阿波 歩き遍路 第一番札所 霊山寺より第6番札所 地蔵寺へ

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伊予の遍路道、それも峠越えの「いい所どり」ではじめた遍路歩き、いくつかの峠越えをした後、どうせのことなら峠越えの道を繋ごう、またさらに、どうせのことなら伊予の遍路道を全部つなごうと土佐と伊予の県境からはじめた遍路歩きも伊予を終えると、これまたどうせのことなら讃岐もカバーしようと第88番、結願の札所大窪寺も打ち終えた。
となると、またまた、どうせのことなら88箇所をすべてカバーしてみようと、阿波に入り、一番札所から旧遍路道をカバーすることにした。
毎月田舎に戻ったときに歩くわけで、阿波から土佐の札所をカバーする、といっても眼目は標石を目安にした旧遍路道のトレースにあるわけだけれど、それはともあれ、阿波と土佐をカバーするのに、半年ほどの月日をみておけばいいのだろうか。
ともあれ、今回から阿波の旧遍路道をトレースしはじめる。札所第一番霊山寺から第十番切幡寺までは吉野川北岸に点在し、「十里十ヶ寺」と称される如く?里の間に10の札所が並ぶ。実際の距離は30キロほど。
今回のメモは第一番札所の霊山寺から第五番札所地蔵寺までをカバーする。


本日のルート
第一番札所霊山寺
撫養街道参道口の標石>お堂横に真念道標と標石>(坂東俘虜収容所跡>大麻比古神社)>石造冠木門と標石
第二番札所極楽寺
撫養街道合流点の地蔵と標石2基>金泉寺旧道分岐点の茂兵衛道標(88度目)
第三番札所金泉寺
撫養街道合流点に地蔵堂と道標2基>大阪越標石と標石2基>導引大師堂の標石>振袖地蔵>諏訪神社の庚申塔と標石>犬伏谷川手前のお堂に標石>大日寺旧道分岐点の茂兵衛道標と標石>山裾に2基の標石>蓮華寺>愛染院手前の標石>愛染院>愛染院仁王門前の標石>車道手前に2基の標石>標石と馬頭観音群>車道手前に標石>松谷村庚申堂の標石2基>分岐点に標石>藍染庵と標石>切通しの地蔵座像と供養石>「法乃橋」石碑>T字路の標石と舟形地蔵>車道石垣下のT字路に標石>大日寺車道合流点の標石と13丁石>14丁>15丁石
第四番札所大日寺
(15丁石>14丁石>13丁石)>11丁石>10丁石>遍照院跡>お堂と7丁石>羅漢堂東の標石と石仏群
第五番札所地蔵寺
撫養街道合流部に地蔵尊と標石2基>県道?号傍・撫養街道の標石>第二神宅橋南詰めに標石>大山寺への案内>壊れた茂兵衛道標(160度目)と石仏群>茂兵衛道標(183度目)と標石>庚申谷川を渡り安楽寺に
第六番札所安楽寺



第一番札所 霊山(りょうぜん)寺

発心門・山門
朱塗りの門を潜り参道を進む。門には「発心」「別格本山霊山寺」「四国第一番霊場」とある。四国霊場では阿波を「発心の道場」、土佐を「修行の道場」、伊予を「菩提の道場」、讃岐を「涅槃の道場」とカテゴライズする。発心>修行>菩提>涅槃は悟りに至る仏教の四段階のことのよう。その意味することはともあれ、いつ誰がこのネーミングをつけたのだろう。ちょっと気になる。
その先に山門。仁王さんが両側に立つ仁王門。入母屋造楼門形式で造られている。
多宝塔
山門を潜り境内に入ると左に「縁結び観音」。その先、鐘楼の奥に二重の多宝塔。応永年間(1394年 - 1428年)の建造。大日如来、閼伽如来、宝生如来、弥陀如来、釈迦如来の五智如来像を安置している。





十三仏堂と不動堂
多宝堂の先に十三仏堂と不動堂。十三仏は没後初七日から三十三回忌までの追善供養の諸仏であり、不動明王>釈迦如来>文殊菩薩>普賢菩薩>地蔵菩薩>弥勒菩薩>薬師如来>観音菩薩>勢至菩薩>阿弥陀如来>閼伽如来>大日如来>虚空蔵菩薩の十三仏からなるが、ここでは不動明王だけが不動堂に祀られており、十三仏堂には十二仏が並び立つ。
本堂
竺和山(じくわさん)一乗院霊山寺。本尊は釈迦如来を本尊とする。Wikipediaに拠れば、「鳴門市大麻町坂東にある高野山真言宗の寺院。寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(てんじく;インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像。

室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが明治24年(1891年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻した」とある。
大師堂
山門を入った右手に池(放生池)があり、その先に三独松、池の奥に大師堂が建つ。
紀州接待所
山門左に並ぶ建物は紀州接待所。「紀州有田接待講が1828年(文政元年)より衰退期もあったが現在まで行われている。今は春の4日間のみ」とWikipediaにあった。

山門外側の標石
正面には「順第二番江十二丁十二間」と刻まれる。側面には「奉納四国各霊場間実測標 むや岡崎船場まで三り 大正三年」といった文字が刻まれるとのことである。
むや岡崎は鳴門市撫養(むや)町岡崎。淡路島と四国の間にある大毛島最南端の四国側対岸にある。淡路島の福良から岡崎に上陸し撫養街道を一番札所へと向かったと言う。







■第一番札所霊山寺から第二番札所極楽寺への道■

霊山寺を離れ第二番札所極楽寺へ向かう。旧道であるかつての撫養街道を歩くこと1.3キロほど、普通に歩けば16分ほどの距離である。
撫養は牟屋、牟夜、牟野とも表記されたようだが、その語源は不詳。

撫養街道参道口の標石
境内を離れ門前町の風情の残る街並みを南へ進み撫養街道に向かう。旧街道合流点手前、道の左右に霊山寺の寺標識。旧街道合流点には石柱が立ち、表面には「圀弊中社 大麻比古神社 明治十八年」、裏面には手印と共に「二ばん」の文字が刻まれる。大麻比古神社は霊山寺の真北にある。ここが撫養街道から大麻比古神社の参道口でもあるのだろう。 遍路道は手印に従い右折する。
撫養街道
江戸の頃、阿波の藩主蜂須賀家により整備された阿波五街道のひとつ。撫養町岡崎から池田町の州津渡しで伊予街道と交わる67キロほどの道のり。吉野川北岸を進むため、川北街道とも称された。8世紀初頭、大宝律令(701年)により整備された官道・南海道の一部でもある。

お堂横に真念道標と標石
撫養街道を西進すると、坂東谷川に架かる坂東橋の少し手前、道の左手にお堂があり、その横に石柱が4基並ぶ。その左右端の2基が標石。西端の少し小さな石柱が真念道標。


真念道標
正面には「右 いど寺のみち 左 里りょうぜん寺の** 願主 真念」、右面には梵字と共に「南無大師遍照金*」、左面には「為父母供養 阿州板野」といった文字が刻まれる、と。
「いど寺」は第17番札所。位置的には吉野川の南岸、この地のほぼ南にある。1番札所から10番札所までは吉野川北岸を辿り、11番所藤井寺には吉野川南岸に渡り、11番札所から12番札所焼山寺へと一旦山間部に入り、その後??野川筋の17番札所へと戻る。道標の「右 いど寺」は、直接17番へ、というのは少し唐突であり、右へと2番から17番を辿れ、という意味だろうか。よくわからない。
「里りょうぜん寺」は霊山寺のこと。
標石
「奉供養光明百万遍」と刻まれた2基の石柱を挟み、東端の、同じく「奉供養光明百萬」と刻まれた石柱には正面に印があり、「是ヨリ二ばんへ八丁 嘉永元」といった文字が刻まれる標石となっている。

坂東俘虜収容所跡
坂東谷川を渡る。地図を見ると北に坂東俘虜収容所が記される。中村彰彦さんの『二つの山河』で描かれる所長松江豊寿中佐の国際法に準じた人道的エピソードを思い出しちょっと立ち寄り。
橋の西詰を右折し北上。高速道路・徳島道の手前、県道25号の西側に坂東俘虜収容所跡が残る。といっても、給水施設を除き特段の遺構らしきものは残らず、現在は公園となっている。
坂東俘虜収容所
板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)は、第一次世界大戦期、日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所。ドイツの租借地であった青島で、日本軍の捕虜となったドイツ兵(日独戦ドイツ兵捕虜)4715名のうち、約1000名を大正6年(1917)から大正9年(1920)まで収容した。大正6年(1917)に建てられ、約2年10か月間使用された。収容所跡は平成30年(2018)度に国の史跡に指定された。現在はドイツ村公園として整備されている。

遍路歩きの折々に俘虜収容所に出合った。松山の俘虜収容所は日露戦争のロシア兵、丸亀の塩屋別院俘虜収容所は、第一地大戦でのドイツ兵の収容所。丸亀の収容所はこの坂東俘虜収容所が出来ると、松山・徳島の収容所の俘虜と共にこの坂東俘虜収容所に移された。 どの収容所も、国際法に準じた人道的処遇がなされており、地域住民との交流も自由に行われたようだ。松山でのロシアの将校は市内に持ち家を許された、とも。また、俘虜の使うお金により当時の松山は一種の特需景気の恩恵を受けたといった記事もあった。

大麻比古(おおあさひこ)神社
地図を見ると徳島道の北に大麻比古神社が載る。なんとなく「大麻比古」の文字に惹かれた、少し足を延ばすことに。坂東俘虜収容所から県道25号を北に2キロほど。
誠に広い境内。延喜式内社、阿波一宮。「大麻さん」として信仰を集める徳島の総鎮守。 社殿にお参り。
で、社名「大麻比古」の由来;Wikipediaには「社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の御孫の天富命(あめのとみのみこと)が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産して殖産興業と国利民福の基礎を築いたことにより祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが当社の始まりだと言う。
なんとなく「大麻比古」の名前の由来はわかった。が、ちょっと疑問
大麻比古命と阿波忌部氏
いつだったが、阿波の忌部氏を祀る忌部神社を辿ったことがある。その時のメモで「、阿波の忌部氏であるが、忌部氏の祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」をその祖とする。 この「天日鷲命」、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝説に言う。天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも」と書いた。
阿波忌部氏の太祖と遠祖
この流れで言えば、阿波忌部氏の太祖が「天太玉命」、遠祖が「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」ということだろう。が、一説では大麻比古命は天日鷲命の子、ともする。こうなれば、忌部氏の太祖が天日鷲命(あめのひわしのみこと)」で、遠祖が「天太玉命」ということになる。実際、Wikipediaには「明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命とした」ともあった。
天津神と国津神
とは言うものの、神話時代のことなど門外漢にはわからない。どちらが祖で、どちらが遠祖であっても構わないのだが、それよりなにより気になったのは、猿田彦大神が共に祀られている、ということ。天津神である天日鷲命や天太玉命と共に、国津神神系の猿田彦が祀られていること。
その因は、Wikipediaには「その因ははっきりしないが、大麻比古命は別名を津咋見命とも称されるように、経済の発展と共に、津=湊>交通の要衝>道の神:交通の神の性格を持つに至る。が、忌部氏の没落にともない、室町時代に民間流行した庚申信仰により、巷の神・交通の神である猿田彦大神の神性が付会されたのだろう」とあった。
天津神と国津神が並んで祀られるのはそれほど珍しくもないのだが、この社は由緒が古いだけにちょっと気になりチェックした。

石造冠木門と標石
寄り道先から県道25号を南に下り撫養街道に戻る。西に少し進むと道の右手に石造の冠木門が建つ。「四圀第二番霊場極樂寺」と刻まれ、如何にも参道口といった趣だが、門を潜った先は民家となっている。現在極楽寺への道は、この地で撫養街道と分かれ、冠木門の西端を北西へと向かう道筋を進むが、かつてはこの冠木門が参道口ではあったのだろう。
標石
冠木門東脇に小堂があり、その横に「辺路道 *寺 遍路道 極楽寺」と刻まれた標石が残る。

撫養街道を離れた遍路道は一直線に極楽寺へ向かう。遍路道が県道12号に合流する地点、県道逆側に朱塗りの極楽寺仁王門が建つ。



第二番札所極楽寺

仁王門
朱塗りの仁王門を潜り境内に。阿吽の仁王さま。右が口を開いた阿形の仁王様は那羅延金剛力士。左の口を閉じた吽形の仁王様が密迹(みつじゃく)金剛力士。






石庭と標石
境内に入ると手入れの行き届いた庭園が目に入る。その庭園には5基の標石も並ぶ。山門はいってすぐ、手印と共に「二ばん二丁 一ばん十丁」と刻まれた標石。庭園植え込みの中と白砂利の中を本堂に進む途中に2基の四国千躰大師標石。真念の意思を継ごうとした照連の標石。更に、庭の植木の先にある本坊手前には「すぐ一ばん 三ばん 明治三十四年」などの文字が刻まれた茂兵衛道標も立つ。茂兵衛186度目巡礼時のものである。
堂宇への石段手前にも標石。
長命杉
石段を上ると、左手に巨大な長命杉。空海手植えと伝えられる樹齢約1200年余りの杉。鳴門市天然記念物。
鐘楼と観音堂
石段を上がると右手に鐘楼と観音堂。観音堂は江戸中期のもの。千手観音が祀られる。







薬師堂
本堂・大師堂へと上る43段の石段左手に薬師堂。江戸末期のもの。薬師如来が祀られる。
本堂
43段の石段を上ると正面に本堂。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。本尊は阿弥陀如来。
Wikipediaには「鳴門市大麻町桧にある高野山真言宗の寺院。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。
また、空海がその阿弥陀経を読誦した際、難産だった難波の女性が空海の加持により無事安産し、そのお礼にと木造大師像を寄進したのが大師堂の本尊である。(中略)なお、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失し、万治2年(1659年)に阿波藩主によって再建されている。」とあった。
安産子安大師
本堂右手に「安産子安大師」。Wikipediaには「明治時代に大阪住吉の女性が安産祈願をしお告げにより四国遍路に出て無事男の子を出産したお礼にと修行大師像を寄進したのが、大師堂に向かって左前に立つ安産修行大師像である。これらのことから、当寺では子授け・安産の寺として随時祈祷祈願を受け付けていて、安産お守り・腹帯を授けている」とある。 ●大師堂
本堂左手に大師堂。江戸時代初期(1659年)建立。安産大師と云われ信仰されている。





■第二番札所極楽寺から第三番札所金泉寺へ■

極楽寺を離れ第三番札所金泉寺へ向かう。距離は2.2キロほどである。

撫養街道合流点の地蔵堂と標石
遍路道は県道12号に出ることなく、仁王門を出ると直ぐ右折、駐車場脇から民家の塀に沿って右に進む。道は小高い丘に並ぶ墓地の坂道を上り、そして下ると上述の冠木門で一度分かれた撫養街道にあたる。
合流点に地蔵堂と2基の標石。傾いた標石の表面には「四国中千躰大師」と刻まれる。遍路道で時に出合う照蓮の道標。特徴的な深く彫られた手印と大師像が残る。
もう1基には「へんろ道 是より二十三番迄 中尾多七 昭和三十八」などと刻まれる。中尾多七さん達により建立された阿波二十三番までの矢印遍路標石のひとつである。ほとんどの標石は「へんろ道」の文字だけのようであり、建立者中尾多七と刻まれた標石はこレだけと言う。
照蓮
文化年間(1804~1816)の僧。真念の志を受け継ぎ、四国中に千体の道標を建てようとした(総数未確認)。徳島は出身地ということもあり56基と、江戸期の徳右衛門の20基(総数250基:現存数129基)、真念の11基(37基)を大きく上回る。道標で知られる中務茂兵衛の道標数は235基(比定数243基)だが、こちらは明治の人。
中尾多七
中尾多七さん達が昭和38年(1963)建てた標石は阿波だけでなく、伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道に見られる。また、阿波の23番札所までに60近い標石が立つと言う。

金泉寺旧道分岐点の茂兵衛道標(88度目
撫養街道を西に進むと鳴門市域を離れ板野郡板野町域に入る。板野町域に入ると右手に諏訪神社を見遣り、徳島道板野ICへのアプローチ高架を潜ると変電所施設が道の左手にある。その少し先、道の右手に茂兵衛道標が立つ。
手印と共に正面に「八十八度為供養 行者 中司茂*」、右面に「光明真言」、左面に「阿波圀撫養村齋田村」、裏面には「 明治十九年」と刻まれた茂兵衛88度目の巡礼時のもの。
第三番札所金泉寺は茂兵衛道標を右に折れ、撫養街道を離れて土径の道を進む。距離にして100m、本堂東側から第三番札所の境内に入る。



第三番札所金泉寺
仁王門
山門は朱塗の仁王門。三間一戸楼門、入母屋造。三間一戸は中央の親柱4本と前後の控柱8本(八脚)、入口が一つ(一戸)よりなる様式。八脚門ではあるが2階建て(楼門)故に楼門と。三間は間口(桁行)が三間とも、親柱4本の間が3つであるから、といった説明もあった、 入母屋造りは上部が切妻屋根のように二方へ傾斜し,下部は寄棟(よせむね)のように四方に傾斜する屋根の形式を指す。
本堂と護摩堂
境内に入ると正面に本堂と護摩堂。Wikipediaには「徳島県板野郡板野町にある高野山真言宗の寺院。亀光山(きこうざん)釈迦院と号する。本尊は釈迦如来で、脇侍に薬師如来・阿弥陀如来を安置する。
寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したという。弘仁年間(810年 - 824年)に、空海(弘法大師)が訪れた際に、水不足解消のため井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたという。 亀山法皇(天皇在位1259?1274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。また、『源平盛衰記』には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載がある。
1582年(天正10年)には長宗我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失したが、建物はその後再建され現在に至る。境内からは奈良時代の瓦が出土しており、創建は寺伝 のとおり奈良時代にさかのぼると推定される」とあった。

寺の住所は徳島県板野郡板野町大寺。大寺地名はこの寺に由来する。往時は亀山天皇の勅願道場として大寺ではあったのだろう。また、板野郡は、板東と板西に分かれていたが、その境は当寺の堂の扉板をもって境としていた、と言う。
大師堂と倶利伽羅龍王像
本堂の右手に大師堂。その傍に青銅造の倶利伽羅龍王像。不動明王の化身とされる。災厄を切り裂く利剣に倶利伽羅龍王が巻き付いた姿は不動明王の激しさ・力強さを示現する。『密教大辞典』には「はじめは不動明王を念ずる功力によりて、この龍を駆使し又はその保護を受くとの信仰より、遂にこの龍を明王の化身とし或いは三昧耶形とするに至れり」「口より氣を出す、二萬億の雷の一時に鳴るが如し、魔王外道之を聞いて邪執を捨てたりと云ふ」とある。
阿弥陀堂
倶利伽羅龍王像の先、石段を上ったところに二重の阿弥陀堂。わりと新しい堂宇。









黄金地蔵尊と閻魔堂
大師堂の南に黄金地蔵尊と閻魔堂。黄金地蔵尊と書かれたコンクリート造りのお堂には井戸がある。「黄金井の霊泉」と称されるこの霊泉が寺名の由来。かつては池であったよう。弘法大師が掘り当てた霊泉であり、底から黄金がでてきた、と。
その横には閻魔堂があり、閻魔様が祀らえる。
観音堂
黄金地蔵尊の東にある観音堂。朱塗りのお堂の地下には八十八箇所の本尊が並ぶ、とも、
長慶天皇陵
上述阿弥陀堂への石段前に大きな岩が祀られており、「長慶天皇陵」とある。明治26年(1893)、境内(寺の裏山とも)より菊の御紋と「長慶帝」などと刻まれた石が発見されたとのこと。長慶帝の御陵と伝わるものは全国各地にあり、また寂本の『四国遍霊巡礼記』には、「亀山法皇の御廟もあり」、『四国遍礼名所図会』にも「亀山法皇廟陵 本堂裏」とある。
五来重氏は「山伏は南北朝時代の遺跡を人為的につくりますから、金泉寺の場合も、山伏が長慶天皇や亀山天皇の話をつくった仕掛人ではなかったかと思う(『四国霊場の寺』)」と記すが、これがなんとなく納得感は高そう。
弁慶の力石
境内、鐘楼裏に弁慶の力石がある、と。真偽のほどはともかくとして、屋島合戦へと阿波の勝浦に上陸した義経主従がこの寺で休息をとったとの話が伝わる。この地は阿波から讃岐へと抜ける大阪越(峠)えの道筋であり、それはそれで納得感は高い。


■第三番札所金泉寺から第四番札所大日寺へ■

金泉寺を離れ次の札所、第四番大日寺に向かう。山門前の茂兵衛道標に「大日寺 一里」とあるよに、距離はおおよそ4キロ。









撫養街道合流点に地蔵堂と道標2基
茂兵衛道標の指示に従い南へ撫養街道合流点まで下る。合流点に地蔵堂と2基の道標。1基は茂兵衛道標。手印と共に「金泉伽藍 大日寺 黒谷山へ 明治三十六年」といった文字が刻まれる。茂兵衛198度目巡礼時のもの。
もう一基は照蓮の「四国中千躰大師」標石。風化が激しく文字は読めない。





大阪越標石と標石2基
お堂を右に折れ撫養街道を西進し街並みの中を進むとJR高徳線にあたる。その踏切手前右手に大きな石碑と2基の標石。大きな石碑には「右 大阪越 明治十三年」と刻まれる。その横、細長い石柱には「板野町指定史跡 郡頭(こうず) 昭和四十九年二月一日 指定」といた文字が刻まれていた。
さらにその横には2基の石碑。1基は「右 大阪」といった文字が読めるが、もう一基の文字は読めなかった。
大阪越
この地を北に向かうと大阪峠がある。阿讃国境の峠であり、屋島合戦の折、阿波に上陸した義経が越えた道。また、四国88番札所である讃岐の大窪寺から阿波の一番札所霊山寺へと辿る遍路が越えた峠でもある。
古代官道・南海道
この大阪峠越えの道は古代官道のひとつ、南海道の道筋でもある。「板野町指定史跡 郡頭(こうず)」とは南海道の置かれた駅の名前。駅馬五匹が用意されていた。
南海道のルートを大雑把にメモすると;紀州・加太の湊より淡路島の由良の湊に。そこから、淡路の国府である養宣を経て福良の湊より阿波の牟夜(現在の撫養)に上陸。そこから??野川北岸を撫養街道に沿って西進し、この地郡頭に至る。
阿波の国府へはこの地より南下し吉野川南岸へ。北進すると大阪峠を越えて讃岐国に入り、引田・田面・三谷・讃岐国府へ。そこから更に伊予国へと繋がっていた。古代、この地は交通の要衝であったのだろう。

導引大師堂の標石
遍路道は撫養街道を西進し、道の右手に岡神社の巨大な楠木を見遣り先に進むと、道の右手に導引大師堂。「右 ふし井寺」、手印と共に「四番大日寺 五十* 三番金泉寺 五*」といった文字が読める。
「ふじ井寺」は11番札所の藤井寺だろう。吉野川南岸、まだずっと西にある。この指示は何を意図したものなのだろう。文字の上は手印を削り取ったような感がある。お遍路さんに混乱を与えないために削り取ったのだろうか。よくわからない。

振袖地蔵
西進すると道の右手に小堂。案内に「振袖地蔵」とあり、「今から約四百年前、板西城(板野町古城)の城主であった赤沢信濃守の娘カヨを供養するための建てられたお地蔵さんです。
天正十五年〈1582〉、中富川の合戦で信濃守が討死したとき、幼いカヨは母親と侍女とともに逃げましたが、母親は自害しカヨと侍女はこのあたりで土佐方の兵士に斬り殺されました。
命の短かったカヨ姫を哀れに思った村人たちが、振袖姿の地蔵尊を造りまつりました。後に、「振袖地蔵」「カヨ地蔵」とも呼ばれ、子供を守るお地蔵さんとして親しまれています。 平成十七年 板野町教育委員会」とあった。
中富川の合戦
中富川の戦い(なかとみがわのたたかい)は、天正10年(1582年)、阿波国へ攻略を目指す土佐国の長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦いである。攻防戦は約20日間行われ、人的被害は阿波国史上最高のものであった、とWikipediaにある。
信長勢の先鋒として四国制覇に臨んだ三好勢であるが、主の信長は本能寺で横死。これを契機に四国制覇を目指す土佐の長曾我部の侵攻にともない起きた合戦。土佐勢2300名、阿波勢5000。土佐勢の勝利により、阿波は土佐の勢力下となった。

諏訪神社の庚申塔と標石
更に撫養街道を進むと。道の右手の一段高い所に諏訪神社。その石垣下、道に沿って石造物が立つ。
庚申塔
横の案内には「寛文の庚申 寛文十三年(1673年)の刻銘がある。約三百三十七年前に建立されたものであり、地方では例のない石造文化財である。
庚申の信仰は、平安時代の中期から蜂須賀公入国後も盛んに行われ、元禄(1688年)宝永(1703年)正徳(1711年)年間に多い。住民が集まって、夜寝ずに庚申待ちという会を催し、祈りとともに諸般の協議を行った。祭神は道祖神や猿田彦命、また仏教では青面金剛という。
三猿雌雄の鶏を添加して処世訓としてあるので、村の辻や中心に常夜灯と共に設置し、集会や交通安全にも役立てた。今夜は庚申米団子、明日は半夏のハゲ団子――――の俗諺が残っている。 平成二十二年 板野町」とある。
石造物には「寛文一三年 奉供養庚申待一座為二世安楽」といった文字が読める。
標石
社殿に上る石段下の鳥居横に標石がある。風化が激しく文字は読めないが、これも照蓮の「四国中千躰大師」とされる。

犬伏谷川手前のお堂に標石
犬伏谷川の少し手前、道の右手にお堂がある。中には大師像が深く彫られた石碑が祀られる。文字も何も見えないが、これも同じく照蓮の「四国中千躰大師」のひとつとのことである。





大日寺旧道分岐点の茂兵衛道標と標石
徳島自動車道の高架を潜ると直ぐに、撫養街道から右に入る道がある。遍路道はここを右折し、また直ぐ左折し西に向かう。その左折点の道の両側に標石がある。左側は茂兵衛道標。結構土に埋もれている。「左 三ばん 明治十九年」などの文字が刻まれた茂兵衛88度目巡礼時のもの。常の「願主」ではなく、「先達」と刻まれているようである。
右側の標石には大師像が刻まれる。「近道廿五丁 四国第四番 明治九」といった文字が刻まれる、と。
手印に従い土径を西進する。

山裾に2基の標石
水路溝を越え山裾に。木標脇に2基の標石。「へんろ道」と刻まれる角柱標石と、手印と共に「第*」などの文字が刻まれた自然石の標石がある。遍路道はここからちょっと山道風の趣となる。




蓮華寺
ほどなく道の両側に少々古びたお堂が建つ。本堂と大師堂。蓮華寺と呼ばれているようだが、無住のお寺さまである。





愛染院手前の標石
蓮華寺の本堂と大師堂の建物の間を抜け、左手に広がる里の景観を楽しみながら道を進むと標石がある。「へんろ道」と刻まれる、この「へんろ道」と刻まれた標石は上述の中尾多七氏たちが23番札所まで60基弱立てられた標石のひとつだろうか。

愛染院
ほどなく愛染院に。小振りではあるが落ち着いたお寺さま。本堂と大師堂、鐘楼も備わる。弘法大師の開基。本尊の不動明王は大師の手によると伝わる。
境内には赤沢信濃守の廟祖が建つ。赤沢信濃守は前述袖振地蔵でも出合った武将。中富川の合戦で討死した。
仁王門前の標石
立派な仁王様が護る仁王門を出る。山門でよく見る大きな草鞋が吊られる。仁王門前に標石があり、手印と共に「四国三ばんみち 四国四ばんみち 大正世年」などの文字が刻まれる。


車道手前に2基の標石
愛染院を右に折れ少し進むと車道と交差する。その手前、道の両側に2基の標石。左手の標石には指を突き合わせた手印の彫られた標石。「三番 四番 明治三十四年」といった文字と共に、正面に「四国六十六度目 宮本秀成」の文字が刻まれる。佐賀の人という。 道の右手の標石は、「へんろ道」と刻まれる。

標石と馬頭観音群
車道をクロスし、小川に沿って再び山裾に近づく。山道に入るところに15基ほどの馬頭観音像が並ぶ。その中、右端にある最も大きな馬頭観音には手印と共に、「四国第四番是ヨリ十七丁」と刻まれる。
石碑
馬頭観音群の手前に石碑。藍の種の存続に貢献した岩田ツヤ子さんを顕彰したもの。戦時の食料増産のため禁止となった藍の種を6,7年に渡り官憲の目を逃れ栽培を続けた。藍は1年草のため、一度絶えると再生は困難故のため。
この努力により、戦後早々に藍作りが再開し得ることになった、と。平成13年の日付があった、

車道手前に標石
山道を抜け農家の庭先を進むと車道にあたる。その合流点手前に標石。手印と供に「第三番」の文字が刻まれる。かすかに大師像も残る。
遍路道はここを右折ししばらく車道を進むことになる。

松谷村庚申堂の標石2基
道を少し進むと道の右手にお堂がある。松谷村庚申堂。その東に標石2基。1基は「四国中千躰大師」標石。手印と大師坐像が刻まれる。もう一基は舟形地蔵標石、と。風化が激しく文字は読めない。
遍路道は四国中千躰大師標石の手印に従い、お堂前を右に折れる。



分岐点に標石
北に進むと道が二手に分かれる分岐点に標石。「へんろ道」と刻まれる。文字そして形からみて、上述、中尾多七さんたちが建てた標石のひとつのように思える。





藍染庵と標石
少し広い車道をクロスし先に進むと、道に左手に藍染庵がある。風の建物の前には「ご本尊愛染明王」の石碑と、さきほど出合った岩田ツヤ子さん顕彰の石碑が立つ。
この庵には江戸の頃、19世紀前後に阿波の藍の栽培、製造そして子弟育成に努めた犬伏久助像が祀られる。
四国千躰大師標石
藍染庵の北東端に標石が立つ。風化して文字は読めないが手印や大師坐像の特徴から見て、これも照蓮の四国中千躰大師標石のようだ。
阿波の藍
阿波に藍がもたらされたのは17世紀初頭。蜂須賀家が旧地の播磨から藍を移した。吉野川流域は藍栽培に適し、阿波二十五万石、藍五十万石と称されるほど、阿波藍は全国に知られた。
最盛期は明治36年(1903)。その後インド藍や合成染料の輸入により明治後半に急速に衰えた。

切通しの地蔵座像と供養石
藍染庵北から一旦山道に入った遍路道は徳島自動車道下を潜ると、一旦坂を下る。そこには藍染庵からの車道が先に延びている。徳島自動車道の建設によりこの辺りの地形、遍路道も変わったのだろう。
ともあれ、一旦車道に下りた遍路道は、車道の北に見える「遍路タグ」を目安に山道に入る。竹林に囲まれた趣のある道を少し上ると切通し。道の左右に地蔵座像と供養石が祀られる。

「法乃橋」石碑
切通を抜け急坂を下ると小川があり橋が架かる。その手前、道の右手に大きな石碑が立つ。浮き彫りの僧像とその下に「法乃橋」、更にその下に「御仏に結ぶえにしの法のはし 行きかふ人は罪もきはへつつ 宣能法師」の歌が刻まれる。文化十五年に宣能法師の発願により建立された石碑と伝わる。


T字路の標石と舟形地蔵
橋を渡り道なりに進むとT字路にあたる。合流点手前、右の左手に舟形地蔵、合流点正面に標石。形から四国千躰大師標石のようにも見える。手印に従い右折し先に進む

車道石垣下のT字路に標石
道なりに進むと正面が石垣に阻まれるT字路に当たる。正面の石垣前に標石。これも四国千躰大師標石のように見える。
石垣の上は大日寺への車道。遍路道は標石に従い右折し、車道と隔てる石垣に沿って北に進む




車道合流点に標石と13丁石
遍路道が車道と合流する箇所に標石。手印と共に「すぐ 三ばん 五ばん 札所」といった文字が読める。文化五年の標石とのこと。
また、標石の傍の車道に13丁と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。この合流点から大日寺へは車道を北に進むことになる。

14丁・15丁石
車道左手に14丁、そして15丁と舟形地蔵丁石が続く。この丁石は次の札所である五番地蔵寺への距離を示す。
15丁を越えると第四番札所大日寺は直ぐそこ。黒谷川に架かる橋を渡り山門に向かう。




第四番札所大日寺


鐘楼門
黒谷川に架かる石橋は、三百年以上の昔、小豆島から運ばれてきたもの。少し反っている。その先の朱塗り山門は二層の鐘楼門となっている。平成30年(2018)に改築されたと言う。
本堂
境内に入ると正面に本堂。慶安2年(1649年)建立、寛政11年(1799年)修復されている。Wikipediaには「大日寺(だいにちじ)は徳島県板野郡板野町黒谷にある東寺真言宗の準別格本山。黒巌山(こくがんざん)遍照院(へんじょういん)と号する。本尊は大日如来。 寺伝によれば空海(弘法大師)がこの地での修行中に大日如来を感得、一刀三礼して1尺8寸(約55cm)の大日如来像を刻み、これを本尊として創建し、本尊より大日寺と号したという。山号の黒巌山は、この地が三方を山に囲まれ黒谷と呼ばれていたのが由来で、黒谷寺(くろたにでら)とも呼ばれていたという。
荒廃と再興を繰り返し、応永年間(1394年~1428年)と天和・貞享年間(1681年~1688年)に再興され、また、元禄・宝暦年間(1751年~1764年)ころには徳島藩5代藩主蜂須賀綱矩の篤い帰依を受け堂塔の大修理が行われた」とある。
本堂前に置かれた香台は伊藤萬蔵寄進のもの。伊藤萬蔵寄進の香台、石灯籠には遍路道の途次、時に目にする。記憶に残るのは57番永福寺や74番甲山寺の香台、68番神恵院の石灯籠、また大窪寺への道筋にあった巨大な標石

伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。
大師堂回廊
本堂右手に大師堂。本堂と大師堂は鍵型の回廊で結ばれる。回廊内部には弁財天女、青面金剛、そして、三十三体の西国霊場の観音菩薩像が並ぶ。後背のついた観音菩薩像は江戸時代中期の明和年間(1764年 - 1772年)、大阪塩町の藤村大師奉納と刻まれている、とのこと。



■第四番札所大日寺から第五番札所地蔵寺へ■

次の第五番札所地蔵寺までは2キロ弱。山門を出て先ほど辿った15丁石、14丁石、13丁石を標に車道を南に下る。

11丁石:10丁石
13丁石を越え先に進むと車道の左手から道が合流。大日寺へ向かう途中に出合った車道石垣下を進む道。
合流点から車道の東を進む道に入ると、道の左手に石仏群。その中の1基が11丁の舟形地蔵丁石。更にその先に2基の舟形地蔵。共に十丁と刻まれる舟形地蔵丁石であった。

遍照院跡
道はその先で車道を斜めにクロスし、車道西側に出る。橋を渡り目の前に徳島自動車道の高架が建つ手前、小高い緑の中に鋳銅製の坐像仏や石造物。遍照院跡と言う。





お堂と7丁石
徳島自動車道の高架を潜ると道は左右に分かれる。分岐点にへんろ道の案内木標が立っているのだが、これがどちらを指すのかはっきりしない。実際の所、右をしばらく進み、どうも違うな、と元に戻り左の道に入った。左折がオンコースであった。
左折し道を進むと右手にお堂。その先、道の左手に7丁の舟形地蔵丁石があった。

羅漢堂東の標石と石仏群
道なりに民家の中を南に下る。少し広い車道をクロスし更に南下。道の右手に緑が茂る場祖を過ぎるとT字路にあたる。道の右手には石造物。その中に「へんろ道」と刻まれた標石が立つ。ここを左に折れると地蔵寺の羅漢堂に入る。
また、T字路の左手、民家の塀に組み込まれた標石がある。照蓮の四国中千躰大師標石と言われる。
羅漢堂は後回しとして、道を左に折れ、すぐ先で少し大きな車道を右に折れ第五番地蔵寺に入る。


第五番札所地蔵寺

山門
山門は単層。仁王が護る仁王門
本堂と不動堂
境内に入ると左手に本堂。Wikipedaiには「徳島県板野郡板野町羅漢にある。無尽山(むじんざん)荘厳院(しょうごんいん)と号する。本尊は延命地蔵菩薩で、その胎内仏は勝軍地蔵菩薩。
寺伝によれば弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海(弘法大師)が一寸8分(約5.5cm)の甲冑を身にまとい馬にまたがる姿をしていると云われる勝軍地蔵菩薩を自ら刻み、本尊として開創したと伝えられる。
嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤かった。宇多天皇の頃、紀州熊野権現の導師であった浄函上人が、熊野権現の託宣によって霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納めたという。
本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏の庇護を受け、歴代住職や信者の尽力により再興された」とある。

本堂に不動堂が並ぶ。不動明王立像、両脇に如意輪観音(阿波西国24番)と八臂弁財天。左側には如意輪観音堂と恵比寿堂が並ぶ。
大師堂と淡島堂
文久3年(1863年)9月建立。本尊は弘法大師、脇仏は弥勒菩薩坐像と不動明王坐像。大師堂横に淡島堂が建つ。







羅漢堂
本堂裏の西側を北に歩くと羅漢堂が建つ。正面に釈迦堂、左右に弥勒堂と大師堂がコの字形に回廊で結ばれる。釈迦堂には釈迦如来、弥勒堂には弥勒菩薩、大師堂には弘法大師、その間の回廊には五百羅漢が並ぶ。大正4年(1915)に堂宇焼失。現在の羅漢像はその後再興されたものである。
五百羅漢とは、「仏陀に常に付き添った500人の弟子、または仏滅後の第1回の結集(けつじゅう、仏典編集)に集まった弟子を五百羅漢と称して尊崇・敬愛することも盛んにおこなわれてきた」とWikipediaにある。



■第五番札所地蔵寺から第六番札所安楽寺へ■

地蔵寺を離れ次の札所安楽寺へはおおよそ4キロ。境内を離れ石畳風の参道を南に下り、大きな石造寺柱の間を抜け撫養街道へと下る。

撫養街道合流部に地蔵尊と標石2基
撫養街道合流点に地蔵尊坐像。北向地蔵尊の台座には「五番地蔵寺」と刻まれる。その横に標石2基。茂兵衛道標と四国中千躰大師標石が並ぶ。
茂兵衛道標は197度目巡礼時のもの。手印と共に「地蔵寺 安楽寺 明治三十六年」といった文字が刻まれる。四国中千躰大師標石は風化激しい。手印と「文化六」といった文字が刻まれると言う。
青石板碑
地蔵座像の後ろに青石板碑が立つ。「板野町指定 史跡 観応の板碑」とある。観応と言えば14世紀中頃、南北朝時代のものである。
板碑には梵語で書かれた種子(しゅじ)が見える。種子とは密教で仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。「ア」「バン」と読める。共に「大日如来」を象徴する。
阿波は青石(緑泥片岩)の産地として知られ、板碑は数千基も建つと言う。板碑は供養塔(石造の卒塔婆)。この高さ1.6m強の板碑には「右造立意趣者相迎先考幽儀沙弥道阿敬白  第三年追善為頓証仏果故也」の銘文が刻まれ、沙弥(しゃみ)道阿なる者が、幽儀の第三回忌にあたる観応3年に、追善供養を営み、その功徳による仏果を願い建立したようである。

県道12号傍・撫養街道の標石
地蔵尊を右に折れ撫養街道を西に進む。道の右手に大きな石柱。書道関係の遺跡への案内石碑と言う。更に先に進むと県道12号に接近。県道は一段下を走る。
撫養街道の右手に標石。「へんろ道」と刻まれ、その文字の上に矢印と両サイドに五番、六番の文字が見える。前述中尾多七さん達が建てた標石だろう。

第二神宅橋南詰めに標石
右手に雨乞いで知られる古社・八坂神社(瀧の宮)を見遣り、たきのみや橋、神宅橋を渡ると次いで第二神宅橋の南詰めに標石。手印と共に「遍路みち 大山道 一本松道 嘉永元年」と言った文字が刻まれる。

大山道、一本松道はこの地の北、阿讃国境にある大山越、一本松越の峠を経て讃岐に向かう道を案内したもの。

大山寺への案内
しばらく西進すると道が左右に分岐する箇所に小祠の祀られる水場があり、そこに「大山寺」の案内。大山寺は上述、大山越えの手前、この地よりおおよそ北に7キロ、標高450mの阿讃山地にある古刹。
寺伝によれば6世紀前後、武烈天皇・継体天皇の時代に西範僧都(せいはんぞうず)が開基した阿波国最初の仏法道場であると伝えられている。往時は、阿波の麓からの参拝者ばかりでなく、讃岐側からは山を越え参拝した。その数は参詣者の半数を占めた、と言う。

壊れた茂兵衛道標と石仏群
しばらく進むと道の左手に社殿があり、その境内西北端、道の右手に石碑や石造物が並ぶ一画があり、その対面には壊れた標石がある。茂兵衛道標とのこと。
茂兵衛道標には手印と共に、「六番 五番 左藤井寺 明治三十一年」と刻まれる、と。茂兵衛160度目巡礼時のもの。藤井寺は第十一番札所。吉野川南岸で「左」には違いないが、まだまだ西である。意図は何だろう。吉野川北岸を辿る遍路道には、はるか離れたところにある吉野川南岸の札所案内が目につく。

この石造物が並ぶ一角には、往時お堂があったよう。現在はその名残りはないが、石仏や青面金剛の刻まれた庚申塔も残る。その中に自然石の大山寺の碑。「是より北二十八丁 準別格本山大山寺」と刻まれる。
これによれば大山寺まで3キロほどだが、傍にあった新しい大山寺の案内には「四国別格二十霊場 四国三十六不動霊場 大山寺 入口 是より約6キロ」とある。こちらのほうが正しそう。
葦稲葉神社・殿宮
道の左手の社は葦稲葉(あしいなば)神社と殿宮神社。境内には本殿として二棟が並ぶ。Google mapには「鹿江比売(かえひめ)神社」とある。なんだろう?時代も事情も不明であるが延喜式内小社と伝わる鹿江比売神社が葦稲葉神社に合祀されたとあった(Wikipedia)。 葦稲葉神社の創祀時期は不詳であるが、9世紀中頃の文書にその名がある古社のようだ。鹿江比売神社の祭神である鹿江比売神は阿波忌部一族の神であり、上述大朝比古神社にもその小祠があるようだあ。

茂兵衛道標(183度目)と標石
宮川内谷川に架かる泉谷橋を渡ると遍路小屋。道を南西に道を進むと県道12号とクロス。遍路道は県道を横切り右手に宝蔵寺を見遣り上板町の街並みに入る。
南北に走る少し広い道との五差路で遍路道は進路を西に変える。五差路を右折、すぐ左折し松島神社前を抜け西進すると川の手前に2基の標石。1基は茂兵衛道標。手印と共に「安楽寺 地蔵寺 明治三十四年」と刻まれる茂兵衛183度目巡礼時のもの。 もう1基には「へんろ道 文政球」といった文字が刻まれる。

庚申谷川を渡り安楽寺に
川を渡り県道12号とクロス。そのまま直進し県道139号となった道を西進すると庚申谷川に架かる竹重橋。遍路道はこの竹重橋東詰から斜めに川を渡る脇に入り道なりに進むと第六番札所安楽寺山門脇の標石に至る

今回のメモはここまで。次回は第六番札所安楽寺から第十一番札所藤井寺までをカバーする。



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