石神井川散歩 Ⅲ:板橋から墨田川との合流点まで

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石神井川散歩も第三回。今日は板橋から王子、隅田川との合流まで。石神井川からちょっと寄り道し、中山道板橋宿を中宿から下宿まで辿り、前々から気になっていた宇喜多秀家の眠る東光寺を訪ねる。その後、再び石神井川筋に戻り加賀前田家の下屋敷跡を辿り、滝野川とも呼ばれた石神井の渓谷を王子駅に進み、河川争奪の結果をちょっと実感し隅田川の合流点へと向かう。距離もそれほどない。結構余裕。のんびりと散歩を楽しむ。(yoyochichi 2010年10月10日 20:32 月曜日, 8月 15, 2005のブログを修正)



本日のルート;東武東上線・中板橋駅>氷川町・氷川神社>東光寺>谷端川跡>近藤勇の供養塔>金沢橋>弾道検査管>前田家下屋敷跡>埼京線交差>寿徳寺>音無もみじ緑地>金剛寺>音無橋>王子駅>隅田川合流点

東武東上線・中板橋駅
駅を北側に下り、下町の雰囲気を残す商店街や民家のなかを石神井川に向かう。北東に進んできた石神井川は東武東上線に交差したすぐ先で南東へと折れるが、そのあたりは環七と最も接近するあたり。いつだったか、板橋区を数回にわたって散歩したとき、この環七脇にある氷川神社から国道17号線の近く、智清寺、日曜寺辺りを歩いたことを思い出す。

氷川町・氷川神社
川に沿って中根橋を越え、国道17号線の近くに釣り堀公園。その先、国道17号線に沿って氷川神社。13世紀はじめ、この地域をおさめる豊島経泰が大宮の武蔵一宮である氷川神社を勧請し、石神井河畔の景勝のこの地に社を建てた。豊島氏が太田道灌に滅ぼされた後も地元人の信仰が篤く、江戸の頃は板橋宿の鎮守であった。1945年の空襲で社殿は全焼。現在の社殿はその後、再建されたものである。

板橋宿
川筋に戻り進むと「板橋」に。石神井川に架かる木製の風情の「板橋」は旧中山道板橋宿の往来である。橋の北、皇女和宮ゆかりの縁切り榎などがある一帯は板橋宿上宿。橋から南に中宿、下宿へと、国道17号線との交差を越えて板橋宿が続いた。板橋宿は1.7キロほどの街並みに、人口2500名弱、旅籠、料理屋、駕籠屋など573の民家が軒を連ねた。
ここからは川筋を少し離れ、板橋宿下宿、中山道が川越街道と分岐する平尾の追分にある宇喜多秀家ゆかりの東光寺にちょっと寄り道。中宿商店街を南に進む。ここは板橋散歩で一度歩いたところ。スーパ脇の民家の前に本陣跡があったよな、遍照寺の境内には板橋宿の馬繋ぎの場所があったよな、板橋区の観光センターは結構充実していたな、そういえばその近くには宿に30ほどもあった妓楼の中でも最大の新藤楼跡もあったよな、などとあれこれ思い出しながら先に進み、旧中山道が国道17号線に当たる手前にある東光寺につく。

東光寺
宇喜多秀家のお墓がある。津本陽氏さんの『宇喜多秀家:備前物語』を読み、素敵な人物であるよなあ、と印象深い戦国武将。関が原で西軍・豊臣側の副将。戦いに敗れ、八丈島に島流し。明治になって恩赦で板橋に。
配流中から加賀前田藩が援助をしており、加賀前田家とゆかりの深いこの板橋の地に。ここ一帯は江戸時代前田藩の下屋敷があったところ。加賀という町名や加賀小学校、金沢小学校までもある。で、なぜ前田藩が「戦犯」の援助?そうだ、中村彰彦さんの『豪姫夢幻』。宇喜多秀家の愛妻豪姫って、前田が実家だった。納得。境内には平尾一里塚にあった石造りの地蔵菩薩座像が残る。
東光寺から石神井川に向かって坂が下る。国道17号線・中山道が通る台地の尾根道から石神井川の谷に向かってくだる。窪みの向こうに見える高まりは十条台の台地であろう。台地を穿って石神井川が流れる。

谷端川跡
ここまできたので、国道17号線を越え、旧中山道を板橋駅前にある近藤勇の供養塔に向かうことにした。商店街を道なりに進みJR板橋駅西口に。予想に反して小振りな駅。近藤勇のお墓は東口。地下通路はないので、駅から少し南に下り線路下をくぐる通路を探す。ほどなく駅のホーム下を抜け東口に向かう道路があった。あれ?なんとなく見覚えがある道筋。これって谷端川跡。豊島区要町の粟島神社の弁天池を水源とし、板橋を経て小石川へと下る。いつだったか水源から下流の後楽園まで歩いたことを思い出す。

近藤勇の供養塔
それはともあれ、谷端川跡を進み東口に出る。南に下る川筋跡と別れ、北に向かい駅前の近藤勇の供養塔に向かう。駅の真ん前にある供養塔は、オープンな雰囲気で、お墓というか記念碑といった風情。
慶応4年(1868)、平尾一里塚付近、というから板橋駅付近で官軍により斬首された近藤勇の首級は京都に移送され、胴体はここに埋葬された。ここには近藤勇だけでなく副長の土方歳三、そしてこの供養塔造立の発起人でもある永倉新八が供養されている。
供養塔を離れ、ゆるやかな坂を上り旧中山道の通る尾根道に戻る。平尾の追分から駅に辿った道の続きであり、駅の南に廻らず、踏切を渡ってそのまま進めばここにでる。平音の一里塚もこのあたりであろう。その名残は何も、ない。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」


金沢橋
旧中山道の尾根道から石神井川筋へと戻る。民家の軒先といった小径を、成り行きで進み国道17号線に出る。次のポイントは石神井川沿いの前田家下屋敷跡なのだが、なにせ成り行きで板橋駅前の近藤勇の供養塔まで来てしまったため、原点復帰地点・板橋への回帰は結構遠い。旧中山道の板橋あたりはあれこれと折に触れて歩いているので、板橋よりは心持ち東の前田家下屋敷まで戻ることにした。
台地上を走る国道17号線から北西へと成り行きで坂を下る。住宅街を進むと金沢橋南詰めに出た。渓谷の様相を呈する石神井川をもう少々東へと戻る。記憶によれば、帝京大学病院あたりから石神井川は「渓谷」となり、桜が誠に美しかったとの覚えがあったため、そこまで戻ることに。

弾道検査管の標的跡
石神井川の南岸を東に戻ると、脇に小高い丘。何気なく寄り道をすると丘は区立加賀公園となっていた。その丘の上に弾道検査管の標的跡が残る。煉瓦積みといった壁は弾道標的の跡。公園西隣にある財団法人・野口研究所の敷地に残る弾道検査管から発射された兵器弾道の標的である。
金沢橋とか加賀公園といった地名からもわかるように、江戸の頃はこの辺り一帯、石神井川を挟んだ現在の加賀1,2丁目や板橋3,4丁目には加賀前田家の広大な下屋敷があった。
明治になり下屋敷跡を陸軍が接収しここに黒色火薬の火薬製造所を設けた。そして終戦に至るまで、この地では7000名もの職員が陸軍が使用する火薬、機関砲。大砲を製造していた。
この地に火薬・兵器工場ができた理由は、第一に広大な前田藩下屋敷の跡地があった。また、兵器・火薬製造機械の動力として石神井川の水力を活用できた。さらには、鉄道運輸が開始される前では、石神井川の水運を利用して都内および後楽園跡地にあった陸軍造兵工廠とのアクセスを確保できた、といったところだろう。区立加賀公園の少し西にある東板橋体育館脇の加賀西公園には火薬製造に使用された圧磨機圧輪記念碑が残る。

前田家下屋敷跡
弾道検査管の標的跡を先に進むと前田家下屋敷跡の案内があった。延宝7年(1679)、幕府から6万坪(約19万8000?)を拝領し平尾の別邸としたのがはじまり。その後、他の下屋敷を返上して天和3年(1683)には合計21万8千坪(約72万1000?)を拝領し、ここを「平尾の下邸」と称した。
そもそも、大名屋敷が上・中・下屋敷と別れたのは明暦3年(1657)に起きた明暦の大火がきっかけ。江戸城の天守閣を含め江戸の町を焼き尽くし、3万名とも10万名とも言われる焼死者を出した未曾有の大火を教訓に、江戸の都市政策を大きく見直し、大名屋敷も上・中・下とわけ、災害・緊急時のリスク管理を計った。上屋敷には藩主やその家族が住み。政治・経済・外交活動の本拠地 とする。中屋敷は隠居した藩主や 嗣子などの住まい。そして下屋敷は別荘、火災時の避難場所として使われた。この前田家下屋敷は前田家の別荘として使われ、鷹狩りや園遊会も催された、また、中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代の休息や送迎の場、装束替えの場にもつかわれたようである。加賀公園のこの小高い丘は人工的に築かれた築山であった。

埼京線交差
加賀公園から野口研究所脇を通り石神井川筋へ戻る。川に沿って更に東に、渓谷の雰囲気を楽しみながら加賀橋、御成橋へと進み帝京大学病院あたりで折り返す。そこからは石神井川北岸の遊歩道を逆に「渓谷」を金沢橋へと戻る。埼京線を越えて「渓谷」は続く。昭和30年ころ、河川工事を行い自然な流れ・蛇行は消え去り渓谷の趣はなくなった、とよく言われているが、現在でも立派な渓谷の赴きを残す。世田谷の等々力渓谷もそうだが、そもそも何でこんな深みがでるのだろうか?よくは理解してはいないのだが、どうも川筋を変えた・川筋が変わったことに関係あるか、とも。
これからは全くの想像。石神井川はもともと、王子あたりから南に不忍池方面に流れていた。現在の流れは王子から隅田川に向かって進む。もともとは、南へとゆったり流れていた川筋が王子で急激に「落ちる」。地形図をみても、王子の駅の西・東で10メートルの落差がある。急激に落ちる=急流。川も蛇行しており、浸食には好都合、ということも相まって「渓谷」に、といったところか。
川筋が自然に変わったのか、人為的に変えられたのか不明のようだが(飛鳥山博物館の資料によれば「自然」のなせるわざ、とのとこ)、この流路の変化により、それまでゆったりと蛇行を繰り返しながら流れていた石神井川が、「滝の」あるような渓谷に変わってしまった。埼京線を越えたあたりで石神井川は滝野川とも呼ばれる。しかし、鈴木理生さんの本によれば、「滝野川」って名前も昔からあったわけではないようだ。もとは穏やかだった流れが、川筋の変化による、急激な侵食作用の結果、滝のような川と変貌していったのだろう。

寿徳寺
先に進み観音橋に。この辺りに来ると街並みが近くなる。北詰に大きな観音様。谷津大観音。2005年に歩いたときは無かったのだが、2008年の冬に寿徳寺により建立された。観音さまの横を抜け、谷津観音の坂を寿徳寺へと向かう。坂名の由来は寿徳寺に祀られる本尊・谷津観音より。谷津の子育て観音とも聖観音とも称される。蓮華座に坐り、両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、 指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結ぶ木造の観音さまは、現在は秘仏となっている。
壽徳寺は 江戸時代から城北地域の江戸西国三十三番観音札所の第十二番目の巡礼地。西国三十三観音巡礼札所の第十二番、近江国(滋賀県)の名刹岩間寺の霊験と同じ功徳を持つものとして多くの信仰を得た。境内にある銀杏は、この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出ると信じられた。この寺の子育て観音信仰は 昭和の初期にも続いていたようで、 河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は「秋立つや子安詣の花の束」といった俳句を詠んでいる。
寺の本堂は鉄筋つくりだろうか。古き趣はない。本堂脇に小振りな仁王さまが佇む。お詣りを済ませ、寺入口の案内をみやると石版に近藤勇の姿がある。脇の石碑には「新撰組隊長近藤勇菩提寺」と。どういうこと?よくよく読むと、板橋駅前の近藤勇供養塔はこの寿徳寺の境外墓地であった。なんとなく立ち寄ったお寺様と供養塔がつながった。成り行き任せの散歩の妙。

音無もみじ緑地
滝野川橋を越えると南岸の遊歩道を進むと「音無もみじ緑地」。石神井川の水が敷地内に取り込まれ、水辺まで降りることが出来る。 河川改修の前には川筋はこの緑地の引き込み部分の方向に蛇行して流れていたのだろう。公園内にある「松橋弁財天窟跡」の説明によると、 ここは「江戸名所図会」に描かれた景勝の地。特に紅葉の名所として知られ、 崖下の岩屋の中に弘法大師の作とされる岩谷弁財天が祀られ、 横に松橋が架かり、付近の崖からは滝が流れていたとのこと。滝は昭和初期まであった、よう。岩屋は昭和50年(1975)頃の、護岸工事が行われるまで残っていた、と。
広重も佐野喜東都名所「王子瀧の川」を描く。朱の鳥居の「岩谷弁才天」。その岩谷のある小高い崖の上にあるのが松崎弁財天社。音無川の河原には床几を出して、水辺で酒を酌み交わす人、水浴を楽しむ人、親子連れや旅人風の人物など、無粋な私にも「その日」の情景が思い浮かぶ。

金剛寺
音無もみじ緑地のすぐ横に金剛寺。由緒書に、源頼朝がこの地に布陣したとのこと。鈴木理生さんの「幻の江戸百年」に興味深い記述があった。以下、まとめると、「伊豆の石橋山の合戦で破れた頼朝は、安房(千葉房総)の国に逃げる。しかし、房総上陸後、関東一円から頼朝のもとに軍勢があつまり、3万余騎の大軍団に。
鎌倉進軍。が、その行く手を阻んだのが、江戸重長。江戸の名前の由来ともなった、この人物、江戸湊の支配者。江戸城本丸あたりに居城をもっていた。秩父平家の流れ。ようするに、反頼朝軍の武将であった。
頼朝は江戸重長との武力戦を避ける。市川で2週間ほど足止め。江戸氏の氏族である、豊島清光、葛西清重など、我に利あらずと必死の調停。結局江戸重永は頼朝に降伏の形をとり、妥協成立。市川から、船で川を渡り王子付近から武蔵野台地に「取りつき」武蔵府中に進軍した」、と。「取りつき」というのがいかにも、低地・湿地帯から台地というか陸地に上陸したって思いが出ている。台地を一歩離れれば一大湿地帯だったのであろう。頼朝は滝野川の松橋に陣をとったといわれる。 松橋とは、当時の金剛寺の寺城を中心とする地名。頼朝は崖下の洞窟に祀られていた弁財天に祈願し 、金剛寺の寺城に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられる。この弁財天が「江戸名所図会」に描かれた岩谷弁財天であり、松崎弁財天社であろう。

音無橋
金剛寺は紅葉寺とも呼ばれていた。深山幽谷の趣をもったこの地は紅葉の名所として知られていたのだろう。その名残を名前に残す金剛寺の近くに紅葉橋を越え、少し先に進むと「音無さくら緑地」。ここも河川改修工事以前の旧流路を残して造られた緑地となっている。緑地内には吊り橋なども造られている。緑地から300m程進むと音無橋に。音無橋のところで、石神井川は音無親水公園の右岸脇の水路に進み暗渠となって飛鳥山。王子駅の下へと流れ込む。
音無親水公園は昔の石神井川の流路、風情を残して公園にしたものだろう。案内をメモする;音無川のこのあたりは、 古くから名所。 江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や、 嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、 また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかる。「江戸名所花暦」 「游歴雑記」などには、 一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともでき、 夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれる。 江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、 眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、 谷間の樹木は見事で、 実にすぐれているとある。こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、この音無親水公園を整備した。「 たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影」、と。ちなみに、音無の由来は紀伊熊野の音無川から。音無川のすぐ脇に王子神社があるが、その社は鎌倉後期、豊島氏が紀伊の国の熊野権現を勧請し社を建てた。

JR王子駅から隅田川合流点に
王子駅下をくぐった暗渠は駅の東口で開渠となり首都高速環状線の下を窮屈そうに進む。明治通りと交差し、さらに高速道路に沿って、溝田橋、豊石橋と進み墨田川に合流する。合流地点は立ち入り禁止。少々呆気ないながらも、これで石神井川散歩を終える。



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