足柄の里、山北地方を流れる用水路跡を訪ねることにした。江戸の後期、当時の足柄上郡川村(川村山北、川村向原、川村岸)の里正(庄屋・村長)であった湯山家が13代、150年近くにわたって築き上げた用水や堀割を辿る散歩である。宝永の富士山の大噴火により降灰で埋まった皆瀬川の水捌けのため、新川を堀割り酒匂川に流した(皆瀬川掘割)のが六代弥五右衛門。その瀬替えの影響で水不足に陥った山北、向原に皆瀬川の水を導く用水(川入堰)を造ったのが七代弥五右衛門。また、山北、向原地域の更なる新田開拓のため、酒匂川の瀬戸から取水し、岩山を切り割り、隧道を穿ち、堀割を流し、掛樋にて皆瀬川を越えて水を導く瀬戸堰を開削したのが十代弥太右衛門。その他の当主も御関所堰や川村岸堰などの造成、堰の改修などに努め明治を迎える。まさに酒匂川水系利水に努めた一族である。
山北の用水や湯山家のことを知ったのは、古本屋で手に入れた『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』を読んでから。先日歩いた荻窪用水(早川の水を小田原に流す)のときもそうだが、それほど詳しい道案内が紹介されているわけでもない。発行時期も昭和53年と少々古い。果たして用水路跡を辿れるものか、また、そもそも、現在でも用水路が残っているのか、といった、微かな不安を抱きながら足柄へと向かう。
本日のルート;小田急線新松田駅>御殿場線・谷峨駅>県道727号線>県道76号線>東名高速>新鞠子橋交差>線守稲荷>永安橋>瀬戸堰>御関所堰>山北発電所導水路>安戸隧道・新安戸隧道>川村関跡>山北発電所>川村土功之碑>皆瀬川堀割>川入堰>山北発電所導水路分水の吐き出し口>洒水(しゃすい)の滝>河村城址>室生神社>御殿場線・山北駅
小田急線新松田駅
小田急線で新松田に。最初の目的地は御殿場線・谷峨駅。湯山家10代、弥太衛門の開いた瀬戸堰取水口の最寄り駅である。松田駅は新松田駅の通りを隔てた直ぐ北にある。松田駅前にモンペリエという喫茶店があった。若き日に滞在した南フランス・ラングドック地方の街の思い出が、ちょっと蘇る。
御殿場線は30分に一本といった案配。電車を待ちながら、駅のホームから箱根の外輪山を眺める。お椀を伏せたような独特の山容は矢倉岳であろうか。
御殿場線・谷峨駅
しばし電車を待ち谷峨駅に。ロッジ風の無人駅。もともとは御殿場線の信号所であり、乗客の乗降はなかったものが、昭和22年に駅となった。地元の人々が資材や労働力を提供したと言う。信号所は列車行き違えのために設けられたものであり、駅が複線となっているのは、その列車交差のためだろう。
谷峨駅は酒匂川によって開析された段丘崖にある。崖下には国道246号線、前面の段丘面には水田が見え、その先に酒匂川が流れる。酒匂川の向こうには東名高速道路の橋げたが見える。丁度、都夫良野トンネルを抜けたあたりである。御殿場線もそうだが、地形図を見ると、東名高速道路も酒匂川の切り開いた川筋に沿って御殿場へと抜ける。土木技術によって山地にトンネルを通すことはあるにしても、基本は丹沢山地と箱根の山々の間(はざま)を、自然の地形とうまく付き合いながら道を通している、ということだろう。
県道727号線
駅を離れ、国道を越え水田の畦道といった風情の道を、成り行きで酒匂川に向かう。水田は段丘面の僅かな耕地を利用したもの。御殿場線が谷間に入って以来、水田が姿を現したのはここがはじめてである。水田を抜けると誠にささやかな人道橋。
酒匂川を渡り県道727号線に出ると、左へと導く大野山へのハイキングコースの案内がある。ハイキングコースは丹沢湖に抜けたり、山北へ抜けたりと結構楽しそうなコースではあるが、今回はパスし県道を右に折れる。
県道727号線は全長1.8キロのミニ県道。酒匂川の左岸を走る県道76号線が、谷峨駅近くで右岸に移るところが始点。そこから酒匂川左岸を進み、丹沢湖に向かって北上する県道76号線と再び合流するところを終点とする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
県道76号線
県道727号線を酒匂川に沿って下る。車は246号線を通るのか、ほとんど往来はない。先に進むと東名高速の橋げた手前で県道76号線に合流。県道76号線は現在の国道246号線バイパスができるまでは国道246号線として使われていた。現在は御殿場線の東山北駅近くの向山からはじまり、谷峨の先で酒匂川筋から離れ、北に進み丹沢湖を経て津久井に進む。途中丹沢の山地部分では未開通の部分が残る。
東名高速
東名高速の橋げた下を進む。丹沢山地の新都夫良野トンネル(1720m)を通る東名高速道路が、酒匂川で一瞬開き、再び箱根山地の鳥手山トンネル(840m)に消える。都夫良野の語源は、南北朝の戦乱時、御醍醐天皇がこの地の豪族・河村氏の案内で吉野を脱出し、都良夫野の地に都を定めたという伝説から。酒匂川を臨む景観が南朝方の都であった吉野に似ており、御醍醐天皇が「おお! 都よ。それ吉野よ!」と言われた。それを「都(みやこ)夫(そ)れ吉野(よしの)」と表記したから、とのことだが、少々出来過ぎ、か。
新鞠子橋交差
県道76号線が国道246号線に接するところに新鞠子橋交差点。酒匂川という名前が文献に現れたのは鎌倉時代初期以降。それまでは、丸子川とか鞠子川、相沢川などとも呼ばれていた。鞠子橋はその名残であろうか。ちなみに、酒匂川の名前の由来は、往古、大和武尊の東征のみぎり、この川に神酒を注ぎ龍神に勝利を記念したところ、その匂いがしばらく消え去らなかった、という故事による。酒匂川は御殿場に源流を発し、丹沢の山地と箱根の山々を分断し、足柄平野を下り相模湾に注ぐ。
線守稲荷
県道76号線を進む。目的地である瀬戸堰は瀬戸地区にある。『近世小田原ものがたり』によれば、御殿場線がトンネルから出てきた辺り、バス停の四軒屋あたりが目印、と。道なりに進むと、道の下に赤い祠。その下には線路とトンネルも見える。瀬戸堰って、この辺りであろうかと、道を逸れ祠に下る。
赤い祠はお稲荷さん。正一位線守稲荷とある。境内にあった謂われをもとにメモ;明治二十二年二月一日、現在の御殿場線が東海道線として開通した当時、 足柄上郡山北町の鉄道トンネル工事でキツネの巣が壊されたため、土地の人たちはキツネの仕返しを心配していた。 やがて工事が完成し、列車が通ることになると、線路に大きな石が置いてあったり、蓑、カッパを着た人が赤いカンテラを振ったり、 女の人が髪を振り乱して手を振ったりするのが見える。機関士が急停車して確かめて見ると、全く異常はみられない。再び発車しようとすると、また灯がトンネルの出口で揺れだすというありさま。 こんなことが何日か続き、機関士の恐怖はつのるばかり。 ある晩のこと線路の上で牛を見つけた機関士はまた幻と思い「えい!」とばかり突っ走ったところ、何かにぶつかる。 急ブレーキをかけて停車してみると線路のわきにキツネの死体が横たわっていた。箱根第二トンネル工事を請け負った建設業者の親方は、工事中にキツネの巣をつぶしたことを思い返し当時の山北機区と相談し霊を慰めようと トンネル上に「祠」をつくって祭ることにした、と。
永安橋
お参りを済ませ線路へ下りる小径を進むと御殿場線のトンネル脇に出る。箱根第二トンネルとあり、線路脇には廃線跡のレンガつくりのトンネルが残る。東海道線であった当時の複線の名残であろう。トンネルをちょっと覗き、御殿場線に沿って少し戻り鉄橋に向かう。酒匂川に架かる橋は第一酒匂川橋梁とある。鉄橋を渡れるのかどうか、ちょっと迷う。通れるような、通れないような、脇に歩道スペースがあるような、ないような。結局は元の国道まで戻る。
瀬戸堰はこの辺りだろうと思いながら、少し先に進むと「四軒屋バス停」があった。ということは、瀬戸堰は間違いなくこの辺り。川へと下る道はお稲荷さんの手前にあったことを思い出し、県道を少し戻り川へと下る。ほどなく酒匂川に架かる永安橋に出た。
橋の上から川筋、そして崖面に堰の名残を探す。と、橋の上流、水面から2,3mほどのところの崖面に亀裂が見える。注視すると崖の岩盤を堀割った水路跡のよう。橋の下流の崖面もチェックする。こちらにも、しっかりと堀割跡が見える。橋を渡り川床まで下り、対岸の堀割を確認。また、橋を渡り線路に沿って先ほど引き返した第一酒匂橋梁脇に進み崖面をチェック。堀割跡がよく見える。瀬戸堰って、このように川沿いの崖面を堀割って山北まで水を通したのであろう。
瀬戸堰
瀬戸堰は湯山家十代の弥太右衛門が為したもの。宝永の富士山の噴火で降砂に埋もれ、大被害を受け亡地として幕府の天領となった山北の地も、湯山家代々の利水事業などにより、漸く回復。酒匂川9カ村も小田原藩領に復帰し、世情が安定したのもつかの間、明和7年、山北の地に大飢饉が起こる。それを見た湯山家十代の弥太右衛門は新堰をつくり、山北、向山を潤す新田開発を計画する。小田原藩・大久保家への度重なる建言むなしく、9年間据え置かれるも、新堰をもってすれば藩の増収を、との訴えが聞き入れられ、安永7年(1779年)に工事着工、天明2年(1787年)には完成の運びとなる。藩から工事代金半額負担を引き出した、とか。
瀬戸堰は、上瀬戸・四軒屋辺りの酒匂川本流左岸に堰の取水口を設け、川の北岸の岩山を切り割り、隧道を穿ち、堰路や掛樋にて沢や川(皆瀬川堀割)を越え山北の低地に落ちる。取水口から皆瀬川堀までは3.5キロ、幅2.4m、深1m弱。三軒屋隧道の暗渠は長さ110m程。皆瀬川を渡す木の樋は長さ72m、深さ80センチ、幅1.4m、高さ14mあった、と言う。
掛樋を渡り山北の低地に落ちた水路は三流に別れる。中央は中通り堰(旧堰に新堰が600mほど合わさる)、北は北山根堰(2キロ弱)、南は南山根堰(2キロほど)と呼ばれ、それぞれ北山から向原の地25町歩を潤し、小田原藩に3000俵の増収をもたらした。藩主大久保忠真は弥太右衛門に感状を与え、終身年録5俵を与えた(『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』)、と。
御関所堰
瀬戸堰の取水口を確認し、気持ちも軽やかに再び県道を山北へと下る。次の目的地は御関所堰。九代三太夫が元禄16年の大地震で水道が破壊され、水の供給が乏しくなった板橋台に水を導くため計画したもの。元文4年(1739年)のことである。板橋台に川村関所があったため、この名前がついた。
御関所堰は共和鍛冶屋敷の奥地に源流を発し、板橋台の西を流れ酒匂川に注ぐ板橋沢の流れ口から500m上流地点に堰を設けた。取水口からは沢の左岸に岩石を堀鏨し、板橋台を巡り、皆瀬川堀割に落ちる。全長およそ1キロの用水は、関所があった板橋台の二町を潤す(『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』)、と。
沢筋を意識しながら進む。道の途中それらしき流れは見あたらず、ほとんど山北の町に入るあたりまで進む。と、御殿場線がトンネルから一瞬顔を現し、すぐさまトンネルに消え入るところに沢筋が現れる。御殿場線のトンネル脇からは沢に下る道もなく、仕方なく県道を進み、結局、県道が国道246号線と合流する安戸交差点あたりまで引っ張られてしまった。
安戸交差点の先、国道を跨ぐ安戸隧道の手前から山に入る道がある。沢筋へと左に折れる。この道は山北から大野山へ向かうハイキングコース。結構きつい上りとなっており、道は沢筋からどんどん離れてゆく。このまま進んでも、沢筋に下ることはできそうもないので、結局あきらめ元に引き返すことに。
山北発電所導水路
道を戻る途中、何気なく沢筋を見降ろすと導水路が沢を渡っている。直ぐ脇に階段があり、沢に下っている。上りのときは見逃したのだろう。導水路管理用の階段のようであり、どうなることやら、と思いながら、とりあえず階段を下ると導水路脇に出た。
この用水路は山北発電所への導水路とのこと。谷峨駅の少し北にある嵐発電所近くの取水口で酒匂川の水を取り入れ、山地を穿つトンネルを進む。この地で沢にあたり、一瞬地表に顔を出し、沢を渡ると再びトンネルに消える。用水路の勾配は1キロから1.5キロで1m下るといった水平に近い状態。発電所での落差を確保するためであろう。
導水路脇から細路を沢まで下りる。沢筋から見上げる水路橋はレンガ造り。山北発電所が運用開始されたには大正3年であるから、この橋はすでに百年以上の風雪に晒されている。堂々とした風格のある水路橋である。沢に沿って下る道はない。結構な岩場が続く。こんな岩場を下るわけにもいかないので、御関所堰跡探索は諦め道路に戻る。
安戸隧道・新安戸隧道
道を下り安土交差点に向かう。途中、道の斜め上に導水路が見える。先程の導水路がトンネルから抜け、山北発電所へ向かっているのだろう。水路には近づけそうもない。導水路は道と並行に下り安戸隧道、そして新安戸隧道とふたつ並ぶ隧道の上を進んでゆく。
安戸隧道は大正の頃造られたもの。新安戸隧道ができたのは昭和41年。新安戸隧道は東名高速の開通工事との関連で造られた。東名高速の工事で最後に残ったのが大井松田と御殿場の間。それ以外の区間が完成しており、一度高速を下りた車を捌くには旧道のトンネルはあまりに狭く、大急ぎでこの新安戸隧道がつくられた。鄙には稀な車幅のトンネルとなっているのは、こういった事情、とか。また、切り通しとなっていないのは、隧道上を山北発電所への導水路が通っていたためである。
川村関跡
隧道の西側からは導水路脇に上る道は見当たらない。安戸隧道を抜け、脇を見やると川村関跡の案内があった。山北町教育委員会がつくった案内をメモ;徳川幕府は、江戸の守りを固めるため、「入鉄砲」「出女」の監視に、全国の重要な街道に関所を置いた。 なかでも東海道の箱根関所は「重キ関所」として脇往還にも根府川関所、仙石原関所、矢倉沢関所、 川村関所、谷ヶ関所の五つの関所が置かれていた。 天保12年(1841)幕府によって編纂された新編相模国風土記稿の川村山北に「御関所西方にあり、 川村恩関所と云、奥山家及び駿州への往来なり、小田原藩の預る所にして、 警衛の士藩頭一人、定番二人、足軽二人を置けり、建置の年代詳ならず」と記されている。 その場所がこの周辺である。
この関所への道は、 小田原からの甲州道を南足柄市向田で分かれ、北上して当町の岸から山北に入り、 関所を越えて共和・清水・三保地区を結ぶ奥山家への道と、途中で分かれて駿州への「ふじみち」として 信仰の人々の往来にも供された道である。しかし、小田原藩領民以外の女性は通行できなかった。 なお、通行にあたって村内で扱う山物(薪炭など)に十分一銭という通行料を徴収したことも知られている。 関所の規模は、正徳3年(1713)河村御関所掛村々諸色之帳に「柵惣間合貮百六拾壱間半」(約476米)と記され、 相当の敷地を有していたと思われる。 また、関所の普請、柵木、番衆居宅修理、人足の差出などを御関所守村・要害村として、 明治2年まで近隣の十四ヶ村に割当てられたなどの記録も残っている、と。
山北町は静岡県・山梨県と接する神奈川県最西端の山間の町。江戸時代は川村山北と呼ばれた国境の町であり、この川村の地と谷峨辺りにある谷ヶには、関所が置かれていた。この川村関所は箱根関所の抜け道を防ぐためのものであり、箱根の裏関所として通常2~5名程度の役人が詰める小規模なものであった、とか。
山北発電所
隧道を抜け、隧道上を進む導水路への上り口を探す。と、国道246号線の向かいに見える廃屋の横に石段があり、隧道上に上れそう。国道を渡り、石段を上る。と、思いがけなく石段上に国道246号線に沿って用水が走る。樋口橋方面へ向かい、何処かに吸い込まれてゆく。導水路の水をわざわざ分水し川に落とすこともないだろうから、吸い込まれたその先は、橋に沿って鉄管で川を渡り、川向こうの何処かへと進んでいるのだろう。
後ほど送水先をチェックに向かうことにして、隧道上を通る導水路へと戻る。土手を上り導水路そって発電所に向かって歩く。先ほど見た分水への分岐点では、大きな水音を立て水が流れ落ちている。先に進むとほどなく行き止まり。この先は発電所に向かって水が落ちていく。
川村土功之碑
国道に戻り、次の目的地である皆瀬川堀割へと向かう。国道246号線を進み樋口(とよぐち)交差点で県道76号線に入る。皆瀬川に架かる樋口橋の手前道脇に「川村土功之碑」があった。山北町教育委員会のつくった案内の概要をメモ;元禄16年(1703)の大地震、宝永4年(1707)の富士の噴火で 山北地方潰滅状態に陥る。その救済・訴願に鈴木、湯山両名主が尽力。 湯山氏は訴願を重ね、皆瀬川の瀬替が実現。しかし、その為水不足が生じ、 堅岩に斧さくして川入堰をつくり、また幕府の許可で川村関所遣水・付堰の御普請も成った。 瀬替より70年後の安永8年(1779)瀬戸堰工事開始、寛政年間に岸村分水も成り、 水田造成を進める。今堅岩に斧さくの跡を見、酒匂川左岸に遺る素堀・取水口も移り、 皆瀬川を渡る大架槽も堅固な鉄管に変わり、それ等の堰を流れる水は、山北の灌漑・生活用水として 利用されている。 湯山氏祖孫七世、140余年に亘り災害復旧に、灌漑用水の整備に心血を注いだこの工事が いかに困難を極めたかを知ると同時に、その恩澤を永久に記念する為、 川村土功之碑が建立された、と。
皆瀬川堀割
樋口橋を渡り、先に進みほどなく県道725号線へと入り皆瀬川に沿って進む。見るほどに、ありふれた川ではあるが、この辺りは人の手により堀割った人工の川筋。ここが水瀬川掘割の地である。
皆瀬川堀割とは湯山家六代 弥五右衛門の利水事業。降灰で埋まった皆瀬川本流に平行し新川を堀割り酒匂川に流した工事を言う。元禄16年(1703)の大地震、宝永1(1704),2年(1705)の大洪水、更には宝永4年(1707) 富士山大噴火により山北地方は大きな被害を被った。その被害はあまりに大きく、小田原藩領は足柄2郡を幕府に還付し幕府の天領となし、替地として、伊豆、三河、美濃、播磨を頂戴したほどである。
幕府の天領となった足柄の地は関東代官伊奈半左衛門忠順のもと、降灰地の砂掻作業を行う。この間の出来事は新田次郎さんの『怒る富士(文春文庫)』に詳しい。それはともあれ、降灰地の砂掻作業では埒があかないと、湯山家六代・弥五右衛門は新川の堀割を構想する。その熱意はついには幕府に通じ、藤堂和泉守を普請奉行手伝いとした工事が開始される。
幕府のお触れもあり、宝永6年から工事開始にあたっては周辺住民が大動員され、千人以上が工事に参加し、8日後には新川は完成した。と言う。新川は皆瀬川本流の西に造られ、山の神戸に堰をつくり、水を通した。新川の長さは330m、幅は10mから30m。深さ9mから15m。樋口(とよぐち)で酒匂川に合流することになる。
新川掘割の結果、皆瀬川の旧河川は水田となった。この旧河川は山北駅近くの御殿場線の路線となっている辺りを流れていた、と。工事の官金は5195両と言うが、湯山家の負担も大きかった(『近世小田原ものがたり』)、と。なお、御関所堰から掘割に流れ込む水路跡などないものかとチェックするが、それらしき痕跡を見つけることはできなかった。
川入堰
皆瀬川に沿って進みながら、川入堰の取水口など無いものかとチェックする。川入堰とは湯山家七代弥五右衛門の利水事業。皆瀬川掘割により、もとの流路にあった山北、向原が今度は水不足に陥ったため、新川堀割の北から水を取り入れる用水堰を計画。新川堀割の北端である山の神戸の北500mの川入に堰を造り、皆瀬川の左岸に沿って山の神戸まで岩石を切り割って堰路をつくり、山北の萩原台に水を通す、というもの。
東名高速の橋桁下を進み、道脇の牛小屋などを見やりながら結構上流まで進む。皆瀬川からの取水口を見つける。山側に導かれてはいるが、ここが川入堰の昔の取水口とも思えないが。きりがないので、このあたりで矛を収め引き返すことにする。
再び牛小屋前を通り東名高速の橋桁下あたり、崖面下に用水路らしきものが目に付く。開渠とはなっていないが、水音が聞こえるので用水路ではあろう。道が下るにつれ、道と用水路の高低差が広がり、用水路は頭上の崖面を進む。用水に沿って進むと道は県道725号から離れ、山裾に沿って集落へと進む。と、その先に、石碑、石祠、石仏などが並んでいる。大きな樹木の下に佇んでおり、いかにも趣のある雰囲気。そこに川入堰石碑があった。
川入堰石碑の案内をメモする;相州川村山北掘割之由来者 宝永年中富士山忽然焼出し砂石降積民屋及大変就中 当村皆瀬川従山奥砂石流来 山北向原原河内迄既成亡所也時 名主弥五右エ門父子不忍見之拠一命即 伊奈半左エ門様御支配之時 酒匂川エ堀落之奉御願依之仲山出雲守様 河野勘右エ門様御見分之上被仰付 御手伝藤堂和泉守様御普請被成下 数多之百姓助申事不量其数 其後享保年中御代官蓑笠之助様用水堰被仰付水 惣百姓相続仕故此事記之謹可謝清恩長為堅固祈奉地蔵菩薩建立依拝上者也 元文二丁巳歳四月吉祥日 水下施主 湯山三太夫 九左エ門、勘左エ門、市郎左エ門、七左エ門 水下村中百八人 山北向原村中(山北町教育委員会)、と。
碑文は九代三太夫が、元文2年(1737年)に父祖の功業である皆瀬川掘割と川入堰開削を称えて建てたもの。当時は山の神戸に建てられていたが、その後、現在の萩原の川入堰引き入れの場所に近いとこるに移された。碑文の御代官蓑笠之助とは、川入堰開削当時の代官である。
川入堰碑を離れ山北の集落へと用水の水音を聞きながら道なりに進む。町のいたるところに用水が流れる。水量も豊かで、水音が気になるほどである。水音に惹かれ、あちらへ向かい、こちらに戻りを繰り返し、しばしの用水散歩を楽しみ、得心したところで次の目的地に向かう。山北発電所からの分水の吐き出し口を求めて、浅間山トンネル方向へと進む。
山北発電所導水路分水の吐き出し口
県道76号を越え、所々に現れる用水の流れを眺めながら御殿場線脇に。線路に沿った道にも豊かな水量の用水が流れる。山北駅の西に架かる跨線橋で御殿場線を渡る。この御殿場線は元々の皆瀬川の川筋とのことだが、周囲より一段切り刻まれたその地形の連なりは、如何にも川筋、といった風情である。
跨線橋を渡り、線路に沿って進むと道は山地へと進む。小径を進むとミカン畑に出た。結構広いミカン畑を成り行きで進むと、浅間山トンネルの西側入口の上あたりに出る。どこに吐き出し口があるのかと、ミカン畑の中をうろうろ。とはいうものの、こんな高台に吐き出し口は不自然と思いはじめる、畑地を荒らさないように注意しながら畑を横切り、成り行きでトンネル出口方面へと進む。
先に道があり、近づいていくと水音が聞こえる。道の下から聞こえている。トンネルを抜けてきているのだろう。水音のする方へと道を下り、ぐるりと回り込む。トンネルから水量豊かな用水が吐き出されていた。
吐き出し口を出た水路は二流に分かれ、一流は町中に、他方は国道246号方面へ進み、国道脇で暗渠に入る。町中への流れは中通り堰の流路であろう。また、国道方面への流れは南山根堰であろう。昔の南山根堰の流路を見るに、先でおおきく二つに分かれ、ひとつは室生神社の南を進み、向原の地を潤し尺里川に落ちる。もうひとつは寛政年間に岸村の灌漑のために造られた川村岸堰へと続く。川村岸堰は浅間山の東麓に150mの隧道を穿ちその先で二流に分かれ岸村を潤した、と。
洒水(しゃすい)の滝
用水に沿って国道246号に向かい、暗渠地点を確認し、次の目的地である洒水の滝に向かう。国道を引き返し、浅間山トンネルを抜けて樋口橋交差点に戻る。交差点を南に折れ、県道726号線を進む。右手に山北発電所を眺めながら進み、滝沢川の手前で折れ、道なりに進むと最勝寺。洒水の滝で修行をしたと言われる文覚上人が不動尊を祀ったお寺様。
文覚上人って、鎌倉期の名僧とか。元は武士の出であるが、他人の妻に懸想し、誤ってその女性を殺めてしまい、それがもとで己の愚かさを知り出家する。熊野をはじめ白山、信濃、出羽、そして伊豆での荒行の話が残る。その後、京都の神護寺の再興を巡って後白河法皇の勘気を被り伊豆に配流される。頼朝の知遇を得たのはその時。頼朝死後は政争に巻き込まれ、後鳥羽上皇に謀反の嫌疑を掛けられ、対馬に配流の途中客死した。名僧というか、怪僧といった赴きのお坊さんである。
最勝寺を離れ山道を進み洒水の滝に。「洒(しゃ)」であって「酒(さけ)」ではない。洒の意味は、密教用語。清浄を念じて注ぐ香水を指す。如何にも、密教の修験場と言った名称である・この滝は、酒匂川(さかわがわ)支流の滝沢川上流にあり、計120mの落差を三段にわかれ流れ落ちる。下流から一の滝(70m)、二の滝(16m)、三の滝(30m)。木立の間からは豪快に落下する一の滝が見える。日本の名水百選、日本の滝百選に選ばれている相模第一の名瀑、とか。近くの崖の祠には文覚上人が刻んだとの「穴不動」がある、と。「蛇水の滝」とも、「麗水(しゃすい)の滝」とも呼ばれる。
河村城址
洒水の滝を離れ、次の目的地である河村城址へと向かう。実のところ、河村城址については、この地に来るまで何も知らなかったのだが、あちこちの道案内に城址の表示があり、それならば、と訪れることにした(後でわかったのだが、洒水の滝から河村城址へと続く散歩道が整備されていた)。
来た道を山北駅近くまで戻り、道脇にある標識に従い、御殿場線を越え、国道246号線の高架をくぐり成翁寺の東を進む。河村城址の石碑の先の駐車場を越えると坂道となる。よく整備された道を10分も歩くと、小郭と茶臼郭の間にある畝堀・障子堀が現れる。箱根の山中城で典型邸な障子堀をみたが、この様式は小田原北条氏の築城術の特徴、とか。
畝堀の端にあるお姫井戸を見ながら先に進むと主郭に到着。本城郭には社が祭られていた。模擬木戸や河村城址碑などを見やりながら、主郭をのんびり歩く。主郭と蔵郭の間の堀切には橋が架かる。蔵郭の先には堀切があり、そのさきにもいくつか郭があるが、未だ発掘調査中といった状態であった。
河村城は標高225m、麓との比高差130mの独立丘陵にある。南には酒匂川、北は戦国期の頃には皆瀬川が流れており、天険の要害として甲斐や駿河に通じる街道を抑えていたのであろう。
河村氏
河村城は平安末期、この地を本拠としていた河村氏の居城と伝えられる。河村氏は平安末期に秦野市近辺に覇を唱えた波多野氏の一族。山北の地の統治を任され、以来河村姓を名乗ることになる。当時山北の地は関白・藤原忠実の庄園であり、河村氏はその庄園を管理する家司であった、と言う。
鎌倉期、頼朝の挙兵に際し、当時の当主・河村義秀氏は平家方として戦に臨む。ために、鎌倉幕府が成立時、河村領は没収されるが、その後復活し頼朝旗下、奥州征伐などで武功をたて、またその後の北条政権下でも和田合戦や承久の乱で活躍する。
元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めに際しては、一転新田勢に加わり鎌倉幕府滅亡の一翼を担う。その後一時北朝・足利旗下に参じるも、観応3年(1352年)には南朝方の新田義興、脇屋義治とともに足利氏の守る鎌倉を攻略。一度は鎌倉を奪取するも足利氏の勢に抗せず河村城に籠もる。「西に金剛・千早城、東に河村城あり」と、南北朝期にその名を残す、河村城籠城戦のはじまりである。
観応3年3月、6千余騎で河村城に立て篭もった南朝連合軍に、畠山国清を主将とする北朝・足利尊氏軍が攻撃。1年に渡る籠城線では攻撃をよく凌ぐも、次第に兵糧も乏しくなり戦力も消耗。南朝方は義興・義治を城から落とし、河村城の東麓で決戦を挑むも惨敗。河村氏も討ち死、城も陥落した。上でメモした、都夫良野の由来にある後醍醐天皇伝説が生まれたのは、こういった背景があったからだろう。
戦国時代に入ると河村城は大森氏、小田原北条氏の支配下に入る。現在残る遺構はその当時のものであろう。小田原北条氏時代は、甲斐の武田氏の進出に備える重要拠点として重きをなすも、天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡によって河村城は廃城となる。
室生神社
河村城址を離れ山北駅に戻る。次の列車まで30分強時間がある。それではと、ピストンで駅の南にある室生神社に向かうことに。流鏑馬の神事で有名と言う。駅横の山北地域センター脇にある跨線橋で御殿場線を跨ぎ、線路に沿って道なりに進む。道脇には豊かな水量の用水路が続く。中通り堰であろうか。成り行きで国道246号線をくぐり、東へ進む。道脇に流れる用水、南山根堰ではあろう。用水の水音を聞きながら進むと室生神社に。
境内は結構広い。境内には2本の銘木がそびえる。ひとつは樹高25m、根周り9.8m、樹齢300年というイチョウ。もうひとつは拝殿の右斜め前方にある樹高25m、根周り4m、樹齢300年というボダイジュである。
この神社には県民俗文化財の流鏑馬が伝承されている。流鏑馬の起源は河村氏にある、と言う。上で、河村氏は頼朝挙兵のとき平氏に味方し、そのために鎌倉幕府成立時、領地を没収されたとメモした。このとき、河村義秀は大庭景義のもとに謹慎を命ぜられ、さらに頼朝は、義秀の斬罪を景義に命じた。が、景義はこの命に従わず、密かに義秀をかくまい続ける。
建久元年(1190年)、鶴岡八幡宮にて流鏑馬の奉納時、トラブルで射手が揃わないのを好機に、大庭景義は射手に河村義秀を推薦。義秀の生存に驚きながらも、危急の折でもあり、頼朝は三流の弓矢で射ることを命じる。失敗したならば改めて斬罪とのプレッシャーの中、義秀は見事的を射ぬき頼朝の許しを得る。その後、弓馬の技量を認められ、旧領を回復し、御家人の列に連なり、上洛にも随行するなど頼朝の信任を得た、と言う。
御殿場線・山北駅
駅に戻る。山間の駅の割にはヤードが広い。その昔、線路の敷地であった所が空き地として広がる。その昔、明治22年、東海道線が開通した当時の箱根の山越えは、現在の御殿場線のルートであった。その箱根の山越えルートは1000mで25m上るという急勾配であり、後押しの機関車を連結しなければ山越えはできなかった。そして、その補助機関車の連結基地が設けられたのがこの山北の駅である。
山北の駅には補助の機関車11両、600名を越える職員が配置された。水や石炭を補給する駅でもあった為に、急行列車など全ての列車がこの山北駅に止まることになる。ために山北は交通の要衝となり村は活況を呈し、従来川村と呼ばれた地名も駅名の山北に改称された、とか。
その賑わいも丹那トンネルが開通し、箱根越えが熱海から三島へと移るまで。それ以降、この山北の駅は幹線からローカル路線に戻り、現在の静かな町となった。本日の散歩はこれでおしまい。しばし列車を待ち、家路へと向かう。
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