埼玉 旧利根川散歩 会の川:その③ 御河渡橋から葛西用水・会の川分水工まで

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メモは第三回ではあるが、会の川散歩は二回目。今回は一目の散歩終了地点、羽生市下川崎地区の御河渡橋より会の川に沿って下り、往昔会の川と同じく利根川の主流のひとつであった浅間川が、会の川に合わさる加須市川口辺りまで進めればとの思惑であった(実際は途中で時間切れとなったが)。
途中、加須市内を抜けることになるが、加須市街は会の川が形成した微高地・自然堤防上にあるとのこと。標高は17mほどだが、その微高地故、利根川の洪水被害から免れたと言う。実際カシミール3Dで地形図を標高彩色してみると、国道125号の自然堤防が東西に続き、加須市内にも、その「高み」が見える。数メートルといった比高差であり、どの程度実感できるがわからないが、ともあれ、その微高地などを意識しながら会の川を下ってみようと思う。



本日のルート;南羽生駅>午(うし)の堀川>御河渡橋>むさしの村周辺の自然堤防・砂丘>むさしの村に沿って会の川を進む>国道122号>加須西中北の橋>馬内諏訪神社>諏訪堰>東武伊勢崎線・会の川橋梁>不動島橋>川面(かわも)橋>不動橋>不動岡不動尊總願寺>国道125号・昭和橋>龍蔵寺>徒歩橋>羽根橋>上之橋・一畝歩(せぶ)堰>会の川親水公園>金兵衛橋>光明寺>切所堰>会の川案内図>>嵯峨堰>国道125号>東北自動車道加須IC>川沿いの道は行き止まり>肱曲堰・会の川橋>葛西用水と合流>六郷堀川>東部伊勢崎線・花崎駅

東武伊勢崎線・南羽生駅
先回の散歩での最終地点である御河渡橋に向かう。橋は羽生市下川崎と加須市志多見を繋ぐ。道なりに東に進むと地図に須影とある。「須影」の由来は?。「須」は須原などと同じく「州原」の意。川の流れでできた砂地のことを指す。また、「影」は日陰となる山の北側などの意のことがある。砂が堆積した微高地の北といった意味だろうか。須影から南に向かい、国道122号を越える。

午(うし)の堀川
国道を越え、東にイオンモールがある辺りに、イオンモール方面から東へと延びる遊歩道といった緑道に出合う。何となく地形の「ノイズ」を感じる。地図を見ると、少し離れた工業団地の先から水路が東に延び、葛西用水を越え加須市大桑付近で中川に合流している。この緑道もその水路跡ではなかろうかとチェック。どうも「午の堀川跡」のように思える。

牛の堀川
午の堀川の源流部は消えて不明である。現在イオンモールのある一帯はかつて田圃であったようだ。産業立地として造成し、その時に埋め立てられたのだろうが、立地から見て、どうしたところで田圃の悪水落としとして開削された水路ではあろう。
利根川の東遷事業、葛西用水の開削により、かつての利根川水路流域の低湿地、沼を水田として開発したわけだが、この午の堀川の開削も葛西用水が開削された万治3年(1660)頃とのことである。

御河渡橋
南に進み、南方用水路を越え御河渡橋に。先回の散歩で「欄干や親柱などは古そう」とメモしたが、今回橋桁を見ると、結構新しい造りのようであった。
「御河渡橋」の由来は不明だが、河渡という地名には渡し場があったところも見受けられる。会の川に架かる橋は昭和10年(1935)頃の河川改修に合わせて架橋されたものが多いようだが、それ以前、会の川が締め切られる前の利根川主流であった頃、渡しでもあったのだろうか。単なる妄想根拠なし。

むさしの村周辺の自然堤防・砂丘
先回御河渡橋の南に見た樹林に向かう。むさしの村という遊園地の敷地周辺、国道125号に沿って東西に延びる河畔砂丘が残る、とのこと。 樹林帯に進むが、砂丘というほどの比高差は感じられない。砂丘には「アカマツ」との記述もあったが、落葉樹の林となっている。植生の遷移が起きているのだろうか。
樹林の中を少し彷徨ったのだが、これといって砂丘といった「高み」を実感できなかったため、適当に打ち切って御河渡橋に戻る。
河畔砂丘
当日は「むさしの村」、と言っても東端のほんの一部なのだが、ともあれ、これといった砂丘を実感できなかったのだが、もう少し西へと彷徨えばそれらしき場所はあったようだ。
西に進んだ「むさしの村」の正面ゲートの左手に「加須市志多見自然環境保全地域」の案内があり、そこには
「加須市志多見自然環境保全地域 昭和51年3月30日指定 指定面積4.46ヘクタール
本地域は、加須市の西部にあり、東流する「会の川(あいのかわ)」沿いに形成された河畔砂丘です。この砂丘は、かつて利根川が広大な関東平野を蛇行しながら流下したとき、その袂状(べいじょう)部に堆積された砂が赤城颪(あかぎおろし)によって飛ばされ、利根川の分流であった「会の川」の自然堤防上に集積してできたものと考えられています。
このような内陸砂丘は、広大な平野の少ない日本では例の少ないもので、志多見砂丘は規模も大きく、いまだに当初の形をとどめている大変貴重なものです。 そのため、特異な地形と自然現象を有する本地域を隣接する志多見中央、西地域とともに県自然環境保全地域に指定し、保全を図っています。埼玉県」といった説明がある。

また、未だ場所は特定できないのだが、「加須市指定 名跡 志多見砂丘」の標識も散策路にあったようだ。「砂丘は、会の川流域およびその下流の古利根川流域に発達している。これは自然堤防を作る乾いた砂が俗称 「赤城おろし」といわれる冬の季節風によって運ば れ、堆積して形成された河畔砂丘であり、およそ 7,000 年前のものと考えられる。このような内陸砂丘は、日本のような湿潤な気候をもった地方では極めて珍しい砂丘だといわれている。
この砂丘は、 いずれも微高地(自然堤防地帯)に続いており、会の川流路に沿って河畔砂丘がよく発達している。志多見砂丘は会の川砂丘の中で最も大きく、延長 2.5キロ、幅員最大300メートルにおよんでいた。そして一番高いところでは標高 26.8メートルであった。そのほかのところでも標高20メートルくらいであり、南側の水田が標高15メートルくらいなので、比高い5~10メートルとなっている。
この砂丘は地域を通じて自然にできた最も高い土地になっている。砂丘の傾斜は風上側ではゆるやかになっているが、風下側では急な形状をしている。 昭和56年 加須市教育委員会」との説明もあるとのこと。

後の祭りとは言いながら、もう少々彷徨っておればと、ちょっと残念。因みに、解説に河畔砂丘の形成時期は7000年前とあるが、形成時期は古墳時代とか室町時代とか諸説ある。専門家でもないので、よくわからないが、古墳時代であれば1500年ほど前であり、7000年前とは少々年代が異なりすぎるように思えるのだが。。。
また彩色した地形図によれば、河畔砂丘と周囲の比高差は3m以上ありそうだ。

むさしの村に沿って会の川を進む
当日はもう少し西のメーンゲート辺りにちゃんとした駐車場があることも知らず、舗装されていない広場をむさしの村のメーン駐車場と思い込み、なんだかのんびりした遊園地だよな、などと思いながら会の川筋に戻る。
先に進もうと川筋を見渡すが、右岸はむさしの村の施設で進めそうもない。ということで、御河渡橋まで戻り、耕地の広がる左岸を進む。左手に畑地を見遣りながら進んでいると、園の職員さんから、この辺りも「むさしの村」の敷地であり、先に進むべからず、と。本来であれば御河渡橋まで戻るべきところを、温情をもって畑の畦道を進み北に東西に通る道に出るように、と。
むさしの村
実質的にJAが経営している遊園地。小さな子供が楽しめるような園であり、農業体験ができるというものJAの経営故のことだろうか。

国道122号・神戸橋
道なりに進み、国道122号が会の川を跨ぐ神戸橋を渡る。「ごうど」と読むようだ。神戸は武蔵武士の神戸三郎に由来とするが、葛浜(このあたりの、かつての郷名)四朗行平が神戸に居を構えた故の名ともあり、これでは堂々巡りである。「神戸」には社に奉仕する民の意があるようだ。なんらかの社に奉仕した人々が住んでいたところだろうか。それはともあれ、橋を渡り、会の川右岸の土手を進む。

西中裏の橋
土手を進み、誠和福祉高校を南北に分けている会の川に架かる「やよい橋」を越え、高校の敷地ではないかとちょっと気にしながら先に進む。
ほどなく、なんとなく国道沿いの緑が気になり、加須市立西中の北にある橋の南詰めから会の川を離れ国道125号に沿う樹林帯に向かう。むさしの村で期待していた河畔砂丘に出合えなかったため(少々辛抱が足りなかっただけなのだが)、この地にその痕跡が残っていることを願う。

馬内諏訪神社
西中を迂回し国道125号に出ると、国道と比高差のある自然堤防が東西に延びる。少し西に進むと石段があり、そこを登ると社があった。石段を上り鳥居を潜ると社務所。その右手に富士浅間神社。小振りではあるが富士塚らしきものもある。
諏訪神社拝殿の右には熊野、八幡宮、神明社、疱瘡社、天満宮、九頭龍大権現といった石祠が祀られている。村内の社がなんらかの事情で合祀されたのだろう。
アカマツなどの木々の茂る自然堤防の上を東に歩く。なんとなく砂地っぽい雰囲気もある。志多見砂丘の一端を感じ、一安心。社の西はスパッと自然堤防が削り取られている。河畔砂丘の砂は建設用の砂として重宝され、多くの箇所で削り取られているとのことだが、この地もその例に漏れず、というところだろう。むさしの村で出合えなかった河畔砂丘と出合い、一安心といった気持で会の川筋に戻る。
馬内諏訪神社
境内にあった案内を簡単にまとめる;
創建年代は不詳だが、風土記によれば、馬内の鎮守であり、延命寺持ちであったが、明治5年(1872)の神仏分離令により村社に列し、明治40年には字西浦地区の神明社、本村地区の雷電社を合祀。
境内には天明7年(1787)の銘がある疱瘡神社の祠も合祀されている。また、浅間社、川圦社、千方神社も合祀されているが年代は不詳。

諏訪堰
諏訪用水路
橋に戻り、200mほど下ると諏訪堰がある。右岸に水を分ける。馬内地区に水路跡が見える。諏訪用水と呼ばれるようだ。
◆馬内(もうち)
加須市の西にある馬内は中世には馬内郷、近世には馬内村と呼ばれた地。地名に由来は馬に関係あるのかとも思ったのだが、はっきりしない。アイヌ語では「ま」は沼、内(ない)は「短い川」とのことで、低湿地のイメージが感じられる。自然堤防の先の後背湿地でもあったのだろうか。

東武伊勢崎線・会の川橋梁
諏訪堰から100mほど下流で会の川は東武伊勢崎線とクロスする。なんとか橋梁下を進めないかとアプローチを探したのだが、どうも進めそうもない。迂回すべく成り行きで右に折れ、高架となって東武伊勢崎線を跨ぐ国道125号を南に抜け、少し進んで国道下のアンダーパスを北に抜け会の川沿いに出る。 それにしても、国道125号が東武伊勢崎線を跨ぐこの馬内陸橋は、何となく「ノイズ」を感じる。造成された土手を線路の左右に築き高架(馬内陸橋)で越えるわけだが、何故これほど大仰な造り?
会の川は橋梁付近で大きく蛇行しているし、水防の堤防も兼ねて造成されたのだろうか。そういえば、先ほど訪れた馬内諏訪神社には川圦社とか九頭龍大権現といった、如何にも水神様といった社が目についた。
会の川橋梁
会の川橋梁の東側が如何なる風情か、とりあえず会の川橋梁まで戻る。この橋梁は明治36年(1903)建設されたもの。会の川に架かる橋はほとんど昭和10年(1935)頃の、会の川河川改修の頃建設されているので、とすれば、会の川に架かる橋の中では現存する最も古い橋と言えるだろう。橋台は煉瓦造りで当時のものだろうが、橋桁は後年に架け替えられたようだ。




不動島橋
会の川に沿って進むと不動島橋がある。馬内橋とも呼ばれたようだが、地域の不動岡から不動島橋との説明もある。が、不動岡と不動島とが結びつかない。あれこれチェックすると、往昔この辺りは岡村と呼ばれていたが、利根川の洪水で不動明王が流れついた中洲を不動島(不動岡字不動島)、そのお不動さまを祀った地を不動+岡=不動岡としたとの説明があった。納得。
不動島橋
昭和10年(1935)頃に造られた橋があったようだが、老朽化のためか、味もそっけもない橋に造り替えたようだ。ガードレールの欄干(?)に唐突に「不動島橋」のプレートがあったが、古い橋跡であったとの表明だろうか。

川面(かわも)橋
ひとつ下流に川面橋がある。昭和10年(1935)と記された銘板がある。欄干もアーチ型のデザインが施されている。かつては羽生道(騎西道)に架かる石橋であったようだが、現在は国道125号から加須市街に入る主要道路なのか、人道橋が併設されていた。







不動橋
川面橋から200mほど下流に不動橋。親柱の擬宝珠(ぎぼし)と木造風の欄干など意匠がこらされる。昭和9年(1934)の銘板があるが、老朽化故か、下流側の親柱、欄干は作り直されている。
不動島橋、不動橋、不動岡などと「不動」が目につく。地図をチェックすると不動岡不動尊總願寺が近くにある。不動尊もさることながら、微高地・自然堤防故に洪水にも免れたという加須市街の風情を感じるべくお寺様にむかう。彩色した地形図には会の川の両側に微高地・自然堤防らしき帯が東西に続く。

不動岡不動尊總願寺
五家寶の土産物店のある旧市街、門前町らしき道を進み總願寺へ。山門を潜り不動堂にお参り。Wikipediaに拠れば、「總願寺(そうがんじ)は、埼玉県加須市にある真言宗智山派の寺院である。「不動ヶ岡不動尊總願寺」とも呼ばれる。山号は玉嶹山(ぎょくとうさん)。本尊は智証大師作と伝わる不動明王。関東三十六不動尊霊場の一つ(第30番)で、関東三大不動の一つに数えられることもある。開運、商売繁盛、火防を守護とする。元和2年(1616年)に總願上人によって開基された」とある。

智証大師と開基年代には大きな時間差がある。その行間を埋めるのが、不動島橋で登場した不動明王である。
頃は9世紀後半、時の光孝天皇が重い病に。日頃帰依する三井寺の智証大師に病気快癒のため不動明王への祈願を命ず。祈念の功徳故か重篤な病も回復。満願のお礼にと、智証大師に命じ不動明王を刻み、その尊像を御所に安置し、歴代の天皇の守り本尊となる。その後、宮中の役人が不動明王の宝剣を奪取せんと。それを防ぐべく堂守りが武州吉見郡に写しお堂を建てて祀る。
が、長暦3年(1039)の大洪水で流失。その尊像が如何なる経緯か、洪水の時この地に流れつく。吉見郡といえば比企であり、利根川筋を流れるのは少々無理があるとは思うのだが、それはそれとして、ともあれこの地に流れ着く。
尊像を見つけた村人は川からすくい上げるに、大地が揺らぐ。尊像の怒りと暴れ川に戻すが、洪水がおさまると流した尊像が中州に留まっていた。その中州が前述の不動島であり、その不動像を祀ったのが不動岡。お不動様故に旧来の岡村を不動岡村と改めたことは既に述べた。
その後元和3年(1616)高野山の總願上人がこの地にこられ總願寺を開基。成田不動、高幡不動とともに関東三大不動とのことである(異説もある)。境内にある黒門は、忍城の門が位移築されたとのことであるが見逃した。

国道125号・昭和橋
会の川筋に戻り先に進むと、国道125号に架かる昭和橋に。昭和橋を越えると不動岡地区から大門地区に入る。大門って、いかにも門前町といった地名。地図を見ると龍蔵寺がある。成り行きで会の川を離れ、少し北にある龍蔵寺に向かう。



龍蔵寺
堂々たる朱の仁王門を潜り境内に。本堂も格を感じる造り。江戸の天保6年(1835)から6年かけて建造されたものが今に残る。本尊は阿弥陀如来。親鸞とともに関東布教の旅をした弟子である性信の弟子・唯信の勧請による鎌倉時代の作と言う。
開山は室町時代、文和3年(1355)教蔵上人による古刹である。江戸時代には徳川幕府から寺領22石の所領安堵の朱印状が与えられている。
大銀杏と龍泉井戸
本堂前に大銀杏。樹齢700年弱。そして「伝承 龍泉井戸の案内」。この大銀杏と龍泉井戸、そして開山の教蔵上人が織りなす伝承が残る。
「伝承 龍泉井戸の案内」には「昔、この寺には白龍が棲んでおり、毎日この井戸のところに来ては水を呑んでいた。人々はいつ頃からか「龍水井戸」と呼ぶようになった。檀信徒はこの井戸水を飲んでは極楽往生願っていた。
このあたり一帯は以前利根川が流れており水質がよく、昭和20年頃までは生活用水として利用されていた」とあるが、この白龍は村人を悩ませていたようで、教蔵上人が退治。頭と尾があったところに銀杏を植えた。頭はこの寺の大銀杏、尾は、少し北の諏訪町にある諏訪神社の銀杏がその場所と言う。
教蔵上人が、当時鬼島とも呼ばれたこの地に住む邪悪な白龍を退治し、この寺を創建した、とも伝わるが、暴れ川の会の川(当時の利根川)を鎮めた治水事業をおこなった、と聞こえてくる。

徒歩橋
龍蔵寺から会の川筋に戻る。「伝承 徒歩橋」の案内のある橋に出合う。案内は文字が消えて読めない。あれこれチェックすると、この橋は龍蔵寺への参道の橋であり、橋脇には「下乗」の南詰に立て札があり、龍蔵寺の住職と将軍家ゆかりの者以外は乗り物を下りて徒歩で参道を歩かなければならなかった、との伝承が記されていたようだ。
現存する橋は昭和9年(1934)頃に架けられたもの。欄干は羽生市の秩父鉄道近くで出合った原野橋と同じく、菱形のデザインが施されていた。
橋の南は土手と呼ばれる地域。微高地・自然堤防を表したものか、土手を築いた故か、その由来は不詳だが、そのものずばりの地名が面白い。

羽根橋
徒歩橋の一筋下流に羽根橋。アーチ型の欄干が特徴的。親柱もない。この橋は昭和4年(1929)に架けられたと言う。会の川に架かる橋はおおよそ昭和10年(1935)頃の河川改修の時期に架けられたものであるが、この橋はそれ以前に地域の人の寄付により架けられたとのことである。「羽根」の由来は不詳。






上之橋・一畝歩(せぶ)堰
羽根橋の一筋下流に堰と併設された橋がある。橋は上之(かみの)橋。昭和10年(1935)に架設。堰は一畝歩堰。「一畝歩」は「いちせぶ」なのか「ひとせぶ」と読むのかわからないが、「畝」も「歩」も尺貫法での面積表示の単位であるが、「一畝歩」でおおよそ100平方キロとのこと。
それはともあれ、この堰から右岸に取水され、青毛堀川に落とされるようだ。
青毛堀川
加須市串作を源頭とする北青毛堀川と、その少し南西にある加須市道地(旧騎西町)を源頭部とする南青毛堀川が加須市高柳で合流し、青毛堀川となり加須市、鷲宮町(現在は久喜市)を下り、久喜市吉羽で葛西用水に合流する。この合流点は大落古利根川の起点となる。
源頭部は北に葛西用水、南に新川用水(騎西領用水)が流れており、青毛堀川はそのふたつの用水が水源と言えるだろう。

会の川親水公園
上之橋・一畝歩堰の直ぐ先で会の川は蓋をされ、会の川親水公園となる。依然として悪水落の会の川の水質はよくない。少し進むと大通りとクロス。道を南に下ると加須駅がある。駅前の通りは、地方のどこにでも見られる都市の風景である。
加須の説明には、加須は会の川右岸の自然堤防上に形成された集落で、不動岡不動尊の門前町でもあり、また日光脇往還と中山道を結ぶ宿場町とある。その宿場町って何処に残るのだろう。
Google Street Viewで会の川の右岸をチェックすると、駅前通りを会の川手前の加須駅入口交差点を左に折れる道筋に、それらしき面影の町並みが残っていた。地区も土手とある。土手地区を進むと国道152号に合わさり、そこから先は不動岡地区に入り不動岡不動尊方面・羽生へと旧道は続いているようだ。
加須
加須は「かぞ」と読む。Wikipediaには「古くは「加増(かそ)」と読み、新田として石高を加増されたことに因む地名が元禄時代に「加須」へ改められた説がある。そのほか、利根川本流の「河洲(かす)」が転じたという説や、光明寺の開基を行った人物である「加須(津)内蔵丞長高」の姓「加須(津)」に因んだとする説がある。例によって定説はない。
現在の加須市は旧加須市域、騎西町、大利根町、川辺町が合併したもの。上記加須の由来は旧加須市域を指したものであるのは言うまでもない。
因みに騎西町は市域南西部、大利根町は市域北の現在の利根川と旧加須市域に囲まれた地域。川辺町は現在の利根川の北。利根川東遷事業により、新川通が開削される以前、旧利根川の流路のひとつ、渡良瀬川に合流する合の川筋と新川通りが開削されてできた現在の利根川に囲まれた地域からなる。
日光脇往還
どの記事を見ても、加須のことを日光脇往還の宿場町と記す。「中山道鴻巣宿から別れて忍(元行田市)を通り、上新郷、新川?関所を経て館林、佐野方面に至る道路」であり、吹上宿(埼玉県鴻巣市)忍宿(埼玉県行田市)川俣宿(群馬県邑楽郡明和町)館林宿(群馬県館林市)と進む。
ここには加須は登場しない。どういうことかチェックする。鎌倉街道に羽根倉道という支道が目についた。所沢の羽根倉の渡しから与野・上尾・菖蒲・騎西をへて加須に至る道筋と言う。鎌倉街道足立野道は、鴻巣まで中山道、それから先は上記日光脇往還と重なる。鎌倉街道がいくつもの支道があったように、日光脇往還もいくつもの支道があった、ということで納得することにする。

金兵衛橋
会の川親水公園が終わる先に金兵衛橋がある。志多見堰の箇所で登場した金兵衛用水ゆかりの大河内金兵衛に因む橋であろうか。不明である。前述の如く川越藩主、老中松平信綱は金兵衛の子。






光明寺
橋の少し下流の右岸になんとなく落ち着いたお寺様。戦国時代に開山という光明寺。室町期の作と伝わる阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩の三尊像が残るとのこと。
このお寺様は、元亀2年(1571)に"加津内蔵丞長高"によって創建されたというが、前述の如く、この加津内蔵丞長高の「加津」にちなんで、加須の地名が起こったとする説もある。

切所堰
しばらく会の川に沿って進むと右岸に水神さまの石塔が建つ。その先に切所堰。農業用水の堰と言うが、周辺は宅地化され、その面影はない。切所とは土手の決壊した箇所を指す。





会の川案内図
しばらく川沿いを進み昭和中学校阿辺りに「会の川案内図」。東遷事業に拠る会の川流路の変遷がわかりやすくイラストで描かれていた。また、川俣締切跡から会の川に残る堰も地図に描かれており、このメモでもそのイラストを参考に堰を比定した。



嵯峨堰
昭和中学のグランドを越える辺りで、川の両岸を埋めていた宅地も少なくなってくる。舗装も切れた草の茂る土手を進むと嵯峨堰に出合う。堰は昭和初期に造られたとのこと。堰は右岸の久下地区に農業用水を分ける。
久下
律令制度下に郡家の所在地を指す「くげ、ぐうけ」からとの説、また河川の阿氾濫原の決壊箇所を指す「くけ」に拠るとか諸説あり。当地は鎌倉武士・児玉党の久下塚氏が居を構えたことに由来する、と。

国道125号・多門寺橋
嵯峨堰から200mほどで国道125号・羽生バイパスと県道152号が合流する箇所にあたる。県道152号はここが始点。国道を渡りおえると会の川に「多門寺橋」と橋に銘がある。国道が会の川を跨ぐ橋は「多門寺橋」と呼ぶのだろうか。多門寺は地域名。



東北自動車道加須IC
畑と土手の境を川に沿って進むと東北自動車道加須ICが見えてくる。道を進むと加須ICに当たり、側道に沿って迂回。南に少し下った辺りでICを東に抜けるトアンダーパスを潜り、再び北へと会の川筋まで戻る。




南方用水
南方用水は加須ICの西側側道に沿って南に下り、会の川と合わさると、既にメモした。ICを東に抜けるべく弧を描く側道をあるくとき、道の左手にある緑の中が結構気になり、少し北に折り返した先に水路があった。それが南方用水の末流だろう。





川沿いの道は行き止まり
ICの東に出て、さて、ここからどう進もう。会の川を突っ切ることができれば、距離は短い。でなければ結構迂回することになる。突っ切れるとは思えないのだが、とりあえず先に進む。
左岸の土手を進む。最初に現れた橋は難なく橋下を進める。次に現れた橋は、一段下の川床に近い、足幅ひとつ分のステップまで下り、これもクリア。が、IC料金所へのアプローチとなっている橋下にはステップが切れている。生活排水で汚れた会の川の泥の中に入り橋を抜けるのは勘弁。護岸壁をよじ登ると料金所への車アプローチ。これも危険そう、ということで結局、元に戻り高速に沿って北に進み、ICアプローチ下のアンダーパスを抜け、白山熊野両神社に御参りし、大きく迂回し会の川筋に戻る。

肱曲堰・会の川橋
川筋を進むと比較的大きな車道に橋が架かり、その先に堰が見える。橋は会の川橋、堰は肱曲堰。会の川橋の建設年代は不明。肱曲堰は昭和9年(1934)建設とのことである。堰は右岸に農業用水を分ける。




葛西用水と合流
土手を少し下ると会の川は葛西用水にあたる。合流箇所には「会の川分水工」がある。分水工は葛西用水に合わさる会の川の水量調整用のゲートと、その脇に葛西用水と仕切られた水路が続き、葛西用水と並行して流れている。
どうも、会の川の水路は葛西用水の水路より低く、洪水時に葛西用水から会の川に逆流することを防止しているようだ。で、葛西用水と並行して流れる「会の川」の水路は加須市河口の調整ゲートで葛西用水下を潜り、中川に流されているとのことである。



(NOTE;左上の四角をクリックし、表示したいレイヤーを選択してください)

葛西用水
利根川東遷事業は新田開発をもそののひとつとしていた。東遷、また荒川の西遷事業により源頭部を失った旧利根川の廃路跡の湿地を新田開発とするわけである。他の多くの用水路と同じく、この葛西用水もそのひとつである。
現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではなく、新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したもの。 葛西用水は慶長年間(1596~1610年)の亀有溜井、瓦曽根溜井の築造をもってその始まりとする。亀有溜井は綾瀬川の水を溜め葛西領の用水源となった。葛西から遠く離れた地で取水されるこの用水が葛西用水と呼ばれた所以であろう。 また、元荒川を堰止め瓦曽根溜井(越谷市)が造られ、そこから用水が引かれた。

寛永6(1629)年には、荒川の西遷が完了。しかし、その結果、元荒川、 綾瀬川の水量が激減し、瓦曽根溜井、亀有溜井が枯渇することになる。その対応として、庄内領中島(現幸手市西宿)で江戸川から取水し中島用水を開削し、大落古利根川に落とし、さらにその下流に松伏溜井を造り、その水を開削した逆川をへて瓦曽根溜井に送った、と(注;中島用水の記録が見つからず、流路ははっきりしないが、上記江戸川取水口から春日部市八丁目まで開削され大落古利根川に落とした、とのこと)。寛永8年(1631)には水不足に苦しむ亀有溜井へと水を通すべく葛西井堀(東京葛西用水)が開削し、瓦曽根溜井と亀有溜井が繋がった。

承応3(1654)年、利根川東遷が完了。万治3(1660)年、大落古利根川の上流域に、幸手領用水が開削される。利根川の本川俣村(現・羽生市)に圦樋を築き、用水路を開削し、川口村(現・加須市)に川口溜井を設け、その下流に琵琶溜井を築造。幸手領用水の余水を大落古利根川に落とし、下流の松伏溜井に水を送る。ここに、利根川から亀有溜井までの用水路はつながり、葛西用水の原型が出来上がった。

宝永元(1704)年、洪水により中島用水が埋没。このため享保4(1707)年には、幸手領用水を強化し、水源を江戸川に求める中島用水から松伏溜井への導水は廃止され、利根川の上川俣(現・羽生市)に切り替えた。ここに上川俣圦樋から亀有溜井 に至る葛西用水が成立することになる。
享保14(1729)年には亀有溜井を廃止し、小合溜井(葛飾区の水元公園辺り)が築造された。これにより、従来の松伏溜井から逆川、瓦曽根溜井を経由して葛西堀井(東京葛西用水;西葛西用水)を下る系統に加え、松伏溜井から二郷半領本田用水(東葛西用水)、小合溜井を経て東葛西領上下之割用水へと至る系統が加わることになる。また、宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に戻った。
現在の流路;昔とそれほど大きくは異なっていないと思うのだが、その流路は武蔵大橋傍、行田市下中条で利根川の水をとり、埼玉用水路として利根川右岸を進み、かつての取水口である本川俣より南東に下り、東北自動車道加須ICの少し東、加須市南篠崎で会の川と合流(合流するが別水路で進み、会の川は中川に落ちる)。

南東に下る葛西用水は久喜市吉羽で大落古利根川に合流。そこから大落古利根川の川筋跡を下り、越谷市大吉の松伏溜井で大落古利根川を離れ、人工的に開削した逆川を抜け元荒川筋に水を落とし、越谷市西方の瓦曽根溜井で元荒川を離れ、葛西井堀(東京葛西用水)を亀有まで南下し、舟曳通りを流れた舟曳川筋を下り、京成押上駅付近で北十間川に合流する。
また、松伏溜井から二郷半領(吉川市・三郷市)として中川の東を小合溜井(水元公園あたり)まで下る流れもある。小合溜井からは「上下之割用水」として南西に下り、葛飾区新宿辺りで「小岩用水」を分ける。本流はそこから南に下り、曲金(現在の高砂辺り)で東井堀用水を分け、本流は更に南に下り現在の細田橋のあたりで西井堀用水と仲井堀用水を分ける。西井堀用水はそこから南東に一直線に下り、逆井の渡しの辺りで中川に合流する。これがおおよその流路であろう。

蛇足ではあるが、葛西用水を北側用水と記す地図も多い。Google Mapもそうである。で、ややこしいのは、加須市川口に築造された川口溜井から東に水を分けた用水、多分島川筋を利用した水路だろうが、その水路を北側用水とする。北があれば南もある、ということで、久喜市栗原に設けられた琵琶溜井から引かれた用水に中郷用水と南側用水がある。

六郷堀川とクロス
当日の予定では、この後会の川を少し下り、旧利根川の主流の一つであった浅間川筋との出合いである加須市川口まで進むつもりであったが、もうすぐ日没時間切れ。本日はここで切りあげる。
最寄の駅を地図でチェックすると南に下ったところに東武伊勢崎線・花崎駅がある。成り行きで南に折れ、加須IC近きが故か流通倉庫があつまった加須流通団地の通りを抜け、農耕地の広がる一帯を東に向かい東北自動車道の高架を潜り花崎駅に向かう。
駅の少し手前で用水路と出合う。左右の護岸は都市型用水路で良く見る、鋼矢板と支保工のセット。継手を嵌め込みながら連続して鋼矢板が撃ち込まれ、鋼矢板の横からの荷重を天端で支保工が支える。当日は昔の農業用水の名残であろうと、まま駅に向かったのだが、メモの段階でチェックすると六郷堀川と呼ばれる用水であった。
六郷堀川
源頭部は加須市東栄1丁目辺り(加須駅の東)というが、暗渠ではっきりしない。地図を見ると東に流れ久下浄水場の少し西で開渠となり花崎駅の北を通り、東北自動車道の手前で南に折れ、東武伊勢崎線を越え更に南に進み青毛堀川に落ちる。
が、ここで青毛堀川に落ちるのは余水吐、本流は東北自動車道を越え東に向かい、久喜市鷺宮町に入る。水路は東に向かい、東武伊勢崎線とクロスする手前で余水を青毛堀川に落としながら久喜市鷺宮町に入り、鷲宮神社の北を更に東に向かい、葛西用水手前で南に折れ、葛西用水と並行して南に下り東北本線、東北新幹線を越えて久喜市吉羽で青毛堀川に落ちる。
尚、久喜市鷲宮町に入ると、そこから下流を天王新堀と称する。東武伊勢崎線とクロスする手前で余水を青毛堀川に落としているが、そのあたりが六郷堀川と天王新堀の境であろうか。天王新堀と言えば、鷲宮神社を訪れた時に出合ったことを想いだした。

東武伊勢崎線・花崎駅
六郷堀川を越えればすぐに花崎駅。花崎駅近くに城があった、といっても砦といったものだろうが、ともあれ、砦があったということは台地上ではあろうし、 端>花はよくあるパターンであるので、端崎、つまりは低湿地に突き出た台地の地形からの地名だろうと思いながら駅に入り、一路家路へと。



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