雲辺寺から「四国のみち」として整備された遍路道を麓に下り、麓から阿讃山脈に切り込んだ粟井川の谷筋を3キロほど歩き里に出る。そこからは山裾を2キロほど東に歩けば67番札所・大興寺に着く。
粟井川の谷筋に沿った遍路道には30有余の丁石が並ぶ。山中の遍路道ならともかく、里道にこれほどの舟形地蔵丁石が並ぶところがあっただろうか。ちょっと思い起こせない。地元の方が大切に残して頂いたのだろう。
また粟井川の谷筋の遍路道を歩きながら、どこかで見たことがあるような景色に出合った。それはいつだったか辿った香川用水の水路筋であった。遍路道が香川用水の水路筋とクロスしていたのだ。こんなところまで水路を追っかけて来ていたようだ。
ともあれ、涅槃の道場と称される香川・讃岐の23か所の最初の札所・大興寺に向けて進むことにする。
本日のルート;旧遍路道標識>徳右衛門道標と三十二丁標石>遍路墓>二丁標石>角柱標石(36丁)>四丁標石>六丁標石>「南無阿弥陀仏」碑>七丁標石>八丁標石>九丁標石>十丁標石と自然石標石>十一丁標石>十二丁標石/十三丁標石>十四丁標石 / 十五丁標石>十六丁標石 / 十七丁標石>金毘羅常夜灯と十八丁標石>六部供養塔と十九丁標石>廿丁標石と六部供養塔・舟形地蔵>二十二丁標石 / 二十三丁標石>二十四丁標石>二十五丁標石 / 二十六丁標石>二十七丁標石と三界万霊>二十八丁標石が2基>土佛観音堂前の真念道標>県道240号と遍路道の分岐路に道標>三十丁標石と手印だけの自然石>三十一丁標石と道標>三十二丁標石>標石>四つ角に標石>七丁標石>六丁標石と石造群>四つ辻に2基の標石>五丁標石>四丁標石 / 三丁標石>二丁標石と石仏群>大興寺裏参道前の四辻の標石>六十七番札所 大興寺
旧遍路道標識
スタート地点は先回散歩の終点、小池の西端、旧遍路道標識の立つところ。雲辺寺から山道を麓に下りた広域幹線林道・五郷財田線の雲辺寺登山口を少し西に戻ったところだ。標識に従い右に折れ粟井川の谷筋へと向かう。
徳右衛門道標と三十二丁標石
旧遍路道を右に折れると直ぐ、道の右側の生垣模様の木立の中に道標が2基並ぶ。ひとつは「是より小松尾寺へ一里」と刻まれた徳右衛門道標。もう一基は三十二丁と刻まれた舟形地蔵丁石である。麓に下る遍路道の途中、十九丁石で途切れた舟形地蔵丁石はこの地で三十二丁石として現れる。
この地は白藤大師堂の旧地。現在は集落の中に移されていた(次回のメモに記す)。
●徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。
因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。
遍路墓
白藤大師堂にも関係あるのか、道の反対側の一段高いところにはいくつもの遍路墓が祀られていた。基本お墓の写真を撮るのは憚られるのだが、このときは地元の方がきれいにお掃除されていたので、思わずシャッターを押した。
二丁標石
少し下ると二丁石。三十二丁まで続いた雲辺寺からの距離を示す舟形地蔵丁石に代わり、ここからは旧白藤大師堂から大興寺に向かう遍路道の距離を示す舟形地蔵丁石が並ぶことになる(旧白藤大師堂までの距離といったほうが正確、かも)。
三十二丁石のすべては文政十三年庚寅年七月の建立とのこと。小さな木の覆屋に収まるこの丁石には「先祖代々」の文字が刻まれる、という。
角柱道標
少し下ると道の左手、覆う草に埋もれる石垣にもたれかかるように角柱道標がある。「小松尾寺へ三十六丁 明治四十四年五月実測」と刻まれる。地蔵丁石と異なり、小松尾の地にある札所・大興寺までの距離を示す。一丁はおおよそ109mというから、4キロ弱となる。
四丁標石
如何にも旧遍路道といった趣の道を少し進むと、道の左手、竹林を背にして四丁の地蔵丁石がある。この丁石も小さな木の覆屋の中に立つ。
六丁標石
道の右手に覆屋に立つ六丁と刻まれた地蔵丁石。元の遍路道は道路を右に入った丘の上を進んだようだが、現在は荒れたブッシュとなり踏み分け道すら残らず、とても歩くことはできなかった。
六丁石も丘の上の旧遍路道にあったのだろうが、現在は簡易舗装された道端に移されていた。
「南無阿弥陀仏」碑
簡易舗装を少し進むと、道の左、ガードレールの外に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が立つ。
七丁標石
その碑の傍、小さな丘から簡易舗装道に下る坂の途中に、これも木の覆屋の中に、少し大きめの地蔵丁石が立つ。七丁の標石だ。「七丁 左雲へん寺道」と刻まれる、と。 実のところ、この丁石を探して、六丁石から丘の上に続いたという旧遍路道に入り込み、ブッシュに阻まれながら、あちらこちらと彷徨った挙句、諦めて道に戻るとこの丁石に出合った。思うに、この丁石も六丁標石と共にブッシュに覆われた旧遍路道から移されたものかと思う。
八丁標石
七丁標石辺りまで下ると粟井川の谷筋に集落が見えてくる。左手には大きな溜池・新池もある。
七丁標石の先で車道は左に折れ新池の畔へと進むもの、右に折れ集落に下りるものと二つに分かれる。が、旧遍路道はその間、養鶏場の敷地のようなところを下る土径を進むことになる。坂の途中、養鶏場の右手の道端に「八丁」の標石が立つ。
九丁標石
養鶏場を越え、粟井川を渡る手前に九丁標石。これも同様に舟形地蔵丁石。 舟形地蔵丁石とは、舟形の光背を背にした地蔵菩薩に丁数を刻んた標石のこと。光背は後光のこと。舟形(舟御光)の形状以外には不動明王の火焔光、円光、宝珠光などがある。
十丁標石と自然石標石
粟井川に架かる橋を渡り右岸に移る。右岸橋詰めに覆屋に立つ十丁の標石と自然石の標石が並んで立つ。自然石標石には手印とともに、「右 うんぺんじ 左 こまつをじ」「明治三十九年 施主 福岡県備前郡**長野寅太郎」と刻まれるという。
十一丁標石
粟井川右岸を進む車道は県道240号。少し進むと石碑の並ぶお堂の道端に十一丁の標石がある。覆屋はない。
お堂には「四国八十八カ所 番外白藤大師堂」とある。上述、広域幹線林道・五郷財田線から旧遍路道に折れてところ、徳右衛門道標と三十二丁標石のところにあったものが、この地に移されたのだろう。現在は奥谷自治会館となっている。
入口の石碑には明和年間に出羽の和尚の開基。壮麗を極めたが明治になり、第十一師団の陸軍演習場として買収されこの地に移った、といったことが刻まれている。
●第十一師団陸軍演習場
明治30年(1897)、善通寺に第十一師団司令部が設置され、『雲邊寺原演習場要図』に示される山麓一帯が演習場となった。地図によれば、なるほど新池の南はすべて演習場となっている。
十二丁標石/十三丁標石
道の右毛に上部が欠けた十二丁の標石が立つ。「へん路道」と刻まれるようだ。 十三丁標石も道の右側、小さな木の覆屋の中に立つ。
十四丁標石 / 十五丁標石
道の右手に十四丁、十五丁と続く。十五丁標石は石仏が2基縦に並ぶ。後ろの石仏は摩耗が激しく、上部が縦に割れている。前の舟形地蔵に「十五」の文字が読める。
十六丁標石 / 十七丁標石
十六丁石は道の左側、ガードレールの切れ目に立つ。272mピークを借景に美しい絵柄となっている。十七丁石は少し大振りな姿で道の右手に立つ。
金毘羅常夜灯と十八丁標石
粟井川に架かる橋を超えると道の右手に金毘羅宮の石碑、金毘羅常夜灯などが並ぶ。その先、道路法面の前にちょこんと十八丁の標石が置かれる。
六部供養塔と十九丁標石
道の右手に木の覆屋に地蔵様。台座に「六十六部 越前圀」の文字が刻まれる。その先、道の右手に十九丁の標石。
●六十六部
六十六部とは、かつての日本を成していた六十六の国毎の霊場に、法華教を納めるべく廻国巡礼すること、またはその人。
ではその霊場は?チェックすると、中世のころは六十六の霊場を巡ったようだが、特に霊場が固定することなく、近世中後期には数年から10年ほどかけて数百の巡礼地を巡ることも少なくなかったようである。
六十六部における巡礼は聖地というよりは、鎌倉期以降に登場する「神国思想」「国土即仏土論」といった思想を背景とし、国全体を「聖地」と見立て巡礼する、といったことに重きを置くとの論もあった(「六十六部廻国とその巡礼地 小嶋博己)。
廿丁標石と六部供養塔・舟形地蔵
道の右手、民家の前に立つ廿丁の標石。その先には六十六部供養塔と古い舟形地蔵が並ぶ。舟形地蔵は摩耗が激しく丁数など読めないが、六部供養塔には、「遍路 六部札供養 享保九年」と刻まれる、と。
二十二丁標石 / 二十三丁標石
道の右側、覆屋に座るお地蔵様の少し先に二十二丁、二十三丁の標石が続く。
●お地蔵さま
お地蔵さまといえば野辺の地蔵を思い起こす。誠に身近な存在である。とはいえ、お地蔵さんって、地蔵菩薩と称される如く広い意味での仏様のランクでいえば、如来>菩薩>明王>天部という上位ランクにあり、お釈迦様が入寂後、次の弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような仏様不在の現世にあって、六道(地獄道・餓鬼道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救済する誠にありがたい菩薩である。
日本においてお地蔵様がこれほど身近な存在となった理由について、Wikipediaには「日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた」とある。このあたりにその因があるのだろう。
二十四丁標石
岩鍋池の手前、県道右側の法面前に二十四丁の標石が立つ。
●香川用水
池の南端あたりを香川用水の西部幹線が走る。ここがどこかで見たことのある景色の地であった。いつだったかその流路を探して彷徨ったわけである。 その時は流路の手がかりを見つけることができなかったのだが、今回のメモの段階で昭和49年(1974)にこの池の水源として香川用水から直接できるようになった、との記述を見付けた。
であれば、どこかにその施設があるはず。と、池の南端にコンクリートの建屋があり、そこから池に水が注いでいた。場所的にも香川用水流路でもあるので、用水はその施設の東西を流れているのかと思う。
●岩鍋池
岩鍋池は、雲辺寺山の谷筋からの水を平野開口部で堰き止めた溜池。築造は室町時代後半の大永 7 年(1527年)と伝えられる。築造当時の堤防は、現在の位置より少し上流であったようだが、江戸時代初期の寛永7年(1630年)に西嶋八兵 衛により現在の地に増改築された。
二十五丁標石 / 二十六丁標石
岩鍋池に沿って通る県道240号東側に二十五丁標石と二十六丁標石が並んで立つ。前面の岩鍋池は冬枯れで水はない。
二十七丁標石と三界万霊
すぐ先、道の東側に二十七丁標石とその横に三界万霊。三界万霊とは欲界・色界・無色界の三界すべての霊をこの石塔に宿らせ供養する。
二十八丁標石が2基
池の北端近くに二十八丁と刻まれた標石と、自然石に仏像と二十七丁と刻まれた道標が並ぶ。自然石は明治五年のもとと言う。
池の北端、県道240号から岩鍋池堤防への道が分かれる箇所に「四国のみち」の標石。「雲辺寺7.2km 大興寺1.9km」と刻まれる。
土佛観音堂前の真念道標
「四国のみち」の標石の前面、県道から堤防の道が分かれる箇所に集会所といった建物が見える。近づくと「土佛観音堂」とある。その観音堂の境内というか庭に真念道標が立つ。電柱やガードレールで少々窮屈そうである。正面には「左 遍ん路みち」と刻まれる。
●真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。
県道240号と遍路道の分岐路に道標
遍路道は土佛観音堂の先で県道から別れ右の径に入る。その分岐点に割と大きい道標が立つ。手印と共に、「右 こまつおじ すぐこんぴら 左くぁんおんじ」と刻まれる。文政四年(1821)のもの。
三十丁標石と手印だけの自然石
集落への生活道として舗装された道を進むと右手に三十丁標石と手印だけの自然石が立つ。標石の対面には地元の方がつくられた遍路休憩所があった。
このあたりも香川用水西側幹線水路を辿り彷徨ったところ。標石手前あたりから南に分岐する道に進むと、原隧道を抜け岩鍋池への城谷隧道に入る城谷開水路が遍路道の少し南を走る。
三十一丁標石と道標
集落に入る手前、道の右手に覆屋に建つ三十一丁の地蔵標石と「へんろミチ」と刻まれた道標が立つ。
三十二丁標石
道の右手にこれも覆屋に三十二丁標石がある。雲辺寺からの山道を下り、広域幹線林道・五郷財田線から右に折れる旧遍路道の二丁からはじまった文政十三年建立の地蔵丁石はこの三十二丁でおしまいとなる。
「是より小松山道」の標石
道の右手に「是より小松山道」と刻まれる標石。
四つ角に「こまつを寺」標石
遍路道はほどなく南北に通る比較的大きな道と交差。四辻角に「四国のみち」の標石と並び、手印と共に「こまつを寺」と刻まれた標石が立つ。遍路道は直進する。
七丁標石
遍路道を進むと七丁標石。今までの文政十三年の舟形地蔵丁石が旧白藤大師堂からの距離を示すのではなく、ここから小松尾寺(大興寺)までの距離を示す標石となる。
つらつら思うに、またなんの根拠もないのだけれと、旧白藤大師堂からの三十二丁までの標石は、その主たる対象が大興寺ではなく、白藤大師堂であったのではないだろうか。白藤大師堂の石碑には、高僧が法灯を継ぎ堂塔の伽藍の結構は壮麗を極めた、とあった。今では想像もできないほどの有難いお寺さまに向かう地元の人たちへの道案内ではなかったのではないだろうか。
六丁標石と石造群
大原自治会館の道を隔てた道の南側に元治元年の自然石常夜灯などの石造物の中に六丁標石も立つ。
横には地元のご夫妻の古い時代と思しき写真とともに仏像を納めた祠が建っていた。
四つ辻に2基の標石
その先、四辻に2基の標石。左手には自然石に「すぐへんろ」、「兵庫」といった文字が読める。裏には「迷者タメニ**建立ス 明治二十二年」が刻まれる、と。
四つ辻右手の標石は、一段高い畑の畦端に立つ。見た目に比較的新しい角柱標石であり、「小松尾寺 昭和五十七年十二月」と刻まれる。
五丁標石
2基の標石のある四つ辻を道なりに直進し、小高い丘の坂を上りきった墓地のところに五丁の舟形地蔵標石が立つ。このあたりが観音寺市と三豊市(旧三豊郡山本町)の境となっている。
●三豊市
律令制の頃、讃岐国の三野郡と豊田郡に属す。明治32年(1899)町村制施行時に三豊郡となる。行政合併時の常の如く、三野の「三」と豊田の「豊」の合わせ技の命名だろう。その後、昭和30年(1955)、三豊郡の西部が観音寺市となり、平成18年(2006)に山本町など三豊郡の七町が合併し三豊市となる。
四丁標石 / 三丁標石
三豊市域に入った坂を下り切った道の左手、T字路ガードレール脇に四丁の地蔵標石。そこから少し進んだ道の右手に舟形地蔵が立つ。文字は読めないが三丁標石のようだ。
二丁標石と石仏群
小高い独立丘陵に上る坂の手前に石造物が集まる。その中に二丁標石。三界萬霊碑と並ぶ。
大興寺裏参道前の四辻の標石
坂を上り切った角に「四国のみち」の角柱とその傍に自然石の標石があり、「へんろ」の文字が読める。
直進すれば大興寺の裏参道ではあるが、現在は裏参道からの参拝は歓迎されていないようで、丘陵東にある表参道へと廻ることになる。
四つ辻を右折、さらに道なりに左折し丘陵を下り表参道側に出る。駐車場も整備されている。
●石造地蔵道標と2基の茂兵衛道標
駐車場から丘陵の東に沿って流れる水路を渡り大興寺表参道に向かう。水路を渡ると道の右手に石造の大きなお地蔵さまと2基の道標が立つ。
石造地蔵尊の台座には「へんろミち 弘化四」と刻まれ、道標にもなっている。その横に並ぶ2基の道標は共に茂兵衛道標。
手印と共に「雲邊寺 明治三十三年」と刻まれる道標は茂兵衛179度目のもの。「右小松尾寺 明治廿壱年」と刻まれるものは百度目のもの。
門前で「右小松尾寺」というもの異なものであり、どこからか移されたものだろう。
◆中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
●仁王門
水路に架かる石造りの極楽橋を渡ると仁王門がある。金網で覆われた仁王様が多いなか、このお寺さまは直接拝顔できる。伝運慶作とのこと。
裏側には大草鞋。旅の安全を祈るとも、撫で仏ならぬ撫で草鞋で患部を撫でて傷を癒すとも、お寺さまでそれぞれであるが、このお寺様はどうだろう。
仁王門手前には「四国霊場六十七番 小松尾寺道 明治四十七年」と刻まれた角柱標石が立つ。
○仁王さまと吉三郎
仁王門に建つ、鎌倉期の作ともされる阿吽二体の仁王様のうち、口を開いた阿形の仁王様は江戸の頃に修理された、と。
その修理に際し、八百屋お七の恋人吉三郎が登場する話が伝わる。吉さん恋しと放火し、江戸の町を焼き、火炙りの刑に処せられお七の供養に四国遍路に出た吉三郎。この寺で傷んだ仁王様の首を見て、その修理勧進を申し出て四国遍路を続けた、と。お話はお話としてそっとしておこう。
●カヤの大木
仁王門を潜り本堂への石段右手に巨大な樹木。案内には「県指定自然記念物 胸高幹周4.1m 樹高20m 樹齢1200年余り 形状 自然形 イチイ科の常緑針葉樹。弘法大師四国修行の砌りイチイの種子を植えたと伝えられている」とあった。
●楠の大木
石段を上った踊り場脇に、これも巨大な楠木が聳える。子供の頃、愛媛の家の周りにも誠に巨大な楠が聳えていたのだが、今はすべて切り倒されており、この木を見るにつけ、少し残念な気持ちになった。
●本堂
寺伝によれば、天平14年(742)熊野三社権現鎮護のため建立。弘仁13年(822)嵯峨天皇の勅命により弘法大師が開基した。讃岐国の熊野信仰の拠点とされたようである。本尊の秘仏薬師如来は弘法大師の自刻とされる。 尚、熊野三社権現は現在大興寺奥の院として本堂南西に祀られる。
堂宇は天正年間、というから16世紀後半、長曾我部軍の兵火により本堂を残して消失。現在の堂宇は江戸の頃、慶長年間(1596?1614)の再建による。
〇熊野三社権現
権現とは「権(仮)の姿で現れる」ということ。熊野本宮・新宮・那智の熊野三山に祀られていたそれぞれの神は,元々は別個の信仰により成立したものだが、平安の頃になるとそれぞれの神を合祀し三山と総称されるようになる。 その神々が仏教の影響のもと本地垂迹説での解釈により阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(新宮)、千手観音(那智社)が神という仮の姿で現れたとするのが熊野三社権現。
熊野の神々が宿る熊野は、隈野(くまの;辺鄙な地)故、奈良時代から山林修行の地として知られ、役の行者(えんのぎょうじゃ)を始まりとする修験者が修行の地としてこの地に入ったと伝えられる。
奈良時代、特に後期以降には世俗的な寺から離れ、熊野・大峰の山中で修行・修験道に励んでいた園城寺の修験僧の影響もあり、熊野の修験道が個人の修験道レベルから中央の寺社勢力に組み込まれていくことになる。当然、熊野信仰に仏教の色彩・影響が色濃くでることになり、その結果としての本地垂迹説での本地仏の登場であり、熊野三社権現ではあろう。
●大師堂
本堂右側に大師堂。弘法大師空海を祀る。
●大天台師堂
本堂右側に天台大師堂。天台大師智顗(ちぎ)禅師 を祀る。隋の時代の中国の高僧。知者大師とも称される。大師はインドからもたらされた経典の中の法華経を重視し、法華教を核とした天台教学を打ち立てる。その教えをまとめた法華三大部〈法華玄義(ほっけげんぎ)、法華文句(ほっけもんぐ)、摩訶止観(まかしかん)〉は鑑真によって日本にもたらされた。
最澄はその教えを深く学ぶべく唐に渡り天台山で修行を重ねた末に日本に戻り、天台宗を開いた。その故をもって、天台宗では宗祖は伝教大師最澄、高祖は天台大師知者とする。
〇天台と真言、ふたつの大師堂
このお寺様は真言宗善通寺派。そこに天台大師堂がある?そもそもが四国遍路って、真言宗の祖・弘法大師空海を慕っての巡礼なのでは?
なにゆえに真言と天台の大師堂が?ということだが、四国遍路の成り立ちを思うに、それほど奇異なことではないようだ。四国の霊場を巡る四国遍路が弘法大師空海信仰と深く結びつくようになった(大師一尊化)のは室町以降のこととされ、それ以前の四国の霊場は多様な信仰が重なり合った霊場からなっていたようである。
「えひめの記憶」によれば、「四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。
高野山系と叡山系の念仏聖、本山派(天台宗聖護院派)や当山派(真言宗醍醐派)の修験者なども、それぞれ修行の霊場を作りあげていったのだろう。
それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく弘法大師を祀る大師堂が建てられ、遍路はその大師堂にお参りする大師信仰(遍照一尊化)が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには弘法大師の人気と共に、真言宗醍醐派の修験僧、遊行の僧である高野聖の影響が考えられるとのことである。
以上のことを踏まえれば、ある時期、修験道のメッカ熊野三社権現の霊刹として開基された大興寺に真言、天台両系統の聖、修験者が集い、その祖を祀っていたことはそれほど不思議なことではないかと思う。
〇辺地から遍路
因みに「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地(へじ)を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故の「遍」の借用のようである。
〇四国八十八か所
ついでのことではあるが、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的であり、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。 ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。
貞亭4年(1687)に真念よって書かれた四国遍路のガイドブックである「四国邊路道指南」も室町期にほぼ固まっていた88か所がそのベースにある、という。
〇四国八十八霊場の宗派
様々な信仰が重なり合って成立し、大師一尊化により真言宗の祖・空海と同一視されてもいる四国八十八ヶ所の霊場であるが、現在でも天台宗が4ヵ寺、臨済宗が2ヵ寺、曹洞宗が1ヵ寺、時宗が1ヵ寺もある。
大師一尊化が進む以前は四十番観自在寺がかつては天台宗であり、四十九番の浄土寺はその名の示すが如く浄土宗であり、五十一番の石手寺ももとは法相宗。また四つの国に1ヵ寺ずつある国分寺は華厳宗であったように、大師一尊化以前はさらに真言宗以外の霊場が多かったものと思われる。
さらに神仏習合の時代は、愛媛の五十五番札所が大山祇神社であったり、香川の六十八番札所が琴彈八幡宮であったりと、10ほどの神社が札所ともなっている。霊場がさまざまな信仰が重層的に発展して形成された所以である。
●境内の標石
表参道の石段を上がり切った右側に「六十八番 くわんおん寺 二里」と刻まれた標石。
境内左手に手印と共に「小松尾寺」」と刻まれた標石がある。これもどこかららか移されたものだろう。
また、境内右手,庫裡の敷地に2基の道標がある。門は閉じられ中に入ることはできないが、板塀の間から道標は確認できた。
ひとつは真念道標。「左 へん路みち 願主真念 為父母六親 施主讃岐」と刻まれる。もう一基には「左 へん路ミち」と刻まれる、「という。
二回に分けてメモした六十六番札所 雲辺寺から六十七番札所 大興寺への歩き遍路もこれでおしまい。次回は六十八番札所 観音寺に向かう。
粟井川の谷筋に沿った遍路道には30有余の丁石が並ぶ。山中の遍路道ならともかく、里道にこれほどの舟形地蔵丁石が並ぶところがあっただろうか。ちょっと思い起こせない。地元の方が大切に残して頂いたのだろう。
また粟井川の谷筋の遍路道を歩きながら、どこかで見たことがあるような景色に出合った。それはいつだったか辿った香川用水の水路筋であった。遍路道が香川用水の水路筋とクロスしていたのだ。こんなところまで水路を追っかけて来ていたようだ。
ともあれ、涅槃の道場と称される香川・讃岐の23か所の最初の札所・大興寺に向けて進むことにする。
本日のルート;旧遍路道標識>徳右衛門道標と三十二丁標石>遍路墓>二丁標石>角柱標石(36丁)>四丁標石>六丁標石>「南無阿弥陀仏」碑>七丁標石>八丁標石>九丁標石>十丁標石と自然石標石>十一丁標石>十二丁標石/十三丁標石>十四丁標石 / 十五丁標石>十六丁標石 / 十七丁標石>金毘羅常夜灯と十八丁標石>六部供養塔と十九丁標石>廿丁標石と六部供養塔・舟形地蔵>二十二丁標石 / 二十三丁標石>二十四丁標石>二十五丁標石 / 二十六丁標石>二十七丁標石と三界万霊>二十八丁標石が2基>土佛観音堂前の真念道標>県道240号と遍路道の分岐路に道標>三十丁標石と手印だけの自然石>三十一丁標石と道標>三十二丁標石>標石>四つ角に標石>七丁標石>六丁標石と石造群>四つ辻に2基の標石>五丁標石>四丁標石 / 三丁標石>二丁標石と石仏群>大興寺裏参道前の四辻の標石>六十七番札所 大興寺
旧遍路道標識
スタート地点は先回散歩の終点、小池の西端、旧遍路道標識の立つところ。雲辺寺から山道を麓に下りた広域幹線林道・五郷財田線の雲辺寺登山口を少し西に戻ったところだ。標識に従い右に折れ粟井川の谷筋へと向かう。
徳右衛門道標と三十二丁標石
旧遍路道を右に折れると直ぐ、道の右側の生垣模様の木立の中に道標が2基並ぶ。ひとつは「是より小松尾寺へ一里」と刻まれた徳右衛門道標。もう一基は三十二丁と刻まれた舟形地蔵丁石である。麓に下る遍路道の途中、十九丁石で途切れた舟形地蔵丁石はこの地で三十二丁石として現れる。
この地は白藤大師堂の旧地。現在は集落の中に移されていた(次回のメモに記す)。
●徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。
因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。
遍路墓
白藤大師堂にも関係あるのか、道の反対側の一段高いところにはいくつもの遍路墓が祀られていた。基本お墓の写真を撮るのは憚られるのだが、このときは地元の方がきれいにお掃除されていたので、思わずシャッターを押した。
二丁標石
少し下ると二丁石。三十二丁まで続いた雲辺寺からの距離を示す舟形地蔵丁石に代わり、ここからは旧白藤大師堂から大興寺に向かう遍路道の距離を示す舟形地蔵丁石が並ぶことになる(旧白藤大師堂までの距離といったほうが正確、かも)。
三十二丁石のすべては文政十三年庚寅年七月の建立とのこと。小さな木の覆屋に収まるこの丁石には「先祖代々」の文字が刻まれる、という。
角柱道標
少し下ると道の左手、覆う草に埋もれる石垣にもたれかかるように角柱道標がある。「小松尾寺へ三十六丁 明治四十四年五月実測」と刻まれる。地蔵丁石と異なり、小松尾の地にある札所・大興寺までの距離を示す。一丁はおおよそ109mというから、4キロ弱となる。
四丁標石
如何にも旧遍路道といった趣の道を少し進むと、道の左手、竹林を背にして四丁の地蔵丁石がある。この丁石も小さな木の覆屋の中に立つ。
六丁標石
道の右手に覆屋に立つ六丁と刻まれた地蔵丁石。元の遍路道は道路を右に入った丘の上を進んだようだが、現在は荒れたブッシュとなり踏み分け道すら残らず、とても歩くことはできなかった。
六丁石も丘の上の旧遍路道にあったのだろうが、現在は簡易舗装された道端に移されていた。
「南無阿弥陀仏」碑
簡易舗装を少し進むと、道の左、ガードレールの外に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が立つ。
七丁標石
その碑の傍、小さな丘から簡易舗装道に下る坂の途中に、これも木の覆屋の中に、少し大きめの地蔵丁石が立つ。七丁の標石だ。「七丁 左雲へん寺道」と刻まれる、と。 実のところ、この丁石を探して、六丁石から丘の上に続いたという旧遍路道に入り込み、ブッシュに阻まれながら、あちらこちらと彷徨った挙句、諦めて道に戻るとこの丁石に出合った。思うに、この丁石も六丁標石と共にブッシュに覆われた旧遍路道から移されたものかと思う。
八丁標石
七丁標石辺りまで下ると粟井川の谷筋に集落が見えてくる。左手には大きな溜池・新池もある。
七丁標石の先で車道は左に折れ新池の畔へと進むもの、右に折れ集落に下りるものと二つに分かれる。が、旧遍路道はその間、養鶏場の敷地のようなところを下る土径を進むことになる。坂の途中、養鶏場の右手の道端に「八丁」の標石が立つ。
九丁標石
養鶏場を越え、粟井川を渡る手前に九丁標石。これも同様に舟形地蔵丁石。 舟形地蔵丁石とは、舟形の光背を背にした地蔵菩薩に丁数を刻んた標石のこと。光背は後光のこと。舟形(舟御光)の形状以外には不動明王の火焔光、円光、宝珠光などがある。
十丁標石と自然石標石
粟井川に架かる橋を渡り右岸に移る。右岸橋詰めに覆屋に立つ十丁の標石と自然石の標石が並んで立つ。自然石標石には手印とともに、「右 うんぺんじ 左 こまつをじ」「明治三十九年 施主 福岡県備前郡**長野寅太郎」と刻まれるという。
十一丁標石
粟井川右岸を進む車道は県道240号。少し進むと石碑の並ぶお堂の道端に十一丁の標石がある。覆屋はない。
お堂には「四国八十八カ所 番外白藤大師堂」とある。上述、広域幹線林道・五郷財田線から旧遍路道に折れてところ、徳右衛門道標と三十二丁標石のところにあったものが、この地に移されたのだろう。現在は奥谷自治会館となっている。
入口の石碑には明和年間に出羽の和尚の開基。壮麗を極めたが明治になり、第十一師団の陸軍演習場として買収されこの地に移った、といったことが刻まれている。
●第十一師団陸軍演習場
明治30年(1897)、善通寺に第十一師団司令部が設置され、『雲邊寺原演習場要図』に示される山麓一帯が演習場となった。地図によれば、なるほど新池の南はすべて演習場となっている。
十二丁標石/十三丁標石
道の右毛に上部が欠けた十二丁の標石が立つ。「へん路道」と刻まれるようだ。 十三丁標石も道の右側、小さな木の覆屋の中に立つ。
十四丁標石 / 十五丁標石
道の右手に十四丁、十五丁と続く。十五丁標石は石仏が2基縦に並ぶ。後ろの石仏は摩耗が激しく、上部が縦に割れている。前の舟形地蔵に「十五」の文字が読める。
十六丁標石 / 十七丁標石
十六丁石は道の左側、ガードレールの切れ目に立つ。272mピークを借景に美しい絵柄となっている。十七丁石は少し大振りな姿で道の右手に立つ。
金毘羅常夜灯と十八丁標石
粟井川に架かる橋を超えると道の右手に金毘羅宮の石碑、金毘羅常夜灯などが並ぶ。その先、道路法面の前にちょこんと十八丁の標石が置かれる。
六部供養塔と十九丁標石
道の右手に木の覆屋に地蔵様。台座に「六十六部 越前圀」の文字が刻まれる。その先、道の右手に十九丁の標石。
●六十六部
六十六部とは、かつての日本を成していた六十六の国毎の霊場に、法華教を納めるべく廻国巡礼すること、またはその人。
ではその霊場は?チェックすると、中世のころは六十六の霊場を巡ったようだが、特に霊場が固定することなく、近世中後期には数年から10年ほどかけて数百の巡礼地を巡ることも少なくなかったようである。
六十六部における巡礼は聖地というよりは、鎌倉期以降に登場する「神国思想」「国土即仏土論」といった思想を背景とし、国全体を「聖地」と見立て巡礼する、といったことに重きを置くとの論もあった(「六十六部廻国とその巡礼地 小嶋博己)。
廿丁標石と六部供養塔・舟形地蔵
道の右手、民家の前に立つ廿丁の標石。その先には六十六部供養塔と古い舟形地蔵が並ぶ。舟形地蔵は摩耗が激しく丁数など読めないが、六部供養塔には、「遍路 六部札供養 享保九年」と刻まれる、と。
二十二丁標石 / 二十三丁標石
道の右側、覆屋に座るお地蔵様の少し先に二十二丁、二十三丁の標石が続く。
●お地蔵さま
お地蔵さまといえば野辺の地蔵を思い起こす。誠に身近な存在である。とはいえ、お地蔵さんって、地蔵菩薩と称される如く広い意味での仏様のランクでいえば、如来>菩薩>明王>天部という上位ランクにあり、お釈迦様が入寂後、次の弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような仏様不在の現世にあって、六道(地獄道・餓鬼道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救済する誠にありがたい菩薩である。
日本においてお地蔵様がこれほど身近な存在となった理由について、Wikipediaには「日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた」とある。このあたりにその因があるのだろう。
二十四丁標石
岩鍋池の手前、県道右側の法面前に二十四丁の標石が立つ。
●香川用水
池の南端あたりを香川用水の西部幹線が走る。ここがどこかで見たことのある景色の地であった。いつだったかその流路を探して彷徨ったわけである。 その時は流路の手がかりを見つけることができなかったのだが、今回のメモの段階で昭和49年(1974)にこの池の水源として香川用水から直接できるようになった、との記述を見付けた。
であれば、どこかにその施設があるはず。と、池の南端にコンクリートの建屋があり、そこから池に水が注いでいた。場所的にも香川用水流路でもあるので、用水はその施設の東西を流れているのかと思う。
●岩鍋池
岩鍋池は、雲辺寺山の谷筋からの水を平野開口部で堰き止めた溜池。築造は室町時代後半の大永 7 年(1527年)と伝えられる。築造当時の堤防は、現在の位置より少し上流であったようだが、江戸時代初期の寛永7年(1630年)に西嶋八兵 衛により現在の地に増改築された。
二十五丁標石 / 二十六丁標石
岩鍋池に沿って通る県道240号東側に二十五丁標石と二十六丁標石が並んで立つ。前面の岩鍋池は冬枯れで水はない。
二十七丁標石と三界万霊
すぐ先、道の東側に二十七丁標石とその横に三界万霊。三界万霊とは欲界・色界・無色界の三界すべての霊をこの石塔に宿らせ供養する。
二十八丁標石が2基
池の北端近くに二十八丁と刻まれた標石と、自然石に仏像と二十七丁と刻まれた道標が並ぶ。自然石は明治五年のもとと言う。
池の北端、県道240号から岩鍋池堤防への道が分かれる箇所に「四国のみち」の標石。「雲辺寺7.2km 大興寺1.9km」と刻まれる。
土佛観音堂前の真念道標
「四国のみち」の標石の前面、県道から堤防の道が分かれる箇所に集会所といった建物が見える。近づくと「土佛観音堂」とある。その観音堂の境内というか庭に真念道標が立つ。電柱やガードレールで少々窮屈そうである。正面には「左 遍ん路みち」と刻まれる。
●真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。
県道240号と遍路道の分岐路に道標
遍路道は土佛観音堂の先で県道から別れ右の径に入る。その分岐点に割と大きい道標が立つ。手印と共に、「右 こまつおじ すぐこんぴら 左くぁんおんじ」と刻まれる。文政四年(1821)のもの。
三十丁標石と手印だけの自然石
集落への生活道として舗装された道を進むと右手に三十丁標石と手印だけの自然石が立つ。標石の対面には地元の方がつくられた遍路休憩所があった。
このあたりも香川用水西側幹線水路を辿り彷徨ったところ。標石手前あたりから南に分岐する道に進むと、原隧道を抜け岩鍋池への城谷隧道に入る城谷開水路が遍路道の少し南を走る。
三十一丁標石と道標
集落に入る手前、道の右手に覆屋に建つ三十一丁の地蔵標石と「へんろミチ」と刻まれた道標が立つ。
三十二丁標石
道の右手にこれも覆屋に三十二丁標石がある。雲辺寺からの山道を下り、広域幹線林道・五郷財田線から右に折れる旧遍路道の二丁からはじまった文政十三年建立の地蔵丁石はこの三十二丁でおしまいとなる。
「是より小松山道」の標石
道の右手に「是より小松山道」と刻まれる標石。
四つ角に「こまつを寺」標石
遍路道はほどなく南北に通る比較的大きな道と交差。四辻角に「四国のみち」の標石と並び、手印と共に「こまつを寺」と刻まれた標石が立つ。遍路道は直進する。
七丁標石
遍路道を進むと七丁標石。今までの文政十三年の舟形地蔵丁石が旧白藤大師堂からの距離を示すのではなく、ここから小松尾寺(大興寺)までの距離を示す標石となる。
つらつら思うに、またなんの根拠もないのだけれと、旧白藤大師堂からの三十二丁までの標石は、その主たる対象が大興寺ではなく、白藤大師堂であったのではないだろうか。白藤大師堂の石碑には、高僧が法灯を継ぎ堂塔の伽藍の結構は壮麗を極めた、とあった。今では想像もできないほどの有難いお寺さまに向かう地元の人たちへの道案内ではなかったのではないだろうか。
六丁標石と石造群
大原自治会館の道を隔てた道の南側に元治元年の自然石常夜灯などの石造物の中に六丁標石も立つ。
横には地元のご夫妻の古い時代と思しき写真とともに仏像を納めた祠が建っていた。
四つ辻に2基の標石
その先、四辻に2基の標石。左手には自然石に「すぐへんろ」、「兵庫」といった文字が読める。裏には「迷者タメニ**建立ス 明治二十二年」が刻まれる、と。
四つ辻右手の標石は、一段高い畑の畦端に立つ。見た目に比較的新しい角柱標石であり、「小松尾寺 昭和五十七年十二月」と刻まれる。
五丁標石
2基の標石のある四つ辻を道なりに直進し、小高い丘の坂を上りきった墓地のところに五丁の舟形地蔵標石が立つ。このあたりが観音寺市と三豊市(旧三豊郡山本町)の境となっている。
●三豊市
律令制の頃、讃岐国の三野郡と豊田郡に属す。明治32年(1899)町村制施行時に三豊郡となる。行政合併時の常の如く、三野の「三」と豊田の「豊」の合わせ技の命名だろう。その後、昭和30年(1955)、三豊郡の西部が観音寺市となり、平成18年(2006)に山本町など三豊郡の七町が合併し三豊市となる。
四丁標石 / 三丁標石
三豊市域に入った坂を下り切った道の左手、T字路ガードレール脇に四丁の地蔵標石。そこから少し進んだ道の右手に舟形地蔵が立つ。文字は読めないが三丁標石のようだ。
二丁標石と石仏群
小高い独立丘陵に上る坂の手前に石造物が集まる。その中に二丁標石。三界萬霊碑と並ぶ。
大興寺裏参道前の四辻の標石
坂を上り切った角に「四国のみち」の角柱とその傍に自然石の標石があり、「へんろ」の文字が読める。
直進すれば大興寺の裏参道ではあるが、現在は裏参道からの参拝は歓迎されていないようで、丘陵東にある表参道へと廻ることになる。
四つ辻を右折、さらに道なりに左折し丘陵を下り表参道側に出る。駐車場も整備されている。
六十七番札所 大興寺
●石造地蔵道標と2基の茂兵衛道標
駐車場から丘陵の東に沿って流れる水路を渡り大興寺表参道に向かう。水路を渡ると道の右手に石造の大きなお地蔵さまと2基の道標が立つ。
石造地蔵尊の台座には「へんろミち 弘化四」と刻まれ、道標にもなっている。その横に並ぶ2基の道標は共に茂兵衛道標。
手印と共に「雲邊寺 明治三十三年」と刻まれる道標は茂兵衛179度目のもの。「右小松尾寺 明治廿壱年」と刻まれるものは百度目のもの。
門前で「右小松尾寺」というもの異なものであり、どこからか移されたものだろう。
◆中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
●仁王門
水路に架かる石造りの極楽橋を渡ると仁王門がある。金網で覆われた仁王様が多いなか、このお寺さまは直接拝顔できる。伝運慶作とのこと。
裏側には大草鞋。旅の安全を祈るとも、撫で仏ならぬ撫で草鞋で患部を撫でて傷を癒すとも、お寺さまでそれぞれであるが、このお寺様はどうだろう。
仁王門手前には「四国霊場六十七番 小松尾寺道 明治四十七年」と刻まれた角柱標石が立つ。
○仁王さまと吉三郎
仁王門に建つ、鎌倉期の作ともされる阿吽二体の仁王様のうち、口を開いた阿形の仁王様は江戸の頃に修理された、と。
その修理に際し、八百屋お七の恋人吉三郎が登場する話が伝わる。吉さん恋しと放火し、江戸の町を焼き、火炙りの刑に処せられお七の供養に四国遍路に出た吉三郎。この寺で傷んだ仁王様の首を見て、その修理勧進を申し出て四国遍路を続けた、と。お話はお話としてそっとしておこう。
●カヤの大木
仁王門を潜り本堂への石段右手に巨大な樹木。案内には「県指定自然記念物 胸高幹周4.1m 樹高20m 樹齢1200年余り 形状 自然形 イチイ科の常緑針葉樹。弘法大師四国修行の砌りイチイの種子を植えたと伝えられている」とあった。
●楠の大木
石段を上った踊り場脇に、これも巨大な楠木が聳える。子供の頃、愛媛の家の周りにも誠に巨大な楠が聳えていたのだが、今はすべて切り倒されており、この木を見るにつけ、少し残念な気持ちになった。
●本堂
寺伝によれば、天平14年(742)熊野三社権現鎮護のため建立。弘仁13年(822)嵯峨天皇の勅命により弘法大師が開基した。讃岐国の熊野信仰の拠点とされたようである。本尊の秘仏薬師如来は弘法大師の自刻とされる。 尚、熊野三社権現は現在大興寺奥の院として本堂南西に祀られる。
堂宇は天正年間、というから16世紀後半、長曾我部軍の兵火により本堂を残して消失。現在の堂宇は江戸の頃、慶長年間(1596?1614)の再建による。
〇熊野三社権現
権現とは「権(仮)の姿で現れる」ということ。熊野本宮・新宮・那智の熊野三山に祀られていたそれぞれの神は,元々は別個の信仰により成立したものだが、平安の頃になるとそれぞれの神を合祀し三山と総称されるようになる。 その神々が仏教の影響のもと本地垂迹説での解釈により阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(新宮)、千手観音(那智社)が神という仮の姿で現れたとするのが熊野三社権現。
熊野の神々が宿る熊野は、隈野(くまの;辺鄙な地)故、奈良時代から山林修行の地として知られ、役の行者(えんのぎょうじゃ)を始まりとする修験者が修行の地としてこの地に入ったと伝えられる。
奈良時代、特に後期以降には世俗的な寺から離れ、熊野・大峰の山中で修行・修験道に励んでいた園城寺の修験僧の影響もあり、熊野の修験道が個人の修験道レベルから中央の寺社勢力に組み込まれていくことになる。当然、熊野信仰に仏教の色彩・影響が色濃くでることになり、その結果としての本地垂迹説での本地仏の登場であり、熊野三社権現ではあろう。
●大師堂
本堂右側に大師堂。弘法大師空海を祀る。
●大天台師堂
本堂右側に天台大師堂。天台大師智顗(ちぎ)禅師 を祀る。隋の時代の中国の高僧。知者大師とも称される。大師はインドからもたらされた経典の中の法華経を重視し、法華教を核とした天台教学を打ち立てる。その教えをまとめた法華三大部〈法華玄義(ほっけげんぎ)、法華文句(ほっけもんぐ)、摩訶止観(まかしかん)〉は鑑真によって日本にもたらされた。
最澄はその教えを深く学ぶべく唐に渡り天台山で修行を重ねた末に日本に戻り、天台宗を開いた。その故をもって、天台宗では宗祖は伝教大師最澄、高祖は天台大師知者とする。
〇天台と真言、ふたつの大師堂
このお寺様は真言宗善通寺派。そこに天台大師堂がある?そもそもが四国遍路って、真言宗の祖・弘法大師空海を慕っての巡礼なのでは?
なにゆえに真言と天台の大師堂が?ということだが、四国遍路の成り立ちを思うに、それほど奇異なことではないようだ。四国の霊場を巡る四国遍路が弘法大師空海信仰と深く結びつくようになった(大師一尊化)のは室町以降のこととされ、それ以前の四国の霊場は多様な信仰が重なり合った霊場からなっていたようである。
「えひめの記憶」によれば、「四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。
高野山系と叡山系の念仏聖、本山派(天台宗聖護院派)や当山派(真言宗醍醐派)の修験者なども、それぞれ修行の霊場を作りあげていったのだろう。
それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく弘法大師を祀る大師堂が建てられ、遍路はその大師堂にお参りする大師信仰(遍照一尊化)が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには弘法大師の人気と共に、真言宗醍醐派の修験僧、遊行の僧である高野聖の影響が考えられるとのことである。
以上のことを踏まえれば、ある時期、修験道のメッカ熊野三社権現の霊刹として開基された大興寺に真言、天台両系統の聖、修験者が集い、その祖を祀っていたことはそれほど不思議なことではないかと思う。
〇辺地から遍路
因みに「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地(へじ)を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故の「遍」の借用のようである。
〇四国八十八か所
ついでのことではあるが、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的であり、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。 ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。
貞亭4年(1687)に真念よって書かれた四国遍路のガイドブックである「四国邊路道指南」も室町期にほぼ固まっていた88か所がそのベースにある、という。
〇四国八十八霊場の宗派
様々な信仰が重なり合って成立し、大師一尊化により真言宗の祖・空海と同一視されてもいる四国八十八ヶ所の霊場であるが、現在でも天台宗が4ヵ寺、臨済宗が2ヵ寺、曹洞宗が1ヵ寺、時宗が1ヵ寺もある。
大師一尊化が進む以前は四十番観自在寺がかつては天台宗であり、四十九番の浄土寺はその名の示すが如く浄土宗であり、五十一番の石手寺ももとは法相宗。また四つの国に1ヵ寺ずつある国分寺は華厳宗であったように、大師一尊化以前はさらに真言宗以外の霊場が多かったものと思われる。
さらに神仏習合の時代は、愛媛の五十五番札所が大山祇神社であったり、香川の六十八番札所が琴彈八幡宮であったりと、10ほどの神社が札所ともなっている。霊場がさまざまな信仰が重層的に発展して形成された所以である。
●境内の標石
表参道の石段を上がり切った右側に「六十八番 くわんおん寺 二里」と刻まれた標石。
境内左手に手印と共に「小松尾寺」」と刻まれた標石がある。これもどこかららか移されたものだろう。
また、境内右手,庫裡の敷地に2基の道標がある。門は閉じられ中に入ることはできないが、板塀の間から道標は確認できた。
ひとつは真念道標。「左 へん路みち 願主真念 為父母六親 施主讃岐」と刻まれる。もう一基には「左 へん路ミち」と刻まれる、「という。
二回に分けてメモした六十六番札所 雲辺寺から六十七番札所 大興寺への歩き遍路もこれでおしまい。次回は六十八番札所 観音寺に向かう。
コメントする