅人はここで一服し眼下の宿毛湾の絶景に疲れを癒した。昭和初期まで茶屋があり、駄菓子やだんご、わらじなどが売られていた」の案内があった。
宿毛湾
宿毛湾と言えば、日本海軍の泊地として知られる。呉の軍港から太平洋での演習に際し、豊後水道南端の広くまた水深の深いこの湾に泊まったという。演習だけでなく呉の海軍工廠で建造された軍艦の全速走行テストなども行われ、戦艦大和をはじめ今に残る白波を切って進む軍艦の写真の多くがこの宿毛湾で撮られたもの、という。こんなことを考えながら静かな湾を眺めた。

松尾大師堂跡;12時53分(標高290m)
前面が開けた茶屋跡から木立の中に入るとお堂が見える。松尾大師堂である。 「大師堂跡 ここにあった大師堂には弘法大師が祭られ昭和初期までは建物も残っており、ここを通るお遍路さんは必ず参拝して通ったものである」とあった。
「昭和初期までは建物も残っており」? 「過去形」となっているのだが、大師堂は現在も建っているのだけれど?
チェックすると、「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」には「かつての大師堂は道路開通後、地元の有志がもらい受け、一本松町広見(合併し、現在は愛媛県南宇和郡愛南町)に移築した。現在峠には新たな大師堂の再建が進み、平成13年12月に落慶法要を行った」とあった。
で、この場合の「道路開通後」とはいつ頃のことだろう。チェックすると、「えひめの記憶」に、「昭和4年(1929)に旧宿毛トンネルが完成し、さらに同10年一本松―宿毛間の道路が開通」とあるので、昭和10年頃(1935)ではないかと推測する。

松尾峠;12時54分(標高300m)
大師堂を少し先に進むと、道標や石碑、そして案内板が並ぶ。「一本松町指定文化財 松尾峠の境界石」と刻まれた新しそうな石碑もある。一本松町は愛媛県。予土国境を越えたわけだ。
それはそれとして、この石碑が指定文化財というわけではなく、峠を挟(はさ)んだ東側に建つ「従是(私注;これより)東土佐國」と刻まれた土佐藩建立のもの、西側に建つ「従是西伊豫國宇和島藩支配地」と刻まれた宇和島藩建立、このふたつの領界石が文化財ということだ。
宇和島藩の境界石は遍路道傍に建ちすぐにわかるのだが、土佐藩のものは道からほんの少し離れているため、見逃しそうになった。
松尾峠
峠にあった松尾峠に関する案内には「予土国境松尾峠:昭和4年、一本松町~宿毛間に道路が開通するまで、この峠は伊予と土佐を結ぶ街道として利用されていました。
昔は坂を下った所にそれぞれ御番所があり、不法越境者を厳しく取り締まっていたそうです。また、この峠には2軒の茶屋があり、みち行く人々の休息の場所であったといわれています。
寛永15年(1638)大覚寺門跡空性法親王は、「ひたのぼり登りてゆけば目のうちに開けて見ゆる宿毛松原」と詠み、眼下に広がる宿毛湾の絶景をたたえています」とある。
また、大師堂傍にあった同じく松尾峠の案内には、「松尾峠 伊予と土佐の国境にある標高300メートルのこの峠には南予と幡多(私注;高知県)を結ぶ街道が通り,幕府の巡見使をはじめとし,旅人や遍路の通行が盛んで,享和元年(1801)の記録に,普通の日で200人,多い日には300人が通ったと記されている。
国境の石柱は伊予側のものは貞享4年(1687)の建立で,土佐側のものはその翌年,高知で製作し,下田までは海上を船で,その後は陸上を馬車等で運んだものである。昭和4年(1929)宿毛トンネルが貫通してからはこの峠を通う者もなくなり,その頃まであった地蔵堂や茶屋も今は跡だけが残っている」とあった」とする。
境界石
「従是西伊豫國宇和島藩支配地」と刻まれた境界石について、「えひめの記憶」は「宇和島藩では領界の目印として、はじめは木柱を立てたが、貞享4年(1687)3月に石柱にしたという。そのことについて『幡多郡中工事訴諸品目録』によると「松尾坂御境目示榜示杭今度与州より御立替候処、ミかけ石長八尺幅七寸四方、文字従是西伊豫國宇和嶋領と切付漆墨入と有右之境杭立被申由(以下略)」と記されている。
現在、峠に立っている領界石とは明らかに刻字が異なる。それでは松尾峠に立つ領界石は何時のものか。確証はないが、領界石の「...宇和島藩支配地」の表記から版籍奉還後から廃藩置県に至るまで(明治2年[1869]~明治4年[1871])の間に立てられたものではないかと考えられている」とする。
「支配地」という文言の解釈ではあろうが、明治2年(1869)にかねてより、各諸侯(旧大名)から出された版籍奉還が明治政府の認めるところとなり、藩が明治政府のもとでの行政区となり、諸侯が知藩事に任ぜられる。
この結果政府直轄の府・県とともに知藩事の管轄下にある藩により全国が統治されることになるが、この体制も明治4年(1871)の廃藩置県で終りを迎えた。 子文書にある「宇和嶋領」ではなく「宇和島藩支配地」とあるのは、「知藩事の管轄下にある藩」との解釈であろうか。
遍路道の変遷
39番延光寺から宿毛へ
「普通の日で200人,多い日には300人」通ったとするこの峠道も、昭和4年(1929)一本松町~宿毛間に道路が開通。同4年の宿毛トンネルの開通により人の流れが変わった、とする。
「えひめの記憶」には、「昭和4年(1929)に旧宿毛トンネルが完成し、さらに同10年一本松―宿毛間の道路が開通し」とあり、案内と少し時期が異なるが、ともあれ荷馬車が通れるくらいの道が開かれたのだろうが、荷馬車はともあれ、この峠道はそれほど厳しくもなく、大きく北に迂回する道路に比べると、人の往来だけであれば結構便利かとも思えるのは、峠歩きフリーク故の印象だろうか。
御番所
松尾坂越え
「昔は坂を下った所にそれぞれ御番所」がありとあるが、土佐側は松尾坂番所、伊予宇和島側は峠を下りた旧小山村(一本松町小山;現愛南町)にあった。 土佐藩は遍路の取り締まりに厳しく、「江戸時代、国境松尾峠を越える遍路は、大深浦(高知県宿毛市)にあった土佐藩の松尾坂番所で通行手形である切手を役人に渡した。これは土佐の東の入り口、甲浦(かんのうら)番所で与えられたもので、土佐藩内での滞在期間や通過地を改められた後に国境の松尾峠を越えた。遍路の土佐への出入りは、この松尾坂と甲浦以外からは許されなかった(「えひめの記憶)」とある。
土佐の遍路取締り
この事例に限らず、土佐藩は遍路の取り締まりは厳しかったようである。上述滞在期間の限定、遍路の歩く道筋は霊場を結ぶ指定の道に限定の他、参拝霊場も16の霊場にみに限定、宿は遍路宿と善根宿のみで一般の農家・旅籠は禁止された。
「乞食同様の輩、老幼病人が数百人も行き掛かり、藩内で病死するのはまことに厄介千万である。それゆえ遍路については生国の発する往来手形や相応の路銭の有無を、また回国 六十六部の者であれば、所定の仏具の持参の有無をしかと改めて、不審な者は国境へ追い返すべし」といったお触れも発せられている。 四国四県のうち遍路に厳しい土佐を避け、阿波の国の最南端にある 23番札所・薬王寺や伊予の国の最南端にある40番札所観自在寺を参拝した後、土佐を向かい遙拝すれば、土佐の16の札所を参拝したとみなす 「 三国参り 」 もできたようだ。
ただ、土佐藩は遍路だけに厳しいといったものではなく、他国からの入国を嫌い、領民の旅行の制限、農民の移動の制限など一種の鎖国政策の一環として遍路にも厳しい取り締まりが実施されたようだ。根底には貧しい藩の財政がある、とも言われる。遍路への厳しい取り締まりは、明治、大正時代までも続いたようである。

大覚寺門跡空性法親王 
「えひめの記憶」には空性法親王に関し、「近世になって世情が安定するとともに四国遍路は盛んになっていったが、近世以前から近世にかけてのまとまった四国遍路資料はごく限られたものしかない。そのうち、嵯峨大覚寺の空性法親王が寛永一五年(一六三八)八月より一一月にかけて四国霊場を巡行した折の記録『空性法親王四国霊場御巡行記』や、それから一六年後の承応二年(一六五三)七月から一〇月にかけて四国を巡った京都智積院の僧澄禅の『四国遍路日記』などは、もっとも初期の遍路資料として貴重なものである。
また、これらは霊地巡行の記録であるとともに、各地の風俗人情に触れた体験的紀行文としても注目される。以後、四国遍路が一般に普及するとともに多くの文人墨客が霊地を訪れるようになり、いくつかの遍路紀行が残されている。岡西惟中の『白水郎子記行』、大淀三千風の『日本行脚文集』、十返舎一九の『方言修行金の草鞋』などはその代表的なものであろう。
◇空性法親王四国霊場御巡行記
本書は伊予史談会蔵の写本によれば、内題を「嵯峨御所大覚寺宮二品空性法親王二名州御巡行略記」という。真言宗本山の一つ洛西嵯峨大覚寺の空性法親王の四国霊場巡行に随行した太宝寺の権少僧正賢明が命によって執筆したものである。空性法親王は後陽成天皇の弟にあたり、若年にして嵯峨大覚寺門跡准后尊信に従って密教を修行され、あとを継いで大覚寺門跡となっている。四国霊場御巡行は六八歳の時のことである。
また、筆録者の賢明は跋文に太宝寺の僧であることが記されているのみで、その経歴は明らかではないが、澄禅の『四国遍路日記』によれば太宝寺は皇室との縁が深く、寂本の『四国遍礼霊場記』に「菅生山太宝寺大覚院」という院号が見えるから、大覚寺との関係が深かったことが推測される。法親王の御巡行に太宝寺の沙門が随行したことは自然なことであったのであろう。
この記録は、四四番菅生山太宝寺を起点に讃岐、阿波、土佐を経て再び太宝寺に至る、足かけ四か月の日数を費した旅の記である。八十八か所の札所のみならず、各地の有名な神社、仏閣、旧蹟などに足をとめてその歴史的記述にも意を用いている。
伊予に関する記述が全体の約半分を占めており、その中には河野・越智系図に見られる伝承をふまえ、中国の名勝に筆が及ぶなど、その該博な知識を窺わせるが、とくに南朝方の諸将と遺跡に関する記述が詳しい。法親王の巡行にふさわしい内容を持ち、七五調を基調とした流麗な詞章をつらねて格調高い紀行文の態をなしているが、一面具体的な記述に欠け、現実感に乏しいうらみがある」とある。

藤原純友城址
峠の道標に「純友城址 350m」の標識がある。往路は気分的に余裕がなく、ピストン復路で時間に余裕があったため訪れたのだが、便宜上ここでメモしておく。
道標に従い平坦な道を西に向かう。ほどなく「純友城跡 30m」「城跡展望台」の木標に従いそれと思える場所に行ったのだが木々に囲まれた、なんということもない場所であったので直ぐに引き返した。
で、メモの段になってチェックすると、結構立派な展望台がある。宿毛湾の眺めがいい、とも。そんなもの何処に?狐につままれた感がある。木標を逆にむかったのだろうか?今となっては後の祭りではあるが、それにしても???
藤原純友
藤原純友って平安中期頃、瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こした人物であり、同じ頃関東で朝廷に対し反乱を起こした平将門とともに承平天慶の乱の主人公のひとり、ってことは知っているのだが、それ以外のことはよくしらなかった。根拠地は瀬戸内の日振島ってことも知っていたが、それが宇和島沖にあるとは想像もしていなかった。
Wikipediaをもとに藤原純友の何たるかを簡単にまとめる;平安時代、栄華を極めた藤原北家の系統に生まれるも、幼くして父を亡くし中央での活躍の場もなく、縁者を頼り伊予掾として瀬戸の海賊鎮の任に当たる。
任が終わった後そのまま伊予に土着し、承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり宇和島沖の日振島を根城として周辺を荒し、次第に瀬戸内全域にその勢力を拡げる。
関東で平将門が乱を起こした頃、その動きに呼応するように畿内に進出、天慶3年(939)には淡路国、讃岐の国府、九州の大宰府を襲っている。 朝廷は純友追討の軍を派遣、天慶4年(941年)に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。純友は子息の藤原重太丸と伊予国へ逃れたが、同年に討たれたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれている。 将門の乱がわずか2ヶ月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだとのことである。
松尾峠の純友城跡
この城跡は純友が伊予を逃れるとき、妻を匿った城と言う。『前太平記巻11』には、「ここに栗山将監入道定阿という者あり、これは伊予掾純友が末子重太丸が母方の祖父なり。去ぬる承平の頃、純友隠謀露顕して伊予国を出奔せし時、定阿入道も重太丸が母を具して当国を立退き、土佐国松尾坂と云所に忍びて居たりけるに、一類残らず討たれ重太丸も縲紲の辱に逢うて京都にて誅せられぬと聞しより彼母恩愛の悲歎に堪えず、慟哭のあまりにや物狂はしくなりて巫医の功を尽すと云へども更に験もなく今年(天慶4年)8月16日に思死にぞ失にけり」とある。この記述を時系列で整理すると、
○朝廷の追討軍が日振島を襲い、敗れた純友は大宰府に逃れる
○大宰府で勢力を盛り返した純友に対し追討軍が大宰府を攻め、純友軍は壊滅
○純友とその子重太丸は伊予に逃れるも捕えられ、親子共々誅される
ここから類推すると、純友の妻がこの城に隠れたのは日振島で純友が朝廷の追討軍に敗れたとき。悲しみのあまり狂ったとされるのは、大宰府での敗北後、伊予に逃れるも捕えられ誅されたとき、ということだろう。

四国のみち
峠には「四国のみち」の案内があり、「ようこそ愛媛へ  四国のみちをお歩きの皆様 お疲れ様です。ここは愛媛県ルートの始点であり、ここから川之江市の終点(徳島・香川県境)まで465キロに及び、四国のみち全体の約30%となっております。これから愛媛の風土を楽しみながらゆっくり歩を進めてください 四国のみち(自然遊歩道)路線概要図」とある。
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の木標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるあが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。松尾峠のこの案内には「自然遊歩道」のクレジットがあるので、環境省が整備したルートかと思える。
環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。

左手前面が開ける;13時9分(標高240m)
松尾峠からの愛媛側は等高線の間隔も広く緩やかな傾斜となり、崖側も木の柵で整備され快適な道となる。尾根筋を僅かに巻いた道筋を10分ほど進み、「観自在寺 15.3km 松尾峠09km」の木標のある辺りまで、標高を60mほど下げると左手前面が大きく開ける。

林道・舗装道に出る;13時17分(標高150m)
はるか下方に道路が見える。当初想定していた山道から里に下りた小山の集落までは結構あるよな、などと想いながら道を10分くらい進むと、足元に歩道が見えた。地図を確認すると小山の集落から尾根筋を抜き、東小山に抜ける道が舗装されていた。
小山の集落から結構手前ではあったが、ここまでは車で詰めることができそうであり、「道を繋いだ」ということで、ここから車デポ地にピストンで折り返す。

松尾峠取り付き口に戻る;14時40分
今来た道を折り返し、松尾峠で純友城址に廻りこみ、松尾峠の取り付き口に戻る。往復2時間半弱の松尾峠越えであった。

海を渡る遍路道●
「えひめの記憶」には、松尾峠越えを避け、城辺町深浦(現在の南宇和郡愛南町深浦;御荘の町から国道56号を東に進んだ、深く切り込んだ入り江)から海を渡る遍路道を、「深浦はリアス式海岸の良港で、藩政時代には宇和島藩の番所が置かれていた。国境の急峻な松尾峠の難所を越える代わりに、深浦―片島(宿毛)間の渡船は許されていた。
大正7年(1918)、24歳で四国遍路に出た高群(たかむれ)逸枝は、『お遍路』の中で「7月24日まだ暗いうちに観自在寺を出た。延光寺まで7里であるが、伊予と土佐の国境に松尾峠の難所があるので、遍路にもここは船でわたることがゆるされていて、雨近い天気なので、私達も深浦の港から、大和丸という巡航船に乗った。そして一時間で片島(現宿毛市)に上がった。」)と記している。
また漫画家の宮尾しげをは、昭和7年(1932)に宿毛から乗船した様子を『画と文 四國遍路』に、「海路の船賃は『普通は五十銭だが、御遍路だから四十銭に割引です』と札賣が云うて、桃色の札をよこす『御遍路殿二割引四十銭、上陸地深浦港、乗船地宿毛港、月日、大和丸』と印刷してある。船へ入ると、船員が『お遍路さん晩に乗りませんかナ、宇和島へ行きますヨ』といふ。こちらは晩までには宇和島に入る豫定である。」)と記している。陸上交通の発達が遅れたこの地方では、早くから海上交通が発達していた。深浦港が郡内第一の港として海上運輸に果たした役割は大きい」と記す。

松尾峠下り口から小山の集落へ

林道と繋ぐ;15時18分
で、まだ少々時間に余裕があったので、車を宿毛まで戻し国道56号を進み、県道299号に乗り換え、小山の集落から松尾峠から車道に繋いだ切り通しまで戻る。

小山の集落;15時30分
繋ぎ地点から少し車道を進むと、土径に入る遍路道の案内。田畑脇の遍路道を5分ほど歩くと車道(15時24分)に戻る。そこから小山の集落に戻り県道299号に。時刻は3時半を過ぎた。小山の集落にあるという小山の番所跡や道標を探しは次回に廻し、ここで本日の散歩を終え宿に向かう。
初日の秩父川又登山口から、コースタイム6時間を大幅に越える7時間超をかけて、なんとか雁坂小屋にたどり着いた。古い往還とはいうものの、道端に石仏や丁石といった歴史を感じるものが、それぞれ一体、一基だけ、その丁石・道標も大正時代のもの。この歴史的遺構の無さには、なにか特段の理由でもあるのだろうか。
Google Earthで作成
最近、毎月の田舎帰省を利用し、愛媛を中心に歩き遍路の峠越えを楽しんでいるのだが、その道筋には石の道標、石仏、舟形地蔵丁石などが並ぶ。遍路道が特別なのだろうか。
また、峠道といえばその領界を区切る場合、境界石なども目にするのだが、それもない。秩父往還の歴史に、江戸の頃秩父からは善光寺に、甲斐国からは秩父観音霊場札所へと、信仰・行楽を兼ねた人の往来が結構あった、というのだが、それならもう少々道標・丁石といった道標があってもいいような気がするのだが、これも「四国遍路道」の視点からの物事の見方に陥っているのかもしれない。
それはともあれ、ゆっくりと山小屋で体を休め2日目、雁坂峠から三富村広瀬へと下ることにする。


本日のルート;
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

2日目

雁坂小屋からの日の出;午前5時
なにせ前日は午後8時に寝ているわけで、午前4時過ぎには寝覚め。小屋の電灯が灯るともに起床。
5時少し過ぎた頃日の出を見る。山稜の名はよくわからないので、カシミールの3D描画機能カシバードで作図しチェック。唐松尾山から雲取山そして和名倉山に続く稜線の、雲取山の左手から太陽が顔を出しているように思える。
小屋の北には昨日歩いた突出尾根、そのずっと先には両神山らしき、特徴的な山容が見える。そのまた、すっと先に見えるのは雲なのか谷川連山なのか。
黒岩尾根ルート
小屋の前に左方向に向かって「天幕場 黒岩道」の案内がある。黒岩道とは国道140号・豆焼橋から1,050m等高線と1,100m等高線の間を進み黒岩尾根に入り、そこから尾根を巻いて1,828mの八丁の頭まで進み、八丁の頭の先から尾根筋を雁坂小屋へと向かう。
地図で見ると、雁坂小屋は黒岩尾根に乗っかっているようにも見える。雁坂小屋から黒岩道を少し進んだ先に小屋のお手洗いがあり、その建屋が道を覆っている。黒岩道が二級国道140号ルート、といった記事もあり、国道を跨ぐトイレとして紹介されている。
はっきりしたことはわからないが、突出峠ルート登山口にあった環境庁・埼玉県作成の秩父往還の案内には、突出峠ルートが一般国道と記されていたので、黒岩ルートは国道ではないかもしれない。とすれば、国道を跨ぐ云々は面白いが、お話に過ぎない、ということになってしまうようだ。

雁坂峠に向かう;7時20分
昨夜と同じく薪ストーブで沸かして頂いたお湯を使い朝食を済ます。ゆっくりと朝を過ごし7時過ぎに用意を済ませ小屋を出る。



雁坂峠;7時35分(標高2,082m)
比高差100m強を15分位上ると前面が開けた雁坂峠に到着。峠の南面は一面の草原となっており、昨日歩いた北斜面の針葉樹林と対照的な景観となっている。 当日は天気もよく富士山が顔を出す。カシミールの3D機能カシバードで峠から見える山稜をチェックすると、左手に水晶山(標高2,158m)。富士山は水晶山から古礼山(標高2,112m)、雁峠(標高1,780m程の鞍部)笠取山(1,953)に続く稜線脇から姿を見せているように思える。
右手前方、今から下る谷合の先に見える尾根筋は雁坂峠から西に甲武信ヶ岳(標高2,475m)を経てグルリと逆時計周りに国師ヶ岳(標高2,591m)、奥千丈岳(標高2m409m)と続き、前面には笛吹川の谷間に落ちる乾徳山(標高2,016m)の尾根筋が見える。

少々難儀したが、南アルプスの三伏峠や北アルプスの針ノ木峠と共に日本3大峠に数えられている雁坂峠をクリアした。いつだったか読んだ『今昔 甲斐路を行く 斎藤芳弘(叢文社』)の「雁坂口」の項に文学博士・金田一春彦氏が作詞した「雁坂峠」の歌が載っていた。金田一教授の先祖は武田氏の一族で、勝頼の代、武田一族が滅びたとき、甲斐から雁坂峠を越えて陸奥国、現在の盛岡に落ち延びたとのこと。
峠を下った本日の最終点、三富村の道の駅にある石碑に刻まれたその歌は、 「三富広瀬は石楠花どころ 小径登れば雁坂峠 甲斐の平野は眼下に開け 富士は大きく真ん中に 大和武尊も岩根を伝い 日には十日の雁坂峠 東国目ざす武田の勢も 繭を葛籠の商人も 旅人泣かせの八里の道も 今は昔の雁坂隧道 川浦の湯から秩父の里へ 夢の通い路小半時」とある。

三富広瀬は今から道を下りバス停のあるところ。富士の眺めは前述の通り。大和武尊のくだりは「日本書記」によれば、「景行天皇の御代(2世紀頃)、陸奥国(東北地方)・常陸国(茨城県)を平定した日本武尊が、酒折宮(甲府市酒折に比定)に泊り、この峠を越へて武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に達し、碓井峠を越えて信濃国(長野県)・越後国(新潟県)の平定に向かったと伝説を指す(『古事記』のルートは異なる)。
歌にある「日には十日の」とは日本武尊が酒折宮で詠んだ「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」に対し、供のものが詠い返した「日日並べて夜には九夜 日には十日を」の歌をひく(『今昔 甲斐路を行く』より)」。
信玄率いる大軍が雁坂峠の難路を越したとの記録はないようだが、信玄の時代には峠から10か所ほどの狼煙台を繋ぎ、関八州の軍事情勢を伝えた、という。また前述の股の沢や真の沢に拓いた金山へとこの峠を越えていった、とも。さらに峠は甲斐府中から北東の鬼門にあり、罪人を甲斐の国から追放した道でもある。
軍勢ばかりでなく民衆も峠を越えた。山間村落での養蚕が盛んであった秩父、特に大滝や栃本の人々は大正時代までは繭を背負って峠を越え、甲州の川浦や塩山の繭取引所に。繭を運んだ。秩父の大宮より甲州のほうが近かったということである。
江戸時代、庶民の生活に余裕ができると信仰・行楽を兼ねた人々が峠を越えた。秩父からは甲斐の善光寺、身延山久遠寺、伊勢参り、甲州からは三峰、秩父観音霊場への巡礼のため峠を越えた。江戸時代には月に1万人以上の人が秩父観音霊場を訪れたという。
『甲斐国志』に、「嶺頭の土中ニテ古銭ヲ掘リ得ル事アリ。昔時往来ノ人山霊ニ手向ケセシ所ト云」とあるように、中世以降は峠の神にお金を奉納したのだろう。峠の語源は「たむけ;手向け」にあるとも言う。神に手を合わせたのだろう。ともあれ、日本武尊の伝説を引き、日本最古の峠道との記述もある歴史のある峠ではある。
峠付近の植生
峠にあった、「峠付近の植生」に関する案内には、「奥秩父の山には雁のつく地名がいくつか見られる。雁道場(突出峠から少し下った処)は雁が山を越す前にひと休みする場所。雁坂峠から雁峠にかけての上空は、かつて雁の群れが山越えをしたことから名付けられたとい言われている。
山梨県側
雁坂峠の稜線一帯には山地草原が見られる。この草原は山火事などによる森林破壊後の風のあたる斜面に成立した草原で、シモツケソウ、オオバギボウシ、ミヤコザサ、オオバトラノオ、イタドリ、アキノキリンソウ、シモツケ、ミヤマヨメナ、カラマツソウ、シシウド、マルバダケブキ、グンナイフウロ、キソチドリ、などが生育している。雁峠にも同様の草原が見られる。
シモツケソウ;ばら科。茎は約60㎝で葉は多くの枝葉からできている。
オオバギボウシ;ゆり科。花の茎は60㎝?100㎝で、葉より高い、若葉は食用。
ミヤコザサ;いね科。棹高30㎝?1mで北海道から九州の太平洋岸に野生
埼玉県側
一方雁坂峠の埼玉県側の斜面には、高木層にコメツガとトウヒの優占する亜高山針葉樹林が見られる。亜高山層はシラビソ、オオシラビソ、トウヒ、低山層にはコヨウラクツツジ、サビハナナカマド、ミネカエデ、シラビソ、草木層はマイズルソウ、ミヤマカタバミ、カニコウモリ、オオバグサ、バイカオウレンなどによって構成されている。
コメツガ;まつ科。常緑針葉高木。高さ?m?20mで本州の中・北部に分布。
トウヒ:まつ科。唐檜。常緑針葉高木で高さ20m?25m。
マイズルソウ;ゆり科。茎は???㎝で本州中部~北海道に分布」との記述があった。

下山開始;7時45分
峠で少しのんびり景色を楽しんだ後、草原の斜面を下り始める。植物のことを何も知らないため、説明にあった植物が下山路を覆う植物のどれがどれかもわからないが、ともあれ前面の開けた気持ちのいい道を下る。

沢;7時57分(標高1,970m)
峠から下り始めて10分強。標高を100mほど下げると草原と樹林の境あたりにささやかな沢が道を防ぐ。山地図にも特に記述はないが、等高線の切れ込みを下に下ると峠沢にあたる。峠沢の源流部だろうか。

峠沢右岸;8時42分(標高1,720m)
次第に大きくなる乾徳山の山稜を全面に見遣りながらジグザグの道を下ると左手に大きな沢が見えてくる。地図で確認した峠沢である。
雁坂嶺には当然のことながら幾つもの切り込んだ沢筋がみえる。先ほど下山途中で見たささやかな沢筋もそのひとつであろうが、それら沢筋の水を集め、この地点では堂々とした沢となって下っている。

峠沢を左岸に;9時16分(標高1,500m)
沢は幾筋も分かれた箇所もあり美しい沢となっている。途中いくかロープが張られているところがあるが、危険なところはない。沢に沿って木々の間を抜けて進む道であり、道筋は分かりにくいが、要所にはリボンなどの目印もあり迷うことはない。
峠沢右岸を40分ほどかけ標高200m強下げると3本ほどの木を渡した木橋がある。途中、行き会った方から木橋は凍って滑るため気を付けて、とのアドバイスがあった。ちょっと木橋に乗ったのだが、滑って危なそう。水勢の弱い箇所を見付け沢を渡ることにした。木橋で転んだら大怪我だった、かも。感謝。

林道に出る;9時50分(標高1,400m)
木橋を渡り、ここから林道までは峠沢の左岸を下る。木橋を渡るとすぐ左手から結構大きな沢が合わさる。上部は美しい滑沢となっている。紅葉も残りいい雰囲気である。
30分弱で標高を100mほど落とすと左手から大きな沢が合わさる。沓切沢と呼ぶようだ。沢には沓切橋が架かる。登山道はここでおしまい。林道に出る。 橋には「亀田林業所」のプレートが架かる。この辺りは亀田林業所の私有地ということのようである。
橋の少し上で峠沢は、雁坂嶺から甲武信ヶ岳への稜線上にある破風山(2.317m)の山腹から下ってきた「ナメラ沢」と合わさり名を「久渡沢」と変える。

雁坂トンネル口:10時33分(標高1,200m)
未だ所々に紅葉が残り単調な林道歩きの慰めともなる。舗装された林道を40分ほど歩くと雁坂トンネから出た国道140号が道の右手に見えてくる。道をグルリと廻り雁坂トンネルの料金所を前面に見下ろす箇所から雁坂峠方面を見る。カシミールの3D機能カシバードを起動し描画。正面は雁坂嶺、雁坂峠は右手の水晶山から久渡沢に落ちる水晶山の稜線に隠れていた。
料金所の先、雁坂トンネルに入る道路を見乍らちょっと想う。川又から10時間以上かけて抜けた甲武国境の山塊を、トンネルを抜ければ10分程度で走り終える。それはそれでいいのだが、この便利さであり、逆に往昔の峠歩きの不便さは往々にして、現在の視点からの見方のように感じる。
モータリゼーションによる物や人の大量かつ短時間での移動が盛んとなる以前、地域を隔てる山塊の往来は峠を越えて歩くことが当たり前であった頃、身の丈にあった荷物を黙々と、かつ自然なこととして人々は物流の幹線道路として峠を越えていたのだろう。
少しニュアンスは異なるが、今昔の視点の置き方により、物の見え方が変わると感じたのは大菩薩峠超えの時。中里介山の『大菩薩』で机龍之介が何故に、わざわざ不便な山奥の大菩薩峠に立ち、不埒な所業を行ったのか疑問に思っていたのだが、大菩薩峠を歩いたとき、その道が江戸時代に開かれる以前の古い甲州街道であり、江戸の頃も甲州裏街道として人の往来があった、とのこと。 いまでいう「準幹線国道」であった、ということ。国道であれば、そこに主人公がいてもおかしくはないだろう。
また、これも少々ニュアンスが異なるが、鎌倉街道山の道を高尾から秩父まで歩いたとき、何故にこんな辺鄙なところを?などと感じたのだが、よくよくかんがえれば、当時は現在の大東京など影も形もない葦原・湿地の地。 更に昔には東山道から武蔵の国府に通じる丘陵沿いの「幹線国道」があったわけで、現在の大東京が「辺鄙な」ところであった、ということだ。
雁坂トンネル建設の経緯
それはそれとして、甲武国境を抜く道路建設は両県民の長年の願いではあった。国道とは指定されながらも甲武国境の山塊に阻まれ、長年「開かずの国道」と称されていた。
昭和29年(1953)二級国道甲府・熊谷線として指定
往昔の秩父往還は、昭和28年(1953)には二級国道甲府・熊谷線として指定されている。熊谷・甲府を結んだ理由は、国道指定には10万人以上の都市を結ぶ必要があったからである。
秩父往還と中山道の分岐点には道標(熊谷市石原)「ちゝふ(秩父)道、志まふ(四萬部[しまぶ]寺)へ十一(里)」と刻まれた道標、秩父長瀞の「宝登山道」の碑も建っていた、という(現在は移されている)。四萬部寺は秩父礼所1番である。
当初の想定は雁峠ルート
既述の如く二級国道に指定された、といっても建設が進んだわけではない。昭和29年(1954)には建設促進期成同盟が結成され、昭和32年(1957)には両県の代表が雁峠で合流し、建設促進の協力を期している。
当初のルートは、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部を通り雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。隧道計画も1000m程度であったとのこと。雁坂峠直下を抜くルートに変更となったのは昭和59年(1984)。国立公園の保護、地質調査の結果を踏まえての変更、と言う。
昭和30年代から50年代は進展なし
昭和32年(1957)には両県代表が雁峠で気勢を上げたにしても、建設省の動きは鈍く昭和30年(1955)代から50年(1965)代にかけて秩父は大滝村、山梨は三富村が中心となって活動するも状況の変化はない。
昭和34年(1959)には伊勢湾台風により山梨側・三富村の一之橋、二之橋、三之橋が破壊され、秩父側も二瀬ダムの道路が寸断される。この復旧工事により道路建設が少し進む。
昭和36年(1961)には二瀬ダムが完成、昭和45年(1970)には山梨側の広瀬ダムが完成。ダム工事の道が結果として国道建設促進の一助となっている。 昭和47年(1972)には、山梨側拐取工事率は50.4キロ。全体の42.4%。 一方埼玉側101.4キロ、全体の78.6%まで進んだ。最後の難関は雁峠である。 雁峠ルートに関し、昭和40年代後半;大きな壁が立ちはだかる。それは当時起こった環境問題への高い意識からの自然保護の問題。山梨側は亀田林業所の私有地であり用地取得は比較的楽であったようだが、秩父側は東大の演習林。環境保護の観点から反対に遭い、埼玉側の用地買収が難航した。
昭和50年(1975)には過去22年間に山梨47.8キロ、埼玉76.6キロの拡張舗装が行なわれ、未舗装部分は山梨の広瀬以北6.5キロ、埼玉の雁峠登山口近くの14.8のキロとなったが、未だ雁峠トンネルの見通しが全く立たなかった。
昭和56年(1981)雁坂峠ルートが決定
昭和56年(1981)になり雁峠から雁坂峠ルートとの結論を建設省が出す。昭和58年(1983)には三富村の城山トンネル(三富村下釜口)が開通。昭和59年(1984)には建設省が来年度予算に雁坂トンネル工事費を計上。この年をもって雁坂ルート工事正式決定としているようだ。
雁坂峠は石楠花の群生地でもあり、トンネルを抜く計画を描き、昭和60年(1985)に計画概要発表。全長6.5キロ、幅7mのトンネルでありふたつの県を跨ぐため国の直轄事業となった。
昭和60年(1985)には雁坂トンネルの直ぐ南の広瀬トンネルの起工式。雁坂トンネルの前段階といったものである。昭和63年(1988)には広瀬トンネルが久渡沢を渡る鶏冠山大橋が完成、更にその先、笛吹川に架かる西沢大橋も着工となった。
平成元年(1989)着工。平成10年(1998)開通
平成元年(1989)に川浦で着工式。平成2年(1990)大滝側も工事開始(詳細は記述「大滝道路」に)。平成6年(1994)、トンネル避難坑が開通。平成10年(1998)開通した。
開通に際し、自然保護の観点から秩父側のバイパス道・大滝道路が間に合わず、旧国道を半年間使うことになったため、大渋滞を引き起こしたことは前述の通りである。
山梨側の雁坂トンネルへのアプローチ道路建設
雁坂トンネルへのアプローチ道路建設は、秩父側は従来の国道140号とは別にバイパス国道140号・大滝道路の建設をもって雁坂トンネルと繋いだ。同様に山梨側もいくつかバイパス工事をおこないトンネルと繋げている。
大滝道路と同じく「雁坂トンネルと秩父往還(山梨県道路公社)」の資料をもとにまとめておく。
広瀬バイパス
「広瀬バイパスは」は、東山梨郡三富村広瀬地内の未改良区間、交通不能期間の解消及び「雁坂トンネル」へのアプローチ道路として昭和57年度(1982)より道路改築事業に着手し、「雁坂トンネル」の開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した延長3,700mのバイパス。
このバイパスは急峻な山岳部と渓谷を通過するため六ヶ所のトンネルがある。「西沢大橋(橋長360m)」は、県内初の橋梁形式をもつループ橋であり、秩父多摩国立公園・西沢渓谷入口のシンボル的な橋となった。「鶏冠山大橋(橋長270m)」は、大きな渓谷を渡るため塗装の必要のない鋼材を山梨県において初めて採用した橋である、と記す。
古い地図がないため、旧国道140号がどのルートか不詳であるが、広瀬バイパスは雁坂トンネルから広瀬ダム湖の南まで強烈なルート取りをおこなっている。雁坂トンネルを抜けると石楠花橋で、久渡沢の崖を避け、すぐに広瀬トンネルに入る。トンネルを抜けると再び鶏冠山大橋で久渡沢を跨ぎ対岸の山稜を強烈なカーブのループ橋で西沢渓谷を跨ぎ、南に向かい久渡沢を渡り返し、広瀬ダムに沿って下る(同様の目的で東山梨郡牧丘町成沢と塩山市藤木間にも窪平バイパスが建設されているが、ちょっと場所が離れすぎているので省略する)。 秩父側も山梨側も雁坂トンネルへのアプローチ道路としては、旧国道を使うことなくバイパスで繋いでいた。

鶏冠山大橋;10時42分(標高1,150m)
雁坂トンネルで一度トンネルを抜けた国道140号が再び広瀬トンネルに入るところから、林道は久渡沢に沿って大きく迂回し広瀬トンネルが抜けた先、鶏冠山大橋の巨大な橋梁を潜る。
当日は、なんとなく地味色の橋であり、同行のひとりから、この橋は使われなくなった橋かなア、などとの感想も聞かれたが、上述塗装の必要のない鋼材故の「地味さ」加減であったのだろうか。
それはともあれ、橋桁したから少し進むと道標があり、道の駅は林道を離れ土径へと右に折れる。久渡沢に向かって標高を30mほど落とし、久渡沢に架かる橋手前にでる。

道の駅 みとみ;10時59分(標高1,100m)
橋を渡り国道140号に出て少し北に戻り「道の駅 みとみ」に。塩山行きのバスの時間を道の駅のスタッフに訪ねると1時過ぎまで無い、とのこと。さて2時間もどうしようと思った時、山小屋の小屋番さんが小屋を出て「道の駅 みとみ」に下りる方に、道の駅から11時半頃バスが出ると話をしているのを思い出した。チェックすると山梨市駅へと向かう山梨市営バスが11時半過ぎに「道の駅 みとみ」から出るとある。

山梨市駅
広い道の駅にもかかわらず、バス停の案内が無い。彷徨っているとささやかな市バス停留所の案内があり待つこと十分ほど。無事市バスに乗り、途中温泉に寄る仲間ふたりと分かれ山梨市駅に到着。
慣れない自動特急券・指定券の販売機に苦戦し、ぎりぎりで特急甲斐路に間に合い、一路家路に向かう。
晩秋と言うか、初冬というか、天候不順のこの頃、どちらが適切な表現がわからないのだが、ともあれ11月初旬の週末を利用して、1泊2日で秩父往還・雁坂峠を越えた。
雁坂峠を越えようと思ったのは今から5年前。友人のSさん、Tさんと共に信州から秩父に抜ける十文字峠を越えて()秩父の栃本に出た時、そこから秩父往還を南に進めば雁坂峠を越えて甲斐・山梨にでる古道があることを知った。 縄文人も通ったとされる日本最古の峠、また飛騨山脈越えの針ノ木峠(2,541m)、赤石山脈越えの三伏峠(2,580m)と共に日本三大峠のひとつとされる雁坂峠(2,080m)越えに「峠萌」としては大いにフックが掛かったのだが、その後計画した予定日が大雨とのことで中止、そんなこんなで、なんとなく日が過ぎてしまった。
今回の旅のきっかけは十文字峠を共にしたSさんからのお誘い。台風による1週延期によりTさんはご一緒できなくなったが、Sさんの友人Kさんが参加されることになり、3名での山行となった。
スケジュールは初日に秩父・川又から登山道・秩父往還に入り、直線距離11キロ・比高差1350mを上り雁坂小屋で一泊。翌日は雁坂峠に上った後、8.5キロ・比高差800mほどを下る。
十文字峠の山小屋での凍えるあの寒さはもう勘弁と完全な防寒対策、食事はないと言う雁坂小屋とのことでの自炊用意のため、46リットルのザック一杯の重さ、更には痛めている膝の痛みもあり、通常6時間という上りに7.5時間、3時間程度の下りも4時間もかかるという為体(ていたらく)。パーティの足を引っ張りながらも、なんとか長年の想いであった「雁坂峠」を越えた。

本日のルート
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

初日

西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ

午前8時20分西武秩父駅集合のため、西武池袋駅を午前6時50分発の「特急・秩父3号」に乗り、西武秩父駅午前8時15分着。午前8時35分発中津川行の西武バスに乗り、国道140号を進み1時間で川又バス停に着く。
国道140号
当日はいつだったか三峰神社を訪ねた時に向かった秩父湖沿いの道を二瀬ダムで分かれ、荒川沿いの国道を進んだと思っていたのだが、バスはダムの手前で巨大なループ橋を進んでいた。
秩父湖・二瀬ダムにはそれらしきループ橋はない。地図をチェックすると、国道140号は三峰口を越えた先、大滝で荒川に沿って進むルートと中津川に沿って進むルートに分かれている。共に国道140号であり、ループ橋は中津川沿いの秩父もみじ湖・滝沢ダム手前にある。当日のバスは中津川に沿って滝沢ダムを越え、中津川と荒川を分ける山塊を抜いた大峰トンネルを通る国道140号、通称大滝道路を進み荒川筋の川又バス停へと進んだようだ。
大滝道路
『雁坂トンネルと秩父往還 蘇る古道(山梨県道路公社)』をもとにまとめると、「この中津川沿いの国道140号バイパスルートは大滝での分岐箇所から雁坂トンネルまでの17キロ強を「大滝道路」と呼ぶ。
もとは、大滝村地内の未改良区間及び交通不能区間の道路改築をもとに構想されたものだが、この区間のうち、二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネル(バイパス道が完成し現在閉鎖)から栃本を経て川又橋に至る区間は名だたる地滑り区間でもあり、既存の秩父湖沿いの国道改築は困難とされ、中津川に建設される滝沢ダム建設にともなう付け替え道路工事と国道140号の改築工事を合併しておこなうことになった。
工事は昭和37年(1962)から着手。川又橋から山梨側に工事が進められ、昭和63年(1988)には豆焼橋の手前まで完成。また昭和59年(1984)正式着工の決まった雁坂トンネルへのアプローチとして豆焼橋から雁坂大橋までの区間はトンネルの開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した(平成2年から工事着工)。
全線開通は平成10年(1998)10月。滝沢ダム堰堤付近から上流5キロほどの区間に絶滅危惧種クマタカの営巣が発見されこの区間の工事が一時中止されたため。雁坂トンネル開通から大滝道路全面開通までの半年間は在来国道を使用することになり、大渋滞が発生した、と言う。
国道140号の3ルート
大滝道路のチェックに合わせ地図を見ていると、秩父湖沿いの従来の国道140号も二瀬ダム堰堤の先で二つに分かれる。山沿いの栃本集落を抜けるルートが往昔の秩父往還。秩父湖沿いのルートは大正時代より電源開発及び森林開発のための軌道(林鉄)跡を利用した車道であり、昭和28年(1953)には二級国道熊谷甲府線に指定され、後年、二瀬ダム建設に合わせて整備されていった。 二瀬ダムは昭和25年(1950)に計画され、昭和36年(1961)までに建設された。昭和25年以前、2級国道熊谷甲府線にあたる道路はダム下流の二瀬まで狭い砂利道であったようだ。
上に二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネルのことをメモしたが、隧道内分岐のこのトンネルが閉鎖されたのは平成25年(2013)。荒川沿いに新たなバイパス秩父湖大橋が竣工したことによりバイパスが完成し、この隧道は閉鎖となった。

川又バス停;午前9時35分
中津川に架かる中津川大橋を渡り、十文字峠越えのときに白泰山から栃本へと辿った尾根筋の流れ、標高1100m程度の山塊を抜いた大峰トンネルを通り抜けると、バイパス国道140号は秩父湖沿いに続く国道140号に合わさる。少し上流に進むと往昔の秩父往還道であった旧国道140号も合流。この3ルートに分かれた国道140号が川の上流へと一つに合わさる箇所に西武バス・川又バス停がある。
バス停は、川上犬で知られる信州の川上村から十文字峠を越えて秩父の栃本に至り、西武秩父に戻るべく道を下ったバス停でもあった。水場やお手洗いもあるバス停で準備を整え雁坂越えへと向かう。

入川橋:午前9時55分
国道を少し進むと道路左手に扇屋山荘と書かれた宿・食事処がある。ここが今夜お世話になる雁坂小屋オーナーの家と聞く。
扇屋山荘を越えると、国道から道が右手に分岐し「入川渓谷 十文字峠」、直進する国道方向は「滝川渓谷 雁坂峠」との案内がある。川又はこの滝川と入川の合わさる場所と言う意味だろう。「入川渓谷」という文字に惹かれつつも、道は国道筋を進む。
入川渓谷
入川渓谷を形成する入川は荒川本流とされ、その源流点の石碑が入川渓谷を遡上し、赤沢との出合にある、という。この入川渓谷のことを知ったのは信州往還・十文字峠を越え白泰山に向かう途中、尾根道に股の沢分岐の標識があり、そこに「股の沢 川又」方面という標識があった。

「沢」という文字に故なく惹かれる我が身としては如何なるルートかとチェックすると、分岐点から股の沢を下り、入川筋に入ると赤沢出合から川又の近くまで森林軌道跡(入川森林軌道跡)が残る、と言う。また、赤沢出合いから赤沢を北西に遡上し、白泰沢に向かっても森林軌道跡(赤沢上部軌道跡)が続く、とも。
この森林軌道は東京大学農学部付属秩父演習林中にあり、林道は東大が敷設するも軌道の運営は民間の会社に委託されていたよう。大正12年(1923)に入川森林軌道が着工、昭和4年(1929)には川又から竹の沢まで敷設、また昭和11年(1936)には赤沢出合いまで延伸され、昭和26年(1951)には赤沢上部軌道敷設が完成した。
この森林軌道の敷設にともない、江戸時代は「御林山」と呼ばれ徹底した山林保護政策によって護られていた奥秩父の深森は、昭和に入ると、民有林・国有林・東大演習林を問わず伐採が進むことになる。伐採は特に戦後復興期の1960年代(昭和35年から)までが激しかったようであり、1970年(昭和45年)ころにほぼ伐り尽くし、奥秩父の森林伐採は終息することになった、と。 伐採のあとは、一部にカラマツなどが植林された区域もあるようだが、多くは伐られたまま放置され、奥秩父の深い森ははげ山と化した、とか。白樺の林がキャベツ畑に変わった信州・梓山の戦場ヶ原のように、奥秩父の深い森が現在どのようになっているのか、軌道跡とともに入川の渓谷を辿ってみたいものである。

因みに森林軌道は昭和44年(1969)に全線廃止されるが、昭和57年(1982年)に赤沢出合付近の発電所取水口工事の資材運搬の為に、軌道を利用することとなり、昭和58年(1983年)に三国建設による軌道改修工事が完成。昭和59年(1984)まで運用された。現在残っている軌道は、この三国建設が運用していた頃の軌道であろう。
森林軌道と国道140号
上に東京大学農学部付属秩父演習林中の森林軌道についてメモしたが、はじまりは、大正10年(1921)関東水電が強石~落合~川又間に敷設した資材運搬用馬車軌道。その後、川又のさらに上流に広大な演習林を有する東京大学が、上述の如く材木の運び出しのためにその軌道を改良して利用するようになっていったわけだ。
軌道の所有者も二転三転しているが、とまれ昭和26年(1951)頃には赤沢上部軌道まで延びた森林軌道も、昭和20年(1945)代ごろからはじまるモータリゼーションにより、トラック運材が盛んになり始めると、森林軌道は下流側から軌道の撤去と車道の布設が始まることになる。昭和27年(1952)頃までには、下流から二瀬までは車道化していたようである。
この道も昭和25年(1950)に着工し、昭和36年(1961)に完成した二瀬ダムにより二瀬から川又間が廃され、同時に付け替え車道が川又まで建設された。これが秩父湖に沿って進む現在の国道140号の前身といえるだろう。

登山口;10時9分(標高730m)
川又バス停から15分弱国道を進むと、道の右手に「雁坂峠登山口」の木標がある。石段を上り登山道に入ると、「秩父往還の歴史」に関する案内があり、
「秩父往還の歴史 雁坂峠と秩父多摩甲斐国立公園  雁が越え、人々が歩いた日本最古の峠道
三伏峠(南アルプス・2580m)、針ノ木峠(北アルプス・2541m)、とともに日本三大峠のひとつである雁坂峠(2082m)の歴史は古く日本書記景行記に日本武尊が蝦夷の地を平定のために利用した道と記されていることから、日本最古の峠道といわれています。
また、縄文中期の遺物や中世の古銭類なども数多く出土している他、武田信玄の軍用道路・甲斐九筋のひとつとしても知られています。 更に、秩父往還とよばれたこの道は、秩父観音霊場巡拝の道として多くの人々が通り、江戸時代から大正までは秩父大滝村の繭を塩山の繭取引所に運ぶ交易の道として利用されてきました。
一般国道140号となった現在は、奥秩父を目指す山道として秩父多摩国立公園の豊かな自然とともに登山者に愛されています。 雁坂峠の名は、この辺りが雁の群れの山越えの道であった事に由来しているとも伝えられています。
雁が越え、昔人が越えた雁坂峠、ここには美しい自然と遠く長い歴史があります 環境庁・埼玉県」とある。
一般国道140号のルート
なるほど、このような歴史のある往還道か、などど思いながらも、ちょっと疑問が。この説明を読む限り、今から上る登山道が「一般国道140号」と読める。
登山道が一般国道?
国道140号の歴史をチェックすると、二級国道甲府熊谷線と指定されたのが昭和28年(1953)。川又地区-雁道場-突出峠-雁坂峠(川又雁坂峠線)がルートとなっていた。
一般国道に昇格したのが昭和40年(1965)であるが、秩父と甲斐を隔てる雁坂嶺を穿つ雁坂トンネルが平成10年(1998)するまで雁坂峠の前後区間の登山道が国道指定されていた。

ついでのことでもあるので、この案内板が造られたのは?案内の「秩父多摩甲斐国立公園」部分が修正されている。元は昭和25年(1950)秩父多摩国立公園と称されていたが、その区域に広い占有地をもつ山梨がない、ということで、平成12年(2000)「秩父多摩甲斐国立公園」と改称された。
またクレジットの環境庁(現在は環境省)が新設されたのが昭和46年(1971)であるから、この案内がつくられたのは昭和46年(1971)から平成10年(1998)までの間と推測できる。その案内に平成12年(2000)以降、「秩父多摩甲斐国立公園」の箇所が修正されたのだろう。言わんとすることは、昭和46年(1971)から平成10年(1998)まではこの登山ルート。秩父往還が一般国道140号と指定されていた、ということだ。
どうでもいいことだけど、あれこれチェックすると、それなりに面白い歴史が現れる。

石の道標;10時21分(標高792m)

登山口から10分ほど、杉林の中、等高線を緩やかに斜めに高度を50mほど上げると「川又 雁坂峠」の木標の傍に石柱があり、文字が刻まれる。「勅諭下賜四十年**」「大正十一年 大滝村**」「右ハ甲州旧道 左ハ**後ハ栃本ヲ経テ三峯山ノ**」と言った文字が読める。
勅諭下賜四十年とは明治15年(1882)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した「軍人勅諭」から四十年、という意味だろう。大正11年(1922は明治15年(1882)から40年である。
大滝村の在郷軍人会が中心となって立てた道標のようである。秩父往還のことは「甲州旧道」と記される。
消された道筋は?
ところで、「左ハ**」と記された道筋が気になる。ちょっとチェックすると、「バラトヤ線(槇ノ沢林道)から釣橋小屋を経て雁峠への道筋を示していたようだが、現在は廃道となったため、故意に潰された、といった記事をみかけた。 現在、甲武国境を抜くトンネルは雁坂峠下を通るが、これは昭和56年(1981)に国立公園保護や地質調査の結果、決定されたもの。
昭和29年(1954)に甲武を結ぶ国道建設の建設促進期成同盟が結成された当初は雁峠を1000m のトンネルで貫く計画であったようだ。事実昭和32年(1957)には雁峠で両県代表が計画実現を期して握手をしている、といった記事もある。 当初の140号線の計画では、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部をから雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。
大正7年(1918)頃の殉職森林作業員の記念碑に「秩父ノ深山一路僅ニ通シテ甲武国境ノ森林保護利用ニ便シ兼テ両国ノ連絡交通ニ資スルモノ独リ此国有歩道バラトヤ線アルノミ」と記されるように、往昔は道標から消されたルート、甲武国境を抜けるトンネルが計画されたこの道筋は結構メジャーな往還であったのだろうか。
軍人勅諭
「正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』。『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。
西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された(Wikipediaより)」
在郷軍人会
「在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)は、現役を離れた軍人によって構成される組織のこと。一般的な用語としては、「退役軍人会」という言葉と混用して用いられるが、在郷軍人会は予備役にある人によって構成される(Wikipediaより)」

水の本;11時6分(標高1,063m)
等高線を時に垂直に、大半は緩やかに斜めに40分強の時間をかけて標高を270mほど上げる。登山路は杉林の中に時に残る紅葉が美しい。
と、木に「水の本」の案内。案内には「水の元 一杯水とも言う。昔、秩父往還を行き来した人の為の避難小屋的建物があり、山仕事にも使われたとか。 お地蔵様には武田家の隠し財産の言い伝えがあるようです。武田家滅亡の折、金の延べ棒など甲州金を秩父往還に埋蔵し、目印として北向地蔵を建てておいたと言われています。今となっては定かなことはわかりません」とある。
地蔵
案内のある木の側に地蔵が佇む。うっかりすると見逃してしまいそうである。 少々先走ったメモとはなるが、雁坂峠越えの全行程で唯一の地蔵であった。古い往還とはいいながら、丁石、石仏類は残っていない。四国遍路で、これでもか、といった石仏・丁石に出合うことを想うに、なにか理由でもあるのだろうか、と少々考えてしまう。
水場
水の本との地名の如く、案内のすぐ近くに微かな水の流れが見て取れた。水場として重宝されていたのではあろう。

信玄焼き
で、案内にある「武田家の隠し財産云々」は、それはそれとして「触らずに」おくが、秩父と武田と言えば、秩父神社散歩の時に出合った「信玄焼き」を想い起こす。関東各地でも見られる武田勢による焼き払いのことである。
秩父と武田の関係は、古くから奥秩父、また現在の秩父市小鹿野、吉田辺りは武田氏の勢力下にあったようだ。奥秩父には股の沢、真の沢には金山があったとも言うし、それを守るべく栃本の辺りには砦もあった、と言う。
その秩父に「信玄焼き」が起きた因は、小田原・後北条氏の勢力が寄居の鉢形城(永禄7年(1564)北条氏邦入城)を核とした北関東への勢力拡大にある。天文⒖年(1546)川越夜戦に勝利し武蔵国に覇権を確立した北条氏ではあるが、武田氏は旧域を守るべく、佐久盆地から十石峠、そこから志賀坂峠を越えて小鹿野(永禄12年;1569)、土坂峠を越えて吉田(永禄13年;1570)へと数百人程度の軍勢(大軍ではないようだ)を送り、その折秩父の中心である大宮郷一帯を焼き払ったようである。
永禄12年(1569)には武田信玄の本隊2万が小田原の北条を攻めるべく碓井峠を越え、鉢形城を攻めているが、信玄焼きとはいいながら、本隊が秩父に侵攻したわけでなく別動隊の所業ではあろう。いつだったか歩いた三増合戦は武田軍が小田原攻めの帰路に起きた日本で名だたる山岳合戦のひとつである。なお、武田の軍勢が秩父往還を越えて秩父に侵攻したといった記録はないようである。

雁道場;12時3分(標高1,291m)
1時間弱の時間をかけて標高を300mほど上げると尾根筋に出る。木には「雁道場」とあり、「毎年秋に雁の群れが南に飛んでいく時に、山を越す前ひと休みした場所らしいです。雁坂峠、雁峠などこの辺りが渡り鳥のルートのようです。黒文字橋から上がってくるルートがこの先にあります」と記してあった。
雁坂峠の由来

雁坂峠の由来をこの雁が嶺を越える「タルミ」故との説がある。雁坂峠の東にも雁峠という峠もある。新拾遺集のなかに三十六歌仙のひとりである凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)が詠んだ「秋風に山飛び越えてくる雁の羽むけにゆきる峰の白雪」は雁坂峠を読んだといった記事もある。寛平6年(894)甲斐権少目として任官して、この地と縁が無いわけではないが、この歌が雁坂峠と比定されているわけではないようだ。
凡河内躬恒の歌がこの奥秩父山塊を詠ったものかどうかは不明であるが、ここから南に下った大菩薩嶺から続く南尾根には雁ケ腹摺山、牛奥雁ケ腹摺山、笹子雁ケ腹摺山といった名の山がある。奥秩父から南へと雁が山越えで飛んでいったルートを事実か否かは別にして、想像するのは楽しい。
因みに、雁坂峠の由来としては、秩父風土記に「日本武尊が草木篠ささを刈り分け通りたまえる刈り坂なり」と記されており、このことからカリサカと名付けられた、とか、この峠から罪人を駆逐したことより「駆り、カリ」と呼称されたことに由来する、といった説もあるようだ。

突出峠;13時12分(標高1,630m)
雁道場から突出峠まで、尾根筋を等高線にほぼ垂直に上ってゆく。地形図を見ると等高線の間隔も密接しており急登である。右手は開け、入川谷を隔てて十文字峠から白泰山を経て栃本に下った尾根筋が見えるのだが、息があがり、景色を楽しむ余裕がない。冬装備の46リットルのザックの重み、痛めた膝が少々キツく、思わず理由をつけて一人川又へと戻ろうと思ったほどである。気持は若いが、体がついていかないことを実感する。
1時間強の時間をかけ、標高を330mほどあげると突出(つんだし)峠の木標。 「川又 5.5㎞ 雁坂峠 雁坂小屋5.3km」とある。3時間強で半分ほど来たことになる。

突出とは言い得て妙である。峠部分の等高線の間隔が広く、突出したような尾根筋となっている。それはそれでいいのだが、ここを何故に「峠」と呼ぶのだろう。山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点、通常鞍部といったものが「峠」の定義ではあろうが、この峠はどれにも合わない。それともかつて、入川谷から滝川谷へとこの峠を越える道でもあったのだろうか。
突出峠から林業用モノレールが滝川谷へと下り出合いの丘(国道140号・豆焼橋近く)に続いている、といった記事があったので、今では廃道となった峠越えの道があったのかもしれない。
とは思いながらも、入川谷にも滝川谷にもそれらしき集落があるわけでもなく、誰が必要とした峠道かよくわからない。森林作業の便宜でそれほど遠い昔ではない頃に名付けられたのだろうか。峠命名の時期を知りたいと結構思う。

樺小屋・避難小屋;14時8分(標高1,784m)
突出峠で10分程度休憩し出発。道脇に案内があり、泥で汚れてちょっと読みにくいのだが、「このコースはその昔甲州武州を結ぶ唯一の街道で国越えの人や荷物の往来が盛んだったと言い伝えられています。交通機関の発達と共に現在は山を愛するハイカーのコースと変わってしまいました。
雁坂峠に上るには突出峠まで登るのが苦しいコースで。これからはゆるやかなコースになり峠まで達します」とある。地図を見ると、道は尾根筋を垂直に上るものの、等高線の間隔も割と広く、ちょっと安心。
が、突出峠までで結構体力を消耗しており、思ったほど楽ではない。結局標高を150mほど上げた避難小屋まで50分近くかかってしまった。樺避難小屋はしっかりした小屋。思わず、ここに泊まってもよかった、などとの軽口も出るほどであった。
森林植生
避難小屋の側に森林植生の案内があり、「かつて、この付近一帯はダルマ坂や地蔵岩付近にみられるようなコメツガ、シラベなどからなる鬱蒼とした亜高山針葉樹林に覆われていましたが、1959年(昭和34年9月)の伊勢湾台風によって未曽有の森林被害が発生し、景観は一変してしまいました。
現在この付近に数多く見られるダケカンバの優占する林分は風害直後に芽生えた稚樹から再生した林分です。ダケカンバ優占林の下層にはコメツガやシラベの若木が生育していますが、これらの多くも風害後に芽生えたもので、上層のダケカンバとほぼ同じ樹齢です。
コメツガに比べてダケカンバの成長速度が早いためにこのような群落状態示していますが、元のコメツガ林に近い状態に回復するには数百年かかります 環境庁・埼玉県」とあった。

いつだったか、ブナの原生林で知られる世界遺産の白神山地に行った時、二日目になって、「ところでブナ、ってどれだ?」といった程度の木々に対する知識しかない身には、イラスト付きの説明でも、どれがどれだかよくわからない。

だるま坂;15時5分(標高1.964m)
避難小屋近くにある「川又 5.6km 雁坂峠 4.5km」の木標を見遣り、比較的間隔の広い等高線をほぼ垂直に上り、標高を100mほど上げ、標高1,900m辺りになると間隔の狭い等高線を斜めに上ることになる。
少々きつい坂の途中に「だるま坂」の案内が木に架かっている。「だるま坂 ご苦労さまです。雁坂峠への道もこのだるま坂が最後登り坂です。この先300m右側に地蔵岩展望台入口を過ぎると小さな登降をくりかえす巻き道となります。 景色が開け、前方黒岩尾根の肩に雁坂小屋が見えてきます。ご安全に 1991」とあり、その下に、「と書いてからはや⒛数年。巻き道の樹林が伸びて、落葉の時期でないとなかなか雁坂小屋も見えにくくなってきました」と記されていた。

地蔵岩展望台;15時19分(標高2,000m)
だるま坂から2,018mピークを巻き15分ほどで地蔵岩展望台入口の尾根道に。案内には「地蔵岩展望台 うっそうとしたトウヒ、コメツガの原生林、巨木の中を歩く突出コースの中で、明るく周囲の山々を見渡せる所。雁坂嶺、東・西破風山、甲武信ヶ岳、三宝山と山々が続き壮観な眺めです。ここから5分もあれば岩の上に行けます。小屋へはここからは巻き道になります。 小屋へ2.5km 晴れていたら絶対おすすめです」とあるのだが、折あしく小雨とガスで展望は望めないと地蔵岩はパスする。

昇竜の滝;16時21分(標高1,979m)
地蔵岩からはおおよそ等高線2,000mに沿って尾根を巻いて進む。時に鎖場もあるが危険な箇所はない。地蔵岩辺りで降っていた雨も知らず止み、ガスも切れてくる。切れたガスの中に見えるのは滝川の谷を隔てた黒岩尾根だろうか。 それにしてもスピードが上がらない。結構痛めた膝にきている。
地蔵岩からおおよそ1.5キロ、滝川の上流、豆焼(まめやき)沢が大菩薩嶺に切り込む箇所に雄大な滝がある。何段にも分かれた瀑布が雁坂嶺から落ちてくる。
切り込まれ狭まった沢を越える。その先に案内があり、「昇竜の滝 雁坂嶺に源を発する豆焼沢。上部に見えるタンクから雁坂小屋まで10mの高低差を利用し、およそ距離1㎞をパイプで引いております。途中、パイプやバルブがありますが、命の水です。開けたりしないようお願いします。小屋まではあと少しです。がんばれ。960m 2013.10」とあった。
豆焼沢
昇竜の滝から下る豆焼沢は突山尾根と黒岩尾根に挟まれた谷筋を落ち、黒岩尾根が谷に落ちた先で、黒岩尾根と和名倉山(地図には白石山とある)から雁峠、雁坂峠へと続く尾根に囲まれた谷筋を下って来た滝川に合わさり、滝川として北に下る。
原全教の『奥秩父』には豆焼沢の紀行記"豆燒澤"に、「西の方には樹葉の間から豆燒澤の深い喰ひ込みが窺はれる。急に下ると、豆燒の溪水が最後の飛躍をなし、本流に這入らうとする優れた溪觀を垣間見る事が出來た。そこから一息に下つて流へ出た。
暫く快晴が續いたので、餘程減水したであらうとの豫想も外れて、四年前の秋來た時や、去年も梅雨期に通つたときと別段の相違も見られなかった。對岸へは巨岩から巨岩へ、三本ばかり丸太を括り合はした堅固な橋が架つて居る。あたりは澤沿ひに多少の磧もあり、流も平であるが、濶葉樹は豊富に之を覆ひ、上流は直ぐ折れ曲つて、全流の嶮惡も想像し得ない」とある。
深い谷が想像できる。なんちゃって沢上りを楽しむわが身には荷が重そうな沢のようだ。
豆焼沢の由来
その昔、ふたりの旅人がこの沢に迷い込み、拾った二粒の豆をひとりは無意味と食べず、もうひとりは焼いて食べた。で、食べたほうが生き延びた、とか。
滝川水系と沢
この滝川水系は大血川、中津川、大洞川、入川の谷と共に奥秩父北部に源を発する荒川の水源のひとつである。本流は入川とされ、原生の美は入川に譲るようであるが、和名倉山から雁峠・雁坂峠、そして突出尾根に囲まれた広大な流域に発する水量は他を凌駕する、と。
滝川水系には美しい渓谷をなす豆焼沢、滝川の上流部の曲沢、金山沢、槇の沢、八百谷、雁峠に詰めるブドウ沢、水晶山へと詰める水晶谷、古礼沢などと面白そうな沢が並ぶ。
少々手強そうだが、険しいゴルジュや広がる大釜、そして原生の趣が色濃く残る苔むした渓相など、奥多摩の沢とは違った沢景のようだ。秩父の沢にも入ってみたい。少々怖そうだが。。。

雁坂小屋;17時10分(標高1,950m)
ガスが切れ、黒岩尾根の先まで延々と続く秩父の山塊を見遣りながら雁坂嶺を巻く水平道を雁坂小屋へと急ぐ。気ははやれど体がついていかない。日も暮れてきた。昇竜の滝から雁坂小屋に通る導水パイプを目印に1キロ弱を40分以上かけて雁坂小屋に到着。小屋に到着したときは既に日が落ちていた。

小屋には10名ほどの先客がいた。小屋近くでテント泊をする方も薪ストーブの火で暖をとっていた。昇竜の滝から引かれた水を薪ストーブで沸かしてくれていたので、持参したバーナーを使うこともなく、携帯食で夕食をつくることができた。
小屋番の方の話では今年で小屋番を止める、とか。常連さんが引き留めていたので、さてどうなるのだろう。
午後8時には消灯。十文字峠の小屋での凍える寒さはもう勘弁と、冬用の寝袋を用意していたので、朝までぐっすり眠ることができた。
四国霊場43番札所・明石寺から44番札所大宝寺までの80キロ近い遍路道を繋ぐ散歩も今回で最終回。当初、この遍路道の後半部、内子の辺りから大宝寺に辿るおおよそ40キロの途中のある峠越えだけのつもりではじめ、下坂場峠・鶸田峠越え、真弓峠・農祖峠越えルートで大宝寺に、更には44番札所大宝寺から45番札所・岩屋寺への打ち戻し無しの遍路道もカバーしたのだが、なんとなく収まりがよくない。
ついでのことならと、前半部40キロも歩き遍路道を繋ごうと43番明石寺のある卯之町から大洲、大洲から内子へと2回に分けて歩いたのだが、「接合箇所」手前で時間切れ。内子の町を離れ後半部の出発点である国道379号線・石浦バス停に抜ける水戸森峠越えの部分だけが残ってしまった。
遍路歩きの指南として活用させて頂いている「えひめの記憶:愛媛県生涯学習センター」では、水戸森峠越えの箇所は、高速道路建設の因もあるのだろうが、あまりはっきりとしたルートが記載されていない。さてどうしたものかと、ちょっと気になっていたのだが、先回の散歩で水戸森峠への取り付き口である、内子町五百木の松尾集会所を訪ねた時、集会所前に地域の方の努力で作られた水戸森峠越えのルート図案内板が建てられていた。

ルート図もわかり、距離も4キロ弱。標高も180mほどであり峠というか丘を越えるといったもの。ピストンで往復するといっても余裕だろう、とお気楽に歩を進めたのだが、これがとんでもない展開となってしまった。
ルート途中で獣除けフェンス外し・戻しに気をとられ、その傍にあった道標を見落としたため、水戸森峠からの下りは、あらぬ方向に進んでしまい、ために炎天下を遍路道探しに右往左往。最後には偶然に遍路道に出合い水戸森峠越えのルートもクリア。前半と後半部を繋ぎ終え、43番明石寺から44番札所大宝寺までのおおよそ80キロの遍路道を繋ぐことができた。



本日のルート;五百木・松尾集会所>水戸森大師堂>五百木農免道碑>道標に従い遍路道に入る>獣侵入防止のフェンス>水戸森峠>舗装道路に出る >遍路道>石浦大師堂(西光寺大師堂とも)>石浦バス停>舗装道と遍路道交差部に戻る>水戸森峠の切通箇所に戻る

五百木・松尾集会所;9時44分
松山道の内子・五十崎インターで下り、国道56号を少し北に進み、大洲の街並み、曽根城があったという丘陵先端部の切通し箇所で、中山川を渡る五城橋を渡り内子町五百木(いおき)の松尾集会所前に。
集会所の駐車場には長時間駐車はダメ、との告知があり、集会所前の道を、中山川に沿って少し北に進み、道が大きくカーブする辺りにある道脇のスペースに車をデポし、松尾集会所に戻る。

さて、遍路道確認のため城廻自治会文化部が平成27年(2015)に作成したとある「遍路道案内」を見ていると、地図作成者メンバーの方が声をかけてくれ、説明していただく。

上述の如く、遍路道指南として活用している「えひめの記憶」の遍路道案内には、この水戸森峠越えルートの説明は「現在の五城橋の50mほど下流で中山川を渡り、田の中の道を通って水戸森大師堂を過ぎると水戸森峠(みともりとう)の上り口に至る。(中略)ここから道は上りになる。ただ、水戸森地区は松山自動車道の通過点に当たり、道は場所により寸断、付け替えられているが、平成3年建立の遍路道標が峠を案内している。
その案内に従って進むと、やがて水戸森中腹の三差路に至る。ここに、元禄2年(1689)建立の県内で2番目に古い道標(内子町歴史民俗資料館保管)があった。右折すると富浦にある石浦へ通じる道である。ここから700mほどで峠の頂上に達するが、そこは眺望もよく、遍路が休憩するのに絶好の場でもあった。 水戸森峠の頂上から下っていくと石浦大師堂(西光寺大師堂ともいう)に至る。かつて接待や休息の場所として賑(にぎ)わったという大師堂の下段には、菅生山まで8里の徳右衛門道標⑩が他の石碑などと並んで立っている。
遍路道は石浦大師堂を過ぎ民家の間を抜けて進むと、バス停石浦で迂回(うかい)する小田川に沿って内子の町並みから進んできた遍路道(国道379号)と合流する」とある。

水戸森峠越えの遍路道
しかし、「平成3年建立の遍路道標が峠を案内する」といってもその場所が分からず、峠から700m手前の三差路に関しては、「えひめの記憶」に掲載の明治37年の地図にはそれらしき三叉路から石浦に続く道筋が見えるのだが、現在に地図にはその道筋は載っていない。
「水戸森峠を越えて小田川に至る山道は、明治40年(1907)発行の地形図からも、国道379号が開通するまで、人々にとっての重要な生活道であり、また遍路道でもあった(「えひめの記憶)」とあるように、当時は重要な往還道ではあったのだろうが、国道ができた現在、その存在意義が失われ、往還道は消え去り、その代わりに出来た林道・作業道が地図の主役となった故のことではあろう。

ことほど左様に、事前でのルート確認はできず、所詮は4キロ弱の峠、というか丘陵といったもので、成り行きで進んでも何とかなるだとうと思っていたのだが、ここにこんなにしっかりした道案内があり、しかも作成当事者からルート概要も説明頂いた。
これで何も心配なしと、お気楽に歩を進めたのだが、道途中にあった獣除けのフェンスに、獣ならぬ我が身がそのトラップに嵌り、遍路道を大きく逸れて、炎天下右往左往する始末となったのは後の話ではある。

水戸森大師堂;9時50分
松尾集会所から右に、集落の中に入り左に折れて坂道を少し上ると水戸森大師堂があった。
ふと思う。松尾集会所で見た地図には城廻自治会とあった。この中山川左岸は五百木地区、右岸が城廻地区である。何故に五百木地区に対岸の自治会名? ここからは単なる妄想。五百木村と城廻村は明治期の町村制施行時に両村から1字を取り、五城村となった。同じ村であったが故の「城廻自治会」との自治会名だろうか。
因みに、城廻は曽根城との関連でわかるのだが、五百木の由来は?部民制の五百部と関係あるのだろうか?不詳である。

五百木農免道碑;9時56分
ほどなく道は「八日市街並 1.0km 水戸森峠 1.2km」と書かれた木標の建つ箇所で左手から道がわ合わさる。松尾集会所脇から左手にぐるっと廻って来た道である(車をデポした川沿いの道は中山川に沿って上って行くので間違わないように)。
道を進むと立派な舗装道路に出る。松山道に沿って先に進むと、高速道路下を抜けるアンダーパスの手前に石碑があり、「五百木農免道」と刻まれていた。 脇にあった解説石碑には「国営大洲喜多農業開発事業により、四団地が達成され、これにより中山間地域を縦断する基幹農道を整備し、生産団地の高生産性農業を確立する目的で建設された」とあり、事業概要として「事業名 農業漁業用揮発税財源 身替農道整備事業(農免農道) 地区名;五百木地区 受益戸数;二百三戸」などとある。
農免道路って地域名を冠した道路名かとおもったのだが、上記、事業名からわかるように公共事業の事業タイプのことのようだ。えらく長い事業名だが、要は昭和28年(1953)に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」により揮発油(ガソリン)税の収入は、国道や県道の道路の整備に充てられる」とされたが、農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費であるとして税金の「免除」が求められ、その要望に対し、税金の免除の替わりに農道の整備を行うということで発足した事業のようである。
道路は、昭和62年(1897)度着工、平成14年(2002)度完成。農業開発事業による生産団地の詳細は不詳だが、行政の資料に「大洲市を中心に実施された国営総合農地開発事業により開発された造成地については、落葉果樹及び草地等を主体とした利用を推進するほか、その他の山間部にある農用地についても、かき、 くり等の樹園地及び放牧地等を主体とした利用を確保していくことを基本とする」とある。このような造成地を繋いだ道と整備したということだろう。因みに解説にあった「中山間地域」とは「農村」と「農山村」を包括した呼称のようである。

道標に従い遍路道に入る;10時1分
高速道路のアンダーパスを潜り、道路に沿って農面道路を少し進むと、道の右手に石の道標があり、そこから農面道路の法面を斜めに進む道がある。「左 へんろ道」の側面には平成3年 城廻分・・(私注;以下、当日確認しなかった)」と刻まれている。先ほど松尾自治会で見た地図は平成27年(2015)よりずっと早い時期に道標を整備して頂いたようである。

獣侵入防止のフェンス:10時5分
ゆるやかな勾配の坂を上る。左手下に高速道路を見遣りながら坂をのぼると丘陵突端部となり、そこには「四国のみち」と「八日市街並み 1.5km 水戸森峠 0.7km」の木標が立つ。
丘陵突端を廻り込むと道は獣侵入防止のフェンスで遮られる。チェーンを外し・戻して先に進む。

水戸森峠;10時12分
道の左手下に果樹栽培の畑を見乍ら、道を辿ると、再び獣防止フェンスがあり、先ほどと同じくチェーンを外し・戻して先に進むと水戸森峠に着いた。
峠には四阿があり休憩もできる。四阿脇にあった案内には「水戸森峠 四国山地を東に眺めるこの山頂は、菅生山大宝寺(久万後)と、源光山明石寺(宇和町)のほぼ中間に位置します。水戸森峠は別名「安場の峠」とも呼ばれており、急峻な坂道を登りつめ、昔はこの辺りで一休みをしたものと思われます。
登り口の両地点には大師堂が祭られ、ゆきかう遍路さんが道中の無事を祈願したものと思われます。
この地は桜の名所でもあり、また山菜の豊富なところでもある為、憩いの場として親しまれています」とあった。

道標が見つからない
休憩するほど歩いてもいないので、ママ、峠から道を下ろうと、松尾集会所にあった四阿傍の道標を探す。が、見つからない。実のところ、道標は峠のすぐ手前、獣除けフェンスのすぐ傍に小さな切通しがあり、そこが東に下る道の分岐点であったのだが、フェンスのチェーン外し・戻しに気をとられ、そのすぐ右手にあった切通と道標を見逃していた。
この道標を見逃したため、炎天下の右往左往になってしまったわけである。

舗装道路に出る;10時25分
峠直ぐ手前にある石の道標、そこから東に下る道を見逃したため、結局道標が見つからないまま峠からの道を下る。結構立派な道が下っており、その時は、この道が遍路道と思い込み、道なりに下る。
北東に10分ほど下ると「たばこ栽培棟」だろう建物の場所に出る。建物の中を突き切る道と右へと廻り込む道がある。どちらもグルリと廻った後で合流するようであるので、とりあえず建物を迂回して下るとすぐに、立派な舗装道に出た。
炎天下の右往左往
舗装道路には下りたのだけど、松尾集会所にあった遍路道地図にある、道路を横切り国道379号沿いの石浦バス停に向かう遍路道が見つからない。今となっては、水戸森峠から下る道自体が間違い道であり、始まりの箇所から間違っているわけで遍路道が近くにあるわけはないのだが、その時はオンコースを下っているものと思っており混乱したわけである。
更に混乱に輪をかけたのが、舗装道路に下りたところにあった木標。「富浦バス停 0.7km 水戸森峠0.6km」と、西方向が富浦バス停、東方向が水戸森峠と示す。行きたいのは石浦バス停であり、富浦バス停ではないし、そもそもが、今下りて来た道が水戸森峠からの道であり、東に進むって、とういうこと?
これも後になってわかったことだが、石浦バス停には富浦バス停とも書かれてあり、同じところではあったわけで、それなら「富浦バス停」へと向かったのだろうが、その時は富浦バス停と石浦バス停が同じものと知る由もなく、富浦地区って結構広そうで、あらぬ方向に連れていかれそうで躊躇した(これもよく見れば富浦ではなく富長地区ではあったし、そもそもがバス停までの距離が0.7kmであり、冷静になれば「直ぐそこ」であることはわかったのだが。。。)。

ということで舗装道路に下りた辺りから道路を横断して国道に抜ける道があるはずと思い込み、右往左往。少し富浦バス停方向へと西に進むが道に沿って深い沢があり抜ける道はなさそうだ。東に戻るとタバコ栽培センター(これも前述生産団地のひとつだろか)がある。その敷地は台地端にあり、ひょっとすれば国道に抜ける道があるのではと敷地端をさ迷うが、抜ける道はまったく、ない。
松尾集会所で見た遍路道地図ではありえない場所ではあるが、たばこ栽培団地(仮称)を東に進むが、石浦バス停からどんどん離れてゆく。これはありえないと、峠から下りる途中で見たタバコ栽培棟まで戻り、建物の中を通る道を抜けるが、結局は地図にある通り、最初に下りた舗装道の少し東に戻るだけ。

炎天下1時間ほどの右往左往に疲れ果て、とりあえず富浦バス停まで下りて国道を石浦バス停まで戻ろうと、富浦バス停に向かって道を進む。しばらく歩くと沢筋から離れ東に突き出た丘陵突端を越えあたりに「遍路道」の案内があった。舗装同を横切り上下に踏み分け道があり、松尾集会所の地図にあった道標も道脇にあった。このルートが遍路道のオンコースであった。
その時は、峠から下る道のどこで踏み間違ったのか、と思っていたのだが、前述の如く水戸森峠のところで全く遍路道とは異なる作業道を下っていたことなど、その時は知る由もなし、ということであった。
師恩友愛碑
遍路道へのアプローチを探し右往左往しているとき、登り窯を見つけたり、「富浦バス停 0.9km 水戸森峠0.4km」の木標(この木標で水戸森峠への道は、国道379号側から前述農面道路などをへて水戸森峠に向かう道であろうということはわかったのだが、富浦バス停の疑問は残ったままであった)などに出合ったが、右往左往で唯一の成果といってもいい石碑に出合った。「師恩友愛碑」がそれである。
石碑脇にあった説明によると、「この地は旧五城村の中心地であった長岡山である。昭和十年五城青年学校が開校され、青年の鍛錬の場として県下の注目を浴びた。昭和十七年、愛媛県立女子拓殖訓練所が開設され、戦時(私注;汚れて読めなかった)の教育の場として全国に知られた。
昭和二十三年、義務教育六三制の実施により、村民の熱望と村当局(? 私注;汚れて読めず)の英断にて五城村立五城中学校が開校された。
昭和五十二年、八百余名の卒業生を送り出した学舎も町村合併により廃校となる。 ここに有志相図り記念の碑を建立し後世に残す 昭和五十四年」。

この石碑解説からわかることは、前述の明治期の町村制施行時に百木村と城廻村の両村から1字を取り成立した五城村の中心がこのあたりであった、ということ。その地に、「義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行う(Wikipedia)」青年学校が設立されたこと。
そしてなにより気になったのが女子拓殖訓練所。チェックすると、この女子拓殖訓練所とは満州開拓花嫁養成所として設置されたものと言う、満蒙開拓の定着推進のためには、開拓者の花嫁が欠かせなかったのだろう。実際一部の方は花嫁として渡満したとのことである。
こんな「中山間地域」で歴史の一端に触れるとは思わなかった。あたりまえだが、世の中にはまだまだ知らないことが多くある。

遍路道;11時19分
遍路道の案内があるところが見つかったのが、11時19分。おおよそ1時間ほど右往左往していたことになる。上に続く遍路道脇にある道標も確認し、とりあえず石浦バス停へと遍路道を繋ぐことにする。木立の中、遍路道の標識などを見遣りながら5分ほど下ると里に出た。

石浦大師堂(西光寺大師堂とも);11時24分
大師堂は扁額に「金栄山 西光寺」とある。西光寺大師堂とも称されるようである。素朴な造りの大師堂が多い中、この大師堂は細やかな木彫りの意匠で飾られていた。
お堂から美しい棚田を眺めながら一休み。お堂に佇む地元の方にお供えのお饅頭の御接待を受けた。毎月21日に地元の方が茶菓子を持ち寄り、大師堂に集うとのこと。当日は七月二十五一日。地域の方が三々五々おお堂に集まりはじめていた。子供の頃、祖母に連れられて近くの大師堂に行った記憶が蘇る。
徳右衛門堂標
お堂前には光明真言百万遍供養と並び徳右衛門道標が建つ。「是より菅生山迄はは八里」と刻まれる。菅生山は44番札所・大宝寺の山号である。手水鉢には天保十年の銘が刻まれる、とのことである。
●四国へんろ道案内 (4)
御堂の遍路道傍に「四国へんろ道案内 (4)」が建つ。「四国遍路の旅は阿波の"発心の道場"(1‐23番)に始まり、土佐の"修行の道場"(24番-39番)を経て、伊予の"菩提の道場"(40番‐65番)に入り、最後は讃岐の"涅槃の道場"(66番‐88番)を巡って結願となります。
水戸森峠を下ったお遍路さんは、この石浦大師堂に参拝し一休みしました。この大師堂では春の縁日には近郷の人びとがお米を持ち寄り、お接待をする習慣もあったようです。
また、旧暦3月21日と7月21日には、近在の力士達を集めて相撲が行われ、多くの客を集めていましたが、これらの風習もと絶え、近年は盆踊りが復活しています。
へんろさんはここからさらに歩を進め、小田川沿いに大瀬方面に向かい、曾我五郎・十郎の首塚を参詣した後、44番札所大宝寺(上浮穴郡久万町;私注;旧地名)をめざして足を運ぶのでした」とあった。

石浦バス停;11時32分
お堂で地元の方と少しお喋りし、ちょっと休憩の後、道なりに進み国道379号に出る。国道に面した福岡酒店の前に「四国の道案内図」があり、そこには現在地として「富浦バス停」とある。
小田川傍にある小屋建てのバス停には「石浦」と書いてある。石浦、富浦が混在なのか併在なのか、ともあれ、表記が統一されていなかった。山中での右往左往も「富浦バス停?石浦バス停」と分かっておけば、もう少し混乱がセーブできたかとも思う。
それはともあれ、本来はこれで43番明石寺から44番大宝寺までの後半と前半部を繋ぎ終えるはずではあったのだが、水戸森峠からの下り一部区間が抜けている。その部分をトレースすることになるのだが、車デポ地へのピストン行。いつもは少々ウザったいピストン行も、今回は誠にありがたく感じ、気持も軽く復路ルートを開始する。

舗装道と遍路道交差部に戻る;11時48分
国道379号から折り返し、石浦大師堂脇の「へんろ道案内」すぐ脇を進む。この箇所は左手にも道が伸びており、間違って進み途中で気づいて折り返した。ちょっと間違いやすいので注意が必要。
後は道なりに進むとほどなく舗装道と遍路道が交差する箇所の戻る。

水戸森峠の切通箇所に戻る;11時58分
道傍にある石の道標の「右 へんろ道」の案内に従い、斜めに上る踏み分け道に入る。杉木立の中を進むと林道にあたる。左に折れるとすぐに切通し。切通しを抜けると往路で出合った二番目の獣除けフェンス前。右には水戸森峠の休憩所に廻り込む道、足元の切通箇所には松尾集会所の地図にあったとおり石の道標があり、「右 へんろ道」と刻まれていた。

獣除けフェンスの開け閉めに気をとられ、この切通の道と道標を見逃したのが今回のドタバタのすべての因。よくみれば松尾集会所のへんろ道地図は、道標は水戸森峠あずまやに接してはいるが南に描かれている。休憩所あずまやの裏手にも廻り込み、道標や遍路道が見つからないと、あらぬ道を進んだのだが、まさか切通しがあったとは。切通から直ぐ上に水戸森峠の休憩(あずまや)が建っていた。
これで43番明石寺から44番大宝寺までの後半と前半部の未踏ルートも繋がった。あとは来た道を車デポ地に戻るだけ。

車デポ地に戻る
山道を下り、農免道路を下る。炎天下で結構疲れていたのか、知らず松尾集会所から農免道路に合流した箇所を見逃した。結局農免道路を下りきり、中山川に架かる田中橋を渡り、結構な遠回りでデポ地に着いた。峠越えのルート図があっただけで「勝った気になり」道を見落とし、散歩の最後でも合流点はわかるものと思い込み間違い道。気を抜いたらダメだよな、と改めて思った水戸森越えではあった。

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