いつだったか、佐江衆一さんの書いた一遍上人の本を読んだことがある。『わが屍は野に捨てよ-一遍遊行,(佐江 衆一,新潮社)』)という本。きっかけは、これもいつだったか埼玉の狭山丘陵を散歩しているとき時宗のお寺があったから。お寺に興味をもったわけではない。時宗=開祖一遍上人、ということ。
とはいうものの、一遍上人って、一体どういう人物かよくしらない。で、前々から気にはなっていた栗田勇さんの『一遍上人』を探した。が、なかなか見つからない。そうこうしているうちに、どこかを散歩しているとき、ふと立ち寄った古本屋で見つけたのが佐江さんの本。
読んでみた。一遍上人って伊予・愛媛の人。身近に感じた。読み終えた。その後、しばらくして書店で栗田勇さんの『一遍上人』も手に入れた。文庫版になっていた。読み終えた。なんとなく一遍さんとか時宗について、「つかんだ」。で今回の熊野。一遍上人が大きく登場してきた。時空散歩がつながった。(火曜日,11月 29, 2005のブログを修正)
蟻の熊野詣
蟻の熊野詣のメモ;上皇の御幸>浄土信仰>貴族の熊野詣で>鎌倉武士の熊野詣>熊野神社の全国普及>一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛>熊野比丘尼の全国遊歴>15世紀末に民衆の熊野詣ピーク=蟻の熊野詣、を迎えることになる。
院政期から中世には、熊野御師・先達制度の発達、熊野修験・熊野比丘尼などの活動によって、熊野三山信仰が諸国に流布し、幅広い人々の熊野詣が行われるようになった。また、遠隔地の山々や島、村落では、熊野三山を勧請し、そこで熊野信仰が行われることになる。ちなみに、全国に熊野神社は3800ほどあるという。熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである。
上の蟻の熊野詣のメモで、一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛が民衆の熊野詣への大きな要因となったと書いた。もう少々詳しく、とは思ったのだが、いつになったら第一回のメモが終わるものやらと省略。 熊野散歩のメモは先回で一応終わりのつもりではあった。が、一遍上人と熊野の関わりを省くことがなんとなく収まりが悪い。で、もう少々付け加えることにする。
熊野詣のきっかけは上皇の熊野御幸。白河上皇9回。鳥羽上皇21回。後白河上皇34回。鎌倉時代に入って、御鳥羽上皇が28回。院政期、上皇の熊野御幸はほぼ年中行事と。このように熊野信仰にドライブがかかったのは、修験者(山伏)・園城寺派の修験僧の働きかけがあってのこと。
当 時、熊野は修験道の一大中心地。修験者が熊野詣の道案内人をつとめる。この道案内人を先達(せんだつ)と呼ぶ。先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行った。先達に案内された熊野御幸、上皇には政治的・経済的理由があったろう。宗教的理由は言うまでもない。時代背景から考えても必然的。
平安後期、白川上皇の院政の開始(1086年)から鎌倉幕府に政権が移るまでの100年は天下大乱・末法を思わせる時代。貴族の支配体制が崩れ、上皇が絶大な権力を握る。武士が台頭。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)など源平の争乱で京は戦場に。武士や僧兵、群盗が都大路を闊歩する。飢餓の死者は数知れず、貴族の館は乱暴狼藉の巷。貴族・支配階級が抱いた観音浄土への信仰はこのような時代背景からくる、すさまじい危機感・恐怖感ゆえのもの。
上皇・貴族が核となり一路、熊野詣へ。が、1221年、ひとつの事件が起きる。「承久の乱」。才能にあふれた後鳥羽院が武家から王権を取り戻すべく起こした企て。ちなみに後鳥羽院、熊野詣は28回。熊野の僧兵を味方に引き込む目的もあったとのではなかろうか、とも思える。熊野三山検校の勧めのより上皇が挙兵した可能性も高い。
上皇のもとには熊野の衆徒たちが多く馳せ参じる。鎌倉軍に瞬く間に制圧される。上皇方に参加した熊野権別当とその子・千王禅師(せんのうぜんじ)も討ち死。ともあれ、後鳥羽院敗れる。
鎌倉幕府によって院政は停止。敗れた後鳥羽上皇は、院政の経済的基盤である全国3000ケ所に及ぶ荘園を鎌倉幕府に没収され、隠岐(島根県)に配流。熊野御幸を宗教的・経済的・政治的行事として行ってきた院政政権はこの乱の敗北により崩壊。熊野御幸は終焉に。承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇が3回、亀山上皇が1回詣でているのみ。
また、承久の乱で上皇に組みした熊野は、鎌倉幕府から冷遇される。1282年熊野別当家断絶。熊野は衰退。上皇中心・熊野修験勢力中心の熊野詣での終焉。
が、しかし、南北朝から室町にかけて、新しい動きがでてくる。民衆中心の熊野詣で。それまでの熊野修験僧に代わり、時衆(じしゅう。のちに時宗)の念仏聖たちが熊野信仰をもりたてていくことになる。で、この核となるのが一遍上人、というか一遍上人が開いた時宗・踊念仏。
承久の乱から半世紀の後、熊野権現との出会い・さとり(熊野成道)を得た一遍上人が「時宗」を開く。時衆は鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に『念仏踊り』の熱狂の渦を巻き起こした。時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占。説経『小栗判官』などを通して熊野の「ありがたさ」を 広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などのものであった熊野信仰を庶民にまで広めていった。熊野詣でのメモで、一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛と書いたのはこのこと。
一遍上人
がしかし、我々あまりに一遍上人のことを知らない。栗田勇さんが『一遍上人;旅の思索者』(栗田勇;新潮文庫)で書いている;一遍上人の名は、鎌倉初期をかざるほぼ同時代に輩出した、法然、親鸞、道元、日蓮とくらべると、ほとんど知られることが少ない。ましてや、鎌倉中期から室町にかけて、浄土真宗や真宗をはるかに凌ぐ、大教団としてとくに「念仏踊り」が、上は大名、武士から町人、百姓浮浪者にいたるまで、ほとんど、日本の全土を風靡していたことは全く忘れ去られている。
そのころ、日本の街の辻や村の集まりでは、盆・暮はもちろん、毎月、おつとめの日には、今日の六斎念仏踊りに似た、「念仏踊り」がもよおされ、人々は、狂喜したように南無阿弥陀仏を大声で合唱しながら、円陣をつくって、踊り狂っていたのである。」、と。
結構すごかったわけだ。こういったパワーが背景にあったとすれば、蟻の熊野詣を演出したのはこの教団である、といわれても納得。
で、一遍上人は言う;「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」、と。一遍上人の熊野成道(じょうどう;悟りを開くこと)、そのきっかけとなったのは中辺路のとある場所。伏拝王子の近くか、とも思うが定かではない。あまり宗教的イベントに興味はないのだが、一遍上人と熊野のかかわりのきっかけでもあるので、熊野成道(じょうどう)についてメモ:
一遍上人は人々に念仏札を与えながら熊野へと向かっていた。念仏勧請とはいうものの、一紙半銭の喜捨を受ける、一種の無銭旅行の方便といったもの。それほど宗教的高みを目指す「巡礼」でもなさそう。で、中辺路の山道で、品性卑しからぬ一人の僧に「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と念仏札を。が、その僧、「念仏に信心がわかないから、お札はいらない」と拒否。一遍は慌て、かつ、不本意 ながらも「信心が起こらなくてもいいから」と強引に僧に念仏札を渡す。
一遍は悩み、煩悶。本宮で。夢うつつに一遍の前に白髪の山伏が。山伏が熊野権現であることを直観した。権現は告げる:「融通念仏をすすむる聖。いかにねんぶつをば、あしくすすめられるぞ。御坊の勧めによりて、一切衆生ははじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に(十劫の昔に悟りを開かれたそのときに)、一切衆生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信を選ばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」。
このときから真の一遍の念仏が始まり、一遍は時衆の開祖となる。一遍自ら「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」と語っており、そのため、この本宮での出来事のことを時衆では「熊野成道(成道とは宗教的な覚醒のこと)」という。
念仏聖と蟻の熊野詣の関係は以上で納得。で、蟻の熊の詣でについてもうひとりの立役者、熊野比丘尼についてももう少し整理しておく。
熊野比丘尼
熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである、とメモした。そのはじまりを、熊野三山に仕える巫女に求める説もある。先達・御師の妻だ、という説もある。ただ、諸国をまわって熊野への参詣を勧誘したことにあると考えれば、それほど昔に遡ることはないだろう。交通路や宿泊施設が整備し、案内役としての先達の役割が少なくなり、それにかわるものとして登場してきた。とすれば、一般民衆の参詣が高揚する十五世紀広範化、それがやや衰える十六世紀に、熊野比丘尼の活躍の時代があると考えるのが自然、かも。
室町時代、絵巻を使って地獄・極楽の絵解きをしたり、歌念仏を唱えたりして熊野への寄付を勧め、女性を拒まない熊野への信仰によって女人救済を説いてまわった。また、熊野三山の発行する厄除けのお札「午王宝印」を全国に売ってまわった。熊野の午王宝印は熊野の神の使いである烏を図案化したデザイン。サッカーの全日本のお守りマークとして使われているので目に した人も多いだろう。さらに、室町時代から江戸時代にかけてお札の裏が起請文や誓詞を書くのに盛んに使われた。
高野澄さんの『熊野三山・七つの謎;祥伝社ノン・ポシェット』にこんな興味深い記述が;「熊野速玉神社(新宮大社)の近くに神倉神社がある。この神社が比丘尼の統括機関。もっとも、中世の神倉神社を運営したのは神倉聖とよばれるいくつかのお寺。なかでも妙心尼寺が中心となった。神倉山ののぼり口にある。熊野比丘尼が全国を勧請してまわり集める浄財はいったん妙心尼寺に献金され、妙心尼寺から熊野三山それぞれの大社に対して、社殿の維持や修理の費用として配分されてゆく。
妙心尼寺から比丘尼に対する反対給付としては、熊野比丘尼の名称を使うことが許され、年の暮から正月にかけての三山参籠が義務つけられ、新年になってそれぞれの持ち場に戻っていく比丘尼に対して、新しく印刷された熊野牛王が給付されるという仕組みであった。」。熊野比丘尼も経済システムにきっちりと組み込まれていたようだ。
中世、日本最大の霊場として栄えた熊野。が、やがてその熱狂振りも衰微する。熊野信仰を広めた熊野比丘尼も江戸時代になると歌比丘尼などと遊女になるケースも。お伊勢参りにその座を譲ることになる。また、江戸時代、熊野三山は紀州藩の宗教政策・神道化政策により、熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動を抑えた。熊野信仰は衰退。明治になってさらに衰退。その最たる原因は、明治元年(1868年)の神仏分離令。本地垂迹思想により仏教と渾然一体となっていた熊野信仰にとって、国家による神道重視政策は大きなダメージ。これにより熊野を詣でる人は激減した。
なんとなく気になっていたことのメモは終了。本当のところ、小栗判官とか、熊野牛王とか、安珍と清姫とか、和泉式部伝説とか、花山院伝説とか、あれこれメモできなかったこともある。鎌倉で花山院の足跡に出会ったように、いつかどこかで「襷」がつながることを楽しみにして、熊野散歩を終えることにする。いやはや、長かった。
とはいうものの、一遍上人って、一体どういう人物かよくしらない。で、前々から気にはなっていた栗田勇さんの『一遍上人』を探した。が、なかなか見つからない。そうこうしているうちに、どこかを散歩しているとき、ふと立ち寄った古本屋で見つけたのが佐江さんの本。
読んでみた。一遍上人って伊予・愛媛の人。身近に感じた。読み終えた。その後、しばらくして書店で栗田勇さんの『一遍上人』も手に入れた。文庫版になっていた。読み終えた。なんとなく一遍さんとか時宗について、「つかんだ」。で今回の熊野。一遍上人が大きく登場してきた。時空散歩がつながった。(火曜日,11月 29, 2005のブログを修正)
蟻の熊野詣
蟻の熊野詣のメモ;上皇の御幸>浄土信仰>貴族の熊野詣で>鎌倉武士の熊野詣>熊野神社の全国普及>一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛>熊野比丘尼の全国遊歴>15世紀末に民衆の熊野詣ピーク=蟻の熊野詣、を迎えることになる。
院政期から中世には、熊野御師・先達制度の発達、熊野修験・熊野比丘尼などの活動によって、熊野三山信仰が諸国に流布し、幅広い人々の熊野詣が行われるようになった。また、遠隔地の山々や島、村落では、熊野三山を勧請し、そこで熊野信仰が行われることになる。ちなみに、全国に熊野神社は3800ほどあるという。熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである。
上の蟻の熊野詣のメモで、一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛が民衆の熊野詣への大きな要因となったと書いた。もう少々詳しく、とは思ったのだが、いつになったら第一回のメモが終わるものやらと省略。 熊野散歩のメモは先回で一応終わりのつもりではあった。が、一遍上人と熊野の関わりを省くことがなんとなく収まりが悪い。で、もう少々付け加えることにする。
熊野詣のきっかけは上皇の熊野御幸。白河上皇9回。鳥羽上皇21回。後白河上皇34回。鎌倉時代に入って、御鳥羽上皇が28回。院政期、上皇の熊野御幸はほぼ年中行事と。このように熊野信仰にドライブがかかったのは、修験者(山伏)・園城寺派の修験僧の働きかけがあってのこと。
当 時、熊野は修験道の一大中心地。修験者が熊野詣の道案内人をつとめる。この道案内人を先達(せんだつ)と呼ぶ。先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行った。先達に案内された熊野御幸、上皇には政治的・経済的理由があったろう。宗教的理由は言うまでもない。時代背景から考えても必然的。
平安後期、白川上皇の院政の開始(1086年)から鎌倉幕府に政権が移るまでの100年は天下大乱・末法を思わせる時代。貴族の支配体制が崩れ、上皇が絶大な権力を握る。武士が台頭。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)など源平の争乱で京は戦場に。武士や僧兵、群盗が都大路を闊歩する。飢餓の死者は数知れず、貴族の館は乱暴狼藉の巷。貴族・支配階級が抱いた観音浄土への信仰はこのような時代背景からくる、すさまじい危機感・恐怖感ゆえのもの。
上皇・貴族が核となり一路、熊野詣へ。が、1221年、ひとつの事件が起きる。「承久の乱」。才能にあふれた後鳥羽院が武家から王権を取り戻すべく起こした企て。ちなみに後鳥羽院、熊野詣は28回。熊野の僧兵を味方に引き込む目的もあったとのではなかろうか、とも思える。熊野三山検校の勧めのより上皇が挙兵した可能性も高い。
上皇のもとには熊野の衆徒たちが多く馳せ参じる。鎌倉軍に瞬く間に制圧される。上皇方に参加した熊野権別当とその子・千王禅師(せんのうぜんじ)も討ち死。ともあれ、後鳥羽院敗れる。
鎌倉幕府によって院政は停止。敗れた後鳥羽上皇は、院政の経済的基盤である全国3000ケ所に及ぶ荘園を鎌倉幕府に没収され、隠岐(島根県)に配流。熊野御幸を宗教的・経済的・政治的行事として行ってきた院政政権はこの乱の敗北により崩壊。熊野御幸は終焉に。承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇が3回、亀山上皇が1回詣でているのみ。
また、承久の乱で上皇に組みした熊野は、鎌倉幕府から冷遇される。1282年熊野別当家断絶。熊野は衰退。上皇中心・熊野修験勢力中心の熊野詣での終焉。
が、しかし、南北朝から室町にかけて、新しい動きがでてくる。民衆中心の熊野詣で。それまでの熊野修験僧に代わり、時衆(じしゅう。のちに時宗)の念仏聖たちが熊野信仰をもりたてていくことになる。で、この核となるのが一遍上人、というか一遍上人が開いた時宗・踊念仏。
承久の乱から半世紀の後、熊野権現との出会い・さとり(熊野成道)を得た一遍上人が「時宗」を開く。時衆は鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に『念仏踊り』の熱狂の渦を巻き起こした。時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占。説経『小栗判官』などを通して熊野の「ありがたさ」を 広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などのものであった熊野信仰を庶民にまで広めていった。熊野詣でのメモで、一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛と書いたのはこのこと。
一遍上人
がしかし、我々あまりに一遍上人のことを知らない。栗田勇さんが『一遍上人;旅の思索者』(栗田勇;新潮文庫)で書いている;一遍上人の名は、鎌倉初期をかざるほぼ同時代に輩出した、法然、親鸞、道元、日蓮とくらべると、ほとんど知られることが少ない。ましてや、鎌倉中期から室町にかけて、浄土真宗や真宗をはるかに凌ぐ、大教団としてとくに「念仏踊り」が、上は大名、武士から町人、百姓浮浪者にいたるまで、ほとんど、日本の全土を風靡していたことは全く忘れ去られている。
そのころ、日本の街の辻や村の集まりでは、盆・暮はもちろん、毎月、おつとめの日には、今日の六斎念仏踊りに似た、「念仏踊り」がもよおされ、人々は、狂喜したように南無阿弥陀仏を大声で合唱しながら、円陣をつくって、踊り狂っていたのである。」、と。
結構すごかったわけだ。こういったパワーが背景にあったとすれば、蟻の熊野詣を演出したのはこの教団である、といわれても納得。
で、一遍上人は言う;「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」、と。一遍上人の熊野成道(じょうどう;悟りを開くこと)、そのきっかけとなったのは中辺路のとある場所。伏拝王子の近くか、とも思うが定かではない。あまり宗教的イベントに興味はないのだが、一遍上人と熊野のかかわりのきっかけでもあるので、熊野成道(じょうどう)についてメモ:
一遍上人は人々に念仏札を与えながら熊野へと向かっていた。念仏勧請とはいうものの、一紙半銭の喜捨を受ける、一種の無銭旅行の方便といったもの。それほど宗教的高みを目指す「巡礼」でもなさそう。で、中辺路の山道で、品性卑しからぬ一人の僧に「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と念仏札を。が、その僧、「念仏に信心がわかないから、お札はいらない」と拒否。一遍は慌て、かつ、不本意 ながらも「信心が起こらなくてもいいから」と強引に僧に念仏札を渡す。
一遍は悩み、煩悶。本宮で。夢うつつに一遍の前に白髪の山伏が。山伏が熊野権現であることを直観した。権現は告げる:「融通念仏をすすむる聖。いかにねんぶつをば、あしくすすめられるぞ。御坊の勧めによりて、一切衆生ははじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に(十劫の昔に悟りを開かれたそのときに)、一切衆生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信を選ばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」。
このときから真の一遍の念仏が始まり、一遍は時衆の開祖となる。一遍自ら「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」と語っており、そのため、この本宮での出来事のことを時衆では「熊野成道(成道とは宗教的な覚醒のこと)」という。
念仏聖と蟻の熊野詣の関係は以上で納得。で、蟻の熊の詣でについてもうひとりの立役者、熊野比丘尼についてももう少し整理しておく。
熊野比丘尼
熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである、とメモした。そのはじまりを、熊野三山に仕える巫女に求める説もある。先達・御師の妻だ、という説もある。ただ、諸国をまわって熊野への参詣を勧誘したことにあると考えれば、それほど昔に遡ることはないだろう。交通路や宿泊施設が整備し、案内役としての先達の役割が少なくなり、それにかわるものとして登場してきた。とすれば、一般民衆の参詣が高揚する十五世紀広範化、それがやや衰える十六世紀に、熊野比丘尼の活躍の時代があると考えるのが自然、かも。
室町時代、絵巻を使って地獄・極楽の絵解きをしたり、歌念仏を唱えたりして熊野への寄付を勧め、女性を拒まない熊野への信仰によって女人救済を説いてまわった。また、熊野三山の発行する厄除けのお札「午王宝印」を全国に売ってまわった。熊野の午王宝印は熊野の神の使いである烏を図案化したデザイン。サッカーの全日本のお守りマークとして使われているので目に した人も多いだろう。さらに、室町時代から江戸時代にかけてお札の裏が起請文や誓詞を書くのに盛んに使われた。
高野澄さんの『熊野三山・七つの謎;祥伝社ノン・ポシェット』にこんな興味深い記述が;「熊野速玉神社(新宮大社)の近くに神倉神社がある。この神社が比丘尼の統括機関。もっとも、中世の神倉神社を運営したのは神倉聖とよばれるいくつかのお寺。なかでも妙心尼寺が中心となった。神倉山ののぼり口にある。熊野比丘尼が全国を勧請してまわり集める浄財はいったん妙心尼寺に献金され、妙心尼寺から熊野三山それぞれの大社に対して、社殿の維持や修理の費用として配分されてゆく。
妙心尼寺から比丘尼に対する反対給付としては、熊野比丘尼の名称を使うことが許され、年の暮から正月にかけての三山参籠が義務つけられ、新年になってそれぞれの持ち場に戻っていく比丘尼に対して、新しく印刷された熊野牛王が給付されるという仕組みであった。」。熊野比丘尼も経済システムにきっちりと組み込まれていたようだ。
中世、日本最大の霊場として栄えた熊野。が、やがてその熱狂振りも衰微する。熊野信仰を広めた熊野比丘尼も江戸時代になると歌比丘尼などと遊女になるケースも。お伊勢参りにその座を譲ることになる。また、江戸時代、熊野三山は紀州藩の宗教政策・神道化政策により、熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動を抑えた。熊野信仰は衰退。明治になってさらに衰退。その最たる原因は、明治元年(1868年)の神仏分離令。本地垂迹思想により仏教と渾然一体となっていた熊野信仰にとって、国家による神道重視政策は大きなダメージ。これにより熊野を詣でる人は激減した。
なんとなく気になっていたことのメモは終了。本当のところ、小栗判官とか、熊野牛王とか、安珍と清姫とか、和泉式部伝説とか、花山院伝説とか、あれこれメモできなかったこともある。鎌倉で花山院の足跡に出会ったように、いつかどこかで「襷」がつながることを楽しみにして、熊野散歩を終えることにする。いやはや、長かった。
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