ここ何回かに渡り、善福寺川筋の台地に切り込む窪地に残る水路跡や旧善福寺川の流路を辿った。そしてそこでは、折に触れて五日市街道とクロスし、またその道筋を辿ったりもした。
現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。
「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。
国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。
それはともあれ、今回の散歩の目的は、信州伊那谷高遠の石工がこの伊奈に移った最大の要因である、良質の砂岩の石切場跡をこの目で見ること。いつだったか、鎌倉街道山ノ道を高尾から秩父まで歩いたとき、石工の里・伊奈を掠ったのだが、その時には気になりながらも、先を急ぎ石切場跡はパスしていた。 杉並の窪地散歩で五日市街道に出合い、それが「伊奈みち」であったことがきっかけで、頭のとこかに残っていた伊奈の石切場を想い起こし、今回の散歩となったわけである。
また、今回の散歩は無料のGPS アプリ・Geographicaのパフォーマンスチェックも兼ねる。街歩きでは設定を機内モードにするなどして、電波の通じない状態でも結構重宝しているのだが、実際に電波の通じない山間部でどの程度のパフォーマンスを出してくれるのか試してみることにする。位置情報だけでなく、キャッシュに残る地図の表示時間なども気になる。
今回訪れる石切場跡は、山間地といっても里山といったところであり、うまく機能しなく、道に迷っても、なんとかなるといったロケーションであり、はじめての使用感確認には丁度いいかと、専用のGPS端末を持たずにiphoneのGPSアプリだけで歩くことにする。
本日のルート;五日市線・引田駅>連木坂>もみじ塚>山田の天神社>能満寺>旧五日市街道の道標>鎌倉街道山ノ道と交差>鍵の手>伊奈宿新宿>伊奈宿本宿>市神様>成就院>岩走神社>秋川>五日市線を渡る>大悲願寺>横沢入りの道標>横沢入>富田ノ入分岐>富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点>富田ノ入最奥部>尾根道から石山の池へのルートと合流>石山の池>横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流>天竺山(三内神社)>横沢・小机林道に>秋川街道に合流>五日市線・武蔵五日市駅
拝島で五日市線に
自宅を出て立川駅を経て拝島駅に。そこで五日市線に乗り換える。この五日市線(いつかいちせん)は東京都昭島市の拝島駅から東京都あきる野市の武蔵五日市駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線(幹線)である。現在は旅客中心の路線ではあるが、はじまりは青梅線と同様、石灰の運搬がその中心であった。
歴史は明治の頃、五日市鉄道にさかのぼる。明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。
そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。
●青梅線
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。
五日市線・武蔵引田駅
五日市線に乗り換え、さて、どこで下りるか考える。伊奈の最寄り駅は武蔵増戸駅ではあるが、目的地である石切場跡までの距離が短か過ぎ、歩くには少々物足らない。どうせのことなら、「伊奈みち」を少し辿ろうと、武蔵増戸駅のひとつ手前の武蔵引田駅で下りることにした。
武蔵引田駅は昭和5年(1930)、五日市鉄道・病院前停留所として開業した。駅の北に阿伎留医療センターがある。この病院と関係があるのだろうかとチェック。大正14年(1925)に伝染病院として開院。当初は赤痢や結核の治療に重点が置かれていたようだが、現在は一般疾病の治療病院となっている。
●引田
「引田」は灌漑水田と関係あるとの説もあるが、「田を引く」は意を成さぬとの説もある。『五日市の古道と地名;五日市町郷土館』には、秋川の南、「網代地区の「引谷」の地名の由来として、引谷、引田は蟇(ひきがえる)の生息地に因んだ地名とし、蟇田>引田となったとの説明があった。
引田駅を下り、一面に広がる秋留台地の畑の畦道といった小径を南に下る。南には秋川丘陵が見える。いつだったかこの丘陵を歩き、古甲州街道を辿ったことが思い出される。目を西に移すと山肌が白く大きく抉られた山塊が目につく。石灰採掘をおこなう勝峰山(かっぽやま)ではあろう。
●秋留台地
Wikipediaに拠れば、秋留台地は「島のような河岸段丘なので、地形は特殊。北の端は平井川、東の端は多摩川、南の端は秋川で、それぞれ川へ向かって標高が低くなっている(中略)西は関東山地なので、そこから東へ堆積し、その後に上記の3河川が浸食してできたものと推測できる」とある。
地形は特殊と言う。なにが特殊か門外漢には不明であるが、河岸段丘と湧水がその特色との記事があった:よくわからないなりにも、「あきる野市の自然 あきる野市の地質・地形」をもとにメモだけしておく。
秋留台地は西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である。 河岸段丘は 8 段 9 面あり、上位から 1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面の8段9面からなる。
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土(約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌)、立川ローム層(0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰)、段丘礫層(約8m 関東山地からの堆積層)を通し、五日市砂礫層・上総層(60~150cm 100~300万年前の河成~海成層)に達する。上総層は砂礫の間に砂屑やシルト層を多く挟んでいるため、水を通しにくい地層である。このため浸透してきた水は上総層の上に溜まり台地の6.4/1,000の傾斜に沿って下り、段丘の崖から湧水となって流れ出す。
それぞれの段丘面の崖地、傾斜地から代表的なものだけでも18箇所ほどの湧水点がある、と言う。段丘面の湧水点を歩いてみれば、「特殊な地形」を実感できるのであろうか。とりあえず近々歩いてみようと思う。
連木坂
道なりに進むと道はふたつに分かれる。そこは坂となっており、蓮木坂(ムナギ・ムラキ)と呼ばれる。由来は不明。「ねん坂」とも呼ばれるようである。
もみじ塚
道を南にとり、五日市街道に出る。街道・原店交差点北側にフェンスで囲われた塚があり、いくつかの石碑が建つ。大きな石には「寒念仏」と刻まれた文字が読める。横に建つ石塔は庚申塔のようである。
チェックすると、この塚は「もみじ塚」と呼ばれるようだ。かつては塚の中央にもみじの大木があったのが名前の由来。「寒念仏」と刻まれた石仏は、嘉永5年(1852)建立の「寒念仏塔」。寒念仏とは、寒中30日間、鉦を叩きながら各所を巡って念仏を唱える修業のこと。その右は庚申塔。庚申塔の右にある石仏は神送り場にあった「寒念仏供養塔」とのことである。
●寒念仏供養塔
引田交差点の西、引田と山田の境の街道辻に「神送り場」があった、と言う。疫病退散を祈り、祭りを執り行った場所とのことである。その場所には延命地蔵が建っていたが、新しいものようで写真を撮らなかった。
山田の天神社
道脇に「キッコーゴ醤油」との商号のある古き趣の醤油醸造所を越え、五日市街道・下山田交差点の南に天神社がある。少々寂しき佇まい。社伝に拠れば、貞治・応安(1362~75年)のころ、足利基氏の母が開き、古くは天満宮と称し、少し西にある能満寺持ち常照寺が別当であった。明治の神仏分離令の際、寺と分かれ名も天神社と改めた。とのことである。
能満寺
社を出て街道を少し西に進むと能満寺。境内に、地獄道の教主・法性地蔵、餓鬼道の教主・陀羅尼地蔵、畜生道の教主・宝陵地蔵、阿修羅道の教主・寶印地蔵、人間道の教主・鶏兜地蔵、天上道の教主の地持地蔵の六地蔵が佇むこのお寺さまは臨済宗建長寺派のお寺さま。開基は先ほどの天神社と同じく足利基氏の母とのこと。
何故にこの地に鎌倉公方足利基氏の母が寺を建てる?チェックするとあきる野市には、この能満寺の南にある瑞雲寺も基氏の母瑞雲尼の開基である。また、市内には基氏開基と伝わるお寺さまが下代継に真城寺、金松寺とふたつほどあった。
●基氏とあきる野
基氏、そして基氏の母とあきる野の地の関係は?ここからはあくまでも妄想ではあるが、基氏は入間川殿とも呼ばれ、入間の地に9年も陣・入間御殿を構えたことがある。そのことが要因なのだろうか。
入間御殿は、足利尊氏が弟の直義を倒し室町幕府を開いた際、直義に与した関東管領上杉氏を追放するも、関東北部に依然勢をもつ上杉氏や新田氏に備えるための拠点である。入間とあきる野はそれほど離れてはいない。この地を通る鎌倉街道山ツ道から連絡道を通じ入間と往来は容易ではあろうと思う。
また思うに、入間御殿との関連を考えなくても、この鎌倉街道山ツ道は往昔の幹線道路である。実際、あきる野市には頼朝が檀越となり平山氏開基の大悲願寺、北条時宗開基の普門寺など有力武将ゆかりの寺院も多い。今は都心を離れた地ではあるが、江戸開幕以前は湿地・葦原を避けて通れる、この山裾を進む道が、当時のメーンルートであったのだろうから、そう考えれば、鎌倉公方ゆかりの寺社があってもそれほど不思議ではないのかとも思えてきた。
ついでのことで、またまた思うに、秋留台地の端に二宮神社がある。武蔵総社六所宮の第二神座といった由緒ある社である。この社、往古小川大明神と呼ばれていた。古代にあった四つの勅使牧のひとつ、小川牧のあった一帯でもある。古代にもこのあたり一帯は開けていたようだ。
もっと歴史を遡ると、平井川沿いにはいくつもの縄文遺跡や古墳が残る。北に羽村草花丘陵を控え、南に平井川を隔てて秋留台を望むこの地は、古くから人の住みやすい環境であったのだろう。 古代から江戸が武蔵の中心地になるまで、この辺りは往還賑やかな一帯ではあったのだろう。
旧五日市街道の道標
街道を西に進むと、秋川に架かる山田大橋を越えて北に延びる山田通りの手前から右手に入る道がある。それが旧五日市街道とのこと。山田通り手前に道標が建つ。西に向かう矢印には「五日市 檜原」、東は「八王子 拝島 福生」、北は「大久野 青梅」、南に向かう矢印は「川口村 恩方」とある。川口村ができたのは明治22年(1889)の町村制施行時であるから、明治の頃の道標だろうか。
もっとも、川口村が八王子市に編入されたのは昭和30年(1955)であるから、少なくとも昭和30年(1955)までは「川口村」が存在したわけで、もっと新しい時期かもしれない。ともあれ、刻まれた文字が赤のペンキで塗られているのは読みやすくはあるのだが、少々風情に欠ける。文化財としての価値がそれほどないということであろうか。
鎌倉街道山ノ道と交差
道標を越えると山田通りにあたる。この道筋は鎌倉街道山ノ道の道筋。高尾から秋川丘陵の駒繋石峠(御前石峠)を越え、秋川南岸の網代から秋川を渡り、山田通りから五日線・武蔵増戸駅辺りを通り、青梅谷筋、名栗谷筋を経て秩父に向かった「鎌倉街道山ノ道」散歩が想い起こされる。
●武蔵増戸(ますこ)駅
山田通りを北に進むと武蔵増戸駅がある。増戸は地名にはない。チェックすると、『五日市の古道と地名』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。
鍵の手
山田通りを越えると山田地区から離れ伊奈地区に入る。旧街道を進むと道は二手に別れ、ひとつは南に大きくカーブする。城下町や宿場の出入口に見られる『鍵の手道』と言う。宿場が残るわけでもなく、そう言われなければ、普通の道といった程度の道ではあった。
伊奈宿新宿
鍵の手道を南に下ると五日市街道にあたる。ほどなく「伊奈新宿」のバス停。1キロほどの伊奈宿は西から東へと宿が発展した、という。西が本宿(上宿)、東は新宿と呼ばれた。
伊奈宿本宿
伊奈新宿バス停の少し西に「伊奈」バス停。この辺りが本宿(上宿)と新宿の境とも言われる。バス停の街道を挟んだ北、細い道脇の土手上に「塩地蔵尊 千日堂跡」がある。
塩地蔵は全国各地にあるが、お地蔵さんを自身に見立て、患部に塩を塗り、イボを取るとか、患部を治癒するといったもの。千日念仏供養塔は千日念仏の完結記念、百番供養塔は、西国33番、坂東33番、秩父34番の計百番札所巡りの完結を記念して建立するもの。この地の供養塔の由来は不詳。
千日堂は「武蔵風土記」に「小名新宿にあり本尊阿弥陀生体にて長さ一尺余り大悲願寺持ち(中略)伊奈村は36か村寄り場、名主時代この千日堂に牢屋あり罪人入獄したるきは伊奈村中各戸にて順番に牢番をしたること確実」とある。牢獄であったということだろう。千日堂は3回あった伊奈の大火の三度目、明治8年(1875)の大火で焼失した。
場所は現在の図書館のところ、とある。増戸分室のことだろうか。であれば、すぐ西隣といったところだろう。
市神様
街道に戻り先に進むと「伊奈坂上」バス停があり、その手前、街道南側にささやかな祠がある。祠傍に案内があり「伊奈の市神様」とあった。
案内には「伊奈村は、中世から近世初期にかけて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭などをはじめ、この地域で生産された石(伊奈石)で作られた臼なども取引されたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。
江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石の採掘に携わった工員たちが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。
やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急に高まりました。すると木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市の村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。更に、月三回の伊奈村の市の前日に五日市でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃を受け、伊奈村の人々は市の開催を巡ってしばしは訴えを起こしました。 この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊奈石で作られ、側面には寛文二年(1662))の年号が刻まれています。伊奈の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は地域の方々により今も大切に祀られています。平成十九年 あきる野市教育委員会」とあった。
この地で採れる良質の砂岩を求め、信州伊那高頭の谷から移り住んだ石工は、石臼、井戸桁、墓石、石仏、五輪塔、宝筐印板碑、石灯籠、供養塔、石像などを製造し伊奈は開ける。また、戸倉、乙津、養沢、檜原といった秋川筋の木炭の取引所は当初、伊奈宿にあり、伊奈の市は賑わったようだ。
その伊奈宿も、木炭の集積地としての立地上の優位性から五日市村が次第に伊奈宿の市を侵食することになる。それを巡る諍いは上記説明にある通りであるが、享保20年(1835)には「炭運上金」の徴収所「札場」が五日市下宿と設定されて以降、木炭取引の市は完全に五日市に移る。これにともない、伊奈宿までの「伊奈みち」を五日市まで伸ばし、名称も「伊奈みち」から「五日市道」と変わることになった(『五日市の古道と地名』)。
●伊奈宿
ところで、宿の規模はどの程度であったのだろう?チェックすると、平安末期(室町の頃との説もある)、12人で開いた伊奈は18世紀後半世帯数200戸強、人口900人弱まで増えるが、昭和2年(1927)で世帯数200戸強、千人強であるので、江戸までは急成長するも、江戸から以降は、それほど大きくは増えてはいない。五日市に経済の中心が移ったこともその一因であろうか。
成就院
「伊奈坂上」バス停のすぐ西に「新秋川橋東」交差点があり、直進すると新秋川橋へと進むが、旧道は橋の東詰めを右手北側に折れ、坂を下ることになる。坂の入口に成就院がある。
後ほど訪れる古刹大悲願寺の末。お寺の塀の外側に自然石の大きな「寒念仏塔」が建っていた。伊奈宿はここで終わる。
岩走神社
坂道を下ると左に秋川へと下る道があり。その下り坂が旧道のようであるが、道なりの先に「岩走神社」が見えるのでちょっと立ち寄り。宮沢坂と呼ばれる坂を進むと大きな石の鳥居がある。
旧伊奈村の鎮守。平安末期(室町?)、12世紀の中頃、信州伊那谷高遠から十名余の石工がこの地に村を拓くに際し、故郷の戸隠大明神の分身を勧請したのがそのはじまり。当初は「岸三大明神」とも称したようだが、「岩山大明神」とも呼ばれた時期もあるようだ。
「岩山」は想像できるが。「岸三大明神」は不詳。祭神は戸隠大明神の手刀男の命(たちずからおのみこと)をまっていたが数年たってから推日女尊(わかひるめのみこと)、棚機姫尊(たなきひめのみこと)の三柱を祀ったとある。岸辺の三柱、故の岸三大明神の命名だろうか。単なる妄想。根拠なし。
社はその後、寛政6年(1794)に「正一位」を授けられ、以来「岩走」と改めた。「岩走」は秋川の激しい流れの滝から命名したとのこと。
本殿も、現在より奥まったところにあったようだが、昭和3年(1928)の道路改修に合わせて現在の姿になった、と。
●正一位
正一位って、諸臣や神社における神階の最高位にあたる。何故にこの社が「正一位」?
チェックすると、この村を拓いた12人の一家、宮沢家が代々社の宮司となるが、その後裔である宮沢安通が天皇の書の師として京に招かれ正一位を授かったとある。
正一位を授けられた諸臣は数少ない。日本の歴史を代表するような百人強である。当然のことながら宮沢某の名は見当たらない。諸臣に授けられる位階と神に与えられるものは別物のようであった。全国各地にあるお稲荷さんが正一位であることからも、神階としての「正一位」と諸臣の「正一位」とは少々ニュアンスが異なることは容易に想像し得る。
秋川
岩走神社から少し宮沢坂を戻り、旧道に折れる。結構急な坂道である。『五日市の古道と地名』には、木炭集積所を巡る伊奈と五日市の争いの際、伊奈村から奉行所に提訴した文書に、「伊奈から五日市の道は険路であるため、五日市は市としては不適」といった例として、岩走神社前の坂を挙げている。確かに舗装もない時代、荷の運搬は難儀を極めたことだろう。
それはともあれ、旧坂を下り民家の前の道を進む。左手は秋川。集落の中程から川床に下りる道があったので秋川の川床でちょっと休憩。
●秋川・秋留・阿伎留
休みながら、ふと考える。「秋川」の由来は?Googleでチェックすると、秋川は荒れ川で洪水の度、畔を切ることが多かったため「畔切川」と。これが音韻転化して「アキカワ」といった記事があった。秋留・阿伎留の由来でもある。
それなりに納得したのだが、メモの段階で『五日市の古道と地名』を読むと、参考程度ではあるとしながらも、別の解釈が説明されていた。話はこういうことである;『古事記』でのお話し。その昔、新羅の国であれこれの経緯の末、女性が光り輝く見事な玉・「赤瑠」産み落とす。そしてまた、あれこれの経緯の末、王子である天日矛(あめのひぼこ)が赤瑠を手に入れる。
と、あら不思議、赤瑠が美女に変身。王子寵愛するも、諍いの末、美女は唐津の沖の小島・姫島に逃げる。姫を追っかける王子。逃げる美女。逃げる先々の島は今も瀬戸に姫島として残る。で結局逃げついた先は難波の地。
そこに住まう新羅系帰化人はその姫・赤瑠姫を敬い、姫の住まいの近くを流れる川を「吾が君の川」>「吾君川」;アキカワ、と呼んだ、と言う。
秋留台地の小川牧の頭は新羅系、といったことに限らず、武蔵国を拓いたのは大陸からの帰化人である。この地、秋留も帰化人との関係を考えれば、事実か否かは別にして、上記解釈は誠に面白い。ちょっと気になる。
◆あきる野市
因みに、この地あきる野市は秋川町と五日市町が合併してできたもの。市名決定を巡っては秋留市を主張する秋川町と、阿伎留市を主張する五日町との協議の結果、「あきる野市」となった、とか。「野」がついたのは、「あきる市」だけではなんとなく収まりがよくなく、秋留台地をイメージする「野」をつけたのだろうか。
五日市線を渡る
秋川の川床から離れ、集落の中を進む「五日市道」に戻る。岩走神社から西は伊奈地区から横沢地区に入る。集落の途中から舗装された急坂を上り、岩走神社前を通る車道に出る。車道の北に石段が見える。結構長い石段を上り切ると前方に大悲願寺の山門が見える。その手前に通る五日市線の踏切を渡り大悲願寺に向かう。
●横沢
横沢地区から山内地区を挟んだ五日市駅寄りの地区に館谷がある。元々は縦谷>立谷と呼ばれていたようである。で、「横」沢と「館谷=縦(立)」谷の関係だが、横と縦の関係に拠る。その横・縦の軸となるのは秋川。
秋川から見て、秋川に南北に注ぐ沢をもつ地区が横沢、東西に注ぐ三内川(大雑把には東西だが?)をもつ地区が館谷とされた、とのこと(『五日市の古道と地名』)。
縦横はあくまで相対的なもの。都内の墨田区・江東区を東西に流れる運河が堅川(たてかわ)江と呼ばれているのは、江戸城に対して縦(東西)に流れるからである。当然、南北に流れる運河は横十間川と呼ばれる。
大悲願寺
堂々たる仁王門から境内に入る。仁王門(楼門)天井には幕末の絵師による天井絵が描かれる。境内正面には観音堂。お堂は江戸に造られたが、堂内には国指定重要文化財の仏像三体が祀られている。
境内右手には書院造りの本堂、そして彫刻の施された中門(朱雀門)なども江戸期の建造である。本堂前に「伊達政宗 白萩文書」の案内があり、政宗の末弟がこの寺に修行のため在山の折り、川狩りにこの地に出向いた政宗が当寺の白萩が見事であり、それを所望したい」との書面が残るとあった。歌舞伎の「仙台萩」は当寺に由来する。
寺伝に拠ると、この古刹は建久2年(1191)、武蔵国平山を領する平山季重が頼朝の命を受け開山した。一時衰退するも、江戸になり幕府より朱印状を受け、観音堂を建立し、内陣を華麗に整えていたとのことである。
●平山季重
いつだったか、多摩の平山城址散歩で出合った。源平一の谷の合戦で、熊谷直実と武勇を誇った源氏方の侍大将である。平安末期から鎌倉初期の武蔵七党のひとつ西党(日奉氏)の武将であり、平井川と秋川に挟まれた秋留台地には鎌倉の頃、武蔵七党のひとつ、西党に属する小川、二宮、小宮、平山氏といった御家人が居を構えた、と言う。そんな状況も季重開基に関係するのだろうか。
◆日奉氏
武蔵七党のひとつ、西党の祖。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか、それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、とりの説もある。
横沢入りの道標
大悲願寺を離れ、門前の道を東に進み増戸保育園を越えた先の畑地の脇に古い道標がある。そこが石切場へと続く横沢入の谷戸への分岐点である。右手には五日市線が東西に走る。
分岐点に立つ古き道標には、東方面は「五日市」、西は「伊奈 平井」、北は「大久野」と刻まれていた。北方向、横沢入の谷戸を越え、大久野に向かう道が昔からあったのだろう。
なお、ここでiphoneのGPSアプリGeographicaを起動。念のため機内モードにして電波を完全にシャットアウトとして、このアプリのパフォーマンスチェックを始める。こいの地点では位置情報はほぼ問題なし。
横沢入
分岐点を左に折れ横沢入に向かう。小径を進むと眼前に美しい谷戸が開ける。谷戸へのアプローチ入口にビジターセンター、というかボランティアセンターといった建物があり、多くのボランティアの方が谷戸の保全に尽力されていた。 エントランス近くの案内には「横沢入里山保地域; 横沢入は、丘陵に囲まれた都内でも有数の谷戸です。七つの谷戸と中央湿地では、かつては稲作が行われ、里山の環境が保たれていました。しかし、近年は耕作されず、荒廃が進んでいます。
そのような状況の中、東京都は横沢入を「里山保全地域」に指定し、ボランティアの皆さんやあきる野市と共に、自然と人間が共生する身近な自然「里山」を復元し、貴重な動植物の生息生育環境を回復し、保全していくこととしました(後略)」との説明とともに、横沢入の地図があった。
その地図には中央の湿地を挟み、進行方向向かって左手手前から、草堂ノ入、富田ノ入、釜ノ沢、右手手前から下ノ川、宮田東沢、宮田西沢、最奥部に荒田ノ入が記載されており、目的の石切場跡は、富田ノ入の谷戸の北を東西に進む尾根筋に「石山の池・石切場跡」として記載されていた。
石山の池・石切場跡の近くの南北に延びる尾根筋の南端には天竺山(三内神社)が見える。また南北に延びる尾根道を北に向かうと「横沢・小机林道」に合流できそうである。
地図を見て大雑把なルート決定。富田ノ入の谷戸に入り、谷戸を最奥部まで進んで尾根に這い上がるか、途中から尾根に逃げるか、成り行きとし、天竺山の三内神社にお参りし、尾根道を北に進み、横沢入の分岐にあった道標の「大久野」の道筋ではあろう横沢・小机林道に向かうこととする。
●横沢入
都下の谷戸で5つしかないAランクの谷戸として保全されることになったこの横沢入は、かつて旧五日市町が大規模宅地開発地として計画しJR東日本が土地を取得したが、住民の環境保全の努力の結果、東京都の里山保全の第一号として決定し、この美しい里山が残された。
今回は、これほどの谷戸が残っているとも思わず、時間的にも富田ノ入の先にある石切場跡を辿るのが精一杯であるが、いつか、この七つの谷戸を彷徨いたいと思う。宮田西沢にも石切場跡が残っているとも言われる。
富田ノ入分岐
中央湿地の中の小径を進むと分岐点に地図と「富田ノ入」の案内がある。 「富田ノ入」には「ここは富田ノ入と呼ばれる谷戸で、田圃が奥まで続いていました。昔は、山の上の石山の池から伊奈石を切り出して運ぶ道でした」とあり、その下に「マムシに注意」とイラスト付きの注意がある。
怖がりのわが身は、さっそく沢登り用の膝下部分をガードする「脚絆」を巻き、近くに落ちてあった適当な木を前方チェックの杖代わりとする。
いつだったか秋川筋の沢でマムシを寸でのところで踏みつけようとしたことがあり、それ以来、より一層マムシにナーバスになっている。GPSアプリ・Geographicaの位置情報もほぼ正確な位置を示している。
富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点
道を左手に折れ少し進むと道標があり、「富田ノ入をへて石山の池」と「尾根道をへて石山の池」との案内。中央湿地で見た地図には「富田ノ入から石山の池」への道は記載されておらず、成り行きで、谷戸最奥部から石山の池とはルーティングしたものの、結構不安であったのだが、道標にはっきりと案内があるのであれば、なんとかなるだろうと谷最奥部経由での道をとることにする。マムシだけがちょっと嫌である。
富田ノ入最奥部
分岐点から先は美しい谷戸の景観。自然観察らしき学生さんたちも見受けられるが、谷戸の最奥部に近づくにつれ、丸太が道に倒れるなど道が荒れてくる。少々不安になるあたりに「石山の池」への道案内があり、気を取り直し先に進む。
谷頭あたりからは荒れた山道を上る。所々にロープが張られており、進む道をリードしてくれる。
尾根道から石山の池へのルートと合流
ジグザグの山道をしばし進み、尾根に這い上がったあたりで前方に道標が見える。下りてきた道が「富田ノ入」、左右が「中央湿地 石山の池」となっている。この尾根道が富田ノ入の入口辺りにあった「尾根道をへて石山池へ」のルートではあろうと思う。一安心。
石山の池
尾根道ルートとの合流点から先に進むと、ほどなく道傍に案内板があり、「石山の池 ここは室町時代から江戸時代にかけて、石臼、墓石などにするため伊奈石を切り出していたところです。今も、割りとった跡(矢穴)がわかる石辺が見られます 東京都」とある。
案内板の先が大きな窪地となっており、そこが石切場跡のようである。露天堀で掘り割っていたのだろから、山塊を掘り込んだ結果、窪地状となったのだろう。最も深く掘り込まれた底には水が溜まっており、故に石山の池と名付けられたのではあろう。
道なりに進むと、ルートは一度窪地底部に下りる。その近くには山神社のささやかな祠が祀られていた。
●採石地層
底部から見ても、一見した印象では、予想したほどのスケール感は無かった。思うに石切場はここだけではなかったのではなかろうか。実際、横沢入の宮田西沢にも石切場跡が残るとのことである。
帰宅後チェックすると、採石地層は横沢入の北、平井の日の出団地東から西に延び、横沢入の北尾根を通り最奥部で南に曲がり、天竺山東側で南に大きく曲がって西尾根付近を南に進み、三内で秋川を越え更に高尾山(秋川筋の高尾山で、「有名な」高尾山ではない)の西側を尾根伝いに網代方面まで伸びている、と。
横沢入の伊奈石を採掘してきた石工は、秋川を越え、高尾山そして、いつだったか古甲州道を辿り秋川丘陵を歩いたときに訪ねた網代城跡辺りまで採掘しているようであった。石山池は石切場跡としてはっきりその姿を残す場所ではあるが、石切場は想像の通り、横沢入の南北に大きく広がっていた。納得。
横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流
石切場跡の窪地を離れ、天竺山に向かう。道成りに進むと道標があり、左「天竺山」、右「行き止まり」とある。横沢小机林道への尾根道(横沢小机林道)が封鎖されたのだろうか?また同じ道を戻るのもウザったいので、林道へは藪漕ぎ覚悟で「行き止まり」道を進もうか、などと思いながら「天竺山」方向に向かうと、ほどなく、左「横沢・小机林道」、右「天竺山(三内神社)」の標識がある。ここが横沢西側尾根であった。
帰宅後チェックすると、「行き止まり」箇所は、石切場跡から等高線に沿って北東に切り込んだ最奥部であり、道はそこからU字に曲がり横沢西側尾根に向かっていた。
天竺山(三内神社)
横沢西側尾根合流点から高圧線鉄塔・小峰線見遣り先に進むと、ほどなく北が開ける。谷戸に入り込んで以来の開けた景観を楽しむ。そのすぐ先が天竺山山頂。標高301m。
頂上平坦地には三内神社が祀られる。三内神社は山内地区の氏神様。天竺山へと辿った横沢西側尾根が横沢地区と三内地区の境をなしているようである。山裾にも三内神社が祀られる。この社は奥宮といったものだろう。
社伝には多くの神々が登場する。その中に住吉の神々も祀られる。表筒男命、中筒男命、底筒男命がそれである。どのような由来で住吉さんが、とも思うのだが、社伝の中に「享保改元の頃発願して(?)三年村内天竺山の頂上に宮を移す」とある。「三年村」?書き間違い?三内の由来は「山の内>三内」と伝わる。三年村ってなんだろう?
横沢・小机林道に
横沢西側尾根を辿り、ゆるやかな坂を下ると前方に結構広い道が見えてくる。横沢入の荒田ノ入、釜ノ沢の谷戸を越え、釜ノ久保を経て横沢西側尾根に上った箇所である。
沢の水音を聞きながら、林道を秋川街道に向かってゆるやかな坂となった林道を下る。
秋川街道に合流
林道はほどなく秋川街道に合流。合流点のすぐ上に「小机」バス停。「小机」は「小高い台地や平地」に由来する(『五日市の古道と地名』)。
秋川街道を武蔵五日市駅に向かって坂を下る。五日市線の高架を越えた先には「小机坂下」バス停もあった。横沢・小机林道と称する所以である。
この秋川街道はいつだったか武蔵五日市駅から北に辿ったことがある。本来の秋川街道は八王子の本郷横町で甲州街道を離れ、川口川に沿って西に進み小峰峠を越えて秋川筋の武蔵五日市に至る道、川口街道とも八王子道とも呼ばれていた。都道32号・八王子五日市線筋である。
しかし、今歩く秋川街道は都道31号・青梅あきるの線。東京都青梅市から、西多摩郡日の出町を経由してあきる野市五日市に至る道である。この道も秋川街道と呼ばれているようだ。
五日市線・武蔵五日市駅
小机坂を下り武蔵五日市駅に。この道筋は、五日市線・岩井支線が通っていたようだ。岩井支線は、今回の散歩のはじまりである五日市線の武蔵引田駅を下りたときに石灰採掘の勝峰山(かっぽやま)の山肌を眺めたが、その勝峰山の山裾まで主として石灰運搬用の支線が武蔵五日市駅から分岐していた。 貨物は武蔵五日市駅の手前にある三内信号所から分岐していたが、旅客用は武蔵五日市に一度入り、スイッチバックで支線に入っていたようである。
大正14年(1925)に武蔵五日市・岩井駅が開業。昭和46年(1971)に旅客運輸を廃止。昭和57年(1982)には貨物運輸も廃止した。そのうちに廃線跡を辿ってみたいと思う。
本日の散歩はこれでお終い。石工の里の石切場跡をみようと始めた散歩であるが、美しい谷戸に出合ったり、石灰採掘と言えば青梅線と思っていたのだが、五日市線も勝峰山の石灰運搬がそのはじまりであったりと、思いがけないこともいくつか登場した。基本成り行き任せの散歩の妙である。
現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。
「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。
国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。
それはともあれ、今回の散歩の目的は、信州伊那谷高遠の石工がこの伊奈に移った最大の要因である、良質の砂岩の石切場跡をこの目で見ること。いつだったか、鎌倉街道山ノ道を高尾から秩父まで歩いたとき、石工の里・伊奈を掠ったのだが、その時には気になりながらも、先を急ぎ石切場跡はパスしていた。 杉並の窪地散歩で五日市街道に出合い、それが「伊奈みち」であったことがきっかけで、頭のとこかに残っていた伊奈の石切場を想い起こし、今回の散歩となったわけである。
また、今回の散歩は無料のGPS アプリ・Geographicaのパフォーマンスチェックも兼ねる。街歩きでは設定を機内モードにするなどして、電波の通じない状態でも結構重宝しているのだが、実際に電波の通じない山間部でどの程度のパフォーマンスを出してくれるのか試してみることにする。位置情報だけでなく、キャッシュに残る地図の表示時間なども気になる。
今回訪れる石切場跡は、山間地といっても里山といったところであり、うまく機能しなく、道に迷っても、なんとかなるといったロケーションであり、はじめての使用感確認には丁度いいかと、専用のGPS端末を持たずにiphoneのGPSアプリだけで歩くことにする。
本日のルート;五日市線・引田駅>連木坂>もみじ塚>山田の天神社>能満寺>旧五日市街道の道標>鎌倉街道山ノ道と交差>鍵の手>伊奈宿新宿>伊奈宿本宿>市神様>成就院>岩走神社>秋川>五日市線を渡る>大悲願寺>横沢入りの道標>横沢入>富田ノ入分岐>富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点>富田ノ入最奥部>尾根道から石山の池へのルートと合流>石山の池>横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流>天竺山(三内神社)>横沢・小机林道に>秋川街道に合流>五日市線・武蔵五日市駅
拝島で五日市線に
自宅を出て立川駅を経て拝島駅に。そこで五日市線に乗り換える。この五日市線(いつかいちせん)は東京都昭島市の拝島駅から東京都あきる野市の武蔵五日市駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線(幹線)である。現在は旅客中心の路線ではあるが、はじまりは青梅線と同様、石灰の運搬がその中心であった。
歴史は明治の頃、五日市鉄道にさかのぼる。明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。
そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。
●青梅線
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。
五日市線・武蔵引田駅
五日市線に乗り換え、さて、どこで下りるか考える。伊奈の最寄り駅は武蔵増戸駅ではあるが、目的地である石切場跡までの距離が短か過ぎ、歩くには少々物足らない。どうせのことなら、「伊奈みち」を少し辿ろうと、武蔵増戸駅のひとつ手前の武蔵引田駅で下りることにした。
武蔵引田駅は昭和5年(1930)、五日市鉄道・病院前停留所として開業した。駅の北に阿伎留医療センターがある。この病院と関係があるのだろうかとチェック。大正14年(1925)に伝染病院として開院。当初は赤痢や結核の治療に重点が置かれていたようだが、現在は一般疾病の治療病院となっている。
●引田
「引田」は灌漑水田と関係あるとの説もあるが、「田を引く」は意を成さぬとの説もある。『五日市の古道と地名;五日市町郷土館』には、秋川の南、「網代地区の「引谷」の地名の由来として、引谷、引田は蟇(ひきがえる)の生息地に因んだ地名とし、蟇田>引田となったとの説明があった。
引田駅を下り、一面に広がる秋留台地の畑の畦道といった小径を南に下る。南には秋川丘陵が見える。いつだったかこの丘陵を歩き、古甲州街道を辿ったことが思い出される。目を西に移すと山肌が白く大きく抉られた山塊が目につく。石灰採掘をおこなう勝峰山(かっぽやま)ではあろう。
●秋留台地
Wikipediaに拠れば、秋留台地は「島のような河岸段丘なので、地形は特殊。北の端は平井川、東の端は多摩川、南の端は秋川で、それぞれ川へ向かって標高が低くなっている(中略)西は関東山地なので、そこから東へ堆積し、その後に上記の3河川が浸食してできたものと推測できる」とある。
地形は特殊と言う。なにが特殊か門外漢には不明であるが、河岸段丘と湧水がその特色との記事があった:よくわからないなりにも、「あきる野市の自然 あきる野市の地質・地形」をもとにメモだけしておく。
秋留台地は西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である。 河岸段丘は 8 段 9 面あり、上位から 1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面の8段9面からなる。
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土(約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌)、立川ローム層(0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰)、段丘礫層(約8m 関東山地からの堆積層)を通し、五日市砂礫層・上総層(60~150cm 100~300万年前の河成~海成層)に達する。上総層は砂礫の間に砂屑やシルト層を多く挟んでいるため、水を通しにくい地層である。このため浸透してきた水は上総層の上に溜まり台地の6.4/1,000の傾斜に沿って下り、段丘の崖から湧水となって流れ出す。
それぞれの段丘面の崖地、傾斜地から代表的なものだけでも18箇所ほどの湧水点がある、と言う。段丘面の湧水点を歩いてみれば、「特殊な地形」を実感できるのであろうか。とりあえず近々歩いてみようと思う。
連木坂
道なりに進むと道はふたつに分かれる。そこは坂となっており、蓮木坂(ムナギ・ムラキ)と呼ばれる。由来は不明。「ねん坂」とも呼ばれるようである。
もみじ塚
道を南にとり、五日市街道に出る。街道・原店交差点北側にフェンスで囲われた塚があり、いくつかの石碑が建つ。大きな石には「寒念仏」と刻まれた文字が読める。横に建つ石塔は庚申塔のようである。
チェックすると、この塚は「もみじ塚」と呼ばれるようだ。かつては塚の中央にもみじの大木があったのが名前の由来。「寒念仏」と刻まれた石仏は、嘉永5年(1852)建立の「寒念仏塔」。寒念仏とは、寒中30日間、鉦を叩きながら各所を巡って念仏を唱える修業のこと。その右は庚申塔。庚申塔の右にある石仏は神送り場にあった「寒念仏供養塔」とのことである。
●寒念仏供養塔
引田交差点の西、引田と山田の境の街道辻に「神送り場」があった、と言う。疫病退散を祈り、祭りを執り行った場所とのことである。その場所には延命地蔵が建っていたが、新しいものようで写真を撮らなかった。
山田の天神社
道脇に「キッコーゴ醤油」との商号のある古き趣の醤油醸造所を越え、五日市街道・下山田交差点の南に天神社がある。少々寂しき佇まい。社伝に拠れば、貞治・応安(1362~75年)のころ、足利基氏の母が開き、古くは天満宮と称し、少し西にある能満寺持ち常照寺が別当であった。明治の神仏分離令の際、寺と分かれ名も天神社と改めた。とのことである。
能満寺
社を出て街道を少し西に進むと能満寺。境内に、地獄道の教主・法性地蔵、餓鬼道の教主・陀羅尼地蔵、畜生道の教主・宝陵地蔵、阿修羅道の教主・寶印地蔵、人間道の教主・鶏兜地蔵、天上道の教主の地持地蔵の六地蔵が佇むこのお寺さまは臨済宗建長寺派のお寺さま。開基は先ほどの天神社と同じく足利基氏の母とのこと。
何故にこの地に鎌倉公方足利基氏の母が寺を建てる?チェックするとあきる野市には、この能満寺の南にある瑞雲寺も基氏の母瑞雲尼の開基である。また、市内には基氏開基と伝わるお寺さまが下代継に真城寺、金松寺とふたつほどあった。
●基氏とあきる野
基氏、そして基氏の母とあきる野の地の関係は?ここからはあくまでも妄想ではあるが、基氏は入間川殿とも呼ばれ、入間の地に9年も陣・入間御殿を構えたことがある。そのことが要因なのだろうか。
入間御殿は、足利尊氏が弟の直義を倒し室町幕府を開いた際、直義に与した関東管領上杉氏を追放するも、関東北部に依然勢をもつ上杉氏や新田氏に備えるための拠点である。入間とあきる野はそれほど離れてはいない。この地を通る鎌倉街道山ツ道から連絡道を通じ入間と往来は容易ではあろうと思う。
また思うに、入間御殿との関連を考えなくても、この鎌倉街道山ツ道は往昔の幹線道路である。実際、あきる野市には頼朝が檀越となり平山氏開基の大悲願寺、北条時宗開基の普門寺など有力武将ゆかりの寺院も多い。今は都心を離れた地ではあるが、江戸開幕以前は湿地・葦原を避けて通れる、この山裾を進む道が、当時のメーンルートであったのだろうから、そう考えれば、鎌倉公方ゆかりの寺社があってもそれほど不思議ではないのかとも思えてきた。
ついでのことで、またまた思うに、秋留台地の端に二宮神社がある。武蔵総社六所宮の第二神座といった由緒ある社である。この社、往古小川大明神と呼ばれていた。古代にあった四つの勅使牧のひとつ、小川牧のあった一帯でもある。古代にもこのあたり一帯は開けていたようだ。
もっと歴史を遡ると、平井川沿いにはいくつもの縄文遺跡や古墳が残る。北に羽村草花丘陵を控え、南に平井川を隔てて秋留台を望むこの地は、古くから人の住みやすい環境であったのだろう。 古代から江戸が武蔵の中心地になるまで、この辺りは往還賑やかな一帯ではあったのだろう。
旧五日市街道の道標
街道を西に進むと、秋川に架かる山田大橋を越えて北に延びる山田通りの手前から右手に入る道がある。それが旧五日市街道とのこと。山田通り手前に道標が建つ。西に向かう矢印には「五日市 檜原」、東は「八王子 拝島 福生」、北は「大久野 青梅」、南に向かう矢印は「川口村 恩方」とある。川口村ができたのは明治22年(1889)の町村制施行時であるから、明治の頃の道標だろうか。
もっとも、川口村が八王子市に編入されたのは昭和30年(1955)であるから、少なくとも昭和30年(1955)までは「川口村」が存在したわけで、もっと新しい時期かもしれない。ともあれ、刻まれた文字が赤のペンキで塗られているのは読みやすくはあるのだが、少々風情に欠ける。文化財としての価値がそれほどないということであろうか。
鎌倉街道山ノ道と交差
道標を越えると山田通りにあたる。この道筋は鎌倉街道山ノ道の道筋。高尾から秋川丘陵の駒繋石峠(御前石峠)を越え、秋川南岸の網代から秋川を渡り、山田通りから五日線・武蔵増戸駅辺りを通り、青梅谷筋、名栗谷筋を経て秩父に向かった「鎌倉街道山ノ道」散歩が想い起こされる。
●武蔵増戸(ますこ)駅
山田通りを北に進むと武蔵増戸駅がある。増戸は地名にはない。チェックすると、『五日市の古道と地名』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。
鍵の手
山田通りを越えると山田地区から離れ伊奈地区に入る。旧街道を進むと道は二手に別れ、ひとつは南に大きくカーブする。城下町や宿場の出入口に見られる『鍵の手道』と言う。宿場が残るわけでもなく、そう言われなければ、普通の道といった程度の道ではあった。
伊奈宿新宿
鍵の手道を南に下ると五日市街道にあたる。ほどなく「伊奈新宿」のバス停。1キロほどの伊奈宿は西から東へと宿が発展した、という。西が本宿(上宿)、東は新宿と呼ばれた。
伊奈宿本宿
伊奈新宿バス停の少し西に「伊奈」バス停。この辺りが本宿(上宿)と新宿の境とも言われる。バス停の街道を挟んだ北、細い道脇の土手上に「塩地蔵尊 千日堂跡」がある。
塩地蔵は全国各地にあるが、お地蔵さんを自身に見立て、患部に塩を塗り、イボを取るとか、患部を治癒するといったもの。千日念仏供養塔は千日念仏の完結記念、百番供養塔は、西国33番、坂東33番、秩父34番の計百番札所巡りの完結を記念して建立するもの。この地の供養塔の由来は不詳。
千日堂は「武蔵風土記」に「小名新宿にあり本尊阿弥陀生体にて長さ一尺余り大悲願寺持ち(中略)伊奈村は36か村寄り場、名主時代この千日堂に牢屋あり罪人入獄したるきは伊奈村中各戸にて順番に牢番をしたること確実」とある。牢獄であったということだろう。千日堂は3回あった伊奈の大火の三度目、明治8年(1875)の大火で焼失した。
場所は現在の図書館のところ、とある。増戸分室のことだろうか。であれば、すぐ西隣といったところだろう。
市神様
街道に戻り先に進むと「伊奈坂上」バス停があり、その手前、街道南側にささやかな祠がある。祠傍に案内があり「伊奈の市神様」とあった。
案内には「伊奈村は、中世から近世初期にかけて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭などをはじめ、この地域で生産された石(伊奈石)で作られた臼なども取引されたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。
江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石の採掘に携わった工員たちが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。
やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急に高まりました。すると木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市の村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。更に、月三回の伊奈村の市の前日に五日市でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃を受け、伊奈村の人々は市の開催を巡ってしばしは訴えを起こしました。 この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊奈石で作られ、側面には寛文二年(1662))の年号が刻まれています。伊奈の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は地域の方々により今も大切に祀られています。平成十九年 あきる野市教育委員会」とあった。
この地で採れる良質の砂岩を求め、信州伊那高頭の谷から移り住んだ石工は、石臼、井戸桁、墓石、石仏、五輪塔、宝筐印板碑、石灯籠、供養塔、石像などを製造し伊奈は開ける。また、戸倉、乙津、養沢、檜原といった秋川筋の木炭の取引所は当初、伊奈宿にあり、伊奈の市は賑わったようだ。
その伊奈宿も、木炭の集積地としての立地上の優位性から五日市村が次第に伊奈宿の市を侵食することになる。それを巡る諍いは上記説明にある通りであるが、享保20年(1835)には「炭運上金」の徴収所「札場」が五日市下宿と設定されて以降、木炭取引の市は完全に五日市に移る。これにともない、伊奈宿までの「伊奈みち」を五日市まで伸ばし、名称も「伊奈みち」から「五日市道」と変わることになった(『五日市の古道と地名』)。
●伊奈宿
ところで、宿の規模はどの程度であったのだろう?チェックすると、平安末期(室町の頃との説もある)、12人で開いた伊奈は18世紀後半世帯数200戸強、人口900人弱まで増えるが、昭和2年(1927)で世帯数200戸強、千人強であるので、江戸までは急成長するも、江戸から以降は、それほど大きくは増えてはいない。五日市に経済の中心が移ったこともその一因であろうか。
成就院
「伊奈坂上」バス停のすぐ西に「新秋川橋東」交差点があり、直進すると新秋川橋へと進むが、旧道は橋の東詰めを右手北側に折れ、坂を下ることになる。坂の入口に成就院がある。
後ほど訪れる古刹大悲願寺の末。お寺の塀の外側に自然石の大きな「寒念仏塔」が建っていた。伊奈宿はここで終わる。
岩走神社
坂道を下ると左に秋川へと下る道があり。その下り坂が旧道のようであるが、道なりの先に「岩走神社」が見えるのでちょっと立ち寄り。宮沢坂と呼ばれる坂を進むと大きな石の鳥居がある。
旧伊奈村の鎮守。平安末期(室町?)、12世紀の中頃、信州伊那谷高遠から十名余の石工がこの地に村を拓くに際し、故郷の戸隠大明神の分身を勧請したのがそのはじまり。当初は「岸三大明神」とも称したようだが、「岩山大明神」とも呼ばれた時期もあるようだ。
「岩山」は想像できるが。「岸三大明神」は不詳。祭神は戸隠大明神の手刀男の命(たちずからおのみこと)をまっていたが数年たってから推日女尊(わかひるめのみこと)、棚機姫尊(たなきひめのみこと)の三柱を祀ったとある。岸辺の三柱、故の岸三大明神の命名だろうか。単なる妄想。根拠なし。
社はその後、寛政6年(1794)に「正一位」を授けられ、以来「岩走」と改めた。「岩走」は秋川の激しい流れの滝から命名したとのこと。
本殿も、現在より奥まったところにあったようだが、昭和3年(1928)の道路改修に合わせて現在の姿になった、と。
●正一位
正一位って、諸臣や神社における神階の最高位にあたる。何故にこの社が「正一位」?
チェックすると、この村を拓いた12人の一家、宮沢家が代々社の宮司となるが、その後裔である宮沢安通が天皇の書の師として京に招かれ正一位を授かったとある。
正一位を授けられた諸臣は数少ない。日本の歴史を代表するような百人強である。当然のことながら宮沢某の名は見当たらない。諸臣に授けられる位階と神に与えられるものは別物のようであった。全国各地にあるお稲荷さんが正一位であることからも、神階としての「正一位」と諸臣の「正一位」とは少々ニュアンスが異なることは容易に想像し得る。
秋川
岩走神社から少し宮沢坂を戻り、旧道に折れる。結構急な坂道である。『五日市の古道と地名』には、木炭集積所を巡る伊奈と五日市の争いの際、伊奈村から奉行所に提訴した文書に、「伊奈から五日市の道は険路であるため、五日市は市としては不適」といった例として、岩走神社前の坂を挙げている。確かに舗装もない時代、荷の運搬は難儀を極めたことだろう。
それはともあれ、旧坂を下り民家の前の道を進む。左手は秋川。集落の中程から川床に下りる道があったので秋川の川床でちょっと休憩。
●秋川・秋留・阿伎留
休みながら、ふと考える。「秋川」の由来は?Googleでチェックすると、秋川は荒れ川で洪水の度、畔を切ることが多かったため「畔切川」と。これが音韻転化して「アキカワ」といった記事があった。秋留・阿伎留の由来でもある。
それなりに納得したのだが、メモの段階で『五日市の古道と地名』を読むと、参考程度ではあるとしながらも、別の解釈が説明されていた。話はこういうことである;『古事記』でのお話し。その昔、新羅の国であれこれの経緯の末、女性が光り輝く見事な玉・「赤瑠」産み落とす。そしてまた、あれこれの経緯の末、王子である天日矛(あめのひぼこ)が赤瑠を手に入れる。
と、あら不思議、赤瑠が美女に変身。王子寵愛するも、諍いの末、美女は唐津の沖の小島・姫島に逃げる。姫を追っかける王子。逃げる美女。逃げる先々の島は今も瀬戸に姫島として残る。で結局逃げついた先は難波の地。
そこに住まう新羅系帰化人はその姫・赤瑠姫を敬い、姫の住まいの近くを流れる川を「吾が君の川」>「吾君川」;アキカワ、と呼んだ、と言う。
秋留台地の小川牧の頭は新羅系、といったことに限らず、武蔵国を拓いたのは大陸からの帰化人である。この地、秋留も帰化人との関係を考えれば、事実か否かは別にして、上記解釈は誠に面白い。ちょっと気になる。
◆あきる野市
因みに、この地あきる野市は秋川町と五日市町が合併してできたもの。市名決定を巡っては秋留市を主張する秋川町と、阿伎留市を主張する五日町との協議の結果、「あきる野市」となった、とか。「野」がついたのは、「あきる市」だけではなんとなく収まりがよくなく、秋留台地をイメージする「野」をつけたのだろうか。
五日市線を渡る
秋川の川床から離れ、集落の中を進む「五日市道」に戻る。岩走神社から西は伊奈地区から横沢地区に入る。集落の途中から舗装された急坂を上り、岩走神社前を通る車道に出る。車道の北に石段が見える。結構長い石段を上り切ると前方に大悲願寺の山門が見える。その手前に通る五日市線の踏切を渡り大悲願寺に向かう。
●横沢
横沢地区から山内地区を挟んだ五日市駅寄りの地区に館谷がある。元々は縦谷>立谷と呼ばれていたようである。で、「横」沢と「館谷=縦(立)」谷の関係だが、横と縦の関係に拠る。その横・縦の軸となるのは秋川。
秋川から見て、秋川に南北に注ぐ沢をもつ地区が横沢、東西に注ぐ三内川(大雑把には東西だが?)をもつ地区が館谷とされた、とのこと(『五日市の古道と地名』)。
縦横はあくまで相対的なもの。都内の墨田区・江東区を東西に流れる運河が堅川(たてかわ)江と呼ばれているのは、江戸城に対して縦(東西)に流れるからである。当然、南北に流れる運河は横十間川と呼ばれる。
大悲願寺
堂々たる仁王門から境内に入る。仁王門(楼門)天井には幕末の絵師による天井絵が描かれる。境内正面には観音堂。お堂は江戸に造られたが、堂内には国指定重要文化財の仏像三体が祀られている。
境内右手には書院造りの本堂、そして彫刻の施された中門(朱雀門)なども江戸期の建造である。本堂前に「伊達政宗 白萩文書」の案内があり、政宗の末弟がこの寺に修行のため在山の折り、川狩りにこの地に出向いた政宗が当寺の白萩が見事であり、それを所望したい」との書面が残るとあった。歌舞伎の「仙台萩」は当寺に由来する。
寺伝に拠ると、この古刹は建久2年(1191)、武蔵国平山を領する平山季重が頼朝の命を受け開山した。一時衰退するも、江戸になり幕府より朱印状を受け、観音堂を建立し、内陣を華麗に整えていたとのことである。
●平山季重
いつだったか、多摩の平山城址散歩で出合った。源平一の谷の合戦で、熊谷直実と武勇を誇った源氏方の侍大将である。平安末期から鎌倉初期の武蔵七党のひとつ西党(日奉氏)の武将であり、平井川と秋川に挟まれた秋留台地には鎌倉の頃、武蔵七党のひとつ、西党に属する小川、二宮、小宮、平山氏といった御家人が居を構えた、と言う。そんな状況も季重開基に関係するのだろうか。
◆日奉氏
武蔵七党のひとつ、西党の祖。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか、それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、とりの説もある。
横沢入りの道標
大悲願寺を離れ、門前の道を東に進み増戸保育園を越えた先の畑地の脇に古い道標がある。そこが石切場へと続く横沢入の谷戸への分岐点である。右手には五日市線が東西に走る。
分岐点に立つ古き道標には、東方面は「五日市」、西は「伊奈 平井」、北は「大久野」と刻まれていた。北方向、横沢入の谷戸を越え、大久野に向かう道が昔からあったのだろう。
なお、ここでiphoneのGPSアプリGeographicaを起動。念のため機内モードにして電波を完全にシャットアウトとして、このアプリのパフォーマンスチェックを始める。こいの地点では位置情報はほぼ問題なし。
横沢入
分岐点を左に折れ横沢入に向かう。小径を進むと眼前に美しい谷戸が開ける。谷戸へのアプローチ入口にビジターセンター、というかボランティアセンターといった建物があり、多くのボランティアの方が谷戸の保全に尽力されていた。 エントランス近くの案内には「横沢入里山保地域; 横沢入は、丘陵に囲まれた都内でも有数の谷戸です。七つの谷戸と中央湿地では、かつては稲作が行われ、里山の環境が保たれていました。しかし、近年は耕作されず、荒廃が進んでいます。
そのような状況の中、東京都は横沢入を「里山保全地域」に指定し、ボランティアの皆さんやあきる野市と共に、自然と人間が共生する身近な自然「里山」を復元し、貴重な動植物の生息生育環境を回復し、保全していくこととしました(後略)」との説明とともに、横沢入の地図があった。
その地図には中央の湿地を挟み、進行方向向かって左手手前から、草堂ノ入、富田ノ入、釜ノ沢、右手手前から下ノ川、宮田東沢、宮田西沢、最奥部に荒田ノ入が記載されており、目的の石切場跡は、富田ノ入の谷戸の北を東西に進む尾根筋に「石山の池・石切場跡」として記載されていた。
石山の池・石切場跡の近くの南北に延びる尾根筋の南端には天竺山(三内神社)が見える。また南北に延びる尾根道を北に向かうと「横沢・小机林道」に合流できそうである。
地図を見て大雑把なルート決定。富田ノ入の谷戸に入り、谷戸を最奥部まで進んで尾根に這い上がるか、途中から尾根に逃げるか、成り行きとし、天竺山の三内神社にお参りし、尾根道を北に進み、横沢入の分岐にあった道標の「大久野」の道筋ではあろう横沢・小机林道に向かうこととする。
●横沢入
都下の谷戸で5つしかないAランクの谷戸として保全されることになったこの横沢入は、かつて旧五日市町が大規模宅地開発地として計画しJR東日本が土地を取得したが、住民の環境保全の努力の結果、東京都の里山保全の第一号として決定し、この美しい里山が残された。
今回は、これほどの谷戸が残っているとも思わず、時間的にも富田ノ入の先にある石切場跡を辿るのが精一杯であるが、いつか、この七つの谷戸を彷徨いたいと思う。宮田西沢にも石切場跡が残っているとも言われる。
富田ノ入分岐
中央湿地の中の小径を進むと分岐点に地図と「富田ノ入」の案内がある。 「富田ノ入」には「ここは富田ノ入と呼ばれる谷戸で、田圃が奥まで続いていました。昔は、山の上の石山の池から伊奈石を切り出して運ぶ道でした」とあり、その下に「マムシに注意」とイラスト付きの注意がある。
怖がりのわが身は、さっそく沢登り用の膝下部分をガードする「脚絆」を巻き、近くに落ちてあった適当な木を前方チェックの杖代わりとする。
いつだったか秋川筋の沢でマムシを寸でのところで踏みつけようとしたことがあり、それ以来、より一層マムシにナーバスになっている。GPSアプリ・Geographicaの位置情報もほぼ正確な位置を示している。
富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点
道を左手に折れ少し進むと道標があり、「富田ノ入をへて石山の池」と「尾根道をへて石山の池」との案内。中央湿地で見た地図には「富田ノ入から石山の池」への道は記載されておらず、成り行きで、谷戸最奥部から石山の池とはルーティングしたものの、結構不安であったのだが、道標にはっきりと案内があるのであれば、なんとかなるだろうと谷最奥部経由での道をとることにする。マムシだけがちょっと嫌である。
富田ノ入最奥部
分岐点から先は美しい谷戸の景観。自然観察らしき学生さんたちも見受けられるが、谷戸の最奥部に近づくにつれ、丸太が道に倒れるなど道が荒れてくる。少々不安になるあたりに「石山の池」への道案内があり、気を取り直し先に進む。
谷頭あたりからは荒れた山道を上る。所々にロープが張られており、進む道をリードしてくれる。
尾根道から石山の池へのルートと合流
ジグザグの山道をしばし進み、尾根に這い上がったあたりで前方に道標が見える。下りてきた道が「富田ノ入」、左右が「中央湿地 石山の池」となっている。この尾根道が富田ノ入の入口辺りにあった「尾根道をへて石山池へ」のルートではあろうと思う。一安心。
石山の池
尾根道ルートとの合流点から先に進むと、ほどなく道傍に案内板があり、「石山の池 ここは室町時代から江戸時代にかけて、石臼、墓石などにするため伊奈石を切り出していたところです。今も、割りとった跡(矢穴)がわかる石辺が見られます 東京都」とある。
案内板の先が大きな窪地となっており、そこが石切場跡のようである。露天堀で掘り割っていたのだろから、山塊を掘り込んだ結果、窪地状となったのだろう。最も深く掘り込まれた底には水が溜まっており、故に石山の池と名付けられたのではあろう。
道なりに進むと、ルートは一度窪地底部に下りる。その近くには山神社のささやかな祠が祀られていた。
●採石地層
底部から見ても、一見した印象では、予想したほどのスケール感は無かった。思うに石切場はここだけではなかったのではなかろうか。実際、横沢入の宮田西沢にも石切場跡が残るとのことである。
帰宅後チェックすると、採石地層は横沢入の北、平井の日の出団地東から西に延び、横沢入の北尾根を通り最奥部で南に曲がり、天竺山東側で南に大きく曲がって西尾根付近を南に進み、三内で秋川を越え更に高尾山(秋川筋の高尾山で、「有名な」高尾山ではない)の西側を尾根伝いに網代方面まで伸びている、と。
横沢入の伊奈石を採掘してきた石工は、秋川を越え、高尾山そして、いつだったか古甲州道を辿り秋川丘陵を歩いたときに訪ねた網代城跡辺りまで採掘しているようであった。石山池は石切場跡としてはっきりその姿を残す場所ではあるが、石切場は想像の通り、横沢入の南北に大きく広がっていた。納得。
横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流
石切場跡の窪地を離れ、天竺山に向かう。道成りに進むと道標があり、左「天竺山」、右「行き止まり」とある。横沢小机林道への尾根道(横沢小机林道)が封鎖されたのだろうか?また同じ道を戻るのもウザったいので、林道へは藪漕ぎ覚悟で「行き止まり」道を進もうか、などと思いながら「天竺山」方向に向かうと、ほどなく、左「横沢・小机林道」、右「天竺山(三内神社)」の標識がある。ここが横沢西側尾根であった。
帰宅後チェックすると、「行き止まり」箇所は、石切場跡から等高線に沿って北東に切り込んだ最奥部であり、道はそこからU字に曲がり横沢西側尾根に向かっていた。
天竺山(三内神社)
横沢西側尾根合流点から高圧線鉄塔・小峰線見遣り先に進むと、ほどなく北が開ける。谷戸に入り込んで以来の開けた景観を楽しむ。そのすぐ先が天竺山山頂。標高301m。
頂上平坦地には三内神社が祀られる。三内神社は山内地区の氏神様。天竺山へと辿った横沢西側尾根が横沢地区と三内地区の境をなしているようである。山裾にも三内神社が祀られる。この社は奥宮といったものだろう。
社伝には多くの神々が登場する。その中に住吉の神々も祀られる。表筒男命、中筒男命、底筒男命がそれである。どのような由来で住吉さんが、とも思うのだが、社伝の中に「享保改元の頃発願して(?)三年村内天竺山の頂上に宮を移す」とある。「三年村」?書き間違い?三内の由来は「山の内>三内」と伝わる。三年村ってなんだろう?
横沢・小机林道に
横沢西側尾根を辿り、ゆるやかな坂を下ると前方に結構広い道が見えてくる。横沢入の荒田ノ入、釜ノ沢の谷戸を越え、釜ノ久保を経て横沢西側尾根に上った箇所である。
沢の水音を聞きながら、林道を秋川街道に向かってゆるやかな坂となった林道を下る。
秋川街道に合流
林道はほどなく秋川街道に合流。合流点のすぐ上に「小机」バス停。「小机」は「小高い台地や平地」に由来する(『五日市の古道と地名』)。
秋川街道を武蔵五日市駅に向かって坂を下る。五日市線の高架を越えた先には「小机坂下」バス停もあった。横沢・小机林道と称する所以である。
この秋川街道はいつだったか武蔵五日市駅から北に辿ったことがある。本来の秋川街道は八王子の本郷横町で甲州街道を離れ、川口川に沿って西に進み小峰峠を越えて秋川筋の武蔵五日市に至る道、川口街道とも八王子道とも呼ばれていた。都道32号・八王子五日市線筋である。
しかし、今歩く秋川街道は都道31号・青梅あきるの線。東京都青梅市から、西多摩郡日の出町を経由してあきる野市五日市に至る道である。この道も秋川街道と呼ばれているようだ。
五日市線・武蔵五日市駅
小机坂を下り武蔵五日市駅に。この道筋は、五日市線・岩井支線が通っていたようだ。岩井支線は、今回の散歩のはじまりである五日市線の武蔵引田駅を下りたときに石灰採掘の勝峰山(かっぽやま)の山肌を眺めたが、その勝峰山の山裾まで主として石灰運搬用の支線が武蔵五日市駅から分岐していた。 貨物は武蔵五日市駅の手前にある三内信号所から分岐していたが、旅客用は武蔵五日市に一度入り、スイッチバックで支線に入っていたようである。
大正14年(1925)に武蔵五日市・岩井駅が開業。昭和46年(1971)に旅客運輸を廃止。昭和57年(1982)には貨物運輸も廃止した。そのうちに廃線跡を辿ってみたいと思う。
本日の散歩はこれでお終い。石工の里の石切場跡をみようと始めた散歩であるが、美しい谷戸に出合ったり、石灰採掘と言えば青梅線と思っていたのだが、五日市線も勝峰山の石灰運搬がそのはじまりであったりと、思いがけないこともいくつか登場した。基本成り行き任せの散歩の妙である。
コメントする