奈良 山の辺の道散歩 そのⅡ:天理市の石神神宮から桜井市の三輪山裾・大神神社まで

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第一回の散歩のメモは石上神宮でのあれこれで力尽きた。饒速日命とか物部氏についての書籍は結構出版されている。喧々諤々のテーマのようだ。今まで黒須紀一郎さんの『役小角』、『覇王不比等』などでその名を知った程度の知識で、饒速日命や物部氏とヤマト王権についてメモすることもできず、図書館で数冊本を借りてきてスキミング&スキャンング。
単なる妄想には過ぎないが、自分なりに疑問に感じたことを、考える好い機会とはなった。 実際、関東を歩いていると、物部氏の痕跡に出合うことが多い。このメモを書くまでは、物部=出雲族、といった程度に単純化してメモしてきたのだが、未だにはっきりとはしないが、それなりに物部氏のこともわかってきたように思う。
さて、石上神宮からやっと解き放たれ、山の辺の道を辿ることにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

高蘭子歌碑
摂社拝殿の前を参道から右に折れる道に「山の辺の道」の案内がある。杉の林を進むと歌碑があり、「みじかかるひと世と思へ布留宮の神杉のほのそらに遊べる 蘭子」と刻まれる。作者の高蘭子は「山の辺短歌会」を主宰されている天理市在住の歌人とのこと。





阿波野青畝歌碑
続いて現れた歌碑には左右に二首の歌が刻まれる。右の句は「石上古杉暗きおぼろかな」と詠める。この歌碑は阿波野青畝が詠んだものであり、左手の歌は奥さまの句とのこと。「よろこびを(?)互いにに語り天高し」のように読めるのだが、はっきりしない。阿波野青畝は大正・昭和にかけて活躍した俳人とのことである。

僧正遍照歌碑
歌碑が続く。「僧正遍照」の歌碑である。「さとはあれて ひとはふりにしやどなれや 庭もまがきも秋ののらなる 僧正遍照」と刻まれる。「里は荒れて人はふりにし宿なれや庭も籬も秋の野良なる」。「里は荒れ果て、住んでいる人も年老いてしまった家であるから、庭も垣根も秋の野良のようです」と言った意味のようだ。
「古今和歌集」巻第四、秋歌上の最後に載る和歌である。「仁和のみかど、みこにおはしましける時、布留の滝御覧ぜむとておはしましける道に、遍照が母の家にやどりたまへりける時に、庭を秋の野につくりて、おほむものがたりのついでによみてたてまつりける」との題詞がある。僧正遍照は桓武天皇の孫にあたる高貴の出であり、野良のような荒れた家に住むわけもなく、ちょっとしたジョークを言っているのだろうか。
題詞にある「布留の滝」とは布留川の上流にある滝で、「桃尾の滝」とも称され、石上神宮の本宮があったとも伝わる。密教の修験の行場でもあったようである。

白山神社
左手に池を見遣りながら進むと、石上神宮の社叢から出る。前方に龍王山からの支尾根であろう丘陵に挟まれた杣之内町の集落が見える。ちょっとした谷戸状の里の民家を抜け、丘陵部の緩やかな坂を上り切ったところに白山神社が鎮座する。
神仏混淆の頃は白山権現と称され、境内にはお寺様があり、十一面観音が祀られていたとのこと。祭神は菊理媛神(きくりひめのみこと;くくりひめのみこと、とも)。菊理媛神も謎の神である。『日本書紀』に一瞬だけ登場する。 黄泉の国で、伊奘諾尊(いざなぎ)は変わり果てた伊弉冉尊(いざなみのみこと)を見て逃げ出す。が、追いつかれた伊奘諾尊と相争うとき、伊弉冉尊の言葉を取継ぎ、「何か」を言った菊理媛神の言葉がきかけとなり、ふたりは仲直りし、伊奘諾尊は黄泉の国から帰って行った、とのこと。だが、何を行ったのかは書かれていない。
そして、これもその経緯は不明だが、菊理媛は加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。白山神社に祀られる所以である。
●峯塚古墳
それはともあれ、この丘陵は古墳地帯とも言われる。『大和・飛鳥考古学散歩:伊達宗泰(学生社)』にあった地図をみると、この辺り一帯には、物部氏が5世紀から6世紀にかけて築造した「西山古墳」や「塚穴山古墳」など、杣之内古墳群が点在するが、この丘陵の南西の裾辺りに、そのうちのひとつ「峯塚古墳」がある。
チェックすると。全長11mの横穴式石室を残す円墳とのこと。築造時期は7世紀というから、物部氏の一族である石上氏による最後の古墳とも言われるようだ。当日は、こんな古墳の存在を知る由もなく、神社にお参りし、先に進んだ。常のごとくの「後の祭り」である。

大日十天不動明王の石標
白山神社を越え、左に開けた彼方の山々を眺めながら、ゆるやかに下ると国道26号の下を潜る。道はその先から、ゆるやかな上りとなり、ほどなく道が分かれる。その分岐点に「左 大日十天不動明王」と刻まれた道標がある。
名前に惹かれ、寄り道を、とは思うのだが、ひたすら距離を稼ぐK元監査役の御威光(ご意向)に遠慮する、と言うか、実際は、お不動さままでの距離が示されていなかったため、道なりに右へと山の辺の道を進むことにした。
●大日十天不動明王
十天神とは仏教において六道の一つである天部に住み仏教を護る神の内、八方(東西南北と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に天地を護る二天を加えたもので、密教では四天王とともに重視される、と(Wikipedia)。 方位といった自然を神格化したこれらの神様は、自然と調和して災難を払うことになる。東(帝釈天)、西(水天)、南(焔魔天)、北(毘沙門天)、東北(伊舎那天)、西北(風天)、西南(羅刹天)、天(梵天)、地(地天)が十天であり、全方位からの災難に耐えうる守護神と言うところだろうか(残りの二天は日(日天)と月(月天))。
因みに大日十天不動明王は、この分岐から最明川を結構上ったところにあるようで、密教修験の行場がある、との記事があった。

芭蕉歌碑
道を進むと山の辺の道は溜池に沿って左に折れるが、その溜池の堤に芭蕉の句碑が建つ。
その手前に案内があり、「芭蕉句碑 うち山やとざましらずの花ざかり  宗房 この句は、松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が江戸へ下る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで、「宗房」と号していた頃の作品である。いつの頃にこの地を訪れて作られたか、それは明らかではないが、寛文十年(一六七〇)六月頃刊行の『大和順礼』(岡村正辰編)に収められているところから、この年以前、すなわち二十三、四歳の頃までに詠んだものであろう。
[句意]
今、内山永久寺に参拝してみると、見事なまでに満開の桜で埋め尽くされている。土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもないのである」とあった。

内山永久寺跡
溜池を回り込んだ辺りに芭蕉の句にあった「内山永久寺」跡の案内があった。「永久寺跡 永久年間(1113~7)に建立された寺で鳥羽天皇の受戒の師であった亮恵上人の開基と伝えられています。
本尊は阿弥陀如来で石上神宮の神宮寺として盛時には大伽藍を誇っていたと伝えられています。その後寺勢がおとろえ、明治の廃仏毀釈で廃寺となって、いまではわずかに池を残すだけで歴史のきびしい流れを感じさせられます」とあり、また、その傍にも「廃物稀釈の嵐にのみ込まれた幻の大寺 鳥羽天皇の勅願で創建され、東大寺、興福寺、法隆寺に継ぐ(注;ママ)寺領を有し、その規模と伽藍の壮麗さから西の日光と称された。
しかし、明治の神仏分離令・廃仏毀釈により壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく破壊と略奪の対象となり、仏像・仏画・経典などは国内外に散逸した。いま各地に残る難を逃れた宝物とこの地に残る本堂池のみが、かつての大寺に栄華を伝える」とある。

案内にあった盛時の永久寺を描く画を見るに、まさに七堂伽藍が林立する大寺である。開基は興福寺の二大塔頭のひとつ大乗院(摂関家や将軍家の子弟が門主となる門跡寺。もうひとつの一乗院は天皇家の子弟を門主とする門跡寺)の僧であった関係上、大乗院の末寺として整備され、神仏混淆の流行と共に石上神宮の別当としての役割も担い、室町時代には大伽藍を有する寺院となったと言う。
案内には「西の日光」とある。当然江戸の頃の形容だろうが、江戸時代直前の頃には56の坊・院が並び、江戸の頃には、浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの院家、子院が建ち並んでいた(Wikipedia)とのことである。
また、案内には「法隆寺に継ぐ寺領」とあったが、法隆寺は1000石、永久寺は秀吉が971石の朱印地を与え、江戸時代にもこの寺領が維持された(Wikipedia)とあった。
●菅御所跡
しかし辺りは一面の野原で、なにもない。なにか遺構でもないものがと、あたりを歩くと道端の林の中に石碑があり「菅御所跡」と刻まれる。チェックすると、延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が京から吉野に落ち延びる時、一時ここに身を隠したと伝えられる御所跡とのことである。
◆馬魚(ワタカ)伝説
「菅御所」と後醍醐天皇をチェックしていると、目の前にある池に棲む魚と後醍醐天皇の伝説が現れた。いろいろバリエーションはあるが、後醍醐天皇の逃避行の折り、共にした馬が馬魚(ワタカ)なる、といったもの。危難をさけるべく切り落とした馬の首を池に落とすと馬の如く草を食む魚となったとか、力尽き息絶えた馬が池の魚に乗り移り、馬の顔をし、草を食むようになったとかあれこれ。
それはそれとして、この馬魚(ワタカ)は大正3年(1914)に石上神宮の鏡池に移されたと言う。そういえば、石上神宮で山の辺に道へと右に折れる時、池がありそれが鏡池であった。馬魚(ワタカ)の案内もちらっと見たのだが、通り過ぎた。常の如くの後の祭りではある。
因みに馬魚(ワタカ)は、琵琶湖と淀川に棲む日本特産の魚であり、いつの頃か誰かが淀川付近のワタカをこの本堂池へ放ったのが繁殖したとされる。馬魚が草を食べることから、草を食べる>馬>後醍醐天皇と馬+永久寺の本堂池=馬魚(ワタカ)伝説が生まれたのだろう。

●廃物稀釈
それにしても徹底的な破壊である。散歩をしながら明治の廃物稀釈によるお寺さまの跡に出合うことはあるが、このような大寺がこれほどまで徹底的に破壊されるって、なんらかの「因」があるのでは?
チェックすると、このお寺さまは修験道の一派である当山派の一寺として重要な役割を担っていたようである。中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織され、中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなしていた、と言う。
明治政府は修験道に対し、徹底的な弾圧を行っており、そのことが大きな要因のようにも思える。

その他、寺組織が上乗院をトップとした上意下達の組織であったことが、「廃仏毀釈」の指令が徹底した、また、地域住民との接点を全く持たない「貴族」の寺院であったこともその要因と言われる。地域に密着しておれば、せめて神社だけでも残るはずであろうから。

それと、この徹底的破壊で思い起こすのは、いつだったか歩いた阿讃山脈の箸蔵寺。このお寺さまが神仏分離令にもかかわらず、神仏混淆を今に残す風情にフックがかかり、チェックすると、この寺は真言宗御室派であり、本山は門跡寺の仁和寺。明治維新時の門跡である小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王は戊辰戦争で旧幕府軍を討伐する官軍の総大将となった。新政府軍の総大将が真言宗御室派のトップであったことが、箸蔵寺が神仏分離を免れた理由のようであった。これも歴史の「IF」にはなるが、江戸の頃永久寺が興福寺の支配下から離れず、真言宗寺院とならなかったら、石上神宮で見た摂社出雲建雄神社拝殿のような幾多の国宝が今に残ったかとも。思っても詮無いことではあるが。

十市 遠忠歌碑
内山永久寺から先、緩やかな坂を上る。雰囲気のある風情の道を進むと道端に歌碑。「布留法樂卅首中月前鴈 月待て 嶺こへけりと 聞ままに あはれよふかき はつかりの聲 十市遠忠」とある。
Wikipediaに拠れば、室町から戦国時代にかけての武将。龍王山に城を構え大和国西北部だけでなく、伊賀にまでその領地を拡げた。武勇に優れ、歌道(三条西実隆に師事)や書道にも通じ、文武両道の武将として十市氏の最盛期を築いた、とあった。

白山神社
石畳の山の辺の道を進むと道沿いに社がある。白山神社である。祭神は白山比咩命、素戔鳴命。素戔鳴命は末社に祀られていたものとのこと。この社、元は「園原社」と称されたようである。本殿裏に「奥の院跡」の石碑があるとのことだが、そこが園原社の祀られていた場所だろうか。
白山権現と称されるようになったのがいつの頃か定かではないが、天明7年(1787)と刻まれた石灯籠があるようで、18世紀には白山権現となっていたのだろう。尚、「神社」という名称は、この社に限らず、すべて明治になってからのことである。

天理観光農園
白山神社から道を進むと、風情ある峠道から一転、民家の間を進む舗装された道となる。と、道の左手の平場に「園原中央標」と刻まれた石柱が建つ。チェックするも、不詳。
しっかりとした造りの農家を見遣りながら、緩やかな道を下るとほどなく天理観光農園が左手に建つ。地図にある「峠の茶屋」とはカフェもあるこの建物のことだろうか。ここではミカン狩りとかバーベキュウなどがたのしめるようである。

夜都伎神社へ
道を下り、「道路開道(通)碑」が建つT字路を、「夜都伎神社 竹ノ内環濠集落」の標識に従い左に折れる。奈良盆地が一望のもと。広い道路を下り、左手に建つ「夜都伎神社」の標識を目安に道を左手に折れる。
道の下方向に小高い独立丘陵が見える。散歩当日は知らなかったのだが、この独立丘陵は先ほどメモした「杣之内古墳群」の南端となる東乗鞍古墳とのことであった。
●東乗鞍古墳 
西に前方部を向けた全長72mの前方後円墳。横穴式石室の石棺が遺存している。また、その下方には南に前方部を向けた全長102mの西乗鞍古墳が盆地を見下ろす。

夜都伎神社
小径を進み夜都伎神社に。小振りながら鳥居から社叢へのアプローチは、左手に耕地を見遣りながらの素朴な感じがいい。檜皮葺の本殿にお参り。檜皮は新しく、最近葺き替えたもののように思える。
鳥居脇にあった案内には「天理市乙木町の北方集落やや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、俗に春日神社といい、春日の四神を祀る。社は古墳跡に建つと言う。
乙木には、もと夜都伎神社と春日神社との二社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して、春日神社一社にし、社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、明治維新までは、蓮の御供えと称する神饌を献供し春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。
現在の本殿は明治39年(1906)改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色七種の華麗な同形の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は藁葺で、この地方では珍しい神社建築である。
鳥居は嘉永元年(1848)四月、奈良の春日若宮から下げられたものという」とあった。
●乙木
「夜都伎」は「やつき」とも「やとぎ」とも読まれる。この社のある「乙木(おとぎ)」からの音の転化とも言われる。その「乙木」も、緩やかな峠といった「小峠(おとうげ>ことげ)」からの音の転化とのこと。地名の由来はバリエーション豊かで面白い。
Wikipedia1には「乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当地に勧請したものとみられる。約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われている」とあった。

竹之内環濠集落
道は古き風情を残す乙木村の集落を抜ける。しっかりとした造りの家並みの間の小径を抜け、耕地の中を進むと左手に竹之内の集落が見えてくる。
集落の入り口、西の端に濠が見える。「環濠」とすれば、かつては集落を囲んでいたのかとは思うが、現在は埋め戻されたのか、集落の西端部分だけに濠が残っているようである。
集落入り口にあった案内には「竹之内環濠集落 奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが非常に多い。
大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け、自衛手段として防御する方法から、集落の周囲に濠を区画していたものと思われる。
そうした環濠も現在では、戦乱の防御から灌漑用に転用されたものが姿を留めている。
天理市では、竹之内町のほかに備前町、南六条町、庵治町の溝幡で環濠の痕跡をよく留めている。一般的に環濠集落は低地部で発達した集落の形態であるが、竹之内町のように標高百メートルの山麓に立地するものは、県下でも数少ない。 現在、竹之内町では、集落の入り口付近まで残っていた環濠が埋め戻され公園になっており、集落の西側で南北に区画する濠の一部が今でも残っている」とあった。
また、休憩所の傍にも同様の案内が写真付きであった。案内には「竹之内町は建武3(1336)年の記録(春日神社文書)にも現れる歴史の古い集落です。中世に築かれたと考えられる濠が集落の西側に現在も残っており、「竹之内環濠集落」として知られています。
奈良盆地には集落の周囲に濠をめぐらす「環濠集落」が多くみられます。一般に環濠集落は室町時代以降に出現したもので、戦国の動乱の中、外敵から集落を守るための防御施設として築かれたものと考えられています。現在も環濠の姿を留めている集落では、濠が用・排水に利用されている例が多いことから、もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります。
天理市には竹之内町のほかに、備前町、南六条町、庵治町溝幡が比較的よく姿を留める環濠集落として知られているほか、かつて環濠を有していた可能性がある集落も多数存在しています。多くの環濠集落は盆地内の低地に営まれていますが、竹之内町は標高100m前後の見晴らしのよい斜面上にあり、環濠集落としては奈良盆地内でも最も高いところにあります。
竹之内町では集落西側の入口付近に最近まで残っていた環濠が埋め戻されて公園となっていますが、その北側には今も環濠が残り、往時の佇まいを偲ぶことができます。 平成24年10月 天理市教育委員会」とあった。
ほぼ同じ内容ではあるが、ひとつフックが掛かった箇所がある。「もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります」という箇所である。防御もさることながら水利施設としての役割が重視されている。

●溜池灌漑と小河川灌漑
この箇所にフックが掛かったのは、先回のメモでも述べた私のお気に入りの書籍、『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」の中の「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説との関連性。
そこでは、「弥生時代から古墳時代(ほぼ西紀3世紀末から7世紀前半頃)にかけて、各地で小地域ごとの部族国家が統合し始める。やがて前方後円墳に代表されるような階級支配が進むのである。その大きな経済的基盤となったのは溜池築造を中心とした乾田開発の拡大だと考えられる」とし、続けて、「谷間や小川に小さな堰堤を築いて溜池とし、そこから水のかからない土地に、緩傾斜を利用して水を導き、水稲耕作が可能な乾田を開発する。この溜池灌漑の適地は、年間降水量が比較的少なく、夏期高温地帯で緩傾斜地形の山の辺であったという」と述べる。地図で確認しても、山の辺の道の通る大和高原に幾多の溜池が見える。
先回の水分神社のメモで、奈良盆地の大和川に流れ込む支流は、その分水界の狭き故、流量の乏しい小河川であると述べた。同書では、この流量の乏しい小河川であったことが奈良盆地において小河川灌漑を発展させた要因とする。 即ち、溜池灌漑で富を蓄積した部族の支配者たちは、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、「用水の乗りやすい緩斜面の小規模な谷底低地や扇状地などに水田開発」を拡げて行った。そして、河川から用水を直接取水するには高度な技術が必要であるが、奈良盆地は水量の乏しい小河川であったが故に、それが容易であった、と説く。
実際、古墳時代の豪族の支配地は、小河川に沿った、段丘から扇状地そして平地に至る山の辺にある。同書にある豪族の支配地と山の辺の川を併せてみると、奈良盆地の東では、和邇氏(奈良)の支配地は佐保川と布留川に挟まれた山の辺、物部氏(天理・桜井)は布留川と初瀬川に挟まれた山の辺。奈良盆地の南の青垣は、初瀬川と寺川の間に山の辺に阿部氏、寺川と米川の間に大伴氏、蘇我川と飛鳥川の間に蘇我氏、蘇我川と葛城川の間に巨勢氏。西の葛城山系の水を支配した葛城氏、生駒山系の竜田川を支配した平群氏となる。
そして、それぞれの山の辺の地には水分神社でメモしたように、山口神社が鎮座し、山の口から、勢いよく水を下し落とされる神、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神として祀られている。
環濠集落の「濠は水利施設としての性格」という記述から妄想が拡がった。実際、山の辺の道を歩きながら、何故にこのような山の辺に道が通るのか?古墳が現れるのか?散歩の当日は、遙なる昔、奈良盆地は湖であったようで、二上山の噴火で山塊に切れ目ができ、水が奈良盆地から「大和川」として流れだし、湖は消えたと言う。が、現在はその面影はないが、地勢図を見ると奈良盆地は、強湿地、半湿地、半乾半湿がほとんどである。それ故、湿地を避けて山の辺に道を通したのか、とも思ったのだが、前述の書籍を読み、この山の辺であるからこそ王権の基盤となる地であり、それゆえに道を通したようにも思えてきた。

◆水分神社(みくまり)
『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の水分神社の解説;先回の散歩でもメモしたが、大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。 その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。

「古事記・日本書記・万葉集」の案内
道を進み、竹之内集落と萱生集落の境辺りに山の辺の道のルートや写真とともに「古事記・日本書記・万葉集」の案内があった。
案内には「大和王権の創始者たちは奈良盆地の東南部に宮殿を構え国家建設を進めた。丸邇坂(わにさか)①では王権軍が反乱軍を制圧するため北進する途中、戦勝の祈願をした(崇神/すじん記・紀)。王たちは死後、いまも残る巨大な墓に葬られた⑪⑫(崇神/すじん記・紀、成務/せいむ紀)。
国を守る神々も登場する。宮殿に祀られていた日本大国魂大神(やまとおおくにみたまのおおかみ)と天照大神(あまてらすおおかみ)が強力すぎる威力のために、別の地に写し祀(まつ)られた⑧⑬(崇神紀)。最古の神社のひとつで神剣を主神とする石上神宮(いそのかみじんぐう)⑤には皇子が千本の剣を奉納している(垂仁/すいにん記・紀)。当社は有力者たちが武器や宝を奉納する特異な神社だったと考えられる。
  貴族の悲哀の物語も記されている。豪族・物部(もののべ)氏の娘の影媛は恋人・平群鮪(へぐりのしび)の死を知り、この道を布留(ふる)⑥を通り平城山(ならやま)まで駆けたという(武烈/ぶれつ即位前記)。
●古事記
712年に編纂された日本最古の歴史書。稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた神代から推古天皇までの歴史や神話、歌謡をもとに太安万侶(おおのやすまろ)が編集した。崇神(すじん)天皇の陵墓「山邊道勾岡上陵(やまのへのまがりのおかのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。
●日本書記
720年に国家事業として編纂された日本最初の正史(せいし)。神代から持統天皇までの歴史で、朝廷や寺院または朝鮮や中国に伝わる様々な資料がもとになっている。崇神天皇の「山邊道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。
●万葉集
歌聖といわれる宮廷歌人・柿本人麻呂は、布留では秘めた恋心の歌をよんだ。「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき吾は」。また龍王山に葬った妻への思いを歌った。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」。和邇下神社付近には彼の遺髪を葬った歌塚がある。いにしえの人々は、神が宿るという森や恋人が住まう里を愛し、布留や弓月ケ岳、穴師、巻向、桧原、三輪山などの地を歌に織り込んだ。「石上 布留の高橋 高々に 妹がまつらむ 夜そ更けにける」には、高く背伸びをして恋人を待つ女性の姿が描かれた(歌碑は天理駅前)。彼らのことだまは、山の辺の道に苔むしてただずむ歌碑に刻まれ、いまも息づかいを伝えている。
◆万葉集
8世紀奈良時代に編纂された日本最初の歌集。約4500首は貴族や兵士、民衆など多彩な人々の歌で構成されている。登場する奈良県内の地名はのべ約900におよび、山の辺の道沿いには多くの万葉歌碑が建つ。後世に歌聖といわれ神格化された飛鳥時代を代表する宮廷歌人・柿本人麻呂は、天理市北部の櫟本(いちのもと)付近の出身といわれている」とあった。

散歩の途中で登場した既に登場したもの、これから登場するであろうもの、そして古事記・日本書記・万葉集について頭を整理するにはいい案内であった。なお本文中の①といった番号は地図の番号を示すものであるが、ママ掲載した。

「大和古墳群」の案内
更に先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。今回のメモはここまで。次回は、山の辺の道を辿るまで、思いもよらなかったヤマト王権の古墳群をメモすることにする。

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