葛飾区散歩 (3):亀有から立石、そして新小岩へと

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亀有から立石、そして新小岩へと
中川青戸金町・新宿町の散歩を終え、今回は昔の亀有村地区から立石、そして新小岩に下る。このあたりも、結構古くから開かれていたよう。養老5年(721年)の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」大嶋郷にあった甲和里は現在の小岩、仲村里は奥戸あたりとされる。この周辺は利根川や荒川といった暴れ川の堆積作用によって嶋もしくは浮洲、微高地が点在。西暦4世紀ころには、そこに古代に人々が住み着き農業や漁業を営み、奈良時代には既に集落が形成されていた、ということだろう。
実際、今日の散歩のコースにある、立石さまの霊石、熊野神社の神体である「石」も古墳の石室であろう、と。熊野神社近くの南蔵院の裏手にも古墳跡が残る。先回歩いた、柴又八幡様の古墳も含め、このあたりは足立区の毛長川流域の古墳群とともに、東京低地にある代表的古墳群とされる。大型ではなく比較的小型のこれら古墳群は6世紀後半の群集墳の特徴を示す。
古くから開けた、この大嶋郷、当時の人口は1,191名。明治7年で16,570名。明治の頃でもその程度の人口。昭和7年の葛飾区誕生時は89,919名。そして現在は40万名強、となっている。
photo by harashu




本日のコース:R亀有駅 > 御殿山公園・葛西城跡 > 青砥神社 > 中原八幡神社 > 「立石」様 > 熊野神社 > 南蔵院の古墳跡 > 奥戸の鬼塚 > 西井掘跡 > 於玉稲荷 > JR新小岩駅

御殿山公園・葛西城跡
橋の西詰め、道の右手に延命寺。江戸時代初期の庚申塔がある。環七通り・青砥陸橋のある青戸交差点を南に折れる。少し進むと御殿山公園。v 環七に沿ったこの公園は葛西城跡。中川に沿った微高地に築かれた平城跡。15世紀中ごろに関東管領上杉氏が築いたと言われる。その後小田原北条氏の手に落ち、下総進出の拠点として拡張整備される。国府台合戦のときは後北条側の基地として使われたのだろう。その後もこの城を巡っての争奪戦が繰り広げられるが、天正18年(1590年)秀吉の小田原征伐による北条の滅亡とともにその使命を終える。
家康江戸入府の後は、この地に青戸(葛西)御殿が建てられ、家康・秀忠・家光の三代にわたる鷹狩の休息所として利用される。その屋敷も17世紀後半には取り壊された、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

青砥神社
青戸神社環七を隔てて中川寄りに青砥神社。もとは白髭神社と呼ばれる。天正の頃、白髭・諏訪・稲荷神社を合わせ、三社明神と。昭和18年、付近の白山神社を合わせ、青砥神社とする、と。
ここまでメモしてきてちょっと気になることが。青砥? 青戸? 地名が混在している。表記が二通りある。調べてみた。元は青戸。「戸」は「津」と同じ。津は湊を意味する。青戸を「おはつ」と読み表記している文献もある。「おはつ」>「おおつ:大津」>「おおと:大戸」>「あおと:青戸」となったのだろう。元々の意味は、「おおいに栄えた津・湊」、であったのだろう。
それが「青砥」と表記されるようになったきっかけは、高砂・極楽寺で出会った青砥藤綱、から。江戸時代、この名裁判官が一躍有名になり、その名声にあやかって「青砥」と表記するケースもでてきた、ということらしい。つまりは、地名・地形にかかわるものは「青戸」、藤綱を冠したいケースは「青砥」。とはいうものの、青砥藤綱って、実際の人物かどうか不明ではある。江戸時代、滝沢馬琴が中国の小説をモデルにして書いた『青砥藤綱模稜案』、これって大岡裁きの中世版といった読み物であるが、これがヒットして庶民のヒーローになったのが青砥藤綱ってこと、らしい。
photo by harashu

中原八幡神社
環七を進み、青戸5丁目で京成線と交差。少し西に青砥駅。駅前に中原八幡神社。その昔、60人あまりの近在の男衆が祭事を行っている姿を描いた絵馬が有名、らしい、が一見客の我が身が見れるわけもなし。

「立石」様
立石さま立石8丁目まで下り、「立石」様を探す。少々迷ったが、児童公園の隅っこに「立石」様を発見。立石の地名の由来ともなったもの。「根あり石」とも呼ばれ、昔、いくら掘っても、掘っても最後まで行き着かない、地中に埋没する部分が計り知れない、といわれる石。
石の下には空洞があるようで、石室をもった古墳の石室の天井、ではないかといった説もある。ちなみに石は千葉の鋸山からしかとれない房州石(凝灰岩)。柴又八幡神社遺跡の古墳の石室につかわれているものと同じ、である、
photo by harashu



熊野神社
熊野神社立石さまの直ぐ近くに熊野神社。陰陽師で有名な安倍清明の創建とされる。清明、花山上皇に従い熊野での山篭りを終え、熊野神社勧請の旅の途中この地を訪れる。中川、というか古利根川に沿ったこの美しい地を聖なる地と。陰陽道五行説の五行をかたどり境内を30間5角とし、五行山熊野神社とし、熊野三社権現をまつり、石棒・石剣をご神体とする。以来、人々の信仰を集める。また葛西清重の信仰も篤かった、と。江戸に入っては三代将軍家光、八代将軍吉宗は「鶴」お成りの際はこの神社参拝を常とした。
とはいうものの、安倍清明さん、って実在の人物かどうかよくわからない。平将門の息子という説も。花山天皇とともに将門の意を継いで関東に独立国をつくろう、とした、って説も。熊野散歩のときにも、鎌倉散歩のときにも、花山天皇ってよく顔をあらわす。関東に下ったって事実はないようだ、が。
photo by harashu

南蔵院の古墳跡
南蔵院熊野神社の南に南蔵院。裏手に古墳が残る、という。東京低地の古墳群は上にメモしたように、足立の毛長川流域。この地葛飾一帯。この二つは代表的なもの。そのほかに、荒川区南千住の素盞雄神社、台東区の鳥越神社、北区の中里遺跡など、さらに浅草寺周辺についても古墳跡ではないか、とも言われている。
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奥戸の鬼塚
奥戸川中川に沿って下り、本奥戸橋に。橋を渡ると昔の奥戸町。奥戸はもと、奥津。津は湊。奥はよくわからない。本奥戸橋東詰に。中川にそって中川左岸緑道公園。少し進むと大きな工場。森永乳業。塀にそって東から南に進む。奥戸3丁目、南奥戸小学校の南に「鬼塚」。室町、江戸に渡って築造された塚。江戸時代にはお稲荷様をまつるため土を盛り、塚をつくりなおしている。塚のあたりからはハマグリといった貝殻の堆積も見られる。
photo by harashu

西井掘跡
西に進むとなんとなく川筋跡っぽい道筋。西井掘。葛西用水が新中川、これって昔は無かった川だが、この新中川にかかる細田橋あたりで分岐し南西に流れる一流。もうひとつ中井掘はまっすぐ南に下る。
西井掘跡を奥戸から東小岩地区に下る。東小岩3丁目あたりから緑道になっている。蔵前橋通りと交差。巽橋交差点。南に折れ平和橋通りを歩き、総武本線の南側に進む。

於玉稲荷

最後の目的地は新小岩4丁目にある於玉稲荷。線路にそった道を進み、適当に右に入りこみなんとか到着。由緒書:「当地は「小松の里」と呼ばれ、かつては徳川将軍の鷹狩の地でした。古地図で見ると、この地に「おたまいなり」の所在が記されていますが、古くは御分社でありました。当、於玉稲荷神社はこのゆかりの地に、安政2年の大震火災で焼失した神田お玉が池の社を、明治4年に御本社として遷宮したものです。 神田時代のお玉が池の稲荷神社の沿革については「江戸名所図会」神田之部所引の「於玉稲荷大神の由来」にも述べられているように、長禄元年 太田道灌の崇 敬をはじめ、寛正元年 足利将軍義政公の祈願、さらには文禄4年 伊達政宗公の参詣などが記されております」と。
於玉稲荷の後は JR 新小岩駅に戻り、本日の散歩終了。新小岩の由来は、駅名に「新小岩」という名前がお役人によってつけられたため。小岩は大嶋郷「甲和」>こいわ、から。葛飾区散歩もほぼ完了。後は昔の南綾瀬町を残すのみ。そのうちに。

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