七生丘陵散歩 そのⅡ;百草園から七生丘陵散策路を高幡不動へ

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先日高幡不動から平山城址へと歩いたとき、平山城址公園のところで七生丘陵散策路に出会った。百草園のあたりから七生丘陵を辿り平山城址へと続くハイキングコース、である。百草園あたりを未だ歩いたことは、ない。百草園のある丘陵には幻の寺・真慈悲寺があった、とも伝えられる。百草八幡さまも結構古い社のよう。丘陵の自然だけでなく歴史的事跡も楽しめそう。ということで七生丘陵散歩の第二回は七生丘陵散策路を辿ることに、する。 散歩は聖蹟桜ヶ丘の小野神社からはじめる。百草の地に真慈悲寺が建てられたのは聖蹟桜ヶ丘と少々関係がある、とか。平安時代、武蔵一宮・小野神社のある聖蹟桜ヶ丘の一之宮地域から見て、西の方角に美しい夕日が沈むところ、そこが百草の丘陵。ために、その地を西方浄土の霊地として見立て、真慈悲寺を建立した、と言う。コースは聖蹟桜ヶ丘の小野神社から百草園に進み、七生丘陵を辿って高幡不動へと進むことにする。



本日のルート;京王線・聖蹟桜ヶ丘>「一ノ宮の渡し」の碑>小野神社>七生丘陵>百草園>真慈悲寺>百草八幡>草観音堂>ちょうまんぴら緑地>百草団地>高幡台団地>日野市郷土資料館>中の台公園>かくれ穴公園>高幡城址


京王線・聖蹟桜ヶ丘
自宅を離れ京王線で聖蹟桜ヶ丘駅へ。大正14年(1925)の開業時には関戸駅と呼ばれていた。このあたりの地名が関戸である、から。駅名が変わったのは昭和12年(1937)。関戸の北、桜の名所である「桜ヶ丘公園」と明治天皇が足跡を残した地を意味する「聖跡」をコンバインしたわけである。
明治14年、八王子で兎狩りを楽しんだ明治天皇は、ことのほかこれを喜び、もう一日遊びたいと、急遽、この地に宿泊。翌日雪の連光寺(関戸の北)の丘陵での兎狩り、多摩川の清流での鮎漁などを楽しんだ。天皇は翌年再度行幸されただけ(4度行幸があった、とも)のようだが、皇族方はあれこれこの地に訪れた、とも。
聖蹟桜ヶ丘、と言うか関戸は往古、交通の要衝。大化の改新で府中に国府が設
置されると、府中を結ぶ官道がこの関戸を通ることになる。平安時代には関戸に関所・「霞ヶ関」がおかれた。鎌倉期には、鎌倉街道がこの地を貫く。府中分倍(河原)から関戸、乞田、貝取をへて鶴川(小野路川村=町田市)に通じていた。
鎌倉防衛の戦略要衝であったこの関戸の地で幾多の合戦が繰り広げられる。建武の中興の時、分倍河原おいて、新田義貞との合戦に敗れた北条氏は総崩れ。関戸の地を敗走する。新田方の追討戦がこの地で繰り広げられる。関戸合戦と言う。太平記などで、合戦の模様が伝えられる。
戦国時代に入ると関戸宿は 小田原北条氏のもと発達。市が開かれ、商業も活発になり農民から商人になるものも現れる。が、江戸になると衰退する。鎌倉街道といった南北の道がそれほど 重要なルートとはならなくなった。甲州街道といった、東西の道がメーンルートになったわけである。

「一ノ宮の渡し」の碑
駅を離れ宮下通りを西に進む。道脇に「一ノ宮の渡し」の碑。この一ノ宮の地と府中の四谷を結んでいた。昭和12年、関戸橋の開通まで使われていた、とか。ちなみに、鎌倉街道の渡しとして、府中の中河原を結んでいた「関戸の渡し」は関戸橋の少し下流。一ノ宮の渡しとおなじく、関戸橋が開通する昭和12年まで存続していた。

小野神社
ほどなく宮下通りを離れ、神南せせらぎ通りに入る。石畳の参道の傍らに用水が流れる。この用水は一宮関戸連合用水だろう。程久保川から取水されている。いい感じのプロムナードを進むと小野神社に。小野神社を訪れたのはこれで2度目。うっすらとした記憶の中の小野神社は、もっと大きい社のはず、であった。が、あれあれ、少々慎ましやかな構え。「その昔、武蔵国の一宮であった」、という、この小野神社の枕詞にイメージが引っ張られていたのだろう、か。
いつだったか埼玉県の大宮にある氷川神社を訪れたことがある。この社も武蔵国一宮、として知られる。武蔵国一宮がふたつ?チェックする。どうも古代は小野神社が武蔵国一宮。大宮の氷川神社は室町期以降武蔵国の一宮と称された、と。これって、どういうポリテックスが要因なのだろう。あれこれ推論してみる。
昔秩父に小野利春という人がいた。近江にはじまる小野篁の流れと言われる。その利春は宇多院の私領である秩父牧(馬の飼育場)の管理者として実績を上げ、同じく宇多院の御給分の国であった武蔵国に人事異動。ついには国司にまで出世する。と、この日野の地には小野牧を領する小野一族がすでに住んでいた。近江の小野一族の直系ではなかったようで、祀る神様も天神さま、というか雷神さまであった、とか。
国司になった小野利春は、領内を治めるのはまずは神様から、ということで先住の小野一族がまつっていた社を武蔵国一宮とする。そのとき祭神は土着の雷神(火雷天神)さまに変えて秩父で祀っていた神様を輸入。小野神社の祭神が秩父国造の先祖とされる「天下春命」となっているのはこのため、である。古代、小野神社が武蔵一宮となったのは、秩父よりこの地の国司となった小野利春に負うところ多い、かと。

では、なぜ室町期以降、大宮の氷川神社が武蔵一宮となったか、ということだが、それはよくわからない。が、小野神社が力を失った理由は推測できる。そのひとつの理由は最大の庇護者であった小野氏の一党が力を失ったためであろう。小野利春以降、目立って活躍した小野氏は登場しない。
武蔵七党のひとつ横山氏が勢力を拡大していれば状況も変わったかも知れない。横山氏は近江小野氏の末裔と唱えた。小野神社の祭神に天押帯日子命・天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)があるが、この神様は、近江の小野一族の本拠地で祀られている神様。近江小野氏とのつながりをしっかりとするために、その横山氏によって輸入されたのか、とも思う。ともあれ小野氏の末裔としてこの地に勢を唱えた横山党も和田義盛の乱に連座し一族は壊滅的打撃を受ける。小野神社を祀る小野氏一党、庇護者がいなくなったわけだから、その神社が存在感を失ったのは道理、ということだろう。

ちなみに、多摩川を隔てた京王線中河原の少し北、中央高速の手前に小野神社がある。多摩川の氾濫のため遷座を繰り返し小野神社がふたつできた、とか、どちらかが本社でどちらかが分祠である、との説もある。武蔵国一宮にかかわりあり、との社であれば、それなりのもの、と想像していたのだが、それはそれはつつましやかな社となっていた。
ついでのことながら、土着の小野一族が祀っていた火雷天神はどこに行ったのか、ということだが、近くの谷保に谷保天神様、北野に天神様がある。菅原道真が太宰府に流されたとき、この地に流された道真の三男・道武が祀
ったのがはじまり。小野神社の火雷天神様はこれらの天神様に合祀されたのだろう、か、とも。

七生丘陵
一ノ宮地区を進む。美しき夕陽の落ちる西方浄土の地・百草の丘陵を、と眺めやるが、伸びをしても建物が多く見晴らし効かない。百草の丘陵遠望はあきらめ、道なりに進み都道20号線・野猿街道に一ノ宮交差点を渡り都道41号線・川崎街道に。
川崎街道を百草園へと向かう。左手に迫る丘陵がいかにも気になる。どこかで丘陵への道はないものかと山側を気にしながら先に進む。と、ほどなくそれらしき脇道。丘陵へと上る道筋があり、成り行きで進むと尾根の切り通しに出る。

道はその先にも続いている。丘陵を百草園まで進めるかどうか少々の不安もあったのだが、とりあえず先にすすむ。と、周囲が開ける。なかなかに美しい里山の風景。ログハウスがあったり、牛舎に牛が寝そべっていたりと、誠に、ゆったりとした美しい景観。昔の多摩丘陵って、こういった景観が広がっていたのだろう、か。東へと開ける先には桜ケ丘の丘陵が見える。低くなっているところは大栗川によって開かれた低地だろう。桜ケ丘と七生丘陵を区切っている。思いがけない美しい景色であった。ちなみに大栗川って、真慈悲寺の大庫裡に由来するとの説、も。

先に進むと道は左に折れる。が、七生丘陵散策路は直進。里から雑木林の中に入っていく。散歩のときはよくわからなかったのだが、途中百草園駅から大宮神社脇を上る道に合流するようだ。大宮神社脇あたりが七生丘陵散策路東コースのスタート地点、とか。鬱蒼とした雑木林をしばし進むと人声が。雑木林が開け百草園通りに出る。松蓮坂の急坂を登りきったところなのだろう。皆さん、結構息のあがっている。

百草園
道の筋向かいに小さな木戸がある。百草園の入り口。幾ばくかの木戸賃を払い園内に。梅園として知られるとのことではあるが、紅葉も終わりの初冬ゆえ、少々寂しき趣き、のみ。明治の頃、若山牧水が百草の丘に訪れ詠んだ歌がある、「われ歌をうたへり けふも故わかぬかなしみどもに打追われつつ」。牧水がどの季節に百草を訪ねたのが定かではないが、貧窮に苦しみ、恋愛に悩み、失意落胆から抜け出すすべも見つからない焦燥の心を読んだものであろうから、この冬枯れの季節が望ましい。

真慈悲寺
往古、この地には幻の寺・真慈悲寺があった、とされる。聖蹟桜ヶ丘のところでメモしたように、平安の頃、西方浄土の地と見立てられたこの地に真慈悲寺が建てられた、と。『吾妻鏡』に真慈悲寺の記録が二カ所ある。最初の記事は文治2年(1186)。「祈祷所の霊場なのに、荘園の寄進もなく荒れ果てている」、と。建久3年(1192)には、頼朝が鎌倉で行った後白河法皇の法要に真慈悲寺から僧侶三名送った、とある。後白川法皇の法要って、先日の飯山観音・金剛寺のメモで登場した武相の僧侶百名が集まった四十九日の法要である。この頃には真慈悲寺は幕府の御願寺として再興され武蔵有数の大寺院となっていたようである。
真慈悲寺が廃寺となった時期は不明。現在発掘作業が行われているので、そのうちに明らかになるのだろうが、現段階では建武2年(1335)、鎌倉大仏や高幡の不動堂を倒した台風により倒壊したのではないか、と言われている。その後真慈悲寺が再興された、という記録は、ない。
その後、いつの頃か定かではないが、真慈悲寺の跡に松連寺が建てられる。江戸の頃、とも。その松連寺も一時廃れ亨保2年(1717)、小田原藩主大久保公の室により、再建され、 文化文政(1804から1817年)の頃には庭園として整備され、多くの文人墨客が招かれた。園内に松尾芭蕉の句碑もあったが,芭蕉もそのひとりだろう、か。
江戸から明治にかけて江戸の人々に親しまれた松連寺も、明治6年(1873)の廃仏毀釈で廃寺となる。その後明治18年には遣水の生糸商人青木某が売りに出た寺を買い取り、庭園を一般に公開。「百草園」という名称もこの時に名付けられた、とか。この百草園も大正の大不況で維持できなくなり荒れるに任せる状態に。現在の百草園は昭和34年、京王帝都電鉄が買収し整備し、往時を偲ばせる趣の庭園としたものである、と。

百草八幡
庭園を散策し、成り行きで百草八幡に。入り口まで戻らなくても直接神社に進む門があった。この神社の歴史は古い。康平5年(1062)、奥州征伐の途中、この地を訪れた源頼家・義家親子が、武運長久を祈って八幡大菩薩の木像を奉納したのがはじまり。その後。鎌倉期に鎌倉の鶴ヶ岡八幡を勧請し百草八幡となる。この神社には阿弥陀如来像が伝わる。頼朝が源氏の祈願寺となった真悲願寺に寄進したもの。神社に仏像とはこれ如何に、というのは、真慈悲寺や松連寺と一帯となった神仏混淆・習合の故。
ところで散歩の折々に源頼義・義家親子の話に出会う。はじめの頃は、またか、などと思っていたのだが、先日足立区を歩いた折、この思いを改めた。源頼義・義家親子の因縁の地を結ぶと、どうやら奥州古道の道筋が現れてきた。ものごとには、それなりの理由がある、ということだろう。

百草観音堂
本殿を下り鳥居下に。どちらに進むか少々考える。地図をチェックすると高幡不動から南に延びる多摩都市モノレールの程久保駅の近くに日野市郷土資料館がある。どの程度の施設かわからないのだが、とりあえずそこに向かうことに。
鳥居下を南北に走る百草園通り、この道は昔の鎌倉街道とも呼ばれているようだが、ともあれ道筋を進む。鳥居下から南は下り坂。マシイ坂と呼ばれる。名前の由来は桝井、から。往古、このあたりに湧水があり、その湧水源を桝井と呼んだ。マシイは桝井の訛ったもの。坂の途中に洋画家・小島善太郎氏の邸宅。青梅に美術館がある。
道なりに進む。前を進む如何にも散歩大好きといった趣の方が道脇に上る。後に続く。「武相九番百観音札所」とある。石段を上ると、こじんまりとした堂宇。百草観音堂があった。お堂は昭和59年に改修。その昔は藁屋根・土蔵造りのお堂であった、とか。本尊は聖観音像。もとは真慈悲寺にあったもの。寺がなくなった後、地元の人によって護られ倉沢の百草観音として親しまれてきた。武相観音めぐりは12年に一度、卯歳に開扉され盛大に札所巡りが行われる、とか。

ちょうまんぴら緑地
観音堂を先に進むと風景はのどかな里山の景観から一変して住宅街となる。南に下り、帝京大学サッカー場手前を右に折れ道なりに進む。名前に惹かれて「ちょうまんぴら緑地」に。案内をメモ;寒い北国をさけて渡ってくる「つぐみ」を土地の言葉で「ちょうまん」という。「ちょうまんぴら」は「ちょうまん」が棲みついた「たいら(平)」の意。つぐみは秋の終わりごろからこのあたりの雑木林に住みついて、冬を過ごした。昭和四十二年(一九六七年)頃までは、このあたりはつぐみの楽園といってよかった、と。

百草団地
道脇の緑地を見やり、少し北に折り返し日本信販住宅交差点をへて日本信販住宅入口交差点に。道はT字路にあたる。北に進めば川崎街道の三沢交差点。南に下れば帝京大学キャンパスから清鏡寺を経て野猿街道の大塚に出る。
日野市郷土資料館のある程久保への道は百草団地をU字に迂回する外周道路となっているが、ここはショートカットを試みる。団地内を横切り外周道路に。道は谷に向かって下りていく。谷筋の向こうに開ける三沢地区の景観はのどかで美しい。三沢という地名は湯沢、中沢、小沢といった三つの沢があったから。ちなみに、三沢には戦国時代、小田原北条の武士団が転住し三沢衆と称した、と。

高幡台団地
下りきったところが湯沢橋。百草台団地からの比高差は20mといったところ。橋を渡り、再び台地を少し上る。上りきったとことが高幡台団地のバス停あたり。道なりに坂を下る。下り切れば程久保川筋・程久保橋に出る。目的地の日野市郷土資料館は坂の途中から左に分かれる。坂道を跨ぐ陸橋を渡り、南西に進む。道は尾根筋といったもの。道の北は崖。とはいうものの、崖一面住宅がびっしり。程久保川の谷地を隔ててた向かいの丘陵も家並みで埋まっている。

日野市郷土資料館
高幡城址のある丘陵を見やりながら進む。ほどなく日野市郷土資料館。廃校になった学校の一部を施設としている、よう。民具、農具といった展示が教室に並べられている。未だ整理の過程といった案配である。郷土史に関する資料や書籍などは手に入らなかった。

中の台公園
郷土資料館を離れ、ゴールの高幡不動に向かう。先ほど左に折れてきた坂道の分岐まで戻るもの味気ない。結構な崖地、といっても住宅でびっしりの崖地ではあるが、どうせのことなら成り行きで住宅値の中の道を下ることに。
道なりに進むと中の台公園。案内をメモ;「下程久保から南に深く入り込んだ大きな谷戸を「がんぜき」と呼んだ。がんぜきの西隣に雑木林を切り開いた山畑があり、それを中の台と読んだ。西のくろどん(九朗どの)の台地、と東の八幡台の中間にあった、から。雑木林には狐が棲み、昭和20年代まで畑を荒らした、と。公園は中の台でも「がんぜき」寄りの山上尾根近くにあたる。三沢八幡社前および下程久保から湯沢をへて落合に通じる古道があった」、と。
がんぜき、って熊手の意味のあるのだが、何か関係があるのだろう、か。不明である。ちなみに程久保の地名の由来だが、程=保土+久保=窪から、との説がある。文字
からすれば、常に土地を保持しなければ耕地を保てない、といった窪地といったところ。地形を見れば大いに納得。

かくれ穴公園
さらに成り行きで坂をくだる。と、道脇に公園の案内文。「かくれ穴公園(程久保1-749-2)」:「三沢の八幡台と程久保のくろどん(九朗どの)台との中間にあり、下程久保の台と呼ばれた高台で農家が3軒あった。公園の西側畑の畦にあった赤土の横穴には、九朗判官が奥州に逃れるとき隠れたという伝説がある」、と。

高幡城址
なりゆきでどんどんくだる。線路に突き当たる。京王動物園線だろう。線路に沿って細路を辿り車道に。坂を下りきり程久保橋を渡る。このまま北に進み川崎街道に出れば高幡不動駅はすぐそば。が、前方にそびえる高幡城址のある丘陵がちょっと気になる。先日高幡城址を歩いたのだが、今ひとつ地形の全体像が「つかめ」ない。ということで、多摩都市モノレールの走る高架下を横切り、三沢4丁目を成り行きで丘陵に向かう。成り行きで進んだ割には、ドンぴしゃで丘陵に上る散策路に当たる。坂を上り、再度高幡城址の周囲を歩き地形の全体像をつかみ直し、尾根道を南平の住宅街に辿り、多摩丘陵自然公園の西縁を下り一路高幡不動駅に。本日の散歩はこれでお終いとする。

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