玉川上水散歩そのⅢ:西武拝島線・立川駅から、上水南の砂川分水・砂川新田を想い描き、玉川上水駅まで歩く

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西武拝島線・立川駅を下り、先回散歩の最終点である美堀橋の先にある暗渠部に向かう。今回は、出かけるのが遅くなり、この暗渠部から玉川上水駅あたりまで上水を辿ることにする。ルートの南は、先日国分寺散歩で偶然出合った、江戸の頃の砂川分水・砂川新田(後の砂川村)。五日市街道に沿って開拓された砂川村を想い描きながら、上水を辿ることにする。

本日のルート;西武拝島線・立川駅>美掘橋>松中橋>柴崎分水口>砂川分水口>一番橋>天王橋>稲荷橋>上水橋・すずかけ橋・上宿橋>新家橋>見影橋>巴河岸跡>大曲>金比羅橋・金比羅山>宮の橋>千手橋>玉川上水駅

美堀橋
美堀橋は昭和59年に架けられた。名前の由来は、辺りの地名である美堀町、から。また、美堀町は、上水の向こう側、ということで、「堀向=ほりむこう」とも呼ばれていた、と。暗渠は戦前、昭和14年(1939)、上水の南に長さ1200m、幅170mの滑走路が完成し、将来、延長される可能性を見越して、上水に鉄筋コンクリートの蓋をした、とのこと。立川にあった陸軍飛行第五連隊は、1938年には飛行第五戦隊と改編され、1939年に柏飛行場に移った。立川には実戦部隊はなくなり、立川陸軍航空廠や技術研究所、あとは軍用機を製造するといった研究・開発・製造の拠点となり、結局、滑走路が延長されることはなかったようである。




松中橋
松中橋を越えると5~6m下流に小さな堰がある。松中橋とこの堰の間にある二つの分水口への水位を上げるためのもの。二つの分水口とは柴崎分水と砂川分水。上流から柴崎分水と砂川分水の順に分水口がある。砂川分水は、散歩の折々出合ったこともあるのだが、柴崎分水ははじめて。八代将軍吉宗の新田開墾奨励策の一環として、当時の柴崎村芋窪新田、現在の立川駅の南西側の人々の上水や灌漑用水として利用されたのが柴崎分水である。

柴崎分水
松中橋の分水口を離れた流れは、南東に下る。地図を見ると、県道162号に向かって水路らしき流れが残る。県道から先は暗渠となっているが、流路はそのまま直進し、昭和記念公園西側の空き地に進み、そこを残堀川に沿って南下。途中で直角に曲がり、今度は残堀川の東を下る。昭和公園辺りを離れた分水はJR青梅線・残堀橋脚付近をくだり、奥多摩街道に。
奥多摩街道を東に進んだ分水は中央線を「掛け樋」で渡り、中世、立川地域に勢力を張った立川氏ゆかりの普済寺近くを進み、立川段丘を下る。その後は、中央モノレール柴崎体育館の南を越え、柴崎体育館駅の北側を抜け、根川に合流し、日野橋付近で多摩川に注ぐ。距離はおおよそ8キロ。奥多摩街道から普済寺までの流路は、西へ東へ、南へ北へと、結構複雑な流れとなっている。現在でも素堀りの流れなど、流路の半分くらいが開渠で残っているようだ。そのうち流路を辿ってみようと思う。

砂川分水
柴崎分水口のすぐ下流に砂川分水口。玉川上水から分かれた用水の中では、明暦元年(165)に開削された野火止用水に次いで古い用水である。明暦3年(1657)開削当時の分水口は、松中橋の300mほど下流にある天王橋のあたりに設けられ、その地で交差する五日市街道に沿って東へと流れ、砂川新田、後の砂川村の開発に供された
。 砂川新田の開発は、玉川分水・砂川分水の開削(明暦3年;1657)以前、寛永4年(1627)~明暦2年(1656)の頃よりはじまっていた。現在残堀川は天王橋の下流、上水橋・すずかけ橋のところを流れるが、当時は更に下流、立川断層に沿って、現在の見影橋に辺りを流れており、玉川上水ができる前は、この残堀川の水を利用し、新田開発が行われていた。その流れは、五日市街道の砂川三番・四番あたりに下っているので、開発は砂川三番・四番あたりからはじまった。名主・村野屋敷が砂川四番辺りにある。
明暦3年に砂川分水が通水されると、天王橋から五日市街道に沿って,砂川一番から八番へと新田開発がはじまる。明暦3年(1657)~元禄2年(1689)の事と言われる。現在も交差点に砂川三番、とか砂川七番といった名称が残る。この番号は年貢の徴収単位であったようで、一番から四番を「上郷」、五番から八番を「下郷」と呼び、それぞれ、「小名主」がその任にあたった。
この砂川一番から八番を通常、「砂川村」と呼ぶようだが、それは、亨保7年(1722)、八代将軍吉宗による新田開発奨励策を受け、砂川新田の一番から八番まで開発を終えていた砂川の人々が、その東、砂川九番、十番あたりに開発の手を延ばし、これら新しい新田を「砂川新田」、その東を「砂川前新田」などと呼ぶようになった。ために、それらの新田と区別できるように従来の新田を「砂川村」としたようである。砂川三番、四番を中心に村の母体ができて百年後のことであった。
砂川分水の流れを少し先まで辿ると、立川と国分寺市の境、先日散歩で訪れた妙法寺、鳳林寺の少し西で五日市街道を挟んで南北に分かれ平行に進む。もともとは、小川新田地先の玉川上水樋口から分かれた野中新田分水の流れであった(場所から言って、小平にある野中新田の飛び地だろう)。砂川分水開削当時は、砂川八番あたりまでしか通水しておらず、ために、玉川上水から直接分水していたようである。その流れは西武国分寺線を越えたあたり、国分寺市並木町辺りで合わさり、一流となり、鈴木新田分水(ここも小平にある鈴木新田の飛び地)に接続されている、と聞く。これらの分水は明治3年の分水大改正時、つまりは、上水通船事業の開始にともない、上水南側の分水は、すべからく砂川分水に統合されることになり、砂川分水以外の分水口は閉じられることになったため、「砂川分水」に繋げた、と聞く。

一番橋
上水南側を砂川分水の開渠に沿って進む。開渠はほどなく暗渠となるが、整備された緑道を進むと一番橋。橋名の由来はこの辺りが砂川一番の地内であることから。緑道の南に一番組公会堂などという、往昔の名残を残す建物が地図に見える。

天王橋

先に進むと天王橋。橋の南詰めに八雲神社があり、牛頭天王を祀るのが名前の由来。五日市街道がこの橋を渡るため、五日市橋とも呼ばれたようだ。現在、天王橋は二つあり、上流に架かるのが昭和6年に架けられた天王橋。下流の五日市街道に架かるのが新天王橋。昭和45年に架け替えられた。天王橋の交差点は、変形六差路となっており、北は村山、南は昭島、立川、東は拝島、西は国分寺方面へとつながる。昔も交通の要衝の地であったのだろう。
五日市街道は江戸の頃、伊奈道とも呼ばれ、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭、織物などを江戸に運んだ。伊奈道と呼ばれた所以は、秋川筋の伊奈村は石工、石材で知られ、江戸築城には欠かせないこの地の職人を江戸に呼び寄せた、ため。

稲荷橋
天王橋から先は、上水の南側が歩けないため、北側を江戸の頃の分水口の痕跡など無いものかと、注意して進むが、見あたらず。先に進むとほどなく稲荷橋。橋の南詰めにささやかなる稲荷の祠が佇む。もとは二の橋と呼ばれたようだが、砂川一番組のお稲荷様が祀られていたため、稲荷橋と呼ばれるようになった。

上水橋・すずかけ橋・上宿橋
上水に沿った緑道を進むと残堀川と交差。歩行者専用の橋は「すずかけ橋」と呼ばれる。その橋と平行するように、上水は残堀川の下を潜り、その先で元の高さに復帰する。もともと残堀川は、狭山谷川、夕日台川といった狭山丘陵の水を集めて東南に下り砂川三番の御影橋付近に至り、曙町を経て矢川につながり、国立の青柳から谷保を抜けて府中用水に流れ込んでいたといわれる。江戸時代の承応3 (1654)年、玉川上水が開通した際、愛宕松付近(現在の伊奈平橋付近)で川筋を南に曲げ、現在の天王橋(五日市街道との交差部)付近で玉川上水につなぎ代えた。同時に掘割を通して狭山池の水を残堀川に繋ぎ、玉川上水の助水として利用した、とのことである。

明治に入ると残堀川の水が汚れてきたため、明治26(1893)年から明治41(1908)年にかけて、玉川上水の下に交差させ、立川の富士見町へ至る工事が施された。富士見町から立川段丘の崖を落ちた水は段丘沿いに流れる根川に合流していた、と。昭和に入ると、増大した残堀川の生活排水の流入を避けるため、昭和38(1963)年、水量が安定している玉川上水を下に通すことになった。現在の姿がこれである。残堀川をもっと深く掘ればいいか、とも思うのだが、それではローム層下の立川礫層・透水層に当たり、水が河床から吸い込まれる、ということだろう、か。実際、昭和公園あたりの残堀川はほとんど水がないが、これは幾度にも渡る改修工事の結果、河床が透水層に達してしまい、水が吸い込まれるか、伏流水となっているためである、とも。橋の名前を上に上水橋・すずかけ橋・上宿橋とメモしたが、どれも正確には残堀川に架かっている橋。上水の北側に上水橋、その下に人道橋のすずかけ橋、そして、その15mほど下流に上宿橋が架かっていた、ように思うのだが、ちょっと自信なし。そのうちに確認にいってみよう、か。
それはともあれ、散歩をすると、時に川がクロスする場所に出合う。川崎の二ヶ領用水を辿っていたときも、三沢川と交差し、用水が下を潜っていた。ここでも、上を通したり、下に付け替えたりと、あれこれの経緯があったようだ。クロスではないが、水位の違う川の往来を可能にするため、ふたつの川を繋ぐ水路に閘門を設け、水位を上げ下げして往来する、隅田川と小名木川を介して旧中川と、また、埼玉の見沼代用水と芝川を繋ぐ見沼通船堀の閘門などが記憶に残る。見沼通船掘は、規模はさておき、その手法はパナマ運河より2世紀も早く造られた、とか。水を辿るのは、いかにも楽しい。

新家橋
残堀川との交差を越えると、上水の南が開ける。五日市街道のケヤキの並木、それに鬱蒼とした屋敷林を見やる。こういった並木って、防風林の役割をしているのだろう、と思っていたのだが、どこかで、風に舞い上がる関東ローム層の防砂対策の役割をもしていると、読んだ記憶がある。先に進みほどなく新家橋に。名前の由来は新家(にいや)と言う農家、から。砂川三番組の地区でもあり、三の橋とも呼ばれた。

見影橋
次の橋は見影橋。橋の脇に案内によれば、見影橋は江戸の頃からあり、上流から四番目であったので、四の橋、とも。また、名主村野家(明治になって砂川家、と)の屋敷が近くにあったので「旦那橋」と呼ばれた、とも。玉川上水の水見回り役も兼ねていた村野家のために架けられた橋、とも言われる。
明治の頃には名主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」もあった、とか。村野(砂川)家専用の分水である。玉川上水には三十五ほどの分水があったようだが、個人専用の分水は、福生の名主・田村家と、この源五右衛門分水くらい。名主の力のほどが偲ばれる。
上でメモしたように、往昔の残堀川は、この見影橋筋を流れていた。玉川上水が開削される前の砂川新田開発は、この残堀川の旧路の水をもとに、南に下った砂川三番、四番あたりよりはじまる。名主村野家(後の砂川家)の屋敷が砂川三番交差点の少し西にあるが、開発当初は狭山丘陵南麓の岸村からの通い。名主・村野家も岸村から、この地に移ったのは元禄17年(1704)。明暦3年(1657)に砂川分水が開通して、およそ50年後のことである。

巴河岸跡
見影橋から少し下ったあたりに、明治の頃、巴河岸があった。これは明治3年から5年まで、わずか2年の間おこなわれた上水を利用した舟運の荷の揚げ下ろしの場所。上水を利用した船運の計画は江戸の頃から幕府に許可を求めていたが許されず、明治維新の政府の混乱もあったのか、はたまた、砂川村名主・村野家と新政府の要人・三条実美公や江藤新平卿との誼、故のことなのか、砂川村名主・村野源五右衛門、福生村名主・田村半十郎、羽村村名主・島田源兵衛の3有力者連名での「玉川上水船筏通行願」が許された。
船運開始に先立ち、船運の支障となる低い橋の架け替え、舟運に必要な荷物集積所(河岸)、そして下った船を、再び上流へと曳き揚げるために上水の両岸に「曳き道」も整備された。船運が開始されると、最盛期には百隻もの船が往来した、と言う。船持ち人は青梅の名主から、玉川上水に沿って吉祥寺までの村々の名主や新田の惣代百姓。羽村名主十四隻、福生名主十八隻、砂川名主二十二隻と、代表となった3名主の持ち船が圧倒的に多い。福生名主・田村家の運ぶ酒樽も上水を下り、江戸に向かったことだろう。
一時活況を呈した玉川上水通船であるが、上水を汚すという理由により、二年後の明治5年5月、廃止となる。田畑牛馬売却をもって船運開業の資金とした者など、この沙汰に大いに困り、再開を懇請したり、上水に沿って新堀を平行して掘り、それを通船の水路とする、といった案を提出するなど、あれこれ策を講じるも、結局、上水通船事業再開は許可されることはなかった。明治16年には玉川上水に沿って羽村―新宿間に馬車鉄道を敷くといった計画もあったが、時既に鉄道輸送の時代が到来し、多摩と東京の貨客の大量輸送は明治22年(1889)、新宿と立川間に開業した甲武鉄道にその任を委ねられることになる。

大曲
見影橋を過ぎると、上水は南に向かって大きく曲がる。大曲と呼ばれていたようだ。この場所を斜めに立川断層が通っており、それを迂回しているとのことである。立川断層は上水の上流側が低く、下流側が高い坂となっているカシミール3Dで地形図を見ると、比高差はおよそ4~5mほどである。
この坂を越えるため、北側が高く南側が低くなっているこの地の地形に合わせ、北側の高い所を掘り進め、断層地帯に当たると、断層に沿って下り、下流側の坂の高い所に合わせ、若干の勾配を保ち(カシミール3Dでチェックすると102mから99mとなっていた)、流れを保っている。

金比羅橋・金比羅山
上水の南側に沿って坂を上る。竹林などの茂る道脇の景色を眺めながら遊歩道を進むと、金比羅山の案内。山頂に金比羅神社、富士浅間神社、中腹には秋葉神社が祀られている、と。住宅地の間の鳥居を目安に参道の石段を上り、「山頂」に。この山は、安政年間、砂川村の名主が中心となり、上水開削土を盛り上げて造ったとも伝わる。標高15mの小山である。
こんな小さな山、と言うか塚に、三つの神様が祀られる。それぞれの関係は、今ひとつよくわかっていないが、もともと、この山は富士塚として造られた、とも言う。それであれは、富士浅間神社はあって当然。また、秋葉神社って、江戸の頃、浅間社との連携を強め、富士信仰との融合を図ったとも言われる。それであれば富士浅間神社と共存することに違和感は、ない。が、それでなくても、秋葉神社って、火除け・水除けの神であるので、富士信仰と関係なくこの地に祀られたの、かも。また、金比羅様は近くにあった砂川家の船河岸・巴河岸での船運の安全を祈願して祀られたのだろう。とすれば、金比羅山と呼ばれたのは、明治に入ってから、ということだろう、か。
金比羅山を越え、金比羅橋に。所沢(村山)街道と玉川上水交差するところから、村山橋とも呼ばれる。また、五の橋、とも。この橋の手前には砂川水衛所があった、と言う。現在では熊川、小川の各水衛所とともに統合されて小平監視所となっている。

宮の橋
金比羅橋を越え宮の橋に。この橋を南に下ると青梅街道手前に、阿豆佐味神社がある。橋の由来は、この神社から、だろう。明治には、宮崎九郎さんの裏にあったため、九郎さん橋、と、呼ばれたとも。
阿豆佐味神社といえば、この聞き慣れない名前に惹かれ、国分寺から辿り、思いもよらず、武蔵野新田や用水、そして砂川新田、また、新田開発の名代官川崎半左衛門などに出合ったきっかけの神社。阿豆佐味神社の「本社」を求めて、狭山丘陵南麓の、昔の岸村を訪ね、その地より残掘川を下ったこともある。いろんな、「きっかけ」を与えてくれた神社であった。


千手橋
元は「七の橋」。昭和になって橋が架け替えられたとき、千手橋となった、とか。名前の由来は不詳。日暮れも近い、立川砂川浄水場とか国立音楽大学を見やり、一路玉川上水駅に進み、本日の散歩を終える。

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