八王子散歩もこれで五回目。よくもまあ、とは思えども、それでも取りこぼしの処がある。それも、八王子と言えば、といった処。もっとも八王子を歩きはじめる前には預かり知らなかったところもあるが、それはそれとして、山田の広園寺、小門の大久保長安の屋敷跡、元横山の八幡八雲神社、恩方の由比氏館跡などがそれである。事前準備なし、成り行き任せの散歩が基本ではあるので、結構「後の祭り」ってことが多いのだが、それにしても一度訪れないことには八王子散歩としては少々収まりが良くない。ということで、「八王子ほぼ締めくくり散歩」に出かけることに。
広園寺
月見橋を渡り、広園寺交差点を西に折れ広園寺に。風格のあるお寺さま。臨済宗南禅寺派。杉木立の境内には総門、山門、仏殿が並び、その脇には鐘楼が建つ。往古14万坪以上の境内に開山堂、仏殿、方丈、総門、山門、鐘楼など幾多の堂宇が結構をきわめた頃には、比ぶべくもないのだが、それでもの「結構」ではある。
寺の開基は南北朝末期というから14世紀末。片倉城主長井大膳大夫満道広とも、大江備中守師親とも。長井氏は大江広元の次男時広が頼朝の奥州征伐に従い、出羽国長井庄を領し、ために長井氏を名乗ったことからはじまる。つまるところ、どちらにしても大江広元の後裔である。
大江広元って、鎌倉開幕期の重臣。平安末期より、この地域一帯に覇を唱えた武蔵七党・横山党に代わり、この地を領した。きっかけは和田義盛の乱。横山党は和田方に与力し北条氏との抗争に敗れる。横山党の領地は、北条勝利に大きく貢献した大江広元に与えられた。
この古刹は天正の小田原征伐の別働隊である上杉景勝、前田利家軍による八王子城合戦の折、堂宇悉く灰燼に帰した。現在の建物は慶長年間、浅野行長により再興された。寺域には大江氏の館址も残る、とか。
富士森公園
道を広園寺交差点まで戻り、都道506号線を北に向かう。山田川の川筋を見下ろしながら丘陵の坂道を上る。上りきったあたりに富士森公園。今風ではない、土っぽい、なんとなく素朴な感じの公園。開園が明治29年と言うことで、それなりの風雪のなせるワザか、とも。
公園内の浅間神社にお参り。裏手に富士塚がある。富士山に行くことができない人が、代わりに参拝したもの。散歩の折々に富士塚に出会うが、葛飾区南水元の富士神社、狭山丘陵・荒幡の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。
公園から八王子の街並みを眺める。地名が台町というだけあって、結構なる高み。市街地との比高差は30m強、といったところ。坂を下り都道506号線を上野町に進む。市民会館交差点を左に折れると郷土資料館。
郷土資料館
市民会館の前、お役所の建物、と言うか、学校のような建物の中にある。1967年(昭和42年)の開館であり、多摩地方で最も古い郷土資料館である。館内には中央高速の建設時に発掘した出土品などが展示をされている。川口兵庫助の発願により写経された「大般若経」もある。室町期に活躍した兵庫助には先日の川口川散歩のとき、鳥栖観音堂で出会った。
館内には八王子大空襲の展示も。1945年(昭和20年)の8月2日、180機の爆撃機により投下された焼夷弾は67万個に及んだ、と言う。事前の爆撃予告があったとはいえ、市街の80%近くが壊滅したという大規模爆撃であった。
八王子「時の鐘」
郷土資料館を離れ、都道506号線を少し北の金剛院交差点に。左手の金剛院は後回しとし、道の向こうにある天神社、そしてすぐ横にある念仏院・時の鐘を訪ねる。天満神社はいたってあっさりした祠。「時の鐘」は元禄12年(1699年)の鋳造。八日市宿名主である新野某の発願で、八王千人道頭や同心、それに八王子15宿や近郷の人の協力により寄進された。
八日市宿は横山宿、八幡宿とともに滝山城下にあった三宿のひとつ。北条氏が城を八王子城に移すに際し八王子城下に、さらに、江戸開幕期に三宿そろってこの地に移った。
法蓮寺
ここからはしばらく千人隊ゆかりの寺を訪ねる。八王子千人隊は八王子千人頭を筆頭に、10名の同心組頭に率いられた各百人の同心よりなる。設立時は江戸の西の防御のためのものであったが、太平の世になると日光東照宮の火防・警護をする日光勤番がその主任務となった。
最初に訪れたのは法蓮寺。天満神社の南の道を少し東に進んだところにある。八王子千人隊組頭である並木以寧が眠る。19世紀中頃・天保の飢饉の頃、医をもって病者を救い、貧者に救いの手を差しのべた。幕末の社会事業家として知られる。
本立寺
法蓮寺の隣に本立寺。千人頭・原氏の開基。境内に眠る原半左衛門胤敦は、寛政11年(1799年)蝦夷開拓願いを幕府に提出。翌年100名の千人同心子弟を率い蝦夷に渡るも、幕府の政策転換により、文化5年(1808年)、志半ばにして江戸に戻ることになる。『新編武蔵風土記稿』の「多摩郡」編纂者としても知られる。
観音寺
本立寺の少し南に観音寺。石段を上がったところにある山門は千人隊頭・中村左京の屋敷門を移築したもの。行基作とも伝えられ「峰の薬師」と称される秘仏をもつ、とも。
観音寺からは千人隊ゆかりの地から少し離れ、武蔵七党・横山党ゆかりの地である八幡八雲神社に向かう。東京環状16号線を北に、JR.中央線を越え国道20号線に。そこから北に二筋上がった少し東に八幡八雲神社がある。
八幡八雲神社
この神社は八幡神社と八雲神社とを合祀したもの。八幡神社は武蔵守・小野隆泰が都の石清水八幡を勧請したもの。その後、隆泰の長子である義孝が武蔵権守となり、この横山の地に館を構え横山氏と称した。武蔵七党の一つである横山党の始まりである。ために、この地が横山党根拠地の地とされる。
横山氏は鎌倉の御家人として活躍するも、建暦3年(1212年)の和田合戦で和田義盛に与し北条に敗れ、その勢を失った。境内にある横山神社は大江広元が義孝の霊を鎮めたもの。広園寺でメモしたように、広元は和田合戦において北条勝利に貢献し、横山氏の領地を有した。 八雲神社(天王さま)は、古来深沢山(八王子城山)に牛頭八王子権現として鎮座。北条氏照が彼の地に城を築くに際し、その名にちなみ八王子城と名付け城の氏神となした。地名・八王子の由来でもある。
天正18年(1590年)秀吉軍の猛攻を受け八王子城落城。ご神体は城兵により密かに川口村黒沢の地に隠す。時を経て慶長3年(1597年)、八王子神社に合祀された。八幡八雲神社は八王子の西の鎮守とされる多賀神社に対し、東の鎮守として人々の尊崇を受ける。
金剛院
国道20号線・甲州街道に戻り少し進み、八幡町交差点を南に折れ金剛院に向かう。ゆったりとした境内のお寺様。江戸の頃には表門、鐘楼、本堂、庫裡、観音堂などが並んだと言うが、昭和20年の八王子大空襲で焼失した。品のいい雰囲気。真言宗の別格本山という寺格のためだろう、か。別格本山がどういったものか定かではないのだが、いつだったか、つつじ見物に訪れた青梅の塩船観音も真言宗の別格本山であった。あの古刹と同じクオリティと思えば、有り難みが少々わかる。
創建は天正4年(1567年)。現在地より少し南にある不動堂がはじまり。明王院と呼ばれた。その後、寛永8年(1631年)、現在地に金剛院として開山。この地が大久保長安の陣屋内にあった大師堂にあたることから、その大師堂の法灯を継ぐ形で明王院が移ってきた、と伝わる。別格本山となったのは平成4年のことである。
大久保長安屋敷跡
江戸時代初期、金剛院から北にかけて旧小門宿、現在の小門町に大久保長安の屋敷があった。JR中央線を越えた少し西にある産千代(うぶちよ)稲荷神社に大久保長安の陣屋跡の碑が建てられている。南北と西に陣屋の土手、その外周に水堀、東に表門、北に裏門があったと伝わるが、産千代神社は西の土手辺りだろう。陣屋内の鬼門除けとして祀られた産千代神社は、大木が茂り稲荷森と呼ばれていた、とのことだが、現在は閑静な住宅街といった趣である。
大久保長安は元武田家の家臣。武田家滅亡後、その才を家康に見いだされトントン拍子に出世し関東総代官としてこの地に居を構えた。行政・司法・財政を差配し、関東の人々の仕置きをすべて任されたわけであり、公事訴訟のために陣屋を訪れる人々で門前市をなした、とか。『新編武蔵風土記』に「町なかに番屋を構え、籠獄をおき非違を戒めたり」とある。小門町の地名も、裏門あたりに公事訴訟の百姓宿を建て、それが御門宿>於門宿>小門宿、と転化していった、とか。西への備えに武田家遺臣をもって八王子千人隊を組織するなど、この陣屋は、江戸開幕期において司法・行政・財政の中心地であった。
関東総奉行の職に加え金山奉行として鉱山開発、貨幣鋳造なども兼務し、権勢並ぶものなき長安も終には家康の寵を失い、長安だけでなく係累すべてに罪を及ぼすといった「粛正」が行われた。
陣馬街道
次の目的地は恩方の由比館址。甲州街道を追分で分かれ陣馬街道・案下道を5キロ程進んだところにある。日暮れも近い。追分を越え歩き始めてはいたのだが、このままでは、日没時間切れとなってしまいそう。ということで、日吉町で折良く走ってきたバスに飛び乗った。バスに乗ると、急に強気になり、どうせのことなら、由比館址の少し先にある宝生寺にまで足を伸ばすことに。先日来の八王子散歩で、「宝生寺末寺」といった寺がいくつかあり、それならば結構なお寺様かと記憶に残っていた。
陣馬街道は追分から北西に一直線に進み、北浅川に当たる手前で直角に曲がる。突き出した山稜が北浅川に「沈む」突端が切り開かれ、切り通しとなっている。この切り通し脇に由比氏館址があるのだが、それは後ほど辿ることにして、先に進み宝生寺団地入口バス停で下車。
宝生寺
陣馬街道を離れ宝生団地方面への道を北に進む。陵北公園の野球場を右に眺めながら進み北浅川・陵北大橋に。西に並ぶ陣馬の山容を眺めながら橋を渡り脇道を宝生寺に。イメージとは異なり、古刹といった趣はない。百坪もある本堂や書院、庫裡、玄関、表大門、中門、鐘楼などの堂宇が八王子の大空襲で焼失。本堂・庫裏は昭和25年、鐘楼堂は昭和43年、書院が昭和45年、その他山門、毘沙門堂を新たにつくられた、とのこと。新しいお寺様といった雰囲気はこのため、か。
開山は室町期。元は境内仏堂・大畑観音堂の別当寺であったが、15世紀のはじめ寺生寺と改めた。戦国期は滝山城主・北条氏照の帰依を受け滝山城下に移り祈願所となる。江戸時代には、関東十一談林の一つとなり、御朱印十石を賜り、末寺38ヶ寺を有する武州多摩郡の名刹として隆盛した。高尾山薬王院とならぶ古刹であった。談林とは学問所院のこと。
寺を離れ先ほど通り過ぎた切り通しまで戻る。陵北大橋で西の空を見やる。日暮れも近く、ほんのり夕焼けが陣馬の山容を照らす。先日、陣馬街道の夕焼け小焼けの道を歩いたが、日中でもあり夕焼けはなし。中村雨紅が陣馬街道・案下道を実家へと戻る恩方の道すがら、童謡「夕焼け小焼け」の歌の詩情を養った景観の一端を味わい、少々幸せな気持ちになる。案下は僧侶として仏門に入るとき準備する篤志家の家のこと。恩方は「奥方」から。奥の方といった意味、か。どちらもいい響きの言葉である。
由比氏館址
陣馬街道に戻り、切り通しに戻る。直角に折り返す切り通しを抜けると日枝神社への石段。石段を上りお参り。南から北へと突出する舌状台地の突端部分にある。散歩の達人・岩本素白さんの描写ではないけれど、「神といえども、さぞや寂しかろう」、といった風情の祠が佇む。
平安期、このあたりには由比氏の館があった、との説がある。弐分方山とも呼ばれるこの雑木林の丘は御屋敷とも呼ばれていたのは、その名残であろうか。由比氏は武蔵七党のひとつ西党・日奉氏の後裔。この辺り一帯の由比の牧の別当として力を養った。
神社の横に丘陵を越える切り通しがある。由比氏の館の堀切とも言われる。現在の陣馬街道が通る以前の案下道(陣馬街道)ではあったのだろう。館跡の遺構は、この丘陵の尾根道を400mほど下ったところの不断院あたりまでいくつか残る、とか。平安期は由比の牧を見下ろし、戦国期には八王子城の防衛ラインとして陣馬街道を睥睨していたのだろう。
壱分方町・弐分方町
由比氏の館跡を訪ね、本日の予定は終了。日没までまだ少々時間がある。諏訪町にある諏訪神社まで足を伸ばすことにした。諏訪宿といったバス停が残る。「宿」であれば歴史のある地域であろうし、それよりなにより、由比の牧のあったこの辺りを歩くのもいいか、と思ったわけである。
陣馬街道を南東に進む。街道の北は上壱分方町。南は弐分方。この地名も由比牧と縁が深い。由比牧の別当としてこの地に居を構えた由比氏は、横山氏とともに和田合戦において和田義盛に与力。北条方に破れ、牧の管理者の任を追われることになる。その後子孫は由木村に転じ由木氏を起こし、川口氏もその後裔であるのだが、それはそれとして、この地で力を失った由比氏に代わり、由比牧は天野氏に領地となった。天野氏は武田家家臣。武田家滅亡後、遠州犬井の里より北条宇氏照を頼り、この地に来た。
本日のルート;京王山田駅>広園寺>郷土資料館>天神社>念仏院・時の鐘>法蓮寺>本立寺>観音寺>八幡八雲神社>金剛院>産千代稲荷神社>追分町>日吉町(バス)>宝生寺団地入口>宝生寺>日枝神社>諏訪神社>京王八王子駅
京王線・山田駅
散歩のスタートは山田の広園寺から。最寄りの駅である京王線・山田駅に向かう。駅を下り都道506号線を北に向かうと、道は緩やかに山田川の谷筋へと下りてゆく。川の北には散田の小高い丘陵。川筋は細長く東西に延びる谷戸となっている。山田川はこの谷戸奥を上流端とし、東へと下り多摩川へと合流する。
散田って、読みは「さんだ」だとは思うのだが、通常、散田(さんでん)って、平安期の荒廃した田、とか、近世において逃散などにより耕作する農民のいなくなった田地との意味、そしてその他に、荘園領主の直属の田地といった意味ある。往古、天皇直轄地である屯倉であった多摩一帯は、平安期には舟木田庄と呼ばれる藤原氏の庄園となる。鎌倉期には頼朝によりその地は関白・九条家に寄進。さらに九条家は係累の一条家にも譲り、両家が相伝してきたが、鎌倉以降になって両家はこの地を京都の東福寺に寄進した、と言う。この地の散田って、これら庄園に関わる地名であろう、か。単なる妄想。根拠なし。
京王線・山田駅
散歩のスタートは山田の広園寺から。最寄りの駅である京王線・山田駅に向かう。駅を下り都道506号線を北に向かうと、道は緩やかに山田川の谷筋へと下りてゆく。川の北には散田の小高い丘陵。川筋は細長く東西に延びる谷戸となっている。山田川はこの谷戸奥を上流端とし、東へと下り多摩川へと合流する。
散田って、読みは「さんだ」だとは思うのだが、通常、散田(さんでん)って、平安期の荒廃した田、とか、近世において逃散などにより耕作する農民のいなくなった田地との意味、そしてその他に、荘園領主の直属の田地といった意味ある。往古、天皇直轄地である屯倉であった多摩一帯は、平安期には舟木田庄と呼ばれる藤原氏の庄園となる。鎌倉期には頼朝によりその地は関白・九条家に寄進。さらに九条家は係累の一条家にも譲り、両家が相伝してきたが、鎌倉以降になって両家はこの地を京都の東福寺に寄進した、と言う。この地の散田って、これら庄園に関わる地名であろう、か。単なる妄想。根拠なし。
広園寺
月見橋を渡り、広園寺交差点を西に折れ広園寺に。風格のあるお寺さま。臨済宗南禅寺派。杉木立の境内には総門、山門、仏殿が並び、その脇には鐘楼が建つ。往古14万坪以上の境内に開山堂、仏殿、方丈、総門、山門、鐘楼など幾多の堂宇が結構をきわめた頃には、比ぶべくもないのだが、それでもの「結構」ではある。
寺の開基は南北朝末期というから14世紀末。片倉城主長井大膳大夫満道広とも、大江備中守師親とも。長井氏は大江広元の次男時広が頼朝の奥州征伐に従い、出羽国長井庄を領し、ために長井氏を名乗ったことからはじまる。つまるところ、どちらにしても大江広元の後裔である。
大江広元って、鎌倉開幕期の重臣。平安末期より、この地域一帯に覇を唱えた武蔵七党・横山党に代わり、この地を領した。きっかけは和田義盛の乱。横山党は和田方に与力し北条氏との抗争に敗れる。横山党の領地は、北条勝利に大きく貢献した大江広元に与えられた。
この古刹は天正の小田原征伐の別働隊である上杉景勝、前田利家軍による八王子城合戦の折、堂宇悉く灰燼に帰した。現在の建物は慶長年間、浅野行長により再興された。寺域には大江氏の館址も残る、とか。
富士森公園
道を広園寺交差点まで戻り、都道506号線を北に向かう。山田川の川筋を見下ろしながら丘陵の坂道を上る。上りきったあたりに富士森公園。今風ではない、土っぽい、なんとなく素朴な感じの公園。開園が明治29年と言うことで、それなりの風雪のなせるワザか、とも。
公園内の浅間神社にお参り。裏手に富士塚がある。富士山に行くことができない人が、代わりに参拝したもの。散歩の折々に富士塚に出会うが、葛飾区南水元の富士神社、狭山丘陵・荒幡の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。
公園から八王子の街並みを眺める。地名が台町というだけあって、結構なる高み。市街地との比高差は30m強、といったところ。坂を下り都道506号線を上野町に進む。市民会館交差点を左に折れると郷土資料館。
郷土資料館
市民会館の前、お役所の建物、と言うか、学校のような建物の中にある。1967年(昭和42年)の開館であり、多摩地方で最も古い郷土資料館である。館内には中央高速の建設時に発掘した出土品などが展示をされている。川口兵庫助の発願により写経された「大般若経」もある。室町期に活躍した兵庫助には先日の川口川散歩のとき、鳥栖観音堂で出会った。
館内には八王子大空襲の展示も。1945年(昭和20年)の8月2日、180機の爆撃機により投下された焼夷弾は67万個に及んだ、と言う。事前の爆撃予告があったとはいえ、市街の80%近くが壊滅したという大規模爆撃であった。
八王子「時の鐘」
郷土資料館を離れ、都道506号線を少し北の金剛院交差点に。左手の金剛院は後回しとし、道の向こうにある天神社、そしてすぐ横にある念仏院・時の鐘を訪ねる。天満神社はいたってあっさりした祠。「時の鐘」は元禄12年(1699年)の鋳造。八日市宿名主である新野某の発願で、八王千人道頭や同心、それに八王子15宿や近郷の人の協力により寄進された。
八日市宿は横山宿、八幡宿とともに滝山城下にあった三宿のひとつ。北条氏が城を八王子城に移すに際し八王子城下に、さらに、江戸開幕期に三宿そろってこの地に移った。
法蓮寺
ここからはしばらく千人隊ゆかりの寺を訪ねる。八王子千人隊は八王子千人頭を筆頭に、10名の同心組頭に率いられた各百人の同心よりなる。設立時は江戸の西の防御のためのものであったが、太平の世になると日光東照宮の火防・警護をする日光勤番がその主任務となった。
最初に訪れたのは法蓮寺。天満神社の南の道を少し東に進んだところにある。八王子千人隊組頭である並木以寧が眠る。19世紀中頃・天保の飢饉の頃、医をもって病者を救い、貧者に救いの手を差しのべた。幕末の社会事業家として知られる。
本立寺
法蓮寺の隣に本立寺。千人頭・原氏の開基。境内に眠る原半左衛門胤敦は、寛政11年(1799年)蝦夷開拓願いを幕府に提出。翌年100名の千人同心子弟を率い蝦夷に渡るも、幕府の政策転換により、文化5年(1808年)、志半ばにして江戸に戻ることになる。『新編武蔵風土記稿』の「多摩郡」編纂者としても知られる。
観音寺
本立寺の少し南に観音寺。石段を上がったところにある山門は千人隊頭・中村左京の屋敷門を移築したもの。行基作とも伝えられ「峰の薬師」と称される秘仏をもつ、とも。
観音寺からは千人隊ゆかりの地から少し離れ、武蔵七党・横山党ゆかりの地である八幡八雲神社に向かう。東京環状16号線を北に、JR.中央線を越え国道20号線に。そこから北に二筋上がった少し東に八幡八雲神社がある。
八幡八雲神社
この神社は八幡神社と八雲神社とを合祀したもの。八幡神社は武蔵守・小野隆泰が都の石清水八幡を勧請したもの。その後、隆泰の長子である義孝が武蔵権守となり、この横山の地に館を構え横山氏と称した。武蔵七党の一つである横山党の始まりである。ために、この地が横山党根拠地の地とされる。
横山氏は鎌倉の御家人として活躍するも、建暦3年(1212年)の和田合戦で和田義盛に与し北条に敗れ、その勢を失った。境内にある横山神社は大江広元が義孝の霊を鎮めたもの。広園寺でメモしたように、広元は和田合戦において北条勝利に貢献し、横山氏の領地を有した。 八雲神社(天王さま)は、古来深沢山(八王子城山)に牛頭八王子権現として鎮座。北条氏照が彼の地に城を築くに際し、その名にちなみ八王子城と名付け城の氏神となした。地名・八王子の由来でもある。
天正18年(1590年)秀吉軍の猛攻を受け八王子城落城。ご神体は城兵により密かに川口村黒沢の地に隠す。時を経て慶長3年(1597年)、八王子神社に合祀された。八幡八雲神社は八王子の西の鎮守とされる多賀神社に対し、東の鎮守として人々の尊崇を受ける。
金剛院
国道20号線・甲州街道に戻り少し進み、八幡町交差点を南に折れ金剛院に向かう。ゆったりとした境内のお寺様。江戸の頃には表門、鐘楼、本堂、庫裡、観音堂などが並んだと言うが、昭和20年の八王子大空襲で焼失した。品のいい雰囲気。真言宗の別格本山という寺格のためだろう、か。別格本山がどういったものか定かではないのだが、いつだったか、つつじ見物に訪れた青梅の塩船観音も真言宗の別格本山であった。あの古刹と同じクオリティと思えば、有り難みが少々わかる。
創建は天正4年(1567年)。現在地より少し南にある不動堂がはじまり。明王院と呼ばれた。その後、寛永8年(1631年)、現在地に金剛院として開山。この地が大久保長安の陣屋内にあった大師堂にあたることから、その大師堂の法灯を継ぐ形で明王院が移ってきた、と伝わる。別格本山となったのは平成4年のことである。
大久保長安屋敷跡
江戸時代初期、金剛院から北にかけて旧小門宿、現在の小門町に大久保長安の屋敷があった。JR中央線を越えた少し西にある産千代(うぶちよ)稲荷神社に大久保長安の陣屋跡の碑が建てられている。南北と西に陣屋の土手、その外周に水堀、東に表門、北に裏門があったと伝わるが、産千代神社は西の土手辺りだろう。陣屋内の鬼門除けとして祀られた産千代神社は、大木が茂り稲荷森と呼ばれていた、とのことだが、現在は閑静な住宅街といった趣である。
大久保長安は元武田家の家臣。武田家滅亡後、その才を家康に見いだされトントン拍子に出世し関東総代官としてこの地に居を構えた。行政・司法・財政を差配し、関東の人々の仕置きをすべて任されたわけであり、公事訴訟のために陣屋を訪れる人々で門前市をなした、とか。『新編武蔵風土記』に「町なかに番屋を構え、籠獄をおき非違を戒めたり」とある。小門町の地名も、裏門あたりに公事訴訟の百姓宿を建て、それが御門宿>於門宿>小門宿、と転化していった、とか。西への備えに武田家遺臣をもって八王子千人隊を組織するなど、この陣屋は、江戸開幕期において司法・行政・財政の中心地であった。
関東総奉行の職に加え金山奉行として鉱山開発、貨幣鋳造なども兼務し、権勢並ぶものなき長安も終には家康の寵を失い、長安だけでなく係累すべてに罪を及ぼすといった「粛正」が行われた。
陣馬街道
次の目的地は恩方の由比館址。甲州街道を追分で分かれ陣馬街道・案下道を5キロ程進んだところにある。日暮れも近い。追分を越え歩き始めてはいたのだが、このままでは、日没時間切れとなってしまいそう。ということで、日吉町で折良く走ってきたバスに飛び乗った。バスに乗ると、急に強気になり、どうせのことなら、由比館址の少し先にある宝生寺にまで足を伸ばすことに。先日来の八王子散歩で、「宝生寺末寺」といった寺がいくつかあり、それならば結構なお寺様かと記憶に残っていた。
陣馬街道は追分から北西に一直線に進み、北浅川に当たる手前で直角に曲がる。突き出した山稜が北浅川に「沈む」突端が切り開かれ、切り通しとなっている。この切り通し脇に由比氏館址があるのだが、それは後ほど辿ることにして、先に進み宝生寺団地入口バス停で下車。
宝生寺
陣馬街道を離れ宝生団地方面への道を北に進む。陵北公園の野球場を右に眺めながら進み北浅川・陵北大橋に。西に並ぶ陣馬の山容を眺めながら橋を渡り脇道を宝生寺に。イメージとは異なり、古刹といった趣はない。百坪もある本堂や書院、庫裡、玄関、表大門、中門、鐘楼などの堂宇が八王子の大空襲で焼失。本堂・庫裏は昭和25年、鐘楼堂は昭和43年、書院が昭和45年、その他山門、毘沙門堂を新たにつくられた、とのこと。新しいお寺様といった雰囲気はこのため、か。
開山は室町期。元は境内仏堂・大畑観音堂の別当寺であったが、15世紀のはじめ寺生寺と改めた。戦国期は滝山城主・北条氏照の帰依を受け滝山城下に移り祈願所となる。江戸時代には、関東十一談林の一つとなり、御朱印十石を賜り、末寺38ヶ寺を有する武州多摩郡の名刹として隆盛した。高尾山薬王院とならぶ古刹であった。談林とは学問所院のこと。
寺を離れ先ほど通り過ぎた切り通しまで戻る。陵北大橋で西の空を見やる。日暮れも近く、ほんのり夕焼けが陣馬の山容を照らす。先日、陣馬街道の夕焼け小焼けの道を歩いたが、日中でもあり夕焼けはなし。中村雨紅が陣馬街道・案下道を実家へと戻る恩方の道すがら、童謡「夕焼け小焼け」の歌の詩情を養った景観の一端を味わい、少々幸せな気持ちになる。案下は僧侶として仏門に入るとき準備する篤志家の家のこと。恩方は「奥方」から。奥の方といった意味、か。どちらもいい響きの言葉である。
由比氏館址
陣馬街道に戻り、切り通しに戻る。直角に折り返す切り通しを抜けると日枝神社への石段。石段を上りお参り。南から北へと突出する舌状台地の突端部分にある。散歩の達人・岩本素白さんの描写ではないけれど、「神といえども、さぞや寂しかろう」、といった風情の祠が佇む。
平安期、このあたりには由比氏の館があった、との説がある。弐分方山とも呼ばれるこの雑木林の丘は御屋敷とも呼ばれていたのは、その名残であろうか。由比氏は武蔵七党のひとつ西党・日奉氏の後裔。この辺り一帯の由比の牧の別当として力を養った。
神社の横に丘陵を越える切り通しがある。由比氏の館の堀切とも言われる。現在の陣馬街道が通る以前の案下道(陣馬街道)ではあったのだろう。館跡の遺構は、この丘陵の尾根道を400mほど下ったところの不断院あたりまでいくつか残る、とか。平安期は由比の牧を見下ろし、戦国期には八王子城の防衛ラインとして陣馬街道を睥睨していたのだろう。
壱分方町・弐分方町
由比氏の館跡を訪ね、本日の予定は終了。日没までまだ少々時間がある。諏訪町にある諏訪神社まで足を伸ばすことにした。諏訪宿といったバス停が残る。「宿」であれば歴史のある地域であろうし、それよりなにより、由比の牧のあったこの辺りを歩くのもいいか、と思ったわけである。
陣馬街道を南東に進む。街道の北は上壱分方町。南は弐分方。この地名も由比牧と縁が深い。由比牧の別当としてこの地に居を構えた由比氏は、横山氏とともに和田合戦において和田義盛に与力。北条方に破れ、牧の管理者の任を追われることになる。その後子孫は由木村に転じ由木氏を起こし、川口氏もその後裔であるのだが、それはそれとして、この地で力を失った由比氏に代わり、由比牧は天野氏に領地となった。天野氏は武田家家臣。武田家滅亡後、遠州犬井の里より北条宇氏照を頼り、この地に来た。
14世紀はじめのころ、その天野氏に土地の相続争いが起きる。執権の命により土地を三分の二と三分の一に分けて兄弟が相続。「三分の二」の地域が弐分方、「三分の一」が壱分方。とか。地名に由比の牧の名残があるとは思わなかった。
諏訪神社
上弐分方交差点から陣馬街道を離れ、道なりに進むと諏訪神社に。古色蒼然と、といったイメージとは異なり、結構あっさりした神社。往古諏訪ノ森と呼ばれ鬱蒼とした森であったが、昭和41年の大暴風雨で樹木は根こそぎ倒壊、社殿も潰された。現在は鉄筋の社殿となっている。神社の周囲は現在では人家密集。往古、由比野との通称があった牧の名残を想像するのは難しい。 諏訪神社の鳥居をくぐり陣馬街道に戻る。諏訪宿バス停でしばしバスを待ち、八王子駅へと向かい本日の散歩を終える。
諏訪神社
上弐分方交差点から陣馬街道を離れ、道なりに進むと諏訪神社に。古色蒼然と、といったイメージとは異なり、結構あっさりした神社。往古諏訪ノ森と呼ばれ鬱蒼とした森であったが、昭和41年の大暴風雨で樹木は根こそぎ倒壊、社殿も潰された。現在は鉄筋の社殿となっている。神社の周囲は現在では人家密集。往古、由比野との通称があった牧の名残を想像するのは難しい。 諏訪神社の鳥居をくぐり陣馬街道に戻る。諏訪宿バス停でしばしバスを待ち、八王子駅へと向かい本日の散歩を終える。
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