四国 歩き遍路 そのⅠ:四十三番札所・明石寺から鳥坂峠を越え、大洲そして内子まで

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四国霊場四十三番札所・明石寺から久万高原町にある四十四番札所・大宝寺までは80キロ以上の距離がある。先般、その西半分の遍路道を内子からはじめ下坂場峠・鶸田峠を越え、また四十五番岩屋寺に進み逆打ちで四十四番に進む真弓峠・農祖峠を越えて久万の街へと辿った。
そのときは、単に峠越えに惹かれただけで結果的に遍路道を辿ることになったのだが、どうせのことなら東半分、四十三番札所から内子まで歩き、遍路道を繋げようと思った。距離はおおよそ40キロ強だろうか。2回に分ければ歩けそうである。
初回は明石寺のある卯之町から大洲まで、2回目は大洲から内子まで。幸い、卯之町、大洲、内子には予讃線の駅がある。初回は大洲の駅前に車をデポし列車で卯之町に移動し、卯之町から大洲まで戻る。途中、河野氏に援軍を送った毛利勢の逸話の残る鳥坂(とさか)峠を越えて、なんとか大洲までたどり着いた。 2回目は内子駅近くに車をデポし大洲に向かい、内子まで戻り、さらに内子の市街を抜けて水戸森峠を越え、先回東半分の遍路道歩きの始点である石浦まで進むつもりであったのだが、途中二度ほど道を間違ったロスが響き、結局水戸森峠の取り付口で時間切れとなってしまった。
数キロ残すことになったのは少々残念ではあるが、次回のお楽しみとする。それにしても、車デポ地に往復するピストン不要の行程は、やはり、いい。



本日のルート;予讃線・大洲駅>予讃線・卯之町駅>高野長英ゆかりの家>明石寺への遍路道>切通を越えて明石寺に>第四十三番札所・明石寺>宇和先哲記念館脇の境界石>中町(なかんちょう)>開明学校跡>境界石>多賀神社>松葉城跡>満慶寺の徳右衛門道標>下松葉交差点の道標>下池の道標>田苗真土の道標>大江の茂兵衛道標>「飛鳥城跡(笹城)」の案内>東多田の道標>信里の常夜灯>信里庵の徳右衛門道標>境界石>ヘンロ小屋>国道から離れ遍路道に>久保の道標>鳥坂番所跡;13時8分>林道と交差;13時20分>鳥坂(とさか)峠;13時30分>日天月天社と道標;13時49分>林道に出る;13時59分>林道(大正9年の県道)へ出る;14時5分>林道(大正9年の県道)を進む>遍路案内が現れる:14時21分>林道から分岐しショートカット;14時36分>札掛大師堂;14時43分>お接待所跡>国道56号を北只に下る>金山橋;15時23分>柚木尾坂の道標>大洲駅に

予讃線・大洲駅
田舎の新居浜を出て大洲に。駅のロータリーにも駐車場があるが、駅のスタッフの方に大洲から内子まで列車を利用し、歩いて戻ってくるのだが駐車は可能かと尋ねると、本来往復切符でのみ有効な「駅レンタカー」用の駐車場使用を許可してくださった。感謝。

予讃線・卯之町駅
列車は八幡浜を経由し、卯之町に。駅前からスタート地点の四十三番札所・明石寺に向かう。

高野長英の隠家
成り行きで明石寺に向かう途中に高野長英が潜伏した家がある。小振りな家である。案内には;
「高野長英先生 蛮社の獄で入獄。卯之町にも潜伏
高野長英は文化元年(1804)五月五日、陸奥国水沢(岩手県水沢市)に生まれる。幼名は悦三郎。叔父高野玄斎の養子となり、高野の姓となる。杉田玄白や吉田長淑に入門した後、鳴滝塾でシーボルトに学ぶ。
田原藩家老・渡辺華山や岸和田藩医・小関三英らと尚歯会を結成。飢餓対策や西洋事情の研究などに奔走する。天保八年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃。長英は『夢物語』を、渡辺華山は『慎機論』を書き、幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄する(蛮社の獄)。入獄、六年目、獄舎が火災になり一時釈放されるが、そのまま逃亡。諸国の数多い門人や学者、また宇和島や薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り、六年間潜行する。
宇和島藩内には嘉永元年四月二日に入り、宇和島横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠した。その間に『砲家必読』(全十一巻)などを訳している。翌年一月、追っ手から逃れるため宇和島城下を去り、卯之町に住む学友・ニ宮敬作の自宅裏の離れ二階などに潜む(現在地)。
四月には鹿児島に向かったが安んずることができず、再び宇和島を経由し、六月三日卯之町に到着。十日間余滞在する。八月には江戸を経由し、下総に潜伏。翌年の嘉永三年再び江戸に帰り、青山百人町に居を構え、医業を営む。十月三十日、捕吏七人に襲われ、自刃する」とあった。
二宮敬作
蘭学者。宇和郡磯崎浦(現八幡浜市保内町)出身。号は如山。長崎へ赴き、通詞吉雄権之助や美馬順三に師事し、やがてシー ボルトの門人となる。後に、シーボルト事件 に連座し、江戸構長崎払(江戸立入禁止、 長崎退去)となる。帰郷後、主に宇和郡卯之町(現西予市宇和町)で開業医として活躍し、シーボルトの娘イネの養育もした。宇和島藩主伊達宗城に重用されたほか、高野長英や村田蔵六(大村益次郎)とも交流があった

明石寺への遍路道
道を成り行きで進むと宇和先哲記念館があり、その前の道に右手「歯長峠 8.9km」と書かれた「四国のみち」の木標がある。歯長峠は四十二番札所・仏木寺から四十三番札所への遍路道途中の峠。明石寺の案内は無いが、木標に従い右手の山方向へ向かう。
右手に愛媛県歴史文化博物館、左手に県立宇和特別支援学校を見遣りながら道を進むと舗装が切れ、明石寺への山道に入る。

切通を越えて明石寺に
山道の途中に、木の根っこに佇む小体な仏さまや無縁塚を見遣りながら切通しを越え、明石寺に。山道の登り口から切通まで8分、お寺様まで10分強。気持のいい散策路といった風情の道であった。




第四十三番札所・明石寺
山道から出てすぐのところに神仏混淆の名残を残す社、その先に手水場がある。手水場で浄め石段を上り山門(仁王門)を潜る。右手に地蔵堂があり、数段の石段を上ったところに本堂、右手に鐘楼と大師堂が建つ。鐘楼堂は江戸末期とされるが、他の堂宇は明治から大正のものと,言う。
Wikipediaに拠れば、創建年は不詳。天平6年(734年)に行者が熊野より十二社権現を勧請し修験道の中心道場としたとされる。弘仁13年(822年)には荒廃した堂宇を空海(弘法大師)が再興したとも伝わる。
建久5年(1194年)に、源頼朝が池禅尼の菩提を弔うため阿弥陀如来を安置、経塚を築き堂宇の修繕をした。その後も武士からの信仰が篤く、室町時代は西園寺氏(卯之町に居を構えた西園寺氏の一流)の祈願所、寛文12年(1672年)には宇和島藩主伊達宗利が堂宇を建立した。
寺にあった案内には、「本来の名称は「あげいしじ」だが、現在は「めいせきじ」と呼ばれています。土地の古老たちは、この寺を親しみを込め「あげいしさん」または「あげしさん」と呼んでいます。
この「あげいし」という名はその昔、若くて美しい女神が願をかけ、深夜に大石を山に運ぶうち、夜明に驚き消え去ったという話を詠った御詠歌「軽くあげ石」からついたと伝えられています。
8月の縁日には、西日本の各地から多くの人々が集まり、終日賑わいを見せています」、とあった。
御詠歌は「聞くならく 千手の誓ひ 不思議には 大盤石も 軽くあげ石」。千手とは渡来仏とも伝わる千手観音菩薩。文脈から察するに、若くて美しい女神の化身ということだろうか。
道標
お参りを済ませ久万の札所との遍路道、80キロを繋ぐ旅を始める。山道を上りお寺様に下りた口にあった道標に刻まれた「右 へんろ道」を見遣り、来た道を卯之町へと下る。






宇和先哲記念館脇の境界石
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター;以下「えひめの記憶」)」には、先哲記念館付近に境界石がある、とのこと。通りを探したのだが見つからず、幸先がこれでは、と思い始めた頃、ひょっとして、と記念館北の脇道に入ると、民家の前に境界石が見えた。
「従是西驛内 卯之町」「天保14年 癸卯」と刻まれる。「西驛内」って?地名かと思ったのだが。「駅=宿(卯之町)」の西の境という事だろう。

中町(なかんちょう)
先哲記念館付近に立派が門構えの屋敷がある。庄屋である鳥居某の屋敷故に鳥居門と呼ばれるようだ。武家屋敷と見まごうその構えは、身分不相応と咎めを受けた、とか。入り母屋造りの中二階、白漆喰塗りの酒屋からはじまる、古き屋並みの残る中町通りを進む。

「えひめの記憶」に拠れば、「中町通りは、宇和島藩政時代になって形成され、道の両側には多くの商家が立ち並び、旅籠(はたご)もあって卯之町の中心街をなしていた。『四国遍礼名所図会』でも「鵜の町よき町なり(中略)此所にて支度」と記述しているように、ここで遍路は、物資を調達したり、宿泊したりしたものと思われる。
中町の町並みは、江戸時代や明治時代の建物が数多く現存している。かつてここを訪れた司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中で、「百年、二百年といった町家が文字どおり櫛比(しっぴ)して、二百メートルほどの道路の両側にならんでいる。こういう町並は日本にないのではないか。(中略)拙作の『花神』に二宮敬作が出てくる。シーボルトの娘イネも出てくる。『おイネさんが蘭学を学ぶために卯之町の二宮敬作のもとにやってくるのは安政元年ですから、おイネさんが見た卯之町仲之町といまのこの町並とはさほど変わらないのではないでしょうか。』」と記述している」とある。
◆四国遍礼名所図会
五巻からなる遍路絵日記。寛政十二年(1800 )三月二十日から五月三日までの、七十三日間( 四月閏)の九皋主人の遍路記を翌享和元年(1801 )に書写した河内屋武兵衛蔵が残っている。
卯之町の歴史
何故に、卯之町が栄えたのかちょっと気になりチェック。江戸時代、卯之町は宇和島藩最大の在郷町として、また、宇和島と大洲を結ぶ宇和島街道の宿場町として栄えたというが、その歴史は更に古く、宇和郡を治めた西園寺氏まで遡る。天文18年(1549)、卯之町の2キロほど北の松葉城から、現在の卯之町の宇和運動公園北の黒瀬城に館を移し、山麓をその城下町(松葉町)とした。
西園寺氏は秀吉の四国征伐でその軍門に下り、慶長20年(1615)には伊達氏が10万石の領主として宇和島に入る。伊達氏は松葉町の盛んなるを見て驚いたというが、慶安4年(1651)松葉町を現在の卯之町の地に移し、名も「卯之町」と改め、宿場町、在郷町として農村経済の中核となり明治に至るまでその繁栄が続いた、と。
在郷町
在郷町(ざいごうまち)とは?チェックすると、中世から近世にかけて、農村部などで商品生産の発展に伴って自然発生した町や集落のこと。商工業者のほかに農民が多く在住しているのが特徴。都市と農村の機能を併せ持つ当時の「地方都市」といった性格の町のようである。寛政元年(1789)戸数140軒・住民508人、天保9年(1838)戸数149軒・住民615人との記録があるようだ。
「国選定・重要伝統的建造物群保存地区・西予市宇和町卯之町伝統的建造物群保存地区」の案内
街中に立つ案内には、「西予市宇和町卯之町は、江戸時代を通じて宇和島藩下の在郷町として栄えた。地場産業である良質の檜材や、宇和盆地でつくられた良米等が集まり、5軒の造り酒屋が店を構え、商家が立ち並んだ。また宇和島・大洲を結ぶ街道の拠点として物資が集散したり、白装束のお遍路さんが往来して宿場をにぎわせた。
この区域には、近世(江戸時代)の面影を伝える町家が軒を並べ、併せて寺(江戸期)・学校・教会等、明治・大正・昭和初期の歴史的建造物により、伝統的な町並みが形成されている。町並みの特徴は妻入りと平入りが混在していることである。
妻入りの町家は四国地方にあまり例がなく、また格子や蔀、床几、大戸などに加え、卯建、袖壁、一階軒下の持送り、二階の手摺り、飾り瓦等の意匠も特徴的である。保存地区は中町、新地、横町、大念寺、下町に分けられ、江戸時代の地割や、各時代の建造物で独自の景観を醸し出している」
卯之町の由来
江戸の頃、慶安4年(1651年)にいくつもの大きな火災があり、町を大念寺(現在の光教寺;開明学校の近く)山麓に移す際、火災を恐れた当時の人々が水に因んだ鵜を町の名前にし「鵜の町」とし、それが「卯之町」に変わった、と。上の卯之町の歴史で慶安4年に「卯之町」に移したとメモしたが、正確には「鵜の町」としたようだ。
「鵜の町」「卯之町」となった因は不詳。卯の日野菜や果物 雑貨などを売る市を立てていたからなど、常の如く諸説あるようだが定まることなし、ではある。

開明学校跡
仲町の通りから左に少し入った先に、四国最古の小学校である開明学校がある。前身は明治2年(1869)に左氏珠山の門下生や町民の有志により建てられた私塾・申義堂。明治5年(1872)、申義堂を校舎として開明学校が開校。明治15年(1882年)に現存する校舎が竣工した。
旧開明学校校舎は、木造2階建、桟瓦葺きで、窓枠をアーチ状につくるなど、わずかに洋風の意匠を取り入れた擬洋風建築である。地元の大工によって建築された擬洋風建築であり、建築史上、教育史上に価値が高いとして評価され、1997年5月に国の重要文化財に指定された。
ここには何度も訪れているので今回はパス。

宇和町小学校手前の境界石
西予市宇和町小学校の少し手前、道の左手に境界石が建つ。「從是東驛内 卯之町」と刻まれる。先鉄記念館脇にあった「従是西驛内 卯之町」と刻まれた境界石と対をなし、駅宿としての卯之町の境を示していたのだろう。




多賀神社
先に進みT字路の箇所右手に多賀神社。ささやかな社である。「えひめの記憶」にはこの辺りに道標があるとのことで、結構探したのだが見つからなかった。 道標には「右面に「大洲へ五り半 松山へ十九り」、左面に「山田薬師 八幡浜」とあるとのことで、後程訪れる下松葉の分岐点が整備されるまでは、ここが宇和島街道と笠置街道(八幡浜旧道)の分岐点、とあった、と。
笠置峠
地図で確認すると、多賀神社の少し北、春日神社の辺りから予讃線、県道25号が左に折れ、宇和町岩木の笠置峠で共にトンネルで抜けて北西の八幡浜へと続いていた。その道筋が笠置街道ではあろう。

松葉城跡
卯之町から下松葉の道に入る。しばらく歩くと道の右手に「松葉城跡」の案内。 「嘉禎二年(1236)宇和地方は西園寺公経の荘園となり、西園寺氏が松葉城の前身である岩瀬城に入城したのは、公良の時の永和二年(1376)であったといわれている。のち一九代実充が黒瀬城に居城を移す天文年間ごろまで、約一七〇年間西園寺氏の居城として栄えたが、本城を主とする攻防の歴史は今一つ不明である。
松葉城は標高四〇九.九米、宇和町下松葉裏山にあって、典型的な山城で、平にされた山頂は三段に分かれ、面積約四〇アール余りで、土塁、井戸のほか当時の遺物も多い。山頂は、きつ立した岩をめぐらし、万兵を防ぐに足る要害の地といえる。
かつては周辺の老松が古城跡に風情を添えていた。古書に「祝儀の宴あり、松の葉嵐につれ来り盃にとまる(中略)一千年色盃深し、目出度奇瑞なりとて松葉城と改められる由」とある。城では、たびたび能の会を催すなど、優雅な貴族出身たる城主の一面をのぞかせている。城跡からは、青磁等が多量に出土していて、都の香り高い文化がうかがえる」とあった。松葉城跡まで1キロとの案内があり、寄ってみたいとは思えどの心境で先を進む。
西園寺氏
前述の如く、卯之町の礎を築いた。いつだったか、河野氏ゆかりの地を辿った時、はじめて西園寺氏と愛媛の関わりを知り、ちょっと驚いたことを思い出した。
その西園寺氏であるが、伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたて、鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任され橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。
その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)

満慶寺の徳右衛門道標
左手に走る国道56号と平行に道を進むと満慶寺。道脇の参道入口に「四国のみち」の石碑と並び立っていた。
西予市
Wikipediaに拠れば、愛媛県の南予地方に位置する西予市は2004年に東宇和郡4町(宇和町・野村町・城川町・明浜町)と西宇和郡1町(三瓶町)の5町が新設合併して誕生した。旧5町のうち旧宇和町は江戸時代より宇和島藩の宿場町として栄え、その中心部(卯之町)に残る歴史的景観は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。旧宇和町は現在でも西予市の中心として機能しており、卯之町には駅や松山自動車道西予宇和インターチェンジがあるなど、比較的交通の利便性が高い。
海から山まで東西に長い市域をもっている。西は宇和海に接し、東部は四国カルストを擁する山地で高知県と境を接している」とあり、続けて、「愛媛県は東予・中予・南予の3地域に分けられるが、「南予=宇和島」のイメージが強く、そのため、八幡浜市・大洲市・喜多郡・西宇和郡・旧東宇和郡(西予市成立で消滅)は、全体の地域を指す言葉として「西伊予」が発案したのだが、この一地域のみが「西予」と称することに他地区からは抵抗があったようだ」といった記述があった。
そういえば、愛媛に生まれた者としても、南予=宇和島、八幡浜、東宇和郡、西宇和郡、といったイメージを持っていた(大洲、喜多郡は「中予」と)。宇和島と一線を画したいといった気持があったのだ、とはじめて知った。
徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。

下松葉交差点の道標
旧道が国道56号に合わさる下松葉交差点の手前に、西園寺氏の氏神であった春日神社。社に手を合わせ、そのすぐ傍、旧道が国道56号に合わさるところに道標が立つ。「遍ろ道 八幡浜新道」「左 八幡浜旧道 津布里」[明治四十年建立]と読める。
遍路道は案内に従い現在の国道筋を北に向かうことになる。
八幡浜新道・八幡浜旧道
道標に刻まれる八幡浜旧道はここで左折し、県道25号・予讃線の道筋を通り笠置峠を越えて八幡浜に向かっていた。八幡浜新道は明治31年(1898)頃には開削された鳥越峠越えの道。現在の国道56号を北に進んだ瀬戸・東多田の集落から左折し鳥越峠を越えていた。
八幡浜旧道は新道ができるまで宇和と八幡浜を結ぶ唯一の往還であり、「彼ノ峻坂ナル笠置峠ヲ越ヘサル可カラサルヲ以テ、荷車等ハ殆ント皆無ニシテ貨物ハ漸ク人肩牛馬ニヨリテ運搬セルニ過キサリキ(えひめの記憶)」と記されるような険しい道であったようだが、それでも八幡浜と卯之町間に鉄道が開通する昭和20年(1945)頃まで使われていたとのことである。
なお、道標にある「津布里」は西予市三瓶町津布里。現在の県道30号筋を三瓶トンネル、三瓶隧道辺りで山越えし谷道川の谷筋を津布里に向かったのだろうか。道筋を想像するだけで、結構幸せな気分になれる。

下池の道標
交差点から国道56号をちょっと進み、右手に下池の堤が見えるとすぐに道標が立つ。手印とともに「スガワ寺へ」と刻まれる。久万の四十四番札所・菅生山 大宝寺のことである。
遍路道は国道を離れ、明治30年(1897)頃から開かれた県道(現在は町道;以下旧道)を下松葉、上松葉と進む。
下坂戸では自動車教習場の辺りで旧道を右にそれ少しの間一筋山手の道に入り、茶畑を見遣りながら進みほどなく旧道に合わさり、坂戸の集落を抜ける。

田苗真土の道標
旧道は加茂交差点で国道56号を横断し、郵便局と宇和町農協低温農業倉庫の間の道を進むと右手に宗合神社。あまり聞きなれない社。チェックすると、明治26年、下総の義民・佐倉宗吾郎の分霊を勧請した祠があったとのことだが、明治41年(1908)から42年(1909)にかけて付近の加茂・真土・田苗・杢所の集落が合併するに際し、地域の20の社の祭神を合祀したため、社の名前も宗吾郎と統合からそれぞれ一文字を取って宗合神社とした、と。
道を進み、旧道が国道に合わさる少し手前、民家軒下に道標があり、「スガワ寺 十九里十丁」と刻まれていた。

大江の茂兵衛道標
国道56号をしばらく進み、肱川が国道に最接近する辺りから国道を離れ旧道を大江の集落に入る。集落を進む道が国道に合流する手前で三叉路となるところに茂兵衛道標が立つ。明治31年(1898)建立の道標には手印方向に「菅生山」、そして「左 八幡浜」と刻まれる。下松葉交差点の道標にあった、鳥越峠を越える「八幡浜新道」の道筋を示しているものと思える。

中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
で、件(くだん)の道標であるが、中務茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標のひとつ。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。

「飛鳥城跡(笹城)」の案内
大江の茂兵衛道標から少し国道を進み、瀬戸の集落に入る旧道へと右に入る。分岐点には「鳥坂峠 5㎞」の木標が立つ。しばらく進み瀬戸集会所の手前に「飛鳥城跡(笹城)瀬戸」の案内。「飛鳥城は、標高280m八ヶ森から派出した、尾根の端に位置している。
山頂は平に削られ、周囲から敵の侵入し難く加工された平場、つまり郭が三段になり、三の丸、二の丸、本丸が西から東へ順に延びる。東西80m、南北90mの城跡、数カ所の段や堀切がある。
この地の城は西園寺氏の出城であったといわれている。麓にはこの城を中心とする戦いで城代;上甲光康とともに戦死した西園寺家嫡男の公高卿の墓と記念碑がある」とあった。
公高卿の墓と記念碑は国道56号筋にある、とのこと。そう言えば、国道からこの旧道が分かれる手前、骨董品点を越えた先の道路脇にブロックで囲われた、それらしき場所を見かけた。
宇都宮氏
「えひめの記憶」に拠れば、「出自については諸説あるが、下野宇都宮郷を本貫とする地方豪族であったことは間違いない。源平争乱記に軍功は記録として見られないが、鎌倉幕府開幕後、有力御家人として重きをなし、守護・地頭の制度施行時に伊予の守護であった佐々木氏の後、13世紀前半頃に伊予の守護職となる。後鳥羽上皇の討幕挙兵である承久の乱における軍功故とも云われる。鎌倉幕府滅亡までその職にあった、と。
伊予に移ったのは14世紀の前半。伊予宇都宮氏は大洲を拠点に戦国時代まで続き、天正13年(1585)土佐の長曾我部氏によって滅ぼされることになる」とある。

東多田の道標
道路整備によりこの地に集められたのであろう幾多の石仏と一体の地蔵が佇む瀬戸集会所を越え、東多田の町に入る。町並みは古き趣を残して落ち着いた雰囲気だ。
なんとなく単なる農村集落だけではないのでは?チェックすると、中世にこの地・宇和盆地の北端は多田宇都宮氏という領主が治め、西園寺氏とは一定の距離を持ち、この地を治めていたとのこと。館は東多田交差点の西、独立丘陵に下木城であった、とか。

東多田の集落を進むと三叉路があり、そこに道標が立つ。手印の面には「へんろ道 菅生山 明石寺」への里程が示され、「左 八幡浜へ三り」「南北 大洲 宇和町」の案内とともに「きん高公七丁」の案内もある、と言う。「えひめの記憶」には「弱冠19歳で戦死した。地元では、彼の死を悼み、命日にはおこもりをして供養したり、頼みごとをすると願いをよく聞いてもらえるとお参りする人もいたという、そのために、東多田の道標は、墓所のある場所を案内している」とあった。
番所跡
「えひめの記憶」には道標は番所跡手前に番所があった、という。現在は普通の民家となっているが、「道は東多田の町並みに入る。ここは、宇和町では卯之町に次いで栄えた町であり、現在も昔をしのぶ古い家々が残るが、かつては大洲藩との藩境にも当たり、宇和島藩の番所が置かれていた。
『四国遍礼名所図会』にも「東唯村、庵、番所切手を改む」とある。この番所は、通行人の取り調べが厳しいことで知られ、一般から侍番所として恐れられていたという」とある。

信里の常夜灯
東多田の集落を離れ、国道に合流した遍路道はしばらくして国道を離れ旧道に入る。道を進み小川に架かる橋の先に常夜灯。「えひめの記憶」に拠れば、「遍路道が東多田(私注;東多田には見当たらなかった。東多田は信里の誤り?)に入ると、正面に「金毘羅宮江四十八り」、右面に「安政二年」と刻まれた上部が破損紛失した常夜灯が立っている。
常夜灯は、宇和町ではこれ以外には存在せず、この常夜灯は、宇和島街道全域の現在残る最遠の金毘羅里程道標として貴重な存在になっている。なお、この常夜灯は、「安政二年」の刻字から、旧道沿いに最初からあったかどうかは疑問である」とある。

信里庵の徳右衛門道標
常夜灯を過ぎ信里の集落に入ると、道の左手に信里庵と呼ばれるお堂があり、そのお堂を囲む道路沿いの生垣に徳右衛門道標が立つ。正面には「是ヨリ菅生山十八里」と刻まれているようだ。



境界石
旧道を進み国道に合わさる箇所に境界石が建つ。「従是南宇和島領」と刻まれる。「えひめの記憶」に拠れば、「この領界石は元は東多田番所跡に建てられていたが、昭和53年(1978)の調査時点では、東多田の岩崎八幡神社の境内に在ると記録されており、その後、平成元年に現在の位置に移されたという。また、大洲領内を示す「従是北大洲領」と書かれた領界石も、かつては鳥坂番所の下に建てられていたが、現在は国道の鳥坂燧道(ずいどう)手前100mの地点から右折する旧道沿いの山際に移されている」とあった。

ヘンロ小屋
境界石から国道56号を進む。しばらく進むと道の左手に「ヘンロ小屋」。「お遍路さん休憩所 第四十九号 ヘンロ小屋ひじかわ源流の里」とある。
「ヘンロ小屋」にはじめて出合ったのは下坂場峠・鶸田峠を越えて久万に向かう途中。四国四県をカバーするプロジェクトで、平成28年(2016)4月現在55のヘンロ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、お遍路さんには大きな助けとなるかと思う。実際、現在宿を提供しているフランス人の歩き遍路は、ヘンロ小屋に寝泊まりしながら旅を続けている。

国道から離れ遍路道に
ヘンロ小屋の直ぐ先に左に折れる道がある。
その分岐点に
「鳥坂峠 」を示す木標とともに、「この先鳥坂トンネル(1117m)トンネル内歩道狭し
⇒ここから峠道(へんろ道)5.5km 約60分 
⇒56号(トンネル利用)2.1km 約」25分」とある。
はじめから鳥坂峠越えと決めている我が身は迷うことはないのだが、歩き疲れたお遍路さんは判断に悩むところ。実際、峠越えで出合ったご婦人も迷った末、トンネルを抜ける危険を避けて峠に廻ったとのことだった。
峠越えも結論を先に言えば、肝心な箇所に道案内がなく、数回道の取り方に迷うことになった。GPSをもっている者は心配ないが、そうでない方がほとんどだろうから、道案内の整備があれば、とは思う。

久保の道標
国道を左に折れ、遍路案内に従い道を進むと、曲がり角、山側に道標がある。 道標の上にある休憩所が目安になるだろう。道標のある曲がり角で道は二手に分かれるが、峠への道は急坂となる左手山側の道。ここも下の道を進み引き返してくるお遍路さんを見かけた。

鳥坂番所跡;13時8分
左手山側の坂を上るとすぐに鳥坂番所跡がある。瓦葺のしっかりした建物が残るが、元は茅葺であったようだ。茅葺から瓦葺へとはなったが、改修された箇所は少なく当時の面影は残している(「えひめの記憶」)、と。 案内には「鳥坂番所は藩政時代、人物・物資の不当流出を防ぐため、宇和島街道の要衝であったこの地に、大洲藩によって建設されました。玄関、座敷、襖、欄間の一部は当時のもので、旧態をうかがうことができます。
当時番所を通行するためには、身分証明書とか往来手形といったものの提示が求められた上に、厳しい取締りを受けましたが、四国八十八ヶ所巡礼などの巡礼者については、比較的楽に番所を通行できたそうです」とあった。


大洲藩? 案内横にも「西予市指定文化財 大洲藩鳥坂口留番所跡」とある。普通行政区の境は尾根が普通だが、この地まで大洲藩の領地が出張っている? チェックすると、「えひめの記憶」に「鳥坂峠の南麓に位置するこの鳥坂番所は、面白いことに宇和島藩ではなく大洲藩によって設置された関所である。
元は鳥坂峠に存在したというが、天保年間(1830~1844年)に現在地に移されたという。ちなみに宇和島藩側の番所は南の東多田に置かれていたとのことで、つまり宇和島藩と大洲藩の藩境は鳥坂峠ではなく鳥坂と東多田の間であったことになる。事実、この鳥坂集落と正信集落の一帯は、昭和33年(1958年)に宇和町に編入されるまで大洲市に属していた。
大洲と宇和はたびたび国境紛争があったとのことで、自領地への侵入を阻む峠を麓の集落から丸ごと抑えることは、防衛上極めて重要だったに違いない」との説明があった。

林道と交差;13時20分
標高270mの鳥坂番所跡から峠への上りをはじめる。上りといっても、峠の標高は470mほどであるので、峠越えといったほどのものでもない。


「えひめの記憶」には、「遍路道は旧街道でもあり、卯之町から大洲に至る主要な往還であった。『四国逞路道指南』には「とさか村、こヽにうわ島と大ず領とのさかひ。過て戸坂ざか二里有、八町ほどのぼり、それよりくだる」とある。 ただ、この往還も「峠には、大正9年(1920年)に松山―宇和島間の県道が開通し、昭和28年(1953年)、それが国道56号に昇格し、松山と南予を結ぶ幹線道路として盛んに利用された。
しかし昭和45年(1970年)峠の下に鳥坂トンネルが完成し、現在の国道56号ができると、利用者のほとんどはこの新国道を通るようになった。旧国道は、現在林道となり、また峠ごえの旧道は人通りがほとんどなくなり雑草が生い茂っている状態である(「えひめの記憶」)」とする。
大正9年(1920)の県道
大正9年の県道(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター)」
説明と共あった旧県道の地図をチェックすると、現在の国道56号・正信バス停の先から右に折れる県道237号を進み、途中宇和町久保の飛び地辺りから県道を離れ北に向かい、鳥坂峠の西を国道56号に沿って進む林道がその道筋のように思える。
「人通りがほとんどなくなり雑草が生い茂っている」遍路道はほどなく杉林に入る。「えひめの記憶」によれば、峠の南北、道の両側には松並木が続いていたようだが、戦時中の供出や戦後のマツクイムシの被害により、今はその面影は留めない。
遍路道の案内に従い道なりに進むと、舗装された林道にあたる。北裏地区に繋がるようだ。遍路道は道越えた先から斜めに上るのだが、よくみれば遍路案内はあるのだが、ちょっと分かりにくい。

鳥坂(とさか)峠;13時30分
舗装された林道先の土径を進み、竹藪を越える辺りから右手が開け、宇和の盆地が見える。鳥坂番所脇から上りはじめて20分強で鳥坂峠に着いた。 扁平に削られた峠には「明石寺12.5km 日天社0.6km」の木標が立つが、鳥坂峠の案内は見当たらなかった。「天下泰平国土安全 普賢延命地蔵」と刻まれた地蔵と、その左の小さな舟形地蔵が峠の趣を残すのみ。
鳥坂峠の合戦
鳥坂峠は一度訪れてみたいと思っていた。いつだったか村上水軍や河野氏ゆかりの地を辿ったとき、この地で河野氏と土佐一条氏の合戦があり、河野氏の先陣・来島村上氏に援軍を送った毛利家の重臣小早川氏の、「来島の恩返し」故の出兵というフレーズに惹かれたためである。
「来島の恩返し」とは、毛利氏と陶氏の宮島での合戦の折、来島村上を核とする村上水軍が毛利に与し、毛利氏の勝利に多大な貢献をした、その恩をこの戦で返す、ということである。
合戦の経緯
戦国時代、伊予の東予・中予はかろうじてその支配下に置いていた河野氏であるが、南予には中央の朝廷と直接繋がりをもち、小規模ながらも戦国大名的性格をもつ喜多郡の宇都宮氏、宇和郡の西園寺氏の支配下にあった。その両氏は鳥坂峠辺りで境を接する領土を巡り紛争を繰り返していた。
そんな折、永禄9年(1566)、土佐一条氏が豊後の大友氏の支援を受けて、伊予に侵攻。宇和の西園寺氏攻略をすべく北進を開始した。その状況に宇都宮氏は土佐の一条氏に与し、伊予の河野氏と抗する構えをみせる。
この動きに対し河野氏は南予に軍を進める。その先陣を務めたのが河野氏重臣・来島通康と平岡房実である。永禄10年(1567)の秋ごろ、河野勢は鳥坂峠の西麓に鳥坂城を築く。これに対し、一条氏側は鳥坂峠東方の高島山に陣を布く。河野勢は毛利の援軍を要請するも豊後の大友氏の後方攪乱により、即時の出兵かなわず、戦線は膠着状態のまま永禄11年(1568)を迎える。
永禄11年(1568)2月、一条軍の総攻撃により、戦国期の南予における最大の合戦が喜多郡と宇和郡の境界付近の多田・鳥坂峰で行われた。これが鳥坂峠の合戦である。
河野勢は、小早川隆景を大将として派遣された三備・芸・防・長の大軍とともに迎え撃ち、西園寺氏は、宇和衆・三間衆とともに、多(現宇和町)に布陣し、一条軍を背後から包囲した。
幡多郡および高岡郡の津野氏(定勝)の軍勢から編成されていた一条軍は鳥坂峰(現宇和町鳥坂峠)に誘動され、取り詰められた土佐勢は河野軍の切り崩しを図るも大敗。大津・八幡両城に楯籠って抵抗していた宇都宮豊綱も毛利の大軍に包囲され、ついに降伏。同年五月までに隆景は、勝利を収めて帰国した。

と、メモはしたのだが、資料によっては、永禄11年(1568)春、毛利の主力部隊が上陸し、一条氏側の拠点となっていた大洲城をするも、再び大友氏の後方攪乱で毛利本隊は四国を離れることになり、鳥坂峠の合戦に、特段毛利勢が与力したわけでもなく、徐々に毛利氏側(河野氏)が優勢となり、毛利勢の本隊が伊予に入ってからは、戦況は一挙に変わり、地蔵ヶ嶽城(大洲城)を陥れたのを皮切りに、上須戒・下須戒・登議城山など一条・西園寺・宇都宮諸勢の諸城は次々と陥落、宇都宮豊綱は遂に開城・降伏することになる、といった記事もあり、よくわからない。また、この場合、永禄11年(1568)までに西園寺氏が一条氏に屈している、ともあった。

日天月天社と道標;13時49分
峠で少し休憩し杉林の道を下る。ほどなく土径を抜け、作業道といった趣の道に出る。作業道から左に折れる道などがあり、どれが遍路道か分からない。遍路案内は全くない。オンコースは、ママ進めばいいのだが、一度下に向かう作業道に下り、引き返した。このあたりに遍路道の案内があればいいかと思う。 ともあれ、作業道を進み北に突き出た尾根筋の突端にくると祠が見えた。日天月天社である。峠から15分といったところだろう。
祠は自然石で囲われたささやかなもの。案内には、「日天月天社 昔々世の中で一番尊いものは、昼はさんさんと光を注いでくれる「お日様」夜はほのかな明かりを与えてくれる「お月様」。この二つだと考えられていました。
この社はこの尊いものを神として祭っているといわれ、「日天月天様」と呼ばれています。御神体はこの山から切り出されたと思われる半円形をした岩で、梵語(古代インド文字)が刻まれています」とある。
祠の前には拝殿なのか、遍路小屋なのか木造の建物があり、その手間の道脇に板状の石で囲われたお地蔵様が佇む。その台座は道標となっており、「是よりアゲイシサン三里 スガワサン十七里」と刻まれているとのことである。

林道に出る;13時59分
日天月天社から作業道を少し進むと舗装された道に出る。地図で見ると鳥坂隧道の上辺りである。地図を見ると大正9年(1920)の県道筋(現在の県道237号)と峠の西の県道235号を繋ぐ道のようにも見える。
林道を右に折れ100mほど進むと左に折れる道がある。遍路道案内があったかどうか忘れてしまったが、ともあれ左に折れると舗装された道に出た。現在は林道となっている大正9年(1920)の県道のようである。
なお、この辺りには「鳥坂バス停」への木標はあるのだが、遍路道の案内が見当たらなかった。要所にはシールだけでもいいので、道案内があればと思う。

林道(大正9年の県道)へ出る;14時5分
林道を進む。「えひめの記憶」には「やがて旧街道である遍路道は大洲市三本松に入り、現在の市道に出合う。その地点には、かつて接待所もあったというが、道の右側には道標がある」とのこと。当日は「市道」って何処?林道、市道、旧県道の関係が不明でとなんだか少々混乱し、結局道標を見つけることができなかった。
メモの段階であれこれチェックすると、旧街道が市道(現在林道の大正9年(1920)の旧県道)に出て少しくだった道の右手に道標があったようだ。とりあえず、推定した場所だけプロットしておく。
「えひめの記憶」には、「これらの道標群は、おそらく市道開設時に付近から集められたものと考えられるが、そのうちのひときわ目立つ道標は、武田徳右衛門が願主となっている。その横の二つの舟形地蔵道標は「是より十丁常せったい所」と読み取れ、おそらく野佐来(やさらい)の札掛大師堂か「お接待場」あたりを案内しているものと思われる」とあった。

林道(大正9年の県道)を進む
林道(大正9年の県道)を進む。「えひめの記憶」には「この道標群から、旧街道と合致する市道を野佐来の札掛(ふだかけ)に向かって150mほど下ると、遍路道の方向と下稲積道への道を示す道標が立っている」とあるが、その道標も見つけられず、当日はオンコースの道を進んでいるのかどうか結構悩む。2本も見逃すってちょっと考えられないので、「市道」がどこかに通っているのだろうか、とはいえそれっぽい道などありゃしない、と混乱した。
一応推定場所はプロットしておいたが、それは「えひめの記憶」に「旧街道は、この辺り(道標)から尾根道を通って札掛に達していたが、現在は草木に覆われて通行不能になっている。そのため峠越えをした遍路は、国道56号と旧街道の間を並行に通る市道を歩き、やがて札掛大師堂の少し手前から旧街道に入って札掛大師堂(仏陀懸(ふだかけ)寺)をめざす」との記事より、尾根道に入る取り付き口に道標(推定)としてプロットした。

遍路案内が現れる:14時21分
林道(大正9年の県道)に出ておおよそ15分、道の右手の杉の木に「歩き遍路」の案内が現れた。途中2箇所にあるとされる道標でも持見つけておれば、この林道が遍路道ってわかっただろうが、それもなく、あらぬ林道を歩いているのでは、などと思い続けていたので、この遍路道案内を見て一安心。
本来の遍路道は、林道右手の尾根筋ではあろうが、藪で歩けそうにないとのことであるので、遍路道を辿っていることを確信し道を下る。

林道から分岐しショートカット;14時36分
左手が開け、遠くに大洲に向かう松山道の高架を見遣りながら進むと、林道から左手に分岐する遍路道案内がある。ローマ字表記あり、これでもか、というくらいの遍路道案内である。このうちひとつでも、道を間違いそうな箇所にあれば、と切に思う。
実際峠道で追い越したご婦人のため、自分が迷った箇所には、折れた木を集め進行方向を示す矢印としたり、土に矢印を書いたりしたほどの「悩み所」がいくつかあった。

札掛大師堂;14時43分
案内に従い土径を進み、大きく廻る林道(旧県道)を2度クロスし、一直線に下る。前面が開け、国道56号を見下ろし先に進むと、荒れ果てた建物前に出た。それが札掛大師堂とは思ってもみなかったのだが、門の左手に「佛陀懸寺」、右手に「四国霊場 札掛」とあるのを見て札掛大師堂とわかった。
大師立像はあるものの、本堂は滅茶苦茶。歩を進める気にもならなかった。 「ひめの記憶」には、「掛大師堂は、『四国遍礼名所図会』に(峠より左二伊づし観音山見ゆる。豊後日向路はるかに見ゆる。十丁程下り大師加持水左の方五間下り有リ、庵常接待有り大師安置、爰二て支度、加持水庵のわきニ有リ。」とある。ここに記された「伊づし観音山」とは、出石寺のある山を指しており、札掛大師堂を参詣した遍路の中には、ここから大洲市黒木、同平野町の平地を経由して出石寺を訪れる者もいたようである。
この大師堂は、弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の折に、仏像を松の枝に懸(か)けて祀り、悪病退散・五穀成就を祈祷(きとう)してご利益にあずかり開いたものと伝えられている。現在、境内には、「弘法大師札掛の松」と称されていた大きな松の木の切り株が残っており、かつては常設の接待所もあった」とあるが、足の踏み場もないほどの荒れ具合に、早々に引き上げた。

お接待所跡
札掛大師堂から坂を下り、林道(大正9年の県道)とクロス。「FUDAKAKE TENPLE」とローマ字の刻まれた石標脇をショートカットで道を下り、林道とあたるとすぐ道は国道56号に合流する。
国道56号を少し下ると、左手に製材所、右手のラーメン屋手前のドライブインの一角にはかつて「お接待所」と呼ばれ、峠越えしたお遍路さんが休息をとった、とのこと。ラーメン屋手前の屋根だけの堂宇には「国道開通の際に道筋にあった大師像や千手観音像などの石仏が集められ祀られている(「えひめの記憶」)」とのことである。

国道56号を北只に下る
お接待所のあった先には、現在国道を挟んで大洲ゴルフ倶楽部のコースが広がる。「えひめの記憶」には、「こののち旧街道である遍路道は、ゴルフ場で現在は消滅している。かつての道はゴルフ場の中を通り、いったんは子持坂のバス停付近に出る。この辺り一帯は、地域の人から「遍路供養」とも呼ばれており、国道開設以前には行き倒れた遍路の墓が多くあったという。

その後、道は再びゴルフ場に入るが、ゴルフ場を出るとやがて石畳(いしだたみ)の道となって北只(きたただ)に入る。現在、ここは高速道路の予定地となって工事が進められている。なお、「お接待場」から子持坂を経て北只に至る遍路道には、改修前の国道を通る道もあった」とあり、遍路道は消滅しているようだ。説明にあるゴルフ場を進む推定遍路道を大雑把に記しておく。

ゴルフ場を横切るわけにもいかず、仕方なく長い下りの国道をトラックの風圧を受けながら、おおよそ2キロ強、30分ほど下ることになった。

金山橋;15時23分
北只に入ると国道56号を離れ、嵩富川(たかとみがわ)に架かる金山橋を渡る。国道56号、松山道を左手に眺めながら、嵩富川の右岸を進む。松山道の高架を潜り嵩富橋に。


柚木尾坂の道標
遍路道の案内はそのまま先に続いているのだが、「えひめの記憶」には「嵩富橋に至る。そこから橋を渡って左折し、土地区画整理事業で埋め立てられた市の瀬地区を過ぎると、歴史を感じさせる家並みに入り、大洲市柚木(ゆのき)尾坂に菅生山への里程を示す道標が立っている」とあるので、橋を渡り柚木の小高い独立丘陵を迂回し、肱川へと突き出た尾根筋の切り通しといった雰囲気の道脇右手に道標が立っていた。尾根筋突端には大洲神社が鎮座する。

大洲駅に
ここで時間切れ。成り行きで道を進み肱川を渡り大洲駅に。駅前にデポした車をピックアップし帰途につく。次回は城下町大洲の入り口から内子に向かうことになる。

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