10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、将門は京でのよき理解者である太政大臣・関白である藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司として下総に戻る。相馬の御厨は取手の北西、関東常磐線・稲戸井駅近く米ノ井・高井戸辺りにあり、将門は館を取手の東、守谷に構えた、と。(ここで言う相馬の御厨とは千葉氏が元治元年(1124)その任を受けた正式な「相馬御厨」とは異なるが、便宜上「相馬の御厨」で以下メモする)。
そもそも、この地は将門一門・遠祖のゆかりの地。平将門の祖である桓武天皇の第四子葛原親王は9世紀の中頃、常陸の大守に。遥任であり任地に赴くことはなかったが、その孫の高望王は上総介となり東下。朝敵を平らげる、ことより「平」姓を賜る。高望王は任地である上総の四周を固めるべく、長子の国香は下総国境の菊間(鎮守府将軍)、二男の良兼は上総の東北隅の横芝、三男の良将は下総の佐倉に、四男良繇(よししげ)は上総東南隅の天羽に館を構える。 将門は三男の良将の子である。良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘と結ばれたが、犬養家は「防人部領士(さきもりことりつかい)」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものである。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅の南にある寺田の辺り。その館は先回の散歩で訪れた戸頭神社辺り、といった説のほか、本日歩く取手市本郷の東漸寺の辺りにあった、との説もある。
本郷地区に西には、「駒場」の地名も残る。戦士に必要な馬術を訓練した地の名残ではあろう。犬養氏の領地は将門が下司となった相馬の御厨の東隣り。利根川以北の相馬郡の東は犬養家の所領、西は御厨といったところである。将門が京より戻った頃、父・良将の旧領は、大半が叔父の国香や良兼らによって蚕食されていた、と言う。父の旧領を回復することもさることながら、伯父達の攻勢の中、私君・藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司職を忠実に勤め、荒地・湿地を開墾し勢力を拡大するにも、傍に犬養氏が拠点を構えるのは、さぞかし心強かったことではあろう。
本日の散歩は、若き日々の将門が力を養った相馬の御厨や母の実家である犬養家の所領地であった一帯を辿ることになる。将門と言えば、その本拠は豊田郡鎌輪(下妻市)であり、猿島郡岩井(板東市)との印象が強いが、それは伯父達との争いに端を発する天慶の乱の展開により、本拠を移したことによる(天慶の乱のあれこれのメモはこちら)。成り行き任せで始めた下総相馬の将門ゆかりの地を巡る散歩も、守谷での散歩を含め5回にもおよぶと、散歩の前におおよそのテーマが見えるようになってきた。
本日のルート:関東常総線・稲戸井駅>神明遺跡>神明神社>慈光院>香取八坂神社>高源寺>東光寺>高井城址>妙見八幡宮>妙音寺>小貝川の堤防>水神宮>延命寺>岡神社・大日山古墳>仏島山古墳>白姫山>桔梗田>大山城址>とげぬき地蔵>東漸寺>春日神社>西取手駅
関東常総線・稲戸井戸駅
ささやかなる稻戸井駅で下車。米ノ井が、米が井戸から湧き出た、との伝説のように、稻戸井も稲が湧き出た伝説でもあるのかと思ったのだが、この地名は村の合併伝説でよくあるパターンでできたもの。明治22年(1889),戸頭村が米ノ井村、野々井村、稻村と合併した時に,それぞれの村の一字を採ってつくった地名であった。
神明遺跡
駅を下り、神明神社に向かうと神社手前の畑の脇に木標が立つ。案内を読むと神明遺跡、と。縄文後期の土器が発掘されたようだが、現在遺構は残らない。この辺りは小貝川から入り込んだ大きな谷津の奥にある、標高23mの台地。小貝川の水を避けながら、その水を利用できるロケーションに縄文の人々が生活をしていたのだろう、か。
そもそも、この地は将門一門・遠祖のゆかりの地。平将門の祖である桓武天皇の第四子葛原親王は9世紀の中頃、常陸の大守に。遥任であり任地に赴くことはなかったが、その孫の高望王は上総介となり東下。朝敵を平らげる、ことより「平」姓を賜る。高望王は任地である上総の四周を固めるべく、長子の国香は下総国境の菊間(鎮守府将軍)、二男の良兼は上総の東北隅の横芝、三男の良将は下総の佐倉に、四男良繇(よししげ)は上総東南隅の天羽に館を構える。 将門は三男の良将の子である。良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘と結ばれたが、犬養家は「防人部領士(さきもりことりつかい)」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものである。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅の南にある寺田の辺り。その館は先回の散歩で訪れた戸頭神社辺り、といった説のほか、本日歩く取手市本郷の東漸寺の辺りにあった、との説もある。
本郷地区に西には、「駒場」の地名も残る。戦士に必要な馬術を訓練した地の名残ではあろう。犬養氏の領地は将門が下司となった相馬の御厨の東隣り。利根川以北の相馬郡の東は犬養家の所領、西は御厨といったところである。将門が京より戻った頃、父・良将の旧領は、大半が叔父の国香や良兼らによって蚕食されていた、と言う。父の旧領を回復することもさることながら、伯父達の攻勢の中、私君・藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司職を忠実に勤め、荒地・湿地を開墾し勢力を拡大するにも、傍に犬養氏が拠点を構えるのは、さぞかし心強かったことではあろう。
本日の散歩は、若き日々の将門が力を養った相馬の御厨や母の実家である犬養家の所領地であった一帯を辿ることになる。将門と言えば、その本拠は豊田郡鎌輪(下妻市)であり、猿島郡岩井(板東市)との印象が強いが、それは伯父達との争いに端を発する天慶の乱の展開により、本拠を移したことによる(天慶の乱のあれこれのメモはこちら)。成り行き任せで始めた下総相馬の将門ゆかりの地を巡る散歩も、守谷での散歩を含め5回にもおよぶと、散歩の前におおよそのテーマが見えるようになってきた。
本日のルート:関東常総線・稲戸井駅>神明遺跡>神明神社>慈光院>香取八坂神社>高源寺>東光寺>高井城址>妙見八幡宮>妙音寺>小貝川の堤防>水神宮>延命寺>岡神社・大日山古墳>仏島山古墳>白姫山>桔梗田>大山城址>とげぬき地蔵>東漸寺>春日神社>西取手駅
関東常総線・稲戸井戸駅
ささやかなる稻戸井駅で下車。米ノ井が、米が井戸から湧き出た、との伝説のように、稻戸井も稲が湧き出た伝説でもあるのかと思ったのだが、この地名は村の合併伝説でよくあるパターンでできたもの。明治22年(1889),戸頭村が米ノ井村、野々井村、稻村と合併した時に,それぞれの村の一字を採ってつくった地名であった。
神明遺跡
駅を下り、神明神社に向かうと神社手前の畑の脇に木標が立つ。案内を読むと神明遺跡、と。縄文後期の土器が発掘されたようだが、現在遺構は残らない。この辺りは小貝川から入り込んだ大きな谷津の奥にある、標高23mの台地。小貝川の水を避けながら、その水を利用できるロケーションに縄文の人々が生活をしていたのだろう、か。
神明神社
畑地の畔道とおぼしき小路を辿り鎮守の森に佇む神明神社に。この神社は長治元年(1104)、将門の後裔である相馬文国が伊勢神宮より勧請した、と。米ノ井神明神社と同じく、この地に神明神社があるということは、この辺り一帯が御厨の地であった、ということのエビデンスのひとつではあろうが、それよりなにより気になったのは、相馬分国って誰?
下総平氏の後裔である千葉氏の流れを汲む相馬氏にはそれらしき名前が見当たらない。チェックすると、相馬文国って、将門の子である平将国の子とのこと。将門敗死の時、幼少の将国は常陸国信太郡に落ち延びた、とか。信太の地は常陸国、現在の茨城県稲敷郡阿見町、美浦町の全域と土浦、稲敷。牛久市の一部である。将国は陰陽師の安部清明である、との説もある。
相馬文国はその将国の子供。江戸時代初期につくられた下総相馬氏の「相馬当家系図」には、「将門の子将国が信太郡に逃れて信太氏を名のり、その後、将国の子文国(信太小太郎)が流浪するものの、その子孫は相馬郡にもどり、相馬氏を名のった」とされる。
文国の流浪譚は中世の「幸若舞」のひとつである『信夫』のストーリーをとったもの、とも言われる。『信太』は、将門の孫である文国と姉千手姫の貴種流離譚。文国が姉千手姫の嫁いだ小山行重(将門を討った藤原秀郷の子孫とされる)から所領を奪われ、その後は人買い商人に売られ、塩汲みに従事させられるなど諸国を流浪しながらも、その貴種である素性が認められ小山行重を攻め滅ぼし、相馬郡で家系栄える、といったもの。どうみても、山椒大夫と将門伝説が合体して造られたものではあろう。
相馬分国については、将門敗死の後、その子孫は流刑に処せられたが、文国のときに赦されて常陸国に住み、さらに下総国相馬郡に帰った、との説もある。この神明神社を勧請したとされる相馬文国は、かくのごとき「歴史」を踏まえてこの地に名を残しているのであろう。
慈光院
神明神社を離れるとほどなく慈光院。境内、と言っても、これといった「境」があるわけでもなく、地域の集会所が本堂脇にある、といった素朴な風情のお寺さま。その「境内」には石碑、石塔が結構多く並ぶ。参道の右手には文政2年(1829)の「廻国塔」と昭和や平成に建てられた聖観音像、坂東33観音巡拝記念碑、秩父34観音霊場巡拝記念碑、西国33観音霊場巡拝記念碑が建つ。 さらにその先には、参道の右側には石塔が並んでいる。六地蔵とその中央に馬頭観音像(造立年不明)、右端には寛政8年(1796)の光明真言百万遍供養塔が並ぶ。
境内左手の木の根元にはささやかな祠。中には貞享4年(1687)作の大日如来浮彫の十六夜塔が祀られる。本堂には阿弥陀如来が祀られる、とか。
香取八坂神社
慈光院を離れ、道を進むとT字路。右に折れ道脇に大きな敷地の(株)東京鉄骨橋梁取手工場を見やりながら進み、県道261号と合流し、県道が南に折れる辺りで県道を離れ道を北に進むと、取手市下高井の台地端に香取八坂神社がある。
鳥居手前にいくつかの石塔が並ぶ。庚申塔とか石尊大権現といった、よく見る石塔の中に、「尾鑿山大権現」と読める石塔があった。チェックすると、栃木県鹿沼市のある賀蘇山神社の鎮座する山の名前。尾鑿山(おざくさん)と読む。千年の歴史を秘めた賀蘇山神社は古くから尾鑿山」と呼び親しまれてきた、とか。
畑地の畔道とおぼしき小路を辿り鎮守の森に佇む神明神社に。この神社は長治元年(1104)、将門の後裔である相馬文国が伊勢神宮より勧請した、と。米ノ井神明神社と同じく、この地に神明神社があるということは、この辺り一帯が御厨の地であった、ということのエビデンスのひとつではあろうが、それよりなにより気になったのは、相馬分国って誰?
下総平氏の後裔である千葉氏の流れを汲む相馬氏にはそれらしき名前が見当たらない。チェックすると、相馬文国って、将門の子である平将国の子とのこと。将門敗死の時、幼少の将国は常陸国信太郡に落ち延びた、とか。信太の地は常陸国、現在の茨城県稲敷郡阿見町、美浦町の全域と土浦、稲敷。牛久市の一部である。将国は陰陽師の安部清明である、との説もある。
相馬文国はその将国の子供。江戸時代初期につくられた下総相馬氏の「相馬当家系図」には、「将門の子将国が信太郡に逃れて信太氏を名のり、その後、将国の子文国(信太小太郎)が流浪するものの、その子孫は相馬郡にもどり、相馬氏を名のった」とされる。
文国の流浪譚は中世の「幸若舞」のひとつである『信夫』のストーリーをとったもの、とも言われる。『信太』は、将門の孫である文国と姉千手姫の貴種流離譚。文国が姉千手姫の嫁いだ小山行重(将門を討った藤原秀郷の子孫とされる)から所領を奪われ、その後は人買い商人に売られ、塩汲みに従事させられるなど諸国を流浪しながらも、その貴種である素性が認められ小山行重を攻め滅ぼし、相馬郡で家系栄える、といったもの。どうみても、山椒大夫と将門伝説が合体して造られたものではあろう。
相馬分国については、将門敗死の後、その子孫は流刑に処せられたが、文国のときに赦されて常陸国に住み、さらに下総国相馬郡に帰った、との説もある。この神明神社を勧請したとされる相馬文国は、かくのごとき「歴史」を踏まえてこの地に名を残しているのであろう。
慈光院
神明神社を離れるとほどなく慈光院。境内、と言っても、これといった「境」があるわけでもなく、地域の集会所が本堂脇にある、といった素朴な風情のお寺さま。その「境内」には石碑、石塔が結構多く並ぶ。参道の右手には文政2年(1829)の「廻国塔」と昭和や平成に建てられた聖観音像、坂東33観音巡拝記念碑、秩父34観音霊場巡拝記念碑、西国33観音霊場巡拝記念碑が建つ。 さらにその先には、参道の右側には石塔が並んでいる。六地蔵とその中央に馬頭観音像(造立年不明)、右端には寛政8年(1796)の光明真言百万遍供養塔が並ぶ。
境内左手の木の根元にはささやかな祠。中には貞享4年(1687)作の大日如来浮彫の十六夜塔が祀られる。本堂には阿弥陀如来が祀られる、とか。
香取八坂神社
慈光院を離れ、道を進むとT字路。右に折れ道脇に大きな敷地の(株)東京鉄骨橋梁取手工場を見やりながら進み、県道261号と合流し、県道が南に折れる辺りで県道を離れ道を北に進むと、取手市下高井の台地端に香取八坂神社がある。
鳥居手前にいくつかの石塔が並ぶ。庚申塔とか石尊大権現といった、よく見る石塔の中に、「尾鑿山大権現」と読める石塔があった。チェックすると、栃木県鹿沼市のある賀蘇山神社の鎮座する山の名前。尾鑿山(おざくさん)と読む。千年の歴史を秘めた賀蘇山神社は古くから尾鑿山」と呼び親しまれてきた、とか。
木々に覆われた参道を進む。天満宮や三峰神社、琴平神社などの小祠が佇む。ささやかな拝殿にお参り。現在は香取八坂神社と呼ばれるが、明治の迅速測図には「香取祠」と記されている、と。因みに、迅速測図とは明治初期から中期にかけて作成された地図。明治政府は各地の反乱の鎮圧に際し、地図が無いことが作戦計画の障害となるため、短期間でつくられた簡易地図である。
ところで、神社は、香取八坂神社のある台地の傍、低地を隔てた東隣にある高井城の城主・相馬小次郎の氏神だといわれている。相馬小次郎は将門からはじまり、多数いるのだが、この場合の相馬小次郎とは、長治年間(1194-1106)、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国のことではあろう。重国は上でメモした相馬文国から数えて2代後、文国の孫、ということであろう。
ところで、神社は、香取八坂神社のある台地の傍、低地を隔てた東隣にある高井城の城主・相馬小次郎の氏神だといわれている。相馬小次郎は将門からはじまり、多数いるのだが、この場合の相馬小次郎とは、長治年間(1194-1106)、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国のことではあろう。重国は上でメモした相馬文国から数えて2代後、文国の孫、ということであろう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
高源寺
香取八坂神社からすぐ東に「高源寺」がある。この寺は、承平元年(931)将門が釈迦如来の霊験によって建立したと伝えられる。開基は応安元年(1368)、相馬七左衛門胤継とその後裔がこの地を治め、鎌倉の建長寺より住職を招いたとの名刹ではある。慶安2年(1694年)には徳川三代将軍家光より三石二斗の朱印地を賜っている。
相馬胤継とは、相馬師常を祖とする下総相馬家の3代頃の人物。下総相馬家とは、上でメモしたように、将門の流れをくみ、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国の2代後の師国に子がなかったため、平良文の流れをくむ下総千葉氏より師常が養子となってできたもの。平将門とその伯父であり、将門のよき理解者であった平良文の流れが合わさったブランドである。
境内には「地蔵けやき」がある。樹齢1600年と言われる巨大な欅の根元から数メートルほど幹の中が失われ、空洞となっており、そこにお地蔵さまが佇む。開口部の脇にも穴が開いており、昔はお地蔵様に安産のお参りをし、穴を通り抜ければ安産間違いなし、ということではあったが、現在は樹木保護のため、木の周囲は立ち入りが禁止され気の通り抜けはできなくなっている。
○広瀬誠一郎
高源寺には、この下高井の地に生まれ、利根運河実現に生涯をかけた広瀬誠一郎が眠る。いつだったか利根運河を辿ったことがある。流山辺りで利根川と江戸川を直接結ぶために開削した人工の運河であるが、周辺に谷戸の景観が残る、誠に美しい運河であった。
利根運河は明治21年(1888)に起工式をおこない、2年の歳月をかけて完成した総延長8キロの運河ではある。利根川の東遷事業により、利根川と江戸川が関宿辺りで結ばれ、内川廻りと称されれる船運路が完成したわけだが、江戸末期には関宿当たりに砂州ができ、船運が困難となる。
結局、先回の散歩でメモした利根川の「七里の渡し」の辺りにある「布施河岸」荷を下し、陸路を江戸川筋まで運ぶことになるのだが、それを改善すべく企画されたのが「利根運河」。明治14年(1881)、当時茨城県議会議員(翌年北相馬郡長)であった広瀬誠一郎は茨城県令であった人見寧に利根運河の開削を提言。明治16年(1883)には内務省もオランダ人技師ムルデルに調査・計画書の立案を依頼するなど動きもあったが、財政上の理由もあり明治20年(1887)には政府事業を断念。明治19年(1886)に相馬郡長の職を辞し、利根運河に全精力を注ぐ予定であった広瀬氏は明治21年(1888)には株式を公募し民間の事業として工事を開始することになる。運河完成とともに、最盛時は年間3700余隻、1日平均100余隻の船が往来した運河も大正時代になると鉄道輸送などにその役割を譲りゆくことになった。
下高井薬師堂
高源寺から集落を少し南に進むと、火の見櫓の脇に下高井の薬師堂があった。境内と言った構えはないが、本堂脇にはささやかな太子堂、光音堂といった祠が建つ。光音堂は新四国相馬霊場を開いた光音禅師を祀る。薬師堂は新四国相馬霊場50番。愛媛県の繁多寺の移し寺、とのこと。
堂宇に祀られる薬師如来は文明11年(1479)の作、と言う。境内の庚申塔、廻国塔、日本廻国塔などを見やりながら次の目的地である高井城址へと向かう。
香取八坂神社からすぐ東に「高源寺」がある。この寺は、承平元年(931)将門が釈迦如来の霊験によって建立したと伝えられる。開基は応安元年(1368)、相馬七左衛門胤継とその後裔がこの地を治め、鎌倉の建長寺より住職を招いたとの名刹ではある。慶安2年(1694年)には徳川三代将軍家光より三石二斗の朱印地を賜っている。
相馬胤継とは、相馬師常を祖とする下総相馬家の3代頃の人物。下総相馬家とは、上でメモしたように、将門の流れをくみ、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国の2代後の師国に子がなかったため、平良文の流れをくむ下総千葉氏より師常が養子となってできたもの。平将門とその伯父であり、将門のよき理解者であった平良文の流れが合わさったブランドである。
境内には「地蔵けやき」がある。樹齢1600年と言われる巨大な欅の根元から数メートルほど幹の中が失われ、空洞となっており、そこにお地蔵さまが佇む。開口部の脇にも穴が開いており、昔はお地蔵様に安産のお参りをし、穴を通り抜ければ安産間違いなし、ということではあったが、現在は樹木保護のため、木の周囲は立ち入りが禁止され気の通り抜けはできなくなっている。
○広瀬誠一郎
高源寺には、この下高井の地に生まれ、利根運河実現に生涯をかけた広瀬誠一郎が眠る。いつだったか利根運河を辿ったことがある。流山辺りで利根川と江戸川を直接結ぶために開削した人工の運河であるが、周辺に谷戸の景観が残る、誠に美しい運河であった。
利根運河は明治21年(1888)に起工式をおこない、2年の歳月をかけて完成した総延長8キロの運河ではある。利根川の東遷事業により、利根川と江戸川が関宿辺りで結ばれ、内川廻りと称されれる船運路が完成したわけだが、江戸末期には関宿当たりに砂州ができ、船運が困難となる。
結局、先回の散歩でメモした利根川の「七里の渡し」の辺りにある「布施河岸」荷を下し、陸路を江戸川筋まで運ぶことになるのだが、それを改善すべく企画されたのが「利根運河」。明治14年(1881)、当時茨城県議会議員(翌年北相馬郡長)であった広瀬誠一郎は茨城県令であった人見寧に利根運河の開削を提言。明治16年(1883)には内務省もオランダ人技師ムルデルに調査・計画書の立案を依頼するなど動きもあったが、財政上の理由もあり明治20年(1887)には政府事業を断念。明治19年(1886)に相馬郡長の職を辞し、利根運河に全精力を注ぐ予定であった広瀬氏は明治21年(1888)には株式を公募し民間の事業として工事を開始することになる。運河完成とともに、最盛時は年間3700余隻、1日平均100余隻の船が往来した運河も大正時代になると鉄道輸送などにその役割を譲りゆくことになった。
下高井薬師堂
高源寺から集落を少し南に進むと、火の見櫓の脇に下高井の薬師堂があった。境内と言った構えはないが、本堂脇にはささやかな太子堂、光音堂といった祠が建つ。光音堂は新四国相馬霊場を開いた光音禅師を祀る。薬師堂は新四国相馬霊場50番。愛媛県の繁多寺の移し寺、とのこと。
堂宇に祀られる薬師如来は文明11年(1479)の作、と言う。境内の庚申塔、廻国塔、日本廻国塔などを見やりながら次の目的地である高井城址へと向かう。
高井城址
道を成り行きで進むと、道標があり、道を左に折れる。道なりに進むと台地を下り、左右を台地で囲まれた谷戸の低地に。一帯は高井城址公園として整備されている。
かつての湿地の面影を残す公園の左手の台地が高井城址。成り行きで比高差10mほどの台地へと上る。台地上への途中には広場らしきものがある。昔の枡形なのか、腰曲輪といった名残であろう、か。
道を成り行きで進むと、道標があり、道を左に折れる。道なりに進むと台地を下り、左右を台地で囲まれた谷戸の低地に。一帯は高井城址公園として整備されている。
かつての湿地の面影を残す公園の左手の台地が高井城址。成り行きで比高差10mほどの台地へと上る。台地上への途中には広場らしきものがある。昔の枡形なのか、腰曲輪といった名残であろう、か。
台地上の主郭部分はわりと広い広場となっており、周囲には土塁も残されていた。虎口あたりにある案内によると、小貝川の氾濫原に面した台地に立つこの城は、取手市内で最も大きいもの。築城の時期は不詳ではあるが、戦国時代後期の築城とされる。既にメモしたように、長治元年(1104)に将門の後裔・信太小次郎重国が、常陸信太郡からきてこの城を築き相馬家を称した、と。なお、重国の子の胤国、その子の師国に子が無きが故に、下総千葉氏より養子として相馬家を継いだ師常が下総相馬家の祖となった。流浪を重ねた将門の後裔が下総平家直系の千葉氏と結びつき、「下総相馬家」というブランド家系をなした、ことは上でメモしたとおり。
ところで、「高井城」という名称であるが、下総相馬家が当初、館をどこに設けたかは定かではない。定かではないが、鎌倉初期にはその主城を守谷城に移したようではある。で、高井城は下総相馬家の一族が守谷城の支城として詰めていたようではあるが、天正年間(1573から1592)の頃には高井の姓を名乗るようになっていた、と言う。永禄9年(1567)の「北条氏政書状写」には、高井氏が相馬氏の支配下に置かれてた、と記載されている、とか。
秀吉の小田原後北条征伐に際しては、高井氏は下総相馬家の一員として小田原後北条方に与し、相馬氏は滅亡し、高井城も廃城となった。その後の高井一族は、最後の高井城主の子は小田原藩大久保家に仕え相馬氏を称したり、家康の旗本として取り立てられたりしているようである。
妙見八幡宮
小貝川の氾濫原のあった台地下に下り、高井城の風情などを低地から眺め、再び台地に戻り高井城址脇の道を通り妙見八幡に。航空地図を見るに、主郭の広場のすぐ東といった場所ではある。
構えは素朴。相馬家の氏神、といったことではあったので、もっと大きなものかとは思っていたのだが、鳥居とささやかな社殿が建つのみではあった。境内には石祠や石塔、石仏群が多く建つ。秋葉大権現、水神宮、道祖神、雷神社、如意輪観音、三峰大権現、二十三夜塔、といったものである。地域内にあったものを合祀したものか、道路工事などの際にこの地に寄せ集められたものであろう、か。
○妙見信仰
妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。 妙見信仰は経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を唱える。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、妙見信仰がカバーする領域は多種多様。お札の原型とされる護符も民間への普及には役立った、とか。 かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていった。上でメモしたように、下総相馬氏は鎌倉時代、平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称したものであり、氏神として祀ったものであろう。
妙音寺
妙見八幡宮で休憩しながら地図を見るに、すぐ近くに新四国相馬霊場第52番妙音寺がある。ちょっと立ち寄りと、妙見八幡宮横の道を入るにお寺らしき建物は見当たらず、わずかに小高いところにふたつの小祠があった。太子堂と光音堂とある。光音堂とは新四国相馬霊場を開いた観覚光音禅師を祀るお堂。
○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。
小貝川の堤防
大師堂、光音堂にお参りし、次の目的である小貝川の堤防へと鬱蒼とした木々の間の小道を進み台地を下る。台地を下ったところを流れる小貝川排水路を越え、堤防への道を探すに、眼前には畑地が広がるが、それらしき道筋は見当たらない。仕方なく、畑地の畦道を探し畑地を横切り小貝川の堤防に取りつく。 小貝川は栃木県那須烏山市の子貝ケ池にその源を発し、市貝、益子、真岡、常総、つくば、つくばみらい、守谷、取手、竜ケ崎、利根のといった市町村を経て利根川に注ぐ。
秀吉の小田原後北条征伐に際しては、高井氏は下総相馬家の一員として小田原後北条方に与し、相馬氏は滅亡し、高井城も廃城となった。その後の高井一族は、最後の高井城主の子は小田原藩大久保家に仕え相馬氏を称したり、家康の旗本として取り立てられたりしているようである。
妙見八幡宮
小貝川の氾濫原のあった台地下に下り、高井城の風情などを低地から眺め、再び台地に戻り高井城址脇の道を通り妙見八幡に。航空地図を見るに、主郭の広場のすぐ東といった場所ではある。
構えは素朴。相馬家の氏神、といったことではあったので、もっと大きなものかとは思っていたのだが、鳥居とささやかな社殿が建つのみではあった。境内には石祠や石塔、石仏群が多く建つ。秋葉大権現、水神宮、道祖神、雷神社、如意輪観音、三峰大権現、二十三夜塔、といったものである。地域内にあったものを合祀したものか、道路工事などの際にこの地に寄せ集められたものであろう、か。
○妙見信仰
妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。 妙見信仰は経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を唱える。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、妙見信仰がカバーする領域は多種多様。お札の原型とされる護符も民間への普及には役立った、とか。 かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていった。上でメモしたように、下総相馬氏は鎌倉時代、平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称したものであり、氏神として祀ったものであろう。
妙音寺
妙見八幡宮で休憩しながら地図を見るに、すぐ近くに新四国相馬霊場第52番妙音寺がある。ちょっと立ち寄りと、妙見八幡宮横の道を入るにお寺らしき建物は見当たらず、わずかに小高いところにふたつの小祠があった。太子堂と光音堂とある。光音堂とは新四国相馬霊場を開いた観覚光音禅師を祀るお堂。
○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。
小貝川の堤防
大師堂、光音堂にお参りし、次の目的である小貝川の堤防へと鬱蒼とした木々の間の小道を進み台地を下る。台地を下ったところを流れる小貝川排水路を越え、堤防への道を探すに、眼前には畑地が広がるが、それらしき道筋は見当たらない。仕方なく、畑地の畦道を探し畑地を横切り小貝川の堤防に取りつく。 小貝川は栃木県那須烏山市の子貝ケ池にその源を発し、市貝、益子、真岡、常総、つくば、つくばみらい、守谷、取手、竜ケ崎、利根のといった市町村を経て利根川に注ぐ。
堤防から遠くに見える印象的な山容は筑波山であろう、か。また、右手を見ると、南東へと下ってきた小貝川が北東へと流路を変えるその先に、小貝川の流れを堰止める岡堰も見える。小貝川が大きく流路を変え、水勢を抑えた「溜まり」のその先を選んで堰をつくったように思える。
岡堰
岡堰は江戸の頃、寛永7年(1630)に関東郡代である伊奈半十郎忠治によって新田開発を目的としてつくられた。堰をつくるに先立ち、伊奈半十郎忠治は現在のつくばみらい市寺畑のあたりで小貝川に乱流・合流していた鬼怒川を分離すべく大木丘陵を開削。鬼怒の流れを利根川(当時は常陸川)に落とし、水量の安定した小貝川の治水工事と並行し堰を設け、堰から引かれた用水によって小貝川の東、旧伊奈町を含む現在のつくばみらい市一帯の氾濫原を「谷原三万石」「相馬領二万石」とも称される新田となした。小貝川には岡堰の他、福岡堰、豊田堰があり、関東の三大堰とも称された。
岡堰は江戸の頃、寛永7年(1630)に関東郡代である伊奈半十郎忠治によって新田開発を目的としてつくられた。堰をつくるに先立ち、伊奈半十郎忠治は現在のつくばみらい市寺畑のあたりで小貝川に乱流・合流していた鬼怒川を分離すべく大木丘陵を開削。鬼怒の流れを利根川(当時は常陸川)に落とし、水量の安定した小貝川の治水工事と並行し堰を設け、堰から引かれた用水によって小貝川の東、旧伊奈町を含む現在のつくばみらい市一帯の氾濫原を「谷原三万石」「相馬領二万石」とも称される新田となした。小貝川には岡堰の他、福岡堰、豊田堰があり、関東の三大堰とも称された。
現在の岡堰は明治19年(1886)に新式の水門をもつ堰となるも、洪水で流され明治31年から32年(1898-1899)にかけて大修理が行われ,また昭和になって水門や洗堰がつくられるなどの経緯をへて平成8年(1996)に完成したものである。因みに、平成の堰造成工事で結構伐採されたようではあるが、明治15年(1882)には高源寺で出合った当時の相馬郡長であった広瀬誠一郎によって桜の苗木が堤防沿いに植樹し桜の名所となっていたようである。
水神岬
堤防を進むと、小貝川の流路がU字型に変わる辺りに水神岬という100mほどの突堤があった。案内によれば、「溜まり部分」の中洲などと相まって、水流を分散させ堤防を護る役割を果たしている、と。岬の先端には水神宮が祀られていた。
「岡堰用水組合では水神宮のお祭りとともに、上州榛名神社に代参を立てたことが江戸時代の記録に残る。山岳信仰の通有性はあるにしても、特に榛名山を選んだのは山を水源と仰ぐ心であろう。水は二万石の命である」と案内にあった。それにしても何故榛名山?榛名山系の第二の高さをもつ山の名が相馬山と呼ばれるが、この山と相馬、将門に関するなにかの因縁でもあるのだろう、か。不詳である。
延命寺
小貝川の堤防を離れ、再び台地に戻る。小貝排水路を跨ぐ橋を渡り、成り行きで道を進むと公園脇に延命寺があった。山門はなく、広い境内入口にはお寺さまが住む家なのだろうか、今風の2階屋があり、なんとなく遠慮しながら境内に入る。
境内を住むと正面に本堂があり、地蔵菩薩が祀られる、と。境内右手には大師堂や水子子育地蔵菩薩像が安置される。寺宝も多く釈迦涅槃絵、三仏画、十三仏画、二十八仏画が昭和53年に取手市指定有形文化財に指定されているとのことである。古き趣は残らないが、落ち着いたお寺さまではある。
このお寺さまにも将門ゆかりの縁起が残る。12世紀の初めころ、紀州根来の高僧の夢枕に将門が信仰していた地蔵尊が現れ、東国に下り、我(地蔵尊)を祀り、将門ゆかりの者や衆生を済度すべし、と。その日から10年後がたったある日、再び地蔵尊が現れ同じお告げを。僧は決心し東国に下り、地蔵尊の場所を探しに将門ゆかりのこの地を訪れる。
その夜のこと、台地の麓に光が見えたため、その地を辿ると、草木が生い茂った島に塚がある。土人の言うに、「この地に将門の霊廟があった」、とのこと。それではと、その地を探すと目指す地蔵菩薩があった。根来の上人はその場所を「仏島山(ぶっとうさん)」と名付け、一寺を建立し「親王山延命寺」と名付けた。延命寺はその後台地下より現在の地に移った、と。
将門ゆかりの話といえば、延命寺の境内には、将門の愛馬を弔った「駒形さま」がある、と。少々遠慮しながら正面入ってすぐ左の老木の根元にささやかな石祠があった。それが駒形さまではあろう。また、本堂右手の小高い場所に三峰権現などの石祠と並んで元禄年間作の「将門大権現」の石祠もある、と言う。また、「七人武者塚」といわれている七基の石塔があるとのことだが、民家風の境内故、あれこれ彷徨うことを遠慮したため、将門大権現は見逃した。
○青麻神社
少し脱線。将門大権現の石祠のあるところに「青麻神社」の石塔もある、と言う。『将門地誌;赤城宗徳(毎日新聞社)』に以下のような記載があった:「東大寺にある養老5年(722)の戸籍に、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とある。倉は蒼の転化したものであり,「億布(おふ)」は「乙子」の地名でメモしたように、多くの麻布が産出された所の意味、と言う。つまりは、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とは、「青い麻が一望千里に植えられ、麻がたくさん取れる郷」のことである、と。
それはそれとして、「青麻」>「蒼麻」の読みは「そうま」ではあろう。当時はカナ文字が主体で漢字が思いつきであてられていたようである。元は「青い麻」の意味をもつ「そうま」という音に、下総の草原を駆ける馬を想起し、「相馬」の文字があてられたのではないだろう、か。なお、相馬の文字が最初に記されるのは『万葉集』、と言う。
岡不知
延命寺を離れ、県道251を渡り、台地を成り行きで岡神社へと向かう。畑地の脇の農道、竹林、林など本当に岡神社へ辿れるものかと、少々不安になりながらも進む。その昔、この辺りは「岡不知(しらず)」と呼ばれていた、と言う。いつだったか市川を散歩したとき、「八幡不知(やわたしらず)の森」に出合った。現在はささやかな竹林に過ぎないが、往昔「藪不知(やぶしらず)」ともよばれ、藪が深く祟りがあり、一度は入れば二度と出られない、といった森であった、とか。この「岡不知」の森も昔は深い森ではあったのだろう。
また、これは偶然の一致ではあろうが、市川の「八幡不知森」には、天慶の乱の時、将門の仇敵平貞盛にまつわる伝説が残り、この地に入るものには必ず祟りがあるとの言い伝えがあった、とか。この「岡不知」の森も将門ゆかりの「何か」を護るため、人の出入りを禁じる「岡不知」の言い伝えが残ったのであろう、か。とはいうものの、市川の八幡不知森は、その地が「入会地」であったため。祟りの伝説をつくって人の出入りを禁じた、というのが実際の話であった、とも。因みに、取手の地名である藤代は岡不知の「不知」からの説もある。
堤防を進むと、小貝川の流路がU字型に変わる辺りに水神岬という100mほどの突堤があった。案内によれば、「溜まり部分」の中洲などと相まって、水流を分散させ堤防を護る役割を果たしている、と。岬の先端には水神宮が祀られていた。
「岡堰用水組合では水神宮のお祭りとともに、上州榛名神社に代参を立てたことが江戸時代の記録に残る。山岳信仰の通有性はあるにしても、特に榛名山を選んだのは山を水源と仰ぐ心であろう。水は二万石の命である」と案内にあった。それにしても何故榛名山?榛名山系の第二の高さをもつ山の名が相馬山と呼ばれるが、この山と相馬、将門に関するなにかの因縁でもあるのだろう、か。不詳である。
延命寺
小貝川の堤防を離れ、再び台地に戻る。小貝排水路を跨ぐ橋を渡り、成り行きで道を進むと公園脇に延命寺があった。山門はなく、広い境内入口にはお寺さまが住む家なのだろうか、今風の2階屋があり、なんとなく遠慮しながら境内に入る。
境内を住むと正面に本堂があり、地蔵菩薩が祀られる、と。境内右手には大師堂や水子子育地蔵菩薩像が安置される。寺宝も多く釈迦涅槃絵、三仏画、十三仏画、二十八仏画が昭和53年に取手市指定有形文化財に指定されているとのことである。古き趣は残らないが、落ち着いたお寺さまではある。
このお寺さまにも将門ゆかりの縁起が残る。12世紀の初めころ、紀州根来の高僧の夢枕に将門が信仰していた地蔵尊が現れ、東国に下り、我(地蔵尊)を祀り、将門ゆかりの者や衆生を済度すべし、と。その日から10年後がたったある日、再び地蔵尊が現れ同じお告げを。僧は決心し東国に下り、地蔵尊の場所を探しに将門ゆかりのこの地を訪れる。
その夜のこと、台地の麓に光が見えたため、その地を辿ると、草木が生い茂った島に塚がある。土人の言うに、「この地に将門の霊廟があった」、とのこと。それではと、その地を探すと目指す地蔵菩薩があった。根来の上人はその場所を「仏島山(ぶっとうさん)」と名付け、一寺を建立し「親王山延命寺」と名付けた。延命寺はその後台地下より現在の地に移った、と。
将門ゆかりの話といえば、延命寺の境内には、将門の愛馬を弔った「駒形さま」がある、と。少々遠慮しながら正面入ってすぐ左の老木の根元にささやかな石祠があった。それが駒形さまではあろう。また、本堂右手の小高い場所に三峰権現などの石祠と並んで元禄年間作の「将門大権現」の石祠もある、と言う。また、「七人武者塚」といわれている七基の石塔があるとのことだが、民家風の境内故、あれこれ彷徨うことを遠慮したため、将門大権現は見逃した。
○青麻神社
少し脱線。将門大権現の石祠のあるところに「青麻神社」の石塔もある、と言う。『将門地誌;赤城宗徳(毎日新聞社)』に以下のような記載があった:「東大寺にある養老5年(722)の戸籍に、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とある。倉は蒼の転化したものであり,「億布(おふ)」は「乙子」の地名でメモしたように、多くの麻布が産出された所の意味、と言う。つまりは、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とは、「青い麻が一望千里に植えられ、麻がたくさん取れる郷」のことである、と。
それはそれとして、「青麻」>「蒼麻」の読みは「そうま」ではあろう。当時はカナ文字が主体で漢字が思いつきであてられていたようである。元は「青い麻」の意味をもつ「そうま」という音に、下総の草原を駆ける馬を想起し、「相馬」の文字があてられたのではないだろう、か。なお、相馬の文字が最初に記されるのは『万葉集』、と言う。
岡不知
延命寺を離れ、県道251を渡り、台地を成り行きで岡神社へと向かう。畑地の脇の農道、竹林、林など本当に岡神社へ辿れるものかと、少々不安になりながらも進む。その昔、この辺りは「岡不知(しらず)」と呼ばれていた、と言う。いつだったか市川を散歩したとき、「八幡不知(やわたしらず)の森」に出合った。現在はささやかな竹林に過ぎないが、往昔「藪不知(やぶしらず)」ともよばれ、藪が深く祟りがあり、一度は入れば二度と出られない、といった森であった、とか。この「岡不知」の森も昔は深い森ではあったのだろう。
また、これは偶然の一致ではあろうが、市川の「八幡不知森」には、天慶の乱の時、将門の仇敵平貞盛にまつわる伝説が残り、この地に入るものには必ず祟りがあるとの言い伝えがあった、とか。この「岡不知」の森も将門ゆかりの「何か」を護るため、人の出入りを禁じる「岡不知」の言い伝えが残ったのであろう、か。とはいうものの、市川の八幡不知森は、その地が「入会地」であったため。祟りの伝説をつくって人の出入りを禁じた、というのが実際の話であった、とも。因みに、取手の地名である藤代は岡不知の「不知」からの説もある。
岡神社・大日古墳
岡不知の森を進むと台地の端辺りの小高い塚の上に岡神社があった。 石段を上り神社にお参り。熊野権現、八幡、鹿島、天神、稲荷の各社を合祀する。神社の建つ塚の周囲には多数の石塔、石碑、祠、灯篭などが並ぶ。
神社脇にある案内によると、この神社の建つ塚は古墳との説がある、と。「この古墳は岡台地の先端に造営された古墳で、高さ約二・八メートル、底径十八メートルの美しい古墳である。この古墳は未発掘の古墳で副葬品等は不明である。かつてこの付近から各種玉類・鉄鏃等が発見されたが、築造年代は古墳時代後期でないかといわれている。中・近世になって大日信仰が盛んになると、この墳丘に種々の石碑や石造仏の類が建てられたので、大日山の名はそれによってつけられたものであろう。現在この墳丘上に岡神社が創建されている」と案内にあった。地元ではこの古墳は将門の墓とも伝えられている。
塚の脇は広場となっているが、そこには将門の愛妾桔梗の前が住む「朝日御殿」があり、毎朝、日の出を拝み、将門の武運を祈った、と。朝日遥拝の話はともあれ、この岡神社のある辺りは台地の東端。縄文時代は台地の下は一面の香取の海。将門の時代も、守谷から台地上を進んだ「郷州街道」も、この地から先は舟便となる。香取の海は、龍ヶ崎や江戸崎、印旛や成田などの対岸にある台地で囲まれた灘であり、対岸からの敵襲に備える軍事上の要衝ではあったのだろう。桔梗の前の朝日御殿はともかく、将門の軍事拠点となる館か取手はあったのではないだろう、か。
仏島山古墳
岡神社を離れ、延命寺の縁起にも登場した島仏山古墳に向かう。岡神社から急な石段を下り、台地の縁に沿って台地の北側に戻り、岡集落の中を進むと民家の脇に、塚と言うのも少々憚られるような一角があり、そこが島仏山古墳とのこと。古墳自体は明治28年(1895)、岡堰の築堤と道路工事に際に古墳が発掘された、とか。
案内をまとめると、「美しい円墳で墳丘も高かったと言われるが、過去二回に亘って古墳の土砂を採取し、その形状は不詳。が、周囲の状況等から判断すると、径約三十メートルの円墳と推定される。また、遺物の出土状況から判断してこの墳丘は埴輪円筒をめぐらし、その上を美しい埴輪で飾った古墳であった、よう。
古墳の築造年代は、六世紀のもの。なお、明治二十八年学校敷地造成のため、土砂を採取した際に、石かく・骨片・刀剣・曲玉・鉄鏃・埴輪・埴輪円筒等出土したが、この多くは現在の国立博物館に納入された。また、昭和八年岡堰改良工事のため土砂を採取した時に出土した埴輪(四)、円筒埴輪(七)等も国立博物館に納入。本古墳に仏島山の名称がつけられたのは、古墳の周囲には堀をめぐらし一大島状をなしていたが、その後、中世になって墳丘上に仏像や石塔等が建立されたため」と言う。古墳は以前はもっと大きく、高さもあったようだが、学校用地の造成、岡堰の築堤などに際して土砂が採取され、現在の姿見となった。古墳の頂きの祠は将門神社、とも。
白姫山
仏島山古墳から表郷用水に沿って少し北西に進むと白姫山がある、と言う。表郷用水は岡堰から引かれた用水ではある。名前に惹かれて白姫山の辺りまで進むと荒れ果てた薬師堂と「岡台地と平将門」の説明板があった。「この岡台地は一望千里と言われる平坦な水田地帯の広がる町にあって、唯一の台地で古い歴史を秘めたところで もある。特に承平の乱(935~940)を起した平将門にまつわる史蹟が散在し伝説が語継がれてきた。 『将門にまつわる史蹟』として大日山古墳、朝日御殿跡、延命寺、仏烏山古墳が存在する」、と。白姫山の由来である「白姫祠」も見当たらなかった。ここに桔梗の前が住み、墓もあったと伝えられている、とのこと。
桔梗田
白姫山を離れ岡の台地に沿って岡神社の下を抜け、台地南側に出る。低地を隔てて大山の台地が見える。低地は岡台地と大山台地に挟まれた谷戸の趣き。低地の中ほどに相野谷川が流れる。門敗死の報を受け、愛妾桔梗前(正妻の「君の御前(常陸国真壁郡大国玉の豪族・平真樹の娘)が誅された後、正妻になったとも言われる桔梗前が身を投げた桔梗沼は相野谷川の傍にある、という。
川に沿って上流へと進む。川の周囲は北岸には一部湿地の名残を残すも、南岸はほぼ耕地となっている。左右に注意をしながら進むも、相野谷川が「たかいの里汚水中継ポンプ場」辺りで地中に入ってしまう。再び下流に戻り進むと、川の北側、湿地の名残の葦の生い茂る一画に「桔梗田」の案内があった。
案内によると、「伝 桔梗姫入水の地 岡台地の現大日山古墳のあるところは、山高く樹木うっそうと茂り、前方の眺望よく要がいの地でした。平将門はこの地に城館を構え、最近まで堀や土塁の一部が残っていたといわれています。城館の隣に愛妾桔梗姫の御殿があったといわれ、周辺の人は旭御殿と呼んでいます。
当時、将門の最後を知った桔梗姫は、今やこれまでと、この城下の沼に入水して果てたと言われています。今は埋められて水田となっていますが、村人はこれを桔梗田と呼び、祟りがあると伝えられたため、村の共同管理地として受け継がれてきました(取手市教育「委員会)」、と。将門は、天慶三年(939)二月十四日、將門は茨城県猿島町幸嶋において敗死。桔梗が身を投げたこの沼はのちに田となり「桔梗田」と呼ばれたが、ここを耕作する農家の娘は嫁に行けないことが続き、現在は集落の共有地になった、とのことである。
大山城址
相野谷川を渡り、大山城址のある大山台地に向かう。台地に取りつき、上り口を探す。二度ほど直登を試み台地に取りつくも、藪や竹林に遮られ、結局は道なりに台地縁をなぞり、小道を上る。
道を上り切ると、大きな車道が開かれている。この大山の台地の南の、かつては谷戸であったと思われる一帯には宅地開発がなされており、その住宅地へと通す車道を建設したのではあろう。
で、大山城址であるが、台地上をしばし彷徨うも、それらしき場所はみあたりそうもなく、城址探しはやめとする。因みに、大山城址は中近世き築かれた城跡であり、二重の土塁と空堀によって後背の台地と隔離され、空堀の深さは2メートルほどあった、とか。現在その大半が個人の敷地であり、また宅地造成によって掘削されてしまっているようであった。
この城は、高井城の支城と考えられ、将門の臣・大炊豊後守の拠ったところ。豊後守は勇者として知られ、将門敗死と共に弟・丹後守と逃れて柴崎(現我孫子市)に土着した、と言われている。
とげぬき地蔵
宅地開発された新取手地区の大きな住宅街を次の目的地である駒場地区に向かって進む。この新しい新取手地区も昭和40年頃までは「「寺田字後山(うろやま)」や「寺田字大山」と字名が付いていた地域。のどかな一帯ではあったのだろう。
住宅街を抜け、関東常総線・新取手駅を越え、県道294号線を東へと進む。ほどなく、県道が関東常総線から離れ、南東へと下るあたりで左に分岐する小道萱がある。次の目的地である取手市本郷の東漸寺に向かうには、関東常総線を北に越えなければならないので、とりあえず県道から分かれ小道に入る。
ゆるやかな道を少し進むと千羽鶴に覆われた祠があり、とげぬき地蔵とあった。江戸の頃,正徳年間(1704~1715) に建てられたもの、と言う。もともとは茅葺の祠であったようだが、参詣者の失火により焼失し、戦後に現在の堂宇を再建した、とのこと。現在は大きな住宅街の広がる新取手一帯であるが、昔は近郊に農家70数戸しかなく、そのうちでも12軒で地蔵堂を護ってきた、と。
とげぬき地蔵には、その昔、棘抜き名人のお婆さんがこの地にいたのだが、亡くなるに際し、今後はお地蔵様が棘を抜いてくれる、と。で地蔵堂を建てると棘だけで苦労も抜いてくれると評判になり近郷から参詣に訪れるようになった、といった縁起が残る。また、江戸の頃、出雲からこの地に住むようになった医師が有徳の人であり、その人を供養すべく地蔵堂を立てたのが、とげぬき地蔵尊のはじまり、との話も残るようである。
駒場地区
とげぬき地蔵から成り行きで関東常総線を北に抜け、成り行きで進み県道130号に出る。地名は駒場と呼ばれる。往昔、この辺り一帯は、将門の母である犬養春枝の所領地。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものであり、武人に必要な馬に由来する地名ではあろう。その馬術トレーニングの名残が下総相馬家から分かれた福島相馬家に伝わる「相馬野馬追い」とも言われる。
県道327号
県道130号を少し南に下り、関東常総線・寺原駅手前を県道327号に沿って左に折れる。東漸寺までのルートを探すべく地図を見るに、県道327号は寺原あたりで切れている。チェックすると、この県道327号は「茨城県道327号寺原停車場線」と呼ばれ、起点が寺原駅。終点が駒場1丁目の県道130号常総取手線との交差点。距離わずか176号の県道である。因みに「寺原駅」の寺原とは 明治22年(1889)に北相馬郡寺田村と桑原村が合併するに際し、両村の1字を取ってつくった合成地名。市町村合併の際によくあるパターンである。
東漸寺
県道327号が切れるあたりの二差路を左に取り、ゆるやかなさかを下りおえたあたりの左手にある神明宮を見やり、車道を一筋北にはいった坂を少し上ると東漸寺があった。
茅葺の誠に美しい仁王門をくぐり境内に。先に進むと、これも誠に趣のある観音堂があった。案内によると、「市指定文化財 観音堂・仁王門;この堂宇は、寛文七年(一六六七)に創建されたもので、屋根は寄棟造りで向拝をつけ、木鼻(「木の端」)の型式は室町時代末期から江戸時代初期の雰囲気を止めている. 仁王門は、元禄三年(一六九〇)吉田村の清左衛門と称する篤信家の寄進によるものと伝えられ、単層八脚門となっており、市内唯一の建造物である。
観音堂には、聖僧行基の作と伝えられる観世音菩薩像が安置されており、家運隆昌、除災招福、特に馬の息災には霊験著しい尊像として古くから敬信を集めている。陰暦七月十日の縁日は俗に万燈といわれ、近郷近在の信者が境内をうずめ稀にみる賑わいを呈したものである。
昔乗馬のままお堂の前を通ると、落馬すると言われた為お堂と道路の中間に銀杏を植樹して見えないようにしたという。今に残る「目隠し銀杏」がそれである(取手市教育委員会)」、と。
このお寺さまは、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹。僧侶の学校である檀林となった東漸寺は、広大な境内に多くの堂宇が建ち並んだ、とか。大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展。明治初頭には、明治天皇によって勅願所となっている。
現在は仁王門と観音堂の他にはこれといって堂宇が見当たらないが、このふたつの建物だけでも疲れた体を癒すに十分な構えではあった。将門とのこのお寺さまの傍に犬養春枝の館があったとも伝えられ、将門がそこで生まれた、とも。また、観音堂の観音様は犬養氏か後世の下総相馬氏によって寄進されたものでは、とも伝わる。
春日神社
その犬養氏の館であるが、東漸寺の少し東、JA寺島支所の手前にある春日神社の辺りであったとの説がある。訪ねるに、誠にささやかな祠ではあった。因みに、犬養氏の館は先回の散歩で訪れた戸頭神社のあたりである、との説もあり、よくわからない。どちらであっても私個人としては一向に構わないわけで、とりあえず守谷から取手に点在する、将門ゆかりの地を訪ねたことに十分に満足し、散歩を終える。
因みに、地形図を見ると、東漸寺や春日神社のある辺りは香取の海を臨む台地端にある。改めて守谷から取手まで辿った将門の旧跡を地形図でみると、訪ね歩いた地域は、北は香取の海、南は常陸川、というか湖沼地帯に挟まれた台地上に続いていた。思わず知らず、東南端を取手宿とする下総の台地を辿ったようであった。
岡不知の森を進むと台地の端辺りの小高い塚の上に岡神社があった。 石段を上り神社にお参り。熊野権現、八幡、鹿島、天神、稲荷の各社を合祀する。神社の建つ塚の周囲には多数の石塔、石碑、祠、灯篭などが並ぶ。
神社脇にある案内によると、この神社の建つ塚は古墳との説がある、と。「この古墳は岡台地の先端に造営された古墳で、高さ約二・八メートル、底径十八メートルの美しい古墳である。この古墳は未発掘の古墳で副葬品等は不明である。かつてこの付近から各種玉類・鉄鏃等が発見されたが、築造年代は古墳時代後期でないかといわれている。中・近世になって大日信仰が盛んになると、この墳丘に種々の石碑や石造仏の類が建てられたので、大日山の名はそれによってつけられたものであろう。現在この墳丘上に岡神社が創建されている」と案内にあった。地元ではこの古墳は将門の墓とも伝えられている。
塚の脇は広場となっているが、そこには将門の愛妾桔梗の前が住む「朝日御殿」があり、毎朝、日の出を拝み、将門の武運を祈った、と。朝日遥拝の話はともあれ、この岡神社のある辺りは台地の東端。縄文時代は台地の下は一面の香取の海。将門の時代も、守谷から台地上を進んだ「郷州街道」も、この地から先は舟便となる。香取の海は、龍ヶ崎や江戸崎、印旛や成田などの対岸にある台地で囲まれた灘であり、対岸からの敵襲に備える軍事上の要衝ではあったのだろう。桔梗の前の朝日御殿はともかく、将門の軍事拠点となる館か取手はあったのではないだろう、か。
仏島山古墳
岡神社を離れ、延命寺の縁起にも登場した島仏山古墳に向かう。岡神社から急な石段を下り、台地の縁に沿って台地の北側に戻り、岡集落の中を進むと民家の脇に、塚と言うのも少々憚られるような一角があり、そこが島仏山古墳とのこと。古墳自体は明治28年(1895)、岡堰の築堤と道路工事に際に古墳が発掘された、とか。
案内をまとめると、「美しい円墳で墳丘も高かったと言われるが、過去二回に亘って古墳の土砂を採取し、その形状は不詳。が、周囲の状況等から判断すると、径約三十メートルの円墳と推定される。また、遺物の出土状況から判断してこの墳丘は埴輪円筒をめぐらし、その上を美しい埴輪で飾った古墳であった、よう。
古墳の築造年代は、六世紀のもの。なお、明治二十八年学校敷地造成のため、土砂を採取した際に、石かく・骨片・刀剣・曲玉・鉄鏃・埴輪・埴輪円筒等出土したが、この多くは現在の国立博物館に納入された。また、昭和八年岡堰改良工事のため土砂を採取した時に出土した埴輪(四)、円筒埴輪(七)等も国立博物館に納入。本古墳に仏島山の名称がつけられたのは、古墳の周囲には堀をめぐらし一大島状をなしていたが、その後、中世になって墳丘上に仏像や石塔等が建立されたため」と言う。古墳は以前はもっと大きく、高さもあったようだが、学校用地の造成、岡堰の築堤などに際して土砂が採取され、現在の姿見となった。古墳の頂きの祠は将門神社、とも。
白姫山
仏島山古墳から表郷用水に沿って少し北西に進むと白姫山がある、と言う。表郷用水は岡堰から引かれた用水ではある。名前に惹かれて白姫山の辺りまで進むと荒れ果てた薬師堂と「岡台地と平将門」の説明板があった。「この岡台地は一望千里と言われる平坦な水田地帯の広がる町にあって、唯一の台地で古い歴史を秘めたところで もある。特に承平の乱(935~940)を起した平将門にまつわる史蹟が散在し伝説が語継がれてきた。 『将門にまつわる史蹟』として大日山古墳、朝日御殿跡、延命寺、仏烏山古墳が存在する」、と。白姫山の由来である「白姫祠」も見当たらなかった。ここに桔梗の前が住み、墓もあったと伝えられている、とのこと。
桔梗田
白姫山を離れ岡の台地に沿って岡神社の下を抜け、台地南側に出る。低地を隔てて大山の台地が見える。低地は岡台地と大山台地に挟まれた谷戸の趣き。低地の中ほどに相野谷川が流れる。門敗死の報を受け、愛妾桔梗前(正妻の「君の御前(常陸国真壁郡大国玉の豪族・平真樹の娘)が誅された後、正妻になったとも言われる桔梗前が身を投げた桔梗沼は相野谷川の傍にある、という。
川に沿って上流へと進む。川の周囲は北岸には一部湿地の名残を残すも、南岸はほぼ耕地となっている。左右に注意をしながら進むも、相野谷川が「たかいの里汚水中継ポンプ場」辺りで地中に入ってしまう。再び下流に戻り進むと、川の北側、湿地の名残の葦の生い茂る一画に「桔梗田」の案内があった。
案内によると、「伝 桔梗姫入水の地 岡台地の現大日山古墳のあるところは、山高く樹木うっそうと茂り、前方の眺望よく要がいの地でした。平将門はこの地に城館を構え、最近まで堀や土塁の一部が残っていたといわれています。城館の隣に愛妾桔梗姫の御殿があったといわれ、周辺の人は旭御殿と呼んでいます。
当時、将門の最後を知った桔梗姫は、今やこれまでと、この城下の沼に入水して果てたと言われています。今は埋められて水田となっていますが、村人はこれを桔梗田と呼び、祟りがあると伝えられたため、村の共同管理地として受け継がれてきました(取手市教育「委員会)」、と。将門は、天慶三年(939)二月十四日、將門は茨城県猿島町幸嶋において敗死。桔梗が身を投げたこの沼はのちに田となり「桔梗田」と呼ばれたが、ここを耕作する農家の娘は嫁に行けないことが続き、現在は集落の共有地になった、とのことである。
大山城址
相野谷川を渡り、大山城址のある大山台地に向かう。台地に取りつき、上り口を探す。二度ほど直登を試み台地に取りつくも、藪や竹林に遮られ、結局は道なりに台地縁をなぞり、小道を上る。
道を上り切ると、大きな車道が開かれている。この大山の台地の南の、かつては谷戸であったと思われる一帯には宅地開発がなされており、その住宅地へと通す車道を建設したのではあろう。
で、大山城址であるが、台地上をしばし彷徨うも、それらしき場所はみあたりそうもなく、城址探しはやめとする。因みに、大山城址は中近世き築かれた城跡であり、二重の土塁と空堀によって後背の台地と隔離され、空堀の深さは2メートルほどあった、とか。現在その大半が個人の敷地であり、また宅地造成によって掘削されてしまっているようであった。
この城は、高井城の支城と考えられ、将門の臣・大炊豊後守の拠ったところ。豊後守は勇者として知られ、将門敗死と共に弟・丹後守と逃れて柴崎(現我孫子市)に土着した、と言われている。
とげぬき地蔵
宅地開発された新取手地区の大きな住宅街を次の目的地である駒場地区に向かって進む。この新しい新取手地区も昭和40年頃までは「「寺田字後山(うろやま)」や「寺田字大山」と字名が付いていた地域。のどかな一帯ではあったのだろう。
住宅街を抜け、関東常総線・新取手駅を越え、県道294号線を東へと進む。ほどなく、県道が関東常総線から離れ、南東へと下るあたりで左に分岐する小道萱がある。次の目的地である取手市本郷の東漸寺に向かうには、関東常総線を北に越えなければならないので、とりあえず県道から分かれ小道に入る。
ゆるやかな道を少し進むと千羽鶴に覆われた祠があり、とげぬき地蔵とあった。江戸の頃,正徳年間(1704~1715) に建てられたもの、と言う。もともとは茅葺の祠であったようだが、参詣者の失火により焼失し、戦後に現在の堂宇を再建した、とのこと。現在は大きな住宅街の広がる新取手一帯であるが、昔は近郊に農家70数戸しかなく、そのうちでも12軒で地蔵堂を護ってきた、と。
とげぬき地蔵には、その昔、棘抜き名人のお婆さんがこの地にいたのだが、亡くなるに際し、今後はお地蔵様が棘を抜いてくれる、と。で地蔵堂を建てると棘だけで苦労も抜いてくれると評判になり近郷から参詣に訪れるようになった、といった縁起が残る。また、江戸の頃、出雲からこの地に住むようになった医師が有徳の人であり、その人を供養すべく地蔵堂を立てたのが、とげぬき地蔵尊のはじまり、との話も残るようである。
駒場地区
とげぬき地蔵から成り行きで関東常総線を北に抜け、成り行きで進み県道130号に出る。地名は駒場と呼ばれる。往昔、この辺り一帯は、将門の母である犬養春枝の所領地。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものであり、武人に必要な馬に由来する地名ではあろう。その馬術トレーニングの名残が下総相馬家から分かれた福島相馬家に伝わる「相馬野馬追い」とも言われる。
県道327号
県道130号を少し南に下り、関東常総線・寺原駅手前を県道327号に沿って左に折れる。東漸寺までのルートを探すべく地図を見るに、県道327号は寺原あたりで切れている。チェックすると、この県道327号は「茨城県道327号寺原停車場線」と呼ばれ、起点が寺原駅。終点が駒場1丁目の県道130号常総取手線との交差点。距離わずか176号の県道である。因みに「寺原駅」の寺原とは 明治22年(1889)に北相馬郡寺田村と桑原村が合併するに際し、両村の1字を取ってつくった合成地名。市町村合併の際によくあるパターンである。
東漸寺
県道327号が切れるあたりの二差路を左に取り、ゆるやかなさかを下りおえたあたりの左手にある神明宮を見やり、車道を一筋北にはいった坂を少し上ると東漸寺があった。
茅葺の誠に美しい仁王門をくぐり境内に。先に進むと、これも誠に趣のある観音堂があった。案内によると、「市指定文化財 観音堂・仁王門;この堂宇は、寛文七年(一六六七)に創建されたもので、屋根は寄棟造りで向拝をつけ、木鼻(「木の端」)の型式は室町時代末期から江戸時代初期の雰囲気を止めている. 仁王門は、元禄三年(一六九〇)吉田村の清左衛門と称する篤信家の寄進によるものと伝えられ、単層八脚門となっており、市内唯一の建造物である。
観音堂には、聖僧行基の作と伝えられる観世音菩薩像が安置されており、家運隆昌、除災招福、特に馬の息災には霊験著しい尊像として古くから敬信を集めている。陰暦七月十日の縁日は俗に万燈といわれ、近郷近在の信者が境内をうずめ稀にみる賑わいを呈したものである。
昔乗馬のままお堂の前を通ると、落馬すると言われた為お堂と道路の中間に銀杏を植樹して見えないようにしたという。今に残る「目隠し銀杏」がそれである(取手市教育委員会)」、と。
このお寺さまは、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹。僧侶の学校である檀林となった東漸寺は、広大な境内に多くの堂宇が建ち並んだ、とか。大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展。明治初頭には、明治天皇によって勅願所となっている。
現在は仁王門と観音堂の他にはこれといって堂宇が見当たらないが、このふたつの建物だけでも疲れた体を癒すに十分な構えではあった。将門とのこのお寺さまの傍に犬養春枝の館があったとも伝えられ、将門がそこで生まれた、とも。また、観音堂の観音様は犬養氏か後世の下総相馬氏によって寄進されたものでは、とも伝わる。
春日神社
その犬養氏の館であるが、東漸寺の少し東、JA寺島支所の手前にある春日神社の辺りであったとの説がある。訪ねるに、誠にささやかな祠ではあった。因みに、犬養氏の館は先回の散歩で訪れた戸頭神社のあたりである、との説もあり、よくわからない。どちらであっても私個人としては一向に構わないわけで、とりあえず守谷から取手に点在する、将門ゆかりの地を訪ねたことに十分に満足し、散歩を終える。
因みに、地形図を見ると、東漸寺や春日神社のある辺りは香取の海を臨む台地端にある。改めて守谷から取手まで辿った将門の旧跡を地形図でみると、訪ね歩いた地域は、北は香取の海、南は常陸川、というか湖沼地帯に挟まれた台地上に続いていた。思わず知らず、東南端を取手宿とする下総の台地を辿ったようであった。
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