伊予 高縄半島 海賊衆の古跡散歩 そのⅡ;来島村上氏の城砦群を辿る

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第一回から日も置かず、高縄半島に散在する来島村上氏の城砦群を辿る散歩に出かける。今回は高縄半島から斎灘に向かって西に突き出した梶取鼻一帯の城砦群をカバーしようと思う。
実家の新居浜市を出発し、国道196号バイパスを進み、今治市街で国道317号に乗り換え梶取鼻へと向かうのだが、途中で先日の遠見山城の案内にあった、近見山が如何なる風情の山か立ち寄ることに。「大宝律令時代(8世紀ごろ)から番所が置かれ、宮崎の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた」とのことであるので、見晴らしはいいだろうが、果たして遠見山や今治市街の展望が如何なるものかと、まずは最初に尋ねることにした。


来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城


近見山
国道317号を進み、しまなみ海道に続く西瀬戸自動車道を越えて最初の信号、旭方入口バス停のすぐ先を左に折れる道を進む。ホテル山水閣など看板を見遣りながら山道を進む。道はそれほど狭くもなく、怖い思いもしなくてすむようだ。
しばし道なりに進むと、道の左手に如何にも駐車場といったスペースと案内がある。案内には、先に進みロータリー辺りから展望台への道と、この駐車場から続く「近見山展望台」への遊歩道が記されている。道路の先行きに不安を感じる我が身は、迷うことなくこのスペースに車を停め、遊歩道を歩いて展望台に向かう。
15分ほど歩くと展望台。瀬戸内、国府のある今治、遠見山などを確認し、狼煙連絡網を体感する。
展望台からの戻りは、同じ遊歩道を歩くものなんだかなあ、ということで、成り行きで展望台から下る階段を下ることにする。
その時は、同じところに下りていくのだろうと気楽に考えていたのだが、階段を下りて車道を相当下っても車をデポしたところに出合わない。これはまずいとiphoneの地図をチェックすると、あらぬ方向に向かっている。最終的には車のデポ地点には行けるようだが、結構大回りとなってしまう。道の途中に「遊歩道へ」といった案内があった場所まで引き返し、そこから車道を離れ、道なりに進むとロータリーの辺りに出た。そこから車のデポ地まで戻り一安心。この山には道がいくつも付けられており、ちょっと注意が必要ではある。
近見山城址
当日は狼煙台の雰囲気でも見てみよう、ついでに瀬戸の美しい眺めも楽しもう、といった程度の気持ちではあったのだが、メモの段階で近見山をチェックすると、来島村上氏に関係する歴史が登場してきた。
今はその痕跡は何も残らないが、戦国時代の応永年間(1394~1428)に北条の日高城主である重見通昭がこの地に城を築き、それ以降重見氏の居城となったとされる。
重見氏は伊予守護河野氏の一族得能氏の支流で、吉岡殿と称する通宗を祖とするといわれている。南北朝から室町期にかけ、重見氏は河野氏の重臣・奉行人として記録にその名を残す。桑村・伊予・浮穴・風早の四ケ郡にその領地を有していたが、上でメモした日高城は風早(北条)郡に築いた城である。 戦国時代に至っても河野家の宿老としてその領国支配に重きをなした重見氏であるが、享禄三年(1530)、近見城主(伊予石井山城とも)重見通種は河野氏に背く。この動きに対し河野通直の命を受けた来島氏に攻められて、敗れた重見通種は周防に逃れた、と。
通種の反乱失敗後、重見氏の家督は弟である通次が継ぎ当主となった、とのこと。ということは、重見氏は河野家臣団に復帰したのだろう。

その後の近見山城に関する記録には、天正12年(1582)3月頃、近見山近辺で合戦があったとの言い伝えが残る。これって、天正9年(1581)に織田方の誘いにより主家河野氏より離反した来島村上氏に対し、天正10年(1582)の4月頃より、開始された来島村上氏と河野・毛利連合軍との戦闘が展開された時期(和議が整い両軍の戦闘が終結したのは天正12年の頃、と言う)であり、近見城は来島村上氏の城砦群の一翼を担っていたのかもしれない。

また、その後の記録としては、近見城は秀吉の四国征伐に際し侵攻してきた毛利の小早川勢に降伏した、とある。これは、秀吉の軍門に下った毛利勢に対し、四国全土を支配下においた土佐の長曾我部の軍門に下った河野氏が小早川氏のとりなしもあり、降伏するに至ったことに関係する記述ではあろう。合戦があったかどうか、この記述だけでは不明であるが、この時期日高城主であった重見通晴は小早川勢と戦い(来島通総、得居通久の軍勢との説もある)、日高城は落城し一族の多くは自害した、との記録もある。とすれば、この近見城においても合戦があった末での重見氏の降伏かもしれない。城主名は不明である。

玉生八幡神社
近見山を下り、梶取鼻へと向かうのだが、先回に散歩で波方にあった来島村上氏の氏神である大きな社をパスしたことが気になっており、その波方の社にも立ち寄ることにした。国道317号を波止浜まで進み、そこから県道160号、166号と乗り換え波方の玉生(たもう)八幡神社に到着。
誠に広い境内を歩き、石段を登り拝殿にお参り。境内にあった案内には、「639年舒明天皇が伊予国へ下向された時、波方沖に御停泊船になった。その夜、沖の潮が二又に流れ、その間に光り輝くものがあったので、小舟を行かせて調べてみると、箱の中に三つの玉があった。
「これは不思議な住吉大神(海上の守護神)である。この里の産土神としてお祀りさなさい。」とお言葉があり、玉生宮を創祀した。
後に清和天皇の貞観元年(859)大分県の宇佐八幡大神を山城国(京都)男山へお移しになられる途中、当地に碇泊したとき、玉生宮より五色の異様な雲気が立ち上がら、同時に船中からも光り輝くものがあったので、社壇を築き分霊を祀った。その後、宇多天皇の寛平八年(896)に両社を併せて玉生八幡宮とした。 源頼義を始め歴代の伊予守等の武将の信仰が厚く、特に来島家は氏神として崇敬した。現在も北の号10ヶ村の総氏神として、特に海運業者の信仰を集めている」とあった。

因みに案内にある源頼義は、先回の散歩でメモしたように、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子であり、前九年の役の後に、伊予守として赴任したことが、その所以であろう。

宮崎城跡
玉生八幡を離れ、先回の散歩で訪れた大角鼻の半島部を横切り、高縄半島の西岸に移り、西浦から県道166号を海岸に沿って南に下り、梶取ノ鼻の岬が西に突き出た辺りで県道166号から県道301号に乗り換える。西に突き出た岬を登り、そして坂を下りきった辺り、海に面して突き出た丘陵が宮崎城跡。
案内には「この城砦は、最もすぐれた海賊城で、ピット(桟橋跡柱穴)、堀切などの城郭跡がはっきり残っており、本来港湾の監視を主な目的とするもので、根城を中心に港の出入口等の丘陵上の要衝(軍事上大切な場所)に城塞(砦)を配置した典型的な城跡とも言える。
鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在であったが、江戸時代に入り廃止された」とあった。

現在は道路で海岸と切り離されてはいるが、往昔は海と直接繋がっていたのだろう。高差30mほどの丘陵の先端部は二の丸、二の丸から続く丘陵尾根には空堀、本丸、堀切、そして詰の郭を配した200mほどの城が築かれていたとのことである。

案内には、「鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在。。。」と、あったが、『三代実録』には、貞観9年(876)に「...伊予国宮崎村海賊群居掠奪尤切...」との記録があるようで、その頃にはこの宮崎地区には海賊働きをする集団が存在していたようである。

来島散歩でメモしたように、瀬戸内海は、日本の交通の大動脈であり、古代から瀬戸内海の人達は穏やかな気候の中、魚漁や農作業をしながら、船の水先案内をしたり、行き交う舟と交易をしていたと考えられる。そして瀬戸内海で航海や貿易がさかんになるにつれ、瀬戸内の海で暮らしていた人達も集団化・組織化され、海賊働きをする集団が現れる。その海賊衆の中でも最も力をもったのが村上氏であり、鎌倉末期から室町にかけて、海賊衆は村上氏の傘下に統合されていったのではあろう。

お頭の家跡
宮崎城の辺りに「波方町ふるさとこみち案内」があり、そこに「お頭の家跡」の記載があった。場所も、宮崎城跡から先の海岸線を進み、最初の角を山側に向かったところ。
車を走らせその地に向かう。そこには屋敷も既に無く、畑の脇に案内あり、「ここは海賊の頭領の屋敷跡である。当時この家で「おかしら」という家号を持ち、赤い旗、火縄銃砲、なぎなたなどが残っていたと言われている。この谷のように宮崎の人々は、外部(海)から見えないところに散らばって住居や田畑を持ち、敵の襲撃から身を守ったと言われている。北側の墓地に「ご先祖さん」と呼ばれている二基の墓がある。表面は風雨で摩滅して文字は判別できないが、元禄時代(1688―1704)のものではなかろうかと思われる」とあった。

唐津崎トンネル
車をUターンすべく、お頭の家跡への道を先に進むとトンネルがあり、入口が閉鎖されている。Google Mapの衛星写真でチェックすると、トンネルの抜ける丘陵部の北の海岸部にいくつもの備蓄タンクと桟橋が見える。地図には波方ターミナルとあった。チェックすると、波方ターミナルとは会社名であり、国内外からの製油所から石油・液化石油ガスを貯蔵・管理し、国内に出荷する石油・液化石油ガスの物流基地であった。
が、トンネルの銘板には「2002年6月竣工 日本液化石油ガス備蓄株式会社 施行大成建設」とある。(株)波方ターミナルと日本液化石油ガス備蓄株式会社の関係は?チェックすると、日本液化石油ガス備蓄株式会社とは全国5箇所に計画された国家石油備蓄基地の建設施行社。平成14年(2002)に作業トンネル工事に着手し、平成15年(2003)には地下貯槽工事に着手、平成16年(2004)には国家石油備蓄体制の移行により事業主体は石油天然ガス・金属鉱物資源機構が継承し平成25年(2013)に石油備蓄施設は完成した。とのこと。
この石油備蓄施設は地下180mのところにあり、このトンネルを20分ほど勾配率12.5%という急坂を下ると日本最大の備蓄施設に着くと、言う。ということは、このトンネルは工事用のトンネルであり、出口のないトンネルということだ。
で、(株)波方ターミナルと日本液化石油ガス備蓄株式会社の関係であるが、国の政策で当時の日本液化石油ガス備蓄株式社が施工主として建設した石油備蓄基地を波方ターミナル(株)が管理・運営している、ということである。

海の中に鳥居
お頭の家跡を離れ、次の目的地である梶取ノ鼻に向かう。県道301号を岬に向けて海岸線を走ると、防波堤の直ぐ先の海中に鳥居が建つ。そのときはどこの社の鳥居かわからなかったのだが、それは後ほど出合う御崎神社の鳥居であった。







●やまももの小道
海中の鳥居を眺め、県道301号を岬に向けて海岸線から山道に入ったのだが、取り付き箇所の道幅が狭く、海岸線の崖地で万が一対向車に出合ったらかなわん、と言うことで、車を鳥居脇の防波堤の辺りにあったスペースにデポし、徒歩で進むことに。(後からわかったことではあるが、道幅が極端に狭いのは取り付き部だけであり、その先は結構しっかりした道であり、車で走っても何の問題もなかったと思うが、後の祭り)。
車のデポ地から取り付き部の狭い道を進むと、右手に駒犬が見え、そこから山道が分岐する。「やまももの小道」と案内がある。この道がとこまで続くのか分からないが、とりあえず「やまももの小道」に折れる。 樹齢数百年と言うやまももの木々のトンネルは300mほども続いたろうか。誠に気持ちのいい散歩道である。その道を進むと「御崎神社」と刻まれた石碑が建つ。思うに、この道は往昔の「御崎神社」への参道であったのだろう。実際成り行きで先に進むと、御崎神社の少し先の道に出た。

御崎神社
境内に入ると石碑が建つ。「御神灯架設の由来碑」と刻まれる。
御神灯架設の由来碑
大雑把にまとめると、「終戦後の昭和23年(1948)、宮崎地区に電灯架設工事施工に際し、助成金もない当時、この社のご神木を伐採売却しその原資とし、また部落民の奉仕により経費を抑え、早期の完成をみた。その後、四十余年を経て七五三浦に架電したのを契機に、平成2年(1990)5月、御崎神社にも御神灯が灯り、ご神木伐採への報恩を記念して建立した」とのことであった。





拝殿に向かう途中に銅製の牛が寝転ぶ。牛と言えば菅原道真の天神様と関係あるのかと思ったのだが、拝殿脇の案内に拠れば、「この神社は、以前梶取鼻(古御崎)にあった香取神社と烏鼻(御崎)にあった烏明神が祀られている。梶取と香取の語源は同じであり、香取の神は海の守護神であるから、海上安全を祈って祀られ、また烏明神は農耕の神として牛馬が祀られている。
昭和30年頃迄は田植えの終わった近郊の農家が牛馬を休ませてこの神社に参詣し、また牛の草鞋を造って奉納し、牛馬の護符を受けて畜舎に飾って農作業の安全と豊作を祈った。
又、この御崎は戦国時代来島水軍の砦となっていた所であり、海岸の岩の上には無数のピット(桟橋跡柱穴)が残っており、付近には「磯の七不思議」といわれる見事な岩がある」とあり、牛は烏神社との関連のものであった。それにしても、烏神社って、あまり聞いたことのない社名ではある。

烏信仰
今でこそ、不吉な存在といった感のある烏ではあるが、往古は神武東征の際、熊野の山で先に立ち、松明を掲げ大和へ先導したといわれている紀記の八咫烏(やたがらす)のエピソードに端的に示すように、烏は神の使いであり、未来の光明、光明や吉事を指し示す「ミサキ神」としての性格をもっていたようだ。 御崎も「ミサキ神」との関連があるのだろうか。関連があった欲しいとも思う。

梶取鼻
御崎神社を離れ、見張り台のあった梶取鼻に向かう。距離はおおよそ2キロ弱といったところ。眼下に時に現れる斎灘を見遣りながら島の突端に向かってのんびり歩く。途中、縄文遺跡の地として知られる七五三ヶ浦の海浜に下る道があったが、戻りに訪れるべく、先に進み梶取鼻に。
半島突端の灯台手前のちょっとした広場にあった「梶取鼻」の案内には、「わが国が大陸文化の輸入やその中継地である九州との往来はすべて海路によった。その点で波方町宮崎の地は重要な地点であった。大宝律令(701)の中の軍防令によって各国に軍団が置かれ、この軍団には外敵の侵入に備えて、その進入経路にあたると予想される地に、?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)を置き、国府(現在の今治市富田付近)との連絡、防備にあたった。
左方の山を火山といい、?燧跡の決め手となる灰の層がいくつか発見されている。
また松山藩の参勤交代の際には「のろし場」として使用され、歓迎の意味でも利用された。 眼下の海岸(七五三ヶ浦)には番所という地名が残っている。現在この付近一帯は瀬戸内海国立公園に指定され、梶取鼻灯台と無線信号所で海の男達に知られている」とあった。
海賊衆の見張り台以前、古代、百済救援のため新羅・唐の連合軍と戦った白村江の戦いに敗れた大和朝廷は、外敵の侵攻に備えこの地に?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)を置き、国府への連絡網を整備したわけである。烽火リレーは、既にメモしたように、梶取鼻の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。来島村上氏も伊予の国内の反河野勢力、また外敵の侵攻の連絡網として、この烽火リレー網を活用したのではあろう。

「烽山の賦(ほうざんのふ)」の案内
道脇に「烽山の賦(ほうざんのふ)」の案内。「この頂きのあたりを火山(ひやま)という。狼火をあげし水軍や興亡のあと松籟胸をゆすりて荒猛き防人をしのぶよすがもなし?鞳たる来島のひびきのみ僅かに残る城塞の石くれに谺す小道をゆけば斎灘の潮の香ただようなかうらうらと山桃の紅熟れて木洩れ日に光るぞ哀し  昭和52年5月 森繁久彌」とあり、その意味を説明していた(説明文は省略)。
昭和42年(1967)、映画「仰げば尊し」の撮影でこの地を訪れた森繁久彌は、先に通り過ぎた七五三ヶ浦を見おろすこの地の美しさに感動し、歴史を踏まえ景観をかくの如く表した。因みに森繁久彌は瀬戸内の小学校の教師役であった、よう。

「烽山の賦歌碑」
梶取鼻を少し彷徨う。後から分かったことだが、半島突端からロープが整備された海岸に下りる道があったようだ。道を少し元に戻り、「火山」に向かう。 道脇に「烽山の賦歌碑」への道案内。
山道を進むとほどなく歌碑。「この山上を火山という 水軍の攻防松籟に聞くのみ 狼火焚く舟手たちの 道あれば 山桃の熟れて潮騒にゆるる」と刻まれる、と案内にあった。
広場にあった歌碑よりやや小ぶり。また、歌もコンパクトになっている。共に森繁彌氏の詠んだものとのことである。このあたりに見張り台・烽火台があったようである。

七五三ヶ浦遺跡
梶取鼻を離れ、車のデポ地へと元来た道を引き返す。途中、七五三(しめ)ヶ浦に下る道を右に折れ、海岸へ下りる。
海岸にあった案内には、「七五三ヶ浦 この入り江の展望は、御崎神社、梶取鼻どちらから見ても四季を通じ、訪れた人々の目を楽しませてくれる。また、燈台付近には、来島水軍の見張台があり、通行税をとっていたと言われ、番所という地名が残って居る。
この付近は、昔から湧水が豊富で、窪地には天水による水田、畑があり、古代から人が住んでいたと言われている。県道から少し海岸へ下った谷あいに住居跡と見られる灰の層が露出しており、付近からは土器片も発見されている」とあった
七五三ヶ浦遺跡
また、七五三ヶ浦遺跡の案内もあり、「波方町の歴史は古く、人々の生活したあとが数多くの縄文時代の遺跡として発見されている。ここ七五三ヶ浦遺跡もそのひとつである。
七五三ヶ浦遺跡は、縄文時代前期から同晩期(約5000年前から2500年前)に至るもので、各年代の土器石器などが出土し、また住居跡と思われる遺跡も検出されている。
道路下のケース内には地層が展示されているが、発掘当時のそのままを剥ぎとり、旧位置におかれたもので、あまり他では見られない珍しいものである。(土器は縄文時代後期)」との説明があった。

岡城跡
七五三ヶ浦を離れ、車のデポ地までのんびり歩いて戻る。海中に建つ御崎神社の通り近くの堤防脇にデポしていた車は、レッカー移動されることなくそこにあり、一安心。
車の置いた宮崎地区から次の目的地である岡城跡のある波方の岡地区に向かう。県道301号を進み、県道166号に乗り換えて直ぐ、岡のバス停を越えた次の交差点を左に折れたあたりで適当な車のデポ地を探す。
岡城跡は道脇にある消防団の詰所手前の道を左に入り、岡地区の集会所へと道を更に左に折れたところにあった。
集会の前にある岡城跡は、城跡とはいうものの、雑草が生い茂った小丘。案内 には、「海賊城砦群のひとつ岡城跡であるが、三方を削られて、当時の原型は不明である。また、小部の白玉神社の跡と言われている。
ある年、小部では不漁が続き、岡でも不作で領民が苦しんでいた。そこで、岡の白玉神社を小部に移しスサノオ神社とともにお祭りしたところ、両部落とも豊かになったよくなったといわれている。岡から「新こも」が届かないと神輿のお祭はできないとのことである」とあった。


●白椿
岡城跡の北東、直ぐのところに町指定天然記念物の白椿がある、という。ついでのことなので立ち寄り。
白椿 町指定天然記念物
「樹高6m、枝張6m、目通り0.9mあり、地上約1 mのところで、二股に分かれている。樹齢150年余の大樹であるが、樹勢は極めて旺盛で、毎年八重の白い花を一面につける珍しいものである。
当家の人が、旅先から、持ち帰ったものといわれている。 また、岡部落は、椿の多いところで、ピンクヤブ系の大木もある。ピンクヤブとはピンクヤブ椿のことである。

白玉神社
次は、岡城跡の説明にあった「白玉神社」を訪れることに。社は岡城跡から一筋南に鎮座する和霊神社の前、県道166号脇にあった。岡城跡の案内にもあったお祭は春祭の獅子舞が知られる。
社は弘仁元年(810)、加賀の白山神社を勧請。元は、白山権現と称されていた。祭神はイザナギ、イザナミと菊理姫(くくりひめ)。菊理姫(くくりひめ)はイザナギが黄泉の国から逃げるとき迎えただけの不思議な神ではある。 ところで、白玉神社ってあまり聞いたことのない社名。あれこれとの解釈のある白玉稲荷との関連も妄想してみたのだが、先ほど訪れたこの地の町指定天然記念物である白椿は「白玉」とも称されるため、その関連ではないかと自分なりに結論。

今回はここで時間切れ。この近辺で取り残した龍神鼻砦、弁天島砦、庄畑砦、瀬早砦、片山砦、養老館や波方地区の長福寺鼻砦、大浦砦、そして北条の鹿島城、日高城など未訪の来島村上氏ゆかりの城砦群は、時間をみつけては辿ろうと思う。


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